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転章
転章 第五部 第二節
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なんであれそうだろうが、物事を上手く運ぶにはコツがある。あるならば要ることを知り、それを手中にする者から抜きん出る。得手・不得手、幸運・不運―――そういった自力で采配が利かないものは諦めるにしても、もう少し自由が利く能力に関して、執着しないのは噴飯ものだろう。勉強とはその最たるもので、間違いを覚え未熟を知るためにするものなのだから、それを痛感させられ傷つくだけで終わらせる者から転落していく。忍耐を試され続ける辛さより、諦める理由を数え上げる方が楽だし傷心も膿まずに済むのだから、それはそれで賢く保身に長けているとは言えた―――ただし、保護色を有する幼虫ほど、捕食される傾向が強いからこそ備わった能力だ。いかな能力であれ、前提を弁えて使用しているかどうかで、後世に演じることになる劇の演目と役回りが振り分けられることになる……同類愛溢れる人情劇の主役、弱肉強食の殺戮劇の被害者B、世間を拗ねて僻んだ末の逮捕劇の端役、こんなはずじゃあなかったのにと泣き叫ぶ悲劇のヒロイン、それを見て笑い転げる観客―――赤の他人からすれば、様ぁないわの喜劇。劇。劇。劇。悲喜こもごもに、あれよあれよと幕は開ける。劇? そうとも。劇薬かも知れない。知らぬが仏だ。使ってくれよう。
ともあれ悔踏区域外輪を行くコツとは、なにより忍耐と言えた。常時、悔踏区域から吹き抜ける風は体力を奪い、日差しを乱反射する雹砂は目を焼く。日光に関していえば、曇天を突き抜けて光が差しだす旭日時は、特に危険だった。雹砂を知る農夫は、働き者であるほど朝寝を好む……お天道様がお出ましになる頃には平伏していなければ寿命が縮む、天辺まで行く後ろ姿を見送るために頭を上げるから天道にあやかれるんだ、目が黒いうちは白くするような真似しちゃいかんと、頑として譲らない。言い伝えとは不思議なもので、経験則から真理を体得していることも多いのだが、これは中でも最たる適例と言えよう―――医学的見地から述べるなら、刺激が負担となる都度、人体組織は新陳代謝が劣る部位から金属疲労を蓄積していく。眼球とて例外ではない。
「白内障。それが、その疾患名です」
その頃には、疾患名というのがなんなのかも、契約者は理解するようになっていた。
分かりやすい長文は圧縮すると難解な単語となる。それを平易に噛み砕いて与えてくれるのが親というものなのだろうが、自分がどうしたところでこのフラゾアイン―――これも今では知っている―――の在り様は如何ともしがたいのだから、つまるところ、こういった頭の離乳食も、忍耐ひとつで乗り越えるしかない。自力に合わせて、噛んで含む。ひとつふたつと無知を自覚し、みっつよっつと解説を願い出、いつつむっつ先を見据えて、ななつを下積みにやっつ目を既知へと置換すべく埋めようと……頑張る。踏みとどまろうと、今はする。
だから白内障とやらについても、少年はひとしきり知っておくことにした。悔踏区域外輪の午後の暮れ、最後の小休止だという時間を潰すのにも、それは丁度よかった……ついでに金属パイプも失うまでに返り討ちにされることに疲れ切っていたので、事細かに反逆感を駆られる内心を誤魔化すのにも丁度よかった。石やら骨やら組み上げて作られた、奇っ怪な柱―――旗司誓という連中が、三戒域を行き来する際にランドマークにしているというそれを背に、ふたり揃って外套の襟を握り込みながら、地べたへしゃがみ込んでいる。雹砂が濃くなるにつれ植物群は幹を下げ、葉を小さくして地上に這いつくばって身を守ろうとする植生が強まるため、このあたりまでくると強風を割るような大木など珍しくなっていた。だからこうして風の坩堝にいても、ほどほどに意識するだけで会話は通じる。
真横を見上げるが、指南を欲する凝視に気付いてくれそうになかったので、それを言葉に変えて告げた。
「はくないしょうの、音の切れ目と、字を教えてもらいたい」
「いいとも。それは―――はく・ない・しょう。白い、内側の、障りある状態、と書く。君はこれを、どういう病状だと類推する?」
「目玉の中が白っぽくなって、見えるのに差し障りが出る、しっかんだ」
「やはり冴えているな。そう捉えてくれると都合がいい。では、目玉の中に詰まっているのが何だか、知っているかい?」
「……涙か?」
「―――ジンジルデッデが好みそうな風流ですね」
その時ばかりは苦笑をあたたかくゆるませたが、独り言を済ませると、さっと養父の面の皮を張り直した。
「おおよそ、眼球は球形だ。この皮張りのボールの中には自前の水と肉が詰まっていて、ボールの前面中央にある水晶玉を筋で吊っている。光の出入り口が、この目の真央にある黒い孔……瞳孔。瞳孔まわりにある色づいた輪が、虹彩。ふたつを合わせた名称が、瞳。虹彩の色は多種多様で、僕は このとおり夜空の闇色で、君は その通り月神の蜜色をしている。これだけでもう、僕と君の世界は すげ替わっている」
「え?」
「黒という色は、光を遮る性質を強く持つ。だから僕は、夜明けを見ても、君ほど眩しくは感じない」
「……あの御来光の中でも動けるってことか?」
「まず嘘つけと口を衝かなくなっただけでも成長したな。そうだよ。つまりは、そうだ」
「便利だな」
「そして、その便利さに調子に乗って使い込んだが最後、しっぺ返しを食らうのは、まず僕からだろう。それが白内障だ」
「どういうことだ?」
「あまねく光は、瞳孔から水晶玉の奥までを貫く。眼球内に詰まっている水は日々入れ替わるので、内側に付いた汚れを流し傷を癒せるが、水晶の粒そのものは取り替えられない。つまり経年劣化を蓄積し続ける。ついには傷だらけになって白濁する。しかも古傷が硬くなり、目の焦点までが一点で固着してしまう。重度の白内障患者と対面すると、瞳孔から、白く煮こごった水晶玉が見えるのさ……目が黒いうちは白くするような真似しちゃいかん、という由来はこれだろう。いたみの実感が伴わない―――だからこそ人の身であれば受けざるを得ない、そういった日常的なダメージだ。家族に似ている。最強の免罪符だ」
「…………」
「なんの話だったかというと。要は、睨み合った瞬間から勝負は決まり始めているということだ。こいつは光に弱そうだと思えば、太陽に背を向ける立ち位置に陣取るだけで有利になれる。それもまた支配者への一歩だ」
「じゃあ、太陽に向かってしまったら?」
「君ならどうするね?」
「どうって……立ち位置を入れ替わるように立ち回ればいいのか?」
「集団戦であらば一利ある戦略だろうが、一対一の戦術ではそこまでして欲するような手札ではない。後者にて、しかもあえて光に関係した手をと欲するのなら、刃物の抜刀ついでに目を狙って陽光を反射させることにより、天然の目つぶしを狙うくらいか」
「……すげえ卑怯臭ぇし地味だな」
「そうとも。卑怯臭いし、地味だ。ただし、王道的な正しさや結果の見栄えばかり重要視し価値を断じるのもまた、衆愚的な見地に侵されたなりに愚かしい。海老で鯛を釣った福音譚など特に美談にされやすいが、経過を体得せずに得た成功など実力ではないので、二回目以降の成果は期待するだけ馬鹿馬鹿しいし、九分九厘普段は役立たずだ。むしろ鼻にかける材料になるだけ、目と鼻の先をちらつかれて鬱陶しい」
「うーん……?」
「山勘が試験で当たることはあるだろうが、その高得点を得続けようとするなら、鉛筆を転がす占いよりも鉛筆を減らして修学した方が堅実だ。それっぽく技名を叫びながら万力を込めた素振りをするよりも、日々のトレーニングを欠かさない方が、秘儀必殺は編み出せる。痩せたいなら、三日間の断食よりも、三年前から腹八分だ。忍耐することからの逃げ出したがりの順に、手に入るものが遠のいていく様を見て嘆くのは、己が手に入れる努力を諦める楽さに飼い慣らされているからだ」
こちらが腰が引けているのは分かっているだろうに、それでもついでとばかり、多弁を接ぐ。
「これも医学的見地から述べるならば。海老で鯛を釣った者が、またしても海老で鯛を釣りたがるのは、海老で鯛を釣った瞬間の快と悦に中毒となっているからだ。成果そのものより、成果を得たその時に感じたエクスタシーに嵌り込んでいる。だからこそ、損をすると分かっていても、齧りついて中断しない。成果とエクスタシーを混同している。つまりは馬鹿だ。馬と鹿を見分けていない」
「ええと……」
「まあ、どのような端切れに思えたところで、札は手の中にありさえすれば、なにが切り札となったところでおかしくない。ひとまずはこれも、頭の引き出しへ入れておきなさい。使う時が無ければそれまでだ」
「はい。義父さん。瞳孔、虹彩、瞳、水晶玉、白内障……」
それぞれの名称。それを数え上げるべく、指折りながら口にして……
つと、そのことに気付いた。手を浮かせたせいで、派手に捲れて飛んでいきかけた外套を、慌てて胸倉に引き戻しながら。
「俺に名付けた、義父さんの……名前は?」
「ゼラ・イェスカザ。だけだよ。今は」
「今は?」
「まだあるのさ。呪文のように。呪文なら……全部となえあげたなら―――なにが起こるのか?」
「また言葉遊びか」
飽き飽きと水を注すのだが、養父は更なる繰り言を世迷わせるだけだった。
「当然じゃないか。楽園は失われた。はじまったからにはもう、世界には、それしかない」
「けっ。うそざむい奴だ」
