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結章
結章 第四部 第四節
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いつだって空を見上げていた。地上は眩し過ぎたから。
一段と眩ゆかった日のことは、今なお夢に見る。
自宅の自室、そのひとつ。幼かった彼と―――彼を腿の上に抱きかかえて、椅子に座した母。彼女の痩せた膝は、幼児の幼弱な膝の裏のすじ肉に心地よくはなかったが、イヅェンはそれを口に出したことは無かった。特段、不思議なことでもない。子どもだから家族を受け入れていた。たったの、それだけ。
今日も母は息子に吹き込む―――時には学を、時には愛を。後者については、聞くまでもないことだった。だからイヅェンは聞きもせず、三階の窓辺から外を見ていた。こっそりと……母に露見しないように、こっそりと覗き見した。
空を見ていれば母が泣くくらいでよかったのに、その風景を盗み見てしまった。
「あははははは!」
「待ってよカルガー! 待ちなさーい! ―――あ」
「たたた……痛ってーえ!」
「きゃはははは! 転んだ! こーろんだ! カールガーかーるがーこーろんだっ♪ きゃーはははははは!」
「ちっくしょー、転んで悪いかっ! なんだよお前のこの長ーい背広、ひらっひらのフワッフワすぎてさ! ハンデにしたって、纏わりついていけねぇやいっ!」
「だって。それでいいって約束したの、カルガーの方でしょー」
「したけどよーう」
「したしたー! ゆーびきりっ、ゆーびっきりっ♪」
「ったく……オメーにしたって、どこぞの箱からおん出てきやがった名無しのゴンベエ嬢だってんだ。名前も知らねえ、ゆびきり知らねえ、上着は天女の羽衣とくらぁ―――あ、こら!」
「きゃははははは!」
楽しくはしゃいで、ころころと笑い、楽しく駆け回る双子の姉。
野外、路上にて。ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子たる紅蓮の如き翼の頭衣が、手入れもせず短くしただけの赤毛頭をほっかむりに突っ込んで、欠けた前歯もみすぼらしい貧相で薄汚い平民と土足を並べている。楽しんでいる。生き生きと―――生きている。
そこは、禁域。禁忌の領域。禁断の空隙だった。失楽園だったと……在りし日の楽園だったことを、今では知っていた。
だから、知らなかったかつて、彼は言ってしまった。誘われた心地で手出しした。赤子のように、雛のように、この手は伸ばせば届くと信じていた。つまりは、階下のそこを指差して―――のぞんでしまった。
「ははうえ、―――」
おいで。
おいで。
こちらに、おいで。
「―――わたしも、あそこへ行きたい」
斯くして、楽園は失われた。
要は、母は、その少年を殺した。恐らくは。それか、より非道な断罪をした。彼女にとって、その行いは道理極まるものだった。ヴェリザハーのみならずイヅェンまで毒牙に掛けんとした魔物を滅するのだから、骨片ひとつ残さず溶かし切るまで泥に煮込んだところで飽き足らなかったろう。その建前を、女城主の手先がどう見繕ったのかは分からない。王家の資産―――要はキルルの上着―――を足蹴にしたことへの私刑あたりが妥当だろうが、上着の持ち主の子ども心に爪痕を残しそうな論断を下す軽はずみ者が傅くを許されていたとも思えない。実際無関係でもないだろうが、あれから双子は熱を出して引き篭ったと聞いた。茹で上げられた幼い脳では、事の顛末の一秒すら憶えていなかろう。それでよかった。彼はここに生きている。完璧な空の底にいなければならない。
母の胎内から出て、揺り籠から出て、かつての私室からも出て、―――例え、デューバンザンガイツをも脱したとしても、この完璧なる空の底にいなければならない。論外の現実だ。それは摂理だ。
もう空を見上げはしない。今度はイヅェンが魔物を滅し、まだ間に合う異母姉だけでも現世へ取り返す番だ。
