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承章
承章 第三部 第二節
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「だからよぉー。ガキの時分にゃ風呂で背中の流しっこしたりとか、でかくなってからは酒を酌み交わしたりとか。幾つになっても親子ってふたりだけで使い込む余暇が要るだろーし、それって義理のふたりでもそうじゃねえのって思っただけなんだってばよー。しかも愛弟子兼愛息子があとを守り、かつ待ってくれていた旅路を終えての、我が家でのことよ? 分かっだろー。お前は分かっかー? この気遣い」
「無駄遣いの間違いだろう。あの二人なら、自分たちだけで都合を付ければ、どれだけでも密会できる立場だ。部隊長第五席主席がどう振る舞おうが、浪費だよ」
「てやんでぇばっきゃろーオメー浪費に終わったことばっか重要視すんじゃねーの。無駄かもしれなくても使おうとする心意気が大事なのよ。そこチンケでどーすんだよ」
「て言うか、ちゃんと呑み込んでから話せ。子どもか」
「子どもじゃねーよ」
「カスが飛ぶ」
「飛ばねーよ」
「舌を噛む」
「噛ば―――ッ!」
「…………」
「……噛んだよ」
「素直か。そこ素直か」
「悪かねーだろ。よっしゃ」
「どうしてそこから勝ち誇れるんだお前。ハートの組成が小童か」
大食堂に入る前から、そんな口ごたえと毒舌は、しぶとく聞こえてきていたのだが。
ひょこっと顔を見せた二人連れに、カウンターを挟んだ相手へくだを撒いていた旗司誓―――イコらの上役であるゾラージャが、勝気な笑みをわずかばかり残したまま振り向いてきた。もっさりした揚げ物―――さすがにキルルは飽きが来ていたが、例に漏れずゲンコツ揚げのようだ―――を片手の先っちょに摘んでその肘をカウンターの上に引っ掛け、行儀悪く立ち食いしている。手元に皿は無かった。カウンターは、元々は料理の受け渡しにしか使われない境界であるので、気が早く皿を片付けにきたついでに話していたのだろうが。
見計らったかのように押し黙ってしまった、もうひとりの旗司誓へ。思わずキルルは声を上げていた。
「給仕のおじちゃん、喋れたんだ」
ぽけっとしてしまう。カウンターの、厨房側―――と言うか、厨房に収まり切らなくなった道具類の整頓場と言うか―――に立つ旗司誓とも、キルルは顔見知りになっていたのだが、彼が話しているのを耳にしたのは初めてだった。
そんなキルルに、イコはなにを言うでもない。ただ、繋いだ手をリードのようにして、キルルを連れて中に入る。
食堂にいる人影は疎らだった。昼餉の残り香がどころか、間食のそれさえ薄い。ちらほらとテーブルに点在する旗司誓たちも、やはり小腹を満たすよりは小休止することを目的にしている者が大半なようで、うたた寝どころかいぎたない鼾も丸出しに突っ伏して寝入っている者もいる。意識がある者の何人かは、談笑を失速させてキルルたちに一瞥をくれてきたが、多くはゾラージャに歩み寄るうちに散っていった。見たところ、エニイージーの姿も見当たらない……観察眼が素通りできるがらんどうの手前、かくれんぼでもしていない限り、実際いないのだろうが。日中なので天井の灯火輪に火が入っていないため、夜間よりもかえって中は暗がりになってしまっている。
ふたりして間際で立ち止まると、手振りだけでイコと旗司誓式の挨拶を済ませたゾラージャが、まずは疑問を投げてきた。打ち切った会話に次いで笑みを引っ込ませ、ただただ困惑している。
「なんでお手手取り合いっこしてんだ? お前ら」
「なんでだっけ? イコさん」
「さあ。ノリ?」
「なににノった? いや答えんでいい。万が一、俺までノりたくなったら敵わんし」
「ゾラージャさんも繋いでみる?」
「いや。いい」
「のりのりー。のりー?」
「そう誘わんでくれよ、嬢ちゃん」
「よく意訳できたっすね隊長。こんなネオタイプの誘い文句。天啓?」
ツッコむイコとくっつけた手をぶらんぶらん振ってみせるのだが、ゾラージャは人好きする困り顔に、困り笑いを塗り込めただけだった。
キルルはそれを見て、ふたつ歯形が付いていた揚げ物をぽいと口内に抛り込む放り込む隊長その人に、小首を傾げる。胸中、もやもやしたものがあった。カウンター越しの旗司誓へと、邪気無く恨み言を向ける。
「ゾラージャさん。給仕のおじちゃんと仲良いの? あたしが話しかけても、ちっとも話してくれなかったのに。てっきり、口が利けないのかしらって思ってたわ」
「ああ、まあ……」
「ねー、おじちゃん。あたし―――の名前は、もうさすがに知ってるわよね。キルルって言うの。おじちゃんは、なんて呼んだらいい?」
「やめといて、やめといて。やっこさんらも事情あっから」
先じて観念したかのように両手を仲立ちの型にしておたつくゾラージャに、厨房側に立つ旗司誓がだんまりを決め込んだまま、台拭きを差し出す。なにはともあれ指先を拭えと促しているらしいが、手拭いではないあたりに、先程までやり合っていたなりの微塵の遺恨は感じられた。もっとも、穿った見方をしているのはキルルだけのようで、ゾラージャ自身はなんの抵抗も見せずにそれで清拭を終えると、ぺいっと投げ返していたが。
「にしても。なんだ? 藪から棒に。キティ・ボーイのエスコート、今日はイコか? エニイージーは……ナニまさか今になって腸ただもれた?」
「もれてなさそうっしたけど」
「えー?」
「じゃっかんそこだけ諦めてないのは何でなんすか? っつか、隊長こそ、当のエニイージー見かけませんでした? 俺は臨時で預かってるだけで。塒行ってくるっつったきり、どこらへんの寄り道までほっつき歩いてんのか……」
そうしてイコが手際よく、釘を刺し終えると。
聞こえてきた声があった。
笑う声だ。笑い声ではない―――こちらを陰険に狙い、毒を込めた、暗器の鋲。
「……あン?」
小慣れた風に安穏を捨てたイコが、ぎろりと睨めつけたテーブル。
三メートルほど離れて、ひとり、そこにいた旗司誓―――旗司誓だと思えた老け顔の男が、嘲りを含んで浮ついた笑いを、くつくつと噛み殺していた。
「―――いや、不可抗力ってもんだろう。これは。なあ?」
邪まな皮肉をやんわりと臭わせる声色は、見た目に反してまだ若い。若いにしても、そこに沁み込んだ殺伐さは、昨日今日のものではなさそうだ―――痩せぎすの猛犬の、慣れた飢えのような。
「ケダモノに似てくるのは、飼い主の面構え―――とは聞いたことあっけどなぁ。身のこなしまで伝染っちまったたぁ笑えるぜ……こうまで見事に、尾っぽフリフリと。しっかも、キティ・ボーイ? ハッ、公衆の面前で、ここまで堂々と命令無視ときやがる。不可抗力じゃねえか? ミドリ連中が、いつだって笑わせてくれんだからよォ」
(みどりれんちゅう?)
はたと男の服装を見ると、その色合いは青色―――紺色か藍色が色落ちしたような色合いを基調にしていた。席に陣取ったままだが、こちらへ本格的に身体の正面を向けてきたので、それが一段とはっきりする。
その即座、
「行くよ」
ぐいと、繋ぎっぱなしの手を引かれる。無論のこと、イコだ。剣幕は凄めたままだが、もう食堂の出入り口へと半身を翻している。
「あと頼んます」
「野暮抜かせ」
場に残るゾラージャと、イコの応酬が、戦士の交わす合図にすげ替わっている。
突然の異変に撫でられた肌が粟立つが、キルルにはどうしようもなかった。引っ張られるまま、イコに続く。半ば駆け足で、廊下に出ようとして―――
直後だった。
ばンっ! ―――と、本を机に思い切り叩きつけたような音が、イコの前方から炸裂する。
「きゃっ!」
思わず悲鳴を上げてしまうが、歩を止めてしまったのは、そのせいではなかった。イコが立ち止まっている。それとて、驚愕して硬直したのではない。手前の出入り口を、ふたりの男が塞いでいた。
さっきの破裂音じみた物音は、出入り口の縁に立った男のひとりが、反対側の縁を蹴りやったせいだったらしい。元からドアなど開け放たれたままの出入り口だが……ハードルのように、真横へ蹴足を食らわせたままとなると、ただドアが閉められているよりも通り抜けるのに難がある。その、やたら頑強そうな短靴のわきに立つもうひとりが、いたぶる口調へと胴間声を落とした。
「おいおい、動物相手してっと、ヒト様への礼儀も忘れんのか? 失礼にしても度が過ぎるだろ。我らが隊長をシカトして、わき目も振らずにどこ行こうってんだ?」
「厩舎に決まってる。掃除して餌やりしたらウォーミングアップしてからの運動。そろそろ頃合いだ」
素知らぬ顔で、言い澄ますイコだが。
キルルは彼の背中越しに、対峙を固めつつある男たちを窺った。ズボンもシャツも仕立てが違うし、特に左の男の上着は虫食い穴がひどかったが、色だけは見分けがつかないほどよく似た青色だ。そしてそれ以上に、顔つきを粗削りする恫喝の雰囲気が同じだった―――例の、テーブル席の男と。
(隊長……と、その部隊の人?)
