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起章
起章 第四部 第二節
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「真珠にゃ刺激が強すぎるぜ」
声があまりに近すぎると勘付いた時は、反射的に身体を引きかけたが―――それがザーニーイだと知って、キルルは動力を失った。外から戻ってきたらしい彼は、ゼラが外した席の後ろに立ち尽くしている。そして、周囲に往復させた横目を脱力させ、ため息をついてみせた。容貌の鋭さをだらしなくとろかす、げんなりした感情を隠しもしない。室内の無礼講を推し量るのに使ったのがただの一瞥程度であれ、どうやら後継第二階梯に相応しいレベルを振り切っていると判断せざるをえないと分かってしまっては、自分ひとりがそんな体裁を保ったところでいかんともしがたいとでも考えているのだろう―――
と。
途端、見えてはいたが見ていなかった目の前の風景に、理解が走る。どれだけ呆然としていたのか見当もつかないが、夜半を過ぎたのは間違いなかろう。失せてしまった物音や声と真逆に、大量に卓に投げ出されて危なげに積み重なる酒饌の残骸……そして、そんな風なのは、卓上だけではなかった。床もだ。
全裸の方がむしろ潔いような服装の男たちが、これまた単にひっくり返っていた方がよほど弁解の余地がある寝姿で、しっちゃかめっちゃかに寝入っている。
悲鳴は、不意の衝撃のせいで、喉を破る直前に折れた―――頭がぶれて目が回り、その視線が、床板に触り損ねている自分のつま先を捉えて、更に声をなくす。ザーニーイが、背後からキルルのわきの下へと回した腕で、彼女の身体を一本釣りにしていた。そのままキルルを簀巻でも運ぶように小脇に抱え、見た目と裏腹にも程がある力強さでずんずか歩いて部屋を出る。
廊下に出たところで、キルルは降ろされた。口にすべき言葉が感謝なのか憎まれ口なのか見当すらつかないうちに、ザーニーイが何を言うでもなく、外套を翻して大食堂の明かりに背を向ける。なにを言うでもない。が、ついていけばいいのだろう。考えられなくなった頭をその場に置いていく気分で、ただただ彼を追いかける。
廊下にあるのは闇と夜気。そこに染みた人の気配は時々ちらほらと波立って、隠れて見えない大人数の存在をにおわせたが、それでも宴会の時に比べれば刺激は皆無に近い。狼狽はすぐに静まってくれた。心臓のそれは、少し残った。
夜という水底を泳ぐように、ザーニーイはなめらかに先を行く。今までとて決して明るくはなかったが、それでもこの廊下よりはましだった。王城につけられていた灯りが異常なのだろうが、防衛上の事由か単なる吝嗇根性か、<彼に凝立する聖杯>のかがり火は少なく、窓から差し込む月と星の散漫な輝きはなお少ない―――夜空については、曇天に永遠がある限り、頼るべくもないのは知っている。
だからキルルは、声を上げた。彼は夜空ではない。
「―――ねえ待って、あたし、まだここなの―――」
満たされない夜目のせいで、躓きかけて何かにぶつかり、呼びかけた小声も砕けた。そのまま、できそこなった空咳のようにかすれていく。
「―――でも、だからって、ひとりにしないで―――」
ザーニーイが立ち止まった。
聞こえたはずがない……が、彼が歩き続けていたら難儀したはずの距離を簡単に埋めて、その肩に追いつく。追いついてしまえばそうする必要など無かったはずだが、すがるように彼の外套へ手を伸ばし―――
そして、外套を超えて。
彼女が小指を握り締めるのに逆らいもせず、ザーニーイはキルルを見やる一拍分だけ足休めを長引かせて、また歩き出した。
指は、振り払われはしなかった。肌がふたつ分の体温を重ねたせいで、余計に温まる。そんな小さなことが分かったのは、彼の歩調が少しだけゆるまっていたからかもしれない。
自分でも分からない奇妙な動揺が消えていかないことが気にかかったが、彼の通り道のうしろに足元をすくってくれる障害物もなにもないとなれば、声を出すきっかけはなかった。黙々と足音を聞いていると、廊下のなか途中の壁が、なぜか四角い形に青白く塗装されたところに出る。
と思えばそれは、青ざめた月光が、ドアのない出入り口から差し込んでいるせいだった。記憶を探るが、まだ通った覚えのないそこをくぐれば、まずは冴え冴えとした外気が青い匂いを含んでキルルを迎えてくれる。言われずとも分かった。ここは前庭とは違う。中庭だ。
二人は、どちらともなく立ち止まった。
落胆はひっきりなしにあった―――余力があるときは好敵手であり、追い詰められたときでさえそりの合わない悪友で済んでいたはずだったそれは、半年前から確実に伴侶と化した。弟が文字通りそうなりかねないということを知った時から、ずっと絶え間なく悪い予感が続いている。だから別にこの気鬱も、旗司誓や魔神がもたらしたものではない―――知らなかった汚点も、気がつかなかった無知ですら、そうではない。
それでも建物から出て、人いきれも体臭もこもっていない鮮度のある空気を肺腑に込めれば、ひときわ煽られていた暗鬱も一瞬はすりきれる。キルルは思う存分肺を膨らませ、意識してしぼませた。こんな風に純粋に爽快感を追いかけることさえ、ここしばらくは忘れていたような気がする。やはり、深夜だった。雲を介してとぼけた月光が、日中のうちに太陽にほだされた建物の頬を冷ますように、冷めた色で染み込んでいる。中庭は、その壁面に四方を囲まれて、多少窮屈そうに夜天の下で蹲っていた。奥に視線をやるにつれて、急激に暗黒を濃くしていく木々が生い茂る中で、人工的にかくかくと浮かび上がった影が見える。小屋だろう。やはりここは、ゼラが言っていた中庭とみて間違いないらしい―――ゼラ……
肩と共に落としてしまったキルルの視界の真ん中を、なにか頼りないものがふわりと漂ってほつれた。行方を辿ると、ザーニーイが唇に挟んでいる煙草に出くわす。その蛍火がゆっくりとまたたく、その二回目にさしかかったところで我に返って、キルルは慌てて手を放した―――途端に、冷えた空気が手の内側を滑って、彼の一指が確かになくなったのを感じる。自分の顔の皮が、わずかながら撚れた……ような。
それを、紫煙への批難と履き違えたのかもしれない。用済みになった発火布を踏みつけ、右手だけで着火を終えたザーニーイが振り返らせた片目は、生煮えの苦笑いを見せていた。
「あ。悪ぃ。八節モドキなんざ使った安物、姫様にゃ不慣れだったな。煙いか?」
「う、ううん。そういったのは、王裾街のおじさんたちだってよく吸ってたし。平気」
それを聞いて、喫煙を続ける安堵を得たのだろう。笑みから苦味を抜いて、ザーニーイが前に出た。そして、すぐそこにあった岩のひとつに腰掛けながら、続きを紡いでいく。
「ってことは、あんたが出入りしてたってのは、王裾街は王裾街でも、ほとんどは上等住宅街路の近辺か」
「え―――うん。何で分かるの?」
「王襟街に隣接するのは、ほとんどが上等住宅街路で、ちょっとばかし商店街路だからな。職人は縁起を担ぐために、織布屋だけは近衛蜉蝣を芯にした煙草を吸うが、それ以外のほとんどは品の純度を汚すとかいうジンクスに則って、作業中に一服嗜む習慣なんざ持ってやしねぇのさ」
相手の居座った岩は、人の手がかかった形状から言って、無用の噴水でも解体した石材のひとつに違いない……ザーニーイの傍に近づいてみれば、キルルも苦労せず、見つけた岩のでっぱりに尻を引っ掛けることができた。
ザーニーイの帯びた微醺は、深まっているようだった。酒杯は、与えるならば返されるものなのだろう。彼の説明は酒困の気配もなく饒舌だったが、それこそ逆に酔語だからだと告げていた。
「だから、あんたが『煙草をふかす王裾街のおじさん』に接する機会があるとするなら、街路を行き来して上等住宅街に品物を納入してる、縮小輜重業者くらいだ。そこらへんに住んでる金持ちに接した可能性も無いことはないが、ンな気取った連中は煙草じゃなくて葉巻を愛用するだろうし。葉巻より高価な煙草ってのもないこたぁないが、それこそ貴族にしか買えねぇような高嶺の花な上、ああいったのは総じて煙は苦かねぇから、俺の愛煙とは矛盾する」
「多分そうよ。当たってる―――けど、あれ? 品の純度を汚すんだったら、その荷運びの人たちも吸わないんじゃない?」
「それは、作るときにそうしたら、って意味だ。むしろ運搬の時は、あらゆる害悪を煙に巻くって意味で、煙癖のあるやつが重宝されるんだよ。特に、糸足蜘蛛の八重束づくりの煙草なんか愛用してる奴は狙い目らしい」
「何で?」
「蜘蛛の巣で客が引っかかる、ってのが言い伝え。本当は、ンな値の張る煙草を買えるだけ懐があったかい奴なら、それなりに信用できる仕事をして、大棚から給金もらってる暗の証拠になる。ンなとこだろ」
益体も無い言葉がつぶしていく、ただそれだけの時間。
そんな時間に安堵があることも、深呼吸と同じように忘れていた。
(あたしはきっと、ここにいたら、また見つけるのね)
それは恐ろしかったが、恐ろしいだけではない。きっと、そうではない。
それでも胸中を翳らせようと浮かんでくる不安を吹っ切るように、キルルは両腕を上げ、座ったまま思いっきり伸びをした。
「それにしても、ここに出られて助かったわ。もう少しで、パニックになって料理皿まき散らしながら泣きじゃくってたかも」
「そりゃ、未然に防げてなによりだ」
にやついて答えてくる、彼。
同じような笑みを食みながら、キルルは続けた。
「酔いつぶれてるみんな、ほっといて大丈夫なの? 風邪でも引いたら、明日の仕事とかに支障が出るんじゃない?」
「心配ねえよ。あいつらは<彼に凝立する聖杯>だ」
酔余の戯言にしては簡頸すぎる語韻に、意識をさらわれる。