「さむいのが嘘なら、さむくないはずだ。ならば、背筋を侵す、さむけは何だったのだろう。それは、どこから来たのだろうか。存在するのに、ない。ないのに、ある。それもまた未知なる怪物の領域だよ」
「黙ることすら出来ない新手の馬鹿に威張られるほど、世の中、世間知らずじゃねえよ。御大層な言い回しなら、騙されてくれる甘ちゃんに言ってやれ」
途端だった。外套が、ばっと目の前に広がる。着込んでいるし、手の中にその感触も掌握しているのに。
ぎょっと息を呑んだ隙に、その視界を閉ざしてくれた外套ごと、首から後方へ押し込められた。
左手である。外套が落下した―――眼前、今ばかりはフラゾアインらしい妖気を刷いた両目を怒気で煮込んで、左手ひとつで少年の細首を背後の岩壁に押さえ込んでいる。よくよく見れば、その外套も養父のものだった。おかげで契約者が自身の外套から手を出して引っ掻こうにも、分厚い生地が邪魔をして爪の一枚すら通さない。養父が右手と脚線を用いて、間に幕を張るように固定していた。
「この―――ぶっ殺すアマ野郎!」
「義父さん、だろう。その契約にこそ守られていると思いたまえ」
慇懃さながら、侮蔑を吐く。
「抜本的なことを教え忘れていたが、ふってわいた他人とは基本的に不愉快で受け入れがたい存在で、大人と子どもなどまさしくそれだ。どうしようもない社会的見解から飼育保護員と保護動物とに役割を強制される時点から不本意なりに腹立たしいのだから、子どもらしくそれ相応の分け前に与っているうちは、保護する価値がないと自白するような軽挙妄動は慎みたまえ。子どもならば、大人びるより先に、子どもらしい賢しさを発揮しろ。それを……学べ」
「くそ……!」
「こちらとて放任せず、糸口くらいは与えてやろう。子どもの特権は、ただ子どもであるそれだけで大人と有利に取引を運べることにある。愛らしく振る舞い懐柔しろ。無垢を装い機嫌を取れ。無能を役立て手を借りろ。それすら怠る不勉強者が、いっぱしに無償の愛なぞ乞うな。口ほどにもない身の程知らずが。身の程を知れ。そこから―――はじめたまえ」
「……ちっくしょ―――う……」
「どうだ? そろそろ血の気と気が遠のいていく音が聞き分けられるか? それとももう耳鳴りで潰され聞こえなくなっている頃かね? このように頸動脈を圧迫するだけで人は扼殺できる。非定型縊頚だ。闇雲に気道ごと絞搾するより、要する力量は三分の一以下で済む。気絶させるまでに掛かる時間もだ。言っておくが、今の僕は手抜きしている。通常は十秒かからず失神だ……」
と。
どさ、という物音で意識を取り戻す。横倒しになっているのは皮膚に食い込む感触で知れるが、耳鳴りまみれの吐き気のせいか平衡感覚も狂っていた。必死に地面を掻こうとするのだが、じんじんと痺れた手足の先は敏感で、互いが触れ合うだけで痛む。氷水に突っ込んだかのような、神経から凍みる激痛である。
それでも足掻こうと、歯を食いしばった瞬間。見計らっていた正確さで、伸びてきた手指が喉元に―――掛けられた。
「まだ抗うなら、次は気道の方のみで縊頚を試す。僕が要する握力と時間は先程の倍程度で済むが、君が体感する地獄は陪乗と思いたまえ。まあ涙液唾液どころか糞尿の始末もつかんうちには、こちらとしても率先的に実地したくもない授業だがな」
「なん……だ、と?」
「二日前が最後だ。宿で寝るようになってから、急に夜尿症になったろう」
間髪挟まず断定されたこと。それそのものではなく、断定しておいて今まで黙認し続けていたこと―――大目に見られていたこと、その自覚のなさに悶死しそうなまでの羞恥を覚えた。
それを喉奥に詰まらせた感触を、まさか指先に感じたはずもあるまいが。こちらの首から手を引き戻して、屈身していた養父が立ち上がる。
「小便で済むうちで済んだが、漏らすのが大だろうが小だろうが次からは正直に言え。金の払いも店主への謝罪も僕の見て見ぬふりも、時間が経つごとに増えられては災難だ」
立ち上がるついでに養父の外套も巻き戻されたため、少年の軽い体躯はあっけなく引っ繰り返った。ごろんと仰向けになって、そのまま……落暉の刻限を前に、赤黒く渦巻き始めた曇天を背負うような構図でこちらを覗き込む養父を、見上げる。彼の口の中を―――見ていた。
そこは、今の空と同じ色だと、……少年の目には、見えた。すげ替わってしまった、ここではない世界に住んでいるものの、口の中。そこに混沌を巻く言葉。
「悔しいなら学べ。諸人の背を超え、巨人の道を行け」
―――起き上がれてから真っ先に成したのは、仕返しではなく、発奮ともやや違っていた。つまりは、まるで元通りのように……腰を落ち着けていた養父の隣に座り直して、尋ねた。ただし今度は、問答を。
「巨人とは、なんだ?」
「おや?」
肩を寄せ合う存在を間違えたとでも言いたげに目蓋を上げてみせる彼を睨み上げて、ひと言ひと言を食いしばる。怒ることは容易い―――だからこそ今ばかりは遠のけて、先を見据えようとしていた。
「その、超人を上回る巨人の道というのは、なんだ? 軽んじられて腹を立てるほど……意味深な言葉なら、深味を手ほどきしろ。ほどけないところがあるなら、手伝え」
「いい判断だ。深味はまさにそこにある」
「は?」
「僕は君に学べと言った。巨人の道は―――ここにある」
と、―――養父は人差し指で、足元を指した。なんの変哲もない荒野である。大きさだけで見れば大小の違いだけだが、よく見ると当人が使い古してきたなりに残してきた癖が違いを広げている靴が、親と子の分だけ並んでいる。その間を……示した。
示し終えると、指先は、そのまま上に上がった。黒髪奥のリングピアスを指されたのかと思ったが、それを超えて、上―――天空を向く。
一本指を立てた掌を挟んで、ふたりは向き合った。
「これは、いくつか? 数えなさい」
「いち」
「これは?」
「に」
続けざまに立てられた中指についても率直に答えると、手と質問が入れ替わった。両手は立て膝の上に乗せて、声ばかりがやってくる。
「次の数は?」
「さん」
「次、次、次は?」
「し・ご・ろく」
「なな・はち・きゅう・じゅう―――その行きつく先を、君は知っているかい?」
一拍の間。
言葉尻を盗んでおいて、更に送り返してくる。
「支配する欲と力。巨人化も、これもまた、同じ。はじまってしまったのさ。過去おそらくは幾星霜、誰かさんが、まあ綺麗だわと出来心から星をひとつふたつと数えた夜から、あの輝きを盗む日は取り決められてしまった」
「星を……盗む?」
「そうだ。いずれ巨人の指先はそれに触れ、触れぬ見えぬ不可視不可触の領域まで達するだろう。ゼロを覚え、いちを知ったなら、それを超えずにはいられない。歩く次に走り、馬車で陸を渡るなら、海を行く船が雲海を進むようになり、青空の果てより先を―――のぞむ。そして、そのように達成し、ゆるされる都度、絶望する」
「絶望する? どうして手に入れたのに、がっかりするんだ」
「手に入るサイズでしかなかったからさ」
「…………?」
ちんぷんかんぷんであることには違いなかったが、要はこれも大それたことをコンパクトにするのに不慣れなだけなのだろう。養父を見習って、弁舌を自分なりに組み上げる。
「その話……フンコロガシがフンを転がすのは身の丈通りのことだけど、転がすうちに土がついたフンと一緒に虫まで大きくなっていったら、どこまでも両方が膨れていくって―――理屈は、分かった。けど、だから今すぐどうかなるってもんじゃないだろ?」
それなりに正鵠は射ていたのか、養父は考え深げにせりふを引き継いだ。
「そうだ。だが、それすら問題ではなくなる。我々は、知恵の果実を食べた。リスクヘッジ・ネットワークは……原罪だ」
「りすくへっじ? ねっとわーく? げんざい?」
「それもまた支配する欲と力のことだ」
「同じ話かよ」
「確かに飽食だな。では、愛と恋について語ろう」
「はあ?」
どう思い返しても嘲る声色だったが、養父は無視してくれた。だがしかし、それもまた、ただ淡々と―――彼なりに巨人の道を進んだのかも知れないと。夢の中なら、今は思えた。
「人は愛する。人は恋する。それが実ると家族を増やし、財を蓄え、家を持つ。家は増えて街となり、市となり国となり国境を越える。この連なりゆく増長は、こわがりゆえに、こわがりながら続く」
「こわがり?」
「我々は、未知の領域にいる怪物を、こわがる。次の一瞬に引かれる引き金を、こわがる。だから、それを支配しようと、我々はやたらめったら埋め尽くしはじめた。血縁による味方を増やすことで生老病死に備え、国家や経済という機構を安定させることで天変地異に備え、宗教・言語・文化・文明―――そういった単位を、同位相化を齎す外部記憶装置として作動させることで、集団と個を結ぶ同一性を強固に補強した。ネットワーク化し、数珠つなぎを螺旋化することで、何倍どころか何乗もの飛躍を成しながら」
「……―――?」
「言ってみれば、産まれた子どもが、似たり寄ったりの親元の群れで安定的に育ち、将来はパン屋さんになりたいと夢を語り合う同胞にまみれながら学校に通い、夢破れても次の夢があると次々に入れ知恵されるうちに独立し、趣味や価値観が共通項の異性と出逢い、二巡目の大いなる輪廻を巡るようにした―――こうして、開いていく螺旋となった」
「動物っぽく生きなくなったせいで、動物に狩られなくなった分だけ死ぬ奴が減ったから、そいつを上手く生活させるだけの仕組みや世話口がいるってことか? 子どもが親になると、父親と母親ふたりっきりだけだったのが、四人も五人もガキを作れるって?」
「そう捉えてくれると都合がいい」
この頃の口癖を遂げて、より小難しい上乗せをしてくる。
