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承章
承章 第一部 第一節
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年齢を自覚することが増えた。そう思う。いや、そんなことを考えるようになったのもまた、歳をとったという証明だろうが―――
どうにか三種類目までこぎつけた化粧落としの瓶を逆さに振りながら、無意味な思考を連ねていく―――矢先それは、ふと指先に強まった刺激によって、連続を途絶えさせた。何ということはない。かたまった油の冷感は最初こそ頑なに思えたものの、ゆるゆると掌の体温に混ざるにつれて、だらしなく溶け出していく。そういうものだった。いつだって。
もみ手して泥油にまみれさせた両手を、たっぷりと時間をかけ、目頭から頬にかけて押し当てる。そして、顔の造形に沿った摩擦を加えて、しばらく。ようやっと、付け髭が鼻の下から外れる。こちらの根気を試すように上唇と鼻孔の間際にへばりついていた毛の房が、今は力なくぺとりと人差し指の先に纏りついていた。
その様子にどことなく苦笑を誘われつつも、彼女は愛想のない半眼を保ったまま、それを盥のわきにある小皿へと押しやった。付け髭は、小皿の上の先客……つまり、小太りを偽装するため両頬に詰めていた綿花と同じようにしんなりと陶磁に張り付いて、その小さな塵山の標高をわずかにだけせり上げる。
起床した時に水で顔を洗うように、化粧を終えたならば化粧落としで洗面しなければならない。どちらも、その手順に大差は無かろう。ただし、涎や目脂や起き抜けの不機嫌とは違い、自然な男装を作り上げる化粧は、洗面器に顔面を突っ込む程度では太刀打ちできない。こうして、金のかかる洗顔料やら、時間のかかる行為やら……総じて、手間のかかる有耶無耶を必要とする。そういうことだ。
整頓された机を占領する盥の水鏡は、化粧の残りかすに薄汚れてうらぶれていた。部屋の中、立って背中を丸めたまま、それを覗き込み……何の気なく、そのまま上目遣いで正面を見上げる。間際に立てられた三面鏡に反射した己の顔からは、皺の印象を大きく変えるように塗り込められていた顔料が、あらかたこそげ落ちていた。眉、鼻すじ、そこへの影の入り方。それらが素顔のそれに戻っていることに、息をついて―――ほっとしたにしては、やたら嘆息に近い感触を喉に覚えたことに、彼女は今度こそ苦笑した。男装は慣れた事だ。顔容と仕草を、それ相応に欺瞞することも。ただ、三十路も終りに至る年頃となれば、本当に慣れたことよりも、慣れたことだと口にすることで線引きする儀式ばかりが慣例化しているような気がする。
(たとえば……これか。昔はもう少し、愛嬌もあった気がするのだけど)
言い訳がましく語尾を足して、今までとは違う意味で、鏡面を介した己の顔を見返す。
頬骨の無い輪郭。そこに嵌り込んだ目玉。瞳の色は青い……というよりも、うす青い。おかげで、光の反射や変化にめっぽう弱くてたまらない。駆け出しの騎士だった頃こそ欠点としか思えなかったが、今の立場になってみれば、周囲へ鎮静を強いると評判の薄氷色は、下らない意味で騒がしい集会などで重宝することが増えた。だからこそと言うべきか、肌の色も、言ってしまえば健康的ではない―――野外を駆けずり回ったヒラ時代が大昔となってしまったことはもとより、今回の任務が追い討ちをかけているのだろう。霧撒蛾を主成分とした化粧は出来上がりが自然になる分、元来は健康的だった小麦肌を著しく脱色し、今では貧血じみた白さを目元からしみ出させていた。灰色の髪は短い。長かったのを入隊を機にごっそり切って売り飛ばして以来、伸ばすことなく数十年を数えるが、母は今でもそれを嘆いている。その母こそ、その髪の代金さえ使い潰してしまっている張本人だというのに、毎度そちらへはなんの言及も無い。しかし、これもまた慣例と言わざるを得ない―――母は貴族だ。いつだって、血統だけで貴族でいられると信じている。
(ヒュアブケニオ族ジアー家はとうに父も亡く、もはや貴族教育も疎かに、末娘を働かせなければならない状態だというのに)
だとしても。母の後姿を彩る赤錆色の頭髪のもつ威光じみた雰囲気と、それにかける彼女の自負を思い起こせば、娘の行為への悲嘆も理解できないことはないのだが―――
自然、自分自身のそれについての自覚も呼び覚まされていく。それは、慣れた不快感を辿っていくことでもあった。髪。赤い色素など皆無の、灰色の地毛。他貴族の陰口に言われるところの没落貴族と成金軍人の政略結婚の末路だが、自分に言わせれば、唯一残された亡父の遺産である。
(唯一、―――などと、今こうして軍務に就くわたしが言ったと知ったら、父はどう思うことやら)
考えてみる。費やすのは一瞬で済んだ。
(……まあ、腐れアバズレ程度では済まないでしょうね)
貴族ならば本来身に着けるはずの無い俚語で、淡々と皮肉る。
洗顔を終えた手は、軽く払う程度に水気を切った。そのしけった手で、後継第二階梯を護衛した時からそのままだった髪型を、慣れた形に整えなおす。それも終えて、鏡台のわきのいつもの場所に伸ばした手が空振りし―――そこにきてやっと、タオルを用意し忘れていたことに気付いた。
彼女は手探りで、己の軍服の襟元と、更にその奥にあるさらしの端を探った。両方とも一緒くたにはだけさせて、引き出したさらしで顔面を拭う。ついでに顔だけでなく、体つきも初老男性の固太りから中年女性へと戻るために、上着を脱いでさらしを順繰りにといていった。戦闘動作を極力阻害しないよう考案された軍式体幹被覆法はそれなりに複雑だったが、よくできた暗号を解くようなもので、順序を守れば混乱することもない。ほどいていくごとに、体格を増量するためにさらしの合間に挟み込んでいた粘油袋が床へと落下して、鈍い響きをぼたぼたと室内にばら撒いていく。そのわずかな騒音さえ除けば、場の空気は、早朝という時間帯だけで否応なく清浄ではあった―――
ここは、司左翼の騎士に与えられる寄宿舎の一室だった。利点は、簡素であるということに尽きる。寝台も机も実に支給品らしく実用性に突出した作りで、これもまた突出して古びており、唯一の私物として持ち込んだ鏡とは明確な格差があった。恐らく、部屋に備え付けられたもののなかで最も高価なのは、窓にはまった硝子板だろう―――とはいっても、たかが知れているのは、部屋の照度を見れば知れることだが。ついでに建物の向きの悪さも相成って、採光に優れているとは言いがたい。
(もっとも、窓だけに限った話でもないけれど)
と、要らぬ卑下を付け加える。壁は、隣人の騒音を完璧に妨げるほど有能でもなく、能力で言うなら天井も同レベル……あまつさえどちらも、染みを隠すために安手の板を貼り付けてある始末である。しかしそれでも、入隊時に割り当てられた六人部屋よりも、決して悪くない。それくらいには思えた。
(例えば、こういう点においては)
誰に見咎められることもない。彼女は身体の上半分を裸に剥いたまま、時間をかけて伸びをして―――いくらそうしたところで、さらしや袋の食い込んでいた痕が消えていかない胴体に、か細い笑いの衝動がこみ上げる。これもやはり、苦く。
一睡もしていない。が、苦ではない―――今のところは。これが苦になる時がくれば、自覚するのは年齢ではなく、老衰となるのか? 変装用の一式と入れ違いに、自分本来のサイズのシャツと騎士服をクローゼットから取り上げて袖を通しながら、その可能性に沈思を寄せる。が、ものの数秒も保ちはしなかった。軍人が老衰だと?
