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承章
承章 第三部 第一節
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「後継第一階梯の捜索のひとつとして、羽根の売買についても当たってみましたが、やはり把握しきれていないのが現状です。戦後、属国とした隣国を通してからの流通が盛んになったことで、有翼亜種からの流出も増えています。上等なものから粗悪なものまで、玉石混淆の状態でね。無論、安価なものとはいいがたいのですが、女にくれてやった―――と抜かすような武装犯罪者もいる体たらくで」
静かに。
滔々と。
軽やかに。
淡々と。
なにより、そう表現するのに相応しい足取りによって、歩速を上げて。
廊下を先に進みながら、その歩調と同じようなゼラの解説が続く。
「輸送配達の護衛を依頼されることもありますが、荷物の内容について詳細を明かす義務は雇用主に課せられていません。こぞって相手から説明してくれることがほとんど……とでも言えば体裁はいいですが、それは相手からの舌先三寸を丸呑みしている裏返しでもあります。無論、隊や積み荷の特徴を見ればおよその見当をつけることも出来ますが、栞のように本へ一枚だけ挟まれてしまえば密輸されても分かりません」
語り口に応じて、彼の手が翻る。冊子のページを繰るような、あるいは指揮棒で大勢を指揮するような流線型の動作で。
「と言うわけで、まだしばらくは、ここへ逗留していただくことになりそうですね。今日まで、なにか不便はありませんか? キルルちゃん」
いきなり矛先を向けられて、キルルは当惑のまにまに頷いた。
それを見るでもない素早さで、今度はエニイージーへと話が向けられる。
「それは良かった。エニイージー、部隊長第一席主席として、君の信じる旗幟へ感謝します」
「ありがとうございます」
キルルの困惑が伝染しているようで、エニイージーの返事も覇気を失っているが、ゼラは決然とそれを無視した。そのまま、先を進んでいく。
ついで横からやってきたエニイージーの目配せは、もっともらしい事情の説明を求めていたが、それはキルルこそあやかりたいくらいだった。どうしようもなく押し黙ったまま、ゼラについて歩き続ける。
(なんだろう? ゼラさん。怒ってる? ……ザーニーイに、)
心の中でつんのめったせいで、余計な気後れが膨らんだ。現に半歩ほど遅れてしまったため、あわてて取り戻す。
(恋人がいるって―――シゾーさんが仄めかした時から)
予期せず、知らされていなかったことを知らされた当惑だろうか。騙し討ちを食らわされたのみならず、それをやらかしてきたのが当の本人でなかったとくれば、理解できない感情ではない。むしろ、
(あたしは―――今そんな分析をしていられるくらいに、冷静なのね)
そのことにこそ、突き放されたようなショックを感じていた。
(……イーニアは、あたしの身代わりになったの?)
手触りの無い哀悼は、どこか遠い風景を見ているように現実味がない。
(次は、あたしなのかしら?)
実母の死でさえ心痛を残していない己に、次のお鉢が回ってくると言われたところで、怖気ですら遠い。大事にしていた大切さを失うのは、あまりにもあっけない―――約束に指きりを重ねたところで、それは破れないことを保障しない。右手の小指の付け根は、とっくに瘡蓋さえ失くしている。
(あたしは本当に馬鹿だ)
―――ここにいる、あなたを。だからって、ひとりにしたくない―――
(そうじゃなかった。独りよがりだった。どこでも―――あたしだけが、ひとりなだけだった)
思い知る。
のみならず、思い至る。もしかして、今までのすべてが、そうだったのではないか? ……
(あたしは、ここで変われた……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
幾つかの無知を掘り下げたことが、新鮮に思えた。それだけだ。
(イーニアは、あたしを好きでいてくれた……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
右も左も分からないうちに、距離感まで間違えた宮仕えをしていた。それだけだ。
(……ザーニーイは、あたし―――)
―――についても、お仕事なんですけど。
(シゾーさん)
キルルさんは、本当にすごい人ですね。本当に、そう思うんです。
(そんなこと無い)
色々あったでしょうに、それでも笑って。そうやって明るくて。すごく―――すごいなぁ、って。とても尊敬します。……でも、―――それだけじゃ、済まなかったりしてね?
(そんなこと無い……)
僕には、そんな顔しか、してくれないんですね。僕には―――
(そんなこと無い……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
それを疑ったことは、あの日から何回かあった。
ただし信じることはなかった。それどころではなかった。ただ、余計な気がかりが増されたことに煩悶し、いつしかシゾーへの逆恨みの方が勝るようになっていた。どうしてこんな時に、そういうことをするの? どうしたいから、そうしたの?
(どうしたいのかな―――あたしは、なにがしたいのかな? 分からない……)
信じたものは疑えてしまう。
疑いようがないと信じたはずの祈りさえ、ザーニーイからしてみれば一方的な独りよがりでしかなかったのだから。
(……―――ザーニーイが好きになった女の人って、どんな人なのかしら……?)
と。
「―――で、いいですよね? キルルちゃん」
「え!? あ、な、なにかしら。ごめんなさい。聞いてなかった」
我に返ったことに跳ね返り、大声を上げてしまうのだが。
それにびっくりしているのは、どうやら自分だけらしかった。いつしかたどり着いていたゼラの部屋の前で、こちらを覗き込むように上体を傾げて心配顔を過らせているエニイージーのみならず、部屋の主でさえ肩越しにこちらを振り向いてきている。
のみならずゼラは、ドアノブに掛けていた指を外すと、ため息混じりに己の頬を掻いた。仕草自体は癖のようだが、まるで言い草ですら悪癖の一部のような陰鬱さで。
「シッズァの馬鹿なら、お気になさらず」
「え?」
「恥ずかしい話で申し訳ありませんが。あの子のやけっぱち任せの発奮も、根も葉もない無責任な噂の横行も、今に始まったことではありません―――色恋沙汰であれ、刃傷沙汰であれ、そうやって裏から表沙汰にされること全部が全部、正気の沙汰とは思わないでください。そうですよね、エニイージー? 良かったですねえ。腸。ただもれしているわりに、すこぶる健康なようで」
「あんにゃろらめー!」
目を血走らせてのたうつエニイージーは置いてきぼりに、あっさりとゼラが話題を取り戻した。
「チェストの検品ですが、しげしげと入念に調べようとは思っていません。ただ、女性の持ち物を男の手で勝手に漁るのも気が引けますので、立ち合いを宜しくお願いします」
「う、うん」
「なんか知りませんけど、危ないんなら俺がしましょうか?」
どうにか正気を取り戻したらしく、ぜえはあする肩をいなすように声を平坦にして、エニイージーが身を乗り出す。
それを見返したゼラの双眸もまた沈静していたが、それは相手に合わせてのことではないようだ。更なる深みまで見透かすように、エニイージーともキルルともつかない方向へ、じっとりと眼差しをこもらせている。
「目視のみですが、毒物について、キルルちゃんの私物を検めます。食器に塗られるなんて大人しいものに限らず、毒針そのものが仕掛けてあるかもしれません。言うまでもなく危険ですが、君の申し出は、ここまで承知の上ですか?」
「……なら余計に、ゼラさんがするべきじゃないですよ。俺が妙なことになっても、ゼラさんの魔術さえあれば、究極のところでどうにかなるでしょう? 俺じゃ手当てなんて、傷口から毒を絞り出すくらいしか出来ねえし」
「そうまで便利なものじゃありませんけれどね……コレ」
そこで挟んだ嘆息は別種の諦めを含んでいたようだったが。ゼラの目線は、キルルへと巡らされる前に、エニイージーへ同順していた。一理あるとみて、譲ることにしたらしい。
「まあ、触られるキルルちゃんさえ嫌でなければ」
「……しょうがないわね」
キルルの付け足しに、ゼラが言い訳してくる。
「手袋をさせましょう。部屋にあると思います」
「前提として毒針を用心しての真っ当なやりとりの筈なのに、ばっちい菌扱いされてる気分になるの俺だけかな……」
譫言のように指摘してくるエニイージーを見やって、苦笑で宥めながら、キルルもゼラに続いて部屋に入る。前日通りに、半分ほどしか開かないドアの隙間から、身をななめにして。
こちらの様子を見て不審そうに狭められていたエニイージーの目が、入室直後に仰天してまんまるになったのは、なかなか爽快だった。
「うへえ! こりゃすげえ巣だな」
「ちょっと待っていてくださいね。奥から手袋を探してきますから」
言うが早いか、ゼラが物陰に消える。
余計な身動きを圧殺する怒涛の積載物に、あんぐりと口を開けたままでいるエニイージーは置いておいて、キルルは目の動きだけで自分のチェストの在り処を物色した。ひと抱え程の大きさで、鍵の掛かる拵えをした、豪華な直方体である……あっさりと、それは見つかった。置いていった木箱の群れの上から、動かされた形跡もない。ただし、以前と違うこともあった。チェストの横に、隠されるようにして白い箱が置かれている。寸法は、チェストの四分の一ほどか。見覚えがあった。
(あれ? あたしの服を入れた箱、こんなとこに置いたかしら? ゼラさんが打つって言ってた釘も、どこに―――)
見えないところに打たれているのだろうか。
そちらへと近寄り、軽い気持ちで箱の上に指を引っ掛け、持ち上げてみる。
(え? 軽い―――)
刹那だった。
ぴったり密閉していた、箱の上―――蓋から、下が抜ける。
「あっ」
キルルはその時、叫んだと思った。
確かに、喉を引き攣らせたと。
驚愕の思いを代弁してくれたと。
実際に、聞こえた声は無かった。
―――とうに己の喉にさえ裏切られていたとするなら、自分は本当に一体いつどこから裏切られていたのか? そう囁かれた疑念さえ、今は聞けずにいる。
そう……鼓膜の至福に忘我し、ただ―――ただ、キルルは夢中で、そこにいた。
しゃきり。しゃきり。しゃきり。
神の御手が、常世の愛撫を終えた。
だからこそ、現実を取り戻すしかない。
散らかり放題の床の上に、舞い散り終えたものがある。
「―――羽根……!?」
羽根だった。
吹き散らされた木々から落ちた葉が、枯れ葉も若葉も混ざり合うように。何枚もの羽根がある。
大きい。小さい。長い。短い―――白い……
赤い。緋色。
橙。
「あーあ。まあこりゃ派手にぶちまけちゃって。ゼラさん、これ武装犯罪者からの押収品じゃないっすか」
「え?」
今更になって追い上げてきた心拍の速さに、ぞっとした思いを募らせながら。振り向くこともできずに身を固まらせているキルルを、どうにか追い抜いて―――どうにかと言うのは無論のこと互いの体格のせいではなく、障害を越えていく身体の柔軟性を試すがごとく方々に置かれた荷物のせいだ―――エニイージーが気楽な動作で、ひょいと床から羽毛の一枚を摘み上げる。
その羽根はまっすぐで、掌大ほどの長さがあり、緋と橙の混色をしていた―――
「有翼亜種の羽根を染めた美術品だよ。ここの空気にほったらかしにしとくと、ただのぐにゃぐにゃした枝毛になっちまう―――軸の一本を残して、あとの全部が千切れちまうから、こーやって箱詰めしとくんだ。さっきゼラさんも言ってたろ? 流通量ががばっと増えてから、こんな精巧なのも出てくるようになってさ。きっと高く売れるぜー、これなんか」
あくまで軽薄に言ってのけながら、やはり床から拾った白い箱に、エニイージーは気取ることもなくひょいひょい羽根を戻していくのだが。
キルルは確信していた。違う。
(確かに、偽物だらけだった。けれど、―――違う。いくつかは、本物……紅蓮の如き翼の頭衣)
本物に似せて染色することは可能だ。ただしその過程で、羽根は例外なく痛み、形状をうねらせてしまう。なによりこの、しゃきりとでも言うような、霜を踏むより澄んだ音はしない。
(それを、信じていいの?)
羽根の無くなった床から、キルルは顔を上げた―――
(それとも、疑えば済むのかな?)
ゼラと、目が合う―――
と思えたが、よろけたエニイージーが途端に前を塞いだ。と言うか、仰け反るようにして物陰を脱し、その向こうにいるゼラを見たかったということだろう。続けて、呼びかける。
「ゼラさん。全部しまいましたけど。これ、どこ置いときます?」
「そうですね。邪魔にならないところにでも」
その返事もまた、動揺した気配はない……
(だとしたら、あたしだけがこうしてるのは、きっと―――よくない)
「キッティ、それ寄越しな」
言ってくるエニージーを、どうにかキルルは見上げた。
「片付けるから。ほら。蓋」
正面。二本指をくいくいさせながら見おろしてくる目に、催促する以外の念は感じない。
促されるまま、彼に箱の蓋を差し出す。渡してしてしまいさえすれば、震えていたところで気取られない筈だ。
読み通り、エニイージーは何も気づかなかったらしい。どこに置こうというのか、来た動線を逆戻りするように、箱を抱えてドアまで戻っていく。
キルルの中で、危機感だけが、どうしようもなく糸を引いていた。このままでは、程なくゼラが奥からこちらに向かってくる。だってもう、手袋を探し当てた腕が見えた―――
「うわっ!?」
素っ頓狂な悲鳴に、肝を潰して振り返る。
そこではエニイージーが、ひどく面食っていた。床を凝視している。
途端。キルルは背後から、ゼラに追い越された……そのまま彼はエニイージーへと歩み寄っていく。
それと行き違うように、エニイージーから呻き声がやってきた。
「なんだこれ……肘が引っかかって」
どうやら、箱を置く動作の半ばで、何かを落としてしまったようだ。そこらへんの惨状と大差ないように見えたが、荷物の隙間を縫って目を凝らすと、なんだかよく分からない鍵のようなパーツが、ごちゃっと床に小山を作っている。片手でひと掬いできそうな大きさである。エニイージーが言っているのは、これのことらしい。
(こんな時は―――)
どうにか、キルルは言い繕ってみせた。
「この妙な棒切れ全部に肘をぶつけたの? 器用ねー」
「違ぇよ。キューブみてえだったのが、床に落ちたせいで崩れて、こんなんになったんだって。うわー。壊しちまったのかな? ゼラさん、これ……」
「ああ。まあ、立体パズルの一種ですよ」
間際で立ち止まり、ゼラが口にする言葉は、事実を読み上げるだけのそれだったが。
それに逆に感じ入るところでもあったのか、エニイージーがさっと屈みこんだ。そして、その切れ端じみた破片を残さず掬い上げると、懐にしまう。
「すんません。完成してたのに。俺、頑張って元通りにしますから」
「はい?」
「バラバラになっただけなんですよね?」
一拍。
ゼラが、首肯したとも疑わしさに駆られたとも取れる向きと深さで、曖昧に首を傾げた。
「まあ、それでも。わたしは」
「ありがとうございます」
「さ。それでは、ちゃきちゃき検品してしまいましょうか。はい手袋」
「借ります。よし……んじゃまあ、予定通りに―――キッティ、それだろチェストってのは。ちょっと退いてくれるか?」
言うが早いか、ふたりしてこちらへやってくる。なすすべなく奥へ下がりながら―――やはり二歩目の踵で妙な弾力を残す得体の知れない感触を踏みつけたような気がしたが―――、キルルはそれを見ていた。先行してきたエニイージーが、チェストの位置をずらして、広げやすい床に移す。屈身し、ぎゅっと手袋をはめ直したところで、鍵の存在に気付いたようだ。開錠を要求しようとした彼が、立ったままでいるこちらへ顔面を上向かせようとして、
「予てより語る破れ目をくぐれ、汝‘子爵’ジュサプブロス」
即時のことだった。エニイージーの斜め後ろに屈んだゼラの、声―――詠唱を引き金にして、魔神がこの世に召喚される。
深い水底から、水を踏んで浮かび上がってきた人魚が、水面に溶けていたはずの輪郭を顕わにするかのように。ふわん……と宙返りし、ゼラの背後霊のように収まる。ジュサプブロスと呼ばれたそれは一見して人間のようだったが、存在としては人魚に近いと思えた―――長い髪をゆらめかせ、まだ見ぬ陸地に胸をときめかせたように輝き続ける瞳は、人間として決定的な何かを欠落させている。
つと、ゼラがチェストの鍵へ触れた。
そして、ふ―――と顔つきから表情を抜いた直後。何事かを呟くようにしながら、鍵へデコピンを一発喰らわす。そして、
「これで開きます」
ぱくぱくさせた口から、結局なにを言うでもなく。エニイージーが、チェストに手を掛け直した。そっと、開けにかかる。開いた。
「うっわ! なんで!?」
「練成魔士の小手先の隠し芸です。そんなに悪用したことはありませんから、ご心配なく」
「なんで!?」
「いっぱい悪用してほしかったですか?」
「じゃなくて、これ! なんで!?」
「鍵を出して、またしまうだけ手間でしょう。これ、閉めると自動で施錠される構造のようですから。見終わったら閉じるだけで済みますし」
「そっちでもなくて! 開く原理!」
「鍵と同じくらいぴったりと鍵穴が埋められたように錯覚させました」
「はあ!?」
しつこく驚くエニイージーを尻目に、ゼラがまたしても小声を終えた。エニイージーの悲鳴で聞こえなかったが、またしても呪いを口にしたのだろう。風紋が風に吹かれて原形を失うように、魔神もまた世界から隔てられる。
唱え終えた輪郭のすべらかさは、前後にずれて隣り合うエニイージーと、幾つも違わないと思えた。兄のように―――姉のように。
(―――まさか)
腑に落ちたその思いが、一週間ぶりの二度目だと気付いて、キルルは肺臓を引き攣らせた。
(まさか)
絞られた呼吸につられて、急に高まった動悸に頭痛を覚える。
(まさか)
風貌。物腰。癖のある豊かな黒髪。人種の異なり。そのすべてが罠なのではないか?
ゼラだからと片付けられる要素を徹底的に嵩増しすることで、致命的な部分を見過ごす油断を誘導しているのではないか? 年齢は詐称できる。出身は偽装できる。紅蓮の如き翼の頭衣をあえて傷めさせて凡人の頭髪を装うべく、黒染めしたのちに整髪油で整えるなど、常軌を逸した蛮行としか考えられないが―――そもそも、異母姉の生母ジヴィンがフラゾアインであったとするならば、それすら些末事と済ませてしまえるのではないか?
(まさか、まさか、まさか……)
突飛すぎる話だ。魔神は? 練成魔士としての訓練はどこで受けた? フラゾアインとの混血は、そこまで超越してしまえるものなのか?
在り得ない―――
(けれど、……あたしが王様になることだって、同じくらい在り得ない話だった)
思いも寄らなかった。考えもしなかった。キルル・ア・ルーゼは、変わらない日常に、ありふれた不満とありあまる退屈を数えながら、漫然とした倦怠を伴侶に暮らしていくことを、疑ってすらいなかった。キルルにとっての世界とは、明日までに提出しなければならない宿題の期日までの実在でしかなかったのだ。
―――そうして、果てに、これはなんだ?
それは過去に聞いた、父の言葉だ。恐れおののく心地で、それを受諾する。
(だって、これが現実なんだから)
現れてしまったのだから、受け入れるしかない。
ならばその延長線上で、異母姉が化け物のように現実を化かして目前に存在していたとしても、これっぽっちの変質のひとつに過ぎないのではないか? 自分が国王になるくらい―――馬鹿馬鹿しいにも程がある……妄想たけだけしい―――ただし、だとしても、現実の。
(狂ってる)
世界が?
自分が?
世界が狂っていると認識した自分が正気であると、どう信じるのか?
己を正気だと豪語する者が狂っていないと、誰もが疑わずにいられるのか?
