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転章 第五部 第六節

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「男になりませんようにって言ってみたはいいものの、男ってなんだ?」

 うららかな午後。よくあるように、シゾーは空を見上げて自問していた。空には雲のように解答は浮かんでいないが、奇妙きみょう奇天烈きてれつなもので、眺めるうちに頭の中にそれを浮かばせてくれることがある。それはここに来て三年目ほどには手中にしていた既知きちだったが、六年目には習慣化していたので、雨天の時以外は外に出て読書するようになっていた。

 野外のどこに座卓を構えたところで構わないのだろうが、なにもないグラウンドの中央に座り込むのも変だし、荷揚にあなわの近くにいて揚げ荷に落ちてこられてもたまったものではない。ついでに一杯ひっかけて上機嫌となった旗司誓きしせいが通りすがりに駄賃だちんをくれることがある―――さぼってないで働けと鉄槌てっついを食らうこともあるが小銭の魅力には匹敵しない―――ため、シゾーは要塞ようさいの中庭の通行口わきに居着くことが多かった。運んできた元噴水ふんすいのブロックを椅子いす代わりにしているのだが、最近は身長の伸びがまさって低さがいとわしく感じられるようになってきていた。とは言え二個目を縦に積んだところで、おびに短くタスキに長いのは分かり切っていたので、どうしようもなく石壁に背中をもたれさせながら椅子から半分ひざを立てつつ、ひざの皿の上に書籍を広げていた。

 そこに現れたのは、ニィヤとゼンケバッハだった。いつものように酔い覚ましがてらの足延ばしか、ただ通りがかったなりの偶然か……分かりはしないが。ともあれこのふたりは、子どもが勉強することに好意的な派閥はばつだったつながりで友情が芽生えたらしく、よく酒の席ではそろって話をねだりに来るので、シゾーからしてみればお互いに親近感をつちかいやすい部類の人間である―――冷やかしがてら寄ってこられても、つんけんと突っぱねる嫌悪感などかない程度には。

「お。どーした? ボクちゃんが悩ましげに空ぁ見てんぞ」

「なに読んでんだ? 教えてくれよ。俺ぁ字なんて、自分の名前でやっとかっとなんだ―――て」

 決まり文句と一緒に本をのぞき込んできたニィヤが、挿絵さしえを見て露骨ろこつに不服そうにした。不服ついでとばかりに、そこに描かれている素裸すはだかの女の乳房をつつく。

「なんだ? また色気のねえ春画しゅんが本だな。男も女も、死んだ蜥蜴とかげみてーにグダッと並んでるだけじゃねーか。文字でどう書かれてるにしたって、絵だってもっと性根しょうね入れてハラ噛み合ってくれなきゃあ、どっちらけの総スカンってもんだぜ」

「医学書ですよ、これ。しゅんがぼんって本じゃないです。そういったのだと、蜥蜴とかげなら腹部に噛み付くんですか?」

 と。

「……あー」

「ああー」

「どうしました?」

 なにやらうりふたつの気配で頭を抱え出した旗司誓たちに、シゾーは声を上げた。急に裏がある態度を決め込まれては、どうしたって気がかりだった。

 かなりの沈黙を挟んで、だのに二人の間では頻回さながらチラリラちらりらと目配めくばせを交わし合いつつ―――お前が言えよ―――お前こそ言えよ―――、ようやっと重い口を開く。まずは、古顔ふるがおであるニィヤから。

「ボクちゃん。こういうのに興味くお年頃になった?」

「お年頃? としなら多分、十三とかそれくらいだけど」

「なんちゅーかさ。あれよ。おヒゲ―――は、まだる程じゃねえっぽいけんど。おマタの方はどう? 男になった?」

 おっついてきたせりふに、なおの事分からなくなる。男になった? なるも何も、性別など生まれた時から割り振られている。シゾーは男だ。だが、子どもの時からそうだったからこそ、今では分からなくなっていた。だからこそ、こうしてとっくの昔に読み古してしまっていた本まで持ち出したのだが。