それは妄想である。老いるならば軍人ではない。己を老獪に円熟させることを怠った者は、新陳代謝される細胞のごとく、速やかに淘汰されるのだから。
(いや……今となっては、そう断言もできない。組織そのものの老衰は、そこにある細胞の代謝さえ遅らせる。老いた組織に、老いた細胞が蔓延ったところで、不自然なものか……)
老衰。原因らしい原因も無く、ただただ熟し切ったものが年月によって朽ちていく。
司右翼の惨事が脳裏を横切り、彼女は吐息した。保身の為の結託と汚職、根回し、あるいは利権の生む利潤への執着―――水と同じく、組織も、流れが滞れば汚濁せざるを得ない。貴族という限られた枠の中で行われる世代交代は、限りなく鈍磨だった。あるいは愚鈍ですらあったし、言い換えるなら陳腐でもあったろう。八年前の戦争によって生じた国益が貴族にも還元されたことにより、その傾向は強化されたといっていい。
(……翼の神威は、ご存命であれば、これを如何様に思われるのだろう?)
頭を巡らす。狭い部屋である以上に、日に何度も敬礼を向ける油彩画である。視線を上げさえすれば、あっという間にその女傑の姿絵は視界に入った―――瞬間、自然と背筋が正されゆくのを感じながら、止めることができない。無論、止めようなど思いもしないが。性別と職を同じくする者としてはまさしく、名を口にすることすら憚られる、格別の英雄―――
壁にかけられた手掌ほどの大きさのキャンバスに写る軍神は、今日も変わらず神々しい。翼の神威……頭衣ではない。王家に連なる偉人と言えばそうそう少ないはずもないが、なかでも彼女だけがかような敬称を持つに至った栄光の足跡は、語り尽くそうものならこんな朝の寸暇だけではあまりに短すぎる。とはいえ、その異名の最大の由来といえば、呆れるほど短絡だった―――つまるところ、歴世たる王家の中にあって、唯一この女王だけ髪が短いのである。いくつもの神業を成し遂げたこの生き神は、あまりの威風が害となるゆえに、肩口までしか髪を伸ばすことを許されなかったと聞く。
描かれた年齢は、自分よりもやや下か? 中肉中背。碧眼白肌。その女性の外見の何が規格外だったということもない。ただ、若かりし日の伝説の面立ちは、ありふれたパーツのもたらす馴染みやすさをことごとく圧倒するすべらかな鋭さに満ちていた。その眼差しは、いささか太めかと思われる眉と紅蓮の羽毛の中から人々を圧倒し、過ぎ行く時間の中にある不変の存在を知らしめる。故人を描いたただの小さな絵を前に、自分は芯から畏敬している。これが不変でなくてなんなのだと、シニカルな心地を含んで彼女は息をついた。ただし、無意識的にそちらに向けていた敬礼を終えてから。
不変が翼の神威の存在と同義であるとするならば、その存在から生み出された司右翼においては何であるというのか。血筋であるとするならば、血筋と共に継承されるはずであった翼の神威の操が―――どう控えめに言っても―――失われつつある今、遵守されるべき意義はどこにある? 血縁を守ることと、血縁という共同体によって培われる貴重な環境を守ること。このふたつは、平和に鬱屈した貴族において同義ではなくなった。【血肉の忠】とはとうに、司右翼が戦時下において決して前線へ赴きはしなかった言い訳くらいでしかない。翼のない身としても、現状については、複雑な念を感じて余りある……
ふと、彼女はそれを並べてみることにした。
(司左翼の軍人としては怒りの対象、血脈を同じく百英雄とする者としては嘆きの対象、国民としては不条理の対象、……貧乏人としては、顰みの対象かしら? そして―――)
そこまで思い浮かべたところで、一糸の乱れなく、着替えが完了する。
彼女は徹夜で仕上げた報告書を棚から取り上げて、小脇に抱えた姿勢を正し、部屋にきびすを返した。のだが。
立ち止まる。最後に、付け加えるべき文章が存在する。
(ヴァシャジャー唯任左総騎士の部下としては、反面教師の対象)
□ ■ □ ■ □ ■ □
空気は早朝というだけで否応なく清浄だったが、なにもそれは時間帯だけによる現象ではない。
その確たる物証が、この部屋だ。彼女は英邁の上官たるヴァシャジャー唯任左総騎士に対して拝跪を終えて、直立姿勢を取り戻した。携えた書類に妙な折れ目がついたりしなかったかを、意識だけで確認し……そしてそのことに、我ながら呆れるしかない。司右翼ならいざ知らず、ここでは書類について、情報媒体以上の意味を持たせる事は―――滅多に―――ない。よりによってこの場で再認識することでもなかったはずだ。だが、それでも思い浮かべずにおられなかったのは、自分を雑念ごと急速に静めていくような空気に対する、原始的な反発だったのだろう。
そしてこれもまた、無意味なことだったが。彼女は執務机に書類を提出して下がり、起立姿勢を正し終えてから、再度この場所を意識した。部屋を埋没させる、深い感覚。それは、朝だからではない。それだけでは、脳幹を目玉の裏までじわりと押し上げるような、この圧迫感は生じない。
この男がそれをもたらす主として相応しいかどうかは、正直、意見が分かれるところだった。族名なく、ヴァシャジャー唯任左総騎士。今はこちらを向いていない。軍服をだらしなくない程度に着崩した格好で、椅子に座らず執務机の隣に立ち尽くし、そこに置かれた書類に触れさせた己の指先を見おろしている。
青二才。無学。等々―――分かれた意見の大半を占める、それら司右翼の間然については、一理あるといわざるを得ない。事実として彼は、こうして三十歳を幾分か過ぎた辺り。市井の出である以上、教育環境の劣悪さも言うに及ばない。が、唯任左総騎士とは、一理ある程度で揺らぐ人物が就ける役職ではない。それら一理とはつまり、彼の顔の傷痕のようなものだ―――痕は残る。時に引きつり、その有り様を人は見る。だたしそれは、もはや生きる上で脅威ではない。
では、傷を受けた時、彼は脅威を覚えていたのだろうか? ありえない事のように、彼女には思えた。故先王ザシャ・ア・ルーゼを髣髴とさせる、丸みと無縁の輪郭を強調するように、顔皮を鋭利に走り抜ける三条の瘢痍。歳経た調度からにじみ出る琥珀色の気配を静かに超越し、彼はそこにいるだけで緩慢な支配を浸透させる。それは、彼の身に羽織る緋の軍服による威嚇ではなく、彼という才覚なのだろうと彼女は結論付けていた。
つまりは、こちらがそのように思考を落着させる程度には、時間を消費したということだ。その頃になってようやく、偉大な騎士は顔を上げた。書類をめくることなく、こちらへ目角を移してくる。
「動きは?」
「見られました」
相手がこちらを見ているため、視線をそらすことは出来ない。それでも、彼の手元にある書類に欠陥が無かったかどうか、瞬く間に不安が忍び込んでくるのも無視できなかった。彼が目にした一枚目だけでも確かめたかったが、できようはずもない。
書面はともかく、質問の意図まで分からないということはなかった。簡捷に報告を続ける。
「これは、遺体の移送と、【血肉の約定】に関連する旗司誓とのやり取りをほぼ同時刻に行ったため、対処するには予想外の分散を強いられることとなった影響であると推測しますが、―――」
「動きについて、といったはずだ。求められる以外は慎んでおけ」
「は。申し訳ありません」