キルルは、身体をザーニーイの方へ向けた。右隣。彼女の手が届くか届かないかの位置で、低い石に腰を落とした彼は、抱くようにした片足に凭れて空を見上げている。口は言葉に費やしながらも、心は月へ紫煙を絡ませるのを楽しんでいるようだった。
「支障なんか出やしねぇよ。今回みたいな祝杯には、頭領の俺以外は、自分は勝利に貢献したって胸を張れる奴しか出られねぇのが暗黙の了解になってる。つまり次もあそこに来たいんなら、勝利に貢献できない状態にゃあ、そうそうなってられやしねぇんだ。そんくらい、どいつもこいつも承知してるさ」
「勝利に貢献できない状態って、深酒がたたっての二日酔いとか? だからみんな大丈夫ってこと? でも、ちょっとあの様子じゃ……」
「ああ。よく見積もって十二、三人。酔いどれ具合からして、明日どれくらい使い物になんのかあやしいとこだな」
「ザーニーイ、見てたんだったら飲むなって叱りなさいよ!」
「あん?」
思わず立ち上がったキルルと違って、彼の反応はひどく淡泊だった。少女の叱責の方がよほど場違いだとでも言うように、ぽかんと鼻白む。
「何でンなことすんだよ?」
すっとぼけるでなく、本心から分からないらしい。こちらまで伝染した思いで、キルルは強気を失った。
「だ、だって、部下が使い物にならなかったら困るでしょ?」
「うっわ。ひっで。軽くショック」
「え?」
「なに俺、明日の仕事が軽い奴とか休み入れてる奴とかが多少ハメ外はずすことまで押さえつけるような暴君に見えてんのか? やべぇなそれマジやべぇな。くっそ、こんな立場であんな歳になってそんなヤなネオ事実にどんだけズームインだよコンチクショー」
「違うわよ! そーじゃなくて!」
わざとらしく頭を抱える彼のオーバーアクションこそ深酒のなれの果てと確信し、声音を険しくする。わたつかせていた掌を握りつぶし、キルルは説教する体勢に身構えた。
「今日みたいにいつ誰が襲い掛かってくるか分からない旗司誓で、使い物にならない人が出たら、結果的にあなたどころかみんな困るんじゃないのって言ってるの!」
「困るのは次の宴会に出れねぇそいつのハートのやり場だろ」
「そ・い・つ、がいっぱい出たらどうするのよ! あのお酒だって、明日が都合よく休みの人以外には水になるおまじないとかが掛かってるわけじゃなし、こっそりくすねちゃえば誰だって飲めたし持ち出せたじゃない! だとしたら、食堂の外のみんなも勝手に酔いつぶれて、みんな使い物にならなくなっちゃうかもしれないのよ!? 予防できるんなら、それはリーダーとしてのあなたの仕事でもあるはずよ!」
「心配ねえよ。あいつらは<彼に凝立する聖杯>だ」
「会話がループしてるじゃないこの酔っ払い! さっきも聞いたしそれ!」
「酔っ払ってなくなってループするだろそりゃ。旗司誓はそれしかねえんだから、話してんのが俺である以上は、どんなこと話したってそこに収まるっきゃねぇし」
「あ・の・ねぇ~……」
「あー、ええと、なんだ。つまり―――」
ザーニーイは、あくまでキルルの忠告は気にしないようだった。が、言及に答えるという責務については、頭領として感じるところでもあったらしい。非難がましく目をつり上がらせる彼女へ、間に合わせに喃語を口に出し―――そして。
「あいつらは、てめぇの誇りくらい、てめぇで守れる」
風が吹いた。虫が……あるいは鳥が、間近を飛んだような。
それが過ぎ去るのを待ってから、酔呶でもなく、嘯きは続く。
「旗司誓ってのも、<彼に凝立する聖杯>にいるってのも、酒は飲みすぎりゃどうなるかってのも分かってるさ。だから活躍しなかった奴は宴会に自分から来ないし、活躍した奴は背筋伸ばして酒を飲みに来る。だから、そいつがいっぱい出ることはない」
「でも、全員が全員、毎回そうとは限らないじゃない」
「そだな。だから、ちょっとは出る」
こだわらず、言ってくる。キルルの反駁が心因性だと見抜いたわけではなかろうが。
ザーニーイは、肺の煙をくまなく味わうように目を伏せた。
「それもいい。次は出ないさ」
「……どうして分かるの?」
「そうしないようにしてくれるからな。あいつらは」
「それでいいの?」
彼にしてみれば、それさえ野暮な話だったのだろう。一度は、言おうとして思いとどまったようだが―――どうしようもなくなったように、それを口に出す。
「心配ねえよ。ここは、旗司誓<彼に凝立する聖杯>だ」
彼が用済みの吸殻を指先から落とすと、その唇には紫煙ではなく、笑みが残っていた。いや、彼の口元は顕著な弧を見せることはなかったが、少なくとも、笑みの根拠になりうるだろう温みがしみていた。
彼女は、ただ立っていた。彼に同意する意味はないし、異論もまた無意味だろう。ザーニーイのせりふは、他者に裏付けられることによって信じるに足るようになるような、蒙昧の産物ではない。
それを、うらやましく思うことは無くとも。キルルは目を閉じ、開いた。めまいを覚えたと言うわけでなく、聞いた言葉を―――多くの言葉を思い出していた。
「―――双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ、触れ……触れ……」
「触れ、疾く翔けよ」
継がれることは予想していた。二本目に口をつけることも無かったため、もう紫煙が彼の容姿を紛らわすこともない。ザーニーイは抱え込んだ己のくるぶしを見詰めるような角度で視線を伏せているが、声は上天の空闊まで歩み寄るように朗々と空気を渡った。
「旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ。痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ。その棘示すは<彼に凝立する聖杯>―――旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
ザーニーイが息をついて、手を振ってみせる。こちらを見やり―――
つい、目が合ってしまっていた。キルルがぎこちなく唾を飲んで元の石に腰を置くまでの間に、彼の声はいつもの陽気を含んで軽くなっていた。
「訳すか? <彼に凝立する聖杯>の新入りは、まずこいつをきっちり腹に入れることが初任務なんだ」
「やめとく。古い貴族構文の授業なんて、お城でだけでもう充分」
「ご先祖さんの大親友の生き様が垣間見れっぞ?」
「もう充分」
そして、更に口走っていた。
「あなたがいるもの。それで充分」
と―――
ザーニーイは、からかうための軽口をあと幾つか用意してはいたのだろうが。出し抜けに、それを失ったらしい。どうしようもなく、静寂が垂れ込める。
その中で彼は、ここから見てわかるほどに睫毛を上げて、息を止めていた。目を見開くのはそれからも数秒続いたが、息までもそうはいかず、小さく短く、呟きとして転がしてくる。
「そか」
「うん」
キルルは単に、頷いた。
沈黙は長引いたが、それでも終わりが訪れる。
「そうか」
今度は答えない。キルルは、そう囁いた彼の顔に眼差しで触れていた。ザーニーイは、喜ぶでもない。だからこそ、笑うでもない。世渡り知らずの悪意ない根無し言と呆れるでもなく、それに付き合うことにうんざりしているのでもない。有り体に言って、それは奇妙な顔つきと思えた。面皮に次いで眉根をゆるめ、それだというのに口元には皺じみたくぼみが見える。
途端。手の甲でその表情をこすりとると、常にそうあるような明るい様相に乗せて、ザーニーイは今までと似たようで異なる話題を拾ってきた。
「褒められてからこう言っちゃなんだが、俺は今回、あんたに関しては後手後手なんだぜ? これっぽっちも顔が売れてなかったってのに、あれよあれよとひともんちゃく起きちまって。俺らとメシ食いてえってのはそっちから言い出したことらしいけど、真珠がいるなんざ知ったこっちゃねぇ能天気連中のあのノリはさすがにキッツかったろ。このとおり、俺の手落ちだ」
「や、あの、そんな……そんな謝られることでもないわよ。うん」
言いくるめられたつもりは無かった―――としても。どうやら、覇気の欠けた彼女を乱痴気騒ぎの被害者とみなしているらしい彼を放っておくわけにもいかず、それについての弁解を続ける。うっかり再生されかかる寝散らかした大食堂の風景から必死に意識を逸らすためにも、そそくさと言い連ねていく。
「あったかいご飯なんてすごく久しぶりでおいしかったし、お城でやったら『うげ』って目で見られる舞芸ひゅーひゅー言われて嬉しかったし、あんなわいわいしたとこにいられて楽しかったし、ザーニーイともこうやって―――」
「って、俺なんかしたか?」
「ザーニーイ!」
「うわ! ―――って、へ? 何だよ一体?」
突如としてはじけた呼びかけに、ザーニーイはぎょっと上体だけで後ずさった。不意を突かれたからか、えらく驚いて目をむいている、頓狂な仰天面。
しかしもうキルルは、それだけでない表情を知ってしまった。彼の手がかすめただけで、跡形もなくなってしまった脆い顔。彼からは消え、自分には残って消えない。そのわけを知りたい―――としても。
(―――彼は旗司誓で、あたしは旗司誓じゃない)
感じた距離は、発する言葉さえ喉から先へといかせるには遠すぎる。
そうなると、根掘り葉掘りとちょっかいを出す気も失せ、キルルはふっと肩から息が抜けた。そもそも発した呼びかけは問いかけるためでなくせりふをもみ消すためのものだったのだが、どちらにしろ今更無かったことになどできず、口から出任せに喋り続ける。
「し、真珠って何のこと?」
「あん? 処女の意味だが」
「しょっ……!?」
「まあ、少女とかの意味でも使うがな。普通は処女だ」
ぶつぎれになった彼女の声など意に介すこともなく答えて、ザーニーイが目線を宙に投げた。見上げた先の虚空で、折々のキルルの様子を重ねてみたらしい。そして放物が落下してくるのと同じくらい速く、彼女に再び焦点を合わせてくる。