(馬鹿げてる。こんなの、どっちだって、同じだ―――)
正逆に位置しながら。同質であり、同一の。
と―――
「見る限り、なぁんもなさそうっすね」
「これに限っては、思い過ごしが一番です」
「もうこれ全部、元通りにしまい込むんでいいですか?」
「はい。それで結構です。よね? キルルちゃん」
呼びかけに、答えてくれたのは。
突拍子無く、口を衝いた語句だった。
「う、じ、むし?」
沈黙。
そして―――地獄のような―――数秒後、
「はい?」
突拍子もなかったのはゼラもだったらしく、薄笑いを酷薄に凍り付かせてくるが。
こうなっては、続けるしかない。せりふも―――眼球も、ゼラに向けるしか。
「蛆虫で、その、実験するって言ってたなーって。思い出しただけ」
「いえ。しないことになったじゃありませんか」
「あ。あは。そうだっけ? 蛆虫って見たことなかったから。ちょっと気になったなー」
それを聞くなりのことだった。エニイージーが相当に愕然とした面持ちで、ぽかんと声を上ずらせる。
「蛆を見たことがないイ? どうやって? なんで?」
「なんで、って……」
更に―――地獄が再来して―――数秒が経ち、
ぽつりと、一言。
「そういや姫様だったっけ」
「えー?」
「いやゴメン。なんかもう違和感なく食堂でメシ食ったり駄弁ったりしてるから……キティ・ボーイって定着してきてっし」
「エニイージーだって、やいのやいの言わなくなったじゃないのよー」
「だって言っても聞かねえもん……」
いじけたように人指し指の腹同士をつんつんしあいっこさせているエニイージーに、唇を突き出してブーイングを送る。それを挽回しようとしてでもなかろうが、ちゃきちゃきと物品をしまい直しながら、彼は言ってきた。
「でも見たいんなら、蛆虫くらいどんだけでも見れるぞ」
「そうなの?」
「うん。白いっぽいぞ」
「白いっぽいの?」
「面白くはないと思う」
「面白くはないんだ」
「ぞくぞく湧いてるの見ると、ぞーっとするかもだし」
「ぞくぞくぞーっ?」
「……なんちゅーか、いまいちズレた反応だな」
「あたしのせい? それ」
「なら、確かめに行ってみるか。あんなもん見ても、ふーんってだけだろうけど」
消極的な好奇心をえらい高く買い上げてくれた最後、チェストをぱたんと閉じる。
それを、元あった位置に押しやって、エニイージーが立ち上がった。手袋を脱ぎながら、しゃがんだきりのゼラへと、目線を下げる。
「ゼラさん」
「あ、はい」
「なら俺ら、これで行きます。このパズル、必ず直して返しますから。お邪魔しました。出張から帰ってきたばかりなら、いったん骨身を休めてください。それじゃ、背に二十重ある祝福を」
「はい……それでは。背に二十重ある祝福を」
返された手袋を受け取るため、ゼラもまた立位となる。キルルはそのわきをかすめるようにして、通った―――部屋を出ていこうとするエニイージーに、追いつかなくてはならなかった。そしてそれよりも、ゼラを間近で見る機会を逃すわけにもいかなくなっていた。
すれ違いざまに、視線が通い合うこともない。
伏し目がちのそれは、漆黒の髪の影から、白い箱へと向けられていた。
無数にある箱の中でも、それが羽根が入っていた箱だろうと思えたのは―――順当な邪推なのだろうか。
(お姉ちゃん……?)
廊下に出て、物憂く部屋を振り返る。
わきにいたエニイージーが、そのドアを閉めた。
「? どーした?」
「……いいえ」
やり取りは、それで終わった。
エニイージーが、廊下を歩き出す。キルルは、それに並んだ。
誰と行き交うでもなくそのまま進んで、角を曲がった頃だった。
「すっげー部屋だったなぁ。ガラクタ詰め込んでシャッフルした玩具箱みてーな、片付けって文字が辞書にない生活空間。どんな生まれ育ちしてきたんだろ、あの人」
ぎくりと、身が竦む。
単に階段へ向かっているだけだと思っていたが、エニイージーはドアから聞こえない距離を稼げたかどうかを数えていたらしい。ぼそっとやってきた独り言にチャンスを感じ、キルルは咄嗟に便乗した。
「知らないんだ、エニイージーも!」
「は?」
「ほ、ホント不思議よねそれ! 真面目にホント!」
「やたらめったら挙動不審だぞ、おい。どうかしたか?」
「ええと……あの……あれよ、本当に、」
そこまできて、取り繕わなければならない嘘も無いことに気付く。
そうなると慌てふためこうにも息が続かず、肩を落としながらエニイージーに語り掛ける。
「ゼラさんって、ここに来る前どうしてたのかなって」
「まあ、モグリの練成魔士ってだけで、ただ事じゃないからなあ」
「三十過ぎてるって齢にも見えないし」
「見えないのがフラゾアインの血なんじゃねえの? 知らんけど」
「知らんけどって」
「だって、あの人以外にフラゾアインとか見たこともないし。なにより、頭領いわく、おじさんなんだから、おじさんなんだろ。ほかにどう言えるよ?」
「おじさん」
はたと、勘付く。
(そうだ。ゼラさんをそのように扱ってるのは、ザーニーイとシゾーさんのふたりだけなんだ)
名前。
身元。
立場。
経歴。
(お互いの自称の保証のほとんどが、あの三人に始まって、三人に終わっている―――)
そして思い出したのは、それだけでなかった。
「ねえエニイージー」
「うん?」
「ゼラさんの部屋、モノだらけで溢れ返ってたわよね」
「いや俺ずっと言ってんじゃんよ。それ」
「あれを片っ端から事細かに把握するなら、どれくらい時間がかかるかな?」
「はあ?」
その声色は、明らかに小馬鹿にして受け流そうとした雰囲気だったが、こちらを見やったエニイージーはそれを引っ込めた。代わりに、ふと考え深そうにした表情に怪訝さを差して、含みを持たせる。
「……一朝一夕じゃ無理だろうな。なんなんだよ、さっきから?」
キルルは、黙りこくって首を横振りした。
なんなんだよ、としきりに口にされて空気は気まずくなったが、気にしている余裕はない。
廊下を進み、階段を下りていく中で、逸る思考を抑えていた。
(ザーニーイは、あの部屋を知ってた。整髪油の替えの置き場から、古着のしまわれた棚まで……勿論、ずっとここで本当におじさんと生活していたのなら、充分にそれは在り得ること。在り得ることだけど、)
首ったけなひとりでも、それは在り得ることのように思えてくる。
(なんなの?)
不毛だ。際限ない考えは、どこまでも及ぶ。
あの曇り空のようなものだ。どこからあの雲は流れてきたか―――いつからあの雲は空を満たしたのか。それを問うた者には、<終末を得る物語>が答えた。どこへ流れるのか―――いつまでいるのか。得られたはずの終末は、未だに誰にも見えずにいる……
と。
「ところであたしたちってどこ行くんだっけ?」
「……蛆虫見学に厩へ」
半眼をひくつかせながら渋々と答えてきたエニイージーの面構えは、彼の頭向こうに広がる曇天―――とっくに野外に出ていたのだ、気付かなかったが―――と同じくらい雲がかっていた。
彼がフルチャージした文句を噛み潰していくうちに、正面のグラウンドを進み終わる。ここ数日で、行きずりの旗司誓から好奇の目が寄せられる回数は激減していた……そう単純に消化されないものを焦げ付かせたような目付きだけが残されたとも言えたが、それらについてエニイージーはきっぱりと、見ない・聞かない・言わないの不可触三原則を厳守していたので、キルルもそれに習って身を守るのに慣れ始めていた。と言っても、おおよそ気が良く挨拶を渋りすらしない若者がほとんどで、上辺の自閉でやり過ごす回数だけで言ったら城にいた時の方が余程多い。
(エニイージー以外にも、仲良くなれた人も出来たし)
これもまた、城にいた時より、余程多いと言える。
そうこうしているうちに、正門のやや外れに構えられた小屋に到着した。さほど腐食は進んでいないが、壁は薄く、屋根もまた薄そうである……ただし、大きさはあった。貧相というよりか、人間が暮らすのとは用向きが異なる設えなのだと想像がつく。屋内から流れてくる人畜無害な嘶きが、それを裏付けてくれる。厩舎だ。
その手前にいたのっぽの男が、作業の手を止めて振り返ってきた。顔見知りだ……まあそれは顔を見るまでもなく、相手のうなじで黒髪を縛った布のカラフルさから分かっていたことではあったが。
「ようイコ。背の二十重ある祝福に」
「おんや、まあ。背の二十重ある祝福に」
声が届く間合いから、顔かたちの機微が読み取れる間合いへと近づくのを待ってくれて。
彼―――イコ・エルンクーが、キルルへも片手を上げてきた。エニイージーへと向けた簡易敬礼から型を崩し、単なる会釈のイロとして。
「よ。ごきげんようキティ・ボーイ」
「よ」
「っつか、どうしたん? こんなとこまで」
疑問を向けられたエニイージーが、露骨に不服そうな顔つきをした。
「キッティが蛆虫を見たいんだと」
「マジでか?」
「マジでだ」
軽はずみに度肝を抜きにきた不埒者と言わんばかりに、ありありと警句を形相に燈したイコだが。エニイージーも退かずに、食い下がる。
「見たことないんだと」
「おおぉおマジでか!?」
「大マジでだ」
「……はぁー。そうかぁ。ふむ。オーケイ。波は去った」
「まさかあたし恥晒しになってる?」
キルルが目蓋を半分下げつつ割り込むと、イコが首と両手を否定のモーションでぶんぶかと振る。
「いやいやいや。そうだよな。虫の勉強なんかしてねぇよな。してねぇなら分からないって。インクも牛乳も小便もジャンルとしては液体だって」
「そのみっつくらい分かるわよ!」
と、言い返した横から、
「お前それ恥晒しじゃなく恥知らずなだけだって言外に言っちゃってんぞオイ」
エニイージーが冷めたとどめを刺してくれてきたので、分かりやすくキルルは音を上げた。両手の拳を振り上げて、めちゃくちゃにイコに叩きつける。
「うあーん! イコさんの馬鹿ーあ! もー!」
「うあーんエニ坊の馬鹿ーあ! オニーチャン嫌われちゃったじゃないのよーう! もーう!」
「悪かった。もっと攻撃力が低い口回しにするべきだったゴメンナサイませ。ってか、この流れは俺がキッティにポカスカやって泣きつけば終わるのか? それとも幻の永久機関の完成か? もっとマシな動力源を選ぶ選択肢はないのか。ちょっとそこまで探してくる」
「逃げるぞー! 脱走兵だー追えー!」
「うあーん! だーおえー!」
「兵士じゃねーよ旗司誓だ」
「言葉のあやだー深追いするなー!」
「うあーん! のあやだーいするなー!」
「むしろ俺を深追いすんな」
「追うー深々と追いかけるー!」
「うあーん! ふかいよーぶかいよー!」
よよよと泣き崩れながらへばりついてくる大の男―――実際このメンバー中でイコは最も大柄だ―――と少女を引きずるようにしてエニイージーがあさっての方向へ行きかけるが、半歩ほどでそれを止めた。額を押さえ、憮然と脅しをきかせてくる。
「って、じゃれ合ってアホするのはいい加減置いといて。キッティのこと、ちょっとお前に預けてもいいか? 俺、塒に置いてきたいモンあるから」
「おう、ンなもん朝飯前だ。造作もねえ。便所蛆を見せるだけでいいんだろ」
「いいんだろ?」
あっさり嘘泣きを取りやめにしたイコと、エニイージーの目玉が、計四つともキルルに向いた。大きな蕪でも引っこ抜くかのように三人して組んずほぐれつの腰抱きになっていたので、最後尾にいたキルルは二人して見上げるようにしながら、こくこくと首肯する。こちらもやはり、適当に作っていたふくれっ面を放り出して。
しっしっとした手つきにあしらわれるまま振りほどかれ、キルルはイコと並んで、エニイージーを送り出した。
「そんじゃ、背に二十重ある祝福を」
「あいよ。背に二十重ある祝福を」
「いってらっしゃーい」
そうなると、出来ることなど限られてしまうわけで。
見詰め合ったのはどちらともなくだったが、口火を切ったのはイコの方だった。
「んじゃ、行こっか」
「うん」
「危ないから手ぇ繋いでね」
「うん。え? 危ないの?」
「嘘ぴょーん」
「もー。なによ、もー」
と言いつつも、つい手を取り合ってしまった流れで、絡めた拳骨をぶらつかせたまま厩舎に近づく。
自然と、鼻がひくついた。
「うー。ドーブツのニオイする」
「まあ、いっくら悔踏区域外輪でも、ここは太刀打ちできねぇわな。ちゃんときれいにはしてるんだけど。ほら、あっち見てみ?」
イコが拳―――空いている方の手だ―――から立てた指先を、建物のあちこちに振った。
「奥が単房で、手前のこっちに休憩室と飼料庫。物置は、その区切られたとこね。お掃除アイテムみっちりよ。今は中で、別の作業してるけどね」
どうやら彼はこの裏側に行きたいようで、説明もてきぱきと終えられた。通りすがりのことでよく見通せなかったし、造りについてもどうにも頭に残りそうにないが、それを気にした様子もない。まあこれも、彼なりの愛想なだけ、と言ったところか。繋いだ手と同じくらいに、他意のない他愛ない愛想。
(だから、こうしていられるんだろうな)
不思議なものだ。イコとなら、あの中庭までスキップして行っても、スキップして帰ってきて終わる予感がする。だからこそ……気にかかる。
(ザーニーイは、どうなのかな?)
「ぱんぱかぱーん。とーちゃーっく」
言われ。
ファンファーレを口ずさまれても、目的地だったらしい裏に回っただけである。地味だ。見どころもへったくれもないが、あえて探すなら、隅の方でこんもりと土が盛られている。土だと、そう見えたが―――
それを指し示して、イコ。
「で、そこから運び出してきた糞があれ。夜になる前に肥受けにまとめられて、回収を待つことになるね」
「回収?」
「排泄物は肥料に回される。うちの敷地は雹砂が混じってっから、基本的には農耕にゃ向かないんだけど。最近は人員が増えるにつれて量も増してきたから、農作物を取引してる村に払い下げてるよ。ごはんの材料を受け取る代わりに、ごはんの堆肥を引き渡すの」
「へー」
イコの助言を背景に、やはり手を繋いだままであるがゆえに彼と並んで、てくてくと糞に近づく。臭気が強まるかと思えたが、それについてはさほどでもないようだった。野外にあるだけ、悔踏区域からの風に吹かれやすいのだろう。
「そんな上じゃなくて、もっと古いとこらへんに―――ああ、いたいた。これだよ。蛆虫」
言われるまま足元を見ると、白い芋虫のようなものがいた。うぞうぞと、たくさん群れている。
「…………」
ひとしきり、まじまじと眺めて―――眺め終える。
気色悪いと思う以前に、まずもって翅も脚も複眼も無いこれが虫だという実感がわかない。練り歯磨き粉が生きているとでも捉えれば気味悪くもあるが、そもそも練り歯磨き粉に命が宿る時点から怪談である。気味悪くなるポイントが抜本的に違う。
やはり並んでそれを見てくれているイコに、言ってみる。
「これが蛆虫」
「そ。便所蛆」
「白くて、ぷりってしてるのね」
「まあ蛆虫だし」
「いっぱいいて、おしくらまんじゅうしてる。初めて見たわ。おしくらまんじゅうの現物」
「おお。そりゃ眼福。すげ」
「こんなぎゅうぎゅう押し合いへし合いする意味あるの?」
「あるかもだし。むしろ無いんじゃね?」
「無いなら、痛いだけじゃない」
「そう言われると、なんだか押されて泣いてる奴がいそうで可哀想だなぁ」
「蛆虫って、いつか蠅になる幼虫なんでしょ? 幼虫って、餌によく似た色をしてることで捕食から逃げる―――保護色してることが多いって習ったけど、どうしてこの子たち白いの?」
「どーしてだろうなぁ。アレルケンの野郎なら知ってんじゃねぇの?」
「なんでアレルケンさん?」
「あいつがモーションかけんの、いつだって農家の娘っ子だから。そっち系に結構トリビアあんのよ」
「へー。そう言えば、今日はそのアレルケンさんは?」
「休日返上で、ペラもろい失恋話の聞き役」
そこにきて、イコはキルルの手を解放した。そして、やりたかったらしい適当な降参の手つきを掲げて、指をひらひらとさせてみせる。
「俺ぁ聞き飽きたっつーの。モテる男は聞き上手よ。ガンバッテ」
「わー。励ましに込められた本音がペラい。しかもどっちを応援してるのか不明」
「……どっちかってぇと、アレルケンの方を応援してるかなあ。事情が事情だし」
と、考えるように独りごちて、今さっきまでの穏便な憎まれ口をやめた。感心をこぼすついでのように、両手も下げる。
「はーァあ。やっぱ思うとこあんだろなぁ、あんにゃろ。うん、フレフレしちゃいますよ俺は」
「どういうこと?」
「アレルケンの恋人、もしかしたらデキたかもってなっちゃったらしくてねー」
「え? デキたって―――ほかの誰かと恋人になっちゃったの?」
「ちげーちげー。こっちよこっち」
耳打ちしながら、臍の前で大きなボールを抱えるような真似をしてみせる。あるいは―――突き出た下っ腹を支えるような。
目をまるくするしかない。
「……赤ちゃんが?」
「そ、そ」
浅い肯定をし終えると、その惰性か、イコが余計なことまで模索した。
「うちをやめて恋人の村で麦でも育てんのか、さもなくば別口の転職か。結婚まで煮え切らなきゃあ、このまま旗司誓しつつ愛人関係続けんのかね? 娘っ子ン家ちが農家なら若い男手は喉から手が出るほど欲しいだろうから大事にしてもらえそうだけど、正反対に、余所者があわよくば居着こうとしてるって除けられることも多いからなぁ」
「こいびと……あいじん……」
―――首ったけなのが、ひとり。
「恋人と愛人って、違うものなの?」
「へあ?」
「恋と愛ってなんなんだろう?」
「そんなジュンスーイなお目目で聞かれてもねぇ、このオニーチャンたら下世話なことばーっか達者なのよ?」
トーンの高い言い回しで、おちょくるようにせりふを終えて。
それが前置きだったことは、彼自身が最も分かっていたのだろう。奇異なテンションを脱ぎ捨てて、言ってくる。
「んな中継地すっ飛ばして、結婚ってなら、まだ話が早いよ。旗司誓は結婚しないからね」
「え?」
「結婚するってなったら、旗司誓を辞めちまうのさ。相手の身の振りに合わせるか、さもなければ近隣の義賊に転職するかってケースが多い。んで、ここでは客人って扱われて、そこそこのもてなしと引き換えにハブにされる」
「そもそも、どうして辞めちゃうの? 危険なお仕事だから?」
「誇りに恥じないためだ」
断言してくる。
どことなく息を呑んでしまうが、直後にイコは気配をだらけさせた。顔つきもへらりと笑いに溶かして、片手の先も気ままに吹かれる草のようにへらへらさせつつ、
「―――とか、エニイージーなら、ズッパリ言い切ってくれっだろうけどねぇ。言ってみりゃ、妻子にうつつを抜かすような血肉しか纏えていない輩は、【血肉の義】への背約者と見做されるのさ。旗幟に尽くすことが出来ない名折れだってね。ヴァエンジフの聖句さね。この誇りにこそ、わたしは満ち足りる……」
「それって、とてつもなく了見が狭くない?」
「後継者を選抜することで純度や強度を守るのは、伝統芸能と同じだよ。伝えるのが、実子に限らないのもね。必要悪だろうとも、洗練は必要だ。堕落に節度は無いよ―――それを律しようとするなら、自律はもとより、他律せにゃね。それは、うちの戦端句にある不文律でもあるんだ」
「戦端句って……」
「双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ触れ疾く翔けよ。旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ。痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ。その棘示すは<彼に凝立する聖杯>―――旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
口ごもるキルルと正反対に、イコの喋り口は明朗さを増していた。垣間見える頑固さや律儀さが気難しくもあるエニイージーより、暢気な陽気さがあるイコの方が、格段に気乗りがいい。こちらが疑問符を重ねる一方でも、おっとりと受け入れてまだ余裕を残す口達者さだ。
「とどのつまり。どうあろうと自分達は、旗幟の意匠が表してくれるような、理想的な理想を体現すべく、すべての今を超えていく。それを見てもちくりとも来ない奴は、自分達とは違う人種だ。だから同列には扱わないぞ―――そんなとこかな。これって、明らかな敵対者に対してもそうだし、毛色が違うだけの似た者きょうだいにもそうなわけ。前者ならボコって蹴散らすし、後者なら一線を引いてお客さん。落ちこぼれにも吹きこぼれにも容赦が無いの。あんたの旗幟を信じてるってのが仲間内で決めぜりふになるのも、こいつが枷になっての符牒さね。旗司誓にとっての旗幟はね……ひとつっきゃない完全無欠、かつ絶対の大義であり、源泉なのよ」
「なんでそこまで?」
「後継者を選抜することで以下同順。まあでも、めっきり厳しくなってきたのは、ここ最近かな。<彼に凝立する聖杯>の規模が大きくなってから、自由裁量のグダグダにされないことが増えた。だからまあ、ところ変われば品変わるってやつでさ、グダグダと手抜きして、安っぽくナマクラやってる旗司誓もいるよ。まさしく旗色が違うってやつ。そこが水が合うって奴は、行けるもんならそこに行くし―――にしても、」
そこでイコが、噴き出した。さも可笑し気に。
きょとんとしていると、遅ればせながら相槌を打ってくる。
「恋に愛、か。言い得て妙だが、こいつもまあ、旗司誓としての在り方を希求するって意味では、さしずめ恋なのかね? ま、あの通り、うちのエニ坊は双頭三肢の青鴉に恋してっけど」
「どういうこと?」
「ひとりで盲目ってこったよ。ここ三年来あたり、ひどくなりっぱなしさ。そのおかげで副座が勤まってるとも言えるけど。俺なんか、ビジネスでずっと平社員してんのが肩身狭いくらいだ」
(……―――三、年?)
