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承章

承章 第一部 第五節

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「だぁぁぁもうっ!! 駄目だ駄目だ駄目だぁあうああああああぁぁ!!」

 やおら始まった大音声だいおんじょうすさまじさは、到底長続きしなかろうという裏づけにもなった。

 という読みが希望的推測にしてもおこがましい甘さであることくらい、とっくにキルルも勘付いていた。エニイージーはその後悔の口上の豪快さにお似合いの派手な地団駄じたんだまでしていたし、ついでに頭を抱えてのたうったりしていたのだが、全く疲労の気配は無い。むしろ、前途を保障するかのように刻々と色めきたっていく。

「駄目だろどー考えてもダメダメだろ!? 頭領のためになりたかっただけなのに、逆にその部屋の真ん前でメンタル的に大立ち回りやらかしやがって! 大立ち回りがフィジカルじゃねえ分やたら大回転だよ! フィジカルだったら遠心力で月だって越せたよ!? なあ!?」

 まさかこちらにいているのではなかろうが、それでもその思いつきに、キルルは軽くお手上げした両手を固めてもう半歩ほど尻込みした。自分でも情けないへっぴり腰だったが、撤回できようもない―――撤回したくないはずもなかったが、逃げ出そうにも彼が廊下を(気配的に)ふさいでいる前方へ進むのは不可能だし、シゾーがいる上階へ戻るのも論外だった。ここは、先ほどよりひと階分の階段を下りて、少し奥まったところへ進んだ廊下―――昨日聞いた話によれば、倉庫にあてられている階層のはずだ。記憶を実証するように、かざのない石組みを丸出しにした通路は狭く暗く物悲しく、人気ひとけが通った様子は微塵みじんもない。となれば、通りすがりの頼もしい旗司誓からの梃入てこいれも望み薄だろう。

(ええと。だったらあたしが慰めるべきなのかしら。これ。どんまーい、とか)

 面妖めんような窮地に呻吟しんぎんして、キルルは意味なく両手をわたつかせた。結局そのようにしたところで励ましをかける決心もつかなかったし、ついでにその指が名答をつまみあげるという奇跡も拝めなかったが。

 そのことが異様に理不尽に思える。胸中にふつふつとで上がった感情が、さながらき出た気泡のように、のどぎわを嫌な感触でくすぐった。

(しょうがないじゃない。どうにもできないわよ。だってこんなの、あたしのせいじゃないもの。誰のせいかって言うと……ええと……そうよザーニーイの馬鹿)

 とりあえず、場にいない人間に責任をなすり付ける。思いついてみれば、存外的外まとはずれでもないような気はしたが。

 と、ふと聞こえた隙間風すきまかぜの音に、気を取り戻す。確かにそれは、隙間風だった。細く、高い、長い音―――と思えばそれは、エニイージーのため息である。いや、吐き出すだけ吐き出したあとの吸気かもしれないし、あるいはエニイージーの理性についた傷という名の隙間から流れ出たまさしく隙間風である可能性も否定できないが、どれでもありえるくらいの結構な時間だったことは確かだった。

 そして、それを終えて。

 エニイージーがくるりとこちらへ向き直ってきた。そして、今さっきとは雲泥うんでいのけろっとした顔つきで、ちょこんと頭を下げてくる。

「ごめん。本っ当にごめん。俺と副頭領、さっき怖かったよな?」

「あ……うん、ええと」

 どちらかというと今ほどの彼の奇態の方に得体が知れない恐怖があったが、口にするのは避けておく。

 曖昧あいまいに徹しきれず、明らかに首肯しゅこうじみた気配で応えてしまったキルルを前にして、改めて気がとがめたらしい。エニイージーが自分のうなじに片手をかけて、謝罪を語る眼差まなざしを彷徨さまよわせていた。キルルにしても、未だ彼に対する多少の気後れはこびりついたままだったが、それを押しのけて口を開く。

「もう、大丈夫なの? その―――なんていうの。さっきの。乱暴な感じ、っていうか」

「ンなはずない」

 と口にした言葉と同じくらい正直に、いつもまるい目元が、見る影もなくとがる。ふと揺れた彼の佩剣はいけんから来る金属音さえ、硬度を増して空気に刺さったように思えた。

 が、つまるところそれは、剣がひと鳴きする程度しか表に出なかったということだ。音が過ぎる頃には、エニイージーの眉根まゆねしわはほぐれ、いかめしさを失っている。

「けど、副頭領と俺のいさかいに、あんたは全く無関係だろ?」

「それは……そうだけど」

「だったら、副頭領と俺のいざこざ由来の不機嫌に、あんたを巻き込むのはおかしいじゃんか」

 それで、話は終わったらしい。エニイージーは、本調子ではないものの、それでもほほ笑みを取り戻した童顔をこちらに向けてみせた。

 思いがけず、それと似た風貌ふうぼうを思い出す。確かにそれは、ザーニーイに似ていた―――正確には、昨日の夜のザーニーイの横顔に。声、髪、顔かたち。どれとて、二人が似ているはずはないのだが。

 それでも胸に落ち着いた合点がってんに、素直にキルルはつぶやいた。

「エニイージーって、意外に<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>なのね」

「なんだそりゃ?」

「なんでもない。キミっの良っいとっこ再・発・見♪」

「なんだそりゃ?」

 ひと声ごとに、ぽかんとした顔つきを疑問でかげらせていくエニイージーに、笑いかけておく。やはりわけが分からないようで彼は首をひねっていたが、キルルはそれに答えず問いかけた。

「それで、これからどこ行くの?」

「え。ああ。まず、あんたを部屋に送ってから―――」

「嫌」

「い?」

 せりふをずっぱり切断され、エニイージーが出しかけていた言葉を前歯にめたまま固まる。それに気付いてはいたが、キルルは特にかかずらうこともなく、どんどん続けた。

「あたしの部屋は三階。もう上に戻るの面倒だし、あなたが護衛って決まったんだから、部屋から外に出歩くのに問題ないはずでしょ。だから、このまま一緒に行くわ」

「あのさ。まだ本当の意味で俺が護衛って決まっちゃいないし、本当に本腰入れて護衛組むんなら四人組がベースなはずだからさ、こっちの段取りが終わるまで、いったん部屋で待っててもらえれば安心―――」

「ああ、なんてかわいそうなあたし。朝も早くにおつむをでタマゴみたく熱々にした男二人のでっかい図体から垂れ流された無差別な怒気に射撃されたこの肌身を、ご来光のさわやかな精気でいやすことも許されないなんて。よよよ。さめざめ」

「うう。おもっくそタチ悪ぃ」

 ばればれでも泣き落としには弱いらしく、エニイージーが背を丸めてしゃがみこんだこちらを見下ろして顔をひくつかせている。いや、キルルに見えたはずもないのだが、恐らくそれと大差ない様子でいるに違いないと思えた。両目に当てたこぶしの影からこっそりうかがうと、やはり彼はそういった顔つきで、キルルにまつわる事象すべてへの倦厭けんえんのままに微妙な後ずさりを試みているようだったが、結局ものの一分ももたずに肩を落として根負けを表明した。

「分ぁかった。連れてく。連れてってやるって。だからそーやって指で足元に『の』の字をスローでのたくらせるのはやめてくれ」

「ありがと♪」

 追加した手振りの効果は劇的だったようで、ぴょんと跳ね上がったキルルを見やるエニイージーの双眸そうぼうは、とどめを食らって格段に疲労感を増していた。どこかどろんと汚泥おでいじみた気配をかもし出すそれは気にかけないことにして、彼を置いてきぼりに廊下を進み出す。とはいえ、四方八方にぐるぐる視線を寄越よこしていたせいで歩みは一向に遅々ちちとしていたし、ついでに無難に無骨ぶこつな通路には目を引くような箇所かしょもない上、視線を浸透しきれないくらい広いわけでもなかった。むしろそんな観察をすればするだけ、変な虫の屍骸しがいでも見つけてしまいそうな気がしてくる。よってさっさとそれにも飽きて、キルルはずるずると数歩遅れでついてくるエニイージーに振り返った。

