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転章
転章 第五部 第一節
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「―――探せ! 駆り出せ!」
「隠れたぞ! 臭っせえ痩せ犬だ! 嗅ぎ当てろ!」
「袋叩きだ! 村八分流れの糞餓鬼に、分際ってやつごと叩き込んでやれ……!」
ばたばたと流れゆく群声と、交錯した影がある。
孤影だ。裏街道を行くそれは小柄で、直言するなら幼くすら見えた。頭から足元まで すっぽりと頭巾付きの外套で覆っているにせよ、山岳のような肩幅も見当たらなければ、岩壁のような胸板も備わっていない。ただし蛇が筋骨隆々とせず、また毒牙を生まれ持ったならひけらかさないように、肩幅より胸板より代えがたい才能に、こっそりと特化していた。魔術。魔神。つまりは猛毒……あるいは特効薬。それを知り尽くしている。そのような動きと身体つき。そして能った天賦と、なればこその孤高。
薄汚い王靴村―――規模としては市街だが自治と自警の荒み具合からして認定を受けそうにない場末だ―――を流れる薄暗い喧噪の中から、際立って暴力的な騒音が高まりつつあったとて、影は毒蛇ゆえに関心を持たなかった。無関係だったからだ。関係してくるならやり過ごす。なお首を突っ込んでこられたら、その根に牙を刺し込めばよい。だから、いつだって漆黒の瞳は眸底から平穏と恬清に満ちていた。これもまた常ながらのことだったが……だからこそ鬱屈し、やや屈託してもいた。
そして。その場に佇み、すっと右手を顔の横へ挙げ、正面へと手の甲を示しながら、手套を半ば剥いだ時も、そうだった。夜欠銀の指円環―――それが相手に視認しうるところまで、中指を見せつける動作。それから、手套を戻したその中指で、片耳の横から頭巾を広げ、小人のように現出させた魔神がちょこんと肩口にいることを、見せつける動作。
それを受理した店の使用人が、そそくさと影へ道を開ける。ここより先、限られた空間には限られた者しかいない。下足番さえそう在るような飲食店は稀だったが、ないこともないし、あるならばそうあるべくして集う者が存在する。限られた富裕層、限られるべき極道者……才覚として限定されている練成魔士が、そうだったのかは分からない。影が求めていたのは個室であり、夜欠銀の指円環を黙秘してくれる人材だった。ひとり素手にて ゆっくりと食事を取りたかった。癒されたかった。それを、ゆるされたかった。だから、のぞんでみただけ。たったの、それだけ。
階層の頂点にある―――と言ったところで二階どまりだが―――個室窓際の席を眺めて、ひとまず影は安堵した。窓硝子など望むべくもないにせよ、卓上は食卓向きに整えられており、テーブルクロスには刺繍まで施されている。大陸連盟を出て長くなるし、清潔不潔に限っての話でもないのだが、やはり己の観念を他者から保障されると安心した。<彼に凝立する聖杯>で横行していた不衛生な因習に梃入れと差し金と口添えをしたのは、他ならぬ影だった。これもまた古い話だが。
だからただ今は、ほっとした吐息に乗せて、満足を呟く。それゆえ、生粋の嫡流祖語句だった。
「料理も期待していいかなあ。出汁を取った汁ものくらい、ありはしないかなあ? 山脈蝦の殻煎りとまでは図に乗らないからさあ」
「無い無い。水質からして違うもん。ハナから出汁なんて無理げ有りげなアリゲーター」
独り言に答えたのは、魔神だった。ジュサプブロス―――そう呼ぶ者を知っている、それがゆえの、魔神。
ただしもう、影の襟ぐりから、ぴょいと飛び降りていた。そして、くるんと中空で前転して床に降り立つ頃には、影とよく似た体格へと様変りしている。青年と少年の間くらいの男性といったところか。中肉中背に、腰巻きと編み上げサンダルをつっかけて、さながら風呂あがりに寛いでいるような……むしろ風呂あがりでもない者からすれば見ていると寒気を覚えるような薄着だが、やはり風呂あがりじみた上機嫌さで小躍りしつつ、くるくるとステップを踏んで、壁伝いに室内をひと巡りした。編んだ長髪もぴょこぴょこ跳ねている。
それに反感を煽られたのでもなかろうが、影が影であることをやめたのも、そのタイミングだった。要は、頭巾を後頭部へと払いのけ、次いで外套そのものを脱いだ。ゼラ・イェスカザになった。まだデュアセラズロだったとしても、本人としては自覚無しに、そうだった。
二人掛けの四角い食卓。その片方の椅子の背に外套を掛けて―――このくらいのズボラにまで目くじらを立てるほどの潔癖症ではない―――そこの席に着き、ついでにため息と頬杖もつく。当時襟足くらいまでの長さにしていた黒髪は、悔踏区域からの風に吹かれっぱなしで生来の癖をひどくしていたのみならず、この時は外套に頭巾がついていたためターバンもしていなかったので、あちこち好き放題に跳ねあがっていた。もとから年齢不詳ではあるが、今ばかりはその風貌も併せて黒目がちのまんまるとした両目をどんより半眼に崩しているものだから、まるきり外遊びに疲れた悪戯っ子そのものに見える。
「組織に もてなされた最後に食べて以来だもんなあ。あれだって下品な調理されてて、薫香も香味も へったくれもなくなってたし。あーあ。余所者って侘しい」
「ぜーたくものー」
「贅沢ついでに言わせてもらえば、僕はあの、原形を留めないまでに具材を火力で軟化させたでろんでろんのアブラまみれゲル状食物を、汁ものだなんて認めない。まんま吐物じゃないか。食器の底まで見通せない汁ものなんて、あるものかい」
「菩提樹って言うんだよ。あれ」
「言いません。ポタージュです」
「分かってんじゃん」
「そーですよ分かってますよ。分かってるどころか、ほかに幾らだってスープのバリエーションは知っています。だからこそ、あんなにも当たり前だった二束三文の学食が恋しいなんて今が侘しいのさ。こんな日が来るなんてねえ。はあ」
「しみじみとぜーたくものリターンめっけ。その大陸連盟を蹴っぱなした最初なんて、食事というのもおこがましいコゲコゲでろりんちょばっかり食べてたくせに」
「むべなるかな、だろ。自炊も野営も、ひとりきりでなんて初めてだったんだ。引率してくれる先生もいないし。過ぎたるは猶及ばざるが如しなのは炊飯とて然り、なんであれコゲつかせて、でろりんちょさ。一事が万事、人間関係もそうだし、人生そのものだってそう。火事だろうが喧嘩だろうが、取り返しがつくうちだから江戸の華ってものだもの」
「中二病もねー」
「ちゅうに? なんだいそれ」
「知らないの? ならどうして言えたんだろう俺? あれ?」
このやり取りの間に、給仕は済まされていた。メニューを選択することなど無い。最高とは、頂点であるがゆえに、いつだって大抵ひとつしかない。少なくとも、この王靴村ではそうだった。
辺境では最高の食事が、ひと揃いである。主食、主菜、副食、副菜、ナイフとフォークと手拭い、そして水。デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザにとっては、磨かれた水差しに清水が注がれているのが、最たる僥倖だった。まあ仮令これが煮沸を済ませた湯冷ましだったところで、それを扱う者から公衆衛生の基礎―――要は飲食物に触れる前後の手洗いなど―――が すっこ抜けていたら、直に生水を飲む以上の惨劇に見舞われるのだろうが、そんなものまで疑っていてはきりがない。あるもので満足する、それを覚えることから人生の太平は始まる。とりあえずここは、水分摂取を果実や酒から済ませねばならないほど劣悪な環境ではない。それで充分だ。辺境なのだから。
手套を外し、指の股から手首までぐるりと清拭を済ませると、ゆっくりと水を口に含む。まずまずの満足を皮切りに、食事を開始した。開始したなりに進み、そして空腹と疲弊が順調に淘汰されていくのにも億劫となってきた頃、それは起きた。
まずは、ジュサプブロスから。もとから根明だった顔つきを、更に景気よく、にぱっとさせた。
「―――あ。ねえ見なよデュアセラズロ! あの窓の下んとこ!」
「って君から呼ばれるってことは、思ってるほどゼラに馴染めていないんだなあ僕。それとも疲れすぎかな。まあ、こんなとこじゃ僕がなにを嫡流で喋ろうが、誰も分かんないだろうけど。それでも……やめないか。ジュサプブロス。めっ」