「処女だよな?」
呼吸どころか脈をも途絶したような錯覚の中で、絶望的なまでに頬が紅潮するのを感じる。とんでもない―――とにかくとんでもないこの男に、威嚇をぶつけることすらできない。ひたすら顔面を掌で覆い隠し、それでも足りず上半身を折り曲げて大腿にひれ伏す。胸からはみ出して頭に及び、ぐわぐわと渦を巻く未知の熱さに、感じた憤懣さえ焼き尽くされて声にならない。
対するザーニーイは、自分が口にした単語の異常なまでの効力にこそ、異常なまでの阿呆臭さを感じたらしい。あきれ声の分だけ無駄遣いした呼気が、しゃがれた音をさせたのが聞こえた。
「なに恥ずかしがってやがんだ。別に珍しい言い回しでもねぇだろが。<終末を得る物語>でも出てくるし」
「だからうちはお母様が旅団ツェラビゾだったんだってば!」
自分でも不条理と感じるほど憤激し、がっと顔面を跳ね上げてまくし立てる。が、そこにあったザーニーイの表情がまったくもって冷めきっていたことに、怒声も舌の根から抜け、満ちていた騎虎の勢いも過ぎ去ってしまう。彼女は途方に暮れ、唯一残された赤面をやるせなく撫でた。
「なんだかそれに反するとかで、<終末を得る物語>については吟遊詩人も門前払いだったの。お城に来てから一遍通り齧らされたくらいで、亜流のおとぎ話とか、全然知らないのよ。だから、教えてちょうだいよ、それ」
「あー。そういや<終末を得る物語>では、<楽園崩壊>と<楽園崩落>で、<楽園>は二回もぶっ潰れたことになってっからなぁ。<楽園>で教義を成り立たせてるツェラビゾにとっちゃ、そりゃバリバリに抵触するわな」
と、納得を終わらせ、彼は胸板をよしかからせる膝を交換した。
「真珠ってのは穴が開いてねぇだろ。だから男に穴をあけられる前の女のことを―――」
「いやあああぁぁぁ!!」
「教えろっつったりいやっつったり気分屋な奴だな。山の天気気取りか」
いい加減に愛想も尽きてきたのか、ザーニーイの半目には嫌気の帳が下がりかけている。座りなおしたばかりだと言うのに厄払いのような身じろぎをしてみせる彼に、キルルはひたすら怒気を吐いた。
「デリカシーってものを考えなさい! そういう話は普通、男から聞きたくないの!」
「だったら、男から聞きたいような<終末を得る物語>をリクエストしろよ。ほれ。どんなのがいいんだ?」
返され、口ごもる。考えるが―――転がり込んできた予期せぬ選択権は、ありがたみではなく戸惑いと焦りを貼り付けてきた。数十秒間無言で自問するが、結局名案も浮かばなかったため、ありふれたものを口にする。
「ええと……一番、有名なお話」
「そりゃ、<楽園崩落>を引き起こしやがったディエースゥアーの話だろうな。<終末を得る物語>だと‘大公’ディエースゥアーが陥落、ってのだったと思うが、おとぎばなしの魔法の檠架の方が分かりやすいから、そっちで行くぞ。ええと―――それはそれは昔々、<楽園崩壊>が過去となって幾星霜。ディエースゥアーという神様が、」
「あ。それは知ってる」
「うっわ。なんかこうイラッときた。今なんかこうイラッときた俺」
分かりやすく毒ついて、ザーニーイが声を低めた。が、それ以上に吐露するほどのことでもなかったようで、彼はさっさとそれを消化して、迷うようにふらふらと喋り出す。
「‘大公’ディエースゥアーが陥落の次点となると、アイテム関係のイザコザってのがメジャーだな。欲するは許諾すなわち録視書―――ザライザン・ロワナン、彼に凝立する聖杯―――アブフ・ヒルビリ、允可に足りぬこその檠架―――ランプ・ジ・ケンプファー。あとは、有名な奴の有名な逸話か。クリンツクリンチェの図書館、アークレンスタルジャット・アーギルシャイアの恋歌、……」
「アーギルシャイア―――」
聞き覚えがあった。
キルルの変化に気付いたのだろう。ザーニーイの目淵に配慮が滲んだのに勘付いて、彼女は反射的に浮かべた笑顔から高い声を上げていた。ほぼ同時に、両手を打ち鳴らしすらしてみせる。
「こ……恋歌! いいわね恋歌!」
「ご期待に沿えず悪いが、ロマンティックになるのはかなり後だぜ。<終末を得る物語>の本筋から、かなり外れた話だし。いいのか?」
彼女のわざとらしさを承知し、ザーニーイはあえて会話に乗ってきた。あからさまに逸らした箇所を、解き明かすつもりはないらしい。
キルルはとにかく、続けざまに首を縦に振った。どうであれ、明るくもない自分語りよりはまだ有意義に違いなかろう。
「いいからいいから」
「……吟遊詩人からの聞き覚えだから、うろ覚えの独吟になっちまうんだけど……」
「聞きたい聞きたい!」
「……笑うなよ」
急激に―――しかもなにやら違うベクトルで―――倍増したキルルの歓声にこそぎ取られたように、気のない様子でザーニーイは頭をかいた。そして、曲調を思い出すように一定の間隔で目をしばたいた後、小声で歌いだす。
「呼ぶ者こそが呪われよ、繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。ああ災いだ、災いだ。其は生まれるを許されじ、されどその目は眠るにあたわず、臍の緒喰らいて吐息する―――」
「なんだかものすごいダークな語り始めじゃない?」
「だぁから後だっつったろーが!」
乗り気でない吟哦を折られ、ザーニーイの忍耐もついに限界を超えたらしい。それ以上の他意なく発した指摘だったのだが、だからと言ってそれが無遠慮さの免罪符となることもないと、彼の両眼が冷厳に―――しかし中心に火をともしながら―――語っている。こちらに指の尖端と共に突き出してきた声は口元の歪みそのままに吐き出されたため、うなり声にも似ていた。
「あんたが聞きたいようなラブラブな部分まで話をはしょるとだ。こーやって忌み嫌われたアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだったんだが、ある時、恋に落ちたんだとさ。そんで、あれよあれよと成長していくアークレンスタルジャット・アーギルシャイアを見た蠅の王は、恋の相手を四十四の艱難と七十七の辛苦の向こうに奪っちまったんだ」
「ひどい! 何でそんなにアーギルシャイアを嫌うのよ!」
「蠅の王は嫌ってたんじゃねぇ。恐れてたんだ。アークレンスタルジャット・アーギルシャイアは欲するは許諾すなわち録視書に、<楽園崩壊>の際に神からさえ失われた全知全能を携えて生まれ落ちると記されていた」
「全知全能?」
予想だにしていなかったフレーズに怒りを失って繰り返すと、ザーニーイは片手だけで肩をすくめる仕草をした。
「繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。虐殺に虐殺を重ね、ついには死体にたかる蠅の王とまで呼ばれるようになったザグバオーンにとっちゃ、随分と意味深な呼称だと思わねぇか?」
「……人知を……」
「あん?」
指を引っ込めた拳を襟元まで引き戻し、ザーニーイが聞きとがめてくる。放っておけばやり過ごせたのだろうが、先ほど彼の機嫌を損ねた後ろめたさも手伝ってか、思い出を打ち明けるのに抵抗は無かった。もとより、言う価値が無いと思っていただけで、語るに重い記憶でもない。
「人知を超えたアーギルシャイア。そうお父様が言ってたのを思い出したの」
正確にはその言葉はアーギルシャイアについて語ったものではなかったが、こまごまと説明する気も起きなかった。結局それだけで黙り込むと、ザーニーイが地味に失笑する。
「人知を超えた、ね。ありふれた言い習わしまで逐一ロマンチシストなんだな、ヴェリザハー・ア・ルーゼとやらは」
「ありふれた?」
「―――ああ。知らねぇのか」
それからの僅かな逡巡は、解答を避けたのではなく、どういった文面で解答するのが適切なのかを見定めていたためのそれだったのだろう。ザーニーイはせりふを待ち受けていた彼女を、まずは皮肉げな微笑をもって出迎えた。もっともその皮肉は、彼女を対象にしているのではないようではあったが。
「一般的に、超人といわれる連中……天才だとか変人だとか、天才的な変人だとか。練成魔士やテロリストが代表格なんだが、まあそーいったどっか飛びぬけてるやつに、アーギルシャイアって代名詞がつくのはざらだからな。もちろん、箔を付けるために自分で名乗る奴もいる。伝説のデュアセラズロ・アーギルシャイアは前者の筆頭だろ? たった一度ミスやらかしただけで人生転落した奴をディエースゥアーって冷やかすのと同レベルさ―――まあこれも、デュアセラズロがデュアセラズロ・ディエースゥアーって言われんのと同じだが」
「え? ディエースゥアーって呼ぶのが冷やかしなの? 確かそれ、最高位‘大公’に座す魔神でしょ? すっごいトップじゃない」
「違ぇよ馬鹿。ディエースゥアーは神の身であったにもかかわらず凡ミスで<楽園崩落>を引き起こし、その咎を受けて地位を魔神まで貶しめられた挙句に、檠架に永久に縛錠させられた元・カミサマだ。だからこそ允可に足りぬこその檠架は、<終末を得る物語>のおとぎばなしバージョンでは『魔法の檠架』ってのに言いかわってんだよ。檠架に封印された魔神のおはなし~って、子どもの寝物語り用に構文も発音も簡単になってんだ。あのデュアセラズロにディエースゥアーが引き合いに出されることがあるっつうのも、噂じゃン十年前だかに奴は大陸連盟を謎の出奔しちまって、エリート街道ごと人生を棒に振っちまったとか言われてっからで―――」
「馬鹿まで言うことないでしょー!」
「あんたが‘大公’ディエースゥアーの話を知ってるっつったからこっ恥ずかしいアーギルシャイアのヤツに乗り換えたのに、ここに来て知らねえってなったら、えらく腹立たしいだろーが!」
「そういえば脱線膨らませてないで、アーギルシャイアがどうなったのかちゃんと教えなさいよ」