そのふたりが顎をしゃくって、わざとらしく声高に哄笑した。
「おい。手取り足取りのしずしずとしたお散歩の方は、これでお済みだとよ」
「だったら、これから俺らに付き合えよ? なあ。ウォーミングアップなら、こっちだって大事だろ?」
イコから盗んだ言葉尻を弄びながら、男の片割れが己の腰間から剣を持ち上げた。室内であることだし、無論のこと、抜剣されていないが……それを、イコの腰元のナイフへ、かちんと当てる。ナイフそのものは、明らかに雑事向けの小物だ。厩仕事に邪魔なので、それ以外は外していたらしい。
分かっていて彼らは、これ見よがしに喧嘩を売っている。面相をひねくれさせているのは、一方的な暴力を愛好する際の―――あるいは暴力に取り憑かれた者の、絶頂感だ。
(この人たちは……旗司誓なのにミドリのみんなじゃない)
エニイージーは、彼らからも、自分を手厚く庇護してくれていたのだ。
そのあたりで、きわどい波及を感じ取ったらしい外野が肩や背筋を厳つくさせて振り返ってくるが、そこからなお積極的に仲裁を買って出てくる者はいなかった。日常的な諍いが飛び火した範囲だと見くびられているだけであれば、まだこれから助太刀が望める可能性もありそうだったが……彼らが面の皮から強張りを抜く手際の良さを見れば、それが見込み違いだということは嫌でも知れた。
(一枚板じゃないことに、慣れてる顔だ―――)
みどり……あお……だけでは済まされない、色々な、色。色。色。顔色。
と。
「ちょいとちょいと、そこ勝手にオニーチャンの心配なんかしないの。キルルちゃん、ボーイは子どもらしく身の丈のことだけ心配しときなさい。ちびんないよーに、とかね」
わずかばかり横顔を振り返らせて、憎らしいほどの平常心から能天気な子どもだましをくれてくるイコに、キルルは息を詰まらせた。彼と自分では踏んできた場数に雲泥の差があるのは当たり前だが、素人目で見ても雲行きの悪さは尋常でない。汗ばんだ肌を軋らせるように、彼と握り合わせたままだった手に力がこもる。
「だって、」
「だってもへってもウンチもなーい。こいつらときたら、俺たちが騎獣を扱うエキスパート部隊だから、一目置かれるだけでなく優遇までされてんじゃないのってやっかんで、事あるごとに突っかかってくるだけよ。しっかも最近は、エニイージーが直々に勅命受けちゃったからねー。やーねぇー、ただでさえ妬み・嫉み・僻みが脳内でスクラム組んでるってのに、生身までつるんじゃう? どんだけ?」
「ざっけんなよ、飼育員の分際で!」
激昂した吠え声を食らっても、あくまでイコは意に介さない。鞘当てしてきた切っ先からも、つま先をずらす程度の所作で身を退かす。あえてそれ以上は追ってこないと見て、ぶつくさと刃向かいはしたが。
「なんなら、お前も一回あいつらを世話してみたらどうだ? 心が通い合えば、空っぽさに気付くだろうさ……その心無さの、へっぽこ具合にね。まあ、女に腰振るっきゃ考えらんねぇオツムにゃ、あいつらから尻尾を振ってくれるありがたみも分からんさな」
「腰抜けなりに妥当な言い返しだな。抜けてちゃ振れもせん」
背面からやってきたのは、嫌な粘りけを感じさせる反論と……じゃらりと武装を鳴らして立ち上がった物音と。
気だるそうに直立しただけで、詰め寄ってくるでもない。ただ、軽く片手で抱えた頭を振って見せる青の隊長は、その指の内側から、明確な侮蔑を込めてこちらを睥睨していた。牢番が、格子向こうから獄卒でも見やるつまらなさで。
「こっちも順序良く、腹でも立てればいいんだが、……やれやれ。こんなのが<彼に凝立する聖杯>の切り札とはねえ。不甲斐ないと言うか、情けないと言うか―――いや、」
そこにきて男が、初めてゾラージャを直視する。せせら笑いの静けさは同じだが、嘲る切り口は多少変わった。失望を捨て、感嘆を含んでいたのだ……優越者が、下等な者を見下げ果てた時に漏らす吐息だ。
「そちらさんのお神輿ともども、頼りねえったらありゃしねえ……ってとこか。これだから、綺麗なだけのお飾りは」
「あのなあ。こう長くなられちゃもーナニ言いてえのか、とんと目星がつかんよこのオッサンは。回りくどい言い回しからの根回しやめて、最短距離で腹の底まで直に来いや。どー思うドーオモウ言ってさえいりゃ悪口雑言を万倍に肩代わりしてくれる同類まみれの自称:女子どもかテメエは? イイ齢こいて恥ずかしげもなく向上心に欠けた慣れ合いでぐずぐずと傷を舐め合うのは、ちょいとまあ、いただけたもんじゃねえよ。絵にならん。っかー、だーもー、言わんこっちゃねえ」
苦しまぎれの提案か、あけすけな白状か。とにかく、無骨な気配を嫌気に煮溶かしながら、頭の傷跡を掻くついでのようにゾラージャが下出から―――紛りなりにも――――叱責を伸ばすのだが、相手は一切聞いていない。人数がいるだけ分があると考えているのか、煩わしげながらもこの手の話を披露する機を逃したくないだけか、ねっとりと不平を貫き通してくる。
「知らぬ存ぜぬとは言わせねぇ。そちらさんのお神輿、またしても表向きはとっぷり筆仕事と決め込んで、裏じゃ日中夜ずーっと寝込みっぱなしって話じゃねえか? 謳い名や功名はいざしらず、ひ弱なポンコツにも程があるぜ。いっそ腐り落ちてくれりゃあイイものを、毎度毎度、飽きもせず……いや、違うか」
「ああそうだ、違うのだきゃあ明々白々だ。頭領はその通り、月極めで山盛りのデスクワーク片付けてるだけだからな。悪ふざけにいちゃもんつけるにしたって、図に乗った言いがかりも大概にしやがれ」
「順番だよ。違うのは」
「ああ?」
辛抱溜らずといった風体で焦れ、好かない様子を際立たせるゾラージャだが。
それは相手こそだったようで、うんざりと口論のテンポを落とす。さも心外そうに。
「いやなに。飽き飽きしたのは、こっちが先だった筈でね……見切りをつける順番は、間違えるとおかしいことになる。だろ? 俺らだって恩義はあるんだ。対立するにしても、敵対したくはない。反目しあうのも……御免だ。だから病弱ちゃんにゃあ、ぽかぽかの陽だまりでぬくぬくと楽隠居させてやる代わりに、表舞台から引っ込んでくれってだけさ―――前のようにな。稼ぎと楽しみを伸び悩ませるような殺生な平和なんざ、こちとらいい加減糞くらえなんだからよ」
「お前らの気っ風は、強い酒と同じだ。病みつきになるほど嗜むもんじゃねえ……適量を使いこなせれば万能だし気分良くいられるが、体質的に合う合わんが分かれるし、長い目で見ると長持ちしない内臓から壊れる。まさかそれを、ないがしろにされていると思っちゃおるまい? ゼラ・イェスカザは、副頭領を辞したんだぞ―――それが最適だと、彼が認めた!」
「ハっ! それこそ、そもそも見る目がねえ証拠だ。譲る跡目がお門違いだろうがよ……あァア、俺たちゃとっくに、頭領って呼ぶ決心はついてんのになぁ? まあモチのロン、頭領じゃなく、ツァッシゾーギの旦那でも歓迎だ―――」
(この青い人たちは、)
キルルは、どうしようもなく、気取った。
(シゾーさんがザーニーイの副官に収まっているのが、気に入らない人たちなんだ。しかも、みんながそうじゃないことが、おかしいって信じて―――疑っていない。ただただ、それを思い描くうちに……知らず知らずのうちに、自分のいいように、思うが儘に―――)
―――恋をしている。
(恋?)
