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承章
承章 第一部 第四節
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「こちらの急な都合で、こんな朝早くすいません」
とりあえずその言葉をかけられた時、キルルがシゾーに対して思ったのも、まったく同じせりふだった……が、同時に、その言葉をそっくりそのまま彼に返すことが、躊躇われる所業であることも理解していた。
そんなことを考える余裕があったのは自分としても意外だったとはいえ、思いついてみれば疑問も浮かばなかった。彼女に与えられたこの部屋は、さすがに王城のそれより狭いとはいえ、ひとりで寝起きするにはあまりに広く、ついでに王城の様にそら寂しさを埋める嬌飾の類もまったくない。目を凝らせば、ひと揃いの家具のそこここに綺麗な彫りかざりを発見できたものの、その家具が必要最低限しかないことから鑑てみれば、部屋の雰囲気を覆すまでには至らないことも分かってしまった。石材の頑健さをひしひしと感じさせてくれる壁には、肩幅ほどある窓が四つ。日当たりはよかったが、それだけでは悔踏区域から流れ込む寂然に太刀打ちできるはずも無い。
(つまり、こんな風に考えごとを詰め込めるくらい、スカスカだったってことかしら)
だった、と申し訳程度にあとづけして、出入り口を塞いでいるシゾーを見上げる。
ドアの外には更に二人、護衛だか見張りだかのために一晩中そこにいたらしい旗司誓の姿も窺うことができた。室内のそぞろな空虚感と、否応無くそぞろにさせてくる室外からの圧迫感。急にゼラに起床を促されてから一時間足らず、ようやっとまどろみを振り払ったのだから、目の前にそそり立つ邪魔っ気なこの大男に、悪態のひとつでもついたところで許されるはずだが―――
(こんな顔されちゃ、ね)
シゾーを眺め、彼女はこっそりとため息をついた。
当の彼は、開けたドアよりこちら側へ入ってくる気はないらしいが、それが彼の紳士的な精神に根ざした行為でないことは、正直すぎる面構えを見れば分かる。立ち姿が微妙にななめなのは、睡余に脱力した細身を扉の縁で支えるためとも、うっかり戸の梁で額を痛打しないようにとの用心であるともとれたが、彼が欠伸を睡魔もろとも噛み殺す回数を数えるにつれて、ふたつを統合することこそ正しいかもしれないとキルルは仮説を練り直していった。
そしてシゾーが、彼女のどの推測にも反しない寝ぼけまなこをしょぼつかせ、実際に寝ぼけたことを言ってくる。
「でも、にっちもさっちもいかないんで許してください。<彼に凝立する聖杯>は、当事者としても昨日の小競り合いを無視できる立場じゃないですし―――とか言ってても、あの二人と話してると、結局はなにをどこまで無視すれば一番いいかって趣旨に落ち着くんですけど。まあ趣旨なんてどんだけでも建前で覆い隠せるんだからどうでもいいとして」
「はい?」
「建前って嘘のことですけどね。言い訳とも読めますけど、意地とか見栄でもいいんじゃないですかね。とにかく、そのへんのイザコザとうまいこと折衷しながら、あなたらへんの護衛だ何だのの采配がうまく回るように、もう一回打ち合わせする必要があるんで、してきますから。僕。それ。あいつらと」
「えと。シゾーさん。本調子まであと何分?」
「ううう。分単位じゃないとダメですか」
げんなりと両手で頭を抱えこんだシゾーの落胆は、あと数分は空気を濁らせそうに思えた。しかし、キルルの予想を裏切る速さで顔を上げ、わざとらしく咳払いしてみせる。かたをつけたポーズなのだろう。目はそらされたままだが。
「とまあ、軽いトークで掴みはオッケーだったところで」
「そーかなー?」
首を捻るが、シゾーはきっぱりとこれを無視してきた。文句がこぼれない程度に口元を顔つきごと引き締めて、さっきよりもしっかりした調子でキルルに告げてくる。
「つまり。あなたがらみの件と昨日の旗無しがかち合ったのをどう捉えるかにもよるんですが、多少ならず<彼に凝立する聖杯>はこれから身構えを変えることになります。とりあえず、哨戒レベルは確実に上がりますから」
「哨戒? レベル」
「ええ。まさかレベルだけ上げて人手をケチるなんて危ない橋渡れませんし、だったら他からやりくりしないと赤字になっちゃいますので」
シゾーの中では自明のことらしく、会話はそのまま流れた。そして変化なく続いていく。
「悪いんですけど、そのやりくりについて会議が終わるまで、鍵しめて待っててもらえますね? 会議って言っても本当の会議じゃなくて、前もって決めてたことが今後もこれでいいのかって三人でする確認作業みたいなもんなので、そんなに時間はかからないと思います。義父さんはどうあれ、ザーニーイさんならもう寝床から出てるはずですし。じゃ」
「あ。あたしも行く」
声半ばにきびすを返しかけていたシゾーを、慌てて呼び止め―――本格的に仰天したのは、それからだった。
(―――って、何言ってるの? あたし)
口走ってしまったが、何を思ってそうしたのか、自問に答えることができない。ならば簡単だ。発言を取り消してしまえばいい。あとは、彼を見送ってしまうだけで済む……
そのあたりで、ひどく時間をかけながら、シゾーがこちらに振り向き終えた。ドアのたもとで一回転した形で、もとどおりにキルルに身体の正面を向けてくる。数秒にわたる彼女の煩悶を感じ取ってというわけでもなかろうが、シゾーがしかめ面からこぼした一言は、露骨に疑わしげだった。
「はい?」
「あの……駄目?」
「概ね」
と、組んだ腕越しに、こちらを見下ろしてくる。ただそれだけの動作だというのに、上腕から胸部にかけての筋が盛り上がる様は、軋む音でも聞こえてきそうだった。とはいえ、当人の顔が眠気に毒されたままなので、威圧的だと言い切るにはいまいちだったが。
「二度寝していただいて結構なんですよ? 生活サイクルをこっちに無理に合わせてもらう必要ないですし、むしろそのせいで体調を崩されでもした方がエラいことなんですから。まあ寝相がターバン取れるほどアクロバティックだとか言うんだったら、就寝体位はそこらの椅子ででも座位を保って、頭を打楽器にロココ調とか取ったりしないよーにしつつ、うたた寝していただければ幸いですけど」
「そんな面白い寝姿、あたしだって一度お目にかかってみたいわよ」
半眼で告げてから、キルルは再開した。
「そーじゃなくて。見学したいの。もうすっかり目も覚めちゃったし、それなら昨日ちっともそうできなかった分、ちょっとでも取り戻せたらって思って」
「取り戻すんなら、ちょっとでもたっぷりでもお好きにどうぞ。護衛きたあとで」
「護衛護衛って、そもそもこのお城があなたたちの本拠地なんだから、ここのどこにいたって基本的にあたしは守られてるってことじゃない。だったら廊下にいる部屋の見張りさんにドアの外から守られて一人でいるのも、シゾーさんに付いていくのも、そんなに変わりないわよ」
「僕の負担が変わります」
「それと、見張りさんたちの負担も、でしょ。夜の見張りは心が疲れるの。部屋の中に入ってるのが後継第二階梯じゃ、なおのことね。夜が明けたついでに小一時間くらい、からっぽの部屋を気楽に守らせてあげたっていいじゃない」
そこで彼が反論を飲みこんだのは、こちらの話の正当性を重んじたからなどではなく、自分の置かれた手を焼かざるを得ない状況に喉が詰まったからに違いない。シゾーの口の間際に深まった暗い小皺はそれを直感させたが。だからといって引く理由にもならないため、キルルは視線を外すことなくまくし立てた。
「シゾーさんだって、話し合いの場に守られる当人がいた方が、意見を聞きたい時に聞けるし。なんにも聞きたいことがなかったら、それはそれで話が終わるまであたしが待ってればいいだけの話。そうでしょ?」
喋るうちに自分でも納得し、その感触を後ろ盾に胸を張る。が。
「待ち終えてから、どうなさるおつもりで?」
「え?」
分かりやすく言ったつもりだったらしい。それを徒労で終わらすまいとしてか、続いたシゾーの解説は、やたら慇懃だった。
「話が始まります。待ちました。話が終わります。待ち終わりました。ザーニーイさんも義父さんも僕も、それぞれ仕事でさようならです。頭領と部隊長第一席主席と副頭領ですから。で、頭領でも部隊長第一席主席でも副頭領でもないあなたは、それからどうすんですか?」
相手の呟きに、感情らしい感情は感じられなかった。ただ、なにも含まないだけに、勘繰って余りある裏があるようには感じられた。それに従って、シゾーを見詰める。熟した蜜酒色をたっぷり満たした瞳には、熟すには程遠いざらついた感情がちらほらと撒かれていた。それは確かにさっきまでは、明らかに睡魔への嫌気に違いなかったはずなのだが。
とまれ、どうやら彼女のその様子は、回答に困窮するままに、ぼーっと突っ立っているようにでも映ったらしい。それを合図する意味だろう。シゾーが聞こえよがしに嘆息してみせる。
途端に実感を帯びた気まずさに、確固としていた自論がしぼむのを感じ、キルルは口から出任せに言い募った。
「あの。部屋までまた送ってくれるとかは?」
「この見張り二人に錠前言葉を教えて、会議後に後任の連中とかに伝達事項とか鍵言葉を教えれば、後は当事者たちの任務にシフトです。誰も無駄な動線で動く必要ありません。本来ならね」
こうなってはまさか、ザーニーイをからかって時間をつぶそうという別案があったとは言い出せない。
「え、あの……」
キルルはしどろもどろになって、正直な声を上げた。
「ど、どうしたらいいのかしら?」
「だから、引きこもっててもらえればいいんです。ここで」
取り付くしまもない。ちんたらとプレッシャーを増していく沈黙に、弁難を詰まらせたまま数秒をかいくぐって―――
ふとキルルから半眼をずらしたシゾーが、気障りそうに、顎から頬にかけての輪郭を手の甲で撫でつけてみせた。様子だけ見ると、まだ剃っていないひげの違和感をこそぎ取ろうとしているようであったが、それに合わせてこちらから目を逸らしたタイミングも含めて考えてみれば、何らかの手慰みであると取れなくも無い。
「でも。話が終わって、僕がここまで連れ帰って、今日の護衛が来るまで大人しくしててもらえるんなら、いいですよ。もう。ついてきて」
「いいの!?」
「意味ないですけどね。全く」
目をむいて念押ししたキルルに、彼はかなり面倒くさそうに念押しをやりかえしてきた。
「本当に意味ないんですよ。僕らの話なんか、キルルさんにはちんぷんかんぷんなこと受け合いだし。ずっと部屋にいるか、最後は部屋にいるかなんて、結局同じだし。それにうちの部下に限って、たとえ後継第二階梯が在室中でなくともその人が滞在する部屋を預かるという重責が、たかだか一晩の夜勤疲れで軽石に化けるはずもないでしょうし?」
シゾーがすっと目角で撫でた先にいた角刈りの旗司誓が、慌てて肩をいからせたような気がした。キルルでも見えたものを彼が見落としたはずはなかろうが、あえての指摘はない。わずかにそちらへ目付きをちくりとさせただけで終えると、キルルにぶっきらぼうに確認してくる。
「それでも行くんですか?」
「う、うん。行く」
「そうですか。ならどうぞ」
言うが早いかシゾーは、よしかかっていた戸枠を背中で蹴って、その反動で立ち上がった。そうやって勢いでもつけないと、やっていられないらしい。嫌々ながら、げんなりとため息を噛みつぶしている。割り切る努力とは、えてしてそんなものかもしれないが。
かもしれないのだが。そんなシゾーの様子が、理由なく思い浮かんだザーニーイに重なった瞬間、キルルは動けなくなった。
「―――何なんですか? 一体」
苛立っていることが神経の感度を上げているのか、おそろしい反射速度でキルルの変化を見咎めて、振り返ってきたシゾーが隠しもせず唸る。
自分でも掴み損ねている何らかの確信を、他人がしっかと両目にねじ込んで、こうして声にまでしている。それは理不尽に思えたが、それこそシゾーには理不尽な話だろう。
「ええと、あの……ね?」
「はい」
「やっぱりこれって、迷惑なのよね? その……誰に、とっても」
「そのせりふ」
と、シゾーが中断して、えらくにっこりとほほ笑みかけてきた。ついで、とんでもないことを告げてくる。
「論拠によっては宣戦布告とみなします」
「え? えー!?」
「とか言うのはオーバーだとして。義父さん相手じゃあるまいし」
「人によっては正しい言い様なんだ。それ」
「あのですねえ。キルルさん」
不穏当な冗談にキルルが汗をたらしている隙に、真顔を取り戻したシゾーが目を伏せた。それは意図なく恫喝してしまったことへの詫びの表情にも見えたが、言葉はしからは何も感じ取れない。砂が降るように、空気に漂う余地すらない詰問が、ただキルルへと落ちてくる。
「さっきの僕の説明で、どこか聞き逃したところでも?」
「そ、そんなのないけど」
「じゃあ、どこか分からないところでも?」
「それも、特には……」
「白いゴキブリでも見かけて記憶が部分的にぶっとびましたか?」
「ええと。確かにそんなの見かけたら飛ぶかもだけど。別にそういうことも」
「ならどうして土壇場になって、僕らに対して迷惑どうこうが問題視されるんです? 説明は聞こえてた。理解もできてた。しかもどっちも忘れてない。あなたその上で、行くって言ったんでしょう。なら行くんでしょ。行きますよ」
「うん……それはその、そうなんだけど」
自分でも分からない動転に、逃げ口上を詰まらせる。その数秒のうちに、彼について歩き出す決心はつくと思っていた。実際は、シゾーの陰気な憤怒から透けて見える別の姿に、息を固まらせていただけで終わったが。
と。
「……便所だったら、さっさとやっちゃってきてください」
シゾーが口早に終えて、ドアを閉めた。
ぎょっとするが、誤解を解くためにドアを開ける度胸はなかった―――少なくとも、今すぐには。晏如とも落胆ともつかない息を小さく吐いて、目的なく部屋を見回す。今度こそ、この数十秒でもちなおさねばならない。
どうということなく、窓際で外を向いている椅子に、目が留まる。今朝、自分はそこに座らされていた。そして、室内と室外の明度の落差で鏡のようになった硝子窓を介して、優雅に羽を扱うゼラの掌を寝とぼけながら目で追った。頭越しに、何日か留守にする旨を伝えてくる彼の言葉が、綿毛のように鼓膜に積もったことを薄ぼんやりと覚えている。ただ、それから一向に、自分の寝起きを正した覚えはない。