「俺じゃなくて、見なよ見なよあっち!」
「ジューの馬鹿」
「ほ・ら!」
ちょうど食事の最後のひとかけらの咀嚼を終えたところだったので、しきりに魔神が指差す先―――眼下に横たわる裏街道を、見おろす。店の前より外れた路上にて、若者が群れていた……ただし陰気で、しかも血気を滾らせて。それぞれに対人殺傷能力を特化させた武器を携帯しているようだが、どれもこれも一見して、原始的な構造を伸び悩ませたものばかりである。釘を打った棒や角材がいいところで、やたら角ばった拳だけの者もいる。群れは、五対一に分かれていた。私刑の好例だ。これから五人で、ひとりを吊るし上げるのだろう。それだけだと思えたのだが。
思えていたことが覆されたので、思わず目が留まる。留まり続ける。
―――それが以降十年を越えるなど露知らず、ただその時は物珍しさにかまけて、目をしばたいていた。
「おや。あの子。直線的に疾走することでスピードを上げて、追ってきた五人が足の速い順にばらけるのを狙いすまして、縦隊モドキの先頭に襲い掛かった」
「アッタマいーい♪ ナデナデしてあげようよ。念力で」
「あとでね」
「すんの!? あんの念力!?」
「襲われたのは、拳のみ武装の無手者か。身軽だけに、特攻して馬鹿を見たな。まあ正直者が見るのは、いつだって馬鹿だ。あの子が振るう金属パイプには敵うまい」
「うん。今じゃっかん嫌な音した。ここまでした。回復してからも向こう一年は悪夢が不定期上映される系の音した」
「お。しかも、その転ばせた一匹目を、躊躇なく渾身からの連打とくる」
「ワン・ヒット、ツー・ヒット、スリー・ヒット、ぼんばーいぇい♪」
「素晴らしい。一匹目の次は二匹目をとの衝動に駆られなかったところが、特にエレガントだ」
「うん。ひとりをブチのめすことで、ほか全員の戦意を喪失させた。ワン・ストーンにてツー・バード。おーお、連中みーんな尻尾巻いて逃げてく逃げてく。冴えてるーう。ひゅーひゅひゅー♪」
「まあ僕なら、人ひとり通れるかどうかって細い路地に誘い込んで、そこに入ってきたひとりずつから始末するかな。体力が温存できるし、体格差を有利に変えることが出来る上、囲い込みを防ぐ。これにて一石三鳥」
「練成魔士ならそれでいいかもだけど、ただの人じゃあ駄目ダメだよ。それ土地勘無いと背水の陣じゃん。挟撃されたらどーするの?」
「そうだね。リ・アクションに潜む危険性まで見越してのアクションだとしたら……逸材だな」
「孤児かな?」
「だろうね。身なりからして浮浪し慣れてるもの」
「殺されるには惜しくない? あの逃げた連中、のちのちもっといっぱい引き連れて、寝入り端あたりまでつけ狙ってから死ぬまでボコるよ? 数は喧嘩の基本だもん。喧嘩の勝敗ってのは、勝ち負けそのものはもとより、勝った気分が落着しないと終わらないもん。でしょ?」
「うーん。それまでに別の靴箱へ漂流する算段なんじゃないの?」
「なら余計に都合いーじゃん。連れ帰っちゃおうよ。もろもろ考えたら、早い方がいいって」
「そうだね……おあつらえむきにも、女の子みたいだし。僕の目に留まるくらいだから、あの子もザーニャくらいには見られた顔をしているんだろう」
「均整はとれてるっぽいけど。最低でもあのベッタリ返り血を拭いてもらってからじゃないと自信持てなさげー。しゅん。しょんぼり」
「駄目モトには違いないさ。へこたれるのは、空振りしてからにしておきなさい。でもまあ、希望の一縷くらいは、ここで見つけた……のかな? 自信ないけど」
「あ。言い訳ぽろりんこ」
「ああ。くたくた。ちょっと限界。禍福は糾える縄なわの如し―――と、なるや否や……にせよ。チャレンジなんか、さっさと済ませよう」
そして手套を嵌め直し、個室のドアの外に控えていた執事―――か店主当人だろう、多分―――へと声を掛けた。ドアが開かれ、主人のいる部屋に立ち入らぬよう品行が染みついている彼が一礼を済ませるのに頷いてから、依頼する。
「君。これと同じ料理を、ここへ。そして、あの路上にいる長い黒髪をした子を、丁重に招いてくれたまえ」
「かしこまりました」
執事―――と今はしておくか―――は従った。
そして、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザの皿を下げ、対面の席へ配食を済ませた者と入れ違うように、戻ってきた。無論のこと、さっきまで遠目にしていた子どもを連れている。
そうしてみると、遠目だった時より減点箇所が増えてしまうが、これもまあ仕方がない。まずは、えらく汚い。砂埃どうこうより、乱闘した際に被ったのだろう血液だか胃液だかと目される粘着質の斑点が、服と言わず髪と言わず付着していることが気になる。それは少女当人こそ違いないようで、背中まで伸びっ放しにした黒髪がまだらに乾いて固まりつつあるところに、しきりに手櫛を突っ込んでいた。その反対、もう片手には金属パイプ。これも昼餉を供とした憩いの場にはそぐわないが、マイナスポイントとしてカウントするには微妙なところだ……大人の腕ほどの長さがあるかないかといったそれは、多少でこぼこしているが、形状そのものは概ね直線を保っている。金属の……しかも丈のあるパイプなど、そこいらに気安く投棄されているはずもないので、相棒にしてどれくらい経つのか見当もつかないにせよ、力任せに振るった変形跡が少ないのは、一定の自制心と判断力があると見なせる材料だ―――まあ、それこそ自制心と判断力など、その双眸を一見するだけで顕著ではあった。琥珀の目をしている。色味よりも風味に、それを感じる。人を誘い蠱惑を産ませる純度に、人を蔑み困惑を膿ませる透徹感。要は、己の優勢を信じてきた者が、かちんとくる気配。そして、純粋に整った容姿。特に目許が甘い。そこに触れたいという欲の萌芽に屈服されたと屈辱感を覚えたならば、それよりなお権勢を誇示せんと殴りつけにかかってくる輩が出没したところで致し方ない。
「こりゃあ喧嘩を安売りされるわ」
口笛まぎれに猪口才な軽口をくれてきたジュサプブロスをぎろりと睨み上げた一瞬だけ年相応らしい稚気が出たが、その少女はやはり無言でその場に佇んでいる。
デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは手振りで執事を退室させ、その片手で己の対席―――と、食事を示した。今度こそ、ここの風土に合う言葉で話しかける。
「掛けたまえ。そして、召し上がれ。今ほどの勝利は痛快だった。僕は、君のファンだ」
すると少女は、頓着せず金属パイプを捨てた。さっさと座席に座ると、手拭いで口許だけ ごしごし扱いて、ナイフとフォークを取る。
「手づかみで行かない。文明文化的に飼育されていた形跡あり。今後は語彙数に期待」
「しっ」
小声と指の仕草で魔神を制して、練成魔士はそれらしい審美眼を取り戻した……と言うよりむしろ、医者としての観察眼を強めていた。服というか、あぶらじみた襤褸切れをどうにかこうにか肩掛けにしている少女からは、羸痩とまでは行かずとも幾つかの栄養失調が板についてきた背格好が透けて見えた。急激な飲食は催吐剤になるどころか、悪くすると潜伏していた病気まで活性化して死に至らしめることもある。まあ、がつがつと貪り出して、こうして十分足らず、―――吐き戻すような臓器の振幅も外見上から観察されないし、未熟なりとてギャング五人を返り討ちにする体力もあるのだから、後者の不安も無いと見積もっていい。
そして完食するのを見計らって、声を掛けた。
「食べたね」
「食える物だったからな」
ぶっきらぼう極まる物言いだが、声音そのものは清んでいる。喉が潰された痕跡も見当たらないし、会話を続けるのに支障は無かろう。
座面の上にて、手拭いで顔から髪から足の指の間から拭き始めた――― 一応順序が上から下なので見なかったことにしよう―――少女に、問いかける。
「罠を疑いはしなかったのかな?」
「ここまできて騙し討ちとか馬鹿だろ」
「度胸もあるか。ますます好みだ」
練成魔士は、ひょいと眉を上げて、椅子の背もたれに凭れかかった。すると、少女が雑巾―――もう雑巾だろう?―――を床に投げ捨てて、攻撃色を満たした両目もろとも、歯茎まで犬歯を剥く。
「うそざむい生き物だな。お前。俺と近いのに遠くからものを言う」
「おや、ここで意外な見識とくる。願わくば、根拠を聞かせてもらえまいか?」