その単語に、物思いを奪われる。
訝ってしまえば、思い出すのは容易だった。幾度となく、こうやって試されてきたと―――その不吉な感触すら胸の奥に取り戻しながら。
イコは調子をちらとも変えず、ぺらぺらとぼやき続けているが。
「花屋とか肉屋とかと同じ、旗司誓という仕事だよ―――例えば、条件が揃えば、俺はここを辞めて転職する。仕事なんてそんなもんだと思ってるからさ。けど、エニイージーはそうじゃない。もしかしたら心中だってしちまうかも。しんどいわー。サイテーにカッチョイーわー」
「三年、前……から?」
「よりも、そこそこちょいあと。三年前からの、頭領の暗殺未遂事件までを知って以降、エニ坊の野郎ひーでぇヒデェ」
「あんさ?」
「暗殺未遂事件。そいつが一連のトリになるね。一応は」
禁忌に触れるような気負いもなく、もったいつけるような優越感もなく、人相さえ平生のままうんうんと首を縦に振るイコ。
その楽観した態度を見るにつけ、逆に喉元に暗い熱を蟠らせている自分こそがおかしい気がしてきた。尻込みしていないと言えば嘘になるが、―――それでも、小声で口に出す。
「三年前から……なにがあったのか、聞いてもいい?」
「……うーん」
そこでイコが首を捻ったのは、部外者に踏み込まれたことを警戒してではなく、単にキルルの不用意さを心配してのことだったらしい。ちらりとこちらへ触れてきた目角を湿っぽくしているのは、やぶにらみの非難ではなく、生ぬるいはらはら感だった。
「洗いざらい話せるは話せるけど、見ての通り俺は見地も見解も日和見だから、アテにしてた感じとは的外れに話しちゃうかもしんないよ。そんでも、なっかなかにドきつい後味の悪さあるし……それでもいいなら。ついでに、長くなるよ? 便所行っとく?」
頭を振って、用足しの申し出だけは断っておく。まさかこの糞の山で済ませろと言われると思ったわけではないが。
イコが厩舎の壁に歩み寄って、一面にこびりついた黄塵を手で払った。そして、立ったままそこに寄り掛かる。言った通り、長くなる話のようだ。彼は部隊の規定に沿った明るいみどり色の服装をしているので、そこだけ若々しい苔でも生えたような絵面だが。
「俺がここに来たのは、三年ちょっと前くらいだったかな。んで、その時にはもう、かなり前からだって聞いたけど。副頭……あの時はまだ、副頭領じゃなかったけど。とにかくそのシゾーさんが、筺底に入り浸って、ぱったり帰ってこなくなっちゃっててさ。あ。筺底ってスラング通じる?」
「聞いたことは、あるかもだけど」
「筺底。箱の底。要は、箱庭―――都会の底辺、裏街道や裏社会のことだよ。アウトローとかギャングとかマフィアとか、そういう格式ばったゴロツキがガラ悪くうろついてる、危なっかしい界隈さ」
そこでわざとらしく身震いしたのは、本気で震撼してのことでなく、話に余興を欲してのことだったらしい。鼻筋をおっかなびっくりさせて、声もここぞとばかりの低音に落としつつ、強調してくる。
「で、しかも。これっぽっちもイイ噂を聞かないんだわ。まあ、小間使いと汚れ仕事は、悪党の使い走りしてるんなら常套なんだろうけど。通称、ツァッシゾーギ―――蒼い炎、触れなば髄まで焼かれ、灰も残らず。愚かなエルギヴァン一家の末路なんか、こっちまで一昼夜で席巻してくれたくらいだった。あんまりにもひどいんで、当時の頭領とかも筺底まで足を運んだみたいだけど、あの人は旗司誓を辞めるでも旗司誓に戻るでもなく、ツァッシゾーギのまんま」
「そうなの……ザーニーイが、わざわざ」
「―――ん? 違う違う。当時の頭領は、シザジアフ翁。今の頭領の父親。ちなみに、そん時の副頭は、ゼラの御大」
「え?」
「今は、頭領・ザーニーイさん、副頭領・シゾーさん、部隊長第一席主席・ゼラさんだろ? 一世代前は、頭領・シザジアフ翁、副頭領・ゼラの御大だったんだよ。あの頃はこんなに人数いなかったから、部隊長みたいなしっかりした役職は……ふたりくらいいたかな? もう一世代遡ると、ジンジルデッデって婆ちゃんが、大家族の肝っ玉母ちゃんみたく頭領をしてただけって聞いてる。騎馬を抱える百人所帯に様変わりしちゃった破竹の勢いは、本当にここ最近なんだよ―――なにもかも三年前が終わってから、かな」
「婆ちゃん?」
引っかかって、キルルは話向きを中座させた。
「ここって女人禁制じゃなかったの?」
「ああ……まあ、あの先翁は女じゃなかったよーなもんらしいからなぁ。頭領―――ザーニーイさんも、デデ爺って呼んでたし」
「……婆ちゃんなのに?」
「ええと。その昔、行儀見習いだか丁稚奉公だかをした先の主人に色目使ったってこじつけられて、その主人の奥方やら取り巻きやらから、死線すれすれまで折檻されたんだと。曰く、女の部分を焼き剥がされたとか」
「やきは?」
「で、子どもを産めない身体になったらしい。それを助け出してくれた、腹違いだか種違いだかの兄ちゃんが、<彼に凝立する聖杯>で旗司誓してたんだと。それから一緒に旗司誓になったついでに本名を捨てて、ジンジルデッデって言い始めたとか―――いや、その兄ちゃんが、そう呼び始めたんだったっけ? どうだったかなぁ……その兄ちゃんについては、あんまり逸話を聞かないな、そういや」
なか途中から呆然と、イコの物言いを見送って。
不本意そうに黙り込んだキルルに、刺激されたらしい。眉を上げて、イコが問うてくる。
「警察に保護されて実家に帰れば? って顔つきだな。キティ・ボーイ」
「……少なくとも、あたしにとってはそれが妥当だもの」
「今の時代でも、土着の権力者が司法をごっちゃにする辺境は多いさ。そしてそれは、得てして、おしなべて、無法よりおそろしくタチが悪いものだよ―――中央から派遣される交逸警察が、抜け作に徹することでしか保身を通せないのも察せるくらいにね。つまりは……それが原因だったんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「公的な保護のみならず、私的に帰宅することすら、望むべくもなかったのさ」
「……どういうこと?」
「親にしてみちゃ、せっかく上等のお館様に勤めることができたってのに御機嫌を損ねた末、渡りに船と尻尾を巻いてトンズラこいた粗忽者だ。家の門に泥を塗られたってことになったら、汚物投げつけてくれた末代までの恥っかかせに、門戸は開けんよ」
「そんな、」
「そんな話は、ひどいかい?」
「―――ひどいわよ」
渾身の思いで、抗弁を遂げるのだが。
「ひどいねえ。それだけだ」
「え?」
イコは、しれっと繰り返す。
「世の中、いいことだからってだけで善行が増えないように、ひどいからってだけで悪行も無くなりはしないよ。善悪と損得は、悪友みたいなもんだ。良くも悪くも忘れさせてくれないし、時折気まぐれに向こうさんから肩を叩いていきはするが、腐れ縁を越えて自分から拘ると裏目に出やすい」
「けど……それでも、ひどいものを許す理由にはならないでしょう?」
「それは誰でもお互い様……でもって、ひどいものを測り取る杓子定規も、お互い様に自前なだけ。俺は、兄ちゃんが旗司誓やってたってのも、それ絡みのような気がするね―――なんか体面が悪いことして破門されたもんだから、街ぐるみで白い目で見られるようになっちゃって、食いっぱぐれたのさ。だから悔踏区域外輪まで漂流して、旗司誓するしかなかったんだ。もしかしたら、その兄さんの詫びに勤めへ出されたのかもしれねえな、ジンジルデッデ先翁。それなら、斥候がいたでもないくせにタイミングばっちりだった兄ちゃんの救出劇も合点がいく」
食い違うキルルへ、ひとしきり甘い苦言を混ぜ終えて。
思慮深げに息をついたイコが、目をしばたいた。
「頭領―――今の―――が言うにゃ、自分なんざジンジルデッデ先翁の功績の足元にも及ばねえとよ。自分は旗司誓を旗司誓らしく伸ばしてやれただけで、愚連隊だから旗司誓になれって革新を起こしちゃいないって」
「ザーニーイが? 霹靂が、デタラメなサイコロなんて言われた人相手に?」
「あ。サイコロのそれは知ってんの?」
「エニイージーが前に言ってたわ。すごいけど変わり種だったみたいって。でも、ザーニーイもまた物々しい持ち上げた方するのね。革新って……」
「ちょいとちょいと、実感ないみたいだから言わせてもらうけど、実際コレすんげーこと言っちゃってるのよ? あの人……ザーニーイさんね、戒域綱領って案を取り纏めて、旗司誓やら義賊やらが綱領に則って手を取り合ううちはウィン・ウィン関係が合法的になにがしか発生するようにしたの。おかげで業界は安定して、展望も見込まれ、志願者も増え、貨幣も紙幣―――公用金券がきちんとした価値を持つようになって、働き方も清潔になれた。廃れて落ちぶれていくのに慣れていたのをぜーんぶ底上げして、<彼に凝立する聖杯>はパイオニアから一足飛びにトップだと喧伝されるまでになった。そのピンからキリまでが大したことじゃないって言えちゃうコレ分かる?」
ひたむきに挫けないイコに、それでも疑念が湧いて出る。
「ていうかここ、紙幣も流通してなかったの?」
「いい顔はされなかったよ。ちゃんとしたレートで換金されないこともザラだったし。まあ、そういうことなわけ……野放図に好き勝手やって相手からひとつ奪うその日暮らしよりも、まず相手に自分からひとつ差し出す不自由さと引き換えに、倍乗の見返りを山分けしようぜってチーム同士に呼びかけて、チームワークに成功した。それも、ジンジルデッデ先翁の偉業あってのことなんだって、頭領その人が言ってくれてんのよコレ。マジ脱帽って」
キルルの面皮のあべこべを、どのように推し量ったものか。イコが、そもそもの話……といった体で身じろぎし、ずり落ちかけていた背を元通りの高さの壁に落ち着けた。
「<彼に凝立する聖杯>に施されている平和的な統治は、人が寄り合えば自然に構築される天然の現象じゃない。ルールに基づいた管理が、個人よりも社会を優先して保護することを徹底した賜物だ。ジンジルデッデ先翁は、身内同士での鉄拳制裁はもとより、捕虜への拷問のような我欲まみれの横暴を禁止して、便所や食堂や寝所やゴミ箱の使い方をしっかり躾けた上、人員を単なる労働力としてカウントするのを止めた」
「……つまり?」
「ありとあらゆる学びを奨励したんだ。要塞の一角には、図書室に毛が生えたみたいな雑庫が残ってるよ。さぞかし人道に溢れた、学のある人柄だったんだろう―――ただただ目先を生き延びるんじゃなく、十年二十年のスパンを豊かに生きることを目標に土台作りをしたって聞いてる。だからほら、あっちゃこっちゃ仕込まれて、頭領も副頭も芸達者だろ?」
「歌は聞いたけど、かなり上手だったわ」
「歌どころか。裁縫も料理も、ちょちょいのチョイっとお手の物」
「ホントに?」
「らしいってだけで、あえて真偽を確かめたことは無いけどね。副頭は今でもよく調理棟に出入りしてるよ……元々、狩りが趣味みたいから、それもあるんだろうけど。頭領は、ちょくちょく日曜大工したりしてる。椅子のガタつき直したりとか」
「椅子がガタつくの? なんで急に?」
「酔っ払った一興に投げる奴とか、頭に血が上ると鈍器に使いたがる奴とか、引きも切らないからね」
「さっき、身内での鉄拳制裁は禁止って……?」
「禁止だから、そーいう迂遠な示威行為してんじゃない? 我らが頭領にナニさせんのって」
「ええええええ?」
「なぁによ、不服? 基本、人心を掌握するにゃあ狡っからく裏から回らにゃあ」
なにやら得意満面にケケケと笑いつつ、両手をわきわきさせて、イコ。
まあ、それが不謹慎な挑発だとは承知の上だったらしく、すんなりと捨てて息を継ぐ。
「でもまあ頭領、なんか不屈な凝り性なとこあっからなあ。前なんか、爪楊枝はどれくらいの長さと太さが最適なのか、各種バージョンを食堂に並べて集計取ったりしてたし。案外本気で椅子の座り心地のズレが気になるだけだったりするかも」
「……ちなみに爪楊枝は結果どうなったの?」
「短すぎず細すぎなきゃ誰かにとってなにかしらの使い勝手があるってことで落ち着いたみたいよ。菜箸サイズのやつは結局厨房で菜箸として使われたっぽいし」
「サイズそこまで!?」
「ね? 不屈な凝り性っしょ」
「はー……なんだか意外な生活感が……」
「はは。賞金掛かかった生首振りかざして高笑いしてるだけが、旗司誓の四六時中だと思ってくれるなよ。仕事だからこなしてるだけで、私生活じゃないさ。だったら、私生活で必要なら、裁縫することも料理することも、趣味ではね伸ばしすることもある。だろ?」
「だわね」
「こーいった何でもかんでもをジンジルデッデ先翁から直伝されたのは、もうその二人くらいじゃないかな。俺も会ってみたかったよ。こうやって聞きかじっただけでも、ユーモラスな茶目っ気がある人だからね。なんでか頭領にゃ、『ンなこと言っちまって、今晩の夢ん中に、傷だらけの痩せっぽちジジイが大手振って歩いてきても知んねぇぞ。せめてもらさねぇよう寝しなに便所行っとけ。悪いこたぁ言わん。デデ爺だから』ってジト目で申告されたけど」
「……亡くなったのよね」
「八年前のあおりを食らってね。戦争だったんだ。旗司誓だけ無傷とはいくまいよ」
「……そうよね」
しんみりとした空気に悼みを感じて、目を閉ざす。戦場など知らないキルルに、目に浮かんでくる風景は無くとも―――そうした。
その突如、
「俺からも聞いてもいいかな。戦争について、どう覚えてる?」
「え?」
「それとも覚えていない?」
「ええと。勉強はしたわ。輸出入の交易品に疑惑があって、それが元で戦争になっちゃった……その疑惑って言うのが、動物由来禁戒薬物の密売で……」
「アーギルシャイアの臍帯」
「え?」
たどたどしいせりふを上書きしてくれたイコの声は、やはり滑らかで、格別に裏があるわけでもなさそうだったが。
急な舵切りには戸惑わざるをえず、ただただイコからやってくる話を後追いする。
「アーギルシャイアの臍帯って言うんだよ。その、動物由来の禁戒薬物―――麻薬の通称がさ」
「そうなの?」
「聞いたことないかな。<終末を得る物語>に語られるならば、臍の緒喰らいて呼吸するアークレンスタルジャット・アーギルシャイア―――繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。超越者が微睡み、子宮の中で見る夢……それっくらいブッ飛んじゃえるブツなんだと。神話の超人ならいざ知らず、人の身じゃあ自由落下の満喫と引き換えに地べたのシミになっちまわぁな」
「うえ。こわ」
思わず、ひどく端的な感想が口を衝いたのだが。
イコは、やたら深刻そうに口数を差っ引いた。
「こわいか。うん。そうだよね」
「……どうしたの?」
「いやなに。俺もそうだなって、思っただけよ」
「みんなそうでしょ」
「そうなら良かったこともあったろうねえ」
「あったろうね、って……?」
思わぬ異論に目を剥くが、彼は肩を竦めただけだった。はずみで鎖骨に乗っていた髪の束がひとつ落ちて、ぼたっと垂れ下がる。
「脱線してごめんな。で、三年前に戻っけど。そーやってシゾーさんがいねぇわ、いねぇせいで上層部も何となく歯車狂っちまうわで、身構えが疎かになってた俺らは、隙ありって武装犯罪者にとっちめられちまった。それが、三年くらい前に、火蓋を切って落としてくれた発端」
「え?」
「弱ってりゃ獲物にされて当然だろ。あの頃はまだ、こーんなデッケェ旗司誓じゃなかったんだ……まあ、でっかくなりかかってた最中にいた、ってとこか。付きかかった脂肪に筋肉が追い付かなくてプルプルしてた仔牛みたいなもんよ。猶更狙われるわな、そりゃ」
そこにきて、イコが顔を顰めた。苦虫を噛んだように―――さらに、まさしく噛んだ飯の中に苦虫がいたかの如く、キルルのいる反対方向へ唾を吐く素振りをしてみせる。
「あのボンクラども、欲をかきやがって。獲るもの獲るだけじゃなく、人まで攫ってった。それが―――ザーニーイさんだったんだ」
「……手強い人たちだったのね」
「つーよりか、ものっそい運悪く、当時の俺らの弱みをひと突きされたんだ。今みたいな組織立った連携じゃなくて、ゼラの御大の火力ありきの戦法に頼りっきりになってたのさ。まあ、そうしようにも頭数が足りなかったろうし、この生業で出し惜しみされちゃたまらない能力だったのだって違いなかったけど。とにかく、ひとり箱庭まで足を延ばしてたから、てんでパワーがからっきしで……」
「シゾーさんを連れ戻しに?」
応答は無かった。こちらを暗に肯定する意ではなく、それを裏付ける根拠の持ち合わせがないといった風だが。
渋面をぶり返して、イコは続ける。
「ザーニーイさんの救出について、<彼に凝立する聖杯>としての判断は分かれた。見捨てるのは論外だとしても、まずは旗司誓の立て直しが先ってなったんだけど。そしたら、頭領してたシザジアフ翁が旗司誓を辞めちまって」
「はあ?」
「辞めちまって、単身・捨て身で、武装犯罪者たちのアジトに特攻した」
受け入れるのにしばらくかかり、理解するのにもう何秒かをすり潰して、更に考え込むこと二分ばかり。
迂闊に言ってはならないことだろうが。キルルは、思案声を呆れ声に変えた。
「死んじゃうわよ、それ」
「死んじゃったのよだから。それ」
「はあ?」
「はあ? だわな。実際、俺もそう思ったよ。私情だてらに、度し難いポカやらかしやがったってね」
イコはキルルに追従するように声を呆けさせていたが、それでも取り成そうと諦めていなかった。温度が低い熱弁を、のろのろと繰り出してくる。
「まあ差し迫ってたしーって、今にして感じるよ。いくら親父だからって、頭領職のまま単独行動するわけにもいかんだろーし。応援を呼ぶにしたって、それこそ目途が立たなかったろーし……あの頃は戒域綱領も無かったから、互助って理念も薄くて。ドジだろうが罠穴だろうが、踏むしかなかったんだ。そこまでドン極まりなら、むしろ自分だけ生きながらえようとするよりも決断は易かったろうさ」