「くあ。ムカッときた。今イラッとに加えてムカッとまできた俺」
またしてもヒートアップの出口を見失い、ザーニーイは渋面もあらわに怒声を噛んだ。それでも結局は、生真面目なところまで捨てることはできなかったらしい。幾らかのなにかを口内でぶつぶつと悪罵にまみれさせてから、落ち着ききっていない調子で、言い繋いでいく。
「まあとにかく、あーやってこーやって恋人から引き裂かれちまったが、そこは全知全能とまで言われたアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだ。頓知やら幸運やら反則やら、とにかく片っ端から叩き売りしながら一心不乱に看破していくわけだな。このくだり、恋人に捧げて詩を歌うくらいで、ラブラブ指数・ザ・最高潮だ」
「どんな歌?」
「俺が知ってるのは、かなり端折られた数え歌だけだ」
「それでもいいわ。ね。歌って」
「無理言うなよ。こいつはさっきやってみせたのと違って、古い発音がまちまちに混じってっから、俺一人じゃ音頭が取れねぇんだよ。まああれだ、<彼に凝立する聖杯>の陣頭指揮を執るために鍛え抜かれた霹靂の美声を披露できないのは俺的にも残念極まれりとかそーいった感じだが―――」
「だったら、弦と僕の調子を足せば計算が合いますね」
ぎょっとしたのは―――
キルルだけではなかった。ザーニーイも表情どころか喋るうちに横へと広げていた掌の先まで固めて、脈絡ない展開に目を丸くしている。この長身でどうして今まで悟られなかったのか、副頭領のとんでもない手腕としか言いようが無いが、それでも現にシゾーは物陰からこちらへと歩み寄ってきた。暗闇に溶け込むような容姿の中にあって、濃い蜜色の瞳だけが月光を醸成したかのように艶めいている。その体躯をもってしては、手にした幾本の大型の弓さえ、弓衣に入っていないというのに破壊力のない玩具に見えた。
幼馴染みが一歩ずつ近づいてくるごとに、ザーニーイは次第に苦々しく奥歯を食い締めて、そこから搾り出た苦汁を顔全体に広げていった。状況に理解が追いつくにつれて、仲間とは言え他者の存在を察知しえなかった失態を、微酔になすりつけるには矜持が許さなくなったらしい。
「まだ直しようがあるみたいですね。死角の癖」
ザーニーイの毒を込めた舌打ちは、相手のその一言で、確実に別のなにかに化けた。といっても、火に油をそそがれたというのではなく―――今のしかめ面の決定的な部分を取り上げられたかのように、色をなくす。感情の矛先は鋭さを失ってはいなかったようだが、方向を乱されて威勢は霧散していた。そして、
「……無くて七癖だからな」
単なる応答とは言いがたい気配で、ザーニーイがひとりごちた。
それについて思いを巡らせるには、シゾーの歩幅はあまりに大きすぎた。あっさりと目前までの間合いを詰め終えて、指先に引っ掛けたひとつの弓をザーニーイに示している。そうされるとはっきりするが、やはり大きな弓だ。
「はい。これでもう、歌えないなんて言い逃れは却下です。サポートの万籟は僕がしますんで……どうしたんですか? 昔はよく部屋に引っ張り込んで、吟遊詩人ごっこと称した練習に付き合わせてくれたくせに。僕、まぁだ覚えてますよあのテキトー歌。―――みっつのあしには三日月やいば、ふたつの翼で夜を薙ぎ、ひとつの正義で星まで飛ぼう、ゼロになるまでこの世の悪が―――」
「わあシゾーさん、いい声いい声! ひゅーひゅー♪」
「いえーい」
「……シゾーてめぇコノヤロー、こんな時ばっかしゃしゃり出てきやがって……」
直後。シゾーは、拍手するキルルに向けていた適当なブイサインを引っ込めた。彼の見下ろす先で、ザーニーイは弓弩を受け取ることもなく、意気の無い様子で半顔を抱えている。残されたもう半分の頭領の面に凄むように、シゾーは上半身を折り曲げて割り込みをかけた。
「なに言ってんですか。そっちこそこーいう片付けもしないで、勝手にあの場からしゃしゃり出て行ってくれた分際で」
と、どうやら宴席から保管庫まで持ち運ぶつもりだったらしい弓を、その相貌と同じく幼馴染みに近々と見せ付けて、シゾーが鋭く睨めつけた。花束のように気楽に抱えている武器をがちゃつかせ、苛立たしげに吐息してみせる。
「いつの間にか義父さんもいなくなってるし。下戸の僕だけじゃ、あんなとんでもない有頂天にピリオド打てるはずないでしょう。一曲歌ってこの人とのイベントを収めたら、ちゃっちゃとあのへべれけ祭りも収めてくださいね」
ザーニーイは答えない。
待ちかねたのか、あるいは待つ義理もないと判断したのか。シゾーは受け取られる様子の無い弓を、ザーニーイの胡坐に突っ込んだ。そして最終通告のように、相手の口唇の先へ向けて、一本指を突きつける。
「もうここまできて、いつもみたいに計算が合わないことは言わせません。ずっと見てますからね」
「……俺が逃げないようにか?」
「とんでもない。臆病風が吹いたら、吹かれないとこまで蹴り飛ばすためです」
「あーそーかい。くそ。分かった、やるよ。やりゃいいんだろ。ったく」
と、投げやりにザーニーイが折れ、片手を振る。己のうめき声と幼馴染みの人差し指をそうやって同時に払いのけたのだが、言ったが最後、まったくもって動こうとしない。
それでもシゾーが自分も弓の束から適当に一本抜き取って地面に陣取った時点で、往生際を認めたらしい。すぐ隣の副頭領と似たような仕草で―――ただし手際悪くのろのろと―――弓筈からつるに指をかけ、戦闘以外の用途に整え始める。直後、ザーニーイが眉を曲げた。
「なんだこの弦。どいつが宴会で使ってたんだ? 力任せに張りやがって。これじゃ、馬鹿のひとつ覚えみてぇに高音域しか出ねぇぞ」
「いいんじゃないですか? どうせ酔漢の合唱なんて馬鹿のひとつ覚えですから、伴奏が馬鹿のひとつ覚えじゃなかったところで焼け石に水でしょう」
「……今更ながら、お前ってさらっと酷ぇよな」
「今さっき僕を女見る目ない扱いしたアンタからそんなことを言われるなんて思いも寄りませんでしたよ」
「あのなあ。粘着気質も大概にしろよ。確かにありゃ俺が悪かったが、そいつがいちいちつっかかってくる理由になるとでも思ってんなら、俺にだって考えがあるぞ」
「へえ。どんな?」
「―――まぁこれも今更だが、それ以上女々しく論うってんなら、昼間の口ゲンカはお前の負けだ」
ザーニーイはずるずると活力の無さを引きずっていたが、立てひざに赤ん坊を抱くような手付きで弓杖を支えて、斜めに視界を通る弦線を見定める目つきにたどたどしさはない。
知識と現実の合致に、キルルは歓声を上げた。
「弓で伴奏しながら歌うの? すごい! 本物の吟遊詩人みたい!」
「だから何だってんだ。俺の先々代の頭領が、へんてこな変り種だっただけだ」
眼差しで記憶が通じたらしい。シゾーが通弁を引き継ぐ。
「その人いわく『芸は身を助けるだけじゃねーんだわこれが』だそうで、僕もこの人も小さい時に“芸”とやらをのべつまくなしに入れ知恵されたんですよ。下働きさせるのも二の次に、読み書き算術、詩作に歌謡に舞踊、イカサマの仕方と見破り方……」
「だから当然、正統派じゃない。もれなく見様見真似だ」
と、ザーニーイが前置きした。弓をさすって、だらだらと用意を伸ばしながら、言ってくる。
「こいつもそうさ。調弦しながら爪弾けるわけじゃねぇから、ほとんど音調も変えらんねぇし。それに、弓の一弦のみでの詩吟披露を許可されてるのは、司書考究会で認定を受けた吟遊詩人だけだろ。こちとらシゾーの手助けがねぇと、聞くのも無残な出来になっちまうんだ。ンな上出来と比べんなよ?」
「うん―――できない」
キルルの呟きに、弓鞘をつついていたザーニーイの指先が止まる。
「できないわ」
言葉―――すぐに薄れて消えてしまうとしても、確かに発してしまった言葉。
沈黙のぬるさに、違和感がある。不快なものではない。ただ、不慣れな分だけこそばゆい。俯いてしまっていた。顔をあげる。ためらいながらも、彼の双眸を見定めようとして―――
「そうですよね。キルルさん、吟遊詩人も追っ払われてたそうですし」
声の張本人であるシゾーへ顔面をひねって、ザーニーイが険悪な皺を目尻に重ね書きした。いや、もう向こう側を向いた彼の顔つきなどキルルに分かるはずもないのだが、低く押し殺してしわがれた声は、言っている表情をも如実に表している気がした。
「……てめ。一体全体いつから隠れてやがった」
「少なくともその時点で聞き耳を立てる態勢は完成してましたけど何か?」
息継ぎも挟まず終わらせたシゾーは、ひどく女性的な優しさをたたえた笑顔―――やたらゼラの養子だということを意識せざるをえないそれ―――をにっこりさせて、ザーニーイと顔を付き合わせた。だが女性の笑みとは、時にひたすらに感情の暗部を露出させるものだ。
そしてまたしても、根負けしたのはザーニーイのほうだった。遠まわしなシゾーの悪意をそれでも避けようとして、視線だけをこちらへ反り返らせてくる。
「俺だって、こんなもんいじるの久しぶりなんだ。本当に数え歌の部分だけ歌うかんな?」
「あ―――うん」
どうにかザーニーイは、荒らいだ感情をため息で吹き散らすことに成功したらしい。そうこちらに告げた声は、手を返したように静まっていた……こちらの動揺さえ、鎮静させるほど。
弓に注意と爪を引っ掛けつつ、ザーニーイは弦をつまむ指のはら同士をこすり合わせた。
「シゾー。行くぞ。入り弦と万籟」
返事は頷くだけで終えて、シゾーが指先で音を、声帯で曲を奏で始めた。ザーニーイとは異なる格好で弓を抱きながら、半ば瞼を下ろしている。半月になった瞳がいつになく現実から遊離しているのは、口にするのが人語ではない万籟の沈吟だからだろう―――
それを掴んだザーニーイの長嘯が、夜思へと及ぶ。
□ ■ □ ■ □ ■ □
一目で始まり
二人は恋した
三夜 首 愛でなん
四肢 何処
触れ泥みて 五