窓に近寄り、覗き込んでみる。外に朝日がしみ出してきたせいで、さっきよりも自分の姿はおぼろげだった。あまり丁寧なチェックはできなかったが、それでも全体的に熟視を回して、服装にも顔にもとんでもない失態がないことにひとまず満足しておく。
「あの。シゾーさん」
「はい」
気まずさの間に合わせに、キルルは廊下へ声を掛けた。ドアの向こうにいる彼は、当然ながら、気乗りしない雰囲気だったが。
「ザーニーイ、いつもこんな朝早くに起きてるの? 大変ね。そんなにいっぱい仕事あるなんて」
「五十点」
「え?」
「半分正解なんで五十点です。百点満点採点ならね。字面だけ聞けば正解と言えなくもないですが、おおもとは多分間違ってんでしょうから」
「おおもとって?」
「音痴だって、楽譜が読めるんなら筆記テストは合ってる。歌唱力のとこで、とてつもなくハズレてようがね。そんなのですよ」
そのあたりで、キルルはドアを開けた。
シゾーは、探さずとも真正面にいた。廊下を挟んで反対側の壁際に肩を預けて、なおも気だるそうに立っている。
「じゃあザーニーイが今してるのは、旗司誓だったら絶対しなきゃならない……けれどお金には結びつかない、そんなのよね。それって、義務とも違うの?」
それに対する答えはなかった。ただ彼はのろのろと腕組みを解いてからドアノブを指差し、手を何かをつまむように丸めて、ちょいちょいと回してみせる。
相手が無言の意味は分からなかったが、無言で示した仕草の意味は如実に伝わった。キルルがわたわたとドアに鍵をかけて横にどくと、こちらと並んだシゾーが左右に起立する見張りたちと目配せして、ノブを捻ってみせる。そうやって施錠を確認する姿は、その長大な―――巨大というより長大な―――身長のせいで極端な猫背を強制されて、奇妙な愛嬌を感じさせた。今はあのどこぞの建材のような剣を帯びていない背筋に、几帳面に浮かんだ骨と筋肉のでこぼこが、場違いな笑いを誘ってくる。
「ザーニーイさんは」
「え?」
その唐突な呟きは、独り言ともとれた。
実際、やはりキルルに答えるでもなく、シゾーは確認し終えた扉の取っ手にひっかけたままの指先を、仕方なくといった感じで見詰めている。
「あの人は今の時期、夜討ち朝駆けでこなさなきゃならないようなデスクワークなんてないですよ。逆に、だからこその早起きでもあるんです。つまり、」
不自然に、言葉が途切れた。無くしたその残りを追いかけるように、シゾーのぼやけた目が漂う。隣のキルルを見て、その向こうへと伸びていく廊下を見たようにも思う。
「―――つまりザーニーイさんが一番大切にしてるのは、“頭領”と言うパフォーマンスです」
吐いた囁きを踏みつけるように、シゾーは前触れなくその廊下を歩き出した。
「ちょっ、と―――!」
非難の意で呼びかけるが、彼が立ち止まることはない。
戸惑いに背中を押され、キルルは小走りに相手を追いかけた。シゾーは特に早足のつもりもないのだろうが、とにかく彼女とはコンパスが違いすぎる。
彼に追いつくのに、それほど努力はいらなかった。それでも彼のことを理解するには、それ以上の努力が必要とされている気はしていた。どことなく身を竦めて、相手を見上げる。しかしシゾーは、後に残した旗司誓へとってつけたような敬礼を送った以降、前を向いて歩くままでこちらを見ようとしない。
ただそれは悪気があってのことではなく、単にその位置に顔を落ち着けておくのが楽だから、そうしているだけのようにも思えた。確か昨日、ぎりぎり十代とか言っていたか―――風貌の素地が悪くないだけに、つまらなそうな表情はすぐ読み取れた。
角を曲がると、誰もいなかった。続く廊下に灯火はない。つま先を踏み込ませるのにも気後れする、無人以上に清んだ気配に、息が震える。
それでも踏み込んでしまえば、震えもろとも、吐息は掻き消えたのだが。それとすれ違うように吐き出されたシゾーの独白までも震えていたような気がしたのは、自分の呼吸がもたらした思い違いなのだろう。
「彼は旗司誓の頭領として、それらしくないことを、なにがなんでも冒さない」
意図を察しかね、彼を見る。
押し殺されてしわがれたシゾーの声は、ろくに反響もしない。それでもこちらに届いていることは疑いないのか、彼は特に繰り返しもしなかった。
「……結果として、今の<彼に凝立する聖杯>が出来たんです。えらく出来過ぎた旗司誓がね。だったら、どうであれ否定もできないし、なのでどうでもいいんです」
表情に険しさを差しておきながら、捨てぜりふをそれ相応にすることはできなかったらしい。自覚はあるらしく、シゾーは投げやりに舌打ちして、無理矢理に文句を打ち切った。
ふと、思いつく。彼が置き去りにしようとしたのは、キルルではなく、彼女へ向けるはめになった彼自身の言葉なのではないか? しまおうとした鍵がポケットに引っかかったことに気をとられ、深める間もなくその分析は散ってしまったが―――
とまれ、キルルは目をぱちくりさせた。そして、シゾーが言わんとしていたこととは無関係に手に入れてしまった感想を、吟味するでもなく口にする。
「これって、男の友情ってやつ?」
「はあ?」
シゾーが、いわれない痛打を食らったように絶句した。実際彼は、それこそ因縁なく闇討ちされたかのごとく歩行すら途絶させて、ひどく面食らった顔を硬直させている。
それに遅れて立ち止まり、キルルはくるりと彼に振り返った。
「あたしにはよく分からないから、男同士にしか通じないフィーリングみたいなものがあるのかしらって思ったの」
そこで忍耐が切れて、小さく笑ってしまう。
「ザーニーイを心配してるんなら、そんな悪し様に言わなくたっていいじゃない」
「僕は別に―――」
抗弁の形に口唇を開閉させて、しばし。
結局はわずかに口の端の内側を噛んだだけで不当さを呑んで、シゾーが再び歩き出した。とりあえずの目的を達することにしたらしい。ザーニーイの部屋へ続く廊下の辻は、すぐそこに迫っていた。
「……なんの話だったかというと。そんなこんなあってうちの頭領は、どこに誰の目があるか分からない屋外で、頭領として稽古するほかには自主トレしたりしないってことなんです」
意外にも、シゾーによって通弁は取り戻された。それは、こちらの話題を片付けてから次の面倒に取りかかりたいというだけのようで、それ以上の親切心は感じ取れなかったが、ありがたいことには違いない。抵抗せずに、相槌を打っておく。
「だからいつも日中に支障をきたさない程度に早起きして、ほとんど人気なし・圧縮煉瓦で防音もきっちりしてる三階の室内で、好き放題に刃物ぶんまわしてるんですよ。寝る時間が遅くなった時は仕事部屋でゴロ寝する習性があるんで、今日はその近所の空き部屋でクルクルやってるに違いないでしょ」
「うっそぉ! こんな、みんな寝てるみたいな時間に?」
真に受けずに笑うが、シゾーはこともなげに言い返してきた。
「こんなみんな寝てるみたいな時間の朝っぱらだからこそ、見られでもしたら厄介なんじゃないですか。『頭領が起きてるのに自分が何もしないなんて!』って勇んだ熱血が、無駄に早起き合戦とかしだしたらどうすんです?」
「うーん。そういやそうよね。特にエニイージーとかやりだしそう……って、あれ? エニイージー?」
廊下を曲がった直後、話すにつれて思い描いていた姿が現実のそれと重なり、信じられずに呆ける。
こげ茶の髪に絡めた、明るい緑色の布。立て膝に顔を押し付けるようにしながら床に座り込んでいるせいで、顔かたちまでは分からないとしても、その引き立った色合いはすぐに目に付いた―――思わずシゾーとその場に立ち尽くして目を眇めてみるが、白昼夢として空気にかき消される予兆はない。少し先の通路の端で、剣と片足を抱えるようにして壁にもたれているのは、確かにエニイージーだった。
彼のすぐ隣には、ドアが見える。自分たちが向かおうとしているザーニーイの部屋だろうと、キルルは見当をつけた。さりとて、エニイージーに入室する気配はないが。
「えーにいーじぃー?」
手でメガホンを作り、わざと不自然に呼びかけてみる。それでも相手は怒り出さなかったし、そもそも動きすらしなかったし、あえて言うならば聞いていないようであったし、つまるところ無反応だった。食い下がるようにそこまで認めて、高まる不審感に促されるまま、エニイージーへと駆け寄っていく。二歩目でシゾーを追い越したが、彼は制止してはこなかった。
エニイージーへと近づくにつれて、空気の冷たさが一段と強まった。早朝の冷気だけではない―――今さっきまでいた建物の内側にあたる部分と違い、ここは壁一枚外が悔踏区域に面している。もっとも、そのことに不慣れなのは自分だけらしく、蹲るエニイージーの半そでからむき出しになっている腕には、鳥肌ひとつ見当たらない。差し込む朝日がじわじわと夜闇を駆逐していく中で、窓と対面する位置の壁によしかかっている彼の背中にばかり、影がじっとりと纏わりついていた。
と。
「……あれ? キッティ―――」
どうやら、眠っていたらしい。エニイージーがうわついた目元でキルルを見上げて、そして彼女を認めたことにこそ違和感があるとでも言うように、しかめ面を押さえてかぶりを振ってみせる。
その仕草に目途がついたのを見計らって、キルルは彼に声をかけた。自分の両膝に手をついてつっかえ棒にしつつ、一見して夢うつつなエニイージーの両目に正面から顔を近づける。
「何してるのよこんなとこで? 罰ゲーム? 昨日の腹踊りで清算できなかったの?」
「いや、俺はただ、頭領の近くにいてあげたくて―――」
「迷惑です」
息が、止まる。
当然だった。瞬時に固化しきった空間に、飲み込める気体など残されているはずがない。声音を突きつけられたエニイージーの顔は、キルルと同じように、明らかに引きつっていた―――だがそれ以上に明らかに、その引きつりが、彼女とは異なる感情を大半の元凶にしていることを告げていた。
「おや。申し開きがおありで?」
口吻を漏らしながら、もう一歩だけエニイージーへと踏み込んで。その気になれば殴りかかれる距離に立ったシゾーのせりふは、意図的に速さを落として、相手へと示された。鋭利な切っ先を、それで抉る対象に前もって見せつけるなら、こんな速度が効果的に違いない……
ぞっとしないひらめきが過ぎ去らないうちに、エニイージーが床から腰を上げた。剣を持って。
「……昨日、交戦状態が解かれてからも、頭領はずっとどっか様子がおかしかったんです」
そうして立ち上がる勢いが、心根の攻勢をも助太刀したわけではなかろうが。彼が放つ言葉は、まっすぐ立ったのを最後に、まだしも取り成していた堰をぶち破った。身振りも大きく腕を薙いで、その動作で相手の首が刎ね跳ばなかったことこそ道理でないとでも断じるように、シゾーの頤に向けて声を強めていく。
「あんた、それくらい知ってただろ!? あの後、頭領のそばには、あんたもゼラさんもずっといたんだから! ―――なのに、いたわりも何もしやしなかったじゃないですか! まるで我関せず決め込んで、いつもどおりにぎゃーぎゃーと無神経に騒ぐだけ騒いで! だから、俺くらい……昔、俺に頭領がしてくれたみてえに、今は俺がそばに―――!」
「害毒です」
それは、そう思いつくまま、口にしただけらしかった。シゾーの気の抜けた眉目は、冷めたように表情を消したまま変わっていない。
だが、表情を更なる険悪へと転じたエニイージーを前にしてなお変化が見られないという事実は、それが単なる思いつきではないことを知らしめていた。硬度を増して膨れていく部下の首まわりのすじ肉を底光りする双眸で値踏みしながら、シゾーが早口で残りを告げていく。
「ああ。昨夜からの酒気帯びであっぱらぱーだったところで分かりやすいよう、今朝は翻訳して差し上げましょうか? ずっとどっか様子がおかしかったその人が、そういった手前味噌な美談のダシにされないよう、僕ら義父子であんたらを監視していたことにさえ気付かないんなら、あなたのそれは手前味噌な美談どころか自慰でしかないと言ってるんですよ。別に、それをするなって言ってるんじゃない。自慰なんだから自分ひとりで落とし前つけなさいと言ってるんです。認めましょう僕の落ち度です。今この時までザーニーイさんから離れるんじゃなかった」
「ちょ、シゾーさん……」
キルルは無意味に挙げた両手を引きつらせながら、話の流れを折ろうと試みた。度を越した戦慄に触発されての、ただそれだけの行為だったのだが。
それがやぶ蛇だったと気付いたときには手遅れだった。表向き、シゾーの面構えは微動だにしなかったのだが、そこから発される語彙の羅列は加速度的に量と速さを増していく―――むしろ彼は、内側から沸騰しゆくものが喉に障るのを避けるために、抑えをきかせていた理知を、ごく自然に手放したように見えた。
「いいですかエニイージー部隊長第五席副座。あなたの振る舞いがどれだけの弊害を起こす危険性を孕んでいるか、僕はことあるごとに警告したはずです。あなたの体調への影響、あなたの役割への影響、ザーニーイさんへの影響。あの馬鹿騒ぎ明けにこんな廊下に居座って風邪でもこじらせたら、あなたの今日の予定はどうなります? 病人を囲う破目になる部隊はどうなります? 間接的にそれをもたらしたザーニーイさんは、頭領としてそれをどう感じると思います? あいつが何も言わないのは、頭領として―――」
シゾーが、唇を歪ませた。激昂の一歩手前で立ち止まらざるをえないことを、嘲笑しようにも儘ならない。そんな風にも見える。
キルルからも見える角度で剥き出しになったシゾーの犬歯が、わずかに開いた。そこから囁かれるのがいまだに人語であることが、何よりぞっと背筋を脅やかす。
「瞬時に万事を万全に取り返す手段もないくせして夜通し廊下に座り込むお前は、いずれ殺意もないのに人を死なす。そんなことはありえないと思うか? だったら今のうちだ。どこでもいいからとっとと出て行け。そうだな。訳すだけじゃなく、今までの全部を要約してやろうか―――」
吸気が言葉に化け、怪物のように空気をつぶした。
「見くびるな」
警告が終わり、無言が始まる。
冷や汗ともあぶら汗ともつかない体液を下からつつくように、キルルの肌があわ立った―――これは危険だ。ひたすらにかき鳴らされる警鐘は痛いほどに理解しているものの、それよりも彼女を挟んで両側に立つ男達の方が圧倒的であることも理解せざるを得なかった。
(何なのよ……!?)