「さむいだけなら服を着ればやりすごせるが、うそざむさは、そうじゃない。中から湧くだけ防げないし、中なんだから始末に負えない。それと同じだ。きっと、近づけば近づくだけ遠ざかる。もう遠すぎてるぞ、お前。どこから人間になり損ねた?」
「言ってくれるね。他人様に向かって。何様のつもりだい?」
「ヒトサマ? ハッ。だからこそ、こうして俺みたいのが突っ転がすんだろ。俺が人間に見えるか?」
―――と。
思わぬ不意打ちを食らってしまったことに、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは、ぽかんとするまにまに感嘆してしまう。
「驚いた。三人目だ。これも……縁か」
「はあ?」
「―――……君は今、どうして、僕とこうしていると思う?」
つい乗り出しかけた身を引いて、文言を継いだ。
「ぶっ殺すぞという目をしているが、まあ聞きたまえ。僕は、君に食事を与えた。君は、それを食べた。僕には、それだけの力があった。支配する力があった。食事を用意させる力で、君を従えた」
「金があったってことだろ」
「短絡的にはそうだが、その金銭がどこから来るかを考えてみるといい。常に流動する貨幣、その循環が己の懐へ向くよう、支配する力。それはなんだ? 労働する体力。カツアゲする暴力。貢がせる精力。商売する知力。世渡りする胆力。人目を虜にする魅力。ずる博打でピンハネする技術力。どれであれ、内から外を―――なにかを支配する力だ。人は、いつだって何かを支配したがっている。そのベクトルの伸長を欲だとするならば、それに力が宿ることにより、支配を遂げるケースが増える」
「金はあればあるだけ湯水のように使える。それはそうだろ」
「支配したい、その力と欲。そのすべては、僕にもある。君にもある。誰にでもあるその混沌に、のぞむならば指を突き込み、のぞみを成そう・得ようと僕らはする。ひときわの奇跡を紡ぎ出せるよう祈りながら。その成功率を上げたくはないか?」
「上げる?」
「誰よりも、欲しい時に欲しいものが欲しい場で手に入るように、―――なりたくはないかな? 支配者に」
生理反射的な拒絶を呑み込んで、呼吸と思考を沈める少女を見て、やはり機知のある子だと実感する。一回こっきりの餌付け程度で手放したくないと思わせるくらいには。
それに賭けて、口火を切った。
「要はね。契約しないかと持ちかけているのさ。これはビジネスだ」
「犬死にさせないよう飼ってやる見返りに、野良犬から番犬になれって腹か?」
「勘もいいな。しかし違う。犬ではなく、巨人になってもらう」
「は?」
「まあいい。契約した場合の見返りについて具体例を挙げよう。まず僕は、契約者の身の安全と衣食住を粗々ながら保証する」
「だから飼うってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。そして、知識と教養を与える」
「……働くだけじゃなくて、勉強しろってことか?」
「ほう」
考えるよう追い込められて、欝々と苛立っていく少女と反比例に、練成魔士の内心の満足は増えていった。その影響で、ジュサプブロスが三回転ジャンプ後方ひねりマックスロードヴァテバーアライオンズタックルなど決めているが、まあ無音かつ背後なので少女は気付かないし、練成魔士にはそれこそ重要ではない。
「知識。教養。それら単語の形骸であれ、……こんな子どもなのに、よく通じたな。頭の程度か、インプットされる環境にいたのか。前後の文脈からの当てずっぽうにせよ、ますますの勘の良さに期待するだけでも悪くない……」
「なにぶつぶつ言ってんだ。話しかけておいて、勝手に遠くなるな。俺がいるんだから、話だけでも戻せ」
しびれを切らして噛みついてきた少女に、言われるまま矛先を返す。
「そうだ。勉強してもらう。学んで……もらう」
「なにを?」
「なんでもいい。それは、なにもかもと言う意味でもある」
「なんで?」
「知ってしまえば、知らずにいた自分へは戻れないからだ。それは支配であり、力となり、欲ともなる。その上、中毒になる。今さっき、君がやってのけたろう? 通常、多勢に無勢だったはずの戦況を、戦法で打開した。これもまた支配だ。支配者たる……偉容だ」
「考えなしじゃなくなれば、転ぶ前に杖を用意しとけるってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。剣を持つなら素手に勝るし、そこから更に剣術を身に付ける玄人となるなら、剣を持つだけの素人に勝る。そうして、そういった切り札のストックを……増やす。神様からふっかけられてくる艱難辛苦を、手札を弄してイカサマすることで切り抜ける。アーギルシャイアでもない身の上では、身の代に差し出せるのはそれくらいなのでね」
そして肩を竦めて、片目を閉じてみせた。もう片目から―――伏し目がちにさせたその奥から、目線を眼前の少女にくれる。秘密めいた雰囲気で、反対側の目蓋の内側にこもった闇を見詰めながら。
「ただしこれは、諸刃の剣だ。快と悦の中毒は本質的な本能であり、後悔を覚えるまで依存症を拗らせたところで抜け出せる者は少ない。知れば、知っただけではいられなくなる。不味いものより、美味いものを食べたくなる。面白さを知れば、暇を持て余すようになる。歌は歌ううちに誰かへ捧げたくなり、そうして募らせた情は誰かと育みたくなり、極まった先で繁殖する。ありとあらゆる増長に際限がなくなる……混沌は加速していく。畢竟ここは楽園ではない。希望があるせいで、絶望するだけで死ねる世界だ」
「…………」
「今の君にこういった言葉遊びは不毛なようだが、これからはそうではなくなる。理解する。なぜかと言うと、僕は君の生活と安全を保証したのち、そのように教育するからだ。語学や数学や処世術のような社会的能力基盤に限った話ではなく、喜怒哀楽を偏向させないよう振る舞うよう努め、与えた名前で呼び、基本的な人権を保護する―――保護を要すると判断したその時まで、あらゆる投資を絶やさない」
「世話してくれるってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。産声を制御することさえ儘ならなかった、自律的なだけの、泡沫たる肉の塊―――それを、立てるように支え、歩けるよう導き、走り方を身に付けさせた上、それを他者と競い合い、かつ勝利する―――その、ありとあらゆる般若波羅蜜多を、どこまでも……刷り込む。食事。寝床。学び。将来。世界。もれなく、くまなく、一身に後継するがいい。言わば、親子だ」
「うまい話だな」
「裏があるのでね」
「じゃあ引っ繰り返してそれを見せろよ」
「契約内容に目を通し、契約者となるなら、それ相応の名前を、そこに綴らせよう。その端緒から……名乗ることを、誓いなさい」
少女は―――
奇妙な反応を見せた。泣くでもなければ笑うでもなく、敢えて言うなら泣くか笑うか出来ればまだしも突っぱねる根拠になったろうにといった諦めのゆるみ顔で、目鼻のきわをひくつかせた。ただし、正念場そのものに幻滅してはいなかったようだ。勢いが目減りしたせいで、より勝気さが露わとなった口ぶりで、吐き捨てる。
「……名前くらい、どうってことない。勝手に呼べ」
「と言うことは。契約するのかな?」
念を押されて、少女は首肯した。
「ああ。する。罠だって分かってても、家なら……帰る。そういうもんだろ、家ってのは。それがないのは……しんどくなってきたところだ」
「罠ではない。これは契約だ。君は一般社会からも裏社会からも使い捨てにされるだけの野良ではなくなり、こちら側のシステムに入ることになる。システムは君を守る。それは契約に含まれている。契約者を名乗るうちは、安心したまえ」
「名乗るから、言えよ。契約って―――俺に、なにをしろって言うんだ?」
「育て」
机上で指を組み、そう告げる者は、今はデュアセラズロ・ゼラ・イェスカザ。その者は言う。我知らず、問いかけを肩代わりしていることに気付かぬまま、だからゆえに続く。
「成長なさい。どこまでも。僕は君に、それを期待する。君は、子どもだ。その未知なる怪物領域に、超人をも凌駕する限りない巨人化を―――僕は、のぞむ」
問いかけ―――ならば、問うたのは誰か。それに思い至るより先に、隙間から、声が届く。
後継者は誰だ?