 この一ページだって読み解けないはずのふたりが、雁首がんくびそろえて知ったような顔をしている。それが分かって、シゾーは引き返せなくなった。もの知らずだと軽視されたのだ。自分は。こんな文盲ぶんもうたちから。男になった? ―――と。

「なんだってんですか? 毛? そんなもんでいいなら、シモの方が口まわりより そこそこ生えてますけど。男になるってのが、まだほかのことだってんですか?」

 その彼らと言えば、シゾーの反応を見た途端、こうだ。

「なってねーなこりゃ。顔に書いてあらぁ」

「なんちゅーか。字ぃ無理な俺らにそれが分かっちまうってのも、なんだかなぁ」

「さもありなん、だろ。こーんな砂場まで流れてくるイカレ春売り、こっちの方から願い下げだっつの」

「顔と言やあ。こーんな魔訶まかめんこい顔してんのに、出入りのキャラバンや何某なにがしやらからかどわかされんかったもんか?」

「そこんとこぁアレよ。ボクちゃんだけ、まぁだ子ども認定だからなあ……しっかも、いっつも手綱たづな引いてくれてたアンちゃんだけドサまわりに行かされるようになったとくりゃ、取り残されても自然だろーよ。ぽつんと煮炊にたきに針仕事、家事に掃除の家内かない役ときた。家の内から出てみたところで―――このとおり、中庭どまりの本の虫だぜ?」

ぼっちゃんも、ボクちゃんのこたぁ、基本うっちゃらかしにしてるしなあ……そもそも論、フラゾアイン混じりの鬼っ子が養い親ってんじゃあ、頼れたもんかい。連中が真面まともにオスメスやってんのかなんぞ、知りたくもねえが。おっとろしい」

「くわばらクワバラ。にしても……瓢箪ひょうたんからこまなんざ出て来るもんなんだなあ。俺ぁてっきりアンちゃんが、そこらへんも肩で風切っての大風おおふう吹かしてるとばかり」

「いやいや。あいつぁ色ボケも箱庭もマンザラきらってっから。ありゃあ、見られる顔してるせいで、あっちゃこっちゃでなんやかんやとからまれっぱなしになってきてるツケだろ。満更でもないんなら、これ幸いとちょくちょく調子に乗る尻軽さがありゃ楽しめるものを、そこはマンザラだからなあ」

「しゃーねーわな。あっちはあっちで、あのとおりシザジアフの親御おやご生真面目きまじめ一徹いってつだ。浮いた噂に限った話、鳴かず飛ばずのハトぽっぽ。まあ、手堅いなりにうまいことやってんのさ。そこんとこぁ親子だ」

「じゃ、決定だな。水もしたたりそうな面構つらがまえ同士、外仕事に回されるようになった途端に、ボクちゃんまでアンちゃんの二の舞になっちゃあ気の毒だ」

「おう。五十歩百歩になる前に。五十歩目からの踏み出し方を教えとかにゃあ、兄弟きょうだい分がそろいも揃って見当違いになっちまわぁな。いけねぇいけねぇ」

 長ったらしい作麼生そもさん説破せっぱの落とし前を両者にて勝手につけた挙句あげく、ゼンケバッハがこちらへ片手を出してきた。人差し指と親指で輪を作り、残りの指を伸ばしてひらつかせる。何度か折って生兵法なまびょうほういだ小指が特にゆがんでいたが、彼はその不格好さにはこだわらなかった。そのまま、提案してくる。

「ボクちゃん。有り金どんだけある?」

「金? まあ貸してもいいですけど、ひとりにつき一回ぽっきりで、十日で一割の利息つけますよ」

「すわナチュラルに高利貸し。じゃなくって、ボクちゃんの知らねえ金の使い道を教えてやるよ。今度、俺たちが箱庭まで連れてってやる。でもって、それだけじゃない勉強させてやる。それは、そんな手に収まっちまうインク染みた紙束かみたばなんかより、ずば抜けて最高の代物だ」