「しかも、元来生命体とは死ぬことで遺伝そのものに宿る危険性をリ・セットしてきたのに、脳という内部記憶装置から、文字という外部記憶装置まで醸成した―――さも身近にさも気軽にさも気楽に、風化され失われるはずだった宗教・言語・文化・文明等々を、時を超えて、のこすようになった。時間を……一次元目を、超えた。いずれ二次元目、三次元目と超えるだろう。上下・左右・遠近・時間軸の四次元に閉ざされていたサイクルを解脱し、新たなシステムを踏みながら人はどこまでも巨人化していく」
「そんなでっかくなり続けの化け物に住まれたら、世界なんて踏み抜かれて終わっちまう」
「終わらんよ」
「なんで?」
「その時には世界がすげ替わっている。それだけだ」
すげ替わった世界。
その言葉に深味の一端があるのかも分からない僅かな隙間を見逃した瞬時に、口上が続投されてしまう。
「遠い祖先―――語り部が夜の真暗闇に魑魅魍魎を夢想し、その逸話と呼び名を、焚火の袂で聴衆へ向けて おどろおどろしく うたい出した夜。生物的な恐怖を、知的な未知として埋め尽くそうとしたその瞬間から、とうに運命られた日は訪れ始めている。星を盗む日もそうだ。白内障とて例外ではないよ」
「え?」
「引き金は引かれた。かつてはお天道様に長年ガンをつけた返報とされていた祟りの産物が、おおよそ光刺激から由来する障害だと解き明かされ、天罰でないのならばメカニズムをコントロールできる……其方の名は白内障と、現れた支配者が名付けてしまった。となると、いずれは目の中の水晶玉を守るプログラムを予てより語る語り部が現出し―――ついには、その水晶玉そのものを複製し交換する巨人を招く日が、到来する」
「はあ? 目玉なんてふたつっきゃないのに、どうやって? 神様でもないのに、見える見えないなんて生死に関わる屋台骨を、取っ替えるなんて出来っこあるかよ」
「そうだ。神では成し得ない。神は本質的に全であるがゆえに、表層的には無でなければ成立せず、それすなわち閉ざされた無限の円環だ。完璧で完全だからこそ完結している。数学で言う空集合φ―――零の概念に等しい、繁栄の根源たる滅びの結果だ。だからこそ……開かれた螺旋を行く巨人だからこそ、その日を、招く。それは禁忌と等価たるとしていた設定は、パラドックスもろとも踏み砕かれた。これとておそらく、欲するは許諾すなわち録視書には書かれてしまっているだろうが」
少年は会話の意味不明さに、とうに匙を投げていたが、理解者の不在については養父の方が手慣れていた。実際匙を投げるかのように、見切りをつけた眼差しを遠くへ放ってしまう。それでも、―――最後は戻ってきた。
「ともあれ、だ。さて、我々は、学び、働き、遊び、愛し、恋し―――平凡な生涯だと捉えてくれると都合がいい全ての鋒鋩を、今この時も万端へ向けて構えている。表向きは、手と手を取り合って仲睦まじく融和をはかり、平和が一番だと唱和している。裏向きについては言うまでもない。では、これにてリスクヘッジ・ネットワークは完成を見たのか? 見るものか。楽園は失われた。両極は存在しない。完成などありえない」
「つまり?」
「心。そのありどころは、どこにある?」
「こころ?」
「我々は、イエスと信じることが出来る。ただしノゥだと疑うこともまたやめられない。怪物はそこからやってくるし、引き金はそこを狙い撃つ。だからこれは続く。巨人なれば星をも掴もう―――ただし、握り潰して絶望する。こんな土くれが、あの星だったものかと。次の綺羅星を……求める」
「それは当然だ。火垂る虫だって、ぶちっと潰してしまったら、きったねえ羽虫の死骸だ。元も子もない。追いかけて我を忘れてるうちが華だ」
「そう捉えてくれると都合がいい。だからこその宿業だが、やめられないし、とまらない。やめないし、とめないし、とめられない。果てなくこれは続く」
「まあ、追いかけて我を忘れてるうちは……我を忘れてるから、追いかけているんだし」
「文字は時間を超えた。百年と生きられない人間が、二百年経っても不滅となり、三百年後に後継者を生む可能性を開いた。蓄積が続けば、いずれ数学の那由他は時空を渡り、不可思議の学は時空を読み解いて、無量大数だった欲するは許諾すなわち録視書まで紐解くだろう。そしてその者は不死を得る。クリンツクリンチェの図書館から全知を赦免された時、楽園は三度の喪失を成す―――」
「不死? 死なない者がいることをゆるされるなら、そこは楽園じゃないのか? アーギルシャイアがそうだったんだろ?」
「アーギルシャイアは恋をした。だからもう超人ではなく、誰よりちょっぴり個性的なだけの……たったそれだけの人だ。人だからもれなく、産まれてしまったからしょうがなしに食っちゃ寝するうちに雌雄を覚えたので家族が増えてしまったがゆえ大勢に看取られつつ死んだ―――四十四の艱難と七十七の辛苦を思い出にして、それをうっかり口ずさもうなら、ボケ老人がまたその孤軍奮闘おヒトリサマ戦記自慢かよと孫やご近所さんに呆れ半分に褒めそやされながら。徹頭徹尾から、馬鹿にしたまえよ。それは人の世、すなわち現世だ。それとも、楽園だと信じてみるかい?」
「この世が楽園だって? それを疑わなくなる奴こそ、アッタマおかしいだろ」
「そうかな?」
「はあ?」
「狂っているのは世界の方かもしれない。そのひとりが正気なだけじゃないのか?」
ぐるぐる。くるくる。狂々り。
回り回って目が回る。混沌……のぞむならば指を突き込み、のぞみを成そう・得ようと僕らはする。ひときわの奇跡を紡ぎ出せるよう祈りながら。
その成功率を上げたくはないか?
―――なにを紡ぎ出したいと、のぞんだのだろう。それを考えていなかったことに契約者が気付いたのは、その時だった。
「心は、あるのか、ないのか。あるにせよ、ないにしろ、引き金をこわがるなら進むしかない巨人の道は、未知なる怪物の棲む―――かも知れない、それだけの空隙だよ。いずれこの意味を理解し、その先への踏破がゆるされるよう、祈っておこう」
「いのる?」
「そうだ。僕は父親だ。息子の成長を祈る」
「……はい。義父さん」
「いい覚悟だ。そうして、早く家にも馴染むよう努めなさい」
少年は―――訊き返した。疑問ではなく、もっと反射的なものに後押しされていた。
「いえ?」
「そうだ。家だ。家なのだから、帰れば家族がいる。色々な家族だ。たくさんだ」
当然のように……
それは、腑に落ちた。
「帰ってたのか」
「うん?」
「そうか。帰ってたのか……俺らは。家族のところに」
「そうだよ。我が息子。さて、そろそろ行こう。おかえりが待ってる」
「そうだな。家族なんだから、待たせちゃ……いけないよな」
「良い子だ」
「待ってる家族にも、良い子がいるのか?」
「さてね。それは君が祈っておきたまえ。お代は見ての―――おかえりさ」
□ ■ □ ■ □
「おっかえりー!」
出迎えてくれたのは、その大声だけではなかった。
悔踏区域外輪も、そこからにょっきり突き出た牙城も、夕日に晒されて赤っぽく染まっていた。その両者を蹴り離すように、正面グラウンドから、紅顔の少年が駆けてくる。少女ではなかった、もうひとりの少年は―――今となっては養父であるゼラ・イェスカザの横から……ばさばさと散らかろうとする長い黒髪の奥から、それを見ていた。
直前に、風呂にでも入ったのだろうか。痛みきった赤っ茶けの金髪を、洗いざらしのまま ぼさぼさに跳ね散らかしつつ、翡翠色の目に懐かせた色を煌めかせて、蹴鞠のように跳ね込んでくる。そして、外套の前を開けて抱擁の構えを見せていた養父へと抱き付こうとした―――と見せかけて、鳩尾へ頭からタックルをくれてきた。
養父は見越していたようだが、浅はかな頭突きを露骨に横ざまへ回避しようとはしなかった。すっと大股一歩下がって間合いを外すと、来るはずの脳天への衝撃が来なかったことにつま先を挫かれた金髪頭が戸惑った隙を見切ると同時、さっと踏み込み直して手を突き込む―――その手が手刀であれば、うなじなり横隔膜なりへと叩き込まれたのだろうが、差し出した先は、相手の両脇の下だった。つまりは、タックルに使ってきた勢いそのものを逆手にとって、抱き上げた。高い高いするかのように。
「ただいま。ザーニャ」
「あははははは!」
ザっちゃんと呼ばれた少年は、予想外の視野の変わりように喜んで、けたたましい笑い声をぶちまけた。
それだけの観察を済ませたもうひとりの少年が察したのは、こいつは自分とは違うという一点だった。もう少し言及するなら、愛玩用に飼われてきたなりの飼い犬だから、拾われたことに慣れ出した捨て犬とは雲泥の差がある……それが一目瞭然だった。恐らくは悪人も悪事も面白半分に笑い話で済まされてきた生い立ちなりに身も心もさほど飢えておらず、ゆえに快活かつ闊達で、しかも拒絶された経験のない笑顔を発散しながら、こちらもそうだと思い込んで疑いすらしていない。存在そのものが傲慢だ。目障りというやつだ。いけ好かない。いくらか年上と見えて、背丈も体格もある―――こちらより。なお気に食わない。
そのあたりで飼い犬が、すとんと地面に降ろされた。もう少し堪能したがっていた目をしていたが、こちらを向くと、目先もろとも興味を替える。養父を挟んで、物怖じせず、ぴっと指差してきた。
「誰? こいつ」
「僕の子です」
「隠し子だ! 隠されてたのかお前! どこに? 井戸? 納戸? 壷? 塩瓶?」
答える気もなかったが。その時だった。
「こら。隠し子なんて、そんな言葉どこで覚えた?」
「ていうか、僕は隠し場所が徐々に小さくなっていくことの方が、じゃっかん気になります」