ぞわりと、総毛立つ。
恋をしている……信じて、疑わず、……愚かしくも、賢くはない、……恋をしている。
(こんな―――ものが、どれだけ……あるの? どれだけでも―――存在しているというの?)
刹那だった。
「君は虫、―――」
「え?」
聞き返したのは、自分だけだった。
答えてきたのは、……
「大なる虫、わめき絶えなく臓腑を喰む」
呪縛を編み上げた呪文と、それが成した魔術の発動だった。
ごワっ! ―――と風が軋轢を巻き起こし、静か過ぎる発破が破滅を招き入れる罅を入れた直後。食堂の出入り口にいた男ふたりが足元から引っ繰り返って、そのままイコとキルルを飛び越える高さで吹き飛ばされた。すぐさま自分もそうなることを悟って身を縮ませるが、跳びのいたイコがキルルを抱きとめる勢いそのまま、後方のゾラージャにタックルする。
「へぶっ!?」
どうやらイコから予期せぬ痛打を食らってしまったらしいゾラージャが悲鳴を上げたが、この場においては最もささやかな騒音と言えた―――ふたりに板挟みにされた隙間から、それ以上の阿鼻叫喚を見るしかない。どうやら、出入り口に近いところから同心円状に、あらかたが大気の津波に呑まれたらしい。室内にいただけの旗司誓たちも三分の一ほどは餌食になったようで、椅子の脚による踵落としが命中して哀れっぽく目を回している者から、寝ぼけ眼をこすって夢の続きを疑う者まで、壁際に行くほど窮屈にまぜこぜにされている。おおっぴらに亀裂が入ったものは見当たらないが、それでもガタつく程度で済まされた家具はマシな範疇だろう。キルルたちも、三人分の質量がダンゴになっていなければ浮かされていたに違いない。
(空気の上下が、一瞬で、入れ替えられた……?)
そして、一網打尽にされた狂騒がひとまず鎮火し、誰彼となく惑うように罵声がまろび出てきた頃。イコがキルルの前から身体をずらして、肩向こうを―――食堂の出入り口を返り見る。キルルも、しきりに鼻骨まわりをさすって鼻血を気にしているゾラージャと一緒に、そちらへ顔を上げた。
魔神を従僕させたゼラが、五指を広げた右手をこちらへ突き出して、左半身を軽く引いた構えを取り、そこにいる。あおられた黒髪の束だけが反動を殺せず、そこに結わえられた髪紐から、宝石を覗かせていた。微弱に発光するそれが、フラゾアインののっぺりとした顔皮に乱反射して、鬼気の浮き沈みを写し取ったかのような、熱を感じさせない不気味な斑紋を、よぎらせては消えていく。それに呼応したかのように……ゼラもまた、笑うでもなく、目を細め、ただ魔性を深めていた。
服従と圧倒を済ませた声音は成果に陶酔することもなく、だからこそ……練り上げられ、殺気ばんだ熱情がゆえに、告げられた。
「弁えたまえよ。小細工を要する小物ごときは、虚仮威しすら見せびらかすか」
散乱が収束すると、それも終わった。細められ―――獲物を呑み込む寸前の蛇のように黒目しか見えなかったゼラが、医者らしい冴えた吟味を眼差しに取り戻して、ざっと室内を視診する。真面に立っているのは自分らだけだが、総員あっても打ち身か打撲くらいで大した怪我人もいないらしい。まあ、真後ろからぶちのめされた例のふたりと、そのふたりに直撃されたらしい青の隊長とやらが最も深手と―――特に隊長は後ろ頭でも打ったのか完全に気絶しているように―――見えたが、多少長く見咎めただけで、ゼラは直接的な動きはみせなかった。誰かを診ることも、……魔術での追撃も、無い。いつの間にか、魔神も消えている。
場を好転させたのではない。暗転させたのでもない。場から転落させ、奈落へと駆逐した。人形を玩具箱へ投げ入れるように―――用済みとあらば、目障りとあらば、あるいは気まぐれだけであっても、……人間相手であろうとも、ところかまわず、それが出来てしまう。凄惨を布く邪悪があるのではない。禍々しくも―――ない。ただ、無力を強い平伏させ跪かせる理不尽を、独善たる逸脱を許されている、偉容の支配者。
(これが……練成魔士)
キルルは、戦慄こうとする奥歯ごと、その事実を噛み締めた。
(練成魔士―――だけじゃないかもしれない人)
ゼラ・イェスカザ。
今はその名前にすら絶望的になるしかない存在であろうとも。ここにいる。
キルルも―――ザーニーイも、シゾーも、あるいはそれ以外の誰も彼もが。いる。
と。
「びっ……くりしたーあ。寿命縮みましたよ。ゼラ主席」
惨憺たる有り様の中でも、カウンター向こうでのきなみ吹き散らかされた食器やら道具やらを、特に同情的に盗み見て。気忙しそうながらも、それでも真っ先に呼びかけたのは、ゾラージャだった。哀訴して温情を乞おうにも、あとの祭りと思えたが。
やはりそのようで、膠着を叩き割ったのと同等の手並みで、ゼラは迅速に断罪してくる。
「喧嘩と野次馬は全成敗。基本に忠実にこなしたまでのこと」
「慣用句よりも守備範囲はみ出てワイドっす。それ」
「縮んだ寿命については、つつしんで伸ばすよう個人的に養生なさい」
「喧嘩両成敗なら自業自得なのに、野次馬には自己責任。わーお。荷担者ドミノ倒し」
「ゾラージャ部隊長第五席主席。あなたの流儀にも問題はあります。部下に命令を守らせなさい」
「俺が守ってないだけです。中間管理職として隊長も頭イタイとこなんだと思うんで、とやかく責めんといてください」
すかさずイコが、名乗り出る。
常ながら飄々として情動が掴みにくいのはゼラもイコも似たり寄ったりだが、前者の方はまず間違いなく、すこぶる虫の居所が悪いようだった―――と言うか、控え目に言っても、堪忍袋の緒を切っている。話相手が切り替わるや否や、腹いせが物足りなかっただけにしては冷淡すぎる口ぶりで、刃物のように一閃してきた。突いて、仕留める鋭さで。
「では、君を責めろと?」
「そうです」
「檻の中で旗を待たせたいのですか?」
「いいえ」
「であれば、命令を守ればよろしい」
「ヤです」
「や?」
「嫌です。ひとりぼっちの女の子に見ず知らず決め込むことで守り通せるボロ雑巾なんざ、棒の先っちょに括りつけてブン回したところでゴミしか降ってきやしねえ。ンなもんを縁にしてなんぼのもんですか。お天道様が見てますよ。だったら俺ァここ辞めます」
「おいイコ!」
捨て鉢ともとれる即答に、ゾラージャが声を荒らげたが。イコはそれにすら異存はないと言わんばかりに、揺らがない。生意気な口から出任せでもなさそうだった。媚びる色のない瞳に宿る眼光もまた、揺らめくようなものではない。
「すんません隊長。俺、ここ好きでした。それだけが……心残りです」
「オイオイ、お調子者が調子外れの冗談なんざ飛ばすもんじゃねぇよ。オメーのギャグは爆笑がモットーだったろ?」
「笑えない冗句だとコケにするだけでいいかどうかは、隊長が判断してください。それか……もっと上から、判断を下ろしてもらうか」
ゼラがそれをどのように理解したのかは、分からなかった。
イコ自身も、もう誰を見るでもなく、独りごちる。それは転嫁でもなく、弁解でもなく、釈明でもなかった。
「俺は、これでいい。けれど、これでいいのは、俺だけか? <彼に凝立する聖杯>は―――本当に……このままいくのか? もうとっくに、その日が来てるぞ」
傍目から、放言にしても奇妙な強調符を、最後だけ残して。
それを受けたゼラの眉尻が引き攣ったのを、キルルは見た……ような気がしたが。それこそ、砂埃を噛んだ睫毛を弄っただけだったとしても分からない。
その頃には、ざわめきが大食堂の範疇を越えつつあった。もしかしたら逆流した空気圧が廊下を舐めつくしていったのか、あちこちから苛立った雑踏の右往左往やら派手なくしゃみやらが聞こえてくる。にわかに色めき立ってきた騒々しさを、低俗そうに横目で睨みやってから―――毛羽立った感情もそのまま、ゼラが物静かに一喝してくる。
「後継第二階梯をお連れしなさい。エニイージーなら図書庫です」
「向かいます。背に二十重ある祝福を」
とってつけたような追随を済ませて急くイコに次いで、キルルもまた大食堂を出た。
すると彼はきびすを返し、食堂のドアを閉める。