「うーん」
「結局、戻ったゼラの御大が泡食って追いかけてって……しゃあなしに俺たちも重い腰を上げて、やっとこさ現場に着けた時にゃあ、焼け落ちた武装犯罪者の巣のそばで、ゼラの御大はパックリ頭割る大怪我。ザーニーイさんも、ぶっ倒れてた。残りは全員お亡くなり。マジモンの血の海だったよ。そこから這う這うの体で出てこれたらしいのが、その二人ってわけ。で、」
そこでイコが、握った指がある面を上にした右の拳を、キルルに差し出してきた。
それを開いたところで、空手には違いなかったが。
「気絶したザーニーイさんが握り締めてたのが、髪の毛まみれの耳ひとつ」
「は?」
「左の耳。シザジアフ翁の」
開いて結んでを終わらせて、手を引っ込める。
ぐうの音も出せないでいるうちに、イコがさっさと残りを口に出す。
「んで、目が覚めたザーニーイさんが、シザジアフ翁は死んだって証言した。だから頭領を継いだ。あとあと、そう聞いた」
「ど、どういうこと?」
「頭蓋骨って丸いだろ? だから脳天に向かって力任せに刀剣を振り下ろすと、そこから滑落した斬撃が、耳や鼻なんかの出っ張った部分を削ぎ落とすことがあるんだ」
「げ」
「だから多分、そんなこったろうよ……頭領を連れて無茶やった翁は、そうやって負傷を重ねて死んだんだ。俺みたく、この空気の中でも髪が長いままでいられる奴は、これで耳や首根っこをカバーして防御のひとつにしてるんだけど、あの人はそうじゃなかったみたいだからなぁ。えれぇ目を引く、錆びた雲色の髪でね」
「錆びた雲?」
「うん。蒼褪めた灰色ってーか、そんな色味でね。ゼラの御大は、そう言ってた。いっつもターバンしてた。もったいねぇの」
呻いて両耳を押さえたままのキルルを見やりながら、イコは自分の髪の房を持ち上げてみせた。髪どうこうはもとより、年季の入った旗司誓は、至極分かり切ったことのように稼業を語るが、気前よく聞いておける基準が違う。
キルルの様子を見て、それでも昔話の続行を拒絶しているでもないと値踏みしたらしい。イコは、思い描いていた過去を追うように上にやっていた視線を引き戻し、髪を指から落っことした。
「兎にも角にも、だ。ゼラの御大はドタマかち割られてたから、しばらく魔術も使えなくて、あの世とこの世を行きつ戻りつ。頭領―――ザーニーイさん―――は、それよりはまだ早く起きられるようになったんだけど、だからどうしたってレベルの五十歩百歩。武装犯罪者に痛めつけられた上に、現頭領は組織裏切って死ぬ・副頭も人事不省・新頭領はフラッフラの三拍子揃い踏みした極悪シャングリラにいるなんざ面目丸潰れだって、辞めてく奴も続出よ。さすがに直後から副頭がツァッシゾーギを断念して、こっちでもろもろみんなひっくるめて代行し出してくれてたから、やっとこさ旗司誓は運営できてた。むしろ箱庭で練られた頭がワン・マン・トップになったことでベクトルがばらけることがなくなった分、儲けとしちゃ跳ね上がってたんじゃないかな。ええと、意味通じる?」
「ゼラさんやザーニーイの代役として、シゾーさんが役目をこなすようになったのよね。しかも、ふたりが共倒れになっていたから、いがみあってた状態が解消された上、いい具合に外で荒波に揉まれてきたシゾーさんだけが筆頭になってくれたおかげで、組織の動き方や在り方が刷新された……それについていけない古い人は辞職した、と」
「そうそれ。この時点で、がさっと旗司誓の面子が総入れ替えっぽくなって、年長者がほっとんど抜けちまった。それで、いったん三年前のは一息ついて、えっちらおっちら窮状を打破していこうやって感じになったんだけど……」
自分も一息つくように、何拍かを挟んで。
―――それが休息よりも、心構えを決めるまでの猶予を欲しての間だったことに気付かなければ、忍び寄っていた剣呑さも知らずにいられたのか。そう思わないでもないが。手遅れだ。
イコが話し始めてしまっている……
「それからしばらくして、ちょっと落ち着いてきたかなって頃だったかな―――頭領が、暗殺されかかった。キティ・ボーイ、頭領のコレ見たことある?」
つい、と右の首筋を刎ねるような手つきを片手にさせてみせたイコに、キルルは頷いた。しばし迷ってから―――付け足す。
「稲妻の咬み痕」
「うん」
頷き返して、イコが続投した。
「あれさ、その時の代償なのよ。ゼラの御大のド魔術でも繋ぎ切れなかった、おっそろしい致命傷。実はその前から、頭領は絶不調でさ。仕事はしてたけど、寝床から起きられない日も、かなりあって。それも、毒を盛られてたせいなんじゃないかって」
「そんな。誰に?」
「…………」
「なんで?」
「…………表面上は、武装犯罪者の残党がやった、執拗な意趣返しってことで落ち着いた。水面下では―――……」
言いよどんで。
よどむごとに汚らわしさが増してしまうことこそ嫌うように、口早に残りを言い遂げる。
「副頭がやったんじゃないかってのが、専らの噂だった」
「シゾーさんが?」
「筺底を通じたルートから秘密裏に武装犯罪者へ依頼して、タイミングを見計らって急襲させ、本当の狙いだった人攫いを欺瞞したんじゃないかって。目論見が外れて目の上のタンコブを切り取り損ねちまったから、自分への警戒心が解けた頃に、はーいレッツ・チャレンジ・ワンモーア。さあさあ良い子(他称)のみんなーあ、準備はもとより覚悟もイイかなー♪」
「そういう風に言うことじゃないでしょ、それ」
「こういう風にでも言わないと、やってらんないよ。ついでに、副頭とゼラの御大が組んでるって噂も根強く残ったとくればね」
「なんでよ? ゼラさんも負傷したのに?」
畳み掛かけるように遮るのだが、イコは気にした様子もなく、のらりくらりとキルルを一蹴する。
「口さがない奴は、なんだって言うさ。噂にゃ尾鰭が付きもので、くっついた以上、水面下ならヒラヒラどことなりと泳いでいくもんなの。まあ、噂は、それはそうなんだけど、あやしいのがここからで」
一息で告げてから、軽く両手を打ち払う。閑話休題をお開きにしたと示したのだろう。
「当の三人が、それから一切そのことについて触れないんだ。まるでなかったことみたいにケロッとして、まるっきり無視よ、ガン無視……でもって普段はあの三人、昔馴染みの和気あいあいとくる。しかも、頭領が調子を取り戻してから、あれよあれよと<彼に凝立する聖杯>はこーんな大所帯に変転して、てんやわんやの目まぐるしい上昇気流に錐揉みにされるばっかりで、ぼーっと昔のことに思いを馳せる暇も無くなっちゃって。狐につままれてる気分がしてるんだよ、俺も―――あれ、あの事件は、三年前にあったんでよかったんだっけ? って」
言い終えて、イコが口を閉ざした。実際に若いのか、単に若作りなだけか分かりかねる相貌にあって、そこのきわに刻まれた皺だけが深い。斜め上にある笑窪より、使う頻度が格段に多いのだろう。不幸なことに―――今回も。
ひたひたと足元に寒気をもたらしてくる不安感と静寂に抗うように、声を滑り込ませる。
「シゾーさんが下剋上なんて、くだらないデマだわ」
「うん。そう思うよね」
「だって、……こないだだって、ザーニーイのために必死に駆けずり回ってたし」
「うん。そう見えるよね」
「例えばそれでさえ、頭領職を引き継いだ時に波風立てないために、今も忠義面をしてるだけかもって話になっちゃうの?」
「なっちゃうねえ」
「大体にして、ザーニーイを攫わせる意味もよく分かんない。本当に目の上のタンコブなら、切り落とすなら、すぐにでもって―――殺してくれって依頼するんじゃないの?」
「まずは武装犯罪者に因る仮説その一、穀を潰す以外に能のない穀潰しどもだから依頼内容をつぶさに覚えとけなかった。ついで仮説その二、自分第一の根無し草だからコロッと気が変わった。そして副頭に因る仮説その三、殺すならひと思いに自分の手で首チョンパしたかった。更に仮説その四、どうせ殺すならゲスの群れにたっぷり嬲らせて辱めて涙袋を一滴残さずガス欠させてから。でもって仮説その五、……以降はめっきりイヤんバカんで済まされない見本市になるけど、エトセトラのオンパレード、聞きたい?」
「おかしいわよ」
「うん。そう思うよね」
「そんなの、どれだっておかしい……」
「うん。そう思う。だけなんだよね。俺も。嘘なのか、真実なのか、誤謬を含むのか……浅はかに信じても、深読みして疑っても、結局は同じ―――」
静かなしたり顔も、潮時だと感じたらしい。懐疑的な色を閉め出すように、イコが顔面を力ませる。
「せめて、俺より古株がひとりでも残ってくれてたらなって思うよ。頭領と副頭とゼラの御大の三人について、高い所からの見晴らしを持った人が、もう誰一人として残っていないんだ。俺は当時マジモンのペーペーで、指図されるまま矢面を走り回るのがせいぜいのヒヨッコに過ぎなかったから、それこそあの人たちの役割以外での結びつきなんて知らないし。だからこそ、千差万別の偏見がこうまで野放しにされていることが、そらおそろしくもあるんだよ。エニイージーなんかは、それこそ独断まがいに一連のことを見ちまってるし……ぶっちゃけ、かくいう俺だって、とっくに毒されてんの。ゴシップ好きが事あるごとに自分流のカスタマイズして蒸し返すもんだから、それと混ざり合って虚実もへったくれもあったもんじゃないワヤのクチャさ」
イコは、さも嫌そうに唾棄した。好き放題におかずにされることに憤慨しているのだろう。当時を知る者でありながら、かつ核心の当事者ではない彼は、確かに食いつくには絶好のさかなではある。だからこそ―――たまったもんじゃないと、その目元に差された険が物語っている。
その時だった。イコが呟く。
「あの三人が……―――」
そして、時間をかけて言い直す。
「あの三人は本当に、双頭三肢の青鴉を希って、ここにいるのかな?」
彼は、背後を見やった。実際に凭れている厩舎の壁面ではなく、その向こうの―――堡塁に掛けられた旗幟の記憶を追って。旗司誓にとって、唯一かけがえのない完全無欠、かつ絶対の大義たる源泉……いわゆる神域を。それを目指すのが旗司誓たる存在理由であると、彼は言うが。
目指すことは出来る。同じように、目指すふりも出来る。
旗司誓の内心がどちらであっても、或いはそれ以外であっても、知ることは出来ない。信じることが出来るだけだ……また同様に、疑うことも出来るだけだ。
(それだけなのに……それがなんて大それたことなんだろうかって、思えてしまうように、あたしはなってしまった)
キルルは、歯噛みした。
「……ゼラさんは、」
「うん?」
「ゼラさんは、ずっとあんな感じなの? その……イコさんが知る限りは」
「まあ、そうだったと思うけど。俺から関わることもないし」
「ザーニーイも、シゾーさんも?」
「まあ頭領は、頭領になってから最近は、あんな風だよ。副頭については、副頭に就く前なんて知らねぇもん」
「え?」
「だぁから。あの人、ぱたっと帰ってこなくなってたから、俺がここで働き出した時にはもう居なかったんだよ。顔の形も人となりも、見ず知らず、さ。小耳に挟むやり取りに感化されるまま、いかれぽんちにしたってべらぼうに傍迷惑な馬の骨だなーとケチつけてたってだけで。初めて拝まさせてもらったときゃ、イメージと桁違いっつーか格違いっつーかだったから、そりゃもうぶったまげて目ン玉がホワイト・オア・ブラックよ。ゼラの御大に似ても似つかねぇ―――まあ当然だが、思っちゃ悪いかい?―――長身痩躯の薄ら暗ェ男前。しっかも当時、ヤニ臭ぇロン毛よ? ゲェだよゲェ。顔採用にしても趣味悪ィったらねーわな」
悪意なく、そっぽを向いて吐くふりついでに舌先を出して茶化してくるイコだが。
裏腹に、ぞわりと寒気に駆られて、キルルは背筋を聳した。
「……シゾーさんは、ゼラさんの養子なのよね?」
「そう言ってんじゃん。当の二人が」
虫の知らせではないが、きな臭いものを嗅ぎ取る。
古顔であるというイコでさえ、三年より前は知らない。のであれば、
「シゾーさんもゼラさんも、ここに来る前は、どうしてたのかしら?」
「どーしてたのかしらねーえ? なにせあの人らこそ、今じゃ<彼に凝立する聖杯>の最古老だからなぁ。浅瀬ノミ安全デスちっくなオーラがんがん出てっから、どっちとも立ち入った話したことねーわ。そこんとこらへん、他人の空似ながら、親子よねぇ」
「ザーニーイも、そのシザジアフってお父さんと似てた?」
「私生活で親子やってる時は似てた。酒の席で歌う時とか。それも多分、二人とも、ジンジルデッデ先翁から教わったからだろうけど」
「親子やってる時?」
「シザジアフ翁は当時、頭領。てことは、今の頭領は当時、部下。職分を果たす手前、ふたりは潔癖だった。あの人が親父なんて親し気にシザジアフ翁に呼びかけるなんて、見たことがない。気を張ってたんだろ。俺らが見ると、さっと上司と部下に戻ってた」
「……ふたりも、親子としては義理の関係なのよね?」
「だったと思うけど。あんま覚えねえや。みんな気にしねえもん。ここって、そういうとこだから」
悪びれるでもなく、あっけらかんと無数に認めるイコに。
ただただキルルは、疼く脳裏の奥底で理性が冷えていくのを感じていた。
(あの三人が口裏を合わせれば隠蔽できることが、ものすごく多いんだ。ここは)
名前が、本名であろうと、偽名であろうと。名乗ったそれを信じる者がいるならば。
素性が、本物であろうと、見せかけであろうと。表明したそれを疑う者がいなければ。
―――心が、本心からであろうと、疑心を含もうと。その実在を、証されることがない以上は。
自ずからすべては言葉となる先より、他者への事実となる。
他者への事実は、瞬間から現実となる。
現実は毎秒、過去となる。
過去は真実として、記憶に降り積もる。
堆積して底が見えなくなり、たとえそこが凍結した湖面だろうとも、訳知り顔の者が足の裏は地面だと主張すれば、他者からは疑いようがなくなるまで。
(それは……とてつもない綱渡りなんじゃないの?)
リスキーだと思えた。ハイリスクにしても高すぎる。
ただしその綱が、命綱だったとしたら。どんなタイトロープだろうが、渡ることを試しもせず死を享受できる殉教者が、どれだけいるだろう?
そして渡り始めてしまったら最後、踏み外す瞬間まで均衡を図りながら進んでいくしか、残されていないのではないか?
(あたしだって―――こうして、殺されかかっても、後継第二階梯でいるんだから……)
その、不意のことだった。
「どったの? 養い子って、あんま馴染みない?」
急にやってきた奇抜な心配りに、目が泳ぐ。
「ええと。よく分からなくなってきて」
「そりゃ大変だ。どの辺がなのか言ってみ? 力になるよん」
「シゾーさんと、ゼラさんと、ザーニーイは、……」
その三人について、またしても口にしかけて。
なんとも言い難い気疲れを覚えて、投げやりに続きを捻り出した。
「どうして、ここにいるんだろ?」
「いるもんはしゃあない」
えらい言われようだと思えたが、言い様は真剣だった。
目をぱちくりさせてイコを見やると、やはり彼は落ち着き払った真顔で見返してきた。
「エニイージーも、アレルケンも、俺も、ここにいる。エニーの野郎は骨抜きにされて、アレルの野郎は……まあ今となっちゃそれを自問自答してる頃だろうし。俺は―――頭領からの受け売りだけど―――単なる運と縁とタイミング。例の三人もそうだろうさ。見合うだけの理由か、見合うだろうって当て推量か、見合わせてやるって意気込みか、見合わせなけれならぬって使命感か、まあ見合ってるしなぁーってだらけか―――あるのさ。なにかが。今のこれをやめる心変わりをさせないものがね」
矢先。
片方の掌を受け皿に、もう片方の丸めた手でそれをぽんと打って、イコが声を間延びさせる。
「あ。あー」
「なに?」
「ここにいるのは、やっぱりあの三人も、恋してるからだったりして」
「ええ?」
「盲目って意味でよ。言ったっしょ? がむしゃらでひたむきなしつこさだけで、理想通りに仕立て上げた超人を、ただ追い求めていける自家発電しちゃってるのよ。しこたま身勝手に、相手の欠点に目をつむるか、欠点を補完してね。お年頃を過ぎてまで、いじましいったらねーわな」
そこにきて―――
キルルは、失笑してしまっていた。
「まるでうちのお母様みたい」
「んー?」
「お父様を完璧な人だと思い込んで、ただの恋の病にかかるような凡人に堕したのは魔物のせいだって旅団ツェラビゾに嵌り込んで。それでも補完できない現実があるんだと思い知った時、補完してくれそうな見込みがあるイヅェンに目を付けた。あなたはお父様のような王になるって刷り込んで、どんどんおかしくなって……」
吐き出し始めてしまえば、止まらなくなった。
黙っていることは出来た。ただしそれは、苦しさを堪えての上で。沈黙も苦しく、吐逆することもまた苦しいとすれば―――終わるまで嘔吐するしか、苦しさから逃れるすべはない。
うそ寒い気配を察したのか、イコの表情からも、兄貴風を吹かせていたお人好しのゆるみが抜けた。このまま青ざめるのか―――だとしても、それを見ながら、言葉が止まらない。
「まさか本当に王様になる見込みが出てくるなんて、お母様の妄執が現実を曲げたみたいで気味が悪い。聞いて。あたしね、殺されるかもしれないんだって」
(ごめんね)
キルルは、謝っていた。
「もう巻き込まれて殺された子がいるかもしれないんだって」
(ごめんなさい)
声が途切れ、涙が浮かんでくる。
(そうか―――あたしは、これを全部、忘れていたかったんだ)
例えそれが、イーニアもろともであろうとも。
卑しい話だ。エニイージーと向き合った時とは比較にもならない。これこそが卑しい話だ。
(こうして忘れてきたことが、これまでどれだけあったんだろう? ……)
そして―――そのどれもを、思い出すこともないまま過ごす時間が、あとどれだけあるのだろうか?