「で、どこ行くの?」

「先に歩いてそれ言うか」

 と半眼で口にしたものの、それ以上こだわるでもないらしい。エニイージーはキルルに並んで歩調をそろえてから、自分でも脳裏の予定表を読み上げるように、顎先あごさき視軸しじくを上げた。

「行くのはまず、うちの隊長ンとこだな」

「うちの?」

「俺の部隊の一番偉い人、ゾラージャ部隊長第五席主席。あんたの護衛の件は受けるにしても、本決まりとなれば今後の俺の役割をどうするかとか、本格的に判断あおがねえといけないし」

「護衛の……って、そんなすんなり引き受けてくれていいの? エニイージー」

 先ほどの剣幕を考えると信じられず、キルルは思わずいぶかしんだ。エニイージーはそんな彼女から横目を滑らせて、更にばつの悪さを散らせようと頭をいている。

「……実は、俺があんたの護衛になるのは、その……ある意味、予定通りみたいなもんなんだ」

「えっ!?」

「いや。他にも何人か候補はいたみたいだけど、その試験の一番手が俺でさ―――俺みたいなしたが、あんたみたいなのの出迎えに同席できたのが、つまりはそういうわけで。頭領は『ぱっとガン飛ばして、水と油じゃなけりゃ合格だ』とか笑ってたけど……こんなことになるなんて。とになく、きっともっと詳しいことはゾラージャ隊長が知ってるから、それも聞かないと。今なら前庭で組み手でもしてっだろうから、とりあえずそこに顔出してみるか」

「こんな朝から!?」

 重ね重ねぎょっと叫んだキルルに、逆に驚いたらしい。エニイージーが人差し指を自分に向けながら、まるでキルルの分の声量を差し引いたように声を抑えて言ってくる。

「そんなあたふたしなくたっていいだろ。俺だって頭領だって、みんな普通にやってることだし」

「なんでバレ―――!」

 度肝どぎもを抜かれて飛び出しかけた失言を、寸前でみ込む。はずみで足がもつれて、つい立ち止まってしまったこちらを不思議そうに見やってくるエニイージーに、キルルはなんとか言いなおした。もっとも、言葉を誤嚥ごえんしたせいで、えらく舌っ足らずな調子になってしまったが。

「な、んでそんなふうに思うの? ザーニーイも早起きしてるって。見たわけじゃないでしょ?」

「んー。なんとなくな」

 キルルがてくてく寄ってくるのを待ってから、彼は足取りもろとも、せりふを再開した。考えながらしゃべっているようで、自分のひたいをかく指先をながめるように目線を上ずらせているのだが、つまづくこともない。それと逆に、せりふを進めるのには苦心しているようだった。

「頭領さ。たまに遅めに表に出て来る時があるんだ。寝過ごしたとか言うんだけど、そんな時でさえなんつーかこう―――寝起きのブレみたいのが、残ってないんだよな。全然。きっと、寝過ごしたっての自体は本当でも、俺らが思ってるよかハチャメチャに早い頭領の起床時間から見たら寝過ごした・・・・・ってことなんだろなって。まあ、他にもあるけど、一番はそれかな」

「ええと」

 具合の悪さに、キルルは目を泳がせた。つまりシゾーが言っていたことと総合して考えてみると、ザーニーイらの様々な配慮は、全くの徒労ということになりはしないか?

「そのことにみんな勘付かんづいてるから、みんなで朝から特訓なんてハッスルしちゃってるの?」

「ん? いや……さあな。ハッスル?」

 それは思いがけない展開だったようで、エニイージーが押し黙った。なにに感じ入ったのか、組んだ腕を乗っけた自分の胸倉へと、虚を突かれたそのものの真ん丸い目を向ける。

「そう言われてみりゃ、どうなのかな。頭領の朝錬に、みんな気付いてるのかどうか、ね。まあ、ピンキリなんじゃないか。気にしたこともなかった」

 意外な思いで、キルルは彼をのぞき込んだ。

「自分の考えが当たってるか、誰にも尋ねなかったの?」

「尋ねることでもないだろ。頭領の早起きは、俺の早起きとは別の話だし」

「別の話?」

 それこそ意外な思いで、続ける。

「ザーニーイを見ならって、あなたも早起きしてるんじゃないの?」

「あのなー。キッティのコメントが、頭領に単なる右ならえっていう意味なら、違うかんな。そりゃ、昔はそうだったこともあったけど」

 と、その頃を恥じ入るようににごりかけた口調を、次には上向きに切り替えて、

「今は、俺はいつか頭領みたいな旗司誓きしせいになりたいから、早起きして自主トレしたりすることもあるっていうことで」

「どこが違うの? ザーニーイみたいになりたくって、だからあなたもザーニーイみたく頑張ってる。ならやっぱり、ザーニーイが朝からトレーニングしてるのが本当なのか、確かめたいって思うわよ。普通」

「じゃー俺が普通じゃないだけ。な。よし。これで、ザ・にじゅうまる」

「にじゅーまるじゃないわよー!」

「あーのなーア」

 自論がどうして彼女とすり合わないのか、見当もつかないらしい。エニイージーが両手で作っていたオーケイサインをにぎり潰して、また開いてを繰り返す。

 しばらくそうして整理がついたのか、彼はりずに口を開いた。それは手さぐりなりにたどたどしく、もどかしい様子だったが、さりとてそれ自身の正当性を疑っているわけではないようで、言葉そのものに迷いはない。歩く速度も変わらなかった。

「ええとな。確かに、俺も頭領も、早起きすることはある。けど、その理由は違う。<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>での立場が違うからだ。書類やら総まとめやら、そういう役割は頭領の方が多いし、現場仕事は俺たちの方が多い。勤務の回転も、部隊によってバラついてる。ここまではいいか?」

「うん」

「だったらスケジュールだって十人十色で当たり前だろ。<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の旗司誓としてちゃんと収支がついてさえいれば、寝起きの時間をずらしたっていいさ。それこそ朝錬でも朝寝でも、よりどりみどりでご自由に、だ」

 キルルの相槌あいづちに確信を促されたのか、エニイージーはさっきより億劫おっくうさ払拭ふっしょくした口ぶりで続けた。

「それは、自分の帳尻だ。それを誰かに尋ねてどうなるんだ? しかも俺自身の帳尻のやりくりについて相談するならまだしも、頭領の寝起きについてなんて」

「……ええと……」

「なら、これでどうだ? そりゃ俺は、頭領にあこがれてる。いつか頭領みたいな旗司誓になりたい。でもそれは頭領と直接関係しない。ましてや仲間にあけっぴろに言いふらすもんでもない。だから頭領の早起きだのなんだの誰に尋ねることもなかったし、自分で勝手に早起きすることもある―――ってまあこれも、受け売りみたいなもんなんだけど。今じゃ俺も本当にそう思うから」

「あうー……」

「ほら。これで今度こそ、にじゅうまるだろ?」

「うー……」

 うなって、頭にぐるぐるする文章を追いかける。ちょうど階段に差し掛かったため、考える時間はありそうだった。ひやりとした壁を指でつたいながら、下へとくだっていく。階を降りるために段を踏む、その単調なリズムに己の思考も乗ってくれれば良かったのだが、どうやら頭の中身の方は、そんなにとんとんと調子よくに落ちてくれそうもない。

 先に降りていくエニイージーが、明らかに気が散っているこちらを注意するように、たびたび横目をくれてきた。こちらこそ彼がキルルを見やるたびに足を踏み外しやしないかと思うところではあったが、どうでもいいことではある。