そうして衆人環視をざっくりとぶった斬ってから。イコが飛び込んでいったのは、廊下のはす向かいにはめ込まれた黒塗りのドアだった。言われるまでもなく、客間である。数日前、あそこでキルルは予期せぬ会食をしたのだ。わけも分からないが、とにかく彼を追う。
客間に入ると、動揺をモロ出しにしたイコが大の字になってぴったりと壁に張り付いていた。
なんで壁に……と思いはするが、要は自分より大きな存在に守られている安心感を欲してのことだろう―――信心深ければ神に向かって聖印でも切っているのだろうが、イコはその胸倉をただただ吐き気を抑えるように撫で下ろしている。がっくんがっくん膝を揺らし切ってから、白目を剥きかけていた両目にやっとかっとの理性を取り戻して、どうにかこうにか顎の下を手首でこすってみせた……あぶら汗と安堵が、ぶあっと毛穴を開かせたらしい。まだガタブルしているが、それは顎も手首も同様だったので、仕草として総合性は保たれていた。
「うーこわ。こっわぁ、ゼラの御大。マジ勝てっこねーわ……ご機嫌ナナメにしたって、スパルタに切り替えるんならヒントくらい前もってちょーだいよっつの。こちとら、神不知の崖みたく破られちゃ一巻の終わりだってのに。うっあキモい、見てこのサブイボ。ダイコンすれるぜ今なら」
強がりを捨てた途端に歯の根も合わなくなった上、心因性の息切れもひどい。蒼白の面貌で、喘ぎたがる口を横一文字に引き絞りつつ、まくった二の腕を見せつけてくるイコに―――
キルルは、どうしても同調できなかった。ドアを閉めてから、聞いてしまう。
「イコさん。辞めちゃうの?」
「辞めちゃうかねえ? まあ、その前にまず檻ン中かな」
あくまで牧歌的なのどかさで、嘯いてみせるイコだが。
「檻?」
「ゼラの御大が、檻の中でなんちゃらっつってたっしょ? それだよ。いわゆる、旗待ち……翻る旗を待つ、ってやつがあってね。旗司誓が内輪揉めした時の、まどろっこしいなりに由緒正しい裁判とでも言おうか―――私刑的な闇討ちから保護する意味もあるんだけど」
「檻で?」
「そう。対象者を檻に閉じ込めて錠前をかけ、錠前の鍵をつけた短剣を、檻の中に入れちまうの。檻から出てくるのは、降参の白旗を上げて粛々と罰を受ける側に立つか、あくまで旗幟を汚していないと潔白を訴えて汚名を雪ぐ側に立つか、腹を決めた時だ。疑われた時点でまかりならん、旗を折られたってなったら、気高く自刃しちゃえるってわけ……黙秘権ですら、自死を以ってしての矜持に委ねられてるんだぜ? はは。こうまで一貫してちゃ、笑うっきゃねーわな」
長広舌を遂げるうちに、口調は沈着していった。講釈好きは生まれつきだろうが、世間知らずにも理解される口上を探して整理するうちに、理知の火種がしっかり点いたのだろう。戦慄は痛手のように残っているが、憑りつかれる濃さではない。
その目を見上げながら、胡乱にキルルは囁いた。
「あたしのせいで、そんな目に遭わされてから辞めちゃうの?」
「こらこら。身の丈の心配だけしときなさいってのに。それともちびっちゃった? だからさっき便所に行っときゃよかったのよ。おシモの替えある?」
「はぐらかさないで」
「だからねえ、そーんなジュンスーイなお目目で見られてもね。このオニーチャンたら下世話なことばーっか達者なのよって言ったでしょ―――昔っからよ。これだけは」
「え?」
聞き返したのが軽率だったと、悟った時には遅かった。イコは、特に感情を交えず言葉を紡いだつもりのようだったが、その淡泊さこそが、ひどく自制を強いなければ語るに億劫なのだと露悪させていた。
「俺は、捨てられっ子でね。まあ、なかなか気のいい養い親だった。頭のキレに見どころあるって、寄宿舎がある都街の学び舎に、羽振りよく入れてくれたのよ。そしたらお定まりのように、イイトコの坊ちゃんどもに目をつけられちゃって。かったるいことに、これがまた色々とややこしくしてくれちゃったんだわコレが……んで、都街どころか故郷にもいられなくなった。それでも、見どころがあるって褒めてくれたのを忘れられなくて、―――偶然、ここにありついたんだよ。働いてさえいれば、好きに勉強していいって言われたから。ここならエルンクーを語っても、血眼になってくれるヘボどももいないし」
「だからイコさん、ジンジルデッデさんのこともあんなに分かって……図書室とか、色んなこと知ってたの……?」
「生き字引きになりたかったんだ。孤児院じゃ、持ちネタに隠し玉があるだけモテたからね」
軽口ついでにウインクをこちらへくれて、イコが無理に笑んできた。途方に暮れるのも、甘受し慣れた……そういった諦め顔で。
「ね? 下世話でしょ。俺にあるのは欲得だけよ」
「だけって、そんな」
「だけでいいのさ。だから―――頭領は特に熱心に教えてくれたし、なにより彼が伝えてくれたジンジルデッデ先翁の生き様は、俺に自信をくれた。閃きに頼らない知恵と、他人任せじゃない知識は、幸せになろうとして使う限り、順風に生きるコツになるってね。学ぶことを信じて良かったよ……少なくとも俺はそのおかげで、これからは流浪の用心棒なり、在野の教師なりやって暮らしていけそうだ。どっかの辺境でなら―――」
「辞めないで」
それだけは、言い切る。
キルルは唇を噛んで、噛み切る前に前に吐き出した。
「これが、あたしの今の精一杯の身の丈。お願い。辞めないで。―――だって、あたしなら、どうせ出ていくから」
イコが、絶句する。
その隙に、せめて言い終えなければならない気がしていた。なりふり構わず、懸命に口にする。
「誰からも望まれないまま、ここに来て。ここからも、誰にも望まれないまま、戻るしかないから―――ザーニーイだって、もう、首ったけな人がいるんなら……」
発している自分でさえ、声が聞き取れなくなっていく。理由は分かっていた。簡単すぎることだった。聞きたくなかったから、閉め出して五感を切りたがっている。
(こうまで、あたしは卑怯だ)
変われたと思えた思い上がりは、傲慢に違いなく。
忘れることで看過されることに甘んじていた思い違いは、傲岸に違いなく。
信じることも疑うことも見失った己に、軸は無く。
そうやってひとつふたつと今まで失ってきたのだとしたら、これから先も十重二十重に失いゆくことを止めることなど出来はしない。
こんな抜け殻が王になるなど、破滅を伝播させるようなものだ。だとしたら、―――
耳元でふと、唆された気がした。
「―――お姉ちゃんが、あたしの代わりに戻ればいい」
どうせ自分は、変われはしないのなら。
いっそ、その人が入れ替わってくれたらいい。
「後継第一階梯なんだから、望まれるまま玉座に座ればいいじゃない……そこに座った分、あたしに居場所を譲ってくれたらいいだけじゃない!」
か細い震え声だった筈のものが、大きく―――呼吸もまた荒くなっていく。見聞きしてきたすべてが膿んで、薄皮を食い破った。心が掻き毟られる。
「それが、どうしていけないの!? あたしは……あたしは普通に、遊んだり、楽しく盛り上がったり、それをしていたかっただけなのに! どうしてよ、どうして……あたしだけ、こうなっちゃったの? お母様にいいように狂わされてた、あのイヅェンですら、こうじゃないのに!」
言ってしまう。
そして、叫びが過ぎ去れば、叫んでしまった重苦しさを際立たせる静けさが残る。
それが氷解した時。イコから、ぽたりと落とされた言葉は、雨垂れのように続く。
「自分語りってのは、これだからね」
ぽたり……ぽたりと。ひとつ―――またひとつ。
「敵味方を増やすつもりもないのに、するもんじゃないんだ。取り返しのつかなくなるものを増やしてまで……するものじゃないよ」
そしてイコのそれは、雨垂れが水たまりに波紋を広げるように、ゆっくりと語られた。
「そうか―――そうだね。だから、あの三人も話さないのかもしれない。話すまでの、間……過程の混沌に、理由が、価値があるから」
敵。味方。増やす。
胸中に再燃した思いがある。
(その人に違いなかった筈の確かなものを、味方や、敵と……―――信じても、疑っても。分けて、隔てても。賢くも、愚かしくも―――両極は、どちらだって同じだから?)