キルルには分からない。それでも、その残り時間には違いない幾許かの時間を、イコはキルルと同じ秒数だけ過ごしてくれた。
「聞いたよ。聞いた」
「ありがとう」
そこで、黙考も僅かに、続けてくる。
「オヒメサマなのに、あんまし幸せそーじゃないのね」
「うん」
「俺ぁキティ・ボーイばっか知ってっけど。好きよ。うん。オヒメサマじゃないとこ」
「うん」
「でも……もう、オヒメサマでいるしかねぇもんなぁ」
「うん」
それからしばらくの間、喋るでもなく、一緒に過ごした。眼窩に溜まろうとする違和感を食い止めるのに、呼吸の数を目安として、必要なだけの毎分毎秒を数える。
キルルがやっとこさ声を出せたのは、そのあとでだった。
「遅いね。エニイージー」
「遅いねぇ。オニーチャンと、お迎え行っちゃおっか?」
「うん」
さっきと同じ構図で連れ立って歩き出した流れで、なんとはなしに彼の片手を取る。
イコは、やや驚いたようだが。握り返してきたのは、彼の方が先だった。
ついでに、訊いてみる。
「でも、良かったの? イコさん。厩舎でのお仕事は」
「はは。水臭くなるにゃあ、ちょいと遅すぎだぁね。まーまー、良かったのー良かったのー」
おどけるような節回しで、歌うように。
「俺は、こうなったら、どこでのお仕事でも良かったのー良かったのー」
「え?」
「だからこうしてもー良かったのー良かったのぉよ」
「なにそれ。あは。おっもしろーい」
「ははは」
「あはははは」
ただ笑い合いながら、イコとキルルは曇天の下を歩いていった。乾涸びていた口の中の苦味に、ひとときは忘れた振りをしながら……少なくともイコが、共犯になってくれているうちは。
(ありがとう)
静かに。
滔々と。
軽やかに。
淡々と。
なにより、そう表現するのに相応しい足取りによって、歩速を上げて。
廊下を先に進みながら、その歩調と同じようなゼラの解説が続く。
「輸送配達の護衛を依頼されることもありますが、荷物の内容について詳細を明かす義務は雇用主に課せられていません。こぞって相手から説明してくれることがほとんど……とでも言えば体裁はいいですが、それは相手からの舌先三寸を丸呑みしている裏返しでもあります。無論、隊や積み荷の特徴を見ればおよその見当をつけることも出来ますが、栞のように本へ一枚だけ挟まれてしまえば密輸されても分かりません」
語り口に応じて、彼の手が翻る。冊子のページを繰るような、あるいは指揮棒で大勢を指揮するような流線型の動作で。
「と言うわけで、まだしばらくは、ここへ逗留していただくことになりそうですね。今日まで、なにか不便はありませんか? キルルちゃん」
いきなり矛先を向けられて、キルルは当惑のまにまに頷いた。
それを見るでもない素早さで、今度はエニイージーへと話が向けられる。
「それは良かった。エニイージー、部隊長第一席主席として、君の信じる旗幟へ感謝します」
「ありがとうございます」
キルルの困惑が伝染しているようで、エニイージーの返事も覇気を失っているが、ゼラは決然とそれを無視した。そのまま、先を進んでいく。
ついで横からやってきたエニイージーの目配せは、もっともらしい事情の説明を求めていたが、それはキルルこそあやかりたいくらいだった。どうしようもなく押し黙ったまま、ゼラについて歩き続ける。
(なんだろう? ゼラさん。怒ってる? ……ザーニーイに、)
心の中でつんのめったせいで、余計な気後れが膨らんだ。現に半歩ほど遅れてしまったため、あわてて取り戻す。
(恋人がいるって―――シゾーさんが仄めかした時から)
予期せず、知らされていなかったことを知らされた当惑だろうか。騙し討ちを食らわされたのみならず、それをやらかしてきたのが当の本人でなかったとくれば、理解できない感情ではない。むしろ、
(あたしは―――今そんな分析をしていられるくらいに、冷静なのね)
そのことにこそ、突き放されたようなショックを感じていた。
(……イーニアは、あたしの身代わりになったの?)
手触りの無い哀悼は、どこか遠い風景を見ているように現実味がない。
(次は、あたしなのかしら?)
実母の死でさえ心痛を残していない己に、次のお鉢が回ってくると言われたところで、怖気ですら遠い。大事にしていた大切さを失うのは、あまりにもあっけない―――約束に指きりを重ねたところで、それは破れないことを保障しない。右手の小指の付け根は、とっくに瘡蓋さえ失くしている。
(あたしは本当に馬鹿だ)
―――ここにいる、あなたを。だからって、ひとりにしたくない―――
(そうじゃなかった。独りよがりだった。どこでも―――あたしだけが、ひとりなだけだった)
思い知る。
のみならず、思い至る。もしかして、今までのすべてが、そうだったのではないか? ……
(あたしは、ここで変われた……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
幾つかの無知を掘り下げたことが、新鮮に思えた。それだけだ。
(イーニアは、あたしを好きでいてくれた……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
右も左も分からないうちに、距離感まで間違えた宮仕えをしていた。それだけだ。
(……ザーニーイは、あたし―――)
―――についても、お仕事なんですけど。
(シゾーさん)
キルルさんは、本当にすごい人ですね。本当に、そう思うんです。
(そんなこと無い)
色々あったでしょうに、それでも笑って。そうやって明るくて。すごく―――すごいなぁ、って。とても尊敬します。……でも、―――それだけじゃ、済まなかったりしてね?
(そんなこと無い……)
僕には、そんな顔しか、してくれないんですね。僕には―――
(そんなこと無い……と、あたしだけが、思っていただけに過ぎない?)
それを疑ったことは、あの日から何回かあった。
ただし信じることはなかった。それどころではなかった。ただ、余計な気がかりが増されたことに煩悶し、いつしかシゾーへの逆恨みの方が勝るようになっていた。どうしてこんな時に、そういうことをするの? どうしたいから、そうしたの?
(どうしたいのかな―――あたしは、なにがしたいのかな? 分からない……)
信じたものは疑えてしまう。
疑いようがないと信じたはずの祈りさえ、ザーニーイからしてみれば一方的な独りよがりでしかなかったのだから。
(……―――ザーニーイが好きになった女の人って、どんな人なのかしら……?)
と。
「―――で、いいですよね? キルルちゃん」
「え!? あ、な、なにかしら。ごめんなさい。聞いてなかった」
我に返ったことに跳ね返り、大声を上げてしまうのだが。
それにびっくりしているのは、どうやら自分だけらしかった。いつしかたどり着いていたゼラの部屋の前で、こちらを覗き込むように上体を傾げて心配顔を過らせているエニイージーのみならず、部屋の主でさえ肩越しにこちらを振り向いてきている。
のみならずゼラは、ドアノブに掛けていた指を外すと、ため息混じりに己の頬を掻いた。仕草自体は癖のようだが、まるで言い草ですら悪癖の一部のような陰鬱さで。
「シッズァの馬鹿なら、お気になさらず」
「え?」
「恥ずかしい話で申し訳ありませんが。あの子のやけっぱち任せの発奮も、根も葉もない無責任な噂の横行も、今に始まったことではありません―――色恋沙汰であれ、刃傷沙汰であれ、そうやって裏から表沙汰にされること全部が全部、正気の沙汰とは思わないでください。そうですよね、エニイージー? 良かったですねえ。腸。ただもれしているわりに、すこぶる健康なようで」
「あんにゃろらめー!」
目を血走らせてのたうつエニイージーは置いてきぼりに、あっさりとゼラが話題を取り戻した。
「チェストの検品ですが、しげしげと入念に調べようとは思っていません。ただ、女性の持ち物を男の手で勝手に漁るのも気が引けますので、立ち合いを宜しくお願いします」
「う、うん」
「なんか知りませんけど、危ないんなら俺がしましょうか?」
どうにか正気を取り戻したらしく、ぜえはあする肩をいなすように声を平坦にして、エニイージーが身を乗り出す。
それを見返したゼラの双眸もまた沈静していたが、それは相手に合わせてのことではないようだ。更なる深みまで見透かすように、エニイージーともキルルともつかない方向へ、じっとりと眼差しをこもらせている。
「目視のみですが、毒物について、キルルちゃんの私物を検めます。食器に塗られるなんて大人しいものに限らず、毒針そのものが仕掛けてあるかもしれません。言うまでもなく危険ですが、君の申し出は、ここまで承知の上ですか?」
「……なら余計に、ゼラさんがするべきじゃないですよ。俺が妙なことになっても、ゼラさんの魔術さえあれば、究極のところでどうにかなるでしょう? 俺じゃ手当てなんて、傷口から毒を絞り出すくらいしか出来ねえし」
「そうまで便利なものじゃありませんけれどね……コレ」
そこで挟んだ嘆息は別種の諦めを含んでいたようだったが。ゼラの目線は、キルルへと巡らされる前に、エニイージーへ同順していた。一理あるとみて、譲ることにしたらしい。
「まあ、触られるキルルちゃんさえ嫌でなければ」
「……しょうがないわね」
キルルの付け足しに、ゼラが言い訳してくる。
「手袋をさせましょう。部屋にあると思います」
「前提として毒針を用心しての真っ当なやりとりの筈なのに、ばっちい菌扱いされてる気分になるの俺だけかな……」
譫言のように指摘してくるエニイージーを見やって、苦笑で宥めながら、キルルもゼラに続いて部屋に入る。前日通りに、半分ほどしか開かないドアの隙間から、身をななめにして。
こちらの様子を見て不審そうに狭められていたエニイージーの目が、入室直後に仰天してまんまるになったのは、なかなか爽快だった。
「うへえ! こりゃすげえ巣だな」
「ちょっと待っていてくださいね。奥から手袋を探してきますから」
言うが早いか、ゼラが物陰に消える。
余計な身動きを圧殺する怒涛の積載物に、あんぐりと口を開けたままでいるエニイージーは置いておいて、キルルは目の動きだけで自分のチェストの在り処を物色した。ひと抱え程の大きさで、鍵の掛かる拵えをした、豪華な直方体である……あっさりと、それは見つかった。置いていった木箱の群れの上から、動かされた形跡もない。ただし、以前と違うこともあった。チェストの横に、隠されるようにして白い箱が置かれている。寸法は、チェストの四分の一ほどか。見覚えがあった。
(あれ? あたしの服を入れた箱、こんなとこに置いたかしら? ゼラさんが打つって言ってた釘も、どこに―――)
見えないところに打たれているのだろうか。
そちらへと近寄り、軽い気持ちで箱の上に指を引っ掛け、持ち上げてみる。
(え? 軽い―――)
刹那だった。
ぴったり密閉していた、箱の上―――蓋から、下が抜ける。
「あっ」
キルルはその時、叫んだと思った。
確かに、喉を引き攣らせたと。
驚愕の思いを代弁してくれたと。
実際に、聞こえた声は無かった。
―――とうに己の喉にさえ裏切られていたとするなら、自分は本当に一体いつどこから裏切られていたのか? そう囁かれた疑念さえ、今は聞けずにいる。
そう……鼓膜の至福に忘我し、ただ―――ただ、キルルは夢中で、そこにいた。
しゃきり。しゃきり。しゃきり。
神の御手が、常世の愛撫を終えた。
だからこそ、現実を取り戻すしかない。
散らかり放題の床の上に、舞い散り終えたものがある。
「―――羽根……!?」
羽根だった。
吹き散らされた木々から落ちた葉が、枯れ葉も若葉も混ざり合うように。何枚もの羽根がある。
大きい。小さい。長い。短い―――白い……
赤い。緋色。
橙。
「あーあ。まあこりゃ派手にぶちまけちゃって。ゼラさん、これ武装犯罪者からの押収品じゃないっすか」
「え?」
今更になって追い上げてきた心拍の速さに、ぞっとした思いを募らせながら。振り向くこともできずに身を固まらせているキルルを、どうにか追い抜いて―――どうにかと言うのは無論のこと互いの体格のせいではなく、障害を越えていく身体の柔軟性を試すがごとく方々に置かれた荷物のせいだ―――エニイージーが気楽な動作で、ひょいと床から羽毛の一枚を摘み上げる。
その羽根はまっすぐで、掌大ほどの長さがあり、緋と橙の混色をしていた―――
「有翼亜種の羽根を染めた美術品だよ。ここの空気にほったらかしにしとくと、ただのぐにゃぐにゃした枝毛になっちまう―――軸の一本を残して、あとの全部が千切れちまうから、こーやって箱詰めしとくんだ。さっきゼラさんも言ってたろ? 流通量ががばっと増えてから、こんな精巧なのも出てくるようになってさ。きっと高く売れるぜー、これなんか」
あくまで軽薄に言ってのけながら、やはり床から拾った白い箱に、エニイージーは気取ることもなくひょいひょい羽根を戻していくのだが。
キルルは確信していた。違う。
(確かに、偽物だらけだった。けれど、―――違う。いくつかは、本物……紅蓮の如き翼の頭衣)
本物に似せて染色することは可能だ。ただしその過程で、羽根は例外なく痛み、形状をうねらせてしまう。なによりこの、しゃきりとでも言うような、霜を踏むより澄んだ音はしない。
(それを、信じていいの?)
羽根の無くなった床から、キルルは顔を上げた―――
(それとも、疑えば済むのかな?)
ゼラと、目が合う―――
と思えたが、よろけたエニイージーが途端に前を塞いだ。と言うか、仰け反るようにして物陰を脱し、その向こうにいるゼラを見たかったということだろう。続けて、呼びかける。
「ゼラさん。全部しまいましたけど。これ、どこ置いときます?」
「そうですね。邪魔にならないところにでも」
その返事もまた、動揺した気配はない……
(だとしたら、あたしだけがこうしてるのは、きっと―――よくない)
「キッティ、それ寄越しな」
言ってくるエニージーを、どうにかキルルは見上げた。
「片付けるから。ほら。蓋」
正面。二本指をくいくいさせながら見おろしてくる目に、催促する以外の念は感じない。
促されるまま、彼に箱の蓋を差し出す。渡してしてしまいさえすれば、震えていたところで気取られない筈だ。
読み通り、エニイージーは何も気づかなかったらしい。どこに置こうというのか、来た動線を逆戻りするように、箱を抱えてドアまで戻っていく。
キルルの中で、危機感だけが、どうしようもなく糸を引いていた。このままでは、程なくゼラが奥からこちらに向かってくる。だってもう、手袋を探し当てた腕が見えた―――
「うわっ!?」
素っ頓狂な悲鳴に、肝を潰して振り返る。
そこではエニイージーが、ひどく面食っていた。床を凝視している。
途端。キルルは背後から、ゼラに追い越された……そのまま彼はエニイージーへと歩み寄っていく。
それと行き違うように、エニイージーから呻き声がやってきた。
「なんだこれ……肘が引っかかって」
どうやら、箱を置く動作の半ばで、何かを落としてしまったようだ。そこらへんの惨状と大差ないように見えたが、荷物の隙間を縫って目を凝らすと、なんだかよく分からない鍵のようなパーツが、ごちゃっと床に小山を作っている。片手でひと掬いできそうな大きさである。エニイージーが言っているのは、これのことらしい。
(こんな時は―――)
どうにか、キルルは言い繕ってみせた。
「この妙な棒切れ全部に肘をぶつけたの? 器用ねー」
「違ぇよ。キューブみてえだったのが、床に落ちたせいで崩れて、こんなんになったんだって。うわー。壊しちまったのかな? ゼラさん、これ……」
「ああ。まあ、立体パズルの一種ですよ」
間際で立ち止まり、ゼラが口にする言葉は、事実を読み上げるだけのそれだったが。
それに逆に感じ入るところでもあったのか、エニイージーがさっと屈みこんだ。そして、その切れ端じみた破片を残さず掬い上げると、懐にしまう。
「すんません。完成してたのに。俺、頑張って元通りにしますから」
「はい?」
「バラバラになっただけなんですよね?」
一拍。
ゼラが、首肯したとも疑わしさに駆られたとも取れる向きと深さで、曖昧に首を傾げた。
「まあ、それでも。わたしは」
「ありがとうございます」
「さ。それでは、ちゃきちゃき検品してしまいましょうか。はい手袋」
「借ります。よし……んじゃまあ、予定通りに―――キッティ、それだろチェストってのは。ちょっと退いてくれるか?」
言うが早いか、ふたりしてこちらへやってくる。なすすべなく奥へ下がりながら―――やはり二歩目の踵で妙な弾力を残す得体の知れない感触を踏みつけたような気がしたが―――、キルルはそれを見ていた。先行してきたエニイージーが、チェストの位置をずらして、広げやすい床に移す。屈身し、ぎゅっと手袋をはめ直したところで、鍵の存在に気付いたようだ。開錠を要求しようとした彼が、立ったままでいるこちらへ顔面を上向かせようとして、
「予てより語る破れ目をくぐれ、汝‘子爵’ジュサプブロス」
即時のことだった。エニイージーの斜め後ろに屈んだゼラの、声―――詠唱を引き金にして、魔神がこの世に召喚される。
深い水底から、水を踏んで浮かび上がってきた人魚が、水面に溶けていたはずの輪郭を顕わにするかのように。ふわん……と宙返りし、ゼラの背後霊のように収まる。ジュサプブロスと呼ばれたそれは一見して人間のようだったが、存在としては人魚に近いと思えた―――長い髪をゆらめかせ、まだ見ぬ陸地に胸をときめかせたように輝き続ける瞳は、人間として決定的な何かを欠落させている。
つと、ゼラがチェストの鍵へ触れた。
そして、ふ―――と顔つきから表情を抜いた直後。何事かを呟くようにしながら、鍵へデコピンを一発喰らわす。そして、
「これで開きます」
ぱくぱくさせた口から、結局なにを言うでもなく。エニイージーが、チェストに手を掛け直した。そっと、開けにかかる。開いた。
「うっわ! なんで!?」
「練成魔士の小手先の隠し芸です。そんなに悪用したことはありませんから、ご心配なく」
「なんで!?」
「いっぱい悪用してほしかったですか?」
「じゃなくて、これ! なんで!?」
「鍵を出して、またしまうだけ手間でしょう。これ、閉めると自動で施錠される構造のようですから。見終わったら閉じるだけで済みますし」
「そっちでもなくて! 開く原理!」
「鍵と同じくらいぴったりと鍵穴が埋められたように錯覚させました」
「はあ!?」
しつこく驚くエニイージーを尻目に、ゼラがまたしても小声を終えた。エニイージーの悲鳴で聞こえなかったが、またしても呪いを口にしたのだろう。風紋が風に吹かれて原形を失うように、魔神もまた世界から隔てられる。
唱え終えた輪郭のすべらかさは、前後にずれて隣り合うエニイージーと、幾つも違わないと思えた。兄のように―――姉のように。
(―――まさか)
腑に落ちたその思いが、一週間ぶりの二度目だと気付いて、キルルは肺臓を引き攣らせた。
(まさか)
絞られた呼吸につられて、急に高まった動悸に頭痛を覚える。
(まさか)
風貌。物腰。癖のある豊かな黒髪。人種の異なり。そのすべてが罠なのではないか?
ゼラだからと片付けられる要素を徹底的に嵩増しすることで、致命的な部分を見過ごす油断を誘導しているのではないか? 年齢は詐称できる。出身は偽装できる。紅蓮の如き翼の頭衣をあえて傷めさせて凡人の頭髪を装うべく、黒染めしたのちに整髪油で整えるなど、常軌を逸した蛮行としか考えられないが―――そもそも、異母姉の生母ジヴィンがフラゾアインであったとするならば、それすら些末事と済ませてしまえるのではないか?
(まさか、まさか、まさか……)
突飛すぎる話だ。魔神は? 練成魔士としての訓練はどこで受けた? フラゾアインとの混血は、そこまで超越してしまえるものなのか?
在り得ない―――
(けれど、……あたしが王様になることだって、同じくらい在り得ない話だった)
思いも寄らなかった。考えもしなかった。キルル・ア・ルーゼは、変わらない日常に、ありふれた不満とありあまる退屈を数えながら、漫然とした倦怠を伴侶に暮らしていくことを、疑ってすらいなかった。キルルにとっての世界とは、明日までに提出しなければならない宿題の期日までの実在でしかなかったのだ。
―――そうして、果てに、これはなんだ?
それは過去に聞いた、父の言葉だ。恐れおののく心地で、それを受諾する。
(だって、これが現実なんだから)
現れてしまったのだから、受け入れるしかない。
ならばその延長線上で、異母姉が化け物のように現実を化かして目前に存在していたとしても、これっぽっちの変質のひとつに過ぎないのではないか? 自分が国王になるくらい―――馬鹿馬鹿しいにも程がある……妄想たけだけしい―――ただし、だとしても、現実の。
(狂ってる)
世界が?
自分が?
世界が狂っていると認識した自分が正気であると、どう信じるのか?
己を正気だと豪語する者が狂っていないと、誰もが疑わずにいられるのか?