自分で思った以上に、動揺していたらしい。軍人の鉄則について最高責任者から戒飭を受け、彼女は羞恥を顔面から追い出すために頬を力ませた。
「武装犯罪者はまずイーニア・ルブ・ゲインニャ迄葬送護衛隊を、それとはわずかに時間を挟んでのちに<彼に凝立する聖杯>を強襲しています」
「首尾は」
「完璧です」
「成果は」
「……不完全です」
「ならばまず、首尾を聞こうか」
せりふを澱ませた彼女に目もくれず、割り切った口ぶりで促してくる。彼女は、ここ数日で脳裏に叩き込まれた情報をかいつまんで口に出した。
「迄葬送護衛隊、<彼に凝立する聖杯>共に、武装犯罪者側が敗北。こちら、旗司誓共、被害は軽微。無視してよろしいかと」
「ふむ。完璧か。ならば成果だが。不完全と言ったな?」
「迄葬送護衛隊を襲った武装犯罪者は、その理由について、『死んだ貴族の副葬品を狙った』との証言を頑として覆しませんでした。司右翼における悔踏区域外輪を所轄に含む軍性希薄部隊……すなわち交衢外逸監督警察へと身柄を引き渡されてからも、調書を確認する限り、主旨がぶれる気配はありません。武装犯罪者と直接対峙した隊員からも聞き取り調査を行いましたが、―――結論として、あの武装犯罪者ら自身は、生粋の戒域住民とみてよろしいかと」
「この日この時間に、死んだ貴族を親元に送る箱庭の兵隊が、無謀にも悔踏区域外輪を横切る、……という幸運な情報をもたらした天使について、彼らは話してはくれない?」
「は―――ありふれた武装犯罪者、しかも戒域住民のそれへの、通り一遍の取調べでは、情報源まで洗いざらい供述することはあり得ないかと……あの、武装犯罪者には、一見して分かる赤い髪の者も含まれておりましたので。一人だけですが」
天使? 予想外の単語に虚を突かれ、用意していた言葉を口ごもる。ヴァシャジャーは特に変化なく、いつものように目蓋を半分下ろして彼女のせりふを見送っているだけだ。むしろそこに、してやったりと含み笑いでも浮かんでいれば、簡単に仕切りなおせたのだろうが―――
それが期待できない以上、彼女はどこか持て余すような感触を喉骨に残しながら、報告を続けるしかなかった。
「今は、<彼に凝立する聖杯>より引き渡された武装犯罪者のうち、砂臭くない者について、重点的に情報収集を行っております」
「砂臭くない者、か」
「は。迄葬送護衛隊を襲った武装犯罪者らには存在しませんでしたが、<彼に凝立する聖杯>にそうした多勢には、戒域住民とはいいがたい人物が紛れていたとのことです」
それは何故か?
想定外の分散を強いられ、不足した人員を急遽補ったため―――あるいは、武装犯罪者の黒幕が、後継第二階梯への近接は自らをもって下すべしとした結果―――それか、単純に、司左翼より旗司誓への警戒を怠ったゆえに。武装犯罪者の不自然さの理由について、立てられる推論は幾らでもあったし、考えを進めていく余裕もあった。ただし、その余裕を推論に費やして良いものかどうか、決定を下すのは自分ではない。彼だ。
軍人は、自らの意思に基づいた干渉をしてはならない。現実におこる枝葉末節について個々が判断と言論と行動を持ち込むなら、軍の自壊に際限はない。軍人の極致とはただ一点、人間らしく在らぬことなのだ……ただ、極地ゆえに誰も達する事はなく、誰もが目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざすことによって軍務を全うしていく。
誰よりも極致近くへ達した者へ、脳を委ねることによって。
唯任左総騎士が、唇を開く。
「何名だ」
彼女もまた、砂臭くないと称した者共について、説明を続けた。
「交衢外逸監督警察に引き渡された武装犯罪者四十七名のうち、二名です」
「わたしは、引き渡されてのち隠蔽された人数も含めた予測を訊いている。何名だ」
求められるならば、否応もない。彼女は、私見の緘口を解いた。
「未知数です。交衢外逸監督警察は、元を辿れば司右翼。我々を毛嫌いする気風は、末端においてより強固となります。そもそも彼らにとってみれば、今回の事件はあまりにありふれすぎているのです。いつものように旗司誓から持ち込まれた自国の武装犯罪者を、いつものように逮捕しただけのこと……その過程に司左翼が干渉するとなると、彼らのおそろしいまでの警戒とプライドを煽る危険性を看過することはできません。二名との確認が取れたことだけでも、奇跡的かと」
「だろうな。迄葬送護衛隊についても、イーニア・ルブ・ゲインニャ嬢の居宅がかなりの都市部外にあることから、ほぼ司左翼にて隊士を選抜し、部隊を編成することが出来た。過去にもこういったケースは珍しくなく、今回その踏襲に見せかけることができたこととて、とてつもない奇跡だ。司右翼だけが悔踏区域外輪で赤毛の武装犯罪者と鉢合わせしようものなら、棺からくすねた見栄えする小物をひとつふたつ握らせて追い返し、返す掌で事件そのものを握り潰していただろう」
際どい言い回しでせりふを継いでみせ、ヴァシャージャーが僅かにかぶりを振った。それだけで司右翼への嘲罵を振り払うと、常にそうあるように淡々と評価を続行する。
「いかな少人数とはいえ司右翼が監督する中、交逸警察に引き渡すまでの不自由な時間で、これだけの働きをしてくれた諸君らの在り様は、その奇跡に充分に応えるものであったと思っている―――だからこそ、もう一度訊く。何名だ?」
唯任左総騎士は、次にははっきりと、こちらに対して疑問を重ねてきた。その理由に、想像をめぐらす。これ以上は、報告書の口頭確認といえる範囲を超えつつある。少なくとも、このような公式とは言いがたい場で進めるべき議論ではない。いや。
そもそも、進めるに求められる力量が、自分にはない。認めざるをえず、彼女は忸怩を銜みながら、それを言うしかなかった。
「未知数です―――慙愧に耐えませんが」
相手は、特に反応を見せなかった。ただ、いったんこちらから、机の隅へと熟視を外してみせる。部下の愚鈍さに退屈したのだろう。
ともかくその隙に、彼女は書類を見やって―――それは遠目では、ミスの有無どころか一文すら判読できないことを確認するだけで終わった―――ついで、相手と同じ方向を盗み見た。黒い長髪の向こうに見え隠れする双眸が見下ろしていたのは、正確には机の隅でなく、そこに置かれた奇妙な立方体である……自分の立ち位置と、その物体と机の色合いの一致のせいで、そんなものがあったこと自体、今まで気付かなかったが。それは大人の掌に収まる程度の大きさで、部屋の飾りとしては特筆すべきものもなく、かといって文鎮にしては造形に無駄が多い―――少なくとも彼女には、巨大なこんぺいとうか、あるいはこんぺいとうをつぎはぎして無理に巨大にしたような物を文鎮にする司左翼の最高責任者など、冗談にしても悪趣味だった。
観察する意図で、改めてそれを見る。家具ではない。筆記用具でも―――ならば文鎮でも―――ない。恐らく、とっちゃん坊やが子どもらしからぬものを作るまいとして図工に取り掛かったならば、こういったものに行き着くのだろう。全く根拠はないが。
(まさか過去、彼がそうだったということもあるまい)
とりあえず、これも根拠無く否定しておく。まあ仮に、唯任左総騎士が昔作った意味不明の工作を部屋に持ち込んだとしても、何の問題もなかろうが。