そこに来て―――
ふと、キルルは固唾を呑んだ。
(さっきからずっと、こんな話してる)
正逆に位置しながら。同質であり、同一の。
今なら分かる。
ならば、いずれ、これは恋と愛の話なのだ。
「無駄遣いの間違いだろう。あの二人なら、自分たちだけで都合を付ければ、どれだけでも密会できる立場だ。部隊長第五席主席がどう振る舞おうが、浪費だよ」
「てやんでぇばっきゃろーオメー浪費に終わったことばっか重要視すんじゃねーの。無駄かもしれなくても使おうとする心意気が大事なのよ。そこチンケでどーすんだよ」
「て言うか、ちゃんと呑み込んでから話せ。子どもか」
「子どもじゃねーよ」
「カスが飛ぶ」
「飛ばねーよ」
「舌を噛む」
「噛ば―――ッ!」
「…………」
「……噛んだよ」
「素直か。そこ素直か」
「悪かねーだろ。よっしゃ」
「どうしてそこから勝ち誇れるんだお前。ハートの組成が小童か」
大食堂に入る前から、そんな口ごたえと毒舌は、しぶとく聞こえてきていたのだが。
ひょこっと顔を見せた二人連れに、カウンターを挟んだ相手へくだを撒いていた旗司誓―――イコらの上役であるゾラージャが、勝気な笑みをわずかばかり残したまま振り向いてきた。もっさりした揚げ物―――さすがにキルルは飽きが来ていたが、例に漏れずゲンコツ揚げのようだ―――を片手の先っちょに摘んでその肘をカウンターの上に引っ掛け、行儀悪く立ち食いしている。手元に皿は無かった。カウンターは、元々は料理の受け渡しにしか使われない境界であるので、気が早く皿を片付けにきたついでに話していたのだろうが。
見計らったかのように押し黙ってしまった、もうひとりの旗司誓へ。思わずキルルは声を上げていた。
「給仕のおじちゃん、喋れたんだ」
ぽけっとしてしまう。カウンターの、厨房側―――と言うか、厨房に収まり切らなくなった道具類の整頓場と言うか―――に立つ旗司誓とも、キルルは顔見知りになっていたのだが、彼が話しているのを耳にしたのは初めてだった。
そんなキルルに、イコはなにを言うでもない。ただ、繋いだ手をリードのようにして、キルルを連れて中に入る。
食堂にいる人影は疎らだった。昼餉の残り香がどころか、間食のそれさえ薄い。ちらほらとテーブルに点在する旗司誓たちも、やはり小腹を満たすよりは小休止することを目的にしている者が大半なようで、うたた寝どころかいぎたない鼾も丸出しに突っ伏して寝入っている者もいる。意識がある者の何人かは、談笑を失速させてキルルたちに一瞥をくれてきたが、多くはゾラージャに歩み寄るうちに散っていった。見たところ、エニイージーの姿も見当たらない……観察眼が素通りできるがらんどうの手前、かくれんぼでもしていない限り、実際いないのだろうが。日中なので天井の灯火輪に火が入っていないため、夜間よりもかえって中は暗がりになってしまっている。
ふたりして間際で立ち止まると、手振りだけでイコと旗司誓式の挨拶を済ませたゾラージャが、まずは疑問を投げてきた。打ち切った会話に次いで笑みを引っ込ませ、ただただ困惑している。
「なんでお手手取り合いっこしてんだ? お前ら」
「なんでだっけ? イコさん」
「さあ。ノリ?」
「なににノった? いや答えんでいい。万が一、俺までノりたくなったら敵わんし」
「ゾラージャさんも繋いでみる?」
「いや。いい」
「のりのりー。のりー?」
「そう誘わんでくれよ、嬢ちゃん」
「よく意訳できたっすね隊長。こんなネオタイプの誘い文句。天啓?」
ツッコむイコとくっつけた手をぶらんぶらん振ってみせるのだが、ゾラージャは人好きする困り顔に、困り笑いを塗り込めただけだった。
キルルはそれを見て、ふたつ歯形が付いていた揚げ物をぽいと口内に抛り込む放り込む隊長その人に、小首を傾げる。胸中、もやもやしたものがあった。カウンター越しの旗司誓へと、邪気無く恨み言を向ける。
「ゾラージャさん。給仕のおじちゃんと仲良いの? あたしが話しかけても、ちっとも話してくれなかったのに。てっきり、口が利けないのかしらって思ってたわ」
「ああ、まあ……」
「ねー、おじちゃん。あたし―――の名前は、もうさすがに知ってるわよね。キルルって言うの。おじちゃんは、なんて呼んだらいい?」
「やめといて、やめといて。やっこさんらも事情あっから」
先じて観念したかのように両手を仲立ちの型にしておたつくゾラージャに、厨房側に立つ旗司誓がだんまりを決め込んだまま、台拭きを差し出す。なにはともあれ指先を拭えと促しているらしいが、手拭いではないあたりに、先程までやり合っていたなりの微塵の遺恨は感じられた。もっとも、穿った見方をしているのはキルルだけのようで、ゾラージャ自身はなんの抵抗も見せずにそれで清拭を終えると、ぺいっと投げ返していたが。
「にしても。なんだ? 藪から棒に。キティ・ボーイのエスコート、今日はイコか? エニイージーは……ナニまさか今になって腸ただもれた?」
「もれてなさそうっしたけど」
「えー?」
「じゃっかんそこだけ諦めてないのは何でなんすか? っつか、隊長こそ、当のエニイージー見かけませんでした? 俺は臨時で預かってるだけで。塒行ってくるっつったきり、どこらへんの寄り道までほっつき歩いてんのか……」
そうしてイコが手際よく、釘を刺し終えると。
聞こえてきた声があった。
笑う声だ。笑い声ではない―――こちらを陰険に狙い、毒を込めた、暗器の鋲。
「……あン?」
小慣れた風に安穏を捨てたイコが、ぎろりと睨めつけたテーブル。
三メートルほど離れて、ひとり、そこにいた旗司誓―――旗司誓だと思えた老け顔の男が、嘲りを含んで浮ついた笑いを、くつくつと噛み殺していた。
「―――いや、不可抗力ってもんだろう。これは。なあ?」
邪まな皮肉をやんわりと臭わせる声色は、見た目に反してまだ若い。若いにしても、そこに沁み込んだ殺伐さは、昨日今日のものではなさそうだ―――痩せぎすの猛犬の、慣れた飢えのような。
「ケダモノに似てくるのは、飼い主の面構え―――とは聞いたことあっけどなぁ。身のこなしまで伝染っちまったたぁ笑えるぜ……こうまで見事に、尾っぽフリフリと。しっかも、キティ・ボーイ? ハッ、公衆の面前で、ここまで堂々と命令無視ときやがる。不可抗力じゃねえか? ミドリ連中が、いつだって笑わせてくれんだからよォ」
(みどりれんちゅう?)
はたと男の服装を見ると、その色合いは青色―――紺色か藍色が色落ちしたような色合いを基調にしていた。席に陣取ったままだが、こちらへ本格的に身体の正面を向けてきたので、それが一段とはっきりする。
その即座、
「行くよ」
ぐいと、繋ぎっぱなしの手を引かれる。無論のこと、イコだ。剣幕は凄めたままだが、もう食堂の出入り口へと半身を翻している。
「あと頼んます」
「野暮抜かせ」
場に残るゾラージャと、イコの応酬が、戦士の交わす合図にすげ替わっている。
突然の異変に撫でられた肌が粟立つが、キルルにはどうしようもなかった。引っ張られるまま、イコに続く。半ば駆け足で、廊下に出ようとして―――
直後だった。
ばンっ! ―――と、本を机に思い切り叩きつけたような音が、イコの前方から炸裂する。
「きゃっ!」
思わず悲鳴を上げてしまうが、歩を止めてしまったのは、そのせいではなかった。イコが立ち止まっている。それとて、驚愕して硬直したのではない。手前の出入り口を、ふたりの男が塞いでいた。
さっきの破裂音じみた物音は、出入り口の縁に立った男のひとりが、反対側の縁を蹴りやったせいだったらしい。元からドアなど開け放たれたままの出入り口だが……ハードルのように、真横へ蹴足を食らわせたままとなると、ただドアが閉められているよりも通り抜けるのに難がある。その、やたら頑強そうな短靴のわきに立つもうひとりが、いたぶる口調へと胴間声を落とした。
「おいおい、動物相手してっと、ヒト様への礼儀も忘れんのか? 失礼にしても度が過ぎるだろ。我らが隊長をシカトして、わき目も振らずにどこ行こうってんだ?」
「厩舎に決まってる。掃除して餌やりしたらウォーミングアップしてからの運動。そろそろ頃合いだ」
素知らぬ顔で、言い澄ますイコだが。
キルルは彼の背中越しに、対峙を固めつつある男たちを窺った。ズボンもシャツも仕立てが違うし、特に左の男の上着は虫食い穴がひどかったが、色だけは見分けがつかないほどよく似た青色だ。そしてそれ以上に、顔つきを粗削りする恫喝の雰囲気が同じだった―――例の、テーブル席の男と。
(隊長……と、その部隊の人?)