 それほど間もなく、無駄な応酬も終わった。無事に一階の廊下を踏んでから、考えた成果を告げてみる。

「―――個人主義、ってこと?」

「箱庭じゃ、こういうのをそう言うのか?」

「なら、ここではそういうのをどう言うのよ」

「『あんたの旗幟きしを信じてる』」

 さらりと、それを口にして―――

 その時エニイージーが目を細めたのは、その口上に思い入れがあったというよりも、単に踏み込んだ廊下が上階より暗かったせいだろう。窓の少ない一階廊下は朝日の恩恵もろくに受けられず、かなりの部分がいまだ退散しきっていない夜闇よやみつかっていた。更に、廊下に散らばった荷物が多いだけ、上階よりも危険が遮蔽しゃへいされている可能性がある―――あらわでない程度に警戒けいかいを撒きながら、彼はこちらを見ずに言ってきた。

「こいつも、旗司誓の常套句じょうとうくって言えるかな。なんであれ、こいつは自分が誇ってる旗幟きしどろ真似まねなんかしないだろって、大雑把おおざっぱに相手を信じてやる―――まあ、そんなのだ。今の話で言うと、無駄に早起きしてぼろを出すとか、そういう馬鹿をしないだろう……って感じになるかな。っつっても―――うーん、こんなの説明したことねえから、ちゃんと言えてるのか自信ねえけど。あ。もう行くぞ。ほら。ちゃんと付いてきてくれな」

「え。う、うん」

 手招きされるままに歩き出して、それでも不可解なものまでまたいで通り過ぎることはできなかった。こちらに平行するエニイージーを上目で探ると、表情には余裕がありそうに見える。キルルはこめかみを一本指でくりくりしながら、口をとがらせた。

「自分が誇ってる旗幟って、どういうこと?」

「旗幟を誇らない奴は旗司誓じゃない。とはいえ、そのようは、そいつの価値観だろ? だから、自分が・・・ってことだよ」

「だったら、頭領がするなら自分も! みたいな単純な価値観の人だって―――」

「いるよ。いたよ。これからだっているだろ。でも大丈夫だって」

「なんで?」

「―――信じてるんだ」

 ただエニイージーが、変哲なく呟いた。

あんたの旗幟を信じてる・・・・・・・・・・・から、」

 と、吐きかけた息をもう一度噛む。

「だから、大丈夫だよ」

 彼はそこで、ゆるりとまばたきした。改めて宿るその眼光は、薄らかな朝日の中にありながら、なお別種の光源を見るかのように強い。

「―――そう言われたら誰だって、言われただけで、終わらせることなんてできない。だろ?」

 当然の話なのだろう。彼にとっては。

 エニイージーは続けていく。

「俺だって昔はそれこそ頭領の猿真似さるまねで、無意味に朝錬したりもしたよ。でも今はそんな馬鹿ったれな“見倣みならい”じゃなくて、ちゃんとまわりを見習みならって調節してる。できるようになった。どんだけヘマしてもドジしても、俺が双頭三肢そうとうさんし青鴉あおがらすに恥じない奴だって、これっぽっちも疑わない人たちが待っていてくれたからだ。だから―――大丈夫だよ。それで。今なら俺だって、『あんたの旗幟を信じてる』って言える」

 そこで述懐じゅっかいを吹き消すように息を吐いて、エニイージーは襟のまわりを乱暴にてのひらの付け根でこすった。どこかねたような眼差まなざしで、キルルに悪態をついてくる。

「っあーもう。もういいだろ? もういいよな。言わせないでくれよ、こんなこと。かゆくなるなぁもう」

「ねえ。お風呂って知ってる?」

「知らんとでも!?」

 そこで、廊下が終わった。

 いや、自分たちが進むべき廊下が終わったということか。向こう側、建物の深部へと伸びていく廊下を無視して、出入り口から外へ出る。昨日もくぐった、正面の扉だった。

 途端。目の前にぶちまけられた風景は、眩暈めまいを覚えるほど広大だった……いや、眩暈は、外景のせいではなかろう。この要塞は、屈強な外壁に囲まれている。ごつごつとした圧縮煉瓦あっしゅくれんがを労わるようにつたが沿い、そうして編まれた緑の間際を、旗司誓の鮮やかな衣装が散りゆく花弁のように過ぎていく。それは、壁で制限されることで悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんに生まれた、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>という眺望だった……限度があるなら、目はくらみはしない。届くなら、届いて終わるだけだ。ならば―――キルルは再度、意識して上空を見上げた。果てなき空隙くうげき。曇天のくすみも今ばかりは夜明けの白が押し流し、そこを更に汚れの無い悔踏区域の風が吹き上げて、天空を高く高く、高みへと追いやっている。

 キルルは、それを見た。

 エニイージーには、彼女が、彼自身を見上げているように見えたに違いない。彼は軽い笑顔でこちらにうなずきかけてから、あとは解説をしまって歩き出した。キルルを自分と建物の間にして、壁伝いに前庭を横切り始める。

 同じく進みながらキルルは、ななめ上を見上げるように、再度そらを見詰めた。そうすると、エニイージーの上背うわぜいをも視界に入る。彼は、自分よりも空に近い。

(でもきっと、エニイージーはそのことに気付いてないんでしょうね)

 自分だけが、そのことに気付いた。

 言葉にせずキルルは、その意味を何度となく口に含んだ―――実際には、砂のざらついた無味むみだけが、舌に残されるとしても。

 くちびるを空へ向けたところで、声にともした言葉は空へ届きはしない。風は細っちょろい動物の鳴き声などに容赦せず、それを砕いて天へと昇る。ならばせめて、それを聞き取れる自分の奥深くへ、この思いが沈めばいい。



     □ ■ □ ■ □ ■ □



 ほどなくたどり着いた場所は、前庭のはしの一角だった。

 建物に沿うように歩けば自然とそこに到着するのだが、建物の角を曲がり、物陰に隠れていた整地を目に、キルルは感心の小声を上げた。前庭とは比べ物にならないが、それでもぽつぽつと散見できる旗司誓が小柄に見えてしまうくらいには広い。

 そこにいるメンバーを目だけで物色していたエニイージーが、不意に片手と声を張り上げた。

「あ、いたいた―――隊長! ゾラージャ隊長! 背の二十重はたえある祝福に!」

 ふと、そのまま手を振りながら振り返ってくる。ちゃんとキルルがついてきていることを確認すると、エニイージーはそちらへ向けて歩速ほそくを上げた。向かう先にいるのは、三十路みそじに届くか否かといった風采ふうさいの男―――近づくにつれ、彼の薄茶の短い髪にすけてみえる盛大な傷痕きずあとが、そういった装飾であるかのように頭皮に陣取っているのが分かってくる。いかにも屈強そうだが、目元のしわが垂れ気味に付いているせいで、どこか好々爺こうこうやじみた雰囲気をぬぐえていない。

 そして実際に好々爺然とほほ笑んで、彼―――ゾラージャは、自分たちを迎えてくれた。近くまで来て立ち止まると、挨拶あいさつの意か片手を顔の横まで上げて、気前良く笑顔を上乗せしてくる。壁によしかかっているせいで腰がずり落ちているため身のたけが下がり、ゾラージャがわきのエニイージーを見上げる形となった。

「俺ァまだ任務の時間じゃねえよ。あいつらの稽古けいこ見てんのも、たまたま目ぇ覚めた成り行きだし。そーかしこまんな」

 ついで、あいつらと称してあごをしゃくった方向へと、目線を戻す。数メートルばかり離れたそこでは、二人の旗司誓が互いに長い棒を手に、それほど盛り上がるでもなく二言三言ふたことみこととやり取りしていた。もとよりキルルもそれに気付いていないわけでなかったが、単に向き合っているだけだったので、注視していなかったのだ。