やって来た半裸の男に、養父は ぼやき返した。
接近に気付いていなかったわけではない。ただ、養父が接近を許していたから、少年もそれにならった。それだけのことだったのだが、飼い犬の尻に生えた尻尾が見えるくらい嬉々として振り返る様を見て、そいつのことも毛嫌いした。
その男もまた、貰い湯を済ませたといった体である。三十路前だろう。若くはないが、老いてもおらず、虚弱そうでもないが、偉丈夫猛々しくもない―――力自慢というよりか、まずまずの力仕事に慣れた体躯をしていた。そこまでは並み平均だと思えた分、濡れぼそった短髪が余計に異彩である……曇天を氷結させたような、沈められた仰向けの水底から水面を見上げたような、どうにも形容しがたい藍鼠色だ。当人も自覚はあるらしく、しきりに手拭いを頭に乗せようとしているものの、その都度飼い犬がまとわりつくため首筋まで落下する。だから、その驚いた間抜け面がまじまじとこちらを眺めてくるのも、布の陰に隠れてしまうことは無かった。
「フラゾアインの気まぐれだ。さすがにもう驚きはしないと……疑ったことさえなかったが。おったまげること抜かしてくれるなあ。なんだって? お前の子?」
「そうですよ。信じてください」
「そりゃまあ、信じるけど」
「信じるんだ」
と、横から口を挟んでしまう。こんな奴を―――とまで付け足しはしなかったのだが、気配で如実に知れたのだろう。ご、と垂直な衝撃に頭頂から貫かれた。
「……―――!」
見えない真上から、養父に正拳を落とされたのだ。そのことそれ自体よりも、はずみで舌を噛んでしまった痛みに、ふらりと前のめりによろめいた……それが、あだとなった。
俯きかけていた頭が、ぐいっと持ち上げられる。無遠慮さながら、髪の先っちょを鷲掴みにされていた。
「!?」
自分の黒く長い頭髪を伝って、掴みかかってきた先まで見上げてみれば―――飼い犬の、右手である。しかも相手の顔まで伝えば、そこには悪意なく、悪気もなく、その他悪質な裏もない。表満面に張り付いているのは好奇心だけだ。その上、その上っ面にまで滲み出してきている心持ちすら、好気そのものに華やいでいる。そう見えた。
わけが分からない。特に、こちらにまでそれが向けられるなどと来れば、焦燥は容易に加速した。激痛が抜けない舌では碌な喧嘩も売れず、とにかく威勢だけでも荒らげる。
「な、に、……しやがる!?」
「はー? なんだよ。お前がこんな長ぇから悪ぃんじゃん。引っ張りたくさせやがって」
「はあ!? てっめえ―――!」
「あ」
無理矢理にでも身を引こうとした。それが悪かった。
ばぢっ! と―――静電気でも走ったかのような音と衝撃を残して、中ほどから一束、黒髪が引き千切れる。理解するまでの数瞬と……理解してからの、数秒。その後、
「げえ。気持ち悪ぃー。えんがちょ」
「この野郎―――!」
右手をひらつかせて髪の毛を捨てているそいつに、野良犬らしいしきたりを叩き込んでやろうとした。その矢先だった。
「うあ!?」
悲鳴を上げて、飼い犬が飛んだ。空へ。
無論のこと、手品でもなんでもない。変な髪の色をした例の男が、そいつの腰帯を掴んで持ち上げていた。呆気にとられた野良犬が棒立ちしていると、足先をぷらんとさせたまま背後を見上げた飼い犬が、わめく。
「とうさん、なに―――!?」
のだが、えらく憮然とした雰囲気に、躾けられる予兆を感じ取ったようだ。首根っこを銜えられた仔猫がしょんぼりするように、一気に消沈しながら小声で言い直す。
「……シザジアフさん。なんですか?」
「今のは、お前が悪い」
「え? なんで?」
「調子に乗ったろう。この子を蔑ろにしてまで、自分が面白がるのを優先した。それは悪いことだから、この子に謝るんだ」
「…………」
「謝りなさい」
「ごめんなさい」
と。えらく従順に、ぺこりとこちらへ頭を下げて。
ぽて、と地面に下ろされた飼い犬が、しぶしぶながら片手を出してくる。小指だけ立てた拳だ。
「もうしませんったら。出せよ。ほら早く」
なにやら自分の方がぐずぐずと足を引っ張っているかのような口の利き方に当てこすりを駆られて、同じ仕草を返してやる。と。
「ゆーびきーりゲーンマーンうっそつーいたーらハーリせーんぼーん呑ーます。ゆっびきった」
勝手にこちらの小指と決まり文句をかすめ取って、ぶんぶか振りまくった末、一方的に約束してのける。
しかも終えるや否や、飼い犬は、ぱっと小指の拘束を振り解いた。途端、ばたばたと要塞に向けて逃げ出していく。どうやら安全圏だと判断したらしいところまで離れると、盛大にあっかんべーをくれてきた。
「るっせー馬ー鹿バーカ! あほー!」
「こら! お前という奴は!」
「うぇーいボケー! 知ーらねー!」
叱声を受けても ものともせず、両手をメガホンにしてまで至極あけすけな悪態を繰り返すと、そのまま建物の中へと駆け込んでいく。
目の前の男は、いったんは追いかけようとした風に見えたが、結局は一歩目で踏みとどまって、きびすを返し直した―――こちらへと。
「すまなかった。同じ年頃の子なんて、ここにはいないから、きっと物珍しさのあまり手が出たんだろう。ゆるしてほしい」
そこまでが、あんまりにもあんまりだったので。
毛嫌いしたにせよ、心底から、言ってしまう。忠告だった。
「お前、さっきから変な奴だな」
「え?」
「あいつと俺のことなのに、一番すまなそうだ」
「変じゃないだろ。親なんだから」
言いながら徐々に説教臭い皺を顔皮に固めて、ゼラ・イェスカザを振り返る。
「おい。親なら、ちゃんとしろよ。かわいそうだろ。なんかもうズレ始めてるぞ、この子」
「「どこが?」」
思わず飛び出た少年の疑問符が、養父もろとも被る。
両者睨み合ったところで、男がげんなりと片手で鼻筋を抑えて天を仰いだ。
「似た者おやこ……」
「「どこが」」
今度は否定する意だったが、またもニュアンスまで丸被りしてしまう。
そして―――やはり賢明だったのは、ゼラ・イェスカザだった。据わってしまった目を翻すと、そのまま脱兎を決め込んで、ひとりで明後日の方角へ歩き出す。
「おい! 子ども置いてどこへ行く!?」
「息抜き」
「はあ!?」
「何日間も道中ずっと、ふたりっきりで食事にオシャベリ突っ突き合いなんて究極のベッタリデートかましてきたんです。息が詰まるので、深呼吸してきます。ふたりで親子扱いされるくらいなら、ひとりになりたい。僕は親である前に人間だ。さんそサンソのしーおーつー」
「ぶっちゃけるにしたって、子どもの前で何てこと言うんだ! こら! 呪文となえて厄払いまでして!」
「そう思ってなさい。あーあ。辺境らしい」
どつく仕草を空手にさせながら、なお挫折しない男だが、攻撃も口撃も届かない。そもそも住人が少なかったこの頃、しかも夜を控えた刻限である―――ゼラ・イェスカザも消え、少年と、彼の養父ではない相手だけがグラウンドに残された。
眼前。その男は……後ろ頭を掻きつつ、しょげながら。しかもこちらに、またしても詫びてくる。
「ごめんな。あとで俺から、もう一回あいつに、きっちり言っておくからな」
「だから、どうしてお前が一番すまなそうなんだ? 変だろ」
「変じゃないだろ。親同士なんだから」
そこまできて、ふと男は右手を差し伸ばしてきた。こちらの―――頭の上へ。
反射的に身構えて両手を頭頂部に翳すのだが、男の掌は、少年のその防御壁の上に更に重ねられた。さすってくる。
「いたかったろう。かわいそうに。ごめんな。もうしないよ。させないように約束する」
撫でられたのだと気付いた時には、男の手は握手するためにかたちを変えていた。
下げられたその片手は、こちらの鼻先で、ゆるりと指を広げている。
「まあ、とりあえず。はじめまして。ようこそ<彼に凝立する聖杯>へ。歓迎するよ。シザジアフだ。そう呼んでほしい」
「はじめまして。シザジアフ」
「…………」
「……………………」
怪しがるのにも飽きて、観念した少年は、その男―――シザジアフ・ザーニーイ―――自己紹介を額面通りに受け取るのなら、今はシザジアフ、彼の手を握り返した。そして、放す。
握手を済ませたというのに、シザジアフの愁眉は解けなかった。しかも、数秒ほど間を置いてから、そこに気まずそうな半笑いを加える。やや憂愁げな顔立ちによく似合う顔つきだったと―――今では、そう思えた。
「ええと……ところで、君の名前は?」
「え? なんで?」
「そりゃ、呼ぶのに困るだろう。あ。まずは、頭領たちに紹介するのに困る。頭領の名前は、ひとりがジンジルデッデで、もうひとりがイェンラズハだ」
「ふうん。さっきのあいつは?」
「ザーニーイ。そう呼んでやってくれ。俺の子さ。仲良くやるようにしてくれるとたすかる」
「仲良いのか? シザジアフは。ザーニーイと」
「え?」
きょとんと。
彼はついさっき逃げ帰った背中を記憶で追うように、建物へと振り返って。
「まあそりゃ、親子だからな。仲違いすることもありはするが、ちゃんと仲直りは済ませてる」
「じゃあ俺もそうする。契約したから、名前を書いた。おれ―――」
少年は―――
リングピアスの揺れを自覚し、それを強めるべく、かぶりを振った。
「やり直しだ。それを、させてください」
「あ? まあ。はい。どうぞ」
「僕は。シゾー。シゾー・イェスカザ。です」
そこにきて、気付く。
契約は、ただひとつと言われた。シザジアフ・ザーニーイを超えろ。それだけだと。
だとするならば。自分は、目前で大人らしくしているシザジアフを超えればいいのだろうか? それとも、遠目からして子どもっぽいザーニーイを超えればいいのだろうか?