となれば、これは本当に、子どもの工作ということか? それもまた現実味に欠ける。随分と前から囁かれ続けているヴァシャージャーの婚外子にまつわる飛語を、今更真に受けるのも馬鹿馬鹿しい。
彼が視線を上へあげた。こちらへ目をあわせてくる予兆に合わせ、彼女もまた注意を引き戻す。しかし相手はこちらではなく、そのまま前の壁を見るともなく見詰めているだけだった―――いや、壁ではない。壁の向こうですらないかもしれない。
八年前。激戦区を潜り抜ける際には部下として配属されていたヴァシャージャーは、彼女を追い抜いて、唯任左総騎士まで上り詰めてなお、ひどく遠いどこかをこうして見やる。癖なのだろう。男女関係の軽薄さに関連した噂話がないにもかかわらず、依然として婚外子のそれが絶えないという矛盾は、それが原因かもしれない。
と。
「ならば今一度、ウィビン・ラマシヲ唯任右総騎士との会談を望むか―――」
「おやめください、閣下!」
口走る。それは思考に根付いたものでなく、もっと反射的なものだった。
自覚した頃には遅かった。英雄の視野は、とっくに彼女を捉え終えている。
「申し訳ありません。出すぎた真似を致しました」
「謝罪はいい。現にこうしてわたしは若造で、家名のみを帯びる身だ。だというのに、現にこうして、唯任左総騎士に座す以上はな」
ひとり頷いて、彼はその黒い瞳に、色素とは違う暗い色を深めた。
「後継第二階梯に、唯任右総騎士が附き、後継第三階梯に唯任左総騎士が附いたのは慣例に則っただけのことで、なんら後ろ暗いことはないが、だからといって彼がそれらを正当に鑑みるとは限らんからな。特に、後継第二階梯が不在の今、立て続けにこちらから会議を呼びかけられるという状況下においては、どうだろうか」
視線を外すことはできない。相手の眼差しはいつまでも、今先ほど彼が口にしかけたことの重大性について、こちらの誤解を誘発しかねないほど静まり返っていた。その印象を補強するかのように、低く落ち着いた声音が、強弱なく弁舌を綴っていく。
「想像を絶する手管でもって司左翼の最高位まで成り上がった貧賤が驕り高ぶった挙句、後継第三階梯が王宮の実権を握っているのをいいことに司右翼まで弄そうと企てている……との憤激に突き動かされたとて、わたしは驚かんよ」
「それが誤りであるとすべからく悟るよう、自分以下一同、より一層に司左翼の質を上げるべく邁進し―――」
「理解している」
そしてそのまま、彼は続けた。
「そしてそういった現状と同じくらい、貴公の発言が無罪であることも理解しているつもりでいる」
ヴァシャージャーがそこで小休止を挟んだため、せりふにほんの少しの間が開いた。吐息は聞こえない。表情も変わっていない。顔に出ない程度に笑ったのか。そう思えないこともない。
「貴公に感謝を。ヒュアブケニオ・ジアー唯任左総騎士継次」
「は―――」
堪えきれず、彼女は敬礼した。唯任左総騎士に次ぐ己の役職を、己の名と共に口にされ、改めて身が引き締まるのを自覚する。のだが。
「公私共に」
「は?」
付け足された一言に見当がつかず、素のまま絶句する。彼がその無作法に気付かなかったはずがなかろうが、そんなことはおくびにも出さなかった。ヴァシャージャーは胸まで持ち上げた二本指をわずかに円く振ってみせ、それで脳裏のイメージを確かにし終えたのか、満足げに腕を戻した。付言してくる。
「貴公から譲り受けた、あの宝石のことだ。ツェラシェルイシィ・アムアイニ―――世界樹より溶け出る雫、という名前を聞いたときは信じがたかったが、知れば知るほどに素晴らしい。先祖代々の紅玉というのを疑っていたわけではないが、それでも良い方向に期待が裏切られた嬉しさは、貴公に伝えておきたいと思えるほど大きかった」
「勿体無きお言葉、身に余る光栄です。無理を聞き届けていただいたわたしこそ、充分すぎる代金に、一門の危機を救うことが出来ました。あれが閣下のお気に召されるならば、これ以上の幸いはありません」
ようやっと合点がいき、彼女は敬礼を正した。ついに危機的な貧窮に陥った実家を説き伏せて家宝を持ち出したものの、高値過ぎて逆に買い手がつかず途方に暮れていたところを彼に救われた日のことは、数秒前のことのように覚えている。
そして、これもまた、ようやっとというべきか。彼女は、感情を感じさせない、唯任左総騎士の目を覆うように、そこに映りこんでいる自分の姿に気付いた。彼の目に反射する、彼の分まで穴埋めして余りあるだろう豊かな想念を読み取れる己の瞳は、軍人としてあるべき姿ではない。
が、それは、人間としては恥ずべき姿ではない。
「わたくしめも」
震えて、小声になっていた。改める。
「わたくしめも、僭越ながら、閣下に感謝しつづけおります―――公私、共に」
持ちうる限りの万感を込めて、彼女はその言葉を届けた。
ヒュアブケニオ・ジアーは、無二革命に根ざす華胄でありながらも、没落を免れ得なかった綴りのひとつである。
家門が顕微なだけであれば、彼女は他の貴族と同じく、一生を緩慢に腐り落としていくだけだったろう―――たとえ、赤毛でない彼女が人生を貴族然と遂げようと試みた場合、それが総じて悲運に苛まれる運命であろうとしてもだ―――が、生まれ持った有為と矜持が、それを許しはしなかった。彼女は、灰色頭の赤貧という絶好のひまつぶしを司右翼に与えてまで高給を得ることを良しとせず、己の血統から言えば本来は無縁であるはずの、司左翼への入隊を志願したのである。
彼女の劣等感と自尊心を、ヴァシャジャーは許した。のみならず評価し、今回に至っては、女であること、貴族であること、司左翼であること……本来ならば欠点として捉えられるはずの彼女の持ちうる全ての立場を、最大限に活用する任務を与えた。
彼は理解しているのだろうか? 一人の人間を、真に救ったということを。
「それについても、共々、理解している」
栄光の騎士の短い呟きは、こちらの言葉に遅れて返事をしただけであったのだろう。が。
無言の中で、彼女は言葉にならなかったものを噛み締めた。
軍人は、自らの意思を根拠に干渉してはならない。
それについても、彼は、彼女以上に理解しているらしかった。つまりこちらへ向き直ると、口の端の傷跡が揺れる程度にほほ笑んでみせる。数々に超過した会話と、それについての軍規を論う手間を、これで清算したことにしておこうと示したらしい。
ゆえに、示し終えるとすぐに消えた。司左翼を統べる司令官としてこれ以上ない有能な面差しが、瞬時に取り戻される。
「書面にて委細を確認し、イヅェン・ア・ルーゼ後継第三階梯まで報告しよう。ご苦労だった」
「は」
彼女はそれだけを受け、そして部屋を退室した。
彼に呼ばれることの無い、オキュスニという我が名。彼女はそれをかみ殺す奥歯に、確固たる栄誉を感じていた―――自ら望んで体得した能力でもない性別が透けて見える名前ごしの評価は、たとえそうでなくとも当てこすられているように感じて、真っ当に受け止められるものではない。翼の神威も、あるいはそうであったのか? かの女王が、夭折した兄に代わって王位を継ぐために官位を退いたのちも、軍衣を平服として女の装いを嫌ったと耳にしたことはある……
そこで、確信も持てないまま自分と偉人を並べてしまった厚かましさに気付き、またしても自戒を重ねる。つまりは自分は未熟なのだと分かっている程度には、オキュスニ・ヒュアブケニオ・ジアー唯任左総騎士継次は未熟を脱しつつあった。