「あ、はい。じゃ、えーっと、おはようございます隊長」

「おう。おはようさん。―――にしても、お前よぉ」

 律儀に敬礼をやめて頭を下げる部下へ、鷹揚おうように……というか、起き抜けの鈍臭どんくさい様相のまま、ゾラージャが半眼はんがん寄越よこした。彼自身それを分かっているのか、わしわしと横面をいて気だるさをぐ努力をしてから、

「今日は朝練来るの、ちと遅かったじゃねえか。昨日の腹踊りで腸でもやぶれたか?」

「……腹踊りで破れるんですか? 腸って」

「知らねー。おーいお前ら、エニイージー破れ腸で遅刻説は棄却な棄却ぅー」

「破れ腸!? やたら瀕死っぽい俺!」

 エニイージーが無闇むやみにショックを受けた様子で叫ぶ。ついで、へーいと気のない返事をしてくる仲間達をひとしきりどつく仕草でのろってから、隊長に食ってかかった。

「ていうか、確証ないのに言いふらさないでくださいよ! よりによって破れ腸とか不吉で間抜けなの!」

「いやお前、責任取らないでよさげな場面でこそ無責任な言動しとかねぇと、いろいろ勿体もったい無ぇぞー? 息抜きとかお遊びとか。特にお遊び」

「つーことは、俺の腸に対してあらぬ噂を立てようという目論見もくろみのとりなしは、隊長には期待できないってことっすね」

「してもいいぞ」

「なにする気すか?」

「人心の裏を突く。ふふふ。ちょっと頭良さげ」

「ええ。勝ち誇れるレベルでないとは思いますけど。で?」

「おう。噂とは鮮度が命。つまり別のセンセーショナルな話題が出てくりゃ、前のはたちまち消えて無くなるわけだ」

「ほほう」

「エニイージー腸ただもれ説で行こう」

「それじゃ俺から腸がもれてるみたいじゃないですか!」

「上がいいかなー。下がいいかなー。いっそ真ん中かなー。もれ口」

「真ん中!?」

「へそだ」

「真顔だよこの人真顔で!」

「えーと。そうね。真顔ね。だわ」

 エニイージーが、隊長の足元に向けて指先を震わせながら―――顔面を指差す不行儀は狼狽ろうばいまかせであれ看過できなかったらしい―――振り返ってきたので、キルルは従順に追従した。どんな未来を予見したのかエニイージーはこれ以上なく切迫した汗顔かんがんだったが、隊長は部下のそれこそ暑苦しいとばかりに、武張ぶばった表情と襟元えりもとを崩してみせる。

「あンだよ? 不満? 腸の中身がもれるよかマシだろ」

「どんな基準でなにと比較してマシ!? 腸ただもれとか、聞いた感じ腸が破れたのより惨劇さんげき割り増しだし!」

「果たしてそうと言い切れるのだろうか?」

「言い切れますよそんなん! なに頭良さげに問題提起してんすか!」

「いや、どうせなら勝ち誇れるレベルまで到達してぇなーと。おめ、そーカッカしねぇで大人になれや。人の噂も七十五日だぜ?」

「あと七十四日も腸がもれ続ける俺の立場になってくださいよ!」

 最後あたりのエニイージーの陳情ちんじょうははたから聞いていても悲痛に痙攣けいれんしていたが、隊長にとっては冗句じょうく以外のなんでもないらしい。笑いとばす声には、やはり辛気臭しんきくささも陰険さも微塵みじんもない。

 ひとしきり楽しみ終えたらしく、目尻の笑いじわをほどいたゾラージャが、キルルに注目をこぼした。にやつきながら、ひとり得心したように肩をそびやかす。

「―――って、はぁーん。さてはお前、遅刻したのは、この新入りの世話役仰せつかっ……て……て?」

「まあ、外れちゃいませんけど」

 ふといた胡乱うろんげな気配に食いつぶされるように、徐々に隊長の軽口からやんちゃな陽気が抜けていく。それを見送るしかない。キルルは、エニイージーが生返事を引き伸ばしたような受け答えをするのにまぎれて、こっそりと嘆息たんそくした。

「え。新入りなら、まずもって通達―――てか、なんで女の子? ……あの。女の子だよな? ゼラ主席の系統じゃないよな?」

「まあ、外れちゃいませんけど」

「けどってなに」

 一応、釘は刺しておく。

 そうやって先送りにしたところで、結末がやってくるのは分かっていた。慣れた手順で諦めて、ゾラージャに向けて頭を下げる。

「あの―――ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子、名をキルルといいます。はじめまして。ええとね、おはようございます。さっき、言いそびれちゃって」

「ア・ルーゼ……の、第二階梯い!?」

 もっともだがゾラージャは、仰天ぎょうてんしたようだった。背筋のばねだけでよしかかっていた壁から跳ね上がって、目を白黒させている―――ただ、そうなったところで、その目がこちらから逸れることもない。見えないはずのターバンの向こう側まで見透かそうというのか、彼の凝視ぎょうしがまじまじとキルルの頭に向けられているのが、うつむいたままでも感じられた。

「オイオイオイオイぃ! ちょっと待てよ、こいつ例の姫様じゃねえか!! そりゃあ下界からの拾いっ子ってのは聞いてたけどよ、なんで今になってもンなオスガキのカッコしてんだよ!」

「悪くないでしょ」

「わる?」

「いえ。あたしは男じゃないし、ガキ扱いも嫌だけど」

 苦笑する。しかなかろう。

 それを笑う奴もいるかもしれないし、特にあの弟にとっては鼻で笑う以下のことでしかなかろうが。

「それでも、悪くないでしょ。この格好。だから今はあたしのこと、キルルって呼んで欲しいの。お願い」

 キルルは今度は、多少努力してにっこりと笑った。

 と。それを前触れなくエニイージーへと向ける。

「じゃ、お話終わったら呼んでね?」

「え?」

 土壇場どたんば矛先ほこさきを向けられてほうける彼に、キルルはこちらこそ当然とばかり言い返した。

「え? じゃないでしょ。ほら、シゾーさんからのあれ。護衛の。相談するって言ってたでしょ。しっかりなさいよね」

「あ。はい……」

 えらく神妙なエニイージーの応答を得るが早いか、キルルはきびすを返した。

 行くあてがあったわけでもないが、そのまま二人から離れるように反対側へと駆け出せば、別の人影に駆け寄ることはできた―――その二人の歳若い旗司誓たちは雑談を立ち消えにして、呆気あっけに取られたようにこちらを見つめてきている。キルルは、ちょくちょく雹砂ひょうさのたまり場に靴底をとられかけながらも、そちらへと向かった。のだが、

「ちょ、危ねっすよ! お姫さん―――」

 ゾラージャの叫び声が聞こえていたのだろう。そんな風に、男の片割れが言いかけた。手持ち無沙汰ぶさたに手中の棒をさすりつつ、遠慮がちに。

 たまらず道半ばのまま、キルルは声を張り上げた。

「二人とも! 旗司誓なんでしょ!」

「え……まあ、そりゃ」

 そう呟いてきたのは、まだ若い……と思えたのは、くせの無い輪郭りんかくと目付きがゼラを思わせたからだろうが、とにかく若作りの青年の方だった。ただしかなりの高身長で、ゼラよりもくすんだ黒い色の巻き毛を伸ばし、うなじで染め布といっしょに結び玉にしている。