ともあれ悔踏区域外輪を行くコツとは、なにより忍耐と言えた。常時、悔踏区域から吹き抜ける風は体力を奪い、日差しを乱反射する雹砂は目を焼く。日光に関していえば、曇天を突き抜けて光が差しだす旭日時は、特に危険だった。雹砂を知る農夫は、働き者であるほど朝寝を好む……お天道様がお出ましになる頃には平伏していなければ寿命が縮む、天辺まで行く後ろ姿を見送るために頭を上げるから天道にあやかれるんだ、目が黒いうちは白くするような真似しちゃいかんと、頑として譲らない。言い伝えとは不思議なもので、経験則から真理を体得していることも多いのだが、これは中でも最たる適例と言えよう―――医学的見地から述べるなら、刺激が負担となる都度、人体組織は新陳代謝が劣る部位から金属疲労を蓄積していく。眼球とて例外ではない。
「白内障。それが、その疾患名です」
その頃には、疾患名というのがなんなのかも、契約者は理解するようになっていた。
分かりやすい長文は圧縮すると難解な単語となる。それを平易に噛み砕いて与えてくれるのが親というものなのだろうが、自分がどうしたところでこのフラゾアイン―――これも今では知っている―――の在り様は如何ともしがたいのだから、つまるところ、こういった頭の離乳食も、忍耐ひとつで乗り越えるしかない。自力に合わせて、噛んで含む。ひとつふたつと無知を自覚し、みっつよっつと解説を願い出、いつつむっつ先を見据えて、ななつを下積みにやっつ目を既知へと置換すべく埋めようと……頑張る。踏みとどまろうと、今はする。
だから白内障とやらについても、少年はひとしきり知っておくことにした。悔踏区域外輪の午後の暮れ、最後の小休止だという時間を潰すのにも、それは丁度よかった……ついでに金属パイプも失うまでに返り討ちにされることに疲れ切っていたので、事細かに反逆感を駆られる内心を誤魔化すのにも丁度よかった。石やら骨やら組み上げて作られた、奇っ怪な柱―――旗司誓という連中が、三戒域を行き来する際にランドマークにしているというそれを背に、ふたり揃って外套の襟を握り込みながら、地べたへしゃがみ込んでいる。雹砂が濃くなるにつれ植物群は幹を下げ、葉を小さくして地上に這いつくばって身を守ろうとする植生が強まるため、このあたりまでくると強風を割るような大木など珍しくなっていた。だからこうして風の坩堝にいても、ほどほどに意識するだけで会話は通じる。
真横を見上げるが、指南を欲する凝視に気付いてくれそうになかったので、それを言葉に変えて告げた。
「はくないしょうの、音の切れ目と、字を教えてもらいたい」
「いいとも。それは―――はく・ない・しょう。白い、内側の、障りある状態、と書く。君はこれを、どういう病状だと類推する?」
「目玉の中が白っぽくなって、見えるのに差し障りが出る、しっかんだ」
「やはり冴えているな。そう捉えてくれると都合がいい。では、目玉の中に詰まっているのが何だか、知っているかい?」
「……涙か?」
「―――ジンジルデッデが好みそうな風流ですね」
その時ばかりは苦笑をあたたかくゆるませたが、独り言を済ませると、さっと養父の面の皮を張り直した。
「おおよそ、眼球は球形だ。この皮張りのボールの中には自前の水と肉が詰まっていて、ボールの前面中央にある水晶玉を筋で吊っている。光の出入り口が、この目の真央にある黒い孔……瞳孔。瞳孔まわりにある色づいた輪が、虹彩。ふたつを合わせた名称が、瞳。虹彩の色は多種多様で、僕は このとおり夜空の闇色で、君は その通り月神の蜜色をしている。これだけでもう、僕と君の世界は すげ替わっている」
「え?」
「黒という色は、光を遮る性質を強く持つ。だから僕は、夜明けを見ても、君ほど眩しくは感じない」
「……あの御来光の中でも動けるってことか?」
「まず嘘つけと口を衝かなくなっただけでも成長したな。そうだよ。つまりは、そうだ」
「便利だな」
「そして、その便利さに調子に乗って使い込んだが最後、しっぺ返しを食らうのは、まず僕からだろう。それが白内障だ」
「どういうことだ?」
「あまねく光は、瞳孔から水晶玉の奥までを貫く。眼球内に詰まっている水は日々入れ替わるので、内側に付いた汚れを流し傷を癒せるが、水晶の粒そのものは取り替えられない。つまり経年劣化を蓄積し続ける。ついには傷だらけになって白濁する。しかも古傷が硬くなり、目の焦点までが一点で固着してしまう。重度の白内障患者と対面すると、瞳孔から、白く煮こごった水晶玉が見えるのさ……目が黒いうちは白くするような真似しちゃいかん、という由来はこれだろう。いたみの実感が伴わない―――だからこそ人の身であれば受けざるを得ない、そういった日常的なダメージだ。家族に似ている。最強の免罪符だ」
「…………」
「なんの話だったかというと。要は、睨み合った瞬間から勝負は決まり始めているということだ。こいつは光に弱そうだと思えば、太陽に背を向ける立ち位置に陣取るだけで有利になれる。それもまた支配者への一歩だ」
「じゃあ、太陽に向かってしまったら?」
「君ならどうするね?」
「どうって……立ち位置を入れ替わるように立ち回ればいいのか?」
「集団戦であらば一利ある戦略だろうが、一対一の戦術ではそこまでして欲するような手札ではない。後者にて、しかもあえて光に関係した手をと欲するのなら、刃物の抜刀ついでに目を狙って陽光を反射させることにより、天然の目つぶしを狙うくらいか」
「……すげえ卑怯臭ぇし地味だな」
「そうとも。卑怯臭いし、地味だ。ただし、王道的な正しさや結果の見栄えばかり重要視し価値を断じるのもまた、衆愚的な見地に侵されたなりに愚かしい。海老で鯛を釣った福音譚など特に美談にされやすいが、経過を体得せずに得た成功など実力ではないので、二回目以降の成果は期待するだけ馬鹿馬鹿しいし、九分九厘普段は役立たずだ。むしろ鼻にかける材料になるだけ、目と鼻の先をちらつかれて鬱陶しい」
「うーん……?」
「山勘が試験で当たることはあるだろうが、その高得点を得続けようとするなら、鉛筆を転がす占いよりも鉛筆を減らして修学した方が堅実だ。それっぽく技名を叫びながら万力を込めた素振りをするよりも、日々のトレーニングを欠かさない方が、秘儀必殺は編み出せる。痩せたいなら、三日間の断食よりも、三年前から腹八分だ。忍耐することからの逃げ出したがりの順に、手に入るものが遠のいていく様を見て嘆くのは、己が手に入れる努力を諦める楽さに飼い慣らされているからだ」
こちらが腰が引けているのは分かっているだろうに、それでもついでとばかり、多弁を接ぐ。
「これも医学的見地から述べるならば。海老で鯛を釣った者が、またしても海老で鯛を釣りたがるのは、海老で鯛を釣った瞬間の快と悦に中毒となっているからだ。成果そのものより、成果を得たその時に感じたエクスタシーに嵌り込んでいる。だからこそ、損をすると分かっていても、齧りついて中断しない。成果とエクスタシーを混同している。つまりは馬鹿だ。馬と鹿を見分けていない」
「ええと……」
「まあ、どのような端切れに思えたところで、札は手の中にありさえすれば、なにが切り札となったところでおかしくない。ひとまずはこれも、頭の引き出しへ入れておきなさい。使う時が無ければそれまでだ」
「はい。義父さん。瞳孔、虹彩、瞳、水晶玉、白内障……」
それぞれの名称。それを数え上げるべく、指折りながら口にして……
つと、そのことに気付いた。手を浮かせたせいで、派手に捲れて飛んでいきかけた外套を、慌てて胸倉に引き戻しながら。
「俺に名付けた、義父さんの……名前は?」
「ゼラ・イェスカザ。だけだよ。今は」
「今は?」
「まだあるのさ。呪文のように。呪文なら……全部となえあげたなら―――なにが起こるのか?」
「また言葉遊びか」
飽き飽きと水を注すのだが、養父は更なる繰り言を世迷わせるだけだった。
「当然じゃないか。楽園は失われた。はじまったからにはもう、世界には、それしかない」
「けっ。うそざむい奴だ」
「さむいのが嘘なら、さむくないはずだ。ならば、背筋を侵す、さむけは何だったのだろう。それは、どこから来たのだろうか。存在するのに、ない。ないのに、ある。それもまた未知なる怪物の領域だよ」
「黙ることすら出来ない新手の馬鹿に威張られるほど、世の中、世間知らずじゃねえよ。御大層な言い回しなら、騙されてくれる甘ちゃんに言ってやれ」
途端だった。外套が、ばっと目の前に広がる。着込んでいるし、手の中にその感触も掌握しているのに。
ぎょっと息を呑んだ隙に、その視界を閉ざしてくれた外套ごと、首から後方へ押し込められた。
左手である。外套が落下した―――眼前、今ばかりはフラゾアインらしい妖気を刷いた両目を怒気で煮込んで、左手ひとつで少年の細首を背後の岩壁に押さえ込んでいる。よくよく見れば、その外套も養父のものだった。おかげで契約者が自身の外套から手を出して引っ掻こうにも、分厚い生地が邪魔をして爪の一枚すら通さない。養父が右手と脚線を用いて、間に幕を張るように固定していた。
「この―――ぶっ殺すアマ野郎!」
「義父さん、だろう。その契約にこそ守られていると思いたまえ」