わけが分からない。ありえない。不当である。こんなものは反則だ―――手当たりしだいに逃げ場を探すが、そんなものはどこにもなかった。上辺だけは冷静な態度を崩さないシゾーと、上辺に保つべき態度さえ冷静さごと捻り潰しつつあるエニイージーの間で、臓腑が成す術もなく圧迫されて軋んでいく。
剣の存在は、どちらも無視しているのだろう。それ自体はありがたいとしても、それによって両者の掌は、素手の不利を挽回するかのように拳として固められつつある。筋が引き絞られるのを代弁したとしか思えない鋭さで、シゾーの手袋がぎしりと吼えた。引き絞られたならば弾けるのだろう―――切っ掛けがあれば、すぐにでも。
エニイージーの言動が、その切っ掛けに相当するかどうか。正直キルルには、判断できかねた。彼はただその時、声を出しただけだ。ただし、単なる発声には不必要な顔皮のへがみが、せりふ以上に凄絶な何かを吐き出していた―――
というよりもキルルには、彼の言葉からは、こびりついた激情しか把握できなかった。言っていることが意味不明だったのだから。
「何も言わない? 頭領が何も言えないのは、三年以上前からずっとシゾー・イェスカザが聞き耳を立ててるからじゃねえのか?」
右肩に、影が触れたような気がした。
過敏に、そちらに眼球が跳ねる。そこに立つシゾーは動いていない―――のみならず、日の光に伸ばされた彼の影が、キルルの肩にかかっているということすらない。ただ唯一、先程とは違っていたことがある。シゾーがちいさく笑んでいた。
問答無用で止まりかかった心音の静寂の狭間で、キルルはシゾーのその声を聞いた。
「そうですね。以心伝心で育ってきた幼馴染みですから。確かに僕さえいれば、全部代弁できる。あの人は無駄口を利く必要もありませんね」
あの人。が―――
沈黙を食んだのを、見たことがある。
彼は、この建物に抱かれた中庭にある石くれの上で、夜宵の天に紫煙を手向けながら言葉を遂げた。寸秒後には、<彼に凝立する聖杯>の戦端句を、キルルに継いで口にする――― 寸秒後には。
今はただ、無言の唇。無音の歯列。だからこそ、紛れることはない本物。彼だ。
「いい加減になさい」
キルルはどうしようもなくなって、それを叱責として吐き出していた。
男たちの注意が、こちらへと差し向けられる。当たり前だが両者とも、さわれば爛れるような癇癪を冷ましていない。それに対する恐怖が無くなったはずもなかった……現にキルルの指は、痛みさえ麻痺するまでに握り締められ、血の気を失っている。ただし今は、恐怖では抑えられないものが、本能を席巻するまでにうず巻いている。それだけだった。
「いい加減になさい。ここはどこで、あなたたちは、ここにとって何なの? ここは、単なる家の中? それともここは、ただの廊下? だったらあなたたちは、ただの利かん坊でも許されるでしょうよ。そうね。きっと、このまま面当てを続けても大目に見てもらえる。けれど、」
顎の筋肉が引きちぎれる予感に、ひとまずキルルはうなだれて歯を食いしばった。ないまぜになった感情に負けつつある自分の拳が、少しずつ震えだしているのが見えた。それをこの男たちに叩きつけるほど無謀ではなかったが、それでもそんな気分で、一層に肺臓を絞る。
「いい加減になさい。ここはどこで、あなたたちは、ここにとって何なのよ?」
それを最後に、物音さえも静まっていく。いや。
「―――そうですね。そうでした」
そうやって、ため息にすり込むようにしてまで同意を示してきたのは、シゾーだった。
首肯するだけで済ませなかったのは、自分自身に言い聞かせるためでもあったのだろう。まだ地味に神経を焼いてくる憤激を、手放しにしない程度には制御を取り戻している、そんな目だ。
その眼差しは、彼女からエニイージーへと舞い戻った一瞬だけ、直前の勢いを取り戻しかけたようにも感じられた。だが、はるかにそれを挫く素早さで、冷ややかな声音が空気を駆け抜けていく。
「エニイージー部隊長第五席副座。今日からの任務に特別最優先追加。キルル・ア・ルーゼ後継第二階梯が王城に帰還するまでの間、四六時中の身辺警護にあたりなさい」
「な―――!」
「ついてまわる相手がすげ替わるだけです。何の問題もないでしょう?」
邪険に満ちた睥睨に乗せて、辛辣に皮肉る。いや、口にした当人にすれば、皮肉ではなく本音だったのだろう。それを向けられたエニイージーは、キルル以上に明確に、その感触を味わったに違いない。実際彼は、ぎりぎりの均衡をシゾーが試したことを察して、大きく自制を切り崩したようにみえた。しかしそれによって逆に言葉が出遅れたために、飛び出たキルルの悲鳴に取って代わられてしまう。
「ちょっとシゾーさん、護衛とかはゼラさんやザーニーイと話してからって―――!」
「話しますよ。あとでね。三人でする確認作業ですから。三人でする検討課題じゃない」
にべもなく終えて、シゾーは短く目を閉じた。たったそれだけで炯眼を研ぎ澄まし終えて、再びエニイージーの急所へと決定打ごと突きつける。
「現時点をもってしての、副頭領シゾー・イェスカザからの直命です。副座ごときに反論の権限はありません。どうしてもというなら規則に則り、緊急時を除き、たった今から六時間経過以降に稟請なさい。どうであれ、部隊長第五席および同次席には細大漏らさず報告すること。以上」
命令が……今、シゾーの口からエニイージーに向けてでさえなければ、まったく違和のないだろう命令が終わる。ただし―――キルルは恐々として認めた―――これが今、シゾーからエニイージーに与えられたものに違いない以上、それは一介の任務では済まされない。きっと、済まされることではない……
そのことが、どういった結果をもたらすのか。エニイージーを見やると、彼はもてあまし気味に感情を噛みながらも、それなりの落ち着きを保っているようだった―――無言でいることを、落ち着くことに含むのならば。そしてそうしているうちに、思い知らされたのだろう。自分の感情。相手の感情。自分と相手の感情を抜きにして存在する立場。その時点で拮抗は失われていた。
エニイージーが、よどみなく敬礼する。しかしそのなめらかさが、それが本心でなく条件反射に基づいての行為なのだということを際立たせていた。
「副頭領より、確かに<彼に凝立する聖杯>エニイージー、部隊長第五席副座として拝命しました。これより、特別最優先事項として任務にあたります。背に二十重ある祝福を」
「背に二十重ある祝福を」
粉黛にまみれたやり取りを終えて、まっさきに動いたのはエニイージーだった。誰とも目を合わせることのない角度で身体を反転させ、先程キルルとシゾーがやってきた廊下を早歩きで逆行していく。よってその顔は見えなかったが、離脱を求める急いた態度こそが、面差しを見るよりはるかに雄弁だった。
「ちょ、ちょっと……」
相手なく声をかけて、誰からも答えられなかったため、結局はぐるぐると思い悩む。キルルは胸に手を当てて、今までの記憶を断片的に拾い集めた。反則。三年以上前。身辺警護。六時間。余計な幾つかを拾った分だけ、とんでもない幾つかをこぼしたような気もするが。
キルルは、エニイージーを追って駆け出した。そうしてみてようやっと、くぐる空気にさっきよりも温みが通っていることを感じる。朝だ。長かったが……至ってしまえば、それに違いなかった。朝だ。
□ ■ □ ■ □ ■ □
(何で俺はこうなんだよ―――くそ)
苛らぎは明解だった。としてもそれは、単純であるということとは違う。認めて、シゾーは口蓋に吹き溜まっていた息を奥歯ですりつぶした。経験、時間、忍耐。不快な情緒を受け入れるために費やすものを数えながら、廊下の奥へ遠ざかっていく二人分の人影を目視する。数秒とかからず、どちらとも角を曲がって視界から消えた……結局そうしてみて、費やしたことを確認できたのは、時間だけだったが。
だがそれでも、経時的にわずかながら砕けた感情の棘は、どうにか噛み千切れるくらいに収まってはいる―――
(問題があるとでも?)
咀嚼を試すべく、シゾーは長々とひとりごちた。
(元々エニイージーは、その目星がついていたからこそ後継第二階梯の出迎えに参加を許された。うちは全館敷地内、いつだってそれとなく誰かしらの目がある……お守り役はひとりで充分だし、何よりお守りなんだから、取っ組み合いの腕前は第一要件じゃない。エニイージーは相手と一日分多く気心が知れてる上に、あの箱庭培養らしい人当たりがある―――他にも候補はいるが、いつまで続くか不透明な仕事を、頭領からじきじきにもたされたってだけで完遂が疑いないびっくり馬鹿はあの野郎くらいだ。昨日の件のせいで、こんな最適な奴を差し置いて他の候補をテストする余裕ももうない。どうだ。問題があるとでも?)