どうにか三種類目までこぎつけた化粧落としの瓶を逆さに振りながら、無意味な思考を連ねていく―――矢先それは、ふと指先に強まった刺激によって、連続を途絶えさせた。何ということはない。かたまった油の冷感は最初こそ頑なに思えたものの、ゆるゆると掌の体温に混ざるにつれて、だらしなく溶け出していく。そういうものだった。いつだって。
もみ手して泥油にまみれさせた両手を、たっぷりと時間をかけ、目頭から頬にかけて押し当てる。そして、顔の造形に沿った摩擦を加えて、しばらく。ようやっと、付け髭が鼻の下から外れる。こちらの根気を試すように上唇と鼻孔の間際にへばりついていた毛の房が、今は力なくぺとりと人差し指の先に纏りついていた。
その様子にどことなく苦笑を誘われつつも、彼女は愛想のない半眼を保ったまま、それを盥のわきにある小皿へと押しやった。付け髭は、小皿の上の先客……つまり、小太りを偽装するため両頬に詰めていた綿花と同じようにしんなりと陶磁に張り付いて、その小さな塵山の標高をわずかにだけせり上げる。
起床した時に水で顔を洗うように、化粧を終えたならば化粧落としで洗面しなければならない。どちらも、その手順に大差は無かろう。ただし、涎や目脂や起き抜けの不機嫌とは違い、自然な男装を作り上げる化粧は、洗面器に顔面を突っ込む程度では太刀打ちできない。こうして、金のかかる洗顔料やら、時間のかかる行為やら……総じて、手間のかかる有耶無耶を必要とする。そういうことだ。
整頓された机を占領する盥の水鏡は、化粧の残りかすに薄汚れてうらぶれていた。部屋の中、立って背中を丸めたまま、それを覗き込み……何の気なく、そのまま上目遣いで正面を見上げる。間際に立てられた三面鏡に反射した己の顔からは、皺の印象を大きく変えるように塗り込められていた顔料が、あらかたこそげ落ちていた。眉、鼻すじ、そこへの影の入り方。それらが素顔のそれに戻っていることに、息をついて―――ほっとしたにしては、やたら嘆息に近い感触を喉に覚えたことに、彼女は今度こそ苦笑した。男装は慣れた事だ。顔容と仕草を、それ相応に欺瞞することも。ただ、三十路も終りに至る年頃となれば、本当に慣れたことよりも、慣れたことだと口にすることで線引きする儀式ばかりが慣例化しているような気がする。
(たとえば……これか。昔はもう少し、愛嬌もあった気がするのだけど)
言い訳がましく語尾を足して、今までとは違う意味で、鏡面を介した己の顔を見返す。
頬骨の無い輪郭。そこに嵌り込んだ目玉。瞳の色は青い……というよりも、うす青い。おかげで、光の反射や変化にめっぽう弱くてたまらない。駆け出しの騎士だった頃こそ欠点としか思えなかったが、今の立場になってみれば、周囲へ鎮静を強いると評判の薄氷色は、下らない意味で騒がしい集会などで重宝することが増えた。だからこそと言うべきか、肌の色も、言ってしまえば健康的ではない―――野外を駆けずり回ったヒラ時代が大昔となってしまったことはもとより、今回の任務が追い討ちをかけているのだろう。霧撒蛾を主成分とした化粧は出来上がりが自然になる分、元来は健康的だった小麦肌を著しく脱色し、今では貧血じみた白さを目元からしみ出させていた。灰色の髪は短い。長かったのを入隊を機にごっそり切って売り飛ばして以来、伸ばすことなく数十年を数えるが、母は今でもそれを嘆いている。その母こそ、その髪の代金さえ使い潰してしまっている張本人だというのに、毎度そちらへはなんの言及も無い。しかし、これもまた慣例と言わざるを得ない―――母は貴族だ。いつだって、血統だけで貴族でいられると信じている。
(ヒュアブケニオ族ジアー家はとうに父も亡く、もはや貴族教育も疎かに、末娘を働かせなければならない状態だというのに)
だとしても。母の後姿を彩る赤錆色の頭髪のもつ威光じみた雰囲気と、それにかける彼女の自負を思い起こせば、娘の行為への悲嘆も理解できないことはないのだが―――
自然、自分自身のそれについての自覚も呼び覚まされていく。それは、慣れた不快感を辿っていくことでもあった。髪。赤い色素など皆無の、灰色の地毛。他貴族の陰口に言われるところの没落貴族と成金軍人の政略結婚の末路だが、自分に言わせれば、唯一残された亡父の遺産である。
(唯一、―――などと、今こうして軍務に就くわたしが言ったと知ったら、父はどう思うことやら)
考えてみる。費やすのは一瞬で済んだ。
(……まあ、腐れアバズレ程度では済まないでしょうね)
貴族ならば本来身に着けるはずの無い俚語で、淡々と皮肉る。
洗顔を終えた手は、軽く払う程度に水気を切った。そのしけった手で、後継第二階梯を護衛した時からそのままだった髪型を、慣れた形に整えなおす。それも終えて、鏡台のわきのいつもの場所に伸ばした手が空振りし―――そこにきてやっと、タオルを用意し忘れていたことに気付いた。
彼女は手探りで、己の軍服の襟元と、更にその奥にあるさらしの端を探った。両方とも一緒くたにはだけさせて、引き出したさらしで顔面を拭う。ついでに顔だけでなく、体つきも初老男性の固太りから中年女性へと戻るために、上着を脱いでさらしを順繰りにといていった。戦闘動作を極力阻害しないよう考案された軍式体幹被覆法はそれなりに複雑だったが、よくできた暗号を解くようなもので、順序を守れば混乱することもない。ほどいていくごとに、体格を増量するためにさらしの合間に挟み込んでいた粘油袋が床へと落下して、鈍い響きをぼたぼたと室内にばら撒いていく。そのわずかな騒音さえ除けば、場の空気は、早朝という時間帯だけで否応なく清浄ではあった―――
ここは、司左翼の騎士に与えられる寄宿舎の一室だった。利点は、簡素であるということに尽きる。寝台も机も実に支給品らしく実用性に突出した作りで、これもまた突出して古びており、唯一の私物として持ち込んだ鏡とは明確な格差があった。恐らく、部屋に備え付けられたもののなかで最も高価なのは、窓にはまった硝子板だろう―――とはいっても、たかが知れているのは、部屋の照度を見れば知れることだが。ついでに建物の向きの悪さも相成って、採光に優れているとは言いがたい。
(もっとも、窓だけに限った話でもないけれど)
と、要らぬ卑下を付け加える。壁は、隣人の騒音を完璧に妨げるほど有能でもなく、能力で言うなら天井も同レベル……あまつさえどちらも、染みを隠すために安手の板を貼り付けてある始末である。しかしそれでも、入隊時に割り当てられた六人部屋よりも、決して悪くない。それくらいには思えた。
(例えば、こういう点においては)
誰に見咎められることもない。彼女は身体の上半分を裸に剥いたまま、時間をかけて伸びをして―――いくらそうしたところで、さらしや袋の食い込んでいた痕が消えていかない胴体に、か細い笑いの衝動がこみ上げる。これもやはり、苦く。
一睡もしていない。が、苦ではない―――今のところは。これが苦になる時がくれば、自覚するのは年齢ではなく、老衰となるのか? 変装用の一式と入れ違いに、自分本来のサイズのシャツと騎士服をクローゼットから取り上げて袖を通しながら、その可能性に沈思を寄せる。が、ものの数秒も保ちはしなかった。軍人が老衰だと?