「契約内容は、ただひとつ。シザジアフ・ザーニーイを超えろ。それだけだ」
□ ■ □ ■ □
小金を上積みして、執事を使い走りへと変貌させたデュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは、ひと時の暇が終わったことを知った。丁寧にあぶらを注された蝶番は音も立てないが、ドアが開けばさすがに気付く。風雨にさらされた案山子が殺意のもと野犬に蹴倒されたかのようにみすぼらしかった風体を一転させて、少女が戻ってきた。
適当に身づくろいしてやれと命じた割に えらく時間がかかっていると思っていたら、どうやら湯を張った桶にでも沈められていたらしい。砂利や土くれどころか垢や古びた瘡蓋までも剥けて、地肌らしい赤銅色の肌に、桜色のアクセントをちらほら撒いていた。お着せにされたシャツやズボンよりも、まだ湿っている髪の重さが気になるようで、しきりに仏頂面で首を振る仕草を繰り返している。耳に水でも入ったのかもしれないが。
執事は、それに特に世話を焼くでもなく、控えてみせた。こんな界隈だ。買われていく少年少女を支度することもあるのだろうが、その仲介人としては、まあ冷たくもそっけなくもなかろう。
とりあえず、感想を口にする。それくらいには感心していた。顎先に片手を丸めて、まじまじと契約者を見やると、
「ふむ。小児用とは言え、男装をさせれば、男児のようだ」
「男児ですが」
「…………は?」
反応は出遅れたものの、執事はそれに配慮するようでいて、節穴に迂遠な舌打ちをくれてくるような遅いテンポで、こちらへと言い聞かせてきた。
「差し出がましいようですが。こちらのお子様は、男児です。服を誂える際に、多少なりとも身ぎれいにさせて戴きとうございましたので―――勝手ながら、先立って、湯浴みを。それを、手伝わせて戴きました」
「俺は男だ」
当人からも断じられる。更には、
「それでは、失礼つかまつります」
と、部屋に残された。己から断言して少女ではなくなった契約者と、練成魔士に使役されるなら魔神でしかない存在と、その練成魔士―――か、影か、あるいは毒蛇か、それ以外なのか。一向に分からないとしても、兎にも角にも。
ひとまずは、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザ。彼は、顎の前から眉間へと、片手を移した。そこを隆起させた皺を揉みながら、その凹凸の深さと重さに、やや俯く。そして、
「ごめんあそばせ。そこな―――少年」
「うぜえ。うぜえな。遠回し。そんなもん俺しかいないのに。目の前から。うぜえ」
「ひとつ質問を許したまえ」
「さっさと言えよ。うぜえっつってんだろ。うぜえの一個くらい聞けよ新手の馬鹿」
「髪だが。どうしてそんなにも長い?」
「どうしてって。どうしたって伸びるだろ。毛なんだから」
「ああ。切らない信仰なのか? 後進国ゆえの未開化か? それとも未熟なりの主義か? 願掛けか? おかあさんの床屋さんじゃないと切らないのか? 切らないんだろうな」
「やっぱ新手の馬鹿か、お前。切ってくれるような奴とつるまなくなって長かっただけだ」
「…………あー」
その得心は、ひとりで抱えるには重すぎた。なので、ジュサプブロスに話しかける。本心を垂れ流すのに相応しい、嫡流祖語句で。
だから、聞き取れたはずもないのだが。ジュサプブロスとのそのやり取りは―――夢を見る今では、もう理解している。契約してしまった今となっては。
「うーあー。しまったなあ。やらかしちゃったよー。砂場に引っ込んで<彼に凝立する聖杯>の面子覚えちゃったうちに、僕こっちの顔うまく見分けつかないの忘れてた。髪の毛と顔で騙された。服装だって真面じゃなかったし。俺って言い張ってるのも、土人なりの土着の風習だって納得してた」
「やーい。間抜けー」
「あのねえ。こんな時の君じゃないか。ジュサプブロス」
「無理げ有りげなアリゲーターりたーん」
「ああそうだよ。百も承知さ。僕が、男の子かも知れないと考えもしない以上、君のアンテナは働かない―――結局のところ、僕らは核心だ。だから人型になった途端に、君は僕の本心を言ってしまう。嘘でも本当でもない、本心をね」
「けれども人型より下等に出すと、思った時に思ったように魔術を振るえなくなるもんね。どーせ子爵ですよーだ。ぷんすか」
「けれども、だとしたら……ねえジュサプブロス、まっさか素知らぬ顔してトシ三十越えてるとかないよねえ? この子」
「ないよそれは。ちょびっと栄養不良だけど、細胞めっちゃ若い。生まれてから十年経ってない人間種族の幼生」
「どうしよう。やり直そうか。まだ間に合う?」
「えー。やめとこうよ、勿体ない。男の子なら、男の子でいいじゃん。十年くらいしたら、この子が勝手に えげつない裏切り者になるだけだし」
「まあ、それもそーだねえ。名前も……このまんまでいいか」
そして、旅立つことになる。
左の耳朶にリングピアスを開けて、その痛痒すら失くしてからも、旅は続いた。市街を渡り、都市間公道を横切り、三戒域の中へと向かう中で、警戒環四杖点すら見失う―――ふたりで歩いた、どんどん白けていく色彩と、開けていく光景と、旅路を……覚えている。
そう。旅立ちだと思っていた。そうではなかったこと、夢見る今はそれさえ知っている。
「隠れたぞ! 臭っせえ痩せ犬だ! 嗅ぎ当てろ!」
「袋叩きだ! 村八分流れの糞餓鬼に、分際ってやつごと叩き込んでやれ……!」
ばたばたと流れゆく群声と、交錯した影がある。
孤影だ。裏街道を行くそれは小柄で、直言するなら幼くすら見えた。頭から足元まで すっぽりと頭巾付きの外套で覆っているにせよ、山岳のような肩幅も見当たらなければ、岩壁のような胸板も備わっていない。ただし蛇が筋骨隆々とせず、また毒牙を生まれ持ったならひけらかさないように、肩幅より胸板より代えがたい才能に、こっそりと特化していた。魔術。魔神。つまりは猛毒……あるいは特効薬。それを知り尽くしている。そのような動きと身体つき。そして能った天賦と、なればこその孤高。
薄汚い王靴村―――規模としては市街だが自治と自警の荒み具合からして認定を受けそうにない場末だ―――を流れる薄暗い喧噪の中から、際立って暴力的な騒音が高まりつつあったとて、影は毒蛇ゆえに関心を持たなかった。無関係だったからだ。関係してくるならやり過ごす。なお首を突っ込んでこられたら、その根に牙を刺し込めばよい。だから、いつだって漆黒の瞳は眸底から平穏と恬清に満ちていた。これもまた常ながらのことだったが……だからこそ鬱屈し、やや屈託してもいた。
そして。その場に佇み、すっと右手を顔の横へ挙げ、正面へと手の甲を示しながら、手套を半ば剥いだ時も、そうだった。夜欠銀の指円環―――それが相手に視認しうるところまで、中指を見せつける動作。それから、手套を戻したその中指で、片耳の横から頭巾を広げ、小人のように現出させた魔神がちょこんと肩口にいることを、見せつける動作。
それを受理した店の使用人が、そそくさと影へ道を開ける。ここより先、限られた空間には限られた者しかいない。下足番さえそう在るような飲食店は稀だったが、ないこともないし、あるならばそうあるべくして集う者が存在する。限られた富裕層、限られるべき極道者……才覚として限定されている練成魔士が、そうだったのかは分からない。影が求めていたのは個室であり、夜欠銀の指円環を黙秘してくれる人材だった。ひとり素手にて ゆっくりと食事を取りたかった。癒されたかった。それを、ゆるされたかった。だから、のぞんでみただけ。たったの、それだけ。