そうだ。問題はそこにない。
自分の性根をまさぐる中で、それを逆手に洗脳でも施しているような心地も、この上なく不愉快ではあったが。それでも手軽く納得を得られる誘惑に逆らう気はなく、シゾーは続けざまに、とるべき行動を脳裏に殴り書きした。
(とにかく。あいつに顛末を伝えてからだ)
頭領の執務室の扉を開けながら、それだけを思う。が。
開けた扉の先に、部屋がない。
ぎょっと立ち止まった拍子に、思考もぶつ切れる。唖然と目を見開いて……そしてその時には、部屋がないのではなく、締め切った室内の空気を押しのけるほどに紫煙がたち込めていることを知って、重ねてぎょっとする。虫除けに部屋を燻しているかのような光景に肝を冷やすが、その八節モドキのにが渋い芳香は決して殺虫を計画してのものでないと悟るにつれて、逆に腹の奥の体温は上がったようにも感じる。
濃すぎる煙が眼球にしみた。涙腺に絡みつくような痛痒さは、過去に愛煙していた身にさえきつすぎる。たまらず目がしらを親指で押さえつけながら、シゾーは大きく毒ついた。
「なっ……これ……おい! お前まだこれ禁煙してねぇ―――なかったんですか!?」
大声は部屋に充満した流煙を震わせただけで、当の喫煙主からの返答は一向にない。
戸口から煙が流れ出たおかげで、わずかながら視線を通すようになった室内に向けて、注視を走らせる。この執務室は簡素な造りにあわせた実用的な内装で、唯一の飾りといえるものでさえ、書庫にしてある隣室とここを繋ぐ扉になされた彫琢細工くらいしかない―――その優美な幻獣たちの群れさえ、とうの昔に幼いザーニーイの悪戯の餌食になっているため、珍妙な毛虫の行列に変わり果ててしまって久しいが。最奥にひとつ、大きめの窓。その両側には大小の書棚。窓の手前に執務机。その机上は、いざとなれば寝台にもなれそうな大きさを誇っている……そして、いくら面積があろうが使うのはしょせん人間でしかないと証明するように、書類やら何やらが非効率的に散乱しつくしている。当たり前だが、それ相応に汚れていた。
まあそれらの有り様も、今の部屋主の格好に比べれば、実に謙虚といえただろう……向かって、机の左はし。そこにだらしなく凭れかかって床にへたり込んでいるザーニーイが、こちらに猫背を向けて煙管を喫している。
語気を絶頂に引き戻すには、そこまでで充分だった。煙のプールに飛び込む心地で、部屋に入って戸を閉める。すり減ったじゅうたんを劈くようにつま先を突き込みながら、シゾーはザーニーイへと詰め寄っていった。
「どうしてもっていうんなら、もう煙癖にはとやかく口出ししません。せめて銘柄を変えてください。そんな粗悪品、体に悪いだ……け―――?」
怒鳴り声を上げるには充分だったはずの理解が、それを超えて深まっていくにつれて、声音はすぼまっていった。連動するかのように、歩調も弱くゆるまっていく。
ついに、シゾーは足を止めた。ちょうど、床に奔放に広げられた煙草盆がそれにひっかかって、灰皿に積まれていた吸殻の絶壁がわずかに雪崩る。
つまり、灰皿がザーニーイの手の届く位置にあるように、シゾーもまたザーニーイの手の届く範囲にいる。たったこれだけの距離まで近づいたというのに、相手は振り返るどころか身じろぎひとつしない。
鼻白んで、ザーニーイを見下ろす。そうして見てもやはり幼馴染みはだらしない無表情で、やはりだらしなく机に右の横面と横身を預けて尻を床に落としたままで、これもやはりと言うかだらしない格好だった。今朝も念入りに修練に勤しんだのだろう。いっそもろ肌を脱いだ方がまともに思える程に着乱れて、胸といわず腹といわずくしゃくしゃに服やさらしをたくし上げている。酷使した細胞に報いるべく繰り返される呼吸の乱れが、紫煙に起こる波紋から容易に読み取れた。それでなくとも、汗で張り付いた衣服がなお一層体つきを露出させているため、横隔膜の過活動が脊梁を揺さぶっているのが目に見える。それ自体は、特に珍しい光景でもない。と言うのに。
屈身して、ザーニーイを覗き込む。が、見返されることはなかった。相手の目玉は漫然と、すぐそこにある猫脚に向けられている。シゾーもそれを見やったが、どうということもない。ただの机の脚だった。前の家主の趣味らしい時代物の黒塗り造りで、高級なカーブで肢体を彩りながら床に踏ん張っているが、汚らしい縞模様を作るように幾つもの横傷が刻まれているため色々と台無しになっている。傷の横にはことごとく、短い語句が彫られていた。ザーニーイがどれを見ているのかを勘で辿り、解読する―――大人の字で、『ずるっこ よっつ』。それはぐしゃぐしゃに削られ、そのわきにやたら読みにくく書き直されている。『おれ いつつ』。何の変哲も無い、ただの背比べの痕跡だった。
気味悪さだけを直感し、シゾーは顔をしかめた。ザーニーイはそこを見ているというよりも、単に瞳を向けている。こちらの叱声に風馬牛を決め込んだゆえの馬耳東風であったとしても、奇妙さが鼻について離れない。
唐突だった。ザーニーイの咥える煙管が震える。震えの元凶となった呟きも、わずかながら耳に届いた。
「―――っかしいなぁ……」
「おい、どうし―――」
取っ掛かりを得て、シゾーは口火を切った。のだが、
「とうさんが言ってたのに」
思わず、そのままの格好で手足を突っ張らせ、後ずさりもできない体勢で硬直する。顔面にかかってくる、邪魔な毛筋ひとつ動かせない。煙管が落ちた―――声をこぼしている、相手の唇から。とうに火も自滅していたそれが転がる先を見ることもなく、ザーニーイはぽたぽたと独語をたらし続けている。恐らくは、今朝のいつからか今まで、そうしていたように。
「シザジアフさんがとうさんだった時に、こいつをくれたのに―――八節モドキは特に血管径に対する攣縮作用が強くて、怪我人の応急手当に使うこともあるくらいだから、お前にゃめっけもんかもしれねえって。だってのに、なんで毎回こー上手くいかねぇかなア……とうさんが……間違えるはず……ないのに」
ただ絶望して、シゾーはひとりごちた。
(とうさん)
聞き慣れない言葉だ―――いや、正確には、聞き慣れ終えてから何年も経過した言葉だ。ザーニーイは思春期を境に、養父の呼称を親父に変えた。そして思春期が終わる頃には、そのように呼びかける相手自体いなくなっていた。
(発作だ)
ただ確信して、蝕まれかける正気に身震いする。あえて思い出すまでもなく、ザーニーイの症状は、毎度の惨害の記憶と重複しつつあった。ただし、今はここにゼラがいない。
無音で呟く。背骨と臓物の間を、凍える水銀が伝い落ちたような感触におののきながら。
(こいつの発作はいつものことだ。分かってる。分かってなかったのは、このタイミングだ。早すぎる)
ザーニーイの言々を反芻する。とうさん。とうさん。とうさん。その都度、ザーニーイがまともな状態にないことについて認めざるを得ない以上、発作による錯乱が加速度的に悪化していることも認めなければならない。
(いつもならこんな本番の前一週間、調子といわず態度といわず、とにかく前兆が出る。その猶予があるから、こいつも俺たちも腹を括れた。だのに、こんなときに限って、たったこの数時間で? こんな―――)
シゾーは掌に浮かんだ嫌な汗を、つかんでいる自分の膝ごと握り潰した。不意に、後継第二階梯の親しみやすさと馴れ馴れしさを履き違えていることこの上ない振る舞いを思い出し、余計な怒気がやすりのように肌を削る。
(こんなストレスで発作が誘発された……いや、圧縮された? くそったれ。にしても、あのフラゾアイン、いつもなら俺より先にこいつに会ってるはずだろ。まさか発作のサイン、丸ごと見落としやがったってのか?)
ありえない。どのような災厄に見舞われたら、ゼラ・イェスカザがそのような痛恨のトンマをやらかすというのか? 万力を込めた出刃包丁とすりこぎの乱撃を、鼻歌混じりにタマネギの皮をむきながらかわすような化け物が―――結局は自分の全治十日に終わった古い悪夢を振り払って、シゾーはほぞをかんだ。
(いや、そんなことは、この際どうでもいい。どうでもよくないのは、このことなんだ。タイミングが悪すぎる―――)
タイミングが悪すぎる。繰り返す。タイミングが悪すぎる。それはある意味、慣れたことだった。こんな運命の悪計としか思えない展開を予測していたといえば嘘になる……が、自分の運の悪さくらいなら、いつだって実感していた。それは、孤児の時から培ってきた人生訓のようなものだ―――類が友を呼ぶのは、人間じゃない。悪運だ。
だとすれば。最悪が、これからだ。
危機感を唾液ごと呑み下し、シゾーは次の瞬間を待ち受けた。それしかできないのなら、姑息であっても、できる一瞬で構えるしか策はない。ゆえに。
(来る)
来た。
「あんた誰だ」
ザーニーイの横目が、シゾーを見ていた。汗と涙でばらけた金髪の間隙から。
その瞳を、知っている。
致命的な臓器を確実に再起不能にする位置の肋間へと差し込まれゆく銀刃を、受け入れるほかない者の瞳。
そして、それを認めた途端に下腹を奥底から炙る、この本能の欣びを知っている。
(ああいけない)
アアいケナイ。
あえやかな甘露を機械的にねじ伏せ、シゾーは目蓋を下ろした。それを上げたところで、燻り出だされた涙はひねり潰せておらずとも、そうした。
そして、それを続けた。
高鳴る心拍は緊張のせいだ。歯の根をぶれさせる痙攣は窮地のせいだ。平熱が沸点へとシフトしようとするのだってそうだ。耳鳴りしようとする鼓膜も心底すばらしい刹那の鳥肌も、舌根のぬめる甘味も膨れる脳ですら!
「―――誰だ、だって? 知ってるだろ?」
呼吸すら食い殺して、柔和に笑う。シゾーは、聞かれていない言葉を語りかけた。
こんな時にしかいえないような厭味を、卑怯にも織り交ぜながら。
「ひどい奴だよ。あんたは」
無手を示すために両手を広げ、見下ろす構図を解消するために、しっかりと腰を落として屈む。それでも、ザーニーイの容態が暗転していくのは止められなかった。こちらを恐怖し、遠ざかろうとしながらも、立ち上がることすら忘れているようで、結局は無駄に手足を這わせて後ずさる―――が、今ほど、過剰に警戒して身を反したことさえ覚えていないのだろう。机に背中をぶつけて後退を阻まれ、その表情が黄昏から更なる奈落へと落ちる。
「知ら、ない……誰だよ……嫌だ、来るな……」
その双眸は、ひどく純度の高い鋒鋩を思わせた。鋭く魅せられるが欠けやすい。折れることもあるかもしれない。
シゾーの妄想を御するかのように、不意に頭頂からこぼれた髪が、左耳の異物をこすった。ここへ来て十数年、薄緑のリングピアスは、もはやそんなことがなくても意識だけで触知できる。だがそれでも、今そうして思い知ることに意味を求めるならば。
分かりきったことだった。唇を舐めて、改めてザーニーイに対峙する。
「知らないことなんかない。俺はお前の味方なんだから。嫌なことだって、何もな―――」
「かえせよ。かえしてくれ。みんなのとこにかえ、し? 違う。嘘だ。みんな、を? みんな? 嘘だア。いるか。いるのか? どこに? どこにも。いるはずない……ない、はず、ない、のかよ、とうさ―――シゾォ…………シ、ゾー?」
自身の呟きを探すように、ザーニーイの目が上ずった。うわ言を後追いして迷い出た眼差しは、更に得体の知れない思念に曇る。
「どこだ……シゾー。あのチビ。マメ。いねえ。コラ。くそが。ったく。泣き虫はお預けにしとけ。待ってろ、いま、そこまで戻ってやっから―――嫌だやめろ! 俺に触るな!!」
「シゾーは俺だ。ここにいる。落ち着け」
伸ばしかけた指先を引っ込めて、シゾーは埋めそこなった相手との隙間に、言葉を滑り込ませた。ひっくり返った灰皿から舞った塵を吸いながら、優しく繕った声を編んでいく。
「ここが仕事部屋でよかった。お前をすぐに守れるんだ。助けてやれる。だからまず、ちゃんと息をしてくれ。落ち着いて……」
「―――はは。ははは。あんたがシゾーだと?」
直後だった。それが告げられたのは。
「だったらなおさら、誰ひとり救えるかよ」
嗤う。
互いを。
悪意のない悪魔の成す嘲戯に、眩暈すら覚えながら。シゾーは自分のうすら笑いを知ることなく、それと全く同じでいるザーニーイと、そうおもむくままに見詰め合っていた。
「シゾーはな、ほんの、ただのがきんちょだ」
唇が開いて、開き続ける。
絶望に足る真実が、今この時すら終わらない。
「いつだってガキだし、いつまでもガキだ。だったら守れないし助けれない。俺がいないと、なんにもできやしない―――」
「今の俺だけがシゾーだ!!」
糊塗すら砕く、噴怨に。
ただ―――ただ、声を出す。
迸った怒号は、即座にその対象を害した。とめどない恐慌をこれ以上なく煽られ、頭を抱きこんだザーニーイが、身体を悲鳴ごと捩らせる。蒼い炎が見えた―――いや、それは、濃紺の手袋に包まれた、己の両の手の指が蠢く様。シゾーの十のそれは火影のように戦慄いて、焼き尽くす肉を求めて前へと伸びた。ザーニーイの肩といわず腕といわず、触れた部分から組み敷かんと欲するままに。
あっさりと、それは叶った。当然だろう。相手は、シゾーのことなど見ていない。
どれだけ乱暴に取り押さえられたところで、ザーニーイの痛哭が向かうのは、あくまで虚空だった。
「嫌だア触るな―――来るなアアあァァァア!!」
「もう三年も経ってるんだ! 分かれよ畜生、俺のこと、―――!!」
疾呼する。
疾呼は続く。
それでも呼んだ名に誰も答えることなく、しばらくして全ての声が終わる。
とりあえずその言葉をかけられた時、キルルがシゾーに対して思ったのも、まったく同じせりふだった……が、同時に、その言葉をそっくりそのまま彼に返すことが、躊躇われる所業であることも理解していた。
そんなことを考える余裕があったのは自分としても意外だったとはいえ、思いついてみれば疑問も浮かばなかった。彼女に与えられたこの部屋は、さすがに王城のそれより狭いとはいえ、ひとりで寝起きするにはあまりに広く、ついでに王城の様にそら寂しさを埋める嬌飾の類もまったくない。目を凝らせば、ひと揃いの家具のそこここに綺麗な彫りかざりを発見できたものの、その家具が必要最低限しかないことから鑑てみれば、部屋の雰囲気を覆すまでには至らないことも分かってしまった。石材の頑健さをひしひしと感じさせてくれる壁には、肩幅ほどある窓が四つ。日当たりはよかったが、それだけでは悔踏区域から流れ込む寂然に太刀打ちできるはずも無い。
(つまり、こんな風に考えごとを詰め込めるくらい、スカスカだったってことかしら)
だった、と申し訳程度にあとづけして、出入り口を塞いでいるシゾーを見上げる。
ドアの外には更に二人、護衛だか見張りだかのために一晩中そこにいたらしい旗司誓の姿も窺うことができた。室内のそぞろな空虚感と、否応無くそぞろにさせてくる室外からの圧迫感。急にゼラに起床を促されてから一時間足らず、ようやっとまどろみを振り払ったのだから、目の前にそそり立つ邪魔っ気なこの大男に、悪態のひとつでもついたところで許されるはずだが―――
(こんな顔されちゃ、ね)
シゾーを眺め、彼女はこっそりとため息をついた。
当の彼は、開けたドアよりこちら側へ入ってくる気はないらしいが、それが彼の紳士的な精神に根ざした行為でないことは、正直すぎる面構えを見れば分かる。立ち姿が微妙にななめなのは、睡余に脱力した細身を扉の縁で支えるためとも、うっかり戸の梁で額を痛打しないようにとの用心であるともとれたが、彼が欠伸を睡魔もろとも噛み殺す回数を数えるにつれて、ふたつを統合することこそ正しいかもしれないとキルルは仮説を練り直していった。
そしてシゾーが、彼女のどの推測にも反しない寝ぼけまなこをしょぼつかせ、実際に寝ぼけたことを言ってくる。
「でも、にっちもさっちもいかないんで許してください。<彼に凝立する聖杯>は、当事者としても昨日の小競り合いを無視できる立場じゃないですし―――とか言ってても、あの二人と話してると、結局はなにをどこまで無視すれば一番いいかって趣旨に落ち着くんですけど。まあ趣旨なんてどんだけでも建前で覆い隠せるんだからどうでもいいとして」
「はい?」
「建前って嘘のことですけどね。言い訳とも読めますけど、意地とか見栄でもいいんじゃないですかね。とにかく、そのへんのイザコザとうまいこと折衷しながら、あなたらへんの護衛だ何だのの采配がうまく回るように、もう一回打ち合わせする必要があるんで、してきますから。僕。それ。あいつらと」
「えと。シゾーさん。本調子まであと何分?」
「ううう。分単位じゃないとダメですか」
げんなりと両手で頭を抱えこんだシゾーの落胆は、あと数分は空気を濁らせそうに思えた。しかし、キルルの予想を裏切る速さで顔を上げ、わざとらしく咳払いしてみせる。かたをつけたポーズなのだろう。目はそらされたままだが。
「とまあ、軽いトークで掴みはオッケーだったところで」
「そーかなー?」
首を捻るが、シゾーはきっぱりとこれを無視してきた。文句がこぼれない程度に口元を顔つきごと引き締めて、さっきよりもしっかりした調子でキルルに告げてくる。
「つまり。あなたがらみの件と昨日の旗無しがかち合ったのをどう捉えるかにもよるんですが、多少ならず<彼に凝立する聖杯>はこれから身構えを変えることになります。とりあえず、哨戒レベルは確実に上がりますから」
「哨戒? レベル」
「ええ。まさかレベルだけ上げて人手をケチるなんて危ない橋渡れませんし、だったら他からやりくりしないと赤字になっちゃいますので」
シゾーの中では自明のことらしく、会話はそのまま流れた。そして変化なく続いていく。
「悪いんですけど、そのやりくりについて会議が終わるまで、鍵しめて待っててもらえますね? 会議って言っても本当の会議じゃなくて、前もって決めてたことが今後もこれでいいのかって三人でする確認作業みたいなもんなので、そんなに時間はかからないと思います。義父さんはどうあれ、ザーニーイさんならもう寝床から出てるはずですし。じゃ」
「あ。あたしも行く」
声半ばにきびすを返しかけていたシゾーを、慌てて呼び止め―――本格的に仰天したのは、それからだった。
(―――って、何言ってるの? あたし)
口走ってしまったが、何を思ってそうしたのか、自問に答えることができない。ならば簡単だ。発言を取り消してしまえばいい。あとは、彼を見送ってしまうだけで済む……
そのあたりで、ひどく時間をかけながら、シゾーがこちらに振り向き終えた。ドアのたもとで一回転した形で、もとどおりにキルルに身体の正面を向けてくる。数秒にわたる彼女の煩悶を感じ取ってというわけでもなかろうが、シゾーがしかめ面からこぼした一言は、露骨に疑わしげだった。
「はい?」
「あの……駄目?」
「概ね」
と、組んだ腕越しに、こちらを見下ろしてくる。ただそれだけの動作だというのに、上腕から胸部にかけての筋が盛り上がる様は、軋む音でも聞こえてきそうだった。とはいえ、当人の顔が眠気に毒されたままなので、威圧的だと言い切るにはいまいちだったが。
「二度寝していただいて結構なんですよ? 生活サイクルをこっちに無理に合わせてもらう必要ないですし、むしろそのせいで体調を崩されでもした方がエラいことなんですから。まあ寝相がターバン取れるほどアクロバティックだとか言うんだったら、就寝体位はそこらの椅子ででも座位を保って、頭を打楽器にロココ調とか取ったりしないよーにしつつ、うたた寝していただければ幸いですけど」
「そんな面白い寝姿、あたしだって一度お目にかかってみたいわよ」
半眼で告げてから、キルルは再開した。
「そーじゃなくて。見学したいの。もうすっかり目も覚めちゃったし、それなら昨日ちっともそうできなかった分、ちょっとでも取り戻せたらって思って」
「取り戻すんなら、ちょっとでもたっぷりでもお好きにどうぞ。護衛きたあとで」
「護衛護衛って、そもそもこのお城があなたたちの本拠地なんだから、ここのどこにいたって基本的にあたしは守られてるってことじゃない。だったら廊下にいる部屋の見張りさんにドアの外から守られて一人でいるのも、シゾーさんに付いていくのも、そんなに変わりないわよ」
「僕の負担が変わります」
「それと、見張りさんたちの負担も、でしょ。夜の見張りは心が疲れるの。部屋の中に入ってるのが後継第二階梯じゃ、なおのことね。夜が明けたついでに小一時間くらい、からっぽの部屋を気楽に守らせてあげたっていいじゃない」
そこで彼が反論を飲みこんだのは、こちらの話の正当性を重んじたからなどではなく、自分の置かれた手を焼かざるを得ない状況に喉が詰まったからに違いない。シゾーの口の間際に深まった暗い小皺はそれを直感させたが。だからといって引く理由にもならないため、キルルは視線を外すことなくまくし立てた。
「シゾーさんだって、話し合いの場に守られる当人がいた方が、意見を聞きたい時に聞けるし。なんにも聞きたいことがなかったら、それはそれで話が終わるまであたしが待ってればいいだけの話。そうでしょ?」
喋るうちに自分でも納得し、その感触を後ろ盾に胸を張る。が。
「待ち終えてから、どうなさるおつもりで?」
「え?」
分かりやすく言ったつもりだったらしい。それを徒労で終わらすまいとしてか、続いたシゾーの解説は、やたら慇懃だった。
「話が始まります。待ちました。話が終わります。待ち終わりました。ザーニーイさんも義父さんも僕も、それぞれ仕事でさようならです。頭領と部隊長第一席主席と副頭領ですから。で、頭領でも部隊長第一席主席でも副頭領でもないあなたは、それからどうすんですか?」
相手の呟きに、感情らしい感情は感じられなかった。ただ、なにも含まないだけに、勘繰って余りある裏があるようには感じられた。それに従って、シゾーを見詰める。熟した蜜酒色をたっぷり満たした瞳には、熟すには程遠いざらついた感情がちらほらと撒かれていた。それは確かにさっきまでは、明らかに睡魔への嫌気に違いなかったはずなのだが。
とまれ、どうやら彼女のその様子は、回答に困窮するままに、ぼーっと突っ立っているようにでも映ったらしい。それを合図する意味だろう。シゾーが聞こえよがしに嘆息してみせる。
途端に実感を帯びた気まずさに、確固としていた自論がしぼむのを感じ、キルルは口から出任せに言い募った。
「あの。部屋までまた送ってくれるとかは?」
「この見張り二人に錠前言葉を教えて、会議後に後任の連中とかに伝達事項とか鍵言葉を教えれば、後は当事者たちの任務にシフトです。誰も無駄な動線で動く必要ありません。本来ならね」
こうなってはまさか、ザーニーイをからかって時間をつぶそうという別案があったとは言い出せない。
「え、あの……」
キルルはしどろもどろになって、正直な声を上げた。
「ど、どうしたらいいのかしら?」
「だから、引きこもっててもらえればいいんです。ここで」
取り付くしまもない。ちんたらとプレッシャーを増していく沈黙に、弁難を詰まらせたまま数秒をかいくぐって―――
ふとキルルから半眼をずらしたシゾーが、気障りそうに、顎から頬にかけての輪郭を手の甲で撫でつけてみせた。様子だけ見ると、まだ剃っていないひげの違和感をこそぎ取ろうとしているようであったが、それに合わせてこちらから目を逸らしたタイミングも含めて考えてみれば、何らかの手慰みであると取れなくも無い。
「でも。話が終わって、僕がここまで連れ帰って、今日の護衛が来るまで大人しくしててもらえるんなら、いいですよ。もう。ついてきて」
「いいの!?」
「意味ないですけどね。全く」
目をむいて念押ししたキルルに、彼はかなり面倒くさそうに念押しをやりかえしてきた。
「本当に意味ないんですよ。僕らの話なんか、キルルさんにはちんぷんかんぷんなこと受け合いだし。ずっと部屋にいるか、最後は部屋にいるかなんて、結局同じだし。それにうちの部下に限って、たとえ後継第二階梯が在室中でなくともその人が滞在する部屋を預かるという重責が、たかだか一晩の夜勤疲れで軽石に化けるはずもないでしょうし?」
シゾーがすっと目角で撫でた先にいた角刈りの旗司誓が、慌てて肩をいからせたような気がした。キルルでも見えたものを彼が見落としたはずはなかろうが、あえての指摘はない。わずかにそちらへ目付きをちくりとさせただけで終えると、キルルにぶっきらぼうに確認してくる。
「それでも行くんですか?」
「う、うん。行く」
「そうですか。ならどうぞ」
言うが早いかシゾーは、よしかかっていた戸枠を背中で蹴って、その反動で立ち上がった。そうやって勢いでもつけないと、やっていられないらしい。嫌々ながら、げんなりとため息を噛みつぶしている。割り切る努力とは、えてしてそんなものかもしれないが。
かもしれないのだが。そんなシゾーの様子が、理由なく思い浮かんだザーニーイに重なった瞬間、キルルは動けなくなった。
「―――何なんですか? 一体」
苛立っていることが神経の感度を上げているのか、おそろしい反射速度でキルルの変化を見咎めて、振り返ってきたシゾーが隠しもせず唸る。
自分でも掴み損ねている何らかの確信を、他人がしっかと両目にねじ込んで、こうして声にまでしている。それは理不尽に思えたが、それこそシゾーには理不尽な話だろう。
「ええと、あの……ね?」
「はい」
「やっぱりこれって、迷惑なのよね? その……誰に、とっても」
「そのせりふ」
と、シゾーが中断して、えらくにっこりとほほ笑みかけてきた。ついで、とんでもないことを告げてくる。
「論拠によっては宣戦布告とみなします」
「え? えー!?」
「とか言うのはオーバーだとして。義父さん相手じゃあるまいし」
「人によっては正しい言い様なんだ。それ」
「あのですねえ。キルルさん」
不穏当な冗談にキルルが汗をたらしている隙に、真顔を取り戻したシゾーが目を伏せた。それは意図なく恫喝してしまったことへの詫びの表情にも見えたが、言葉はしからは何も感じ取れない。砂が降るように、空気に漂う余地すらない詰問が、ただキルルへと落ちてくる。
「さっきの僕の説明で、どこか聞き逃したところでも?」
「そ、そんなのないけど」
「じゃあ、どこか分からないところでも?」
「それも、特には……」
「白いゴキブリでも見かけて記憶が部分的にぶっとびましたか?」
「ええと。確かにそんなの見かけたら飛ぶかもだけど。別にそういうことも」
「ならどうして土壇場になって、僕らに対して迷惑どうこうが問題視されるんです? 説明は聞こえてた。理解もできてた。しかもどっちも忘れてない。あなたその上で、行くって言ったんでしょう。なら行くんでしょ。行きますよ」
「うん……それはその、そうなんだけど」
自分でも分からない動転に、逃げ口上を詰まらせる。その数秒のうちに、彼について歩き出す決心はつくと思っていた。実際は、シゾーの陰気な憤怒から透けて見える別の姿に、息を固まらせていただけで終わったが。
と。
「……便所だったら、さっさとやっちゃってきてください」
シゾーが口早に終えて、ドアを閉めた。
ぎょっとするが、誤解を解くためにドアを開ける度胸はなかった―――少なくとも、今すぐには。晏如とも落胆ともつかない息を小さく吐いて、目的なく部屋を見回す。今度こそ、この数十秒でもちなおさねばならない。
どうということなく、窓際で外を向いている椅子に、目が留まる。今朝、自分はそこに座らされていた。そして、室内と室外の明度の落差で鏡のようになった硝子窓を介して、優雅に羽を扱うゼラの掌を寝とぼけながら目で追った。頭越しに、何日か留守にする旨を伝えてくる彼の言葉が、綿毛のように鼓膜に積もったことを薄ぼんやりと覚えている。ただ、それから一向に、自分の寝起きを正した覚えはない。
窓に近寄り、覗き込んでみる。外に朝日がしみ出してきたせいで、さっきよりも自分の姿はおぼろげだった。あまり丁寧なチェックはできなかったが、それでも全体的に熟視を回して、服装にも顔にもとんでもない失態がないことにひとまず満足しておく。
「あの。シゾーさん」
「はい」
気まずさの間に合わせに、キルルは廊下へ声を掛けた。ドアの向こうにいる彼は、当然ながら、気乗りしない雰囲気だったが。
「ザーニーイ、いつもこんな朝早くに起きてるの? 大変ね。そんなにいっぱい仕事あるなんて」
「五十点」
「え?」
「半分正解なんで五十点です。百点満点採点ならね。字面だけ聞けば正解と言えなくもないですが、おおもとは多分間違ってんでしょうから」
「おおもとって?」
「音痴だって、楽譜が読めるんなら筆記テストは合ってる。歌唱力のとこで、とてつもなくハズレてようがね。そんなのですよ」
そのあたりで、キルルはドアを開けた。
シゾーは、探さずとも真正面にいた。廊下を挟んで反対側の壁際に肩を預けて、なおも気だるそうに立っている。
「じゃあザーニーイが今してるのは、旗司誓だったら絶対しなきゃならない……けれどお金には結びつかない、そんなのよね。それって、義務とも違うの?」
それに対する答えはなかった。ただ彼はのろのろと腕組みを解いてからドアノブを指差し、手を何かをつまむように丸めて、ちょいちょいと回してみせる。
相手が無言の意味は分からなかったが、無言で示した仕草の意味は如実に伝わった。キルルがわたわたとドアに鍵をかけて横にどくと、こちらと並んだシゾーが左右に起立する見張りたちと目配せして、ノブを捻ってみせる。そうやって施錠を確認する姿は、その長大な―――巨大というより長大な―――身長のせいで極端な猫背を強制されて、奇妙な愛嬌を感じさせた。今はあのどこぞの建材のような剣を帯びていない背筋に、几帳面に浮かんだ骨と筋肉のでこぼこが、場違いな笑いを誘ってくる。
「ザーニーイさんは」
「え?」
その唐突な呟きは、独り言ともとれた。
実際、やはりキルルに答えるでもなく、シゾーは確認し終えた扉の取っ手にひっかけたままの指先を、仕方なくといった感じで見詰めている。
「あの人は今の時期、夜討ち朝駆けでこなさなきゃならないようなデスクワークなんてないですよ。逆に、だからこその早起きでもあるんです。つまり、」
不自然に、言葉が途切れた。無くしたその残りを追いかけるように、シゾーのぼやけた目が漂う。隣のキルルを見て、その向こうへと伸びていく廊下を見たようにも思う。
「―――つまりザーニーイさんが一番大切にしてるのは、“頭領”と言うパフォーマンスです」
吐いた囁きを踏みつけるように、シゾーは前触れなくその廊下を歩き出した。
「ちょっ、と―――!」
非難の意で呼びかけるが、彼が立ち止まることはない。
戸惑いに背中を押され、キルルは小走りに相手を追いかけた。シゾーは特に早足のつもりもないのだろうが、とにかく彼女とはコンパスが違いすぎる。
彼に追いつくのに、それほど努力はいらなかった。それでも彼のことを理解するには、それ以上の努力が必要とされている気はしていた。どことなく身を竦めて、相手を見上げる。しかしシゾーは、後に残した旗司誓へとってつけたような敬礼を送った以降、前を向いて歩くままでこちらを見ようとしない。
ただそれは悪気があってのことではなく、単にその位置に顔を落ち着けておくのが楽だから、そうしているだけのようにも思えた。確か昨日、ぎりぎり十代とか言っていたか―――風貌の素地が悪くないだけに、つまらなそうな表情はすぐ読み取れた。
角を曲がると、誰もいなかった。続く廊下に灯火はない。つま先を踏み込ませるのにも気後れする、無人以上に清んだ気配に、息が震える。
それでも踏み込んでしまえば、震えもろとも、吐息は掻き消えたのだが。それとすれ違うように吐き出されたシゾーの独白までも震えていたような気がしたのは、自分の呼吸がもたらした思い違いなのだろう。
「彼は旗司誓の頭領として、それらしくないことを、なにがなんでも冒さない」
意図を察しかね、彼を見る。
押し殺されてしわがれたシゾーの声は、ろくに反響もしない。それでもこちらに届いていることは疑いないのか、彼は特に繰り返しもしなかった。
「……結果として、今の<彼に凝立する聖杯>が出来たんです。えらく出来過ぎた旗司誓がね。だったら、どうであれ否定もできないし、なのでどうでもいいんです」
表情に険しさを差しておきながら、捨てぜりふをそれ相応にすることはできなかったらしい。自覚はあるらしく、シゾーは投げやりに舌打ちして、無理矢理に文句を打ち切った。
ふと、思いつく。彼が置き去りにしようとしたのは、キルルではなく、彼女へ向けるはめになった彼自身の言葉なのではないか? しまおうとした鍵がポケットに引っかかったことに気をとられ、深める間もなくその分析は散ってしまったが―――
とまれ、キルルは目をぱちくりさせた。そして、シゾーが言わんとしていたこととは無関係に手に入れてしまった感想を、吟味するでもなく口にする。
「これって、男の友情ってやつ?」
「はあ?」
シゾーが、いわれない痛打を食らったように絶句した。実際彼は、それこそ因縁なく闇討ちされたかのごとく歩行すら途絶させて、ひどく面食らった顔を硬直させている。
それに遅れて立ち止まり、キルルはくるりと彼に振り返った。
「あたしにはよく分からないから、男同士にしか通じないフィーリングみたいなものがあるのかしらって思ったの」
そこで忍耐が切れて、小さく笑ってしまう。
「ザーニーイを心配してるんなら、そんな悪し様に言わなくたっていいじゃない」
「僕は別に―――」
抗弁の形に口唇を開閉させて、しばし。
結局はわずかに口の端の内側を噛んだだけで不当さを呑んで、シゾーが再び歩き出した。とりあえずの目的を達することにしたらしい。ザーニーイの部屋へ続く廊下の辻は、すぐそこに迫っていた。
「……なんの話だったかというと。そんなこんなあってうちの頭領は、どこに誰の目があるか分からない屋外で、頭領として稽古するほかには自主トレしたりしないってことなんです」
意外にも、シゾーによって通弁は取り戻された。それは、こちらの話題を片付けてから次の面倒に取りかかりたいというだけのようで、それ以上の親切心は感じ取れなかったが、ありがたいことには違いない。抵抗せずに、相槌を打っておく。
「だからいつも日中に支障をきたさない程度に早起きして、ほとんど人気なし・圧縮煉瓦で防音もきっちりしてる三階の室内で、好き放題に刃物ぶんまわしてるんですよ。寝る時間が遅くなった時は仕事部屋でゴロ寝する習性があるんで、今日はその近所の空き部屋でクルクルやってるに違いないでしょ」
「うっそぉ! こんな、みんな寝てるみたいな時間に?」
真に受けずに笑うが、シゾーはこともなげに言い返してきた。
「こんなみんな寝てるみたいな時間の朝っぱらだからこそ、見られでもしたら厄介なんじゃないですか。『頭領が起きてるのに自分が何もしないなんて!』って勇んだ熱血が、無駄に早起き合戦とかしだしたらどうすんです?」
「うーん。そういやそうよね。特にエニイージーとかやりだしそう……って、あれ? エニイージー?」
廊下を曲がった直後、話すにつれて思い描いていた姿が現実のそれと重なり、信じられずに呆ける。
こげ茶の髪に絡めた、明るい緑色の布。立て膝に顔を押し付けるようにしながら床に座り込んでいるせいで、顔かたちまでは分からないとしても、その引き立った色合いはすぐに目に付いた―――思わずシゾーとその場に立ち尽くして目を眇めてみるが、白昼夢として空気にかき消される予兆はない。少し先の通路の端で、剣と片足を抱えるようにして壁にもたれているのは、確かにエニイージーだった。
彼のすぐ隣には、ドアが見える。自分たちが向かおうとしているザーニーイの部屋だろうと、キルルは見当をつけた。さりとて、エニイージーに入室する気配はないが。
「えーにいーじぃー?」
手でメガホンを作り、わざと不自然に呼びかけてみる。それでも相手は怒り出さなかったし、そもそも動きすらしなかったし、あえて言うならば聞いていないようであったし、つまるところ無反応だった。食い下がるようにそこまで認めて、高まる不審感に促されるまま、エニイージーへと駆け寄っていく。二歩目でシゾーを追い越したが、彼は制止してはこなかった。
エニイージーへと近づくにつれて、空気の冷たさが一段と強まった。早朝の冷気だけではない―――今さっきまでいた建物の内側にあたる部分と違い、ここは壁一枚外が悔踏区域に面している。もっとも、そのことに不慣れなのは自分だけらしく、蹲るエニイージーの半そでからむき出しになっている腕には、鳥肌ひとつ見当たらない。差し込む朝日がじわじわと夜闇を駆逐していく中で、窓と対面する位置の壁によしかかっている彼の背中にばかり、影がじっとりと纏わりついていた。
と。
「……あれ? キッティ―――」
どうやら、眠っていたらしい。エニイージーがうわついた目元でキルルを見上げて、そして彼女を認めたことにこそ違和感があるとでも言うように、しかめ面を押さえてかぶりを振ってみせる。
その仕草に目途がついたのを見計らって、キルルは彼に声をかけた。自分の両膝に手をついてつっかえ棒にしつつ、一見して夢うつつなエニイージーの両目に正面から顔を近づける。
「何してるのよこんなとこで? 罰ゲーム? 昨日の腹踊りで清算できなかったの?」
「いや、俺はただ、頭領の近くにいてあげたくて―――」
「迷惑です」
息が、止まる。
当然だった。瞬時に固化しきった空間に、飲み込める気体など残されているはずがない。声音を突きつけられたエニイージーの顔は、キルルと同じように、明らかに引きつっていた―――だがそれ以上に明らかに、その引きつりが、彼女とは異なる感情を大半の元凶にしていることを告げていた。
「おや。申し開きがおありで?」
口吻を漏らしながら、もう一歩だけエニイージーへと踏み込んで。その気になれば殴りかかれる距離に立ったシゾーのせりふは、意図的に速さを落として、相手へと示された。鋭利な切っ先を、それで抉る対象に前もって見せつけるなら、こんな速度が効果的に違いない……
ぞっとしないひらめきが過ぎ去らないうちに、エニイージーが床から腰を上げた。剣を持って。
「……昨日、交戦状態が解かれてからも、頭領はずっとどっか様子がおかしかったんです」
そうして立ち上がる勢いが、心根の攻勢をも助太刀したわけではなかろうが。彼が放つ言葉は、まっすぐ立ったのを最後に、まだしも取り成していた堰をぶち破った。身振りも大きく腕を薙いで、その動作で相手の首が刎ね跳ばなかったことこそ道理でないとでも断じるように、シゾーの頤に向けて声を強めていく。
「あんた、それくらい知ってただろ!? あの後、頭領のそばには、あんたもゼラさんもずっといたんだから! ―――なのに、いたわりも何もしやしなかったじゃないですか! まるで我関せず決め込んで、いつもどおりにぎゃーぎゃーと無神経に騒ぐだけ騒いで! だから、俺くらい……昔、俺に頭領がしてくれたみてえに、今は俺がそばに―――!」
「害毒です」
それは、そう思いつくまま、口にしただけらしかった。シゾーの気の抜けた眉目は、冷めたように表情を消したまま変わっていない。
だが、表情を更なる険悪へと転じたエニイージーを前にしてなお変化が見られないという事実は、それが単なる思いつきではないことを知らしめていた。硬度を増して膨れていく部下の首まわりのすじ肉を底光りする双眸で値踏みしながら、シゾーが早口で残りを告げていく。
「ああ。昨夜からの酒気帯びであっぱらぱーだったところで分かりやすいよう、今朝は翻訳して差し上げましょうか? ずっとどっか様子がおかしかったその人が、そういった手前味噌な美談のダシにされないよう、僕ら義父子であんたらを監視していたことにさえ気付かないんなら、あなたのそれは手前味噌な美談どころか自慰でしかないと言ってるんですよ。別に、それをするなって言ってるんじゃない。自慰なんだから自分ひとりで落とし前つけなさいと言ってるんです。認めましょう僕の落ち度です。今この時までザーニーイさんから離れるんじゃなかった」
「ちょ、シゾーさん……」
キルルは無意味に挙げた両手を引きつらせながら、話の流れを折ろうと試みた。度を越した戦慄に触発されての、ただそれだけの行為だったのだが。
それがやぶ蛇だったと気付いたときには手遅れだった。表向き、シゾーの面構えは微動だにしなかったのだが、そこから発される語彙の羅列は加速度的に量と速さを増していく―――むしろ彼は、内側から沸騰しゆくものが喉に障るのを避けるために、抑えをきかせていた理知を、ごく自然に手放したように見えた。
「いいですかエニイージー部隊長第五席副座。あなたの振る舞いがどれだけの弊害を起こす危険性を孕んでいるか、僕はことあるごとに警告したはずです。あなたの体調への影響、あなたの役割への影響、ザーニーイさんへの影響。あの馬鹿騒ぎ明けにこんな廊下に居座って風邪でもこじらせたら、あなたの今日の予定はどうなります? 病人を囲う破目になる部隊はどうなります? 間接的にそれをもたらしたザーニーイさんは、頭領としてそれをどう感じると思います? あいつが何も言わないのは、頭領として―――」
シゾーが、唇を歪ませた。激昂の一歩手前で立ち止まらざるをえないことを、嘲笑しようにも儘ならない。そんな風にも見える。
キルルからも見える角度で剥き出しになったシゾーの犬歯が、わずかに開いた。そこから囁かれるのがいまだに人語であることが、何よりぞっと背筋を脅やかす。
「瞬時に万事を万全に取り返す手段もないくせして夜通し廊下に座り込むお前は、いずれ殺意もないのに人を死なす。そんなことはありえないと思うか? だったら今のうちだ。どこでもいいからとっとと出て行け。そうだな。訳すだけじゃなく、今までの全部を要約してやろうか―――」
吸気が言葉に化け、怪物のように空気をつぶした。
「見くびるな」
警告が終わり、無言が始まる。
冷や汗ともあぶら汗ともつかない体液を下からつつくように、キルルの肌があわ立った―――これは危険だ。ひたすらにかき鳴らされる警鐘は痛いほどに理解しているものの、それよりも彼女を挟んで両側に立つ男達の方が圧倒的であることも理解せざるを得なかった。
(何なのよ……!?)
わけが分からない。ありえない。不当である。こんなものは反則だ―――手当たりしだいに逃げ場を探すが、そんなものはどこにもなかった。上辺だけは冷静な態度を崩さないシゾーと、上辺に保つべき態度さえ冷静さごと捻り潰しつつあるエニイージーの間で、臓腑が成す術もなく圧迫されて軋んでいく。
剣の存在は、どちらも無視しているのだろう。それ自体はありがたいとしても、それによって両者の掌は、素手の不利を挽回するかのように拳として固められつつある。筋が引き絞られるのを代弁したとしか思えない鋭さで、シゾーの手袋がぎしりと吼えた。引き絞られたならば弾けるのだろう―――切っ掛けがあれば、すぐにでも。
エニイージーの言動が、その切っ掛けに相当するかどうか。正直キルルには、判断できかねた。彼はただその時、声を出しただけだ。ただし、単なる発声には不必要な顔皮のへがみが、せりふ以上に凄絶な何かを吐き出していた―――
というよりもキルルには、彼の言葉からは、こびりついた激情しか把握できなかった。言っていることが意味不明だったのだから。
「何も言わない? 頭領が何も言えないのは、三年以上前からずっとシゾー・イェスカザが聞き耳を立ててるからじゃねえのか?」
右肩に、影が触れたような気がした。
過敏に、そちらに眼球が跳ねる。そこに立つシゾーは動いていない―――のみならず、日の光に伸ばされた彼の影が、キルルの肩にかかっているということすらない。ただ唯一、先程とは違っていたことがある。シゾーがちいさく笑んでいた。
問答無用で止まりかかった心音の静寂の狭間で、キルルはシゾーのその声を聞いた。
「そうですね。以心伝心で育ってきた幼馴染みですから。確かに僕さえいれば、全部代弁できる。あの人は無駄口を利く必要もありませんね」
あの人。が―――
沈黙を食んだのを、見たことがある。
彼は、この建物に抱かれた中庭にある石くれの上で、夜宵の天に紫煙を手向けながら言葉を遂げた。寸秒後には、<彼に凝立する聖杯>の戦端句を、キルルに継いで口にする――― 寸秒後には。
今はただ、無言の唇。無音の歯列。だからこそ、紛れることはない本物。彼だ。
「いい加減になさい」
キルルはどうしようもなくなって、それを叱責として吐き出していた。
男たちの注意が、こちらへと差し向けられる。当たり前だが両者とも、さわれば爛れるような癇癪を冷ましていない。それに対する恐怖が無くなったはずもなかった……現にキルルの指は、痛みさえ麻痺するまでに握り締められ、血の気を失っている。ただし今は、恐怖では抑えられないものが、本能を席巻するまでにうず巻いている。それだけだった。
「いい加減になさい。ここはどこで、あなたたちは、ここにとって何なの? ここは、単なる家の中? それともここは、ただの廊下? だったらあなたたちは、ただの利かん坊でも許されるでしょうよ。そうね。きっと、このまま面当てを続けても大目に見てもらえる。けれど、」
顎の筋肉が引きちぎれる予感に、ひとまずキルルはうなだれて歯を食いしばった。ないまぜになった感情に負けつつある自分の拳が、少しずつ震えだしているのが見えた。それをこの男たちに叩きつけるほど無謀ではなかったが、それでもそんな気分で、一層に肺臓を絞る。
「いい加減になさい。ここはどこで、あなたたちは、ここにとって何なのよ?」
それを最後に、物音さえも静まっていく。いや。
「―――そうですね。そうでした」
そうやって、ため息にすり込むようにしてまで同意を示してきたのは、シゾーだった。
首肯するだけで済ませなかったのは、自分自身に言い聞かせるためでもあったのだろう。まだ地味に神経を焼いてくる憤激を、手放しにしない程度には制御を取り戻している、そんな目だ。
その眼差しは、彼女からエニイージーへと舞い戻った一瞬だけ、直前の勢いを取り戻しかけたようにも感じられた。だが、はるかにそれを挫く素早さで、冷ややかな声音が空気を駆け抜けていく。
「エニイージー部隊長第五席副座。今日からの任務に特別最優先追加。キルル・ア・ルーゼ後継第二階梯が王城に帰還するまでの間、四六時中の身辺警護にあたりなさい」
「な―――!」
「ついてまわる相手がすげ替わるだけです。何の問題もないでしょう?」
邪険に満ちた睥睨に乗せて、辛辣に皮肉る。いや、口にした当人にすれば、皮肉ではなく本音だったのだろう。それを向けられたエニイージーは、キルル以上に明確に、その感触を味わったに違いない。実際彼は、ぎりぎりの均衡をシゾーが試したことを察して、大きく自制を切り崩したようにみえた。しかしそれによって逆に言葉が出遅れたために、飛び出たキルルの悲鳴に取って代わられてしまう。
「ちょっとシゾーさん、護衛とかはゼラさんやザーニーイと話してからって―――!」
「話しますよ。あとでね。三人でする確認作業ですから。三人でする検討課題じゃない」
にべもなく終えて、シゾーは短く目を閉じた。たったそれだけで炯眼を研ぎ澄まし終えて、再びエニイージーの急所へと決定打ごと突きつける。
「現時点をもってしての、副頭領シゾー・イェスカザからの直命です。副座ごときに反論の権限はありません。どうしてもというなら規則に則り、緊急時を除き、たった今から六時間経過以降に稟請なさい。どうであれ、部隊長第五席および同次席には細大漏らさず報告すること。以上」
命令が……今、シゾーの口からエニイージーに向けてでさえなければ、まったく違和のないだろう命令が終わる。ただし―――キルルは恐々として認めた―――これが今、シゾーからエニイージーに与えられたものに違いない以上、それは一介の任務では済まされない。きっと、済まされることではない……
そのことが、どういった結果をもたらすのか。エニイージーを見やると、彼はもてあまし気味に感情を噛みながらも、それなりの落ち着きを保っているようだった―――無言でいることを、落ち着くことに含むのならば。そしてそうしているうちに、思い知らされたのだろう。自分の感情。相手の感情。自分と相手の感情を抜きにして存在する立場。その時点で拮抗は失われていた。
エニイージーが、よどみなく敬礼する。しかしそのなめらかさが、それが本心でなく条件反射に基づいての行為なのだということを際立たせていた。
「副頭領より、確かに<彼に凝立する聖杯>エニイージー、部隊長第五席副座として拝命しました。これより、特別最優先事項として任務にあたります。背に二十重ある祝福を」
「背に二十重ある祝福を」
粉黛にまみれたやり取りを終えて、まっさきに動いたのはエニイージーだった。誰とも目を合わせることのない角度で身体を反転させ、先程キルルとシゾーがやってきた廊下を早歩きで逆行していく。よってその顔は見えなかったが、離脱を求める急いた態度こそが、面差しを見るよりはるかに雄弁だった。
「ちょ、ちょっと……」
相手なく声をかけて、誰からも答えられなかったため、結局はぐるぐると思い悩む。キルルは胸に手を当てて、今までの記憶を断片的に拾い集めた。反則。三年以上前。身辺警護。六時間。余計な幾つかを拾った分だけ、とんでもない幾つかをこぼしたような気もするが。
キルルは、エニイージーを追って駆け出した。そうしてみてようやっと、くぐる空気にさっきよりも温みが通っていることを感じる。朝だ。長かったが……至ってしまえば、それに違いなかった。朝だ。
□ ■ □ ■ □ ■ □
(何で俺はこうなんだよ―――くそ)
苛らぎは明解だった。としてもそれは、単純であるということとは違う。認めて、シゾーは口蓋に吹き溜まっていた息を奥歯ですりつぶした。経験、時間、忍耐。不快な情緒を受け入れるために費やすものを数えながら、廊下の奥へ遠ざかっていく二人分の人影を目視する。数秒とかからず、どちらとも角を曲がって視界から消えた……結局そうしてみて、費やしたことを確認できたのは、時間だけだったが。
だがそれでも、経時的にわずかながら砕けた感情の棘は、どうにか噛み千切れるくらいに収まってはいる―――
(問題があるとでも?)
咀嚼を試すべく、シゾーは長々とひとりごちた。
(元々エニイージーは、その目星がついていたからこそ後継第二階梯の出迎えに参加を許された。うちは全館敷地内、いつだってそれとなく誰かしらの目がある……お守り役はひとりで充分だし、何よりお守りなんだから、取っ組み合いの腕前は第一要件じゃない。エニイージーは相手と一日分多く気心が知れてる上に、あの箱庭培養らしい人当たりがある―――他にも候補はいるが、いつまで続くか不透明な仕事を、頭領からじきじきにもたされたってだけで完遂が疑いないびっくり馬鹿はあの野郎くらいだ。昨日の件のせいで、こんな最適な奴を差し置いて他の候補をテストする余裕ももうない。どうだ。問題があるとでも?)
そうだ。問題はそこにない。
自分の性根をまさぐる中で、それを逆手に洗脳でも施しているような心地も、この上なく不愉快ではあったが。それでも手軽く納得を得られる誘惑に逆らう気はなく、シゾーは続けざまに、とるべき行動を脳裏に殴り書きした。
(とにかく。あいつに顛末を伝えてからだ)
頭領の執務室の扉を開けながら、それだけを思う。が。
開けた扉の先に、部屋がない。
ぎょっと立ち止まった拍子に、思考もぶつ切れる。唖然と目を見開いて……そしてその時には、部屋がないのではなく、締め切った室内の空気を押しのけるほどに紫煙がたち込めていることを知って、重ねてぎょっとする。虫除けに部屋を燻しているかのような光景に肝を冷やすが、その八節モドキのにが渋い芳香は決して殺虫を計画してのものでないと悟るにつれて、逆に腹の奥の体温は上がったようにも感じる。
濃すぎる煙が眼球にしみた。涙腺に絡みつくような痛痒さは、過去に愛煙していた身にさえきつすぎる。たまらず目がしらを親指で押さえつけながら、シゾーは大きく毒ついた。
「なっ……これ……おい! お前まだこれ禁煙してねぇ―――なかったんですか!?」
大声は部屋に充満した流煙を震わせただけで、当の喫煙主からの返答は一向にない。
戸口から煙が流れ出たおかげで、わずかながら視線を通すようになった室内に向けて、注視を走らせる。この執務室は簡素な造りにあわせた実用的な内装で、唯一の飾りといえるものでさえ、書庫にしてある隣室とここを繋ぐ扉になされた彫琢細工くらいしかない―――その優美な幻獣たちの群れさえ、とうの昔に幼いザーニーイの悪戯の餌食になっているため、珍妙な毛虫の行列に変わり果ててしまって久しいが。最奥にひとつ、大きめの窓。その両側には大小の書棚。窓の手前に執務机。その机上は、いざとなれば寝台にもなれそうな大きさを誇っている……そして、いくら面積があろうが使うのはしょせん人間でしかないと証明するように、書類やら何やらが非効率的に散乱しつくしている。当たり前だが、それ相応に汚れていた。
まあそれらの有り様も、今の部屋主の格好に比べれば、実に謙虚といえただろう……向かって、机の左はし。そこにだらしなく凭れかかって床にへたり込んでいるザーニーイが、こちらに猫背を向けて煙管を喫している。
語気を絶頂に引き戻すには、そこまでで充分だった。煙のプールに飛び込む心地で、部屋に入って戸を閉める。すり減ったじゅうたんを劈くようにつま先を突き込みながら、シゾーはザーニーイへと詰め寄っていった。
「どうしてもっていうんなら、もう煙癖にはとやかく口出ししません。せめて銘柄を変えてください。そんな粗悪品、体に悪いだ……け―――?」
怒鳴り声を上げるには充分だったはずの理解が、それを超えて深まっていくにつれて、声音はすぼまっていった。連動するかのように、歩調も弱くゆるまっていく。
ついに、シゾーは足を止めた。ちょうど、床に奔放に広げられた煙草盆がそれにひっかかって、灰皿に積まれていた吸殻の絶壁がわずかに雪崩る。
つまり、灰皿がザーニーイの手の届く位置にあるように、シゾーもまたザーニーイの手の届く範囲にいる。たったこれだけの距離まで近づいたというのに、相手は振り返るどころか身じろぎひとつしない。
鼻白んで、ザーニーイを見下ろす。そうして見てもやはり幼馴染みはだらしない無表情で、やはりだらしなく机に右の横面と横身を預けて尻を床に落としたままで、これもやはりと言うかだらしない格好だった。今朝も念入りに修練に勤しんだのだろう。いっそもろ肌を脱いだ方がまともに思える程に着乱れて、胸といわず腹といわずくしゃくしゃに服やさらしをたくし上げている。酷使した細胞に報いるべく繰り返される呼吸の乱れが、紫煙に起こる波紋から容易に読み取れた。それでなくとも、汗で張り付いた衣服がなお一層体つきを露出させているため、横隔膜の過活動が脊梁を揺さぶっているのが目に見える。それ自体は、特に珍しい光景でもない。と言うのに。
屈身して、ザーニーイを覗き込む。が、見返されることはなかった。相手の目玉は漫然と、すぐそこにある猫脚に向けられている。シゾーもそれを見やったが、どうということもない。ただの机の脚だった。前の家主の趣味らしい時代物の黒塗り造りで、高級なカーブで肢体を彩りながら床に踏ん張っているが、汚らしい縞模様を作るように幾つもの横傷が刻まれているため色々と台無しになっている。傷の横にはことごとく、短い語句が彫られていた。ザーニーイがどれを見ているのかを勘で辿り、解読する―――大人の字で、『ずるっこ よっつ』。それはぐしゃぐしゃに削られ、そのわきにやたら読みにくく書き直されている。『おれ いつつ』。何の変哲も無い、ただの背比べの痕跡だった。
気味悪さだけを直感し、シゾーは顔をしかめた。ザーニーイはそこを見ているというよりも、単に瞳を向けている。こちらの叱声に風馬牛を決め込んだゆえの馬耳東風であったとしても、奇妙さが鼻について離れない。
唐突だった。ザーニーイの咥える煙管が震える。震えの元凶となった呟きも、わずかながら耳に届いた。
「―――っかしいなぁ……」
「おい、どうし―――」
取っ掛かりを得て、シゾーは口火を切った。のだが、
「とうさんが言ってたのに」
思わず、そのままの格好で手足を突っ張らせ、後ずさりもできない体勢で硬直する。顔面にかかってくる、邪魔な毛筋ひとつ動かせない。煙管が落ちた―――声をこぼしている、相手の唇から。とうに火も自滅していたそれが転がる先を見ることもなく、ザーニーイはぽたぽたと独語をたらし続けている。恐らくは、今朝のいつからか今まで、そうしていたように。
「シザジアフさんがとうさんだった時に、こいつをくれたのに―――八節モドキは特に血管径に対する攣縮作用が強くて、怪我人の応急手当に使うこともあるくらいだから、お前にゃめっけもんかもしれねえって。だってのに、なんで毎回こー上手くいかねぇかなア……とうさんが……間違えるはず……ないのに」
ただ絶望して、シゾーはひとりごちた。
(とうさん)
聞き慣れない言葉だ―――いや、正確には、聞き慣れ終えてから何年も経過した言葉だ。ザーニーイは思春期を境に、養父の呼称を親父に変えた。そして思春期が終わる頃には、そのように呼びかける相手自体いなくなっていた。
(発作だ)
ただ確信して、蝕まれかける正気に身震いする。あえて思い出すまでもなく、ザーニーイの症状は、毎度の惨害の記憶と重複しつつあった。ただし、今はここにゼラがいない。
無音で呟く。背骨と臓物の間を、凍える水銀が伝い落ちたような感触におののきながら。
(こいつの発作はいつものことだ。分かってる。分かってなかったのは、このタイミングだ。早すぎる)
ザーニーイの言々を反芻する。とうさん。とうさん。とうさん。その都度、ザーニーイがまともな状態にないことについて認めざるを得ない以上、発作による錯乱が加速度的に悪化していることも認めなければならない。
(いつもならこんな本番の前一週間、調子といわず態度といわず、とにかく前兆が出る。その猶予があるから、こいつも俺たちも腹を括れた。だのに、こんなときに限って、たったこの数時間で? こんな―――)
シゾーは掌に浮かんだ嫌な汗を、つかんでいる自分の膝ごと握り潰した。不意に、後継第二階梯の親しみやすさと馴れ馴れしさを履き違えていることこの上ない振る舞いを思い出し、余計な怒気がやすりのように肌を削る。
(こんなストレスで発作が誘発された……いや、圧縮された? くそったれ。にしても、あのフラゾアイン、いつもなら俺より先にこいつに会ってるはずだろ。まさか発作のサイン、丸ごと見落としやがったってのか?)
ありえない。どのような災厄に見舞われたら、ゼラ・イェスカザがそのような痛恨のトンマをやらかすというのか? 万力を込めた出刃包丁とすりこぎの乱撃を、鼻歌混じりにタマネギの皮をむきながらかわすような化け物が―――結局は自分の全治十日に終わった古い悪夢を振り払って、シゾーはほぞをかんだ。
(いや、そんなことは、この際どうでもいい。どうでもよくないのは、このことなんだ。タイミングが悪すぎる―――)
タイミングが悪すぎる。繰り返す。タイミングが悪すぎる。それはある意味、慣れたことだった。こんな運命の悪計としか思えない展開を予測していたといえば嘘になる……が、自分の運の悪さくらいなら、いつだって実感していた。それは、孤児の時から培ってきた人生訓のようなものだ―――類が友を呼ぶのは、人間じゃない。悪運だ。
だとすれば。最悪が、これからだ。
危機感を唾液ごと呑み下し、シゾーは次の瞬間を待ち受けた。それしかできないのなら、姑息であっても、できる一瞬で構えるしか策はない。ゆえに。
(来る)
来た。
「あんた誰だ」
ザーニーイの横目が、シゾーを見ていた。汗と涙でばらけた金髪の間隙から。
その瞳を、知っている。
致命的な臓器を確実に再起不能にする位置の肋間へと差し込まれゆく銀刃を、受け入れるほかない者の瞳。
そして、それを認めた途端に下腹を奥底から炙る、この本能の欣びを知っている。
(ああいけない)
アアいケナイ。
あえやかな甘露を機械的にねじ伏せ、シゾーは目蓋を下ろした。それを上げたところで、燻り出だされた涙はひねり潰せておらずとも、そうした。
そして、それを続けた。
高鳴る心拍は緊張のせいだ。歯の根をぶれさせる痙攣は窮地のせいだ。平熱が沸点へとシフトしようとするのだってそうだ。耳鳴りしようとする鼓膜も心底すばらしい刹那の鳥肌も、舌根のぬめる甘味も膨れる脳ですら!
「―――誰だ、だって? 知ってるだろ?」
呼吸すら食い殺して、柔和に笑う。シゾーは、聞かれていない言葉を語りかけた。
こんな時にしかいえないような厭味を、卑怯にも織り交ぜながら。
「ひどい奴だよ。あんたは」
無手を示すために両手を広げ、見下ろす構図を解消するために、しっかりと腰を落として屈む。それでも、ザーニーイの容態が暗転していくのは止められなかった。こちらを恐怖し、遠ざかろうとしながらも、立ち上がることすら忘れているようで、結局は無駄に手足を這わせて後ずさる―――が、今ほど、過剰に警戒して身を反したことさえ覚えていないのだろう。机に背中をぶつけて後退を阻まれ、その表情が黄昏から更なる奈落へと落ちる。
「知ら、ない……誰だよ……嫌だ、来るな……」
その双眸は、ひどく純度の高い鋒鋩を思わせた。鋭く魅せられるが欠けやすい。折れることもあるかもしれない。
シゾーの妄想を御するかのように、不意に頭頂からこぼれた髪が、左耳の異物をこすった。ここへ来て十数年、薄緑のリングピアスは、もはやそんなことがなくても意識だけで触知できる。だがそれでも、今そうして思い知ることに意味を求めるならば。
分かりきったことだった。唇を舐めて、改めてザーニーイに対峙する。
「知らないことなんかない。俺はお前の味方なんだから。嫌なことだって、何もな―――」
「かえせよ。かえしてくれ。みんなのとこにかえ、し? 違う。嘘だ。みんな、を? みんな? 嘘だア。いるか。いるのか? どこに? どこにも。いるはずない……ない、はず、ない、のかよ、とうさ―――シゾォ…………シ、ゾー?」
自身の呟きを探すように、ザーニーイの目が上ずった。うわ言を後追いして迷い出た眼差しは、更に得体の知れない思念に曇る。
「どこだ……シゾー。あのチビ。マメ。いねえ。コラ。くそが。ったく。泣き虫はお預けにしとけ。待ってろ、いま、そこまで戻ってやっから―――嫌だやめろ! 俺に触るな!!」
「シゾーは俺だ。ここにいる。落ち着け」
伸ばしかけた指先を引っ込めて、シゾーは埋めそこなった相手との隙間に、言葉を滑り込ませた。ひっくり返った灰皿から舞った塵を吸いながら、優しく繕った声を編んでいく。
「ここが仕事部屋でよかった。お前をすぐに守れるんだ。助けてやれる。だからまず、ちゃんと息をしてくれ。落ち着いて……」
「―――はは。ははは。あんたがシゾーだと?」
直後だった。それが告げられたのは。
「だったらなおさら、誰ひとり救えるかよ」
嗤う。
互いを。
悪意のない悪魔の成す嘲戯に、眩暈すら覚えながら。シゾーは自分のうすら笑いを知ることなく、それと全く同じでいるザーニーイと、そうおもむくままに見詰め合っていた。
「シゾーはな、ほんの、ただのがきんちょだ」
唇が開いて、開き続ける。
絶望に足る真実が、今この時すら終わらない。
「いつだってガキだし、いつまでもガキだ。だったら守れないし助けれない。俺がいないと、なんにもできやしない―――」
「今の俺だけがシゾーだ!!」
糊塗すら砕く、噴怨に。
ただ―――ただ、声を出す。
迸った怒号は、即座にその対象を害した。とめどない恐慌をこれ以上なく煽られ、頭を抱きこんだザーニーイが、身体を悲鳴ごと捩らせる。蒼い炎が見えた―――いや、それは、濃紺の手袋に包まれた、己の両の手の指が蠢く様。シゾーの十のそれは火影のように戦慄いて、焼き尽くす肉を求めて前へと伸びた。ザーニーイの肩といわず腕といわず、触れた部分から組み敷かんと欲するままに。
あっさりと、それは叶った。当然だろう。相手は、シゾーのことなど見ていない。
どれだけ乱暴に取り押さえられたところで、ザーニーイの痛哭が向かうのは、あくまで虚空だった。
「嫌だア触るな―――来るなアアあァァァア!!」
「もう三年も経ってるんだ! 分かれよ畜生、俺のこと、―――!!」
疾呼する。
疾呼は続く。
それでも呼んだ名に誰も答えることなく、しばらくして全ての声が終わる。
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