そのふたりが顎をしゃくって、わざとらしく声高に哄笑した。
「おい。手取り足取りのしずしずとしたお散歩の方は、これでお済みだとよ」
「だったら、これから俺らに付き合えよ? なあ。ウォーミングアップなら、こっちだって大事だろ?」
イコから盗んだ言葉尻を弄びながら、男の片割れが己の腰間から剣を持ち上げた。室内であることだし、無論のこと、抜剣されていないが……それを、イコの腰元のナイフへ、かちんと当てる。ナイフそのものは、明らかに雑事向けの小物だ。厩仕事に邪魔なので、それ以外は外していたらしい。
分かっていて彼らは、これ見よがしに喧嘩を売っている。面相をひねくれさせているのは、一方的な暴力を愛好する際の―――あるいは暴力に取り憑かれた者の、絶頂感だ。
(この人たちは……旗司誓なのにミドリのみんなじゃない)
エニイージーは、彼らからも、自分を手厚く庇護してくれていたのだ。
そのあたりで、きわどい波及を感じ取ったらしい外野が肩や背筋を厳つくさせて振り返ってくるが、そこからなお積極的に仲裁を買って出てくる者はいなかった。日常的な諍いが飛び火した範囲だと見くびられているだけであれば、まだこれから助太刀が望める可能性もありそうだったが……彼らが面の皮から強張りを抜く手際の良さを見れば、それが見込み違いだということは嫌でも知れた。
(一枚板じゃないことに、慣れてる顔だ―――)
みどり……あお……だけでは済まされない、色々な、色。色。色。顔色。
と。
「ちょいとちょいと、そこ勝手にオニーチャンの心配なんかしないの。キルルちゃん、ボーイは子どもらしく身の丈のことだけ心配しときなさい。ちびんないよーに、とかね」
わずかばかり横顔を振り返らせて、憎らしいほどの平常心から能天気な子どもだましをくれてくるイコに、キルルは息を詰まらせた。彼と自分では踏んできた場数に雲泥の差があるのは当たり前だが、素人目で見ても雲行きの悪さは尋常でない。汗ばんだ肌を軋らせるように、彼と握り合わせたままだった手に力がこもる。
「だって、」
「だってもへってもウンチもなーい。こいつらときたら、俺たちが騎獣を扱うエキスパート部隊だから、一目置かれるだけでなく優遇までされてんじゃないのってやっかんで、事あるごとに突っかかってくるだけよ。しっかも最近は、エニイージーが直々に勅命受けちゃったからねー。やーねぇー、ただでさえ妬み・嫉み・僻みが脳内でスクラム組んでるってのに、生身までつるんじゃう? どんだけ?」
「ざっけんなよ、飼育員の分際で!」
激昂した吠え声を食らっても、あくまでイコは意に介さない。鞘当てしてきた切っ先からも、つま先をずらす程度の所作で身を退かす。あえてそれ以上は追ってこないと見て、ぶつくさと刃向かいはしたが。
「なんなら、お前も一回あいつらを世話してみたらどうだ? 心が通い合えば、空っぽさに気付くだろうさ……その心無さの、へっぽこ具合にね。まあ、女に腰振るっきゃ考えらんねぇオツムにゃ、あいつらから尻尾を振ってくれるありがたみも分からんさな」
「腰抜けなりに妥当な言い返しだな。抜けてちゃ振れもせん」
背面からやってきたのは、嫌な粘りけを感じさせる反論と……じゃらりと武装を鳴らして立ち上がった物音と。
気だるそうに直立しただけで、詰め寄ってくるでもない。ただ、軽く片手で抱えた頭を振って見せる青の隊長は、その指の内側から、明確な侮蔑を込めてこちらを睥睨していた。牢番が、格子向こうから獄卒でも見やるつまらなさで。
「こっちも順序良く、腹でも立てればいいんだが、……やれやれ。こんなのが<彼に凝立する聖杯>の切り札とはねえ。不甲斐ないと言うか、情けないと言うか―――いや、」
そこにきて男が、初めてゾラージャを直視する。せせら笑いの静けさは同じだが、嘲る切り口は多少変わった。失望を捨て、感嘆を含んでいたのだ……優越者が、下等な者を見下げ果てた時に漏らす吐息だ。
「そちらさんのお神輿ともども、頼りねえったらありゃしねえ……ってとこか。これだから、綺麗なだけのお飾りは」
「あのなあ。こう長くなられちゃもーナニ言いてえのか、とんと目星がつかんよこのオッサンは。回りくどい言い回しからの根回しやめて、最短距離で腹の底まで直に来いや。どー思うドーオモウ言ってさえいりゃ悪口雑言を万倍に肩代わりしてくれる同類まみれの自称:女子どもかテメエは? イイ齢こいて恥ずかしげもなく向上心に欠けた慣れ合いでぐずぐずと傷を舐め合うのは、ちょいとまあ、いただけたもんじゃねえよ。絵にならん。っかー、だーもー、言わんこっちゃねえ」
苦しまぎれの提案か、あけすけな白状か。とにかく、無骨な気配を嫌気に煮溶かしながら、頭の傷跡を掻くついでのようにゾラージャが下出から―――紛りなりにも――――叱責を伸ばすのだが、相手は一切聞いていない。人数がいるだけ分があると考えているのか、煩わしげながらもこの手の話を披露する機を逃したくないだけか、ねっとりと不平を貫き通してくる。
「知らぬ存ぜぬとは言わせねぇ。そちらさんのお神輿、またしても表向きはとっぷり筆仕事と決め込んで、裏じゃ日中夜ずーっと寝込みっぱなしって話じゃねえか? 謳い名や功名はいざしらず、ひ弱なポンコツにも程があるぜ。いっそ腐り落ちてくれりゃあイイものを、毎度毎度、飽きもせず……いや、違うか」
「ああそうだ、違うのだきゃあ明々白々だ。頭領はその通り、月極めで山盛りのデスクワーク片付けてるだけだからな。悪ふざけにいちゃもんつけるにしたって、図に乗った言いがかりも大概にしやがれ」
「順番だよ。違うのは」
「ああ?」
辛抱溜らずといった風体で焦れ、好かない様子を際立たせるゾラージャだが。
それは相手こそだったようで、うんざりと口論のテンポを落とす。さも心外そうに。
「いやなに。飽き飽きしたのは、こっちが先だった筈でね……見切りをつける順番は、間違えるとおかしいことになる。だろ? 俺らだって恩義はあるんだ。対立するにしても、敵対したくはない。反目しあうのも……御免だ。だから病弱ちゃんにゃあ、ぽかぽかの陽だまりでぬくぬくと楽隠居させてやる代わりに、表舞台から引っ込んでくれってだけさ―――前のようにな。稼ぎと楽しみを伸び悩ませるような殺生な平和なんざ、こちとらいい加減糞くらえなんだからよ」
「お前らの気っ風は、強い酒と同じだ。病みつきになるほど嗜むもんじゃねえ……適量を使いこなせれば万能だし気分良くいられるが、体質的に合う合わんが分かれるし、長い目で見ると長持ちしない内臓から壊れる。まさかそれを、ないがしろにされていると思っちゃおるまい? ゼラ・イェスカザは、副頭領を辞したんだぞ―――それが最適だと、彼が認めた!」
「ハっ! それこそ、そもそも見る目がねえ証拠だ。譲る跡目がお門違いだろうがよ……あァア、俺たちゃとっくに、頭領って呼ぶ決心はついてんのになぁ? まあモチのロン、頭領じゃなく、ツァッシゾーギの旦那でも歓迎だ―――」
(この青い人たちは、)
キルルは、どうしようもなく、気取った。
(シゾーさんがザーニーイの副官に収まっているのが、気に入らない人たちなんだ。しかも、みんながそうじゃないことが、おかしいって信じて―――疑っていない。ただただ、それを思い描くうちに……知らず知らずのうちに、自分のいいように、思うが儘に―――)
―――恋をしている。
(恋?)