六眼
七度の別れば
八越えん
九世 共に生きる為
十の死さえも厭うまい
声があまりに近すぎると勘付いた時は、反射的に身体を引きかけたが―――それがザーニーイだと知って、キルルは動力を失った。外から戻ってきたらしい彼は、ゼラが外した席の後ろに立ち尽くしている。そして、周囲に往復させた横目を脱力させ、ため息をついてみせた。容貌の鋭さをだらしなくとろかす、げんなりした感情を隠しもしない。室内の無礼講を推し量るのに使ったのがただの一瞥程度であれ、どうやら後継第二階梯に相応しいレベルを振り切っていると判断せざるをえないと分かってしまっては、自分ひとりがそんな体裁を保ったところでいかんともしがたいとでも考えているのだろう―――
と。
途端、見えてはいたが見ていなかった目の前の風景に、理解が走る。どれだけ呆然としていたのか見当もつかないが、夜半を過ぎたのは間違いなかろう。失せてしまった物音や声と真逆に、大量に卓に投げ出されて危なげに積み重なる酒饌の残骸……そして、そんな風なのは、卓上だけではなかった。床もだ。
全裸の方がむしろ潔いような服装の男たちが、これまた単にひっくり返っていた方がよほど弁解の余地がある寝姿で、しっちゃかめっちゃかに寝入っている。
悲鳴は、不意の衝撃のせいで、喉を破る直前に折れた―――頭がぶれて目が回り、その視線が、床板に触り損ねている自分のつま先を捉えて、更に声をなくす。ザーニーイが、背後からキルルのわきの下へと回した腕で、彼女の身体を一本釣りにしていた。そのままキルルを簀巻でも運ぶように小脇に抱え、見た目と裏腹にも程がある力強さでずんずか歩いて部屋を出る。
廊下に出たところで、キルルは降ろされた。口にすべき言葉が感謝なのか憎まれ口なのか見当すらつかないうちに、ザーニーイが何を言うでもなく、外套を翻して大食堂の明かりに背を向ける。なにを言うでもない。が、ついていけばいいのだろう。考えられなくなった頭をその場に置いていく気分で、ただただ彼を追いかける。
廊下にあるのは闇と夜気。そこに染みた人の気配は時々ちらほらと波立って、隠れて見えない大人数の存在をにおわせたが、それでも宴会の時に比べれば刺激は皆無に近い。狼狽はすぐに静まってくれた。心臓のそれは、少し残った。
夜という水底を泳ぐように、ザーニーイはなめらかに先を行く。今までとて決して明るくはなかったが、それでもこの廊下よりはましだった。王城につけられていた灯りが異常なのだろうが、防衛上の事由か単なる吝嗇根性か、<彼に凝立する聖杯>のかがり火は少なく、窓から差し込む月と星の散漫な輝きはなお少ない―――夜空については、曇天に永遠がある限り、頼るべくもないのは知っている。
だからキルルは、声を上げた。彼は夜空ではない。
「―――ねえ待って、あたし、まだここなの―――」
満たされない夜目のせいで、躓きかけて何かにぶつかり、呼びかけた小声も砕けた。そのまま、できそこなった空咳のようにかすれていく。
「―――でも、だからって、ひとりにしないで―――」
ザーニーイが立ち止まった。
聞こえたはずがない……が、彼が歩き続けていたら難儀したはずの距離を簡単に埋めて、その肩に追いつく。追いついてしまえばそうする必要など無かったはずだが、すがるように彼の外套へ手を伸ばし―――
そして、外套を超えて。
彼女が小指を握り締めるのに逆らいもせず、ザーニーイはキルルを見やる一拍分だけ足休めを長引かせて、また歩き出した。
指は、振り払われはしなかった。肌がふたつ分の体温を重ねたせいで、余計に温まる。そんな小さなことが分かったのは、彼の歩調が少しだけゆるまっていたからかもしれない。
自分でも分からない奇妙な動揺が消えていかないことが気にかかったが、彼の通り道のうしろに足元をすくってくれる障害物もなにもないとなれば、声を出すきっかけはなかった。黙々と足音を聞いていると、廊下のなか途中の壁が、なぜか四角い形に青白く塗装されたところに出る。
と思えばそれは、青ざめた月光が、ドアのない出入り口から差し込んでいるせいだった。記憶を探るが、まだ通った覚えのないそこをくぐれば、まずは冴え冴えとした外気が青い匂いを含んでキルルを迎えてくれる。言われずとも分かった。ここは前庭とは違う。中庭だ。
二人は、どちらともなく立ち止まった。
落胆はひっきりなしにあった―――余力があるときは好敵手であり、追い詰められたときでさえそりの合わない悪友で済んでいたはずだったそれは、半年前から確実に伴侶と化した。弟が文字通りそうなりかねないということを知った時から、ずっと絶え間なく悪い予感が続いている。だから別にこの気鬱も、旗司誓や魔神がもたらしたものではない―――知らなかった汚点も、気がつかなかった無知ですら、そうではない。
それでも建物から出て、人いきれも体臭もこもっていない鮮度のある空気を肺腑に込めれば、ひときわ煽られていた暗鬱も一瞬はすりきれる。キルルは思う存分肺を膨らませ、意識してしぼませた。こんな風に純粋に爽快感を追いかけることさえ、ここしばらくは忘れていたような気がする。やはり、深夜だった。雲を介してとぼけた月光が、日中のうちに太陽にほだされた建物の頬を冷ますように、冷めた色で染み込んでいる。中庭は、その壁面に四方を囲まれて、多少窮屈そうに夜天の下で蹲っていた。奥に視線をやるにつれて、急激に暗黒を濃くしていく木々が生い茂る中で、人工的にかくかくと浮かび上がった影が見える。小屋だろう。やはりここは、ゼラが言っていた中庭とみて間違いないらしい―――ゼラ……
肩と共に落としてしまったキルルの視界の真ん中を、なにか頼りないものがふわりと漂ってほつれた。行方を辿ると、ザーニーイが唇に挟んでいる煙草に出くわす。その蛍火がゆっくりとまたたく、その二回目にさしかかったところで我に返って、キルルは慌てて手を放した―――途端に、冷えた空気が手の内側を滑って、彼の一指が確かになくなったのを感じる。自分の顔の皮が、わずかながら撚れた……ような。
それを、紫煙への批難と履き違えたのかもしれない。用済みになった発火布を踏みつけ、右手だけで着火を終えたザーニーイが振り返らせた片目は、生煮えの苦笑いを見せていた。
「あ。悪ぃ。八節モドキなんざ使った安物、姫様にゃ不慣れだったな。煙いか?」
「う、ううん。そういったのは、王裾街のおじさんたちだってよく吸ってたし。平気」
それを聞いて、喫煙を続ける安堵を得たのだろう。笑みから苦味を抜いて、ザーニーイが前に出た。そして、すぐそこにあった岩のひとつに腰掛けながら、続きを紡いでいく。
「ってことは、あんたが出入りしてたってのは、王裾街は王裾街でも、ほとんどは上等住宅街路の近辺か」
「え―――うん。何で分かるの?」
「王襟街に隣接するのは、ほとんどが上等住宅街路で、ちょっとばかし商店街路だからな。職人は縁起を担ぐために、織布屋だけは近衛蜉蝣を芯にした煙草を吸うが、それ以外のほとんどは品の純度を汚すとかいうジンクスに則って、作業中に一服嗜む習慣なんざ持ってやしねぇのさ」
相手の居座った岩は、人の手がかかった形状から言って、無用の噴水でも解体した石材のひとつに違いない……ザーニーイの傍に近づいてみれば、キルルも苦労せず、見つけた岩のでっぱりに尻を引っ掛けることができた。
ザーニーイの帯びた微醺は、深まっているようだった。酒杯は、与えるならば返されるものなのだろう。彼の説明は酒困の気配もなく饒舌だったが、それこそ逆に酔語だからだと告げていた。
「だから、あんたが『煙草をふかす王裾街のおじさん』に接する機会があるとするなら、街路を行き来して上等住宅街に品物を納入してる、縮小輜重業者くらいだ。そこらへんに住んでる金持ちに接した可能性も無いことはないが、ンな気取った連中は煙草じゃなくて葉巻を愛用するだろうし。葉巻より高価な煙草ってのもないこたぁないが、それこそ貴族にしか買えねぇような高嶺の花な上、ああいったのは総じて煙は苦かねぇから、俺の愛煙とは矛盾する」
「多分そうよ。当たってる―――けど、あれ? 品の純度を汚すんだったら、その荷運びの人たちも吸わないんじゃない?」
「それは、作るときにそうしたら、って意味だ。むしろ運搬の時は、あらゆる害悪を煙に巻くって意味で、煙癖のあるやつが重宝されるんだよ。特に、糸足蜘蛛の八重束づくりの煙草なんか愛用してる奴は狙い目らしい」
「何で?」
「蜘蛛の巣で客が引っかかる、ってのが言い伝え。本当は、ンな値の張る煙草を買えるだけ懐があったかい奴なら、それなりに信用できる仕事をして、大棚から給金もらってる暗の証拠になる。ンなとこだろ」
益体も無い言葉がつぶしていく、ただそれだけの時間。
そんな時間に安堵があることも、深呼吸と同じように忘れていた。
(あたしはきっと、ここにいたら、また見つけるのね)
それは恐ろしかったが、恐ろしいだけではない。きっと、そうではない。
それでも胸中を翳らせようと浮かんでくる不安を吹っ切るように、キルルは両腕を上げ、座ったまま思いっきり伸びをした。
「それにしても、ここに出られて助かったわ。もう少しで、パニックになって料理皿まき散らしながら泣きじゃくってたかも」
「そりゃ、未然に防げてなによりだ」
にやついて答えてくる、彼。
同じような笑みを食みながら、キルルは続けた。
「酔いつぶれてるみんな、ほっといて大丈夫なの? 風邪でも引いたら、明日の仕事とかに支障が出るんじゃない?」
「心配ねえよ。あいつらは<彼に凝立する聖杯>だ」
酔余の戯言にしては簡頸すぎる語韻に、意識をさらわれる。
キルルは、身体をザーニーイの方へ向けた。右隣。彼女の手が届くか届かないかの位置で、低い石に腰を落とした彼は、抱くようにした片足に凭れて空を見上げている。口は言葉に費やしながらも、心は月へ紫煙を絡ませるのを楽しんでいるようだった。