「最高って―――そもそも、それが最高かどうか、おじさんたちに勉強のしつなんてものが分かるんですか? ろくに字も読めないのに」

「分かる」

 言い切られた。言葉の文面そのものよりも、語尾が履いた強さに、やや息をむ。

 そのすきに、割って入って来たニィヤに、場を仲裁ちゅうさいされた。分かりやすく両手をかざして中立を示しながら、生来ちんくしゃな顔どころか声色こわいろまで へらへらさせている。

「まあまあ。頭でっかちは、これだからいけねえ。とにかく、行ってみようや。な? 百聞ひゃくぶん一見いっけんかずってんだろ? こういうの」

「そうですよ。それで合ってます。僕が教えたとおりに使ってくれて、どーもありがとうございました」

 そして後日。この甲論乙駁こうろんおつばくは、ふたりに同伴した四日間に渡る買春行脚かいしゅんあんぎゃにてシゾーが なし崩しに童貞を破られるというかたちで終結した。破られた。それはもう、追剥おいはぎにしたって、しこたま懇切丁寧こんせつていねいに―――可愛かわいいものを可愛がるなぶり込みの執拗しつようさと無残さにかけて女と猫の右に出るものはない―――尻の毛まで抜かれて鼻血も出なくなるほど追われてがれてかれて身ぐるみ剥がされた。自分が幼虫だったことは知っていたが、さなぎになっていた自覚もなかったのに、おせっかいな蝶々ちょうちょう連中があれよあれよと脱皮を手伝ったとも言える。成虫になるのはいいことだ、空を自由に舞いながら花の蜜を吸いに行けると、葉っぱの上で日向ひなたぼっこしながら暢気のんきに尺を取っていた尺取り虫の夢に すやすやおんねしていたさなぎの背中を、無遠慮に突き破やぶった。致命傷である。命まで到らなかっただけの深手だ。そこから生きながらえてしまった。要は、運があった。幸運なのか、不運なのか、悪運なのか……まあ一枚看板いちまいかんばんを引っ繰り返しての言葉遊びはさて置くにして、シゾーとてそそのかされるまま なし崩しにしたなりのことなので疑問は無い。納得に呑まれて声もなくした。あまりに唐突過ぎたものだから、ちょちょ切れる涙さえなくしていた。それでも、なくしてしまったことに、泣いていたことは覚えている。

 どうして覚えているのかと言えば、帰宅した夜に、家族に泣かされたからだ。

 それは、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の旗司誓となってから、六年と二日目。実はちょうど、――― 十三歳の、誕生日。我知らず迎えた、それでも誕生日。

 夜だ。夜だった。ちょっとした・・・・・・小旅行・・・から帰った三人の手土産てみやげさかなに、大食堂にて酒宴が続いている。雑多な会話と食器がかち合うに、混み合う喧噪けんそうと酒の芳香、蒸した汗のくさみ。ジンジルデッデの後継者としてシザジアフが頭領となり、旗司誓稼業は軌道きどうに乗り始め、人員も増えていた。思い返してみれば、武装ぶそう強盗ごうとう旅団りょだん―――食いあさっては村から村へ渡るいなごの群れのような賊党ぞくとうであるが、戒域綱領かいいきこうりょう成立後ここまでの大規模勢力は姿を消した―――の中でも名だたるビーブ・ビーンブ・ビーブルグ一家を、神不知かみしらずがけごと破った頃である。快進撃を確立した余韻よいんに加え、その祝杯で使い切れていなかった酒もあったのだろう。ごったがえする宴会は、これ以上なく盛況せいきょうだった。普段はきっちりと上下関係を守っているシザジアフとザーニーイが、肩を並べて弓を抱き、一弦詩吟いちげんしぎん披露ひろうするまでに。

「 ―――ひとめで はじまり

  ―――ふたりは こいした

  ―――みよ くび めでなん

  ―――しし いずこ

  ―――ふれなずみて いつ

  ―――ろく まなこ

  ―――ななどの わかれば

  ―――やつ こえん

  ―――ここのせ ともに いきる ため

  ―――と お の し さ え も い と う ま い―――

  ―――                       ――― 」

 それは知っている。アーギルシャイアの恋歌。なのに、違う歌のように感じる。違うことを歌っているように聞こえたし、まだ聞き終わっていない気がしていた。それはおかしい。どう考えてもくるっている。心から、そう思う。ひとり、こんな みじめな気分になるくらいなら、もっと自分も酔っておくんだった―――