「わたしが―――やるしかない。唯任左総騎士たるヴァシャージャーまでも……奪われてしまった。わたしだけが―――」
再び棍を手に、夢を見ながら彼は王冠城の内を行く。目が覚めてから、ずっとそうしていた。刻一刻と惨劇へとすげ替わる世界の中で、それでも立ちはだかるべく孤軍奮闘し続けていた。けたたましい音の坩堝の中で、廊下が鳴動の域を超えて震え出す。魔物すらゆるした澆季において、特筆すべき不幸でもない。己が裏切られたことも不幸のうちに入るのだろうが、現実感は急速に失いつつあった。正確には、現実とも思えなかった。刺された感触は、生々しく脳裏に焼き付いている―――しかも、血に染め上げられた羽と腹に穴の開いた服を身に纏っているのに、そこから覗いた地肌はまったくの無傷で産毛の一本すら切れていないなど、信じるのも愚かしい現実だった。だから、現実的に出来ることを……彼は、していた。
「あ、ね、ぎ、みの―――為に」
地震のような振幅に足を取られてつんのめりかかっても、彼は歩を絶やさなかった……目的があり、それを目指していたからだ。
そして、到達する。
直進する廊下の、数メートル手前。ぱっ―――と、身を潜めていたらしい物陰から、それは現出した。
「魔物がアアアアァァあああっ!」
ぎょっと……ふたりして、振り返ってくる。後継第一階梯たる、シヴツェイア・ア・ルーゼ。そして、正装した背の高い若者―――そのように、化けたもの。魔物。それが、吐き捨てる。
「余地なしか」
「キルルは任せろ!」
言うなり、異母姉は廊下を走り出した。イヅェンのいる方にではなく―――奥の方へ、全速力で駆けていく。逃げ道を。
「姉君―――どうかそのまま、お行きに! この場は、この弟めが、お引き受け申す……!」
「あンの。それ以上、言わんといてくれますか? その言葉、そっくりそのままお返ししますんで。癪に障ることに―――弟分なら、こちとら先だ」
棍を正眼に構えたイヅェンを前に、魔物は矛先と身体の正面ごと、苛立たしげな咢をこちらへ向けた。
一段と眩ゆかった日のことは、今なお夢に見る。
自宅の自室、そのひとつ。幼かった彼と―――彼を腿の上に抱きかかえて、椅子に座した母。彼女の痩せた膝は、幼児の幼弱な膝の裏のすじ肉に心地よくはなかったが、イヅェンはそれを口に出したことは無かった。特段、不思議なことでもない。子どもだから家族を受け入れていた。たったの、それだけ。
今日も母は息子に吹き込む―――時には学を、時には愛を。後者については、聞くまでもないことだった。だからイヅェンは聞きもせず、三階の窓辺から外を見ていた。こっそりと……母に露見しないように、こっそりと覗き見した。
空を見ていれば母が泣くくらいでよかったのに、その風景を盗み見てしまった。
「あははははは!」
「待ってよカルガー! 待ちなさーい! ―――あ」
「たたた……痛ってーえ!」
「きゃはははは! 転んだ! こーろんだ! カールガーかーるがーこーろんだっ♪ きゃーはははははは!」
「ちっくしょー、転んで悪いかっ! なんだよお前のこの長ーい背広、ひらっひらのフワッフワすぎてさ! ハンデにしたって、纏わりついていけねぇやいっ!」
「だって。それでいいって約束したの、カルガーの方でしょー」
「したけどよーう」
「したしたー! ゆーびきりっ、ゆーびっきりっ♪」
「ったく……オメーにしたって、どこぞの箱からおん出てきやがった名無しのゴンベエ嬢だってんだ。名前も知らねえ、ゆびきり知らねえ、上着は天女の羽衣とくらぁ―――あ、こら!」
「きゃははははは!」
楽しくはしゃいで、ころころと笑い、楽しく駆け回る双子の姉。
野外、路上にて。ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子たる紅蓮の如き翼の頭衣が、手入れもせず短くしただけの赤毛頭をほっかむりに突っ込んで、欠けた前歯もみすぼらしい貧相で薄汚い平民と土足を並べている。楽しんでいる。生き生きと―――生きている。