(馬鹿げてる。こんなの、どっちだって、同じだ―――)
正逆に位置しながら。同質であり、同一の。
と―――
「見る限り、なぁんもなさそうっすね」
「これに限っては、思い過ごしが一番です」
「もうこれ全部、元通りにしまい込むんでいいですか?」
「はい。それで結構です。よね? キルルちゃん」
呼びかけに、答えてくれたのは。
突拍子無く、口を衝いた語句だった。
「う、じ、むし?」
沈黙。
そして―――地獄のような―――数秒後、
「はい?」
突拍子もなかったのはゼラもだったらしく、薄笑いを酷薄に凍り付かせてくるが。
こうなっては、続けるしかない。せりふも―――眼球も、ゼラに向けるしか。
「蛆虫で、その、実験するって言ってたなーって。思い出しただけ」
「いえ。しないことになったじゃありませんか」
「あ。あは。そうだっけ? 蛆虫って見たことなかったから。ちょっと気になったなー」
それを聞くなりのことだった。エニイージーが相当に愕然とした面持ちで、ぽかんと声を上ずらせる。
「蛆を見たことがないイ? どうやって? なんで?」
「なんで、って……」
更に―――地獄が再来して―――数秒が経ち、
ぽつりと、一言。
「そういや姫様だったっけ」
「えー?」
「いやゴメン。なんかもう違和感なく食堂でメシ食ったり駄弁ったりしてるから……キティ・ボーイって定着してきてっし」
「エニイージーだって、やいのやいの言わなくなったじゃないのよー」
「だって言っても聞かねえもん……」
いじけたように人指し指の腹同士をつんつんしあいっこさせているエニイージーに、唇を突き出してブーイングを送る。それを挽回しようとしてでもなかろうが、ちゃきちゃきと物品をしまい直しながら、彼は言ってきた。
「でも見たいんなら、蛆虫くらいどんだけでも見れるぞ」
「そうなの?」
「うん。白いっぽいぞ」
「白いっぽいの?」
「面白くはないと思う」
「面白くはないんだ」
「ぞくぞく湧いてるの見ると、ぞーっとするかもだし」
「ぞくぞくぞーっ?」
「……なんちゅーか、いまいちズレた反応だな」
「あたしのせい? それ」
「なら、確かめに行ってみるか。あんなもん見ても、ふーんってだけだろうけど」
消極的な好奇心をえらい高く買い上げてくれた最後、チェストをぱたんと閉じる。
それを、元あった位置に押しやって、エニイージーが立ち上がった。手袋を脱ぎながら、しゃがんだきりのゼラへと、目線を下げる。
「ゼラさん」
「あ、はい」
「なら俺ら、これで行きます。このパズル、必ず直して返しますから。お邪魔しました。出張から帰ってきたばかりなら、いったん骨身を休めてください。それじゃ、背に二十重ある祝福を」
「はい……それでは。背に二十重ある祝福を」
返された手袋を受け取るため、ゼラもまた立位となる。キルルはそのわきをかすめるようにして、通った―――部屋を出ていこうとするエニイージーに、追いつかなくてはならなかった。そしてそれよりも、ゼラを間近で見る機会を逃すわけにもいかなくなっていた。
すれ違いざまに、視線が通い合うこともない。
伏し目がちのそれは、漆黒の髪の影から、白い箱へと向けられていた。
無数にある箱の中でも、それが羽根が入っていた箱だろうと思えたのは―――順当な邪推なのだろうか。
(お姉ちゃん……?)
廊下に出て、物憂く部屋を振り返る。
わきにいたエニイージーが、そのドアを閉めた。
「? どーした?」
「……いいえ」
やり取りは、それで終わった。
エニイージーが、廊下を歩き出す。キルルは、それに並んだ。
誰と行き交うでもなくそのまま進んで、角を曲がった頃だった。
「すっげー部屋だったなぁ。ガラクタ詰め込んでシャッフルした玩具箱みてーな、片付けって文字が辞書にない生活空間。どんな生まれ育ちしてきたんだろ、あの人」
ぎくりと、身が竦む。
単に階段へ向かっているだけだと思っていたが、エニイージーはドアから聞こえない距離を稼げたかどうかを数えていたらしい。ぼそっとやってきた独り言にチャンスを感じ、キルルは咄嗟に便乗した。
「知らないんだ、エニイージーも!」
「は?」
「ほ、ホント不思議よねそれ! 真面目にホント!」
「やたらめったら挙動不審だぞ、おい。どうかしたか?」
「ええと……あの……あれよ、本当に、」
そこまできて、取り繕わなければならない嘘も無いことに気付く。
そうなると慌てふためこうにも息が続かず、肩を落としながらエニイージーに語り掛ける。
「ゼラさんって、ここに来る前どうしてたのかなって」
「まあ、モグリの練成魔士ってだけで、ただ事じゃないからなあ」
「三十過ぎてるって齢にも見えないし」
「見えないのがフラゾアインの血なんじゃねえの? 知らんけど」
「知らんけどって」
「だって、あの人以外にフラゾアインとか見たこともないし。なにより、頭領いわく、おじさんなんだから、おじさんなんだろ。ほかにどう言えるよ?」
「おじさん」
はたと、勘付く。
(そうだ。ゼラさんをそのように扱ってるのは、ザーニーイとシゾーさんのふたりだけなんだ)
名前。
身元。
立場。
経歴。
(お互いの自称の保証のほとんどが、あの三人に始まって、三人に終わっている―――)
そして思い出したのは、それだけでなかった。
「ねえエニイージー」
「うん?」
「ゼラさんの部屋、モノだらけで溢れ返ってたわよね」
「いや俺ずっと言ってんじゃんよ。それ」
「あれを片っ端から事細かに把握するなら、どれくらい時間がかかるかな?」
「はあ?」
その声色は、明らかに小馬鹿にして受け流そうとした雰囲気だったが、こちらを見やったエニイージーはそれを引っ込めた。代わりに、ふと考え深そうにした表情に怪訝さを差して、含みを持たせる。
「……一朝一夕じゃ無理だろうな。なんなんだよ、さっきから?」
キルルは、黙りこくって首を横振りした。
なんなんだよ、としきりに口にされて空気は気まずくなったが、気にしている余裕はない。
廊下を進み、階段を下りていく中で、逸る思考を抑えていた。
(ザーニーイは、あの部屋を知ってた。整髪油の替えの置き場から、古着のしまわれた棚まで……勿論、ずっとここで本当におじさんと生活していたのなら、充分にそれは在り得ること。在り得ることだけど、)
首ったけなひとりでも、それは在り得ることのように思えてくる。
(なんなの?)
不毛だ。際限ない考えは、どこまでも及ぶ。
あの曇り空のようなものだ。どこからあの雲は流れてきたか―――いつからあの雲は空を満たしたのか。それを問うた者には、<終末を得る物語>が答えた。どこへ流れるのか―――いつまでいるのか。得られたはずの終末は、未だに誰にも見えずにいる……
と。
「ところであたしたちってどこ行くんだっけ?」
「……蛆虫見学に厩へ」
半眼をひくつかせながら渋々と答えてきたエニイージーの面構えは、彼の頭向こうに広がる曇天―――とっくに野外に出ていたのだ、気付かなかったが―――と同じくらい雲がかっていた。
彼がフルチャージした文句を噛み潰していくうちに、正面のグラウンドを進み終わる。ここ数日で、行きずりの旗司誓から好奇の目が寄せられる回数は激減していた……そう単純に消化されないものを焦げ付かせたような目付きだけが残されたとも言えたが、それらについてエニイージーはきっぱりと、見ない・聞かない・言わないの不可触三原則を厳守していたので、キルルもそれに習って身を守るのに慣れ始めていた。と言っても、おおよそ気が良く挨拶を渋りすらしない若者がほとんどで、上辺の自閉でやり過ごす回数だけで言ったら城にいた時の方が余程多い。
(エニイージー以外にも、仲良くなれた人も出来たし)
これもまた、城にいた時より、余程多いと言える。
そうこうしているうちに、正門のやや外れに構えられた小屋に到着した。さほど腐食は進んでいないが、壁は薄く、屋根もまた薄そうである……ただし、大きさはあった。貧相というよりか、人間が暮らすのとは用向きが異なる設えなのだと想像がつく。屋内から流れてくる人畜無害な嘶きが、それを裏付けてくれる。厩舎だ。
その手前にいたのっぽの男が、作業の手を止めて振り返ってきた。顔見知りだ……まあそれは顔を見るまでもなく、相手のうなじで黒髪を縛った布のカラフルさから分かっていたことではあったが。
「ようイコ。背の二十重ある祝福に」
「おんや、まあ。背の二十重ある祝福に」
声が届く間合いから、顔かたちの機微が読み取れる間合いへと近づくのを待ってくれて。
彼―――イコ・エルンクーが、キルルへも片手を上げてきた。エニイージーへと向けた簡易敬礼から型を崩し、単なる会釈のイロとして。
「よ。ごきげんようキティ・ボーイ」
「よ」
「っつか、どうしたん? こんなとこまで」
疑問を向けられたエニイージーが、露骨に不服そうな顔つきをした。
「キッティが蛆虫を見たいんだと」
「マジでか?」
「マジでだ」
軽はずみに度肝を抜きにきた不埒者と言わんばかりに、ありありと警句を形相に燈したイコだが。エニイージーも退かずに、食い下がる。
「見たことないんだと」
「おおぉおマジでか!?」
「大マジでだ」
「……はぁー。そうかぁ。ふむ。オーケイ。波は去った」
「まさかあたし恥晒しになってる?」
キルルが目蓋を半分下げつつ割り込むと、イコが首と両手を否定のモーションでぶんぶかと振る。
「いやいやいや。そうだよな。虫の勉強なんかしてねぇよな。してねぇなら分からないって。インクも牛乳も小便もジャンルとしては液体だって」
「そのみっつくらい分かるわよ!」
と、言い返した横から、
「お前それ恥晒しじゃなく恥知らずなだけだって言外に言っちゃってんぞオイ」
エニイージーが冷めたとどめを刺してくれてきたので、分かりやすくキルルは音を上げた。両手の拳を振り上げて、めちゃくちゃにイコに叩きつける。
「うあーん! イコさんの馬鹿ーあ! もー!」
「うあーんエニ坊の馬鹿ーあ! オニーチャン嫌われちゃったじゃないのよーう! もーう!」
「悪かった。もっと攻撃力が低い口回しにするべきだったゴメンナサイませ。ってか、この流れは俺がキッティにポカスカやって泣きつけば終わるのか? それとも幻の永久機関の完成か? もっとマシな動力源を選ぶ選択肢はないのか。ちょっとそこまで探してくる」
「逃げるぞー! 脱走兵だー追えー!」
「うあーん! だーおえー!」
「兵士じゃねーよ旗司誓だ」
「言葉のあやだー深追いするなー!」
「うあーん! のあやだーいするなー!」
「むしろ俺を深追いすんな」
「追うー深々と追いかけるー!」
「うあーん! ふかいよーぶかいよー!」
よよよと泣き崩れながらへばりついてくる大の男―――実際このメンバー中でイコは最も大柄だ―――と少女を引きずるようにしてエニイージーがあさっての方向へ行きかけるが、半歩ほどでそれを止めた。額を押さえ、憮然と脅しをきかせてくる。
「って、じゃれ合ってアホするのはいい加減置いといて。キッティのこと、ちょっとお前に預けてもいいか? 俺、塒に置いてきたいモンあるから」
「おう、ンなもん朝飯前だ。造作もねえ。便所蛆を見せるだけでいいんだろ」
「いいんだろ?」
あっさり嘘泣きを取りやめにしたイコと、エニイージーの目玉が、計四つともキルルに向いた。大きな蕪でも引っこ抜くかのように三人して組んずほぐれつの腰抱きになっていたので、最後尾にいたキルルは二人して見上げるようにしながら、こくこくと首肯する。こちらもやはり、適当に作っていたふくれっ面を放り出して。
しっしっとした手つきにあしらわれるまま振りほどかれ、キルルはイコと並んで、エニイージーを送り出した。
「そんじゃ、背に二十重ある祝福を」
「あいよ。背に二十重ある祝福を」
「いってらっしゃーい」
そうなると、出来ることなど限られてしまうわけで。
見詰め合ったのはどちらともなくだったが、口火を切ったのはイコの方だった。
「んじゃ、行こっか」
「うん」
「危ないから手ぇ繋いでね」
「うん。え? 危ないの?」
「嘘ぴょーん」
「もー。なによ、もー」
と言いつつも、つい手を取り合ってしまった流れで、絡めた拳骨をぶらつかせたまま厩舎に近づく。
自然と、鼻がひくついた。
「うー。ドーブツのニオイする」
「まあ、いっくら悔踏区域外輪でも、ここは太刀打ちできねぇわな。ちゃんときれいにはしてるんだけど。ほら、あっち見てみ?」
イコが拳―――空いている方の手だ―――から立てた指先を、建物のあちこちに振った。
「奥が単房で、手前のこっちに休憩室と飼料庫。物置は、その区切られたとこね。お掃除アイテムみっちりよ。今は中で、別の作業してるけどね」
どうやら彼はこの裏側に行きたいようで、説明もてきぱきと終えられた。通りすがりのことでよく見通せなかったし、造りについてもどうにも頭に残りそうにないが、それを気にした様子もない。まあこれも、彼なりの愛想なだけ、と言ったところか。繋いだ手と同じくらいに、他意のない他愛ない愛想。
(だから、こうしていられるんだろうな)
不思議なものだ。イコとなら、あの中庭までスキップして行っても、スキップして帰ってきて終わる予感がする。だからこそ……気にかかる。
(ザーニーイは、どうなのかな?)
「ぱんぱかぱーん。とーちゃーっく」
言われ。
ファンファーレを口ずさまれても、目的地だったらしい裏に回っただけである。地味だ。見どころもへったくれもないが、あえて探すなら、隅の方でこんもりと土が盛られている。土だと、そう見えたが―――
それを指し示して、イコ。
「で、そこから運び出してきた糞があれ。夜になる前に肥受けにまとめられて、回収を待つことになるね」
「回収?」
「排泄物は肥料に回される。うちの敷地は雹砂が混じってっから、基本的には農耕にゃ向かないんだけど。最近は人員が増えるにつれて量も増してきたから、農作物を取引してる村に払い下げてるよ。ごはんの材料を受け取る代わりに、ごはんの堆肥を引き渡すの」
「へー」
イコの助言を背景に、やはり手を繋いだままであるがゆえに彼と並んで、てくてくと糞に近づく。臭気が強まるかと思えたが、それについてはさほどでもないようだった。野外にあるだけ、悔踏区域からの風に吹かれやすいのだろう。
「そんな上じゃなくて、もっと古いとこらへんに―――ああ、いたいた。これだよ。蛆虫」
言われるまま足元を見ると、白い芋虫のようなものがいた。うぞうぞと、たくさん群れている。
「…………」
ひとしきり、まじまじと眺めて―――眺め終える。
気色悪いと思う以前に、まずもって翅も脚も複眼も無いこれが虫だという実感がわかない。練り歯磨き粉が生きているとでも捉えれば気味悪くもあるが、そもそも練り歯磨き粉に命が宿る時点から怪談である。気味悪くなるポイントが抜本的に違う。
やはり並んでそれを見てくれているイコに、言ってみる。
「これが蛆虫」
「そ。便所蛆」
「白くて、ぷりってしてるのね」
「まあ蛆虫だし」
「いっぱいいて、おしくらまんじゅうしてる。初めて見たわ。おしくらまんじゅうの現物」
「おお。そりゃ眼福。すげ」
「こんなぎゅうぎゅう押し合いへし合いする意味あるの?」
「あるかもだし。むしろ無いんじゃね?」
「無いなら、痛いだけじゃない」
「そう言われると、なんだか押されて泣いてる奴がいそうで可哀想だなぁ」
「蛆虫って、いつか蠅になる幼虫なんでしょ? 幼虫って、餌によく似た色をしてることで捕食から逃げる―――保護色してることが多いって習ったけど、どうしてこの子たち白いの?」
「どーしてだろうなぁ。アレルケンの野郎なら知ってんじゃねぇの?」
「なんでアレルケンさん?」
「あいつがモーションかけんの、いつだって農家の娘っ子だから。そっち系に結構トリビアあんのよ」
「へー。そう言えば、今日はそのアレルケンさんは?」
「休日返上で、ペラもろい失恋話の聞き役」
そこにきて、イコはキルルの手を解放した。そして、やりたかったらしい適当な降参の手つきを掲げて、指をひらひらとさせてみせる。
「俺ぁ聞き飽きたっつーの。モテる男は聞き上手よ。ガンバッテ」
「わー。励ましに込められた本音がペラい。しかもどっちを応援してるのか不明」
「……どっちかってぇと、アレルケンの方を応援してるかなあ。事情が事情だし」
と、考えるように独りごちて、今さっきまでの穏便な憎まれ口をやめた。感心をこぼすついでのように、両手も下げる。
「はーァあ。やっぱ思うとこあんだろなぁ、あんにゃろ。うん、フレフレしちゃいますよ俺は」
「どういうこと?」
「アレルケンの恋人、もしかしたらデキたかもってなっちゃったらしくてねー」
「え? デキたって―――ほかの誰かと恋人になっちゃったの?」
「ちげーちげー。こっちよこっち」
耳打ちしながら、臍の前で大きなボールを抱えるような真似をしてみせる。あるいは―――突き出た下っ腹を支えるような。
目をまるくするしかない。
「……赤ちゃんが?」
「そ、そ」
浅い肯定をし終えると、その惰性か、イコが余計なことまで模索した。
「うちをやめて恋人の村で麦でも育てんのか、さもなくば別口の転職か。結婚まで煮え切らなきゃあ、このまま旗司誓しつつ愛人関係続けんのかね? 娘っ子ン家ちが農家なら若い男手は喉から手が出るほど欲しいだろうから大事にしてもらえそうだけど、正反対に、余所者があわよくば居着こうとしてるって除けられることも多いからなぁ」
「こいびと……あいじん……」
―――首ったけなのが、ひとり。
「恋人と愛人って、違うものなの?」
「へあ?」
「恋と愛ってなんなんだろう?」
「そんなジュンスーイなお目目で聞かれてもねぇ、このオニーチャンたら下世話なことばーっか達者なのよ?」
トーンの高い言い回しで、おちょくるようにせりふを終えて。
それが前置きだったことは、彼自身が最も分かっていたのだろう。奇異なテンションを脱ぎ捨てて、言ってくる。
「んな中継地すっ飛ばして、結婚ってなら、まだ話が早いよ。旗司誓は結婚しないからね」
「え?」
「結婚するってなったら、旗司誓を辞めちまうのさ。相手の身の振りに合わせるか、さもなければ近隣の義賊に転職するかってケースが多い。んで、ここでは客人って扱われて、そこそこのもてなしと引き換えにハブにされる」
「そもそも、どうして辞めちゃうの? 危険なお仕事だから?」
「誇りに恥じないためだ」
断言してくる。
どことなく息を呑んでしまうが、直後にイコは気配をだらけさせた。顔つきもへらりと笑いに溶かして、片手の先も気ままに吹かれる草のようにへらへらさせつつ、
「―――とか、エニイージーなら、ズッパリ言い切ってくれっだろうけどねぇ。言ってみりゃ、妻子にうつつを抜かすような血肉しか纏えていない輩は、【血肉の義】への背約者と見做されるのさ。旗幟に尽くすことが出来ない名折れだってね。ヴァエンジフの聖句さね。この誇りにこそ、わたしは満ち足りる……」
「それって、とてつもなく了見が狭くない?」
「後継者を選抜することで純度や強度を守るのは、伝統芸能と同じだよ。伝えるのが、実子に限らないのもね。必要悪だろうとも、洗練は必要だ。堕落に節度は無いよ―――それを律しようとするなら、自律はもとより、他律せにゃね。それは、うちの戦端句にある不文律でもあるんだ」
「戦端句って……」
「双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ触れ疾く翔けよ。旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ。痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ。その棘示すは<彼に凝立する聖杯>―――旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
口ごもるキルルと正反対に、イコの喋り口は明朗さを増していた。垣間見える頑固さや律儀さが気難しくもあるエニイージーより、暢気な陽気さがあるイコの方が、格段に気乗りがいい。こちらが疑問符を重ねる一方でも、おっとりと受け入れてまだ余裕を残す口達者さだ。
「とどのつまり。どうあろうと自分達は、旗幟の意匠が表してくれるような、理想的な理想を体現すべく、すべての今を超えていく。それを見てもちくりとも来ない奴は、自分達とは違う人種だ。だから同列には扱わないぞ―――そんなとこかな。これって、明らかな敵対者に対してもそうだし、毛色が違うだけの似た者きょうだいにもそうなわけ。前者ならボコって蹴散らすし、後者なら一線を引いてお客さん。落ちこぼれにも吹きこぼれにも容赦が無いの。あんたの旗幟を信じてるってのが仲間内で決めぜりふになるのも、こいつが枷になっての符牒さね。旗司誓にとっての旗幟はね……ひとつっきゃない完全無欠、かつ絶対の大義であり、源泉なのよ」
「なんでそこまで?」
「後継者を選抜することで以下同順。まあでも、めっきり厳しくなってきたのは、ここ最近かな。<彼に凝立する聖杯>の規模が大きくなってから、自由裁量のグダグダにされないことが増えた。だからまあ、ところ変われば品変わるってやつでさ、グダグダと手抜きして、安っぽくナマクラやってる旗司誓もいるよ。まさしく旗色が違うってやつ。そこが水が合うって奴は、行けるもんならそこに行くし―――にしても、」
そこでイコが、噴き出した。さも可笑し気に。
きょとんとしていると、遅ればせながら相槌を打ってくる。
「恋に愛、か。言い得て妙だが、こいつもまあ、旗司誓としての在り方を希求するって意味では、さしずめ恋なのかね? ま、あの通り、うちのエニ坊は双頭三肢の青鴉に恋してっけど」
「どういうこと?」
「ひとりで盲目ってこったよ。ここ三年来あたり、ひどくなりっぱなしさ。そのおかげで副座が勤まってるとも言えるけど。俺なんか、ビジネスでずっと平社員してんのが肩身狭いくらいだ」
(……―――三、年?)