 やはりぎこちなく駆けながら、キルルは大声で続けた。

「そんな重そうなの持って、びゅんびゅん動けたりするの!?」

 相手は思いあぐねたように、自分の髪のたばを指でぱたつかせつつ、足元を見やった。そこには、棒を放り出して靴紐くつひもをいじくっていた、もう一人の旗司誓がいる―――こちらといえば、もうひとりとは対照的な短髪で、色も若々しい果実を思わせる濃い黄色だった。年嵩としかさは、エニイージーよりどれだけか上だろう。立ち上がると、ひっくり返ったその頭の影に隠れていた、人好きしそうなどんぐり目があらわになった。

 ただしキルルを認めた途端から、その瞳は戸惑いににごった。

 だが、ひとり言のように、ぼそぼそ答えてきてくれた。

「毎日やってりゃあ、それなりに……」

「ねえ、力こぶとか出来たりする? 見せて見せて!」

「ええ?」

 よそよそしく外されようとする彼らの眼差しを引きとめるのに成功し、キルルはようやっとたどり着いた二人のたもとで立ち止まった。両者そろって彼女より背丈があるので当然キルルは見上げていたのだが、相手二人はというとかまえを決めかねたように、中腰になりかけた身体からだかたまらせている。

 見ていられなくなって、キルルは目蓋まぶたの半分と一緒に、視線を下げた。胸元で組んだ指をもてあそぶが、不安はむしれてくれない。むしろ、ねられて固まり、無視できなくなくなっていく。

「……やっぱり、あたしなんかじゃ駄目かしら?」

 どうにもならず正直に尋ねると、これまた正直すぎる反応が返ってきた。金髪の旗司誓が目をむいて、がばっと上体を起こしたかと思うと、わたわたと手をばたつかせる。

「い、いやいやいや、そんなこたぁねえけど!」

「じゃあ見せて!」

 喜色もあらわに飛び跳ねて、キルルは歓声をぜさせた。反射的に答えてしまったことに、言責げんせきをつっつかれたのだろう―――ぐしぐしと金髪を混ぜた指先には未だに困惑が滲んでいたものの、その旗司誓はそれでも素直にそでをまくって、げんこつを上に腕を曲げてみせた。彼の幼さの残るなだらかな頬骨ほおぼねの横、アンバランスなほど骨身が引き締まる。膨れて強張こわばった肉の予想外にしたたかな曲線に、キルルは目を見張った。

「わ。すごーい。シゾーさんも鍛えてるーって見て分かったけど、旗司誓ってみんなこんなにすごいの?」

「いや。えと。個人差あるけど、俺はまあ、こんな感じ」

「触っていい?」

「あ、うん……」

 彼が慌てて服のすそで自分の腕をくのを待って、キルルは手を伸ばした。その上腕に、ぺたりとてのひらをくっつける。

 キルルたちが現れる直前までトレーニングしていたのだろう。触れると、火照ほてった肌の上で汗が焼かれているのがよく分かる。そっと指の腹に力を込めてみたが、びくともしない。どころか、食い込む余地さえほとんどなかった。脂肪の層すらぎしりとして、キルルの五本指に難なくこたえている。

「すごーい! よく丸太みたいな腕っていうけど、そんな切り倒されちゃったのより、ずっと頼りになりそう!」

「そ、そうかな?」

「そうよそうよ! わーうわー」

 と。

「おいおい。こいつ程度でそんな驚いてたら、あとが続かないよ」

「え? あと?」

 呼びかけられ、そちらへ顔を向ける。そこには変わらず、もう一人の黒髪の旗司誓が立っていた。にかっと笑われて余計に彼の年恰好としかっこうが分からなくなり、それも含めて小首をかしげる―――まあ年齢については、くっきりついたえくぼの深さから言って、それなりではあるのだろうが。

 その旗司誓は手にしていた棒を仲間に投げ渡してから、ガッツポーズをした自分の片肘を指で差し示した。

「そっちはおいといて。ここ、しっかりつかまってみ」

「はい」

「全力で手と腕とわきを締めて!」

「はいっ!」

「うルァっ!」

「きゃあああっっ!?」

 視界が飛んだ。上へ!

 それは一瞬で終わって、ただし上のまま固定される。

 キルルは、完全に地面からり上げられていた。ぷらんと、身体からだの加重をなくして垂れ下がる足の虚脱感に、心までしばし虚脱する。次第に自覚が染み入った動悸どうきの激しさに喉笛のどぶえをせっつかれ、キルルは相手の腕に宙ぶらりんのまま、興奮まかせに喜色を発した。

「すっごい! あはははは!」

「だろ? そーらよー」

「きゃーはははははは!!」

 彼が自分自身をじくに回ってみせたため、そこにつかまっているキルルの身体は、それ以上に大回りになった。ふわっと浮きかけるつま先がむずがゆい。ただし、それは心地よい。初めてのことだった。耳の奥で、高い音階を駆け抜ける自分の声を聞く。鼓膜で踊るたびに欲しくなるような―――そんな歓呼が自分にあることさえ、ついぞ知らなかった。

 ふと、旗司誓が動きを止めた。間近にある彼の顔を見やると、相手は歯を見せないように笑って、片目を閉じてみせる。どうやらキルルの指と肩の震え具合で、限界を察してくれたらしい。

 気遣いに甘えて、手を離す。久しぶりに―――主観的には随分と久しぶりに―――地面と体重に挟まれた両足が、かくんとひざを折りかけた。その膝こぞうを両手で撫でさすって、上気した頬のまま相手を見上げる。

「ありがと! すごいわすごいわ! どうしてこんなことできるの!?」

「へっへっへ。これでも俺ァ、基礎体力作りにかけては<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>随一だからな」

「ただの筋トレマニアだろ」

 と、どこか釈然しゃくぜんとしない顔つきで腕を組んだ片割れが、地面に倒しておいた二本の棒をつま先で小突いて皮肉る。ついで、金髪が群れをなす自分のこめかみに触れ、その指先をついっと頭頂へ滑らせてみせた。

「案外、その黒い毛に顔かたち、フラゾアインの血でも入ってんじゃねっか?」

「知るか。妥当に見積もりゃ単なる黒髪黒目のカップルの合作だ」

 それが好意からくるからかいにしては、がたとげを含んでいることを察したらしい。混血を揶揄やゆされた旗司誓が、黒髪の影で呟きを低くしぼって、声色にやんわりと恫喝どうかつ装填そうてんする。

「大体、本当にフラゾアインって黒髪黒目なのか? ええと。黄昏たそがれ満ちゆくその髪に、夜しぼりゆくその瞳、だっけか? 連中、こーいった詩歌ばっか有名なだけだろうがよ。そいつらだの合いの子だのがとんでもねーって言ってんのも、その根も葉も無さげな噂だし。かのゼラの御大おんだいがとんでもねぇから、なんとなくフラゾアインの話も信じてっけど」

「んなこと言ったら、あの人がフラゾアインまじりっての自体が噂話だろ。今じゃあの人らの前歴知ってる人なんか、ひとっこひとり残ってねえんだし。俺らに届くのなんざ、又聞きの又聞きだからな」

「だったら、なんかあるってのか?」

 そのあたりで―――

 やっとこさ、確かめる気になったらしい。黒髪の旗司誓が、自分よりわずかばかり下にある仲間の目角めかどにひとにらみをくれる。濃い色の髪の影を押しのけてちらつく眼光は、その場の誰より輪をかけて鋭い。

「お前、今回は随分突っかかるな?」

「まぁな。さっきの、こいつ程度、ってのが気に食わねぇ。取り消せ」

「だってサシでやりあって、俺のほうが多く勝ってるだろが」

「ざっけんな! そりゃお前が勝手に不戦勝って足してくからだろ!」

「ほー。女のケツ追っかけて正門まですっ飛んでった野郎にゃ非が無いってか?」

「こ、こないだのあれは、急にセヌェが商隊にくっついてまで、わざわざ逢いにきてくれたから―――くそ、むしろ女作る甲斐性かいしょうすらないお前の方が負けだろ色々! 色々!」

「んだとテメこらもういっぺん『色々』以外の部分までリピートしてみ? リピートしてみ? もつれ込ませてやろうか? それこそ色々とお前をリピート不可能な状態にもつれこませてやろうか?」

「ああああああ、やめてよ!」

 ちょっと取り残されているうちに白熱してしまっていた二人の間に、キルルは思わず割って入った。

「何もわざわざいい男同士で潰しあうことなんてないじゃない! お宝でお宝殴って壊しちゃうようなもんよ両方が損するわけよそれって大変よえまーじぇんしーよ! ね!?」

 自分でもなにを言っているのか分からなくなっていたが、声高な喉とは裏腹に、心中の独り言は冷めていった。今朝といい今といい、もしかしてこんな喧嘩腰けんかごしのかけ合いって、旗司誓のハイタッチみたいなもんなんじゃないでしょうね?