階層の頂点にある―――と言ったところで二階どまりだが―――個室窓際の席を眺めて、ひとまず影は安堵した。窓硝子など望むべくもないにせよ、卓上は食卓向きに整えられており、テーブルクロスには刺繍まで施されている。大陸連盟を出て長くなるし、清潔不潔に限っての話でもないのだが、やはり己の観念を他者から保障されると安心した。<彼に凝立する聖杯>で横行していた不衛生な因習に梃入れと差し金と口添えをしたのは、他ならぬ影だった。これもまた古い話だが。
だからただ今は、ほっとした吐息に乗せて、満足を呟く。それゆえ、生粋の嫡流祖語句だった。
「料理も期待していいかなあ。出汁を取った汁ものくらい、ありはしないかなあ? 山脈蝦の殻煎りとまでは図に乗らないからさあ」
「無い無い。水質からして違うもん。ハナから出汁なんて無理げ有りげなアリゲーター」
独り言に答えたのは、魔神だった。ジュサプブロス―――そう呼ぶ者を知っている、それがゆえの、魔神。
ただしもう、影の襟ぐりから、ぴょいと飛び降りていた。そして、くるんと中空で前転して床に降り立つ頃には、影とよく似た体格へと様変りしている。青年と少年の間くらいの男性といったところか。中肉中背に、腰巻きと編み上げサンダルをつっかけて、さながら風呂あがりに寛いでいるような……むしろ風呂あがりでもない者からすれば見ていると寒気を覚えるような薄着だが、やはり風呂あがりじみた上機嫌さで小躍りしつつ、くるくるとステップを踏んで、壁伝いに室内をひと巡りした。編んだ長髪もぴょこぴょこ跳ねている。
それに反感を煽られたのでもなかろうが、影が影であることをやめたのも、そのタイミングだった。要は、頭巾を後頭部へと払いのけ、次いで外套そのものを脱いだ。ゼラ・イェスカザになった。まだデュアセラズロだったとしても、本人としては自覚無しに、そうだった。
二人掛けの四角い食卓。その片方の椅子の背に外套を掛けて―――このくらいのズボラにまで目くじらを立てるほどの潔癖症ではない―――そこの席に着き、ついでにため息と頬杖もつく。当時襟足くらいまでの長さにしていた黒髪は、悔踏区域からの風に吹かれっぱなしで生来の癖をひどくしていたのみならず、この時は外套に頭巾がついていたためターバンもしていなかったので、あちこち好き放題に跳ねあがっていた。もとから年齢不詳ではあるが、今ばかりはその風貌も併せて黒目がちのまんまるとした両目をどんより半眼に崩しているものだから、まるきり外遊びに疲れた悪戯っ子そのものに見える。
「組織に もてなされた最後に食べて以来だもんなあ。あれだって下品な調理されてて、薫香も香味も へったくれもなくなってたし。あーあ。余所者って侘しい」
「ぜーたくものー」
「贅沢ついでに言わせてもらえば、僕はあの、原形を留めないまでに具材を火力で軟化させたでろんでろんのアブラまみれゲル状食物を、汁ものだなんて認めない。まんま吐物じゃないか。食器の底まで見通せない汁ものなんて、あるものかい」
「菩提樹って言うんだよ。あれ」
「言いません。ポタージュです」
「分かってんじゃん」
「そーですよ分かってますよ。分かってるどころか、ほかに幾らだってスープのバリエーションは知っています。だからこそ、あんなにも当たり前だった二束三文の学食が恋しいなんて今が侘しいのさ。こんな日が来るなんてねえ。はあ」
「しみじみとぜーたくものリターンめっけ。その大陸連盟を蹴っぱなした最初なんて、食事というのもおこがましいコゲコゲでろりんちょばっかり食べてたくせに」
「むべなるかな、だろ。自炊も野営も、ひとりきりでなんて初めてだったんだ。引率してくれる先生もいないし。過ぎたるは猶及ばざるが如しなのは炊飯とて然り、なんであれコゲつかせて、でろりんちょさ。一事が万事、人間関係もそうだし、人生そのものだってそう。火事だろうが喧嘩だろうが、取り返しがつくうちだから江戸の華ってものだもの」
「中二病もねー」
「ちゅうに? なんだいそれ」
「知らないの? ならどうして言えたんだろう俺? あれ?」
このやり取りの間に、給仕は済まされていた。メニューを選択することなど無い。最高とは、頂点であるがゆえに、いつだって大抵ひとつしかない。少なくとも、この王靴村ではそうだった。
辺境では最高の食事が、ひと揃いである。主食、主菜、副食、副菜、ナイフとフォークと手拭い、そして水。デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザにとっては、磨かれた水差しに清水が注がれているのが、最たる僥倖だった。まあ仮令これが煮沸を済ませた湯冷ましだったところで、それを扱う者から公衆衛生の基礎―――要は飲食物に触れる前後の手洗いなど―――が すっこ抜けていたら、直に生水を飲む以上の惨劇に見舞われるのだろうが、そんなものまで疑っていてはきりがない。あるもので満足する、それを覚えることから人生の太平は始まる。とりあえずここは、水分摂取を果実や酒から済ませねばならないほど劣悪な環境ではない。それで充分だ。辺境なのだから。
手套を外し、指の股から手首までぐるりと清拭を済ませると、ゆっくりと水を口に含む。まずまずの満足を皮切りに、食事を開始した。開始したなりに進み、そして空腹と疲弊が順調に淘汰されていくのにも億劫となってきた頃、それは起きた。
まずは、ジュサプブロスから。もとから根明だった顔つきを、更に景気よく、にぱっとさせた。
「―――あ。ねえ見なよデュアセラズロ! あの窓の下んとこ!」
「って君から呼ばれるってことは、思ってるほどゼラに馴染めていないんだなあ僕。それとも疲れすぎかな。まあ、こんなとこじゃ僕がなにを嫡流で喋ろうが、誰も分かんないだろうけど。それでも……やめないか。ジュサプブロス。めっ」
「俺じゃなくて、見なよ見なよあっち!」
「ジューの馬鹿」
「ほ・ら!」
ちょうど食事の最後のひとかけらの咀嚼を終えたところだったので、しきりに魔神が指差す先―――眼下に横たわる裏街道を、見おろす。店の前より外れた路上にて、若者が群れていた……ただし陰気で、しかも血気を滾らせて。それぞれに対人殺傷能力を特化させた武器を携帯しているようだが、どれもこれも一見して、原始的な構造を伸び悩ませたものばかりである。釘を打った棒や角材がいいところで、やたら角ばった拳だけの者もいる。群れは、五対一に分かれていた。私刑の好例だ。これから五人で、ひとりを吊るし上げるのだろう。それだけだと思えたのだが。
思えていたことが覆されたので、思わず目が留まる。留まり続ける。
―――それが以降十年を越えるなど露知らず、ただその時は物珍しさにかまけて、目をしばたいていた。
「おや。あの子。直線的に疾走することでスピードを上げて、追ってきた五人が足の速い順にばらけるのを狙いすまして、縦隊モドキの先頭に襲い掛かった」
「アッタマいーい♪ ナデナデしてあげようよ。念力で」
「あとでね」
「すんの!? あんの念力!?」
「襲われたのは、拳のみ武装の無手者か。身軽だけに、特攻して馬鹿を見たな。まあ正直者が見るのは、いつだって馬鹿だ。あの子が振るう金属パイプには敵うまい」
「うん。今じゃっかん嫌な音した。ここまでした。回復してからも向こう一年は悪夢が不定期上映される系の音した」
「お。しかも、その転ばせた一匹目を、躊躇なく渾身からの連打とくる」
「ワン・ヒット、ツー・ヒット、スリー・ヒット、ぼんばーいぇい♪」