「あーあ。シッズァのちびすけ、こりゃぐでんぐでんにまれてんぞ」

「俺たちが歌ってた間に、喇叭らっぱ飲みでもしたのか。聞こえるか? オイ、立てっか?」

「……なあザーニーイ。じっちゃんたちと出掛けて帰ってきてから、こいつ様子がおかしくないか?」

「変な具合に ぼーっとするなと感じてはいたんですけど。また気に掛けます。おいシゾー、おい! あんま心配させんなっての。お前だって、こういうの嫌いだろ。おい! ちび! タレ目! クソガキ! じゃりんこ! 泣き虫! 泣いてる虫けら!」

「泣き虫よりカドが立つだろ。最後の」

 深酒ふかざけのせいで痛みは感じなかったが、がんがん肩口に叩きつけてくる手に揺さぶられることは不快だった。机上に突っ伏して横に向けていた顔から片目だけ開けて見やると、溶け出た油脂のように濃淡を残して混沌こんとんめく世界で、やはり半分溶解ようかいしたシザジアフとザーニーイが、くわ煙草たばこでため息をついている。その半開きの口の中を知っていた。赤黒い―――あの日の空……

「駄目だな、こりゃあ」

「すみませんシザジアフさん。変だなって勘付いていたのに、目を離した俺が悪いんです。責任もって寝床まで運んで、介抱します」

「そうだな。頼めるか」

「もちろんです。こいつの仕事は俺がしますから、明日丸一日、寝かしてやってください」

「ああ。無理させるな」

「ありがとうございます。そんじゃ、連れてくんで。二十重はたえある祝福しゅくふくを」

「よろしくな。背に二十重ある祝福を」

 途端だった。すげ替わる世界を見たのは。

 まずは視界。ぐにゃりとたわんで回り、床を見た。そして体感。卓上から垂れていた腕が上げられ、下げられた頃には、のしかかっていた胸のテーブルと尻に敷いていた椅子の感触がない。ただし入れ違いに、温かな しなやかな硬さと―――やわらかさ。あごの下からまたの下まで、前面に。

 しゃがみ込んでいた石畳いしだたみから、シゾーをおんぶして立ち上がりつつ、ザーニーイが憎まれ口をくれてくる。まだ不慣れな紙巻かみま煙草たばこくちにしているため、もごもごと。

「うあ。重てえ。いつの間にだ? この野郎」

「肉付きが悪い代わりに、骨が太いんだろう。折ったこともないし。手足のサイズだってでかいから、これからきっと伸びるだろうなあ。こいつ」

「シゾー。聞いてたか? てめえ。むかつくから、俺よりでかくなるんじゃねーぞ。約束したからな。返事は?」

 そこで ゆさ、と軽くジャンプして揺すられるが、シゾーはザーニーイの襟元えりもとよだれを垂らすので精一杯の始末だった。不始末なれど、ザーニーイはそれを怒らない―――それが意趣返いしゅがえしではないと知っている。しかも、ザーニーイは叱らない―――ひよっこに酒の手ほどきをしていなかったのは自分だ。内心で、今度からこういった場も勉強させてやらなければと、居丈高いたけだかさながらの叱咤しったを、不甲斐ふがいない己にくれている。

 えっちらおっちら退席する途中から、はやし立てるでもないわめき声が、縦飛び横飛びにやってきた。

アンちゃん気取るなら、むかつくってだけで有望株ゆうぼうかぶのアタマ押さえんじゃねーよ。リーチあるだけ優位だろーが」

「ちげーねえや。がははは!」

「なあおい誰か、俺の靴下くつした知らね?」

「靴下の前に探すモンあるだろ。お前」

 と。

「るっせーやい、じっちゃんども。そっちこそ野次やじ飛ばすくらいなら、歌でも歌ってやがれ。そのダミ声なら、お月さんだって落っこちっぞ。あとテニグモ、おめーの靴下くつした下穿したばきもろともリプツェッカの座布団ざぶとんにされてるかんな! すっぽんぽんで腹イタ起こしたくなけりゃあ寝る前に取り返せ―――便所でも裸踊はだかおどりに きりきり舞いさせられたかねぇだろ! シモから大小どころか大腸小腸もらすぞコラ!」