 当の男たちはと言えば数秒間、自分たちの気勢と、降参の手つきで固唾かたずを呑む少女をはかりにかけたようだった……が、同時に、秤にかけるまでもないことを悟ったのだろう。さっさと熱が散逸した相貌そうぼうに互いに半目はんめ交錯こうさくさせて、またそれぞれに何かを投げ出すようなポーズをしてみせる。

「今日のところは彼女に免じて、白屋根送りは勘弁してやるよ」

「こっちこそ。同士討ちしておりに入るなんてダアホの王冠は、お前のとんちきづらの真上にこそ似つかわしいからな」

「し、白屋根……檻―――こわ」

 思わずおくしたキルルを見て琴線に触れるところでもあったのか、なだめにかかってきたのは金髪の彼の方だった。みっともないくらいにたじろいで、猫なで声で告げてくる。

「怖くない怖くない。冗談だって冗談。大体にして、白屋根ってのは病人の寝床を集めたとこで、おりってのはーなんつーか……檻のことだけど」

「それって病院送りと牢屋ろうや送りってことじゃない!」

「違うって。病院っつーか診療所。ベッドもろくなの無ぇし、医者してくれる一主いっしゅ副頭ふくとうもあそこ居着かねぇから」

「ふくと……副頭? 副頭領―――ってことは、シゾーさん?」

 予想外の知り合いの登場に、キルルは目をしばたいた。

「ゼラさんはお医者さんもするっていうのは聞いてたけど。シゾーさんとか一主って人もしてるの?」

「いやまあ、その言い方でも合ってるっちゃ合ってるけど。副頭は頭領につきっきりだから―――」

 そこで相手の説明が途切れたのは、自分が口を滑らせたことに気づいたからか、はたまたキルルの表情に絶句を余儀なくされたからかは定かでない。キルル自身も分からなかった。自分の顔? 分かるのは、一気に極限まで冷え切った血液を無理にうち出していく心臓のしびれと、それがめぐる皮膚の下の怖気おぞけ。ならばきっと―――ひどい顔をしている。自分は。

 ともかくそこで金髪が言葉を失ってしまったため、キルルの呟きは、思った以上に空気に響くことになった。本当にひどい、うろたえきった震え声が。

「ザーニーイにつきっきりって……どういう―――?」

 頭をよぎるのは、たった今口からこぼれ落ちていく言葉ではなく、昨夜の会話だった。自分とゼラと魔神。誰がなにを言っていた?

「嘘でしょ。もしかして昨日の騒ぎがどうとかじゃなくって、ずっと……ずっと前から、どこか悪いの? ねえ! ザーニーイ、は―――!」

 と。

「おっちょこちょい。なんも知らねぇ子にそんな言い方したら、こんな見当違いやらかすに決まってっだろ」

 その時。そうやって一笑に付したのは、もう一人の旗司誓だった。ほつれた黒髪の奥、その口のきわにしわが見える―――笑顔によっても、険相によっても、あるいは険相を取り繕うためのつくり笑いでも生じるような、そんな程度の皮膚のよじれだ。それを深めるように、更に唇が歪められる。

「ごめんな。こいつが今言ったのは、副頭はあくまで副頭領の仕事がメインだし、腕前もベテランじゃないから、もっぱら診るのは幼馴染おさななじみのコンディションくらいって意味だ。他意はないよ。あってたまるか」

「うん……」

 不承不承、受け入れる。

 未だ、彼女の不安が晴れていないことを察したのだろう。それを解消しようとしたのか、はぐらかしてしまおうとしたのは判然としないが、とにかく彼は続けた。

「それに、あんたが言うゼラさん―――ゼラ・イェスカザ部隊長第一席主席。その役職の俗称が、一主いっしゅなんだ。第一部隊の主席、てのの略。単に主席って呼ぶ時もある。うちの隊長だったら五主。部隊長第五次席には、今はアジィさんって人がいてるんだけど、それは五次って言うんだ。副座のエニイージーだったら五副だな。まあ、このごろ結構ごちゃごちゃしたから、役職よりも名前で呼ばれるほうが多いんだけど」

「あと言っとくけど、さっきのおり。これも恐いもんじゃなくて、旗待ちに使ってた大昔の遺物でね。俺あれ昨日手入れ当番だったけどよ、真面目に使う日なんか、もう来んのか来ねえのか」

 ぐだぐだと愚痴ぐちに変わりかけた金髪のせりふに引っかかって、キルルは疑問を口にした。

「旗待ち? 檻の中で旗を待つって、なんなの?」

「ああ。俺ら独特の裁判みてぇなもんでさ、縲紲るいせつの恥を―――」

「よーお。なぁにしてーんのー?」

 突拍子とっぴょうし無く横槍よこやりを入れてきたのは、声だけでなかった。

 キルルのまん前。二人並ぶ旗司誓。その両者のうなじめがけ、かけ声の主が倒れこんでくる。

 そのことに泡を食ったのは、キルルだけだった。冷静に見極めて黒髪を押さえながらひょいとかわした旗司誓に置いてきぼりを食らい、結局ひとりで相手の全体重をささえることになった金髪が、肺をじかに踏んづけられたような苦鳴くめいを上げる。そしてなくなく地面に踏ん張りながら、しなだれてきた男へとしかめ面を突きつけた。どうやら知った顔らしく、やぶにらみに変転した彼の双眸そうぼうは、相手のその赤茶けたひげをきれいに整えた横面を迫力だけで張り倒さんばかりの憤懣ふんまんのぞかせている。

「お前こそな・に・し・や・が・ん・だ・よ!」

「イエーイ。モーニングあいさつぅー。おっはー。背の二十重はたえある祝福にぃー」

文言もんごんですら挨拶からすべり込みアウトだわバカヤロウ! 離れやがれ! 出会いがしらから満遍まんべんなくうざってえ絡み方しやがって―――って、あ。まさか……」

「ピンポーン。俺ぁ今から夜勤明けで休みでよぉ。ちょっくら俺の真珠ンとこしけこんでくらぁ。今度の酒のさかなうご期待ってかぁー」

「いらねーよもーお前の失恋とのろけのミルフィーユは食い飽きてんだ! サンドイッチって言わねぇのは一話一話が破滅的にペラもろいからだぞ! 嫌味だぞ皮肉だぞ分かれよボンクラ!」

「ぺらもろい」

 なんとなく瞬時に概要がつかめてしまう造語をキルルが繰り返しているうちに、金髪の旗司誓は仲間の肘を首から振り払った。返す指先で、なにやらおはらいじみた仕草を切りつつ、