「素晴らしい。一匹目の次は二匹目をとの衝動に駆られなかったところが、特にエレガントだ」
「うん。ひとりをブチのめすことで、ほか全員の戦意を喪失させた。ワン・ストーンにてツー・バード。おーお、連中みーんな尻尾巻いて逃げてく逃げてく。冴えてるーう。ひゅーひゅひゅー♪」
「まあ僕なら、人ひとり通れるかどうかって細い路地に誘い込んで、そこに入ってきたひとりずつから始末するかな。体力が温存できるし、体格差を有利に変えることが出来る上、囲い込みを防ぐ。これにて一石三鳥」
「練成魔士ならそれでいいかもだけど、ただの人じゃあ駄目ダメだよ。それ土地勘無いと背水の陣じゃん。挟撃されたらどーするの?」
「そうだね。リ・アクションに潜む危険性まで見越してのアクションだとしたら……逸材だな」
「孤児かな?」
「だろうね。身なりからして浮浪し慣れてるもの」
「殺されるには惜しくない? あの逃げた連中、のちのちもっといっぱい引き連れて、寝入り端あたりまでつけ狙ってから死ぬまでボコるよ? 数は喧嘩の基本だもん。喧嘩の勝敗ってのは、勝ち負けそのものはもとより、勝った気分が落着しないと終わらないもん。でしょ?」
「うーん。それまでに別の靴箱へ漂流する算段なんじゃないの?」
「なら余計に都合いーじゃん。連れ帰っちゃおうよ。もろもろ考えたら、早い方がいいって」
「そうだね……おあつらえむきにも、女の子みたいだし。僕の目に留まるくらいだから、あの子もザーニャくらいには見られた顔をしているんだろう」
「均整はとれてるっぽいけど。最低でもあのベッタリ返り血を拭いてもらってからじゃないと自信持てなさげー。しゅん。しょんぼり」
「駄目モトには違いないさ。へこたれるのは、空振りしてからにしておきなさい。でもまあ、希望の一縷くらいは、ここで見つけた……のかな? 自信ないけど」
「あ。言い訳ぽろりんこ」
「ああ。くたくた。ちょっと限界。禍福は糾える縄なわの如し―――と、なるや否や……にせよ。チャレンジなんか、さっさと済ませよう」
そして手套を嵌め直し、個室のドアの外に控えていた執事―――か店主当人だろう、多分―――へと声を掛けた。ドアが開かれ、主人のいる部屋に立ち入らぬよう品行が染みついている彼が一礼を済ませるのに頷いてから、依頼する。
「君。これと同じ料理を、ここへ。そして、あの路上にいる長い黒髪をした子を、丁重に招いてくれたまえ」
「かしこまりました」
執事―――と今はしておくか―――は従った。
そして、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザの皿を下げ、対面の席へ配食を済ませた者と入れ違うように、戻ってきた。無論のこと、さっきまで遠目にしていた子どもを連れている。
そうしてみると、遠目だった時より減点箇所が増えてしまうが、これもまあ仕方がない。まずは、えらく汚い。砂埃どうこうより、乱闘した際に被ったのだろう血液だか胃液だかと目される粘着質の斑点が、服と言わず髪と言わず付着していることが気になる。それは少女当人こそ違いないようで、背中まで伸びっ放しにした黒髪がまだらに乾いて固まりつつあるところに、しきりに手櫛を突っ込んでいた。その反対、もう片手には金属パイプ。これも昼餉を供とした憩いの場にはそぐわないが、マイナスポイントとしてカウントするには微妙なところだ……大人の腕ほどの長さがあるかないかといったそれは、多少でこぼこしているが、形状そのものは概ね直線を保っている。金属の……しかも丈のあるパイプなど、そこいらに気安く投棄されているはずもないので、相棒にしてどれくらい経つのか見当もつかないにせよ、力任せに振るった変形跡が少ないのは、一定の自制心と判断力があると見なせる材料だ―――まあ、それこそ自制心と判断力など、その双眸を一見するだけで顕著ではあった。琥珀の目をしている。色味よりも風味に、それを感じる。人を誘い蠱惑を産ませる純度に、人を蔑み困惑を膿ませる透徹感。要は、己の優勢を信じてきた者が、かちんとくる気配。そして、純粋に整った容姿。特に目許が甘い。そこに触れたいという欲の萌芽に屈服されたと屈辱感を覚えたならば、それよりなお権勢を誇示せんと殴りつけにかかってくる輩が出没したところで致し方ない。
「こりゃあ喧嘩を安売りされるわ」
口笛まぎれに猪口才な軽口をくれてきたジュサプブロスをぎろりと睨み上げた一瞬だけ年相応らしい稚気が出たが、その少女はやはり無言でその場に佇んでいる。
デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは手振りで執事を退室させ、その片手で己の対席―――と、食事を示した。今度こそ、ここの風土に合う言葉で話しかける。
「掛けたまえ。そして、召し上がれ。今ほどの勝利は痛快だった。僕は、君のファンだ」
すると少女は、頓着せず金属パイプを捨てた。さっさと座席に座ると、手拭いで口許だけ ごしごし扱いて、ナイフとフォークを取る。
「手づかみで行かない。文明文化的に飼育されていた形跡あり。今後は語彙数に期待」
「しっ」
小声と指の仕草で魔神を制して、練成魔士はそれらしい審美眼を取り戻した……と言うよりむしろ、医者としての観察眼を強めていた。服というか、あぶらじみた襤褸切れをどうにかこうにか肩掛けにしている少女からは、羸痩とまでは行かずとも幾つかの栄養失調が板についてきた背格好が透けて見えた。急激な飲食は催吐剤になるどころか、悪くすると潜伏していた病気まで活性化して死に至らしめることもある。まあ、がつがつと貪り出して、こうして十分足らず、―――吐き戻すような臓器の振幅も外見上から観察されないし、未熟なりとてギャング五人を返り討ちにする体力もあるのだから、後者の不安も無いと見積もっていい。
そして完食するのを見計らって、声を掛けた。
「食べたね」
「食える物だったからな」
ぶっきらぼう極まる物言いだが、声音そのものは清んでいる。喉が潰された痕跡も見当たらないし、会話を続けるのに支障は無かろう。
座面の上にて、手拭いで顔から髪から足の指の間から拭き始めた――― 一応順序が上から下なので見なかったことにしよう―――少女に、問いかける。
「罠を疑いはしなかったのかな?」
「ここまできて騙し討ちとか馬鹿だろ」
「度胸もあるか。ますます好みだ」
練成魔士は、ひょいと眉を上げて、椅子の背もたれに凭れかかった。すると、少女が雑巾―――もう雑巾だろう?―――を床に投げ捨てて、攻撃色を満たした両目もろとも、歯茎まで犬歯を剥く。
「うそざむい生き物だな。お前。俺と近いのに遠くからものを言う」
「おや、ここで意外な見識とくる。願わくば、根拠を聞かせてもらえまいか?」
「さむいだけなら服を着ればやりすごせるが、うそざむさは、そうじゃない。中から湧くだけ防げないし、中なんだから始末に負えない。それと同じだ。きっと、近づけば近づくだけ遠ざかる。もう遠すぎてるぞ、お前。どこから人間になり損ねた?」
「言ってくれるね。他人様に向かって。何様のつもりだい?」
「ヒトサマ? ハッ。だからこそ、こうして俺みたいのが突っ転がすんだろ。俺が人間に見えるか?」
―――と。
思わぬ不意打ちを食らってしまったことに、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは、ぽかんとするまにまに感嘆してしまう。
「驚いた。三人目だ。これも……縁か」
「はあ?」