慇懃さながら、侮蔑を吐く。
「抜本的なことを教え忘れていたが、ふってわいた他人とは基本的に不愉快で受け入れがたい存在で、大人と子どもなどまさしくそれだ。どうしようもない社会的見解から飼育保護員と保護動物とに役割を強制される時点から不本意なりに腹立たしいのだから、子どもらしくそれ相応の分け前に与っているうちは、保護する価値がないと自白するような軽挙妄動は慎みたまえ。子どもならば、大人びるより先に、子どもらしい賢しさを発揮しろ。それを……学べ」
「くそ……!」
「こちらとて放任せず、糸口くらいは与えてやろう。子どもの特権は、ただ子どもであるそれだけで大人と有利に取引を運べることにある。愛らしく振る舞い懐柔しろ。無垢を装い機嫌を取れ。無能を役立て手を借りろ。それすら怠る不勉強者が、いっぱしに無償の愛なぞ乞うな。口ほどにもない身の程知らずが。身の程を知れ。そこから―――はじめたまえ」
「……ちっくしょ―――う……」
「どうだ? そろそろ血の気と気が遠のいていく音が聞き分けられるか? それとももう耳鳴りで潰され聞こえなくなっている頃かね? このように頸動脈を圧迫するだけで人は扼殺できる。非定型縊頚だ。闇雲に気道ごと絞搾するより、要する力量は三分の一以下で済む。気絶させるまでに掛かる時間もだ。言っておくが、今の僕は手抜きしている。通常は十秒かからず失神だ……」
と。
どさ、という物音で意識を取り戻す。横倒しになっているのは皮膚に食い込む感触で知れるが、耳鳴りまみれの吐き気のせいか平衡感覚も狂っていた。必死に地面を掻こうとするのだが、じんじんと痺れた手足の先は敏感で、互いが触れ合うだけで痛む。氷水に突っ込んだかのような、神経から凍みる激痛である。
それでも足掻こうと、歯を食いしばった瞬間。見計らっていた正確さで、伸びてきた手指が喉元に―――掛けられた。
「まだ抗うなら、次は気道の方のみで縊頚を試す。僕が要する握力と時間は先程の倍程度で済むが、君が体感する地獄は陪乗と思いたまえ。まあ涙液唾液どころか糞尿の始末もつかんうちには、こちらとしても率先的に実地したくもない授業だがな」
「なん……だ、と?」
「二日前が最後だ。宿で寝るようになってから、急に夜尿症になったろう」
間髪挟まず断定されたこと。それそのものではなく、断定しておいて今まで黙認し続けていたこと―――大目に見られていたこと、その自覚のなさに悶死しそうなまでの羞恥を覚えた。
それを喉奥に詰まらせた感触を、まさか指先に感じたはずもあるまいが。こちらの首から手を引き戻して、屈身していた養父が立ち上がる。
「小便で済むうちで済んだが、漏らすのが大だろうが小だろうが次からは正直に言え。金の払いも店主への謝罪も僕の見て見ぬふりも、時間が経つごとに増えられては災難だ」
立ち上がるついでに養父の外套も巻き戻されたため、少年の軽い体躯はあっけなく引っ繰り返った。ごろんと仰向けになって、そのまま……落暉の刻限を前に、赤黒く渦巻き始めた曇天を背負うような構図でこちらを覗き込む養父を、見上げる。彼の口の中を―――見ていた。
そこは、今の空と同じ色だと、……少年の目には、見えた。すげ替わってしまった、ここではない世界に住んでいるものの、口の中。そこに混沌を巻く言葉。
「悔しいなら学べ。諸人の背を超え、巨人の道を行け」
―――起き上がれてから真っ先に成したのは、仕返しではなく、発奮ともやや違っていた。つまりは、まるで元通りのように……腰を落ち着けていた養父の隣に座り直して、尋ねた。ただし今度は、問答を。
「巨人とは、なんだ?」
「おや?」
肩を寄せ合う存在を間違えたとでも言いたげに目蓋を上げてみせる彼を睨み上げて、ひと言ひと言を食いしばる。怒ることは容易い―――だからこそ今ばかりは遠のけて、先を見据えようとしていた。
「その、超人を上回る巨人の道というのは、なんだ? 軽んじられて腹を立てるほど……意味深な言葉なら、深味を手ほどきしろ。ほどけないところがあるなら、手伝え」
「いい判断だ。深味はまさにそこにある」
「は?」
「僕は君に学べと言った。巨人の道は―――ここにある」
と、―――養父は人差し指で、足元を指した。なんの変哲もない荒野である。大きさだけで見れば大小の違いだけだが、よく見ると当人が使い古してきたなりに残してきた癖が違いを広げている靴が、親と子の分だけ並んでいる。その間を……示した。
示し終えると、指先は、そのまま上に上がった。黒髪奥のリングピアスを指されたのかと思ったが、それを超えて、上―――天空を向く。
一本指を立てた掌を挟んで、ふたりは向き合った。
「これは、いくつか? 数えなさい」
「いち」
「これは?」
「に」
続けざまに立てられた中指についても率直に答えると、手と質問が入れ替わった。両手は立て膝の上に乗せて、声ばかりがやってくる。
「次の数は?」
「さん」
「次、次、次は?」
「し・ご・ろく」
「なな・はち・きゅう・じゅう―――その行きつく先を、君は知っているかい?」
一拍の間。
言葉尻を盗んでおいて、更に送り返してくる。
「支配する欲と力。巨人化も、これもまた、同じ。はじまってしまったのさ。過去おそらくは幾星霜、誰かさんが、まあ綺麗だわと出来心から星をひとつふたつと数えた夜から、あの輝きを盗む日は取り決められてしまった」
「星を……盗む?」
「そうだ。いずれ巨人の指先はそれに触れ、触れぬ見えぬ不可視不可触の領域まで達するだろう。ゼロを覚え、いちを知ったなら、それを超えずにはいられない。歩く次に走り、馬車で陸を渡るなら、海を行く船が雲海を進むようになり、青空の果てより先を―――のぞむ。そして、そのように達成し、ゆるされる都度、絶望する」
「絶望する? どうして手に入れたのに、がっかりするんだ」
「手に入るサイズでしかなかったからさ」
「…………?」
ちんぷんかんぷんであることには違いなかったが、要はこれも大それたことをコンパクトにするのに不慣れなだけなのだろう。養父を見習って、弁舌を自分なりに組み上げる。
「その話……フンコロガシがフンを転がすのは身の丈通りのことだけど、転がすうちに土がついたフンと一緒に虫まで大きくなっていったら、どこまでも両方が膨れていくって―――理屈は、分かった。けど、だから今すぐどうかなるってもんじゃないだろ?」
それなりに正鵠は射ていたのか、養父は考え深げにせりふを引き継いだ。
「そうだ。だが、それすら問題ではなくなる。我々は、知恵の果実を食べた。リスクヘッジ・ネットワークは……原罪だ」
「りすくへっじ? ねっとわーく? げんざい?」
「それもまた支配する欲と力のことだ」
「同じ話かよ」
「確かに飽食だな。では、愛と恋について語ろう」
「はあ?」
どう思い返しても嘲る声色だったが、養父は無視してくれた。だがしかし、それもまた、ただ淡々と―――彼なりに巨人の道を進んだのかも知れないと。夢の中なら、今は思えた。
「人は愛する。人は恋する。それが実ると家族を増やし、財を蓄え、家を持つ。家は増えて街となり、市となり国となり国境を越える。この連なりゆく増長は、こわがりゆえに、こわがりながら続く」
「こわがり?」
「我々は、未知の領域にいる怪物を、こわがる。次の一瞬に引かれる引き金を、こわがる。だから、それを支配しようと、我々はやたらめったら埋め尽くしはじめた。血縁による味方を増やすことで生老病死に備え、国家や経済という機構を安定させることで天変地異に備え、宗教・言語・文化・文明―――そういった単位を、同位相化を齎す外部記憶装置として作動させることで、集団と個を結ぶ同一性を強固に補強した。ネットワーク化し、数珠つなぎを螺旋化することで、何倍どころか何乗もの飛躍を成しながら」
「……―――?」
「言ってみれば、産まれた子どもが、似たり寄ったりの親元の群れで安定的に育ち、将来はパン屋さんになりたいと夢を語り合う同胞にまみれながら学校に通い、夢破れても次の夢があると次々に入れ知恵されるうちに独立し、趣味や価値観が共通項の異性と出逢い、二巡目の大いなる輪廻を巡るようにした―――こうして、開いていく螺旋となった」
「動物っぽく生きなくなったせいで、動物に狩られなくなった分だけ死ぬ奴が減ったから、そいつを上手く生活させるだけの仕組みや世話口がいるってことか? 子どもが親になると、父親と母親ふたりっきりだけだったのが、四人も五人もガキを作れるって?」
「そう捉えてくれると都合がいい」
この頃の口癖を遂げて、より小難しい上乗せをしてくる。
「しかも、元来生命体とは死ぬことで遺伝そのものに宿る危険性をリ・セットしてきたのに、脳という内部記憶装置から、文字という外部記憶装置まで醸成した―――さも身近にさも気軽にさも気楽に、風化され失われるはずだった宗教・言語・文化・文明等々を、時を超えて、のこすようになった。時間を……一次元目を、超えた。いずれ二次元目、三次元目と超えるだろう。上下・左右・遠近・時間軸の四次元に閉ざされていたサイクルを解脱し、新たなシステムを踏みながら人はどこまでも巨人化していく」
「そんなでっかくなり続けの化け物に住まれたら、世界なんて踏み抜かれて終わっちまう」