「あんまれあげてんじゃねぇっての。噂じゃあの別嬪べっぴん、とっくに別の奴と出来ちまってんだろ?」

 が。そしられようがいなされようが、その男はものともしなかった。むしろ験担げんかつぎに追い風を受けたように、いかつい胸板を叩いてみせる。

「障害があるからこそアツく燃えるこの炎こそ、色男の後光ってなもんよ。ほれほれ、この愛の戦士に祝福を送ってくれてもいいんだぜぇ?」

「分かった分かった! 背に二十重はたえある祝福を! ほら、そっちでもやってやれ!」

 投げやりな物言いと裏腹に気風きっぷ良く敬礼を終えて、こちらにも顔のそぶりで同順を求めてくる。それを受けて、いつの間にかキルルのかたわらに避難してきていた黒髪の旗司誓がびんへぴっと二本指を添え、ただしその身のこなしとは違ってえらく間延びした声援を垂れ流した。

「背に二十重はたえある祝福を。せーぜー当たって砕けてこいやー」

「っせ、背に、二十重はたえある祝福を! あの、当たっても砕けないでね―――くださいね! 欠かけるくらいが色男! きっとそうだから!」

 キルルもわたわたと、うわつらだけでも敬礼をこなす。

 その時になってようやっと、その赤髭あかひげはキルルを気にかけたようだった。なんとなく息を詰めていると、彼は笑ってもなお鋭さが残る視線を目縁まぶちからこぼして、キルルへと手を伸ばしてくる。真っ先に思い当たったのは、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>では敬礼が下手くそな新米に対して胸倉むなぐらを掴んで人力じんりき到達可能域かのういき最大限界まで投擲とうてきすべしという罰則が存在しているという可能性だった。が。

「おう。んじゃな。お前のちっせえ背にも、二十重はたえの祝福が触れるといいな」

 ほこりを払うのとは違う様子で、キルルのターバンに手をぽんぽん置く。

 それから、その男はやっとこさまっすぐ立ち上がった。想像と展開のちぐはぐさにきょとんとしているキルルの目前で、とがった犬歯をさらけだして大あくびを済ますと、さっき出てきたところとは反対の方に歩いていく。

 えっちらおっちらのん気に去っていくその背中を実によく似たジト目で見やりつつ、もとの人数に戻った男たちがぶつぶつ毒ついた。

「あんにゃろ。一睡もしてねえから、一段とどえらい馬鹿に汚染されてやがる」

「ああ。あの馬鹿が空気感染じゃないことを信じるっきゃねぇな―――って、あ。接触感染でもやばいじゃん俺。くっつかれたじゃん俺。既に駄目じゃんコンチクショー」

「どえらい馬鹿って……どえらいわね……」

 それ以外にコメントすることも出来ず、とりあえずキルルはうめいた。今のやり取りを思い出しながら、彼らの関係性をなんとなく捉えかけ……不意に心に浮かんだ疑念に、言葉を持っていかれる。

「ねえ。旗司誓のあれ。背の二十重はたえある祝福に―――背に二十重ある祝福を―――どう違うの? あたしを迎えに来てくれたザーニーイたちは、その二つをつなげて、司左翼しさよくに敬礼してたんだけど」

「どう違うって……改めて聞かれるとな」

 と言いながら、その旗司誓は黒い髪の狭間から中空を見回して、それを金髪へとめぐらせた。とはいえ相手の彼も、バトンタッチされたところで如何いかんともしがたいと如実に語る困惑顔で上唇をめて、しぶみでも感じたように目をすがめる。そして、明らかに有耶無耶うやむやにしてしまいたい様子で口をつまらせながら、

「まあ、任務中の旗司誓に出会った時には先の挨拶、そいつと別れる時には後ろの挨拶なんだって、軽く分かっておけばいい……」

「ふたつの違いは、相手へ払う敬意にある」

 断言したのは、そこにいた誰でもない。

 エニイージーだった。なにやら譲れない部分でもあるらしく、こちらに向けて歩み寄ってくるその歩調は、彼の口ぶりを後押しするように強い調子を刻んでいる。

「かといって、どっちが上とか下とかいうものでもない。『背の二十重はたえある祝福に』は、行いを担うためにそこにいた相手へ接する時―――『背に二十重はたえある祝福を』は、行いを担うためにそこから去る相手へ接する時の常套句じょうとうく。二つを繋げるのは、そのどちらでもある場合だけだ」

「どちらでも?」

「そうだ」

「ええと。ごめん。よく分からないんだけど」

「そうだな。つまるところ、重い言葉だ」

 軽い気持ちで聞いていたすべてに、一種のすごみを覚えるほど真剣に逐一ちくいち返されて、キルルは放言を失った。なんとなく、自分の愛想を保つためだけに彼に合いの手を入れるのは、口ごたえする以上に罪のある所業だとさえ感じてしまう。

 と、

「お前こそ、この上なく重々おもおもしいご高説なこって。似合っちゃいねえぞ」

 肩をそびやかしながらおどけたのは、黒髪の旗司誓だった。その気楽な態度から見ると、エニイージーに気圧けおされているキルルの方が場違いなようで、金髪の方もどこか飽きが来たと遠巻きに物語るたるみ顔をしている。

 矢先、エニイージーが立ち止まった。それは単にこちらとの会話に必要なだけ距離を詰め終えたというのが理由なのだろうが、実は冷やかされたことに対する反抗でもあったのだろう。すげない冷血眼で、仲間たちにむっつりと言い捨てる。

「うるっせ。俺がここに来たときに、そう頭領が教えてくれたんだ」

「あー、そんじゃまだまだエニ坊にゃ似合わねーわけだァな」

「ぬかしてろ。どうせお前らだって、俺とどんぐり背丈のくせによ。ったく」

 慣れた鞘当さやあてのようでそれ以上に際どくなることもなく、多少ささくれた目配せだけが、ちらちらとキルルの周囲で行き交かった。それでお開きと示したのか、エニイージーが音がしない程度に手をたたいてから、返す指先でキルルを招く。その足元は、なかばきびすを返しつつあった。

「ほら、こっちこっち。もう行くから。俺はしばらく副座から外れて、あんた付きってことになった。単独護衛の範囲は、日中全館敷地内―――ってのはつまり、日暮れ以降とか、ここから外に出掛ける時とかは、また態勢が変わるってことだけど。ここまではいいか?」

「うん! エニイージー、改めて今日からよろしくねっ♪」

「あ、まあ……こちらこそ。よろしくどうぞ」

 笑いかけたというのに、どこかぎこちなく目をそらして、彼は続けた。

「ええとだ。今日はまず、建物の造りをざっと案内しようと思ってる。どうせ昨日の騒動で、ろくに見て回れちゃいないんだろ?」

「え? なんで分かったの?」

「さっき廊下であんだけきょろきょろしといて、ばれてないつもりだったのか?」

 エニイージーにとっては明々白々だったらしい。もと来た道を戻る方向につま先を進めながら、呆れ笑いを含んだ彼の顔の左半分が、キルルに振り返ってくる。

「それはだって……ええと、無二むに革命の前からある建物なのに昇降機があるとか聞いたから、どんな古ぼけたガラクタなのかしらー、とか思って探してただけだもの」

 彼について歩きながら、すっとぼけて唇を突き出す。背の裏にいるキルルの顔などろくに見えないはずだが、エニイージーからしてみれば、仕草どころかその真意も―――というか真意が見え見えだからどんな仕草をしているかも―――お見通しであるらしい。のぞいた彼の唇のへがみは、明らかに面倒ごとを面倒であっても処理しなければならない難儀を吐露していたが、それでもきちんと解説してくる。

「いくらなんでも、ンな大昔からあるはずねぇだろ。昇降機はあとになって、どっかの好事家こうずかが謝礼のひとつとして建て増ししたって話だぜ」

「謝礼で? 変なの」

「だから、好事家って言ったろ。ただでさえごちゃごちゃしてる住処すみかにそんな酔狂すいきょうを許すなんて、そん時のリーダー、相当やけっぱちだったんだろな―――って、」