それは妄想である。老いるならば軍人ではない。己を老獪に円熟させることを怠った者は、新陳代謝される細胞のごとく、速やかに淘汰されるのだから。
(いや……今となっては、そう断言もできない。組織そのものの老衰は、そこにある細胞の代謝さえ遅らせる。老いた組織に、老いた細胞が蔓延ったところで、不自然なものか……)
老衰。原因らしい原因も無く、ただただ熟し切ったものが年月によって朽ちていく。
司右翼の惨事が脳裏を横切り、彼女は吐息した。保身の為の結託と汚職、根回し、あるいは利権の生む利潤への執着―――水と同じく、組織も、流れが滞れば汚濁せざるを得ない。貴族という限られた枠の中で行われる世代交代は、限りなく鈍磨だった。あるいは愚鈍ですらあったし、言い換えるなら陳腐でもあったろう。八年前の戦争によって生じた国益が貴族にも還元されたことにより、その傾向は強化されたといっていい。
(……翼の神威は、ご存命であれば、これを如何様に思われるのだろう?)
頭を巡らす。狭い部屋である以上に、日に何度も敬礼を向ける油彩画である。視線を上げさえすれば、あっという間にその女傑の姿絵は視界に入った―――瞬間、自然と背筋が正されゆくのを感じながら、止めることができない。無論、止めようなど思いもしないが。性別と職を同じくする者としてはまさしく、名を口にすることすら憚られる、格別の英雄―――
壁にかけられた手掌ほどの大きさのキャンバスに写る軍神は、今日も変わらず神々しい。翼の神威……頭衣ではない。王家に連なる偉人と言えばそうそう少ないはずもないが、なかでも彼女だけがかような敬称を持つに至った栄光の足跡は、語り尽くそうものならこんな朝の寸暇だけではあまりに短すぎる。とはいえ、その異名の最大の由来といえば、呆れるほど短絡だった―――つまるところ、歴世たる王家の中にあって、唯一この女王だけ髪が短いのである。いくつもの神業を成し遂げたこの生き神は、あまりの威風が害となるゆえに、肩口までしか髪を伸ばすことを許されなかったと聞く。
描かれた年齢は、自分よりもやや下か? 中肉中背。碧眼白肌。その女性の外見の何が規格外だったということもない。ただ、若かりし日の伝説の面立ちは、ありふれたパーツのもたらす馴染みやすさをことごとく圧倒するすべらかな鋭さに満ちていた。その眼差しは、いささか太めかと思われる眉と紅蓮の羽毛の中から人々を圧倒し、過ぎ行く時間の中にある不変の存在を知らしめる。故人を描いたただの小さな絵を前に、自分は芯から畏敬している。これが不変でなくてなんなのだと、シニカルな心地を含んで彼女は息をついた。ただし、無意識的にそちらに向けていた敬礼を終えてから。
不変が翼の神威の存在と同義であるとするならば、その存在から生み出された司右翼においては何であるというのか。血筋であるとするならば、血筋と共に継承されるはずであった翼の神威の操が―――どう控えめに言っても―――失われつつある今、遵守されるべき意義はどこにある? 血縁を守ることと、血縁という共同体によって培われる貴重な環境を守ること。このふたつは、平和に鬱屈した貴族において同義ではなくなった。【血肉の忠】とはとうに、司右翼が戦時下において決して前線へ赴きはしなかった言い訳くらいでしかない。翼のない身としても、現状については、複雑な念を感じて余りある……
ふと、彼女はそれを並べてみることにした。
(司左翼の軍人としては怒りの対象、血脈を同じく百英雄とする者としては嘆きの対象、国民としては不条理の対象、……貧乏人としては、顰みの対象かしら? そして―――)
そこまで思い浮かべたところで、一糸の乱れなく、着替えが完了する。
彼女は徹夜で仕上げた報告書を棚から取り上げて、小脇に抱えた姿勢を正し、部屋にきびすを返した。のだが。
立ち止まる。最後に、付け加えるべき文章が存在する。
(ヴァシャジャー唯任左総騎士の部下としては、反面教師の対象)
□ ■ □ ■ □ ■ □
空気は早朝というだけで否応なく清浄だったが、なにもそれは時間帯だけによる現象ではない。
その確たる物証が、この部屋だ。彼女は英邁の上官たるヴァシャジャー唯任左総騎士に対して拝跪を終えて、直立姿勢を取り戻した。携えた書類に妙な折れ目がついたりしなかったかを、意識だけで確認し……そしてそのことに、我ながら呆れるしかない。司右翼ならいざ知らず、ここでは書類について、情報媒体以上の意味を持たせる事は―――滅多に―――ない。よりによってこの場で再認識することでもなかったはずだ。だが、それでも思い浮かべずにおられなかったのは、自分を雑念ごと急速に静めていくような空気に対する、原始的な反発だったのだろう。
そしてこれもまた、無意味なことだったが。彼女は執務机に書類を提出して下がり、起立姿勢を正し終えてから、再度この場所を意識した。部屋を埋没させる、深い感覚。それは、朝だからではない。それだけでは、脳幹を目玉の裏までじわりと押し上げるような、この圧迫感は生じない。
この男がそれをもたらす主として相応しいかどうかは、正直、意見が分かれるところだった。族名なく、ヴァシャジャー唯任左総騎士。今はこちらを向いていない。軍服をだらしなくない程度に着崩した格好で、椅子に座らず執務机の隣に立ち尽くし、そこに置かれた書類に触れさせた己の指先を見おろしている。
青二才。無学。等々―――分かれた意見の大半を占める、それら司右翼の間然については、一理あるといわざるを得ない。事実として彼は、こうして三十歳を幾分か過ぎた辺り。市井の出である以上、教育環境の劣悪さも言うに及ばない。が、唯任左総騎士とは、一理ある程度で揺らぐ人物が就ける役職ではない。それら一理とはつまり、彼の顔の傷痕のようなものだ―――痕は残る。時に引きつり、その有り様を人は見る。だたしそれは、もはや生きる上で脅威ではない。
では、傷を受けた時、彼は脅威を覚えていたのだろうか? ありえない事のように、彼女には思えた。故先王ザシャ・ア・ルーゼを髣髴とさせる、丸みと無縁の輪郭を強調するように、顔皮を鋭利に走り抜ける三条の瘢痍。歳経た調度からにじみ出る琥珀色の気配を静かに超越し、彼はそこにいるだけで緩慢な支配を浸透させる。それは、彼の身に羽織る緋の軍服による威嚇ではなく、彼という才覚なのだろうと彼女は結論付けていた。
つまりは、こちらがそのように思考を落着させる程度には、時間を消費したということだ。その頃になってようやく、偉大な騎士は顔を上げた。書類をめくることなく、こちらへ目角を移してくる。
「動きは?」
「見られました」
相手がこちらを見ているため、視線をそらすことは出来ない。それでも、彼の手元にある書類に欠陥が無かったかどうか、瞬く間に不安が忍び込んでくるのも無視できなかった。彼が目にした一枚目だけでも確かめたかったが、できようはずもない。