「支障なんか出やしねぇよ。今回みたいな祝杯には、頭領の俺以外は、自分は勝利に貢献したって胸を張れる奴しか出られねぇのが暗黙の了解になってる。つまり次もあそこに来たいんなら、勝利に貢献できない状態にゃあ、そうそうなってられやしねぇんだ。そんくらい、どいつもこいつも承知してるさ」
「勝利に貢献できない状態って、深酒がたたっての二日酔いとか? だからみんな大丈夫ってこと? でも、ちょっとあの様子じゃ……」
「ああ。よく見積もって十二、三人。酔いどれ具合からして、明日どれくらい使い物になんのかあやしいとこだな」
「ザーニーイ、見てたんだったら飲むなって叱りなさいよ!」
「あん?」
思わず立ち上がったキルルと違って、彼の反応はひどく淡泊だった。少女の叱責の方がよほど場違いだとでも言うように、ぽかんと鼻白む。
「何でンなことすんだよ?」
すっとぼけるでなく、本心から分からないらしい。こちらまで伝染した思いで、キルルは強気を失った。
「だ、だって、部下が使い物にならなかったら困るでしょ?」
「うっわ。ひっで。軽くショック」
「え?」
「なに俺、明日の仕事が軽い奴とか休み入れてる奴とかが多少ハメ外はずすことまで押さえつけるような暴君に見えてんのか? やべぇなそれマジやべぇな。くっそ、こんな立場であんな歳になってそんなヤなネオ事実にどんだけズームインだよコンチクショー」
「違うわよ! そーじゃなくて!」
わざとらしく頭を抱える彼のオーバーアクションこそ深酒のなれの果てと確信し、声音を険しくする。わたつかせていた掌を握りつぶし、キルルは説教する体勢に身構えた。
「今日みたいにいつ誰が襲い掛かってくるか分からない旗司誓で、使い物にならない人が出たら、結果的にあなたどころかみんな困るんじゃないのって言ってるの!」
「困るのは次の宴会に出れねぇそいつのハートのやり場だろ」
「そ・い・つ、がいっぱい出たらどうするのよ! あのお酒だって、明日が都合よく休みの人以外には水になるおまじないとかが掛かってるわけじゃなし、こっそりくすねちゃえば誰だって飲めたし持ち出せたじゃない! だとしたら、食堂の外のみんなも勝手に酔いつぶれて、みんな使い物にならなくなっちゃうかもしれないのよ!? 予防できるんなら、それはリーダーとしてのあなたの仕事でもあるはずよ!」
「心配ねえよ。あいつらは<彼に凝立する聖杯>だ」
「会話がループしてるじゃないこの酔っ払い! さっきも聞いたしそれ!」
「酔っ払ってなくなってループするだろそりゃ。旗司誓はそれしかねえんだから、話してんのが俺である以上は、どんなこと話したってそこに収まるっきゃねぇし」
「あ・の・ねぇ~……」
「あー、ええと、なんだ。つまり―――」
ザーニーイは、あくまでキルルの忠告は気にしないようだった。が、言及に答えるという責務については、頭領として感じるところでもあったらしい。非難がましく目をつり上がらせる彼女へ、間に合わせに喃語を口に出し―――そして。
「あいつらは、てめぇの誇りくらい、てめぇで守れる」
風が吹いた。虫が……あるいは鳥が、間近を飛んだような。
それが過ぎ去るのを待ってから、酔呶でもなく、嘯きは続く。
「旗司誓ってのも、<彼に凝立する聖杯>にいるってのも、酒は飲みすぎりゃどうなるかってのも分かってるさ。だから活躍しなかった奴は宴会に自分から来ないし、活躍した奴は背筋伸ばして酒を飲みに来る。だから、そいつがいっぱい出ることはない」
「でも、全員が全員、毎回そうとは限らないじゃない」
「そだな。だから、ちょっとは出る」
こだわらず、言ってくる。キルルの反駁が心因性だと見抜いたわけではなかろうが。
ザーニーイは、肺の煙をくまなく味わうように目を伏せた。
「それもいい。次は出ないさ」
「……どうして分かるの?」
「そうしないようにしてくれるからな。あいつらは」
「それでいいの?」
彼にしてみれば、それさえ野暮な話だったのだろう。一度は、言おうとして思いとどまったようだが―――どうしようもなくなったように、それを口に出す。
「心配ねえよ。ここは、旗司誓<彼に凝立する聖杯>だ」
彼が用済みの吸殻を指先から落とすと、その唇には紫煙ではなく、笑みが残っていた。いや、彼の口元は顕著な弧を見せることはなかったが、少なくとも、笑みの根拠になりうるだろう温みがしみていた。
彼女は、ただ立っていた。彼に同意する意味はないし、異論もまた無意味だろう。ザーニーイのせりふは、他者に裏付けられることによって信じるに足るようになるような、蒙昧の産物ではない。
それを、うらやましく思うことは無くとも。キルルは目を閉じ、開いた。めまいを覚えたと言うわけでなく、聞いた言葉を―――多くの言葉を思い出していた。
「―――双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ、触れ……触れ……」
「触れ、疾く翔けよ」
継がれることは予想していた。二本目に口をつけることも無かったため、もう紫煙が彼の容姿を紛らわすこともない。ザーニーイは抱え込んだ己のくるぶしを見詰めるような角度で視線を伏せているが、声は上天の空闊まで歩み寄るように朗々と空気を渡った。
「旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ。痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ。その棘示すは<彼に凝立する聖杯>―――旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
ザーニーイが息をついて、手を振ってみせる。こちらを見やり―――
つい、目が合ってしまっていた。キルルがぎこちなく唾を飲んで元の石に腰を置くまでの間に、彼の声はいつもの陽気を含んで軽くなっていた。
「訳すか? <彼に凝立する聖杯>の新入りは、まずこいつをきっちり腹に入れることが初任務なんだ」
「やめとく。古い貴族構文の授業なんて、お城でだけでもう充分」
「ご先祖さんの大親友の生き様が垣間見れっぞ?」
「もう充分」
そして、更に口走っていた。
「あなたがいるもの。それで充分」
と―――
ザーニーイは、からかうための軽口をあと幾つか用意してはいたのだろうが。出し抜けに、それを失ったらしい。どうしようもなく、静寂が垂れ込める。
その中で彼は、ここから見てわかるほどに睫毛を上げて、息を止めていた。目を見開くのはそれからも数秒続いたが、息までもそうはいかず、小さく短く、呟きとして転がしてくる。
「そか」
「うん」
キルルは単に、頷いた。
沈黙は長引いたが、それでも終わりが訪れる。
「そうか」
今度は答えない。キルルは、そう囁いた彼の顔に眼差しで触れていた。ザーニーイは、喜ぶでもない。だからこそ、笑うでもない。世渡り知らずの悪意ない根無し言と呆れるでもなく、それに付き合うことにうんざりしているのでもない。有り体に言って、それは奇妙な顔つきと思えた。面皮に次いで眉根をゆるめ、それだというのに口元には皺じみたくぼみが見える。
途端。手の甲でその表情をこすりとると、常にそうあるような明るい様相に乗せて、ザーニーイは今までと似たようで異なる話題を拾ってきた。
「褒められてからこう言っちゃなんだが、俺は今回、あんたに関しては後手後手なんだぜ? これっぽっちも顔が売れてなかったってのに、あれよあれよとひともんちゃく起きちまって。俺らとメシ食いてえってのはそっちから言い出したことらしいけど、真珠がいるなんざ知ったこっちゃねぇ能天気連中のあのノリはさすがにキッツかったろ。このとおり、俺の手落ちだ」
「や、あの、そんな……そんな謝られることでもないわよ。うん」
言いくるめられたつもりは無かった―――としても。どうやら、覇気の欠けた彼女を乱痴気騒ぎの被害者とみなしているらしい彼を放っておくわけにもいかず、それについての弁解を続ける。うっかり再生されかかる寝散らかした大食堂の風景から必死に意識を逸らすためにも、そそくさと言い連ねていく。
「あったかいご飯なんてすごく久しぶりでおいしかったし、お城でやったら『うげ』って目で見られる舞芸ひゅーひゅー言われて嬉しかったし、あんなわいわいしたとこにいられて楽しかったし、ザーニーイともこうやって―――」
「って、俺なんかしたか?」
「ザーニーイ!」
「うわ! ―――って、へ? 何だよ一体?」
突如としてはじけた呼びかけに、ザーニーイはぎょっと上体だけで後ずさった。不意を突かれたからか、えらく驚いて目をむいている、頓狂な仰天面。
しかしもうキルルは、それだけでない表情を知ってしまった。彼の手がかすめただけで、跡形もなくなってしまった脆い顔。彼からは消え、自分には残って消えない。そのわけを知りたい―――としても。
(―――彼は旗司誓で、あたしは旗司誓じゃない)
感じた距離は、発する言葉さえ喉から先へといかせるには遠すぎる。
そうなると、根掘り葉掘りとちょっかいを出す気も失せ、キルルはふっと肩から息が抜けた。そもそも発した呼びかけは問いかけるためでなくせりふをもみ消すためのものだったのだが、どちらにしろ今更無かったことになどできず、口から出任せに喋り続ける。
「し、真珠って何のこと?」
「あん? 処女の意味だが」
「しょっ……!?」
「まあ、少女とかの意味でも使うがな。普通は処女だ」
ぶつぎれになった彼女の声など意に介すこともなく答えて、ザーニーイが目線を宙に投げた。見上げた先の虚空で、折々のキルルの様子を重ねてみたらしい。そして放物が落下してくるのと同じくらい速く、彼女に再び焦点を合わせてくる。
「処女だよな?」