ぞわりと、総毛立つ。
恋をしている……信じて、疑わず、……愚かしくも、賢くはない、……恋をしている。
(こんな―――ものが、どれだけ……あるの? どれだけでも―――存在しているというの?)
刹那だった。
「君は虫、―――」
「え?」
聞き返したのは、自分だけだった。
答えてきたのは、……
「大なる虫、わめき絶えなく臓腑を喰む」
呪縛を編み上げた呪文と、それが成した魔術の発動だった。
ごワっ! ―――と風が軋轢を巻き起こし、静か過ぎる発破が破滅を招き入れる罅を入れた直後。食堂の出入り口にいた男ふたりが足元から引っ繰り返って、そのままイコとキルルを飛び越える高さで吹き飛ばされた。すぐさま自分もそうなることを悟って身を縮ませるが、跳びのいたイコがキルルを抱きとめる勢いそのまま、後方のゾラージャにタックルする。
「へぶっ!?」
どうやらイコから予期せぬ痛打を食らってしまったらしいゾラージャが悲鳴を上げたが、この場においては最もささやかな騒音と言えた―――ふたりに板挟みにされた隙間から、それ以上の阿鼻叫喚を見るしかない。どうやら、出入り口に近いところから同心円状に、あらかたが大気の津波に呑まれたらしい。室内にいただけの旗司誓たちも三分の一ほどは餌食になったようで、椅子の脚による踵落としが命中して哀れっぽく目を回している者から、寝ぼけ眼をこすって夢の続きを疑う者まで、壁際に行くほど窮屈にまぜこぜにされている。おおっぴらに亀裂が入ったものは見当たらないが、それでもガタつく程度で済まされた家具はマシな範疇だろう。キルルたちも、三人分の質量がダンゴになっていなければ浮かされていたに違いない。
(空気の上下が、一瞬で、入れ替えられた……?)
そして、一網打尽にされた狂騒がひとまず鎮火し、誰彼となく惑うように罵声がまろび出てきた頃。イコがキルルの前から身体をずらして、肩向こうを―――食堂の出入り口を返り見る。キルルも、しきりに鼻骨まわりをさすって鼻血を気にしているゾラージャと一緒に、そちらへ顔を上げた。
魔神を従僕させたゼラが、五指を広げた右手をこちらへ突き出して、左半身を軽く引いた構えを取り、そこにいる。あおられた黒髪の束だけが反動を殺せず、そこに結わえられた髪紐から、宝石を覗かせていた。微弱に発光するそれが、フラゾアインののっぺりとした顔皮に乱反射して、鬼気の浮き沈みを写し取ったかのような、熱を感じさせない不気味な斑紋を、よぎらせては消えていく。それに呼応したかのように……ゼラもまた、笑うでもなく、目を細め、ただ魔性を深めていた。
服従と圧倒を済ませた声音は成果に陶酔することもなく、だからこそ……練り上げられ、殺気ばんだ熱情がゆえに、告げられた。
「弁えたまえよ。小細工を要する小物ごときは、虚仮威しすら見せびらかすか」
散乱が収束すると、それも終わった。細められ―――獲物を呑み込む寸前の蛇のように黒目しか見えなかったゼラが、医者らしい冴えた吟味を眼差しに取り戻して、ざっと室内を視診する。真面に立っているのは自分らだけだが、総員あっても打ち身か打撲くらいで大した怪我人もいないらしい。まあ、真後ろからぶちのめされた例のふたりと、そのふたりに直撃されたらしい青の隊長とやらが最も深手と―――特に隊長は後ろ頭でも打ったのか完全に気絶しているように―――見えたが、多少長く見咎めただけで、ゼラは直接的な動きはみせなかった。誰かを診ることも、……魔術での追撃も、無い。いつの間にか、魔神も消えている。
場を好転させたのではない。暗転させたのでもない。場から転落させ、奈落へと駆逐した。人形を玩具箱へ投げ入れるように―――用済みとあらば、目障りとあらば、あるいは気まぐれだけであっても、……人間相手であろうとも、ところかまわず、それが出来てしまう。凄惨を布く邪悪があるのではない。禍々しくも―――ない。ただ、無力を強い平伏させ跪かせる理不尽を、独善たる逸脱を許されている、偉容の支配者。
(これが……練成魔士)
キルルは、戦慄こうとする奥歯ごと、その事実を噛み締めた。
(練成魔士―――だけじゃないかもしれない人)
ゼラ・イェスカザ。
今はその名前にすら絶望的になるしかない存在であろうとも。ここにいる。
キルルも―――ザーニーイも、シゾーも、あるいはそれ以外の誰も彼もが。いる。
と。
「びっ……くりしたーあ。寿命縮みましたよ。ゼラ主席」
惨憺たる有り様の中でも、カウンター向こうでのきなみ吹き散らかされた食器やら道具やらを、特に同情的に盗み見て。気忙しそうながらも、それでも真っ先に呼びかけたのは、ゾラージャだった。哀訴して温情を乞おうにも、あとの祭りと思えたが。
やはりそのようで、膠着を叩き割ったのと同等の手並みで、ゼラは迅速に断罪してくる。
「喧嘩と野次馬は全成敗。基本に忠実にこなしたまでのこと」
「慣用句よりも守備範囲はみ出てワイドっす。それ」
「縮んだ寿命については、つつしんで伸ばすよう個人的に養生なさい」
「喧嘩両成敗なら自業自得なのに、野次馬には自己責任。わーお。荷担者ドミノ倒し」
「ゾラージャ部隊長第五席主席。あなたの流儀にも問題はあります。部下に命令を守らせなさい」
「俺が守ってないだけです。中間管理職として隊長も頭イタイとこなんだと思うんで、とやかく責めんといてください」
すかさずイコが、名乗り出る。
常ながら飄々として情動が掴みにくいのはゼラもイコも似たり寄ったりだが、前者の方はまず間違いなく、すこぶる虫の居所が悪いようだった―――と言うか、控え目に言っても、堪忍袋の緒を切っている。話相手が切り替わるや否や、腹いせが物足りなかっただけにしては冷淡すぎる口ぶりで、刃物のように一閃してきた。突いて、仕留める鋭さで。
「では、君を責めろと?」
「そうです」
「檻の中で旗を待たせたいのですか?」
「いいえ」
「であれば、命令を守ればよろしい」
「ヤです」
「や?」
「嫌です。ひとりぼっちの女の子に見ず知らず決め込むことで守り通せるボロ雑巾なんざ、棒の先っちょに括りつけてブン回したところでゴミしか降ってきやしねえ。ンなもんを縁にしてなんぼのもんですか。お天道様が見てますよ。だったら俺ァここ辞めます」
「おいイコ!」
捨て鉢ともとれる即答に、ゾラージャが声を荒らげたが。イコはそれにすら異存はないと言わんばかりに、揺らがない。生意気な口から出任せでもなさそうだった。媚びる色のない瞳に宿る眼光もまた、揺らめくようなものではない。
「すんません隊長。俺、ここ好きでした。それだけが……心残りです」
「オイオイ、お調子者が調子外れの冗談なんざ飛ばすもんじゃねぇよ。オメーのギャグは爆笑がモットーだったろ?」
「笑えない冗句だとコケにするだけでいいかどうかは、隊長が判断してください。それか……もっと上から、判断を下ろしてもらうか」
ゼラがそれをどのように理解したのかは、分からなかった。
イコ自身も、もう誰を見るでもなく、独りごちる。それは転嫁でもなく、弁解でもなく、釈明でもなかった。
「俺は、これでいい。けれど、これでいいのは、俺だけか? <彼に凝立する聖杯>は―――本当に……このままいくのか? もうとっくに、その日が来てるぞ」
傍目から、放言にしても奇妙な強調符を、最後だけ残して。
それを受けたゼラの眉尻が引き攣ったのを、キルルは見た……ような気がしたが。それこそ、砂埃を噛んだ睫毛を弄っただけだったとしても分からない。
その頃には、ざわめきが大食堂の範疇を越えつつあった。もしかしたら逆流した空気圧が廊下を舐めつくしていったのか、あちこちから苛立った雑踏の右往左往やら派手なくしゃみやらが聞こえてくる。にわかに色めき立ってきた騒々しさを、低俗そうに横目で睨みやってから―――毛羽立った感情もそのまま、ゼラが物静かに一喝してくる。
「後継第二階梯をお連れしなさい。エニイージーなら図書庫です」
「向かいます。背に二十重ある祝福を」
とってつけたような追随を済ませて急くイコに次いで、キルルもまた大食堂を出た。
すると彼はきびすを返し、食堂のドアを閉める。
そうして衆人環視をざっくりとぶった斬ってから。イコが飛び込んでいったのは、廊下のはす向かいにはめ込まれた黒塗りのドアだった。言われるまでもなく、客間である。数日前、あそこでキルルは予期せぬ会食をしたのだ。わけも分からないが、とにかく彼を追う。