書面はともかく、質問の意図まで分からないということはなかった。簡捷に報告を続ける。
「これは、遺体の移送と、【血肉の約定】に関連する旗司誓とのやり取りをほぼ同時刻に行ったため、対処するには予想外の分散を強いられることとなった影響であると推測しますが、―――」
「動きについて、といったはずだ。求められる以外は慎んでおけ」
「は。申し訳ありません」
自分で思った以上に、動揺していたらしい。軍人の鉄則について最高責任者から戒飭を受け、彼女は羞恥を顔面から追い出すために頬を力ませた。
「武装犯罪者はまずイーニア・ルブ・ゲインニャ迄葬送護衛隊を、それとはわずかに時間を挟んでのちに<彼に凝立する聖杯>を強襲しています」
「首尾は」
「完璧です」
「成果は」
「……不完全です」
「ならばまず、首尾を聞こうか」
せりふを澱ませた彼女に目もくれず、割り切った口ぶりで促してくる。彼女は、ここ数日で脳裏に叩き込まれた情報をかいつまんで口に出した。
「迄葬送護衛隊、<彼に凝立する聖杯>共に、武装犯罪者側が敗北。こちら、旗司誓共、被害は軽微。無視してよろしいかと」
「ふむ。完璧か。ならば成果だが。不完全と言ったな?」
「迄葬送護衛隊を襲った武装犯罪者は、その理由について、『死んだ貴族の副葬品を狙った』との証言を頑として覆しませんでした。司右翼における悔踏区域外輪を所轄に含む軍性希薄部隊……すなわち交衢外逸監督警察へと身柄を引き渡されてからも、調書を確認する限り、主旨がぶれる気配はありません。武装犯罪者と直接対峙した隊員からも聞き取り調査を行いましたが、―――結論として、あの武装犯罪者ら自身は、生粋の戒域住民とみてよろしいかと」
「この日この時間に、死んだ貴族を親元に送る箱庭の兵隊が、無謀にも悔踏区域外輪を横切る、……という幸運な情報をもたらした天使について、彼らは話してはくれない?」
「は―――ありふれた武装犯罪者、しかも戒域住民のそれへの、通り一遍の取調べでは、情報源まで洗いざらい供述することはあり得ないかと……あの、武装犯罪者には、一見して分かる赤い髪の者も含まれておりましたので。一人だけですが」
天使? 予想外の単語に虚を突かれ、用意していた言葉を口ごもる。ヴァシャジャーは特に変化なく、いつものように目蓋を半分下ろして彼女のせりふを見送っているだけだ。むしろそこに、してやったりと含み笑いでも浮かんでいれば、簡単に仕切りなおせたのだろうが―――
それが期待できない以上、彼女はどこか持て余すような感触を喉骨に残しながら、報告を続けるしかなかった。
「今は、<彼に凝立する聖杯>より引き渡された武装犯罪者のうち、砂臭くない者について、重点的に情報収集を行っております」
「砂臭くない者、か」
「は。迄葬送護衛隊を襲った武装犯罪者らには存在しませんでしたが、<彼に凝立する聖杯>にそうした多勢には、戒域住民とはいいがたい人物が紛れていたとのことです」
それは何故か?
想定外の分散を強いられ、不足した人員を急遽補ったため―――あるいは、武装犯罪者の黒幕が、後継第二階梯への近接は自らをもって下すべしとした結果―――それか、単純に、司左翼より旗司誓への警戒を怠ったゆえに。武装犯罪者の不自然さの理由について、立てられる推論は幾らでもあったし、考えを進めていく余裕もあった。ただし、その余裕を推論に費やして良いものかどうか、決定を下すのは自分ではない。彼だ。
軍人は、自らの意思に基づいた干渉をしてはならない。現実におこる枝葉末節について個々が判断と言論と行動を持ち込むなら、軍の自壊に際限はない。軍人の極致とはただ一点、人間らしく在らぬことなのだ……ただ、極地ゆえに誰も達する事はなく、誰もが目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉ざすことによって軍務を全うしていく。
誰よりも極致近くへ達した者へ、脳を委ねることによって。
唯任左総騎士が、唇を開く。
「何名だ」
彼女もまた、砂臭くないと称した者共について、説明を続けた。
「交衢外逸監督警察に引き渡された武装犯罪者四十七名のうち、二名です」
「わたしは、引き渡されてのち隠蔽された人数も含めた予測を訊いている。何名だ」
求められるならば、否応もない。彼女は、私見の緘口を解いた。
「未知数です。交衢外逸監督警察は、元を辿れば司右翼。我々を毛嫌いする気風は、末端においてより強固となります。そもそも彼らにとってみれば、今回の事件はあまりにありふれすぎているのです。いつものように旗司誓から持ち込まれた自国の武装犯罪者を、いつものように逮捕しただけのこと……その過程に司左翼が干渉するとなると、彼らのおそろしいまでの警戒とプライドを煽る危険性を看過することはできません。二名との確認が取れたことだけでも、奇跡的かと」
「だろうな。迄葬送護衛隊についても、イーニア・ルブ・ゲインニャ嬢の居宅がかなりの都市部外にあることから、ほぼ司左翼にて隊士を選抜し、部隊を編成することが出来た。過去にもこういったケースは珍しくなく、今回その踏襲に見せかけることができたこととて、とてつもない奇跡だ。司右翼だけが悔踏区域外輪で赤毛の武装犯罪者と鉢合わせしようものなら、棺からくすねた見栄えする小物をひとつふたつ握らせて追い返し、返す掌で事件そのものを握り潰していただろう」
際どい言い回しでせりふを継いでみせ、ヴァシャージャーが僅かにかぶりを振った。それだけで司右翼への嘲罵を振り払うと、常にそうあるように淡々と評価を続行する。
「いかな少人数とはいえ司右翼が監督する中、交逸警察に引き渡すまでの不自由な時間で、これだけの働きをしてくれた諸君らの在り様は、その奇跡に充分に応えるものであったと思っている―――だからこそ、もう一度訊く。何名だ?」
唯任左総騎士は、次にははっきりと、こちらに対して疑問を重ねてきた。その理由に、想像をめぐらす。これ以上は、報告書の口頭確認といえる範囲を超えつつある。少なくとも、このような公式とは言いがたい場で進めるべき議論ではない。いや。
そもそも、進めるに求められる力量が、自分にはない。認めざるをえず、彼女は忸怩を銜みながら、それを言うしかなかった。
「未知数です―――慙愧に耐えませんが」
相手は、特に反応を見せなかった。ただ、いったんこちらから、机の隅へと熟視を外してみせる。部下の愚鈍さに退屈したのだろう。
ともかくその隙に、彼女は書類を見やって―――それは遠目では、ミスの有無どころか一文すら判読できないことを確認するだけで終わった―――ついで、相手と同じ方向を盗み見た。黒い長髪の向こうに見え隠れする双眸が見下ろしていたのは、正確には机の隅でなく、そこに置かれた奇妙な立方体である……自分の立ち位置と、その物体と机の色合いの一致のせいで、そんなものがあったこと自体、今まで気付かなかったが。それは大人の掌に収まる程度の大きさで、部屋の飾りとしては特筆すべきものもなく、かといって文鎮にしては造形に無駄が多い―――少なくとも彼女には、巨大なこんぺいとうか、あるいはこんぺいとうをつぎはぎして無理に巨大にしたような物を文鎮にする司左翼の最高責任者など、冗談にしても悪趣味だった。