呼吸どころか脈をも途絶したような錯覚の中で、絶望的なまでに頬が紅潮するのを感じる。とんでもない―――とにかくとんでもないこの男に、威嚇をぶつけることすらできない。ひたすら顔面を掌で覆い隠し、それでも足りず上半身を折り曲げて大腿にひれ伏す。胸からはみ出して頭に及び、ぐわぐわと渦を巻く未知の熱さに、感じた憤懣さえ焼き尽くされて声にならない。
対するザーニーイは、自分が口にした単語の異常なまでの効力にこそ、異常なまでの阿呆臭さを感じたらしい。あきれ声の分だけ無駄遣いした呼気が、しゃがれた音をさせたのが聞こえた。
「なに恥ずかしがってやがんだ。別に珍しい言い回しでもねぇだろが。<終末を得る物語>でも出てくるし」
「だからうちはお母様が旅団ツェラビゾだったんだってば!」
自分でも不条理と感じるほど憤激し、がっと顔面を跳ね上げてまくし立てる。が、そこにあったザーニーイの表情がまったくもって冷めきっていたことに、怒声も舌の根から抜け、満ちていた騎虎の勢いも過ぎ去ってしまう。彼女は途方に暮れ、唯一残された赤面をやるせなく撫でた。
「なんだかそれに反するとかで、<終末を得る物語>については吟遊詩人も門前払いだったの。お城に来てから一遍通り齧らされたくらいで、亜流のおとぎ話とか、全然知らないのよ。だから、教えてちょうだいよ、それ」
「あー。そういや<終末を得る物語>では、<楽園崩壊>と<楽園崩落>で、<楽園>は二回もぶっ潰れたことになってっからなぁ。<楽園>で教義を成り立たせてるツェラビゾにとっちゃ、そりゃバリバリに抵触するわな」
と、納得を終わらせ、彼は胸板をよしかからせる膝を交換した。
「真珠ってのは穴が開いてねぇだろ。だから男に穴をあけられる前の女のことを―――」
「いやあああぁぁぁ!!」
「教えろっつったりいやっつったり気分屋な奴だな。山の天気気取りか」
いい加減に愛想も尽きてきたのか、ザーニーイの半目には嫌気の帳が下がりかけている。座りなおしたばかりだと言うのに厄払いのような身じろぎをしてみせる彼に、キルルはひたすら怒気を吐いた。
「デリカシーってものを考えなさい! そういう話は普通、男から聞きたくないの!」
「だったら、男から聞きたいような<終末を得る物語>をリクエストしろよ。ほれ。どんなのがいいんだ?」
返され、口ごもる。考えるが―――転がり込んできた予期せぬ選択権は、ありがたみではなく戸惑いと焦りを貼り付けてきた。数十秒間無言で自問するが、結局名案も浮かばなかったため、ありふれたものを口にする。
「ええと……一番、有名なお話」
「そりゃ、<楽園崩落>を引き起こしやがったディエースゥアーの話だろうな。<終末を得る物語>だと‘大公’ディエースゥアーが陥落、ってのだったと思うが、おとぎばなしの魔法の檠架の方が分かりやすいから、そっちで行くぞ。ええと―――それはそれは昔々、<楽園崩壊>が過去となって幾星霜。ディエースゥアーという神様が、」
「あ。それは知ってる」
「うっわ。なんかこうイラッときた。今なんかこうイラッときた俺」
分かりやすく毒ついて、ザーニーイが声を低めた。が、それ以上に吐露するほどのことでもなかったようで、彼はさっさとそれを消化して、迷うようにふらふらと喋り出す。
「‘大公’ディエースゥアーが陥落の次点となると、アイテム関係のイザコザってのがメジャーだな。欲するは許諾すなわち録視書―――ザライザン・ロワナン、彼に凝立する聖杯―――アブフ・ヒルビリ、允可に足りぬこその檠架―――ランプ・ジ・ケンプファー。あとは、有名な奴の有名な逸話か。クリンツクリンチェの図書館、アークレンスタルジャット・アーギルシャイアの恋歌、……」
「アーギルシャイア―――」
聞き覚えがあった。
キルルの変化に気付いたのだろう。ザーニーイの目淵に配慮が滲んだのに勘付いて、彼女は反射的に浮かべた笑顔から高い声を上げていた。ほぼ同時に、両手を打ち鳴らしすらしてみせる。
「こ……恋歌! いいわね恋歌!」
「ご期待に沿えず悪いが、ロマンティックになるのはかなり後だぜ。<終末を得る物語>の本筋から、かなり外れた話だし。いいのか?」
彼女のわざとらしさを承知し、ザーニーイはあえて会話に乗ってきた。あからさまに逸らした箇所を、解き明かすつもりはないらしい。
キルルはとにかく、続けざまに首を縦に振った。どうであれ、明るくもない自分語りよりはまだ有意義に違いなかろう。
「いいからいいから」
「……吟遊詩人からの聞き覚えだから、うろ覚えの独吟になっちまうんだけど……」
「聞きたい聞きたい!」
「……笑うなよ」
急激に―――しかもなにやら違うベクトルで―――倍増したキルルの歓声にこそぎ取られたように、気のない様子でザーニーイは頭をかいた。そして、曲調を思い出すように一定の間隔で目をしばたいた後、小声で歌いだす。
「呼ぶ者こそが呪われよ、繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。ああ災いだ、災いだ。其は生まれるを許されじ、されどその目は眠るにあたわず、臍の緒喰らいて吐息する―――」
「なんだかものすごいダークな語り始めじゃない?」
「だぁから後だっつったろーが!」
乗り気でない吟哦を折られ、ザーニーイの忍耐もついに限界を超えたらしい。それ以上の他意なく発した指摘だったのだが、だからと言ってそれが無遠慮さの免罪符となることもないと、彼の両眼が冷厳に―――しかし中心に火をともしながら―――語っている。こちらに指の尖端と共に突き出してきた声は口元の歪みそのままに吐き出されたため、うなり声にも似ていた。
「あんたが聞きたいようなラブラブな部分まで話をはしょるとだ。こーやって忌み嫌われたアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだったんだが、ある時、恋に落ちたんだとさ。そんで、あれよあれよと成長していくアークレンスタルジャット・アーギルシャイアを見た蠅の王は、恋の相手を四十四の艱難と七十七の辛苦の向こうに奪っちまったんだ」
「ひどい! 何でそんなにアーギルシャイアを嫌うのよ!」
「蠅の王は嫌ってたんじゃねぇ。恐れてたんだ。アークレンスタルジャット・アーギルシャイアは欲するは許諾すなわち録視書に、<楽園崩壊>の際に神からさえ失われた全知全能を携えて生まれ落ちると記されていた」
「全知全能?」
予想だにしていなかったフレーズに怒りを失って繰り返すと、ザーニーイは片手だけで肩をすくめる仕草をした。
「繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。虐殺に虐殺を重ね、ついには死体にたかる蠅の王とまで呼ばれるようになったザグバオーンにとっちゃ、随分と意味深な呼称だと思わねぇか?」
「……人知を……」
「あん?」
指を引っ込めた拳を襟元まで引き戻し、ザーニーイが聞きとがめてくる。放っておけばやり過ごせたのだろうが、先ほど彼の機嫌を損ねた後ろめたさも手伝ってか、思い出を打ち明けるのに抵抗は無かった。もとより、言う価値が無いと思っていただけで、語るに重い記憶でもない。
「人知を超えたアーギルシャイア。そうお父様が言ってたのを思い出したの」
正確にはその言葉はアーギルシャイアについて語ったものではなかったが、こまごまと説明する気も起きなかった。結局それだけで黙り込むと、ザーニーイが地味に失笑する。
「人知を超えた、ね。ありふれた言い習わしまで逐一ロマンチシストなんだな、ヴェリザハー・ア・ルーゼとやらは」
「ありふれた?」
「―――ああ。知らねぇのか」
それからの僅かな逡巡は、解答を避けたのではなく、どういった文面で解答するのが適切なのかを見定めていたためのそれだったのだろう。ザーニーイはせりふを待ち受けていた彼女を、まずは皮肉げな微笑をもって出迎えた。もっともその皮肉は、彼女を対象にしているのではないようではあったが。
「一般的に、超人といわれる連中……天才だとか変人だとか、天才的な変人だとか。練成魔士やテロリストが代表格なんだが、まあそーいったどっか飛びぬけてるやつに、アーギルシャイアって代名詞がつくのはざらだからな。もちろん、箔を付けるために自分で名乗る奴もいる。伝説のデュアセラズロ・アーギルシャイアは前者の筆頭だろ? たった一度ミスやらかしただけで人生転落した奴をディエースゥアーって冷やかすのと同レベルさ―――まあこれも、デュアセラズロがデュアセラズロ・ディエースゥアーって言われんのと同じだが」
「え? ディエースゥアーって呼ぶのが冷やかしなの? 確かそれ、最高位‘大公’に座す魔神でしょ? すっごいトップじゃない」
「違ぇよ馬鹿。ディエースゥアーは神の身であったにもかかわらず凡ミスで<楽園崩落>を引き起こし、その咎を受けて地位を魔神まで貶しめられた挙句に、檠架に永久に縛錠させられた元・カミサマだ。だからこそ允可に足りぬこその檠架は、<終末を得る物語>のおとぎばなしバージョンでは『魔法の檠架』ってのに言いかわってんだよ。檠架に封印された魔神のおはなし~って、子どもの寝物語り用に構文も発音も簡単になってんだ。あのデュアセラズロにディエースゥアーが引き合いに出されることがあるっつうのも、噂じゃン十年前だかに奴は大陸連盟を謎の出奔しちまって、エリート街道ごと人生を棒に振っちまったとか言われてっからで―――」
「馬鹿まで言うことないでしょー!」
「あんたが‘大公’ディエースゥアーの話を知ってるっつったからこっ恥ずかしいアーギルシャイアのヤツに乗り換えたのに、ここに来て知らねえってなったら、えらく腹立たしいだろーが!」
「そういえば脱線膨らませてないで、アーギルシャイアがどうなったのかちゃんと教えなさいよ」
「くあ。ムカッときた。今イラッとに加えてムカッとまできた俺」
またしてもヒートアップの出口を見失い、ザーニーイは渋面もあらわに怒声を噛んだ。それでも結局は、生真面目なところまで捨てることはできなかったらしい。幾らかのなにかを口内でぶつぶつと悪罵にまみれさせてから、落ち着ききっていない調子で、言い繋いでいく。