その単語に、物思いを奪われる。
訝ってしまえば、思い出すのは容易だった。幾度となく、こうやって試されてきたと―――その不吉な感触すら胸の奥に取り戻しながら。
イコは調子をちらとも変えず、ぺらぺらとぼやき続けているが。
「花屋とか肉屋とかと同じ、旗司誓という仕事だよ―――例えば、条件が揃えば、俺はここを辞めて転職する。仕事なんてそんなもんだと思ってるからさ。けど、エニイージーはそうじゃない。もしかしたら心中だってしちまうかも。しんどいわー。サイテーにカッチョイーわー」
「三年、前……から?」
「よりも、そこそこちょいあと。三年前からの、頭領の暗殺未遂事件までを知って以降、エニ坊の野郎ひーでぇヒデェ」
「あんさ?」
「暗殺未遂事件。そいつが一連のトリになるね。一応は」
禁忌に触れるような気負いもなく、もったいつけるような優越感もなく、人相さえ平生のままうんうんと首を縦に振るイコ。
その楽観した態度を見るにつけ、逆に喉元に暗い熱を蟠らせている自分こそがおかしい気がしてきた。尻込みしていないと言えば嘘になるが、―――それでも、小声で口に出す。
「三年前から……なにがあったのか、聞いてもいい?」
「……うーん」
そこでイコが首を捻ったのは、部外者に踏み込まれたことを警戒してではなく、単にキルルの不用意さを心配してのことだったらしい。ちらりとこちらへ触れてきた目角を湿っぽくしているのは、やぶにらみの非難ではなく、生ぬるいはらはら感だった。
「洗いざらい話せるは話せるけど、見ての通り俺は見地も見解も日和見だから、アテにしてた感じとは的外れに話しちゃうかもしんないよ。そんでも、なっかなかにドきつい後味の悪さあるし……それでもいいなら。ついでに、長くなるよ? 便所行っとく?」
頭を振って、用足しの申し出だけは断っておく。まさかこの糞の山で済ませろと言われると思ったわけではないが。
イコが厩舎の壁に歩み寄って、一面にこびりついた黄塵を手で払った。そして、立ったままそこに寄り掛かる。言った通り、長くなる話のようだ。彼は部隊の規定に沿った明るいみどり色の服装をしているので、そこだけ若々しい苔でも生えたような絵面だが。
「俺がここに来たのは、三年ちょっと前くらいだったかな。んで、その時にはもう、かなり前からだって聞いたけど。副頭……あの時はまだ、副頭領じゃなかったけど。とにかくそのシゾーさんが、筺底に入り浸って、ぱったり帰ってこなくなっちゃっててさ。あ。筺底ってスラング通じる?」
「聞いたことは、あるかもだけど」
「筺底。箱の底。要は、箱庭―――都会の底辺、裏街道や裏社会のことだよ。アウトローとかギャングとかマフィアとか、そういう格式ばったゴロツキがガラ悪くうろついてる、危なっかしい界隈さ」
そこでわざとらしく身震いしたのは、本気で震撼してのことでなく、話に余興を欲してのことだったらしい。鼻筋をおっかなびっくりさせて、声もここぞとばかりの低音に落としつつ、強調してくる。
「で、しかも。これっぽっちもイイ噂を聞かないんだわ。まあ、小間使いと汚れ仕事は、悪党の使い走りしてるんなら常套なんだろうけど。通称、ツァッシゾーギ―――蒼い炎、触れなば髄まで焼かれ、灰も残らず。愚かなエルギヴァン一家の末路なんか、こっちまで一昼夜で席巻してくれたくらいだった。あんまりにもひどいんで、当時の頭領とかも筺底まで足を運んだみたいだけど、あの人は旗司誓を辞めるでも旗司誓に戻るでもなく、ツァッシゾーギのまんま」
「そうなの……ザーニーイが、わざわざ」
「―――ん? 違う違う。当時の頭領は、シザジアフ翁。今の頭領の父親。ちなみに、そん時の副頭は、ゼラの御大」
「え?」
「今は、頭領・ザーニーイさん、副頭領・シゾーさん、部隊長第一席主席・ゼラさんだろ? 一世代前は、頭領・シザジアフ翁、副頭領・ゼラの御大だったんだよ。あの頃はこんなに人数いなかったから、部隊長みたいなしっかりした役職は……ふたりくらいいたかな? もう一世代遡ると、ジンジルデッデって婆ちゃんが、大家族の肝っ玉母ちゃんみたく頭領をしてただけって聞いてる。騎馬を抱える百人所帯に様変わりしちゃった破竹の勢いは、本当にここ最近なんだよ―――なにもかも三年前が終わってから、かな」
「婆ちゃん?」
引っかかって、キルルは話向きを中座させた。
「ここって女人禁制じゃなかったの?」
「ああ……まあ、あの先翁は女じゃなかったよーなもんらしいからなぁ。頭領―――ザーニーイさんも、デデ爺って呼んでたし」
「……婆ちゃんなのに?」
「ええと。その昔、行儀見習いだか丁稚奉公だかをした先の主人に色目使ったってこじつけられて、その主人の奥方やら取り巻きやらから、死線すれすれまで折檻されたんだと。曰く、女の部分を焼き剥がされたとか」
「やきは?」
「で、子どもを産めない身体になったらしい。それを助け出してくれた、腹違いだか種違いだかの兄ちゃんが、<彼に凝立する聖杯>で旗司誓してたんだと。それから一緒に旗司誓になったついでに本名を捨てて、ジンジルデッデって言い始めたとか―――いや、その兄ちゃんが、そう呼び始めたんだったっけ? どうだったかなぁ……その兄ちゃんについては、あんまり逸話を聞かないな、そういや」
なか途中から呆然と、イコの物言いを見送って。
不本意そうに黙り込んだキルルに、刺激されたらしい。眉を上げて、イコが問うてくる。
「警察に保護されて実家に帰れば? って顔つきだな。キティ・ボーイ」
「……少なくとも、あたしにとってはそれが妥当だもの」
「今の時代でも、土着の権力者が司法をごっちゃにする辺境は多いさ。そしてそれは、得てして、おしなべて、無法よりおそろしくタチが悪いものだよ―――中央から派遣される交逸警察が、抜け作に徹することでしか保身を通せないのも察せるくらいにね。つまりは……それが原因だったんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「公的な保護のみならず、私的に帰宅することすら、望むべくもなかったのさ」
「……どういうこと?」
「親にしてみちゃ、せっかく上等のお館様に勤めることができたってのに御機嫌を損ねた末、渡りに船と尻尾を巻いてトンズラこいた粗忽者だ。家の門に泥を塗られたってことになったら、汚物投げつけてくれた末代までの恥っかかせに、門戸は開けんよ」
「そんな、」
「そんな話は、ひどいかい?」
「―――ひどいわよ」
渾身の思いで、抗弁を遂げるのだが。
「ひどいねえ。それだけだ」
「え?」
イコは、しれっと繰り返す。
「世の中、いいことだからってだけで善行が増えないように、ひどいからってだけで悪行も無くなりはしないよ。善悪と損得は、悪友みたいなもんだ。良くも悪くも忘れさせてくれないし、時折気まぐれに向こうさんから肩を叩いていきはするが、腐れ縁を越えて自分から拘ると裏目に出やすい」
「けど……それでも、ひどいものを許す理由にはならないでしょう?」
「それは誰でもお互い様……でもって、ひどいものを測り取る杓子定規も、お互い様に自前なだけ。俺は、兄ちゃんが旗司誓やってたってのも、それ絡みのような気がするね―――なんか体面が悪いことして破門されたもんだから、街ぐるみで白い目で見られるようになっちゃって、食いっぱぐれたのさ。だから悔踏区域外輪まで漂流して、旗司誓するしかなかったんだ。もしかしたら、その兄さんの詫びに勤めへ出されたのかもしれねえな、ジンジルデッデ先翁。それなら、斥候がいたでもないくせにタイミングばっちりだった兄ちゃんの救出劇も合点がいく」
食い違うキルルへ、ひとしきり甘い苦言を混ぜ終えて。
思慮深げに息をついたイコが、目をしばたいた。
「頭領―――今の―――が言うにゃ、自分なんざジンジルデッデ先翁の功績の足元にも及ばねえとよ。自分は旗司誓を旗司誓らしく伸ばしてやれただけで、愚連隊だから旗司誓になれって革新を起こしちゃいないって」
「ザーニーイが? 霹靂が、デタラメなサイコロなんて言われた人相手に?」
「あ。サイコロのそれは知ってんの?」
「エニイージーが前に言ってたわ。すごいけど変わり種だったみたいって。でも、ザーニーイもまた物々しい持ち上げた方するのね。革新って……」
「ちょいとちょいと、実感ないみたいだから言わせてもらうけど、実際コレすんげーこと言っちゃってるのよ? あの人……ザーニーイさんね、戒域綱領って案を取り纏めて、旗司誓やら義賊やらが綱領に則って手を取り合ううちはウィン・ウィン関係が合法的になにがしか発生するようにしたの。おかげで業界は安定して、展望も見込まれ、志願者も増え、貨幣も紙幣―――公用金券がきちんとした価値を持つようになって、働き方も清潔になれた。廃れて落ちぶれていくのに慣れていたのをぜーんぶ底上げして、<彼に凝立する聖杯>はパイオニアから一足飛びにトップだと喧伝されるまでになった。そのピンからキリまでが大したことじゃないって言えちゃうコレ分かる?」
ひたむきに挫けないイコに、それでも疑念が湧いて出る。
「ていうかここ、紙幣も流通してなかったの?」
「いい顔はされなかったよ。ちゃんとしたレートで換金されないこともザラだったし。まあ、そういうことなわけ……野放図に好き勝手やって相手からひとつ奪うその日暮らしよりも、まず相手に自分からひとつ差し出す不自由さと引き換えに、倍乗の見返りを山分けしようぜってチーム同士に呼びかけて、チームワークに成功した。それも、ジンジルデッデ先翁の偉業あってのことなんだって、頭領その人が言ってくれてんのよコレ。マジ脱帽って」
キルルの面皮のあべこべを、どのように推し量ったものか。イコが、そもそもの話……といった体で身じろぎし、ずり落ちかけていた背を元通りの高さの壁に落ち着けた。
「<彼に凝立する聖杯>に施されている平和的な統治は、人が寄り合えば自然に構築される天然の現象じゃない。ルールに基づいた管理が、個人よりも社会を優先して保護することを徹底した賜物だ。ジンジルデッデ先翁は、身内同士での鉄拳制裁はもとより、捕虜への拷問のような我欲まみれの横暴を禁止して、便所や食堂や寝所やゴミ箱の使い方をしっかり躾けた上、人員を単なる労働力としてカウントするのを止めた」
「……つまり?」
「ありとあらゆる学びを奨励したんだ。要塞の一角には、図書室に毛が生えたみたいな雑庫が残ってるよ。さぞかし人道に溢れた、学のある人柄だったんだろう―――ただただ目先を生き延びるんじゃなく、十年二十年のスパンを豊かに生きることを目標に土台作りをしたって聞いてる。だからほら、あっちゃこっちゃ仕込まれて、頭領も副頭も芸達者だろ?」
「歌は聞いたけど、かなり上手だったわ」
「歌どころか。裁縫も料理も、ちょちょいのチョイっとお手の物」
「ホントに?」
「らしいってだけで、あえて真偽を確かめたことは無いけどね。副頭は今でもよく調理棟に出入りしてるよ……元々、狩りが趣味みたいから、それもあるんだろうけど。頭領は、ちょくちょく日曜大工したりしてる。椅子のガタつき直したりとか」
「椅子がガタつくの? なんで急に?」
「酔っ払った一興に投げる奴とか、頭に血が上ると鈍器に使いたがる奴とか、引きも切らないからね」
「さっき、身内での鉄拳制裁は禁止って……?」
「禁止だから、そーいう迂遠な示威行為してんじゃない? 我らが頭領にナニさせんのって」
「ええええええ?」
「なぁによ、不服? 基本、人心を掌握するにゃあ狡っからく裏から回らにゃあ」
なにやら得意満面にケケケと笑いつつ、両手をわきわきさせて、イコ。
まあ、それが不謹慎な挑発だとは承知の上だったらしく、すんなりと捨てて息を継ぐ。
「でもまあ頭領、なんか不屈な凝り性なとこあっからなあ。前なんか、爪楊枝はどれくらいの長さと太さが最適なのか、各種バージョンを食堂に並べて集計取ったりしてたし。案外本気で椅子の座り心地のズレが気になるだけだったりするかも」
「……ちなみに爪楊枝は結果どうなったの?」
「短すぎず細すぎなきゃ誰かにとってなにかしらの使い勝手があるってことで落ち着いたみたいよ。菜箸サイズのやつは結局厨房で菜箸として使われたっぽいし」
「サイズそこまで!?」
「ね? 不屈な凝り性っしょ」
「はー……なんだか意外な生活感が……」
「はは。賞金掛かかった生首振りかざして高笑いしてるだけが、旗司誓の四六時中だと思ってくれるなよ。仕事だからこなしてるだけで、私生活じゃないさ。だったら、私生活で必要なら、裁縫することも料理することも、趣味ではね伸ばしすることもある。だろ?」
「だわね」
「こーいった何でもかんでもをジンジルデッデ先翁から直伝されたのは、もうその二人くらいじゃないかな。俺も会ってみたかったよ。こうやって聞きかじっただけでも、ユーモラスな茶目っ気がある人だからね。なんでか頭領にゃ、『ンなこと言っちまって、今晩の夢ん中に、傷だらけの痩せっぽちジジイが大手振って歩いてきても知んねぇぞ。せめてもらさねぇよう寝しなに便所行っとけ。悪いこたぁ言わん。デデ爺だから』ってジト目で申告されたけど」
「……亡くなったのよね」
「八年前のあおりを食らってね。戦争だったんだ。旗司誓だけ無傷とはいくまいよ」
「……そうよね」
しんみりとした空気に悼みを感じて、目を閉ざす。戦場など知らないキルルに、目に浮かんでくる風景は無くとも―――そうした。
その突如、
「俺からも聞いてもいいかな。戦争について、どう覚えてる?」
「え?」
「それとも覚えていない?」
「ええと。勉強はしたわ。輸出入の交易品に疑惑があって、それが元で戦争になっちゃった……その疑惑って言うのが、動物由来禁戒薬物の密売で……」
「アーギルシャイアの臍帯」
「え?」
たどたどしいせりふを上書きしてくれたイコの声は、やはり滑らかで、格別に裏があるわけでもなさそうだったが。
急な舵切りには戸惑わざるをえず、ただただイコからやってくる話を後追いする。
「アーギルシャイアの臍帯って言うんだよ。その、動物由来の禁戒薬物―――麻薬の通称がさ」
「そうなの?」
「聞いたことないかな。<終末を得る物語>に語られるならば、臍の緒喰らいて呼吸するアークレンスタルジャット・アーギルシャイア―――繁栄の根源たる滅びの結果・其は禁忌と等価たる。超越者が微睡み、子宮の中で見る夢……それっくらいブッ飛んじゃえるブツなんだと。神話の超人ならいざ知らず、人の身じゃあ自由落下の満喫と引き換えに地べたのシミになっちまわぁな」
「うえ。こわ」
思わず、ひどく端的な感想が口を衝いたのだが。
イコは、やたら深刻そうに口数を差っ引いた。
「こわいか。うん。そうだよね」
「……どうしたの?」
「いやなに。俺もそうだなって、思っただけよ」
「みんなそうでしょ」
「そうなら良かったこともあったろうねえ」
「あったろうね、って……?」
思わぬ異論に目を剥くが、彼は肩を竦めただけだった。はずみで鎖骨に乗っていた髪の束がひとつ落ちて、ぼたっと垂れ下がる。
「脱線してごめんな。で、三年前に戻っけど。そーやってシゾーさんがいねぇわ、いねぇせいで上層部も何となく歯車狂っちまうわで、身構えが疎かになってた俺らは、隙ありって武装犯罪者にとっちめられちまった。それが、三年くらい前に、火蓋を切って落としてくれた発端」
「え?」
「弱ってりゃ獲物にされて当然だろ。あの頃はまだ、こーんなデッケェ旗司誓じゃなかったんだ……まあ、でっかくなりかかってた最中にいた、ってとこか。付きかかった脂肪に筋肉が追い付かなくてプルプルしてた仔牛みたいなもんよ。猶更狙われるわな、そりゃ」
そこにきて、イコが顔を顰めた。苦虫を噛んだように―――さらに、まさしく噛んだ飯の中に苦虫がいたかの如く、キルルのいる反対方向へ唾を吐く素振りをしてみせる。
「あのボンクラども、欲をかきやがって。獲るもの獲るだけじゃなく、人まで攫ってった。それが―――ザーニーイさんだったんだ」
「……手強い人たちだったのね」
「つーよりか、ものっそい運悪く、当時の俺らの弱みをひと突きされたんだ。今みたいな組織立った連携じゃなくて、ゼラの御大の火力ありきの戦法に頼りっきりになってたのさ。まあ、そうしようにも頭数が足りなかったろうし、この生業で出し惜しみされちゃたまらない能力だったのだって違いなかったけど。とにかく、ひとり箱庭まで足を延ばしてたから、てんでパワーがからっきしで……」
「シゾーさんを連れ戻しに?」
応答は無かった。こちらを暗に肯定する意ではなく、それを裏付ける根拠の持ち合わせがないといった風だが。
渋面をぶり返して、イコは続ける。
「ザーニーイさんの救出について、<彼に凝立する聖杯>としての判断は分かれた。見捨てるのは論外だとしても、まずは旗司誓の立て直しが先ってなったんだけど。そしたら、頭領してたシザジアフ翁が旗司誓を辞めちまって」
「はあ?」
「辞めちまって、単身・捨て身で、武装犯罪者たちのアジトに特攻した」
受け入れるのにしばらくかかり、理解するのにもう何秒かをすり潰して、更に考え込むこと二分ばかり。
迂闊に言ってはならないことだろうが。キルルは、思案声を呆れ声に変えた。
「死んじゃうわよ、それ」
「死んじゃったのよだから。それ」
「はあ?」
「はあ? だわな。実際、俺もそう思ったよ。私情だてらに、度し難いポカやらかしやがったってね」
イコはキルルに追従するように声を呆けさせていたが、それでも取り成そうと諦めていなかった。温度が低い熱弁を、のろのろと繰り出してくる。
「まあ差し迫ってたしーって、今にして感じるよ。いくら親父だからって、頭領職のまま単独行動するわけにもいかんだろーし。応援を呼ぶにしたって、それこそ目途が立たなかったろーし……あの頃は戒域綱領も無かったから、互助って理念も薄くて。ドジだろうが罠穴だろうが、踏むしかなかったんだ。そこまでドン極まりなら、むしろ自分だけ生きながらえようとするよりも決断は易かったろうさ」
「うーん」
「結局、戻ったゼラの御大が泡食って追いかけてって……しゃあなしに俺たちも重い腰を上げて、やっとこさ現場に着けた時にゃあ、焼け落ちた武装犯罪者の巣のそばで、ゼラの御大はパックリ頭割る大怪我。ザーニーイさんも、ぶっ倒れてた。残りは全員お亡くなり。マジモンの血の海だったよ。そこから這う這うの体で出てこれたらしいのが、その二人ってわけ。で、」
そこでイコが、握った指がある面を上にした右の拳を、キルルに差し出してきた。
それを開いたところで、空手には違いなかったが。
「気絶したザーニーイさんが握り締めてたのが、髪の毛まみれの耳ひとつ」
「は?」
「左の耳。シザジアフ翁の」
開いて結んでを終わらせて、手を引っ込める。
ぐうの音も出せないでいるうちに、イコがさっさと残りを口に出す。