観察する意図で、改めてそれを見る。家具ではない。筆記用具でも―――ならば文鎮でも―――ない。恐らく、とっちゃん坊やが子どもらしからぬものを作るまいとして図工に取り掛かったならば、こういったものに行き着くのだろう。全く根拠はないが。
(まさか過去、彼がそうだったということもあるまい)
とりあえず、これも根拠無く否定しておく。まあ仮に、唯任左総騎士が昔作った意味不明の工作を部屋に持ち込んだとしても、何の問題もなかろうが。
となれば、これは本当に、子どもの工作ということか? それもまた現実味に欠ける。随分と前から囁かれ続けているヴァシャージャーの婚外子にまつわる飛語を、今更真に受けるのも馬鹿馬鹿しい。
彼が視線を上へあげた。こちらへ目をあわせてくる予兆に合わせ、彼女もまた注意を引き戻す。しかし相手はこちらではなく、そのまま前の壁を見るともなく見詰めているだけだった―――いや、壁ではない。壁の向こうですらないかもしれない。
八年前。激戦区を潜り抜ける際には部下として配属されていたヴァシャージャーは、彼女を追い抜いて、唯任左総騎士まで上り詰めてなお、ひどく遠いどこかをこうして見やる。癖なのだろう。男女関係の軽薄さに関連した噂話がないにもかかわらず、依然として婚外子のそれが絶えないという矛盾は、それが原因かもしれない。
と。
「ならば今一度、ウィビン・ラマシヲ唯任右総騎士との会談を望むか―――」
「おやめください、閣下!」
口走る。それは思考に根付いたものでなく、もっと反射的なものだった。
自覚した頃には遅かった。英雄の視野は、とっくに彼女を捉え終えている。
「申し訳ありません。出すぎた真似を致しました」
「謝罪はいい。現にこうしてわたしは若造で、家名のみを帯びる身だ。だというのに、現にこうして、唯任左総騎士に座す以上はな」
ひとり頷いて、彼はその黒い瞳に、色素とは違う暗い色を深めた。
「後継第二階梯に、唯任右総騎士が附き、後継第三階梯に唯任左総騎士が附いたのは慣例に則っただけのことで、なんら後ろ暗いことはないが、だからといって彼がそれらを正当に鑑みるとは限らんからな。特に、後継第二階梯が不在の今、立て続けにこちらから会議を呼びかけられるという状況下においては、どうだろうか」
視線を外すことはできない。相手の眼差しはいつまでも、今先ほど彼が口にしかけたことの重大性について、こちらの誤解を誘発しかねないほど静まり返っていた。その印象を補強するかのように、低く落ち着いた声音が、強弱なく弁舌を綴っていく。
「想像を絶する手管でもって司左翼の最高位まで成り上がった貧賤が驕り高ぶった挙句、後継第三階梯が王宮の実権を握っているのをいいことに司右翼まで弄そうと企てている……との憤激に突き動かされたとて、わたしは驚かんよ」
「それが誤りであるとすべからく悟るよう、自分以下一同、より一層に司左翼の質を上げるべく邁進し―――」
「理解している」
そしてそのまま、彼は続けた。
「そしてそういった現状と同じくらい、貴公の発言が無罪であることも理解しているつもりでいる」
ヴァシャージャーがそこで小休止を挟んだため、せりふにほんの少しの間が開いた。吐息は聞こえない。表情も変わっていない。顔に出ない程度に笑ったのか。そう思えないこともない。
「貴公に感謝を。ヒュアブケニオ・ジアー唯任左総騎士継次」
「は―――」
堪えきれず、彼女は敬礼した。唯任左総騎士に次ぐ己の役職を、己の名と共に口にされ、改めて身が引き締まるのを自覚する。のだが。
「公私共に」
「は?」
付け足された一言に見当がつかず、素のまま絶句する。彼がその無作法に気付かなかったはずがなかろうが、そんなことはおくびにも出さなかった。ヴァシャージャーは胸まで持ち上げた二本指をわずかに円く振ってみせ、それで脳裏のイメージを確かにし終えたのか、満足げに腕を戻した。付言してくる。
「貴公から譲り受けた、あの宝石のことだ。ツェラシェルイシィ・アムアイニ―――世界樹より溶け出る雫、という名前を聞いたときは信じがたかったが、知れば知るほどに素晴らしい。先祖代々の紅玉というのを疑っていたわけではないが、それでも良い方向に期待が裏切られた嬉しさは、貴公に伝えておきたいと思えるほど大きかった」
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ようやっと合点がいき、彼女は敬礼を正した。ついに危機的な貧窮に陥った実家を説き伏せて家宝を持ち出したものの、高値過ぎて逆に買い手がつかず途方に暮れていたところを彼に救われた日のことは、数秒前のことのように覚えている。
そして、これもまた、ようやっとというべきか。彼女は、感情を感じさせない、唯任左総騎士の目を覆うように、そこに映りこんでいる自分の姿に気付いた。彼の目に反射する、彼の分まで穴埋めして余りあるだろう豊かな想念を読み取れる己の瞳は、軍人としてあるべき姿ではない。
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「わたくしめも」
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「わたくしめも、僭越ながら、閣下に感謝しつづけおります―――公私、共に」
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彼女の劣等感と自尊心を、ヴァシャジャーは許した。のみならず評価し、今回に至っては、女であること、貴族であること、司左翼であること……本来ならば欠点として捉えられるはずの彼女の持ちうる全ての立場を、最大限に活用する任務を与えた。
彼は理解しているのだろうか? 一人の人間を、真に救ったということを。
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彼女はそれだけを受け、そして部屋を退室した。
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そこで、確信も持てないまま自分と偉人を並べてしまった厚かましさに気付き、またしても自戒を重ねる。つまりは自分は未熟なのだと分かっている程度には、オキュスニ・ヒュアブケニオ・ジアー唯任左総騎士継次は未熟を脱しつつあった。
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