「―――……君は今、どうして、僕とこうしていると思う?」
つい乗り出しかけた身を引いて、文言を継いだ。
「ぶっ殺すぞという目をしているが、まあ聞きたまえ。僕は、君に食事を与えた。君は、それを食べた。僕には、それだけの力があった。支配する力があった。食事を用意させる力で、君を従えた」
「金があったってことだろ」
「短絡的にはそうだが、その金銭がどこから来るかを考えてみるといい。常に流動する貨幣、その循環が己の懐へ向くよう、支配する力。それはなんだ? 労働する体力。カツアゲする暴力。貢がせる精力。商売する知力。世渡りする胆力。人目を虜にする魅力。ずる博打でピンハネする技術力。どれであれ、内から外を―――なにかを支配する力だ。人は、いつだって何かを支配したがっている。そのベクトルの伸長を欲だとするならば、それに力が宿ることにより、支配を遂げるケースが増える」
「金はあればあるだけ湯水のように使える。それはそうだろ」
「支配したい、その力と欲。そのすべては、僕にもある。君にもある。誰にでもあるその混沌に、のぞむならば指を突き込み、のぞみを成そう・得ようと僕らはする。ひときわの奇跡を紡ぎ出せるよう祈りながら。その成功率を上げたくはないか?」
「上げる?」
「誰よりも、欲しい時に欲しいものが欲しい場で手に入るように、―――なりたくはないかな? 支配者に」
生理反射的な拒絶を呑み込んで、呼吸と思考を沈める少女を見て、やはり機知のある子だと実感する。一回こっきりの餌付け程度で手放したくないと思わせるくらいには。
それに賭けて、口火を切った。
「要はね。契約しないかと持ちかけているのさ。これはビジネスだ」
「犬死にさせないよう飼ってやる見返りに、野良犬から番犬になれって腹か?」
「勘もいいな。しかし違う。犬ではなく、巨人になってもらう」
「は?」
「まあいい。契約した場合の見返りについて具体例を挙げよう。まず僕は、契約者の身の安全と衣食住を粗々ながら保証する」
「だから飼うってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。そして、知識と教養を与える」
「……働くだけじゃなくて、勉強しろってことか?」
「ほう」
考えるよう追い込められて、欝々と苛立っていく少女と反比例に、練成魔士の内心の満足は増えていった。その影響で、ジュサプブロスが三回転ジャンプ後方ひねりマックスロードヴァテバーアライオンズタックルなど決めているが、まあ無音かつ背後なので少女は気付かないし、練成魔士にはそれこそ重要ではない。
「知識。教養。それら単語の形骸であれ、……こんな子どもなのに、よく通じたな。頭の程度か、インプットされる環境にいたのか。前後の文脈からの当てずっぽうにせよ、ますますの勘の良さに期待するだけでも悪くない……」
「なにぶつぶつ言ってんだ。話しかけておいて、勝手に遠くなるな。俺がいるんだから、話だけでも戻せ」
しびれを切らして噛みついてきた少女に、言われるまま矛先を返す。
「そうだ。勉強してもらう。学んで……もらう」
「なにを?」
「なんでもいい。それは、なにもかもと言う意味でもある」
「なんで?」
「知ってしまえば、知らずにいた自分へは戻れないからだ。それは支配であり、力となり、欲ともなる。その上、中毒になる。今さっき、君がやってのけたろう? 通常、多勢に無勢だったはずの戦況を、戦法で打開した。これもまた支配だ。支配者たる……偉容だ」
「考えなしじゃなくなれば、転ぶ前に杖を用意しとけるってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。剣を持つなら素手に勝るし、そこから更に剣術を身に付ける玄人となるなら、剣を持つだけの素人に勝る。そうして、そういった切り札のストックを……増やす。神様からふっかけられてくる艱難辛苦を、手札を弄してイカサマすることで切り抜ける。アーギルシャイアでもない身の上では、身の代に差し出せるのはそれくらいなのでね」
そして肩を竦めて、片目を閉じてみせた。もう片目から―――伏し目がちにさせたその奥から、目線を眼前の少女にくれる。秘密めいた雰囲気で、反対側の目蓋の内側にこもった闇を見詰めながら。
「ただしこれは、諸刃の剣だ。快と悦の中毒は本質的な本能であり、後悔を覚えるまで依存症を拗らせたところで抜け出せる者は少ない。知れば、知っただけではいられなくなる。不味いものより、美味いものを食べたくなる。面白さを知れば、暇を持て余すようになる。歌は歌ううちに誰かへ捧げたくなり、そうして募らせた情は誰かと育みたくなり、極まった先で繁殖する。ありとあらゆる増長に際限がなくなる……混沌は加速していく。畢竟ここは楽園ではない。希望があるせいで、絶望するだけで死ねる世界だ」
「…………」
「今の君にこういった言葉遊びは不毛なようだが、これからはそうではなくなる。理解する。なぜかと言うと、僕は君の生活と安全を保証したのち、そのように教育するからだ。語学や数学や処世術のような社会的能力基盤に限った話ではなく、喜怒哀楽を偏向させないよう振る舞うよう努め、与えた名前で呼び、基本的な人権を保護する―――保護を要すると判断したその時まで、あらゆる投資を絶やさない」
「世話してくれるってことだろ」
「そう捉えてくれると都合がいい。産声を制御することさえ儘ならなかった、自律的なだけの、泡沫たる肉の塊―――それを、立てるように支え、歩けるよう導き、走り方を身に付けさせた上、それを他者と競い合い、かつ勝利する―――その、ありとあらゆる般若波羅蜜多を、どこまでも……刷り込む。食事。寝床。学び。将来。世界。もれなく、くまなく、一身に後継するがいい。言わば、親子だ」
「うまい話だな」
「裏があるのでね」
「じゃあ引っ繰り返してそれを見せろよ」
「契約内容に目を通し、契約者となるなら、それ相応の名前を、そこに綴らせよう。その端緒から……名乗ることを、誓いなさい」
少女は―――
奇妙な反応を見せた。泣くでもなければ笑うでもなく、敢えて言うなら泣くか笑うか出来ればまだしも突っぱねる根拠になったろうにといった諦めのゆるみ顔で、目鼻のきわをひくつかせた。ただし、正念場そのものに幻滅してはいなかったようだ。勢いが目減りしたせいで、より勝気さが露わとなった口ぶりで、吐き捨てる。
「……名前くらい、どうってことない。勝手に呼べ」
「と言うことは。契約するのかな?」
念を押されて、少女は首肯した。
「ああ。する。罠だって分かってても、家なら……帰る。そういうもんだろ、家ってのは。それがないのは……しんどくなってきたところだ」
「罠ではない。これは契約だ。君は一般社会からも裏社会からも使い捨てにされるだけの野良ではなくなり、こちら側のシステムに入ることになる。システムは君を守る。それは契約に含まれている。契約者を名乗るうちは、安心したまえ」
「名乗るから、言えよ。契約って―――俺に、なにをしろって言うんだ?」
「育て」
机上で指を組み、そう告げる者は、今はデュアセラズロ・ゼラ・イェスカザ。その者は言う。我知らず、問いかけを肩代わりしていることに気付かぬまま、だからゆえに続く。
「成長なさい。どこまでも。僕は君に、それを期待する。君は、子どもだ。その未知なる怪物領域に、超人をも凌駕する限りない巨人化を―――僕は、のぞむ」
問いかけ―――ならば、問うたのは誰か。それに思い至るより先に、隙間から、声が届く。
後継者は誰だ?