「まあとにかく、あーやってこーやって恋人から引き裂かれちまったが、そこは全知全能とまで言われたアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだ。頓知やら幸運やら反則やら、とにかく片っ端から叩き売りしながら一心不乱に看破していくわけだな。このくだり、恋人に捧げて詩を歌うくらいで、ラブラブ指数・ザ・最高潮だ」
「どんな歌?」
「俺が知ってるのは、かなり端折られた数え歌だけだ」
「それでもいいわ。ね。歌って」
「無理言うなよ。こいつはさっきやってみせたのと違って、古い発音がまちまちに混じってっから、俺一人じゃ音頭が取れねぇんだよ。まああれだ、<彼に凝立する聖杯>の陣頭指揮を執るために鍛え抜かれた霹靂の美声を披露できないのは俺的にも残念極まれりとかそーいった感じだが―――」
「だったら、弦と僕の調子を足せば計算が合いますね」
ぎょっとしたのは―――
キルルだけではなかった。ザーニーイも表情どころか喋るうちに横へと広げていた掌の先まで固めて、脈絡ない展開に目を丸くしている。この長身でどうして今まで悟られなかったのか、副頭領のとんでもない手腕としか言いようが無いが、それでも現にシゾーは物陰からこちらへと歩み寄ってきた。暗闇に溶け込むような容姿の中にあって、濃い蜜色の瞳だけが月光を醸成したかのように艶めいている。その体躯をもってしては、手にした幾本の大型の弓さえ、弓衣に入っていないというのに破壊力のない玩具に見えた。
幼馴染みが一歩ずつ近づいてくるごとに、ザーニーイは次第に苦々しく奥歯を食い締めて、そこから搾り出た苦汁を顔全体に広げていった。状況に理解が追いつくにつれて、仲間とは言え他者の存在を察知しえなかった失態を、微酔になすりつけるには矜持が許さなくなったらしい。
「まだ直しようがあるみたいですね。死角の癖」
ザーニーイの毒を込めた舌打ちは、相手のその一言で、確実に別のなにかに化けた。といっても、火に油をそそがれたというのではなく―――今のしかめ面の決定的な部分を取り上げられたかのように、色をなくす。感情の矛先は鋭さを失ってはいなかったようだが、方向を乱されて威勢は霧散していた。そして、
「……無くて七癖だからな」
単なる応答とは言いがたい気配で、ザーニーイがひとりごちた。
それについて思いを巡らせるには、シゾーの歩幅はあまりに大きすぎた。あっさりと目前までの間合いを詰め終えて、指先に引っ掛けたひとつの弓をザーニーイに示している。そうされるとはっきりするが、やはり大きな弓だ。
「はい。これでもう、歌えないなんて言い逃れは却下です。サポートの万籟は僕がしますんで……どうしたんですか? 昔はよく部屋に引っ張り込んで、吟遊詩人ごっこと称した練習に付き合わせてくれたくせに。僕、まぁだ覚えてますよあのテキトー歌。―――みっつのあしには三日月やいば、ふたつの翼で夜を薙ぎ、ひとつの正義で星まで飛ぼう、ゼロになるまでこの世の悪が―――」
「わあシゾーさん、いい声いい声! ひゅーひゅー♪」
「いえーい」
「……シゾーてめぇコノヤロー、こんな時ばっかしゃしゃり出てきやがって……」
直後。シゾーは、拍手するキルルに向けていた適当なブイサインを引っ込めた。彼の見下ろす先で、ザーニーイは弓弩を受け取ることもなく、意気の無い様子で半顔を抱えている。残されたもう半分の頭領の面に凄むように、シゾーは上半身を折り曲げて割り込みをかけた。
「なに言ってんですか。そっちこそこーいう片付けもしないで、勝手にあの場からしゃしゃり出て行ってくれた分際で」
と、どうやら宴席から保管庫まで持ち運ぶつもりだったらしい弓を、その相貌と同じく幼馴染みに近々と見せ付けて、シゾーが鋭く睨めつけた。花束のように気楽に抱えている武器をがちゃつかせ、苛立たしげに吐息してみせる。
「いつの間にか義父さんもいなくなってるし。下戸の僕だけじゃ、あんなとんでもない有頂天にピリオド打てるはずないでしょう。一曲歌ってこの人とのイベントを収めたら、ちゃっちゃとあのへべれけ祭りも収めてくださいね」
ザーニーイは答えない。
待ちかねたのか、あるいは待つ義理もないと判断したのか。シゾーは受け取られる様子の無い弓を、ザーニーイの胡坐に突っ込んだ。そして最終通告のように、相手の口唇の先へ向けて、一本指を突きつける。
「もうここまできて、いつもみたいに計算が合わないことは言わせません。ずっと見てますからね」
「……俺が逃げないようにか?」
「とんでもない。臆病風が吹いたら、吹かれないとこまで蹴り飛ばすためです」
「あーそーかい。くそ。分かった、やるよ。やりゃいいんだろ。ったく」
と、投げやりにザーニーイが折れ、片手を振る。己のうめき声と幼馴染みの人差し指をそうやって同時に払いのけたのだが、言ったが最後、まったくもって動こうとしない。
それでもシゾーが自分も弓の束から適当に一本抜き取って地面に陣取った時点で、往生際を認めたらしい。すぐ隣の副頭領と似たような仕草で―――ただし手際悪くのろのろと―――弓筈からつるに指をかけ、戦闘以外の用途に整え始める。直後、ザーニーイが眉を曲げた。
「なんだこの弦。どいつが宴会で使ってたんだ? 力任せに張りやがって。これじゃ、馬鹿のひとつ覚えみてぇに高音域しか出ねぇぞ」
「いいんじゃないですか? どうせ酔漢の合唱なんて馬鹿のひとつ覚えですから、伴奏が馬鹿のひとつ覚えじゃなかったところで焼け石に水でしょう」
「……今更ながら、お前ってさらっと酷ぇよな」
「今さっき僕を女見る目ない扱いしたアンタからそんなことを言われるなんて思いも寄りませんでしたよ」
「あのなあ。粘着気質も大概にしろよ。確かにありゃ俺が悪かったが、そいつがいちいちつっかかってくる理由になるとでも思ってんなら、俺にだって考えがあるぞ」
「へえ。どんな?」
「―――まぁこれも今更だが、それ以上女々しく論うってんなら、昼間の口ゲンカはお前の負けだ」
ザーニーイはずるずると活力の無さを引きずっていたが、立てひざに赤ん坊を抱くような手付きで弓杖を支えて、斜めに視界を通る弦線を見定める目つきにたどたどしさはない。
知識と現実の合致に、キルルは歓声を上げた。
「弓で伴奏しながら歌うの? すごい! 本物の吟遊詩人みたい!」
「だから何だってんだ。俺の先々代の頭領が、へんてこな変り種だっただけだ」
眼差しで記憶が通じたらしい。シゾーが通弁を引き継ぐ。
「その人いわく『芸は身を助けるだけじゃねーんだわこれが』だそうで、僕もこの人も小さい時に“芸”とやらをのべつまくなしに入れ知恵されたんですよ。下働きさせるのも二の次に、読み書き算術、詩作に歌謡に舞踊、イカサマの仕方と見破り方……」
「だから当然、正統派じゃない。もれなく見様見真似だ」
と、ザーニーイが前置きした。弓をさすって、だらだらと用意を伸ばしながら、言ってくる。
「こいつもそうさ。調弦しながら爪弾けるわけじゃねぇから、ほとんど音調も変えらんねぇし。それに、弓の一弦のみでの詩吟披露を許可されてるのは、司書考究会で認定を受けた吟遊詩人だけだろ。こちとらシゾーの手助けがねぇと、聞くのも無残な出来になっちまうんだ。ンな上出来と比べんなよ?」
「うん―――できない」
キルルの呟きに、弓鞘をつついていたザーニーイの指先が止まる。
「できないわ」
言葉―――すぐに薄れて消えてしまうとしても、確かに発してしまった言葉。
沈黙のぬるさに、違和感がある。不快なものではない。ただ、不慣れな分だけこそばゆい。俯いてしまっていた。顔をあげる。ためらいながらも、彼の双眸を見定めようとして―――
「そうですよね。キルルさん、吟遊詩人も追っ払われてたそうですし」
声の張本人であるシゾーへ顔面をひねって、ザーニーイが険悪な皺を目尻に重ね書きした。いや、もう向こう側を向いた彼の顔つきなどキルルに分かるはずもないのだが、低く押し殺してしわがれた声は、言っている表情をも如実に表している気がした。
「……てめ。一体全体いつから隠れてやがった」
「少なくともその時点で聞き耳を立てる態勢は完成してましたけど何か?」
息継ぎも挟まず終わらせたシゾーは、ひどく女性的な優しさをたたえた笑顔―――やたらゼラの養子だということを意識せざるをえないそれ―――をにっこりさせて、ザーニーイと顔を付き合わせた。だが女性の笑みとは、時にひたすらに感情の暗部を露出させるものだ。
そしてまたしても、根負けしたのはザーニーイのほうだった。遠まわしなシゾーの悪意をそれでも避けようとして、視線だけをこちらへ反り返らせてくる。
「俺だって、こんなもんいじるの久しぶりなんだ。本当に数え歌の部分だけ歌うかんな?」
「あ―――うん」
どうにかザーニーイは、荒らいだ感情をため息で吹き散らすことに成功したらしい。そうこちらに告げた声は、手を返したように静まっていた……こちらの動揺さえ、鎮静させるほど。
弓に注意と爪を引っ掛けつつ、ザーニーイは弦をつまむ指のはら同士をこすり合わせた。
「シゾー。行くぞ。入り弦と万籟」
返事は頷くだけで終えて、シゾーが指先で音を、声帯で曲を奏で始めた。ザーニーイとは異なる格好で弓を抱きながら、半ば瞼を下ろしている。半月になった瞳がいつになく現実から遊離しているのは、口にするのが人語ではない万籟の沈吟だからだろう―――
それを掴んだザーニーイの長嘯が、夜思へと及ぶ。
□ ■ □ ■ □ ■ □
一目で始まり
二人は恋した
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六眼
七度の別れば
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