「終わらんよ」
「なんで?」
「その時には世界がすげ替わっている。それだけだ」
すげ替わった世界。
その言葉に深味の一端があるのかも分からない僅かな隙間を見逃した瞬時に、口上が続投されてしまう。
「遠い祖先―――語り部が夜の真暗闇に魑魅魍魎を夢想し、その逸話と呼び名を、焚火の袂で聴衆へ向けて おどろおどろしく うたい出した夜。生物的な恐怖を、知的な未知として埋め尽くそうとしたその瞬間から、とうに運命られた日は訪れ始めている。星を盗む日もそうだ。白内障とて例外ではないよ」
「え?」
「引き金は引かれた。かつてはお天道様に長年ガンをつけた返報とされていた祟りの産物が、おおよそ光刺激から由来する障害だと解き明かされ、天罰でないのならばメカニズムをコントロールできる……其方の名は白内障と、現れた支配者が名付けてしまった。となると、いずれは目の中の水晶玉を守るプログラムを予てより語る語り部が現出し―――ついには、その水晶玉そのものを複製し交換する巨人を招く日が、到来する」
「はあ? 目玉なんてふたつっきゃないのに、どうやって? 神様でもないのに、見える見えないなんて生死に関わる屋台骨を、取っ替えるなんて出来っこあるかよ」
「そうだ。神では成し得ない。神は本質的に全であるがゆえに、表層的には無でなければ成立せず、それすなわち閉ざされた無限の円環だ。完璧で完全だからこそ完結している。数学で言う空集合φ―――零の概念に等しい、繁栄の根源たる滅びの結果だ。だからこそ……開かれた螺旋を行く巨人だからこそ、その日を、招く。それは禁忌と等価たるとしていた設定は、パラドックスもろとも踏み砕かれた。これとておそらく、欲するは許諾すなわち録視書には書かれてしまっているだろうが」
少年は会話の意味不明さに、とうに匙を投げていたが、理解者の不在については養父の方が手慣れていた。実際匙を投げるかのように、見切りをつけた眼差しを遠くへ放ってしまう。それでも、―――最後は戻ってきた。
「ともあれ、だ。さて、我々は、学び、働き、遊び、愛し、恋し―――平凡な生涯だと捉えてくれると都合がいい全ての鋒鋩を、今この時も万端へ向けて構えている。表向きは、手と手を取り合って仲睦まじく融和をはかり、平和が一番だと唱和している。裏向きについては言うまでもない。では、これにてリスクヘッジ・ネットワークは完成を見たのか? 見るものか。楽園は失われた。両極は存在しない。完成などありえない」
「つまり?」
「心。そのありどころは、どこにある?」
「こころ?」
「我々は、イエスと信じることが出来る。ただしノゥだと疑うこともまたやめられない。怪物はそこからやってくるし、引き金はそこを狙い撃つ。だからこれは続く。巨人なれば星をも掴もう―――ただし、握り潰して絶望する。こんな土くれが、あの星だったものかと。次の綺羅星を……求める」
「それは当然だ。火垂る虫だって、ぶちっと潰してしまったら、きったねえ羽虫の死骸だ。元も子もない。追いかけて我を忘れてるうちが華だ」
「そう捉えてくれると都合がいい。だからこその宿業だが、やめられないし、とまらない。やめないし、とめないし、とめられない。果てなくこれは続く」
「まあ、追いかけて我を忘れてるうちは……我を忘れてるから、追いかけているんだし」
「文字は時間を超えた。百年と生きられない人間が、二百年経っても不滅となり、三百年後に後継者を生む可能性を開いた。蓄積が続けば、いずれ数学の那由他は時空を渡り、不可思議の学は時空を読み解いて、無量大数だった欲するは許諾すなわち録視書まで紐解くだろう。そしてその者は不死を得る。クリンツクリンチェの図書館から全知を赦免された時、楽園は三度の喪失を成す―――」
「不死? 死なない者がいることをゆるされるなら、そこは楽園じゃないのか? アーギルシャイアがそうだったんだろ?」
「アーギルシャイアは恋をした。だからもう超人ではなく、誰よりちょっぴり個性的なだけの……たったそれだけの人だ。人だからもれなく、産まれてしまったからしょうがなしに食っちゃ寝するうちに雌雄を覚えたので家族が増えてしまったがゆえ大勢に看取られつつ死んだ―――四十四の艱難と七十七の辛苦を思い出にして、それをうっかり口ずさもうなら、ボケ老人がまたその孤軍奮闘おヒトリサマ戦記自慢かよと孫やご近所さんに呆れ半分に褒めそやされながら。徹頭徹尾から、馬鹿にしたまえよ。それは人の世、すなわち現世だ。それとも、楽園だと信じてみるかい?」
「この世が楽園だって? それを疑わなくなる奴こそ、アッタマおかしいだろ」
「そうかな?」
「はあ?」
「狂っているのは世界の方かもしれない。そのひとりが正気なだけじゃないのか?」
ぐるぐる。くるくる。狂々り。
回り回って目が回る。混沌……のぞむならば指を突き込み、のぞみを成そう・得ようと僕らはする。ひときわの奇跡を紡ぎ出せるよう祈りながら。
その成功率を上げたくはないか?
―――なにを紡ぎ出したいと、のぞんだのだろう。それを考えていなかったことに契約者が気付いたのは、その時だった。
「心は、あるのか、ないのか。あるにせよ、ないにしろ、引き金をこわがるなら進むしかない巨人の道は、未知なる怪物の棲む―――かも知れない、それだけの空隙だよ。いずれこの意味を理解し、その先への踏破がゆるされるよう、祈っておこう」
「いのる?」
「そうだ。僕は父親だ。息子の成長を祈る」
「……はい。義父さん」
「いい覚悟だ。そうして、早く家にも馴染むよう努めなさい」
少年は―――訊き返した。疑問ではなく、もっと反射的なものに後押しされていた。
「いえ?」
「そうだ。家だ。家なのだから、帰れば家族がいる。色々な家族だ。たくさんだ」
当然のように……
それは、腑に落ちた。
「帰ってたのか」
「うん?」
「そうか。帰ってたのか……俺らは。家族のところに」
「そうだよ。我が息子。さて、そろそろ行こう。おかえりが待ってる」
「そうだな。家族なんだから、待たせちゃ……いけないよな」
「良い子だ」
「待ってる家族にも、良い子がいるのか?」
「さてね。それは君が祈っておきたまえ。お代は見ての―――おかえりさ」
□ ■ □ ■ □
「おっかえりー!」
出迎えてくれたのは、その大声だけではなかった。
悔踏区域外輪も、そこからにょっきり突き出た牙城も、夕日に晒されて赤っぽく染まっていた。その両者を蹴り離すように、正面グラウンドから、紅顔の少年が駆けてくる。少女ではなかった、もうひとりの少年は―――今となっては養父であるゼラ・イェスカザの横から……ばさばさと散らかろうとする長い黒髪の奥から、それを見ていた。
直前に、風呂にでも入ったのだろうか。痛みきった赤っ茶けの金髪を、洗いざらしのまま ぼさぼさに跳ね散らかしつつ、翡翠色の目に懐かせた色を煌めかせて、蹴鞠のように跳ね込んでくる。そして、外套の前を開けて抱擁の構えを見せていた養父へと抱き付こうとした―――と見せかけて、鳩尾へ頭からタックルをくれてきた。
養父は見越していたようだが、浅はかな頭突きを露骨に横ざまへ回避しようとはしなかった。すっと大股一歩下がって間合いを外すと、来るはずの脳天への衝撃が来なかったことにつま先を挫かれた金髪頭が戸惑った隙を見切ると同時、さっと踏み込み直して手を突き込む―――その手が手刀であれば、うなじなり横隔膜なりへと叩き込まれたのだろうが、差し出した先は、相手の両脇の下だった。つまりは、タックルに使ってきた勢いそのものを逆手にとって、抱き上げた。高い高いするかのように。
「ただいま。ザーニャ」
「あははははは!」
ザっちゃんと呼ばれた少年は、予想外の視野の変わりように喜んで、けたたましい笑い声をぶちまけた。
それだけの観察を済ませたもうひとりの少年が察したのは、こいつは自分とは違うという一点だった。もう少し言及するなら、愛玩用に飼われてきたなりの飼い犬だから、拾われたことに慣れ出した捨て犬とは雲泥の差がある……それが一目瞭然だった。恐らくは悪人も悪事も面白半分に笑い話で済まされてきた生い立ちなりに身も心もさほど飢えておらず、ゆえに快活かつ闊達で、しかも拒絶された経験のない笑顔を発散しながら、こちらもそうだと思い込んで疑いすらしていない。存在そのものが傲慢だ。目障りというやつだ。いけ好かない。いくらか年上と見えて、背丈も体格もある―――こちらより。なお気に食わない。
そのあたりで飼い犬が、すとんと地面に降ろされた。もう少し堪能したがっていた目をしていたが、こちらを向くと、目先もろとも興味を替える。養父を挟んで、物怖じせず、ぴっと指差してきた。
「誰? こいつ」
「僕の子です」
「隠し子だ! 隠されてたのかお前! どこに? 井戸? 納戸? 壷? 塩瓶?」
答える気もなかったが。その時だった。
「こら。隠し子なんて、そんな言葉どこで覚えた?」
「ていうか、僕は隠し場所が徐々に小さくなっていくことの方が、じゃっかん気になります」
やって来た半裸の男に、養父は ぼやき返した。