「契約内容は、ただひとつ。シザジアフ・ザーニーイを超えろ。それだけだ」
□ ■ □ ■ □
小金を上積みして、執事を使い走りへと変貌させたデュアセラズロ・ゼラ・イェスカザは、ひと時の暇が終わったことを知った。丁寧にあぶらを注された蝶番は音も立てないが、ドアが開けばさすがに気付く。風雨にさらされた案山子が殺意のもと野犬に蹴倒されたかのようにみすぼらしかった風体を一転させて、少女が戻ってきた。
適当に身づくろいしてやれと命じた割に えらく時間がかかっていると思っていたら、どうやら湯を張った桶にでも沈められていたらしい。砂利や土くれどころか垢や古びた瘡蓋までも剥けて、地肌らしい赤銅色の肌に、桜色のアクセントをちらほら撒いていた。お着せにされたシャツやズボンよりも、まだ湿っている髪の重さが気になるようで、しきりに仏頂面で首を振る仕草を繰り返している。耳に水でも入ったのかもしれないが。
執事は、それに特に世話を焼くでもなく、控えてみせた。こんな界隈だ。買われていく少年少女を支度することもあるのだろうが、その仲介人としては、まあ冷たくもそっけなくもなかろう。
とりあえず、感想を口にする。それくらいには感心していた。顎先に片手を丸めて、まじまじと契約者を見やると、
「ふむ。小児用とは言え、男装をさせれば、男児のようだ」
「男児ですが」
「…………は?」
反応は出遅れたものの、執事はそれに配慮するようでいて、節穴に迂遠な舌打ちをくれてくるような遅いテンポで、こちらへと言い聞かせてきた。
「差し出がましいようですが。こちらのお子様は、男児です。服を誂える際に、多少なりとも身ぎれいにさせて戴きとうございましたので―――勝手ながら、先立って、湯浴みを。それを、手伝わせて戴きました」
「俺は男だ」
当人からも断じられる。更には、
「それでは、失礼つかまつります」
と、部屋に残された。己から断言して少女ではなくなった契約者と、練成魔士に使役されるなら魔神でしかない存在と、その練成魔士―――か、影か、あるいは毒蛇か、それ以外なのか。一向に分からないとしても、兎にも角にも。
ひとまずは、デュアセラズロ・ゼラ・イェスカザ。彼は、顎の前から眉間へと、片手を移した。そこを隆起させた皺を揉みながら、その凹凸の深さと重さに、やや俯く。そして、
「ごめんあそばせ。そこな―――少年」
「うぜえ。うぜえな。遠回し。そんなもん俺しかいないのに。目の前から。うぜえ」
「ひとつ質問を許したまえ」
「さっさと言えよ。うぜえっつってんだろ。うぜえの一個くらい聞けよ新手の馬鹿」
「髪だが。どうしてそんなにも長い?」
「どうしてって。どうしたって伸びるだろ。毛なんだから」
「ああ。切らない信仰なのか? 後進国ゆえの未開化か? それとも未熟なりの主義か? 願掛けか? おかあさんの床屋さんじゃないと切らないのか? 切らないんだろうな」
「やっぱ新手の馬鹿か、お前。切ってくれるような奴とつるまなくなって長かっただけだ」
「…………あー」
その得心は、ひとりで抱えるには重すぎた。なので、ジュサプブロスに話しかける。本心を垂れ流すのに相応しい、嫡流祖語句で。
だから、聞き取れたはずもないのだが。ジュサプブロスとのそのやり取りは―――夢を見る今では、もう理解している。契約してしまった今となっては。
「うーあー。しまったなあ。やらかしちゃったよー。砂場に引っ込んで<彼に凝立する聖杯>の面子覚えちゃったうちに、僕こっちの顔うまく見分けつかないの忘れてた。髪の毛と顔で騙された。服装だって真面じゃなかったし。俺って言い張ってるのも、土人なりの土着の風習だって納得してた」
「やーい。間抜けー」
「あのねえ。こんな時の君じゃないか。ジュサプブロス」
「無理げ有りげなアリゲーターりたーん」
「ああそうだよ。百も承知さ。僕が、男の子かも知れないと考えもしない以上、君のアンテナは働かない―――結局のところ、僕らは核心だ。だから人型になった途端に、君は僕の本心を言ってしまう。嘘でも本当でもない、本心をね」
「けれども人型より下等に出すと、思った時に思ったように魔術を振るえなくなるもんね。どーせ子爵ですよーだ。ぷんすか」
「けれども、だとしたら……ねえジュサプブロス、まっさか素知らぬ顔してトシ三十越えてるとかないよねえ? この子」
「ないよそれは。ちょびっと栄養不良だけど、細胞めっちゃ若い。生まれてから十年経ってない人間種族の幼生」
「どうしよう。やり直そうか。まだ間に合う?」
「えー。やめとこうよ、勿体ない。男の子なら、男の子でいいじゃん。十年くらいしたら、この子が勝手に えげつない裏切り者になるだけだし」
「まあ、それもそーだねえ。名前も……このまんまでいいか」
そして、旅立つことになる。
左の耳朶にリングピアスを開けて、その痛痒すら失くしてからも、旅は続いた。市街を渡り、都市間公道を横切り、三戒域の中へと向かう中で、警戒環四杖点すら見失う―――ふたりで歩いた、どんどん白けていく色彩と、開けていく光景と、旅路を……覚えている。
そう。旅立ちだと思っていた。そうではなかったこと、夢見る今はそれさえ知っている。
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