そこは、禁域。禁忌の領域。禁断の空隙だった。失楽園だったと……在りし日の楽園だったことを、今では知っていた。
だから、知らなかったかつて、彼は言ってしまった。誘われた心地で手出しした。赤子のように、雛のように、この手は伸ばせば届くと信じていた。つまりは、階下のそこを指差して―――のぞんでしまった。
「ははうえ、―――」
おいで。
おいで。
こちらに、おいで。
「―――わたしも、あそこへ行きたい」
斯くして、楽園は失われた。
要は、母は、その少年を殺した。恐らくは。それか、より非道な断罪をした。彼女にとって、その行いは道理極まるものだった。ヴェリザハーのみならずイヅェンまで毒牙に掛けんとした魔物を滅するのだから、骨片ひとつ残さず溶かし切るまで泥に煮込んだところで飽き足らなかったろう。その建前を、女城主の手先がどう見繕ったのかは分からない。王家の資産―――要はキルルの上着―――を足蹴にしたことへの私刑あたりが妥当だろうが、上着の持ち主の子ども心に爪痕を残しそうな論断を下す軽はずみ者が傅くを許されていたとも思えない。実際無関係でもないだろうが、あれから双子は熱を出して引き篭ったと聞いた。茹で上げられた幼い脳では、事の顛末の一秒すら憶えていなかろう。それでよかった。彼はここに生きている。完璧な空の底にいなければならない。
母の胎内から出て、揺り籠から出て、かつての私室からも出て、―――例え、デューバンザンガイツをも脱したとしても、この完璧なる空の底にいなければならない。論外の現実だ。それは摂理だ。
もう空を見上げはしない。今度はイヅェンが魔物を滅し、まだ間に合う異母姉だけでも現世へ取り返す番だ。
「わたしが―――やるしかない。唯任左総騎士たるヴァシャージャーまでも……奪われてしまった。わたしだけが―――」
再び棍を手に、夢を見ながら彼は王冠城の内を行く。目が覚めてから、ずっとそうしていた。刻一刻と惨劇へとすげ替わる世界の中で、それでも立ちはだかるべく孤軍奮闘し続けていた。けたたましい音の坩堝の中で、廊下が鳴動の域を超えて震え出す。魔物すらゆるした澆季において、特筆すべき不幸でもない。己が裏切られたことも不幸のうちに入るのだろうが、現実感は急速に失いつつあった。正確には、現実とも思えなかった。刺された感触は、生々しく脳裏に焼き付いている―――しかも、血に染め上げられた羽と腹に穴の開いた服を身に纏っているのに、そこから覗いた地肌はまったくの無傷で産毛の一本すら切れていないなど、信じるのも愚かしい現実だった。だから、現実的に出来ることを……彼は、していた。
「あ、ね、ぎ、みの―――為に」
地震のような振幅に足を取られてつんのめりかかっても、彼は歩を絶やさなかった……目的があり、それを目指していたからだ。
そして、到達する。
直進する廊下の、数メートル手前。ぱっ―――と、身を潜めていたらしい物陰から、それは現出した。
「魔物がアアアアァァあああっ!」
ぎょっと……ふたりして、振り返ってくる。後継第一階梯たる、シヴツェイア・ア・ルーゼ。そして、正装した背の高い若者―――そのように、化けたもの。魔物。それが、吐き捨てる。
「余地なしか」
「キルルは任せろ!」
言うなり、異母姉は廊下を走り出した。イヅェンのいる方にではなく―――奥の方へ、全速力で駆けていく。逃げ道を。
「姉君―――どうかそのまま、お行きに! この場は、この弟めが、お引き受け申す……!」
「あンの。それ以上、言わんといてくれますか? その言葉、そっくりそのままお返ししますんで。癪に障ることに―――弟分なら、こちとら先だ」
棍を正眼に構えたイヅェンを前に、魔物は矛先と身体の正面ごと、苛立たしげな咢をこちらへ向けた。
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