 ふと歩きながらエニイージーは、どこということのない遠くを見上げた。素直にまっすぐ伸びていく牙城がじょうのへりに、足取りを少しだけ上回る速さで流し目をくれながら、

「あー。そりゃそうだ。あの―――あの頭領だもんな。ジンジルデッデ」

「“いっジンせーのジルでっデッデ!”?」

「いや。確か、掛け声そのものの方じゃなくて、そうやっていち・にの・さんで振るサイコロの方じゃなかったかな。本名不詳のデタラメサイコロジンジルデッデ。その通り名どおり、億万あるめ事だって、最後にゃひとつかふたつかむっつくらいまで収拾しちまったとか。そりゃ、昇降機だろうが噴霧器だろうがくっつけるわけだ」

「いや噴霧器はくっついてないでしょ。にしても、ひとつかふたつかむっつって……人を食ったような話ね。出目でめなんて引き合いにして。博打ばくちじゃあるまいし」

「まあ聞く所によると、ジンジルデッデは全身くまなく傷やらあざやらあとだらけで、それこそ双六すごろくの盤になるくらいだったみてえだから、もしかしたらサイコロの出所はそっちかも知んねえけどな。前に頭領が、馬鹿と天才は数撃ちゃ当たるが馬鹿と天才の一枚紙はあの人くらいだってぼやいてたよ」

「へー。ザーニーイ、面識あるのね」

「あるもなにも、頭領にとっちゃじーちゃんみたいなもんなんじゃねえの。ジンジルデッデはおうだから」

「おう?」

「頭領が引退したら翁になるんだ。つまり先代の頭領がシザジアフおうで、先々代の頭領がジンジルデッデ先翁せんおう。まあ、死語に近い言い方だけど」

「ザーニーイの前の前……だから祖父、ね。ふーん。あ、」

 と思い出して、昨晩の記憶を開く。

「前の前の頭領。そうよ。そういやザーニーイったらシゾーさんと口をそろえて、変わった人だったって言ってたわ。お礼として、昇降機の建て増しねー。材料とか職人とか、どうしたのかしら。変なの」

「そーだ。変なんだ。セレブオタクが金に飽かして趣味注ぎ込んでっから、昇降機どうこう以前にモロ変な造りなんだ。そこをこれから案内するんだから、さっさと来てくれよもう。ほら、小走り小走りいちにっさん!」

 手拍子でたきつけられ、遅れていたキルルは、急に不機嫌がつのを出したエニイージーへ駆け寄った。追いつくまではさすがに立ち止まってくれていた彼が、思い出したように付け加えてくる。

「あ。そんでもって適当な頃合になったら、混み合う前に朝飯に行くから」

「わあ、やった! 朝ごはんあたし昨日のアレまた食べたい! べろんちょ的なあれ!」

「なにそれ!?」

「―――あ、待って待って」

 叫ぶエニイージーを引き止めて、キルルは背後へ振り返った。その先には、再度棒を手にした旗司誓二人と、そこに向かって歩を進めつつあるゾラージャの姿がある。

「ねえ! あたしキルルって言うの! みんなは!?」

 離れた分だけ縮んだ二人連れが、そろって顔を上げた。不思議そうに、首ごと黒い長髪をかたむけた、その男がまず答えてくる。

「あ。俺? イコ―――イコ・エルンクー!」

 それにはじかれたように顔を上げ、金髪が続投した。

「え、ああっと。んと。俺は、アレルケン。そんだけ」

 キルルは、息を吸った。

 そして、それを声にした。

「エル―――」

 咄嗟とっさに言い直す。大きく。

「イコさん! アレルケンさん! ゾラージャ隊長さん!」

「へ? 俺も?」

 意外だったらしく、自分を指差すゾラージャに、キルルは手を振った。それをイコとアレルケンにもひるがえして、

「ありがと! お仕事頑張って! またね! ばいばーい!」

 啖呵たんか混じりならいざ知らず他愛ない激励げきれいには免疫がないのか、三人並んでぽけっと呆けた男たちの場違いな愛嬌あいきょうに、くすぐったく笑う。キルルはもう一度だけ手を振ってから、身体をもとの向きに戻した。すると、エニイージーにまたしても先行され、数メートル離されてしまっていたことに気づく。彼の人の良さをもってしても、キルルを待ちきれなかったらしい。

「ごめんごめん。すぐ行くからーって言ってるうちに、ほらもう来た―――」

 実況中継も足も追いついて……そのまま彼を追い抜かしかけ、キルルはつんのめるように足を止めた。見やるとエニイージーはその場に立ち止まったままで、言うべきことを言わねばという使命感よりか、これを伝える手段がどうして言葉でなければならないのか―――そしてその役目をどうして自分が担っているのか―――不思議でたまらないような気配を、両眉のあたりにげんなりと浮かばせている。そして、

「あんま、なつくなよ」

 とだけ、告げてきた。

 分かりやすく首根っこをさすって目をそらし、エニイージーが嘆息する。キルルは、自分のつま先から前進する気勢ががれたことを感じ、逆らわずに身体を止めた。彼の漂わせる気まずさは決してこちらに向けられているわけではなかったが、だからといってこちらを元気付ける要素があるわけでもなく、ただただ肋骨ろっこつの周りの空気を押し固めてくる。それで死ぬわけではないが、死ぬ心地は軽く味わえた気がした。氷解せず、動かず、馴染なじまず、うそ寒く―――

 そして痛感する。自分はとっくに、それを知っている。

 目を閉じ、開く。

 見えてくるのが白亜の天蓋と寝床であれば、それでよかったというのに。

 見えてくるのはエニイージー。

 悔踏区域外輪かいとうくいきがいりん

 <彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>。

 この領分でなお、自分はデューバンザンガイツの腹の中にいると言うのならば―――

(ふざけるんじゃあない)

 まぎれもない愚弄ぐろうに、キルルは歯を食いしばった。神のへびという城、そのはらわたを食い破るつもりでもなかったが、そうしてやりたい衝動に初めて駆られていた。

 それにまごつかなかったと言えば嘘になる。だとすれば簡単だ。普段どおり、自分なり自分以外なりを軽蔑けいべつしてしまえばいい。その一蹴いっしゅうで開いた距離は、空虚ながらも確実な安寧あんねいを保障してくれる。傍観者の磐石ばんじゃくを。

 ここにいる以上、その侮辱ぶじょくに気づいて、もう引き返せなくなった。

 目蓋まぶたを閉ざす。視界は閉ざされたというのに、単に瞳を向けていた時よりはっきり理解できる。その中で、意図せずキルルは、自分のささやきを聞いていた。

「あのねエニイージー。それ。ゼラさんにも言われたの」

「そっか」

 言いよどんでいたわりにはにべもなく、彼は答えた。

「分かってる」

「え?」

「あなたたちの言葉は、図に乗るなって意味でもないし、ましてやあたしの身分が恐れ多いって意味でもない。分かってる」

「―――そう。サンキュな」

「だから、分かっただけで終わらせないことにする」

「なんだって?」

 あからさまに怪訝けげんな様子で、エニイージーが声をひそめる。

 そう。その声は確かにエニイージーのものだったはずなのに、残響は全く別物へと化けていた。とはいえ、イヅェンでもない。侍女でもない。具体的な誰というわけではない。ならばそれは蛇の声だったのか。デューバンザンガイツの。

 次の瞬間に、嘲笑あざわらうための問いかけ。なんだって?

「気付いただけで終わらせない。言われただけで終わらせない―――ここは<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>。あたしは、あたしが、ここに来た!」

 宣誓した。るのならば旗幟きしへ。

 目を見開いて、キルルは歩き出した。

 はっと気を取り戻したエニイージーが彼女に追いついて方向違いを告げるまで、キルルは真っ直ぐにグラウンドを踏みしめていった。
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