客間に入ると、動揺をモロ出しにしたイコが大の字になってぴったりと壁に張り付いていた。
なんで壁に……と思いはするが、要は自分より大きな存在に守られている安心感を欲してのことだろう―――信心深ければ神に向かって聖印でも切っているのだろうが、イコはその胸倉をただただ吐き気を抑えるように撫で下ろしている。がっくんがっくん膝を揺らし切ってから、白目を剥きかけていた両目にやっとかっとの理性を取り戻して、どうにかこうにか顎の下を手首でこすってみせた……あぶら汗と安堵が、ぶあっと毛穴を開かせたらしい。まだガタブルしているが、それは顎も手首も同様だったので、仕草として総合性は保たれていた。
「うーこわ。こっわぁ、ゼラの御大。マジ勝てっこねーわ……ご機嫌ナナメにしたって、スパルタに切り替えるんならヒントくらい前もってちょーだいよっつの。こちとら、神不知の崖みたく破られちゃ一巻の終わりだってのに。うっあキモい、見てこのサブイボ。ダイコンすれるぜ今なら」
強がりを捨てた途端に歯の根も合わなくなった上、心因性の息切れもひどい。蒼白の面貌で、喘ぎたがる口を横一文字に引き絞りつつ、まくった二の腕を見せつけてくるイコに―――
キルルは、どうしても同調できなかった。ドアを閉めてから、聞いてしまう。
「イコさん。辞めちゃうの?」
「辞めちゃうかねえ? まあ、その前にまず檻ン中かな」
あくまで牧歌的なのどかさで、嘯いてみせるイコだが。
「檻?」
「ゼラの御大が、檻の中でなんちゃらっつってたっしょ? それだよ。いわゆる、旗待ち……翻る旗を待つ、ってやつがあってね。旗司誓が内輪揉めした時の、まどろっこしいなりに由緒正しい裁判とでも言おうか―――私刑的な闇討ちから保護する意味もあるんだけど」
「檻で?」
「そう。対象者を檻に閉じ込めて錠前をかけ、錠前の鍵をつけた短剣を、檻の中に入れちまうの。檻から出てくるのは、降参の白旗を上げて粛々と罰を受ける側に立つか、あくまで旗幟を汚していないと潔白を訴えて汚名を雪ぐ側に立つか、腹を決めた時だ。疑われた時点でまかりならん、旗を折られたってなったら、気高く自刃しちゃえるってわけ……黙秘権ですら、自死を以ってしての矜持に委ねられてるんだぜ? はは。こうまで一貫してちゃ、笑うっきゃねーわな」
長広舌を遂げるうちに、口調は沈着していった。講釈好きは生まれつきだろうが、世間知らずにも理解される口上を探して整理するうちに、理知の火種がしっかり点いたのだろう。戦慄は痛手のように残っているが、憑りつかれる濃さではない。
その目を見上げながら、胡乱にキルルは囁いた。
「あたしのせいで、そんな目に遭わされてから辞めちゃうの?」
「こらこら。身の丈の心配だけしときなさいってのに。それともちびっちゃった? だからさっき便所に行っときゃよかったのよ。おシモの替えある?」
「はぐらかさないで」
「だからねえ、そーんなジュンスーイなお目目で見られてもね。このオニーチャンたら下世話なことばーっか達者なのよって言ったでしょ―――昔っからよ。これだけは」
「え?」
聞き返したのが軽率だったと、悟った時には遅かった。イコは、特に感情を交えず言葉を紡いだつもりのようだったが、その淡泊さこそが、ひどく自制を強いなければ語るに億劫なのだと露悪させていた。
「俺は、捨てられっ子でね。まあ、なかなか気のいい養い親だった。頭のキレに見どころあるって、寄宿舎がある都街の学び舎に、羽振りよく入れてくれたのよ。そしたらお定まりのように、イイトコの坊ちゃんどもに目をつけられちゃって。かったるいことに、これがまた色々とややこしくしてくれちゃったんだわコレが……んで、都街どころか故郷にもいられなくなった。それでも、見どころがあるって褒めてくれたのを忘れられなくて、―――偶然、ここにありついたんだよ。働いてさえいれば、好きに勉強していいって言われたから。ここならエルンクーを語っても、血眼になってくれるヘボどももいないし」
「だからイコさん、ジンジルデッデさんのこともあんなに分かって……図書室とか、色んなこと知ってたの……?」
「生き字引きになりたかったんだ。孤児院じゃ、持ちネタに隠し玉があるだけモテたからね」
軽口ついでにウインクをこちらへくれて、イコが無理に笑んできた。途方に暮れるのも、甘受し慣れた……そういった諦め顔で。
「ね? 下世話でしょ。俺にあるのは欲得だけよ」
「だけって、そんな」
「だけでいいのさ。だから―――頭領は特に熱心に教えてくれたし、なにより彼が伝えてくれたジンジルデッデ先翁の生き様は、俺に自信をくれた。閃きに頼らない知恵と、他人任せじゃない知識は、幸せになろうとして使う限り、順風に生きるコツになるってね。学ぶことを信じて良かったよ……少なくとも俺はそのおかげで、これからは流浪の用心棒なり、在野の教師なりやって暮らしていけそうだ。どっかの辺境でなら―――」
「辞めないで」
それだけは、言い切る。
キルルは唇を噛んで、噛み切る前に前に吐き出した。
「これが、あたしの今の精一杯の身の丈。お願い。辞めないで。―――だって、あたしなら、どうせ出ていくから」
イコが、絶句する。
その隙に、せめて言い終えなければならない気がしていた。なりふり構わず、懸命に口にする。
「誰からも望まれないまま、ここに来て。ここからも、誰にも望まれないまま、戻るしかないから―――ザーニーイだって、もう、首ったけな人がいるんなら……」
発している自分でさえ、声が聞き取れなくなっていく。理由は分かっていた。簡単すぎることだった。聞きたくなかったから、閉め出して五感を切りたがっている。
(こうまで、あたしは卑怯だ)
変われたと思えた思い上がりは、傲慢に違いなく。
忘れることで看過されることに甘んじていた思い違いは、傲岸に違いなく。
信じることも疑うことも見失った己に、軸は無く。
そうやってひとつふたつと今まで失ってきたのだとしたら、これから先も十重二十重に失いゆくことを止めることなど出来はしない。
こんな抜け殻が王になるなど、破滅を伝播させるようなものだ。だとしたら、―――
耳元でふと、唆された気がした。
「―――お姉ちゃんが、あたしの代わりに戻ればいい」
どうせ自分は、変われはしないのなら。
いっそ、その人が入れ替わってくれたらいい。
「後継第一階梯なんだから、望まれるまま玉座に座ればいいじゃない……そこに座った分、あたしに居場所を譲ってくれたらいいだけじゃない!」
か細い震え声だった筈のものが、大きく―――呼吸もまた荒くなっていく。見聞きしてきたすべてが膿んで、薄皮を食い破った。心が掻き毟られる。
「それが、どうしていけないの!? あたしは……あたしは普通に、遊んだり、楽しく盛り上がったり、それをしていたかっただけなのに! どうしてよ、どうして……あたしだけ、こうなっちゃったの? お母様にいいように狂わされてた、あのイヅェンですら、こうじゃないのに!」
言ってしまう。
そして、叫びが過ぎ去れば、叫んでしまった重苦しさを際立たせる静けさが残る。
それが氷解した時。イコから、ぽたりと落とされた言葉は、雨垂れのように続く。
「自分語りってのは、これだからね」
ぽたり……ぽたりと。ひとつ―――またひとつ。
「敵味方を増やすつもりもないのに、するもんじゃないんだ。取り返しのつかなくなるものを増やしてまで……するものじゃないよ」
そしてイコのそれは、雨垂れが水たまりに波紋を広げるように、ゆっくりと語られた。
「そうか―――そうだね。だから、あの三人も話さないのかもしれない。話すまでの、間……過程の混沌に、理由が、価値があるから」
敵。味方。増やす。
胸中に再燃した思いがある。
(その人に違いなかった筈の確かなものを、味方や、敵と……―――信じても、疑っても。分けて、隔てても。賢くも、愚かしくも―――両極は、どちらだって同じだから?)
そこに来て―――
ふと、キルルは固唾を呑んだ。
(さっきからずっと、こんな話してる)
正逆に位置しながら。同質であり、同一の。
今なら分かる。
ならば、いずれ、これは恋と愛の話なのだ。
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