 ザーニーイの声だけは、間際からなのでよく聞こえた。そして更に、縦横無尽の沙汰中さたなかから、やりとりが聞こえてくる……

「ちげーねえや。おーい、代わりに、ぼっちゃん歌えー。次いけー」

ぼっちゃんのボクちゃんが潰れたせいでアンちゃんまで抜けちまう責任だー。国向こうの都々逸どどいつなり民謡なり浪曲なり歌えー」

不如意ふにょいなりて御勘弁ごかんべん頂戴ちょうだいつかまつりたくそうろう

 ぴしゃりと拒否したつもりなのだろうが。その物言いに、言ってきたふたり以外の旗司誓たちまでもが大爆笑する。

「ぎゃーははははははは!」

「ふにょい! フニョイて!!」

「ふにょーいフニョイふーにょーうぃー!」

「だははははは! あごはらが痛い痛い痛い!! 労災!! 労災認定せぇや上司ぃやぁはははははははは!!」

 予期せぬ火種として祭り上げられた本人―――この時はゼラ・イェスカザ副頭領―――だけが、背筋を突っ張らせながら苛々いらいら苦虫にがむしみ潰していた。それを、隣席に戻ったシザジアフが、呆れ果てた顔をして見守っている。

「まったく。なまりきった辺境にれて、ろくにものを知らない連中ときたら、これだから。清く正しくしゃべっている僕が、どうして笑われる方なんですか? しかも、あの半人前と十把一絡じっぱひとからげにされてまで」

「腹立てるくらいなら、お前が一人称変えろよ。お前が自分のことを僕ボクですマス言ってるから、息子まで僕ボクですマス言って、ぼっちゃんだの僕ちゃんだのってまとめられるんだろ」

「なぜですか? 『僕』は、差し引いた一人称として妥当な言い回しでしょう。間違っているのは あちらです。ならば訂正されるべきなのも あちらだ」

「……お前そう言えば、前にも『あなた』って敬称のつもりで『貴様』って呼び掛けて喧嘩けんか売ってたよな」

「売っていません。勝手に買い上げにかかってこられやがったのが、あっちでしただけです」

由緒ゆいしょ正しい嫡流ちゃくりゅう語句ごんぐを根っこに置き換えて話してんだから、由緒だきゃ正しいんだろうけどなー。明晰めいせきだから高飛車たかびしゃなのはしょうがないにせよ、折り合うことくらい覚えろよ。出来ないってんなら、ガキと どっこいどっこいだろ。あと勘違いしてるっぽいから言っとくけど、俺らが言う『お前』って、『御前おんまえ』って敬称じゃねえぞ」

「マジでか」

「マジでだ。あ。それの使い方は覚えたのな」

「いつから?」

「とうの昔から。『貴様』と同じで、使い古され切って、けなし言葉だ」

「しからば、僕ではなく、わたしにします。今からわたし」

「好きにせー」

 そこで、自分たちは廊下に出たらしい。壁にさえぎられて、物音が格段に遠ざかる。

 目蓋まぶた薄皮うすかわから透けていた灯火輪シャンデリアの刺激もなくして、残されたのはシゾーを背負ったザーニーイと、ザーニーイに背負われたシゾーだけ。ゆさ、ゆさ、と一歩ずつ進む廊下。二歩目をみ、三歩目をり離す頃には、ザーニーイの背面とシゾーの腹面は温まっていた。心地よいぬくもり。それを知っているのはザーニーイもシゾーも同じだが、ザーニーイはシゾーの世界が すげ替わってしまっていたことを知らずにいた。

 だから、常ながらの野卑やひた言い方で、嘆声たんせいげてしまう。それをシゾーは聞いてしまった。

「あーあ。あの豆粒まめつぶじゃりんこだったお前が、ついに酒盛り仲間かよ。