接近に気付いていなかったわけではない。ただ、養父が接近を許していたから、少年もそれにならった。それだけのことだったのだが、飼い犬の尻に生えた尻尾が見えるくらい嬉々として振り返る様を見て、そいつのことも毛嫌いした。
その男もまた、貰い湯を済ませたといった体である。三十路前だろう。若くはないが、老いてもおらず、虚弱そうでもないが、偉丈夫猛々しくもない―――力自慢というよりか、まずまずの力仕事に慣れた体躯をしていた。そこまでは並み平均だと思えた分、濡れぼそった短髪が余計に異彩である……曇天を氷結させたような、沈められた仰向けの水底から水面を見上げたような、どうにも形容しがたい藍鼠色だ。当人も自覚はあるらしく、しきりに手拭いを頭に乗せようとしているものの、その都度飼い犬がまとわりつくため首筋まで落下する。だから、その驚いた間抜け面がまじまじとこちらを眺めてくるのも、布の陰に隠れてしまうことは無かった。
「フラゾアインの気まぐれだ。さすがにもう驚きはしないと……疑ったことさえなかったが。おったまげること抜かしてくれるなあ。なんだって? お前の子?」
「そうですよ。信じてください」
「そりゃまあ、信じるけど」
「信じるんだ」
と、横から口を挟んでしまう。こんな奴を―――とまで付け足しはしなかったのだが、気配で如実に知れたのだろう。ご、と垂直な衝撃に頭頂から貫かれた。
「……―――!」
見えない真上から、養父に正拳を落とされたのだ。そのことそれ自体よりも、はずみで舌を噛んでしまった痛みに、ふらりと前のめりによろめいた……それが、あだとなった。
俯きかけていた頭が、ぐいっと持ち上げられる。無遠慮さながら、髪の先っちょを鷲掴みにされていた。
「!?」
自分の黒く長い頭髪を伝って、掴みかかってきた先まで見上げてみれば―――飼い犬の、右手である。しかも相手の顔まで伝えば、そこには悪意なく、悪気もなく、その他悪質な裏もない。表満面に張り付いているのは好奇心だけだ。その上、その上っ面にまで滲み出してきている心持ちすら、好気そのものに華やいでいる。そう見えた。
わけが分からない。特に、こちらにまでそれが向けられるなどと来れば、焦燥は容易に加速した。激痛が抜けない舌では碌な喧嘩も売れず、とにかく威勢だけでも荒らげる。
「な、に、……しやがる!?」
「はー? なんだよ。お前がこんな長ぇから悪ぃんじゃん。引っ張りたくさせやがって」
「はあ!? てっめえ―――!」
「あ」
無理矢理にでも身を引こうとした。それが悪かった。
ばぢっ! と―――静電気でも走ったかのような音と衝撃を残して、中ほどから一束、黒髪が引き千切れる。理解するまでの数瞬と……理解してからの、数秒。その後、
「げえ。気持ち悪ぃー。えんがちょ」
「この野郎―――!」
右手をひらつかせて髪の毛を捨てているそいつに、野良犬らしいしきたりを叩き込んでやろうとした。その矢先だった。
「うあ!?」
悲鳴を上げて、飼い犬が飛んだ。空へ。
無論のこと、手品でもなんでもない。変な髪の色をした例の男が、そいつの腰帯を掴んで持ち上げていた。呆気にとられた野良犬が棒立ちしていると、足先をぷらんとさせたまま背後を見上げた飼い犬が、わめく。
「とうさん、なに―――!?」
のだが、えらく憮然とした雰囲気に、躾けられる予兆を感じ取ったようだ。首根っこを銜えられた仔猫がしょんぼりするように、一気に消沈しながら小声で言い直す。
「……シザジアフさん。なんですか?」
「今のは、お前が悪い」
「え? なんで?」
「調子に乗ったろう。この子を蔑ろにしてまで、自分が面白がるのを優先した。それは悪いことだから、この子に謝るんだ」
「…………」
「謝りなさい」
「ごめんなさい」
と。えらく従順に、ぺこりとこちらへ頭を下げて。
ぽて、と地面に下ろされた飼い犬が、しぶしぶながら片手を出してくる。小指だけ立てた拳だ。
「もうしませんったら。出せよ。ほら早く」
なにやら自分の方がぐずぐずと足を引っ張っているかのような口の利き方に当てこすりを駆られて、同じ仕草を返してやる。と。
「ゆーびきーりゲーンマーンうっそつーいたーらハーリせーんぼーん呑ーます。ゆっびきった」
勝手にこちらの小指と決まり文句をかすめ取って、ぶんぶか振りまくった末、一方的に約束してのける。
しかも終えるや否や、飼い犬は、ぱっと小指の拘束を振り解いた。途端、ばたばたと要塞に向けて逃げ出していく。どうやら安全圏だと判断したらしいところまで離れると、盛大にあっかんべーをくれてきた。
「るっせー馬ー鹿バーカ! あほー!」
「こら! お前という奴は!」
「うぇーいボケー! 知ーらねー!」
叱声を受けても ものともせず、両手をメガホンにしてまで至極あけすけな悪態を繰り返すと、そのまま建物の中へと駆け込んでいく。
目の前の男は、いったんは追いかけようとした風に見えたが、結局は一歩目で踏みとどまって、きびすを返し直した―――こちらへと。
「すまなかった。同じ年頃の子なんて、ここにはいないから、きっと物珍しさのあまり手が出たんだろう。ゆるしてほしい」
そこまでが、あんまりにもあんまりだったので。
毛嫌いしたにせよ、心底から、言ってしまう。忠告だった。
「お前、さっきから変な奴だな」
「え?」
「あいつと俺のことなのに、一番すまなそうだ」
「変じゃないだろ。親なんだから」
言いながら徐々に説教臭い皺を顔皮に固めて、ゼラ・イェスカザを振り返る。
「おい。親なら、ちゃんとしろよ。かわいそうだろ。なんかもうズレ始めてるぞ、この子」
「「どこが?」」
思わず飛び出た少年の疑問符が、養父もろとも被る。
両者睨み合ったところで、男がげんなりと片手で鼻筋を抑えて天を仰いだ。
「似た者おやこ……」
「「どこが」」
今度は否定する意だったが、またもニュアンスまで丸被りしてしまう。
そして―――やはり賢明だったのは、ゼラ・イェスカザだった。据わってしまった目を翻すと、そのまま脱兎を決め込んで、ひとりで明後日の方角へ歩き出す。
「おい! 子ども置いてどこへ行く!?」
「息抜き」
「はあ!?」
「何日間も道中ずっと、ふたりっきりで食事にオシャベリ突っ突き合いなんて究極のベッタリデートかましてきたんです。息が詰まるので、深呼吸してきます。ふたりで親子扱いされるくらいなら、ひとりになりたい。僕は親である前に人間だ。さんそサンソのしーおーつー」
「ぶっちゃけるにしたって、子どもの前で何てこと言うんだ! こら! 呪文となえて厄払いまでして!」
「そう思ってなさい。あーあ。辺境らしい」
どつく仕草を空手にさせながら、なお挫折しない男だが、攻撃も口撃も届かない。そもそも住人が少なかったこの頃、しかも夜を控えた刻限である―――ゼラ・イェスカザも消え、少年と、彼の養父ではない相手だけがグラウンドに残された。
眼前。その男は……後ろ頭を掻きつつ、しょげながら。しかもこちらに、またしても詫びてくる。
「ごめんな。あとで俺から、もう一回あいつに、きっちり言っておくからな」
「だから、どうしてお前が一番すまなそうなんだ? 変だろ」
「変じゃないだろ。親同士なんだから」
そこまできて、ふと男は右手を差し伸ばしてきた。こちらの―――頭の上へ。
反射的に身構えて両手を頭頂部に翳すのだが、男の掌は、少年のその防御壁の上に更に重ねられた。さすってくる。
「いたかったろう。かわいそうに。ごめんな。もうしないよ。させないように約束する」
撫でられたのだと気付いた時には、男の手は握手するためにかたちを変えていた。
下げられたその片手は、こちらの鼻先で、ゆるりと指を広げている。
「まあ、とりあえず。はじめまして。ようこそ<彼に凝立する聖杯>へ。歓迎するよ。シザジアフだ。そう呼んでほしい」
「はじめまして。シザジアフ」
「…………」
「……………………」
怪しがるのにも飽きて、観念した少年は、その男―――シザジアフ・ザーニーイ―――自己紹介を額面通りに受け取るのなら、今はシザジアフ、彼の手を握り返した。そして、放す。
握手を済ませたというのに、シザジアフの愁眉は解けなかった。しかも、数秒ほど間を置いてから、そこに気まずそうな半笑いを加える。やや憂愁げな顔立ちによく似合う顔つきだったと―――今では、そう思えた。
「ええと……ところで、君の名前は?」
「え? なんで?」
「そりゃ、呼ぶのに困るだろう。あ。まずは、頭領たちに紹介するのに困る。頭領の名前は、ひとりがジンジルデッデで、もうひとりがイェンラズハだ」
「ふうん。さっきのあいつは?」
「ザーニーイ。そう呼んでやってくれ。俺の子さ。仲良くやるようにしてくれるとたすかる」
「仲良いのか? シザジアフは。ザーニーイと」
「え?」
きょとんと。
彼はついさっき逃げ帰った背中を記憶で追うように、建物へと振り返って。
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少年は―――
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「あ? まあ。はい。どうぞ」
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