「んで、目が覚めたザーニーイさんが、シザジアフ翁は死んだって証言した。だから頭領を継いだ。あとあと、そう聞いた」
「ど、どういうこと?」
「頭蓋骨って丸いだろ? だから脳天に向かって力任せに刀剣を振り下ろすと、そこから滑落した斬撃が、耳や鼻なんかの出っ張った部分を削ぎ落とすことがあるんだ」
「げ」
「だから多分、そんなこったろうよ……頭領を連れて無茶やった翁は、そうやって負傷を重ねて死んだんだ。俺みたく、この空気の中でも髪が長いままでいられる奴は、これで耳や首根っこをカバーして防御のひとつにしてるんだけど、あの人はそうじゃなかったみたいだからなぁ。えれぇ目を引く、錆びた雲色の髪でね」
「錆びた雲?」
「うん。蒼褪めた灰色ってーか、そんな色味でね。ゼラの御大は、そう言ってた。いっつもターバンしてた。もったいねぇの」
呻いて両耳を押さえたままのキルルを見やりながら、イコは自分の髪の房を持ち上げてみせた。髪どうこうはもとより、年季の入った旗司誓は、至極分かり切ったことのように稼業を語るが、気前よく聞いておける基準が違う。
キルルの様子を見て、それでも昔話の続行を拒絶しているでもないと値踏みしたらしい。イコは、思い描いていた過去を追うように上にやっていた視線を引き戻し、髪を指から落っことした。
「兎にも角にも、だ。ゼラの御大はドタマかち割られてたから、しばらく魔術も使えなくて、あの世とこの世を行きつ戻りつ。頭領―――ザーニーイさん―――は、それよりはまだ早く起きられるようになったんだけど、だからどうしたってレベルの五十歩百歩。武装犯罪者に痛めつけられた上に、現頭領は組織裏切って死ぬ・副頭も人事不省・新頭領はフラッフラの三拍子揃い踏みした極悪シャングリラにいるなんざ面目丸潰れだって、辞めてく奴も続出よ。さすがに直後から副頭がツァッシゾーギを断念して、こっちでもろもろみんなひっくるめて代行し出してくれてたから、やっとこさ旗司誓は運営できてた。むしろ箱庭で練られた頭がワン・マン・トップになったことでベクトルがばらけることがなくなった分、儲けとしちゃ跳ね上がってたんじゃないかな。ええと、意味通じる?」
「ゼラさんやザーニーイの代役として、シゾーさんが役目をこなすようになったのよね。しかも、ふたりが共倒れになっていたから、いがみあってた状態が解消された上、いい具合に外で荒波に揉まれてきたシゾーさんだけが筆頭になってくれたおかげで、組織の動き方や在り方が刷新された……それについていけない古い人は辞職した、と」
「そうそれ。この時点で、がさっと旗司誓の面子が総入れ替えっぽくなって、年長者がほっとんど抜けちまった。それで、いったん三年前のは一息ついて、えっちらおっちら窮状を打破していこうやって感じになったんだけど……」
自分も一息つくように、何拍かを挟んで。
―――それが休息よりも、心構えを決めるまでの猶予を欲しての間だったことに気付かなければ、忍び寄っていた剣呑さも知らずにいられたのか。そう思わないでもないが。手遅れだ。
イコが話し始めてしまっている……
「それからしばらくして、ちょっと落ち着いてきたかなって頃だったかな―――頭領が、暗殺されかかった。キティ・ボーイ、頭領のコレ見たことある?」
つい、と右の首筋を刎ねるような手つきを片手にさせてみせたイコに、キルルは頷いた。しばし迷ってから―――付け足す。
「稲妻の咬み痕」
「うん」
頷き返して、イコが続投した。
「あれさ、その時の代償なのよ。ゼラの御大のド魔術でも繋ぎ切れなかった、おっそろしい致命傷。実はその前から、頭領は絶不調でさ。仕事はしてたけど、寝床から起きられない日も、かなりあって。それも、毒を盛られてたせいなんじゃないかって」
「そんな。誰に?」
「…………」
「なんで?」
「…………表面上は、武装犯罪者の残党がやった、執拗な意趣返しってことで落ち着いた。水面下では―――……」
言いよどんで。
よどむごとに汚らわしさが増してしまうことこそ嫌うように、口早に残りを言い遂げる。
「副頭がやったんじゃないかってのが、専らの噂だった」
「シゾーさんが?」
「筺底を通じたルートから秘密裏に武装犯罪者へ依頼して、タイミングを見計らって急襲させ、本当の狙いだった人攫いを欺瞞したんじゃないかって。目論見が外れて目の上のタンコブを切り取り損ねちまったから、自分への警戒心が解けた頃に、はーいレッツ・チャレンジ・ワンモーア。さあさあ良い子(他称)のみんなーあ、準備はもとより覚悟もイイかなー♪」
「そういう風に言うことじゃないでしょ、それ」
「こういう風にでも言わないと、やってらんないよ。ついでに、副頭とゼラの御大が組んでるって噂も根強く残ったとくればね」
「なんでよ? ゼラさんも負傷したのに?」
畳み掛かけるように遮るのだが、イコは気にした様子もなく、のらりくらりとキルルを一蹴する。
「口さがない奴は、なんだって言うさ。噂にゃ尾鰭が付きもので、くっついた以上、水面下ならヒラヒラどことなりと泳いでいくもんなの。まあ、噂は、それはそうなんだけど、あやしいのがここからで」
一息で告げてから、軽く両手を打ち払う。閑話休題をお開きにしたと示したのだろう。
「当の三人が、それから一切そのことについて触れないんだ。まるでなかったことみたいにケロッとして、まるっきり無視よ、ガン無視……でもって普段はあの三人、昔馴染みの和気あいあいとくる。しかも、頭領が調子を取り戻してから、あれよあれよと<彼に凝立する聖杯>はこーんな大所帯に変転して、てんやわんやの目まぐるしい上昇気流に錐揉みにされるばっかりで、ぼーっと昔のことに思いを馳せる暇も無くなっちゃって。狐につままれてる気分がしてるんだよ、俺も―――あれ、あの事件は、三年前にあったんでよかったんだっけ? って」
言い終えて、イコが口を閉ざした。実際に若いのか、単に若作りなだけか分かりかねる相貌にあって、そこのきわに刻まれた皺だけが深い。斜め上にある笑窪より、使う頻度が格段に多いのだろう。不幸なことに―――今回も。
ひたひたと足元に寒気をもたらしてくる不安感と静寂に抗うように、声を滑り込ませる。
「シゾーさんが下剋上なんて、くだらないデマだわ」
「うん。そう思うよね」
「だって、……こないだだって、ザーニーイのために必死に駆けずり回ってたし」
「うん。そう見えるよね」
「例えばそれでさえ、頭領職を引き継いだ時に波風立てないために、今も忠義面をしてるだけかもって話になっちゃうの?」
「なっちゃうねえ」
「大体にして、ザーニーイを攫わせる意味もよく分かんない。本当に目の上のタンコブなら、切り落とすなら、すぐにでもって―――殺してくれって依頼するんじゃないの?」
「まずは武装犯罪者に因る仮説その一、穀を潰す以外に能のない穀潰しどもだから依頼内容をつぶさに覚えとけなかった。ついで仮説その二、自分第一の根無し草だからコロッと気が変わった。そして副頭に因る仮説その三、殺すならひと思いに自分の手で首チョンパしたかった。更に仮説その四、どうせ殺すならゲスの群れにたっぷり嬲らせて辱めて涙袋を一滴残さずガス欠させてから。でもって仮説その五、……以降はめっきりイヤんバカんで済まされない見本市になるけど、エトセトラのオンパレード、聞きたい?」
「おかしいわよ」
「うん。そう思うよね」
「そんなの、どれだっておかしい……」
「うん。そう思う。だけなんだよね。俺も。嘘なのか、真実なのか、誤謬を含むのか……浅はかに信じても、深読みして疑っても、結局は同じ―――」
静かなしたり顔も、潮時だと感じたらしい。懐疑的な色を閉め出すように、イコが顔面を力ませる。
「せめて、俺より古株がひとりでも残ってくれてたらなって思うよ。頭領と副頭とゼラの御大の三人について、高い所からの見晴らしを持った人が、もう誰一人として残っていないんだ。俺は当時マジモンのペーペーで、指図されるまま矢面を走り回るのがせいぜいのヒヨッコに過ぎなかったから、それこそあの人たちの役割以外での結びつきなんて知らないし。だからこそ、千差万別の偏見がこうまで野放しにされていることが、そらおそろしくもあるんだよ。エニイージーなんかは、それこそ独断まがいに一連のことを見ちまってるし……ぶっちゃけ、かくいう俺だって、とっくに毒されてんの。ゴシップ好きが事あるごとに自分流のカスタマイズして蒸し返すもんだから、それと混ざり合って虚実もへったくれもあったもんじゃないワヤのクチャさ」
イコは、さも嫌そうに唾棄した。好き放題におかずにされることに憤慨しているのだろう。当時を知る者でありながら、かつ核心の当事者ではない彼は、確かに食いつくには絶好のさかなではある。だからこそ―――たまったもんじゃないと、その目元に差された険が物語っている。
その時だった。イコが呟く。
「あの三人が……―――」
そして、時間をかけて言い直す。
「あの三人は本当に、双頭三肢の青鴉を希って、ここにいるのかな?」
彼は、背後を見やった。実際に凭れている厩舎の壁面ではなく、その向こうの―――堡塁に掛けられた旗幟の記憶を追って。旗司誓にとって、唯一かけがえのない完全無欠、かつ絶対の大義たる源泉……いわゆる神域を。それを目指すのが旗司誓たる存在理由であると、彼は言うが。
目指すことは出来る。同じように、目指すふりも出来る。
旗司誓の内心がどちらであっても、或いはそれ以外であっても、知ることは出来ない。信じることが出来るだけだ……また同様に、疑うことも出来るだけだ。
(それだけなのに……それがなんて大それたことなんだろうかって、思えてしまうように、あたしはなってしまった)
キルルは、歯噛みした。
「……ゼラさんは、」
「うん?」
「ゼラさんは、ずっとあんな感じなの? その……イコさんが知る限りは」
「まあ、そうだったと思うけど。俺から関わることもないし」
「ザーニーイも、シゾーさんも?」
「まあ頭領は、頭領になってから最近は、あんな風だよ。副頭については、副頭に就く前なんて知らねぇもん」
「え?」
「だぁから。あの人、ぱたっと帰ってこなくなってたから、俺がここで働き出した時にはもう居なかったんだよ。顔の形も人となりも、見ず知らず、さ。小耳に挟むやり取りに感化されるまま、いかれぽんちにしたってべらぼうに傍迷惑な馬の骨だなーとケチつけてたってだけで。初めて拝まさせてもらったときゃ、イメージと桁違いっつーか格違いっつーかだったから、そりゃもうぶったまげて目ン玉がホワイト・オア・ブラックよ。ゼラの御大に似ても似つかねぇ―――まあ当然だが、思っちゃ悪いかい?―――長身痩躯の薄ら暗ェ男前。しっかも当時、ヤニ臭ぇロン毛よ? ゲェだよゲェ。顔採用にしても趣味悪ィったらねーわな」
悪意なく、そっぽを向いて吐くふりついでに舌先を出して茶化してくるイコだが。
裏腹に、ぞわりと寒気に駆られて、キルルは背筋を聳した。
「……シゾーさんは、ゼラさんの養子なのよね?」
「そう言ってんじゃん。当の二人が」
虫の知らせではないが、きな臭いものを嗅ぎ取る。
古顔であるというイコでさえ、三年より前は知らない。のであれば、
「シゾーさんもゼラさんも、ここに来る前は、どうしてたのかしら?」
「どーしてたのかしらねーえ? なにせあの人らこそ、今じゃ<彼に凝立する聖杯>の最古老だからなぁ。浅瀬ノミ安全デスちっくなオーラがんがん出てっから、どっちとも立ち入った話したことねーわ。そこんとこらへん、他人の空似ながら、親子よねぇ」
「ザーニーイも、そのシザジアフってお父さんと似てた?」
「私生活で親子やってる時は似てた。酒の席で歌う時とか。それも多分、二人とも、ジンジルデッデ先翁から教わったからだろうけど」
「親子やってる時?」
「シザジアフ翁は当時、頭領。てことは、今の頭領は当時、部下。職分を果たす手前、ふたりは潔癖だった。あの人が親父なんて親し気にシザジアフ翁に呼びかけるなんて、見たことがない。気を張ってたんだろ。俺らが見ると、さっと上司と部下に戻ってた」
「……ふたりも、親子としては義理の関係なのよね?」
「だったと思うけど。あんま覚えねえや。みんな気にしねえもん。ここって、そういうとこだから」
悪びれるでもなく、あっけらかんと無数に認めるイコに。
ただただキルルは、疼く脳裏の奥底で理性が冷えていくのを感じていた。
(あの三人が口裏を合わせれば隠蔽できることが、ものすごく多いんだ。ここは)
名前が、本名であろうと、偽名であろうと。名乗ったそれを信じる者がいるならば。
素性が、本物であろうと、見せかけであろうと。表明したそれを疑う者がいなければ。
―――心が、本心からであろうと、疑心を含もうと。その実在を、証されることがない以上は。
自ずからすべては言葉となる先より、他者への事実となる。
他者への事実は、瞬間から現実となる。
現実は毎秒、過去となる。
過去は真実として、記憶に降り積もる。
堆積して底が見えなくなり、たとえそこが凍結した湖面だろうとも、訳知り顔の者が足の裏は地面だと主張すれば、他者からは疑いようがなくなるまで。
(それは……とてつもない綱渡りなんじゃないの?)
リスキーだと思えた。ハイリスクにしても高すぎる。
ただしその綱が、命綱だったとしたら。どんなタイトロープだろうが、渡ることを試しもせず死を享受できる殉教者が、どれだけいるだろう?
そして渡り始めてしまったら最後、踏み外す瞬間まで均衡を図りながら進んでいくしか、残されていないのではないか?
(あたしだって―――こうして、殺されかかっても、後継第二階梯でいるんだから……)
その、不意のことだった。
「どったの? 養い子って、あんま馴染みない?」
急にやってきた奇抜な心配りに、目が泳ぐ。
「ええと。よく分からなくなってきて」
「そりゃ大変だ。どの辺がなのか言ってみ? 力になるよん」
「シゾーさんと、ゼラさんと、ザーニーイは、……」
その三人について、またしても口にしかけて。
なんとも言い難い気疲れを覚えて、投げやりに続きを捻り出した。
「どうして、ここにいるんだろ?」
「いるもんはしゃあない」
えらい言われようだと思えたが、言い様は真剣だった。
目をぱちくりさせてイコを見やると、やはり彼は落ち着き払った真顔で見返してきた。
「エニイージーも、アレルケンも、俺も、ここにいる。エニーの野郎は骨抜きにされて、アレルの野郎は……まあ今となっちゃそれを自問自答してる頃だろうし。俺は―――頭領からの受け売りだけど―――単なる運と縁とタイミング。例の三人もそうだろうさ。見合うだけの理由か、見合うだろうって当て推量か、見合わせてやるって意気込みか、見合わせなけれならぬって使命感か、まあ見合ってるしなぁーってだらけか―――あるのさ。なにかが。今のこれをやめる心変わりをさせないものがね」
矢先。
片方の掌を受け皿に、もう片方の丸めた手でそれをぽんと打って、イコが声を間延びさせる。
「あ。あー」
「なに?」
「ここにいるのは、やっぱりあの三人も、恋してるからだったりして」
「ええ?」
「盲目って意味でよ。言ったっしょ? がむしゃらでひたむきなしつこさだけで、理想通りに仕立て上げた超人を、ただ追い求めていける自家発電しちゃってるのよ。しこたま身勝手に、相手の欠点に目をつむるか、欠点を補完してね。お年頃を過ぎてまで、いじましいったらねーわな」
そこにきて―――
キルルは、失笑してしまっていた。
「まるでうちのお母様みたい」
「んー?」
「お父様を完璧な人だと思い込んで、ただの恋の病にかかるような凡人に堕したのは魔物のせいだって旅団ツェラビゾに嵌り込んで。それでも補完できない現実があるんだと思い知った時、補完してくれそうな見込みがあるイヅェンに目を付けた。あなたはお父様のような王になるって刷り込んで、どんどんおかしくなって……」
吐き出し始めてしまえば、止まらなくなった。
黙っていることは出来た。ただしそれは、苦しさを堪えての上で。沈黙も苦しく、吐逆することもまた苦しいとすれば―――終わるまで嘔吐するしか、苦しさから逃れるすべはない。
うそ寒い気配を察したのか、イコの表情からも、兄貴風を吹かせていたお人好しのゆるみが抜けた。このまま青ざめるのか―――だとしても、それを見ながら、言葉が止まらない。
「まさか本当に王様になる見込みが出てくるなんて、お母様の妄執が現実を曲げたみたいで気味が悪い。聞いて。あたしね、殺されるかもしれないんだって」
(ごめんね)
キルルは、謝っていた。
「もう巻き込まれて殺された子がいるかもしれないんだって」
(ごめんなさい)
声が途切れ、涙が浮かんでくる。
(そうか―――あたしは、これを全部、忘れていたかったんだ)
例えそれが、イーニアもろともであろうとも。
卑しい話だ。エニイージーと向き合った時とは比較にもならない。これこそが卑しい話だ。
(こうして忘れてきたことが、これまでどれだけあったんだろう? ……)
そして―――そのどれもを、思い出すこともないまま過ごす時間が、あとどれだけあるのだろうか?
キルルには分からない。それでも、その残り時間には違いない幾許かの時間を、イコはキルルと同じ秒数だけ過ごしてくれた。
「聞いたよ。聞いた」
「ありがとう」
そこで、黙考も僅かに、続けてくる。
「オヒメサマなのに、あんまし幸せそーじゃないのね」
「うん」
「俺ぁキティ・ボーイばっか知ってっけど。好きよ。うん。オヒメサマじゃないとこ」
「うん」
「でも……もう、オヒメサマでいるしかねぇもんなぁ」
「うん」
それからしばらくの間、喋るでもなく、一緒に過ごした。眼窩に溜まろうとする違和感を食い止めるのに、呼吸の数を目安として、必要なだけの毎分毎秒を数える。
キルルがやっとこさ声を出せたのは、そのあとでだった。
「遅いね。エニイージー」
「遅いねぇ。オニーチャンと、お迎え行っちゃおっか?」
「うん」
さっきと同じ構図で連れ立って歩き出した流れで、なんとはなしに彼の片手を取る。
イコは、やや驚いたようだが。握り返してきたのは、彼の方が先だった。
ついでに、訊いてみる。
「でも、良かったの? イコさん。厩舎でのお仕事は」
「はは。水臭くなるにゃあ、ちょいと遅すぎだぁね。まーまー、良かったのー良かったのー」
おどけるような節回しで、歌うように。
「俺は、こうなったら、どこでのお仕事でも良かったのー良かったのー」
「え?」
「だからこうしてもー良かったのー良かったのぉよ」
「なにそれ。あは。おっもしろーい」
「ははは」
「あはははは」
ただ笑い合いながら、イコとキルルは曇天の下を歩いていった。乾涸びていた口の中の苦味に、ひとときは忘れた振りをしながら……少なくともイコが、共犯になってくれているうちは。
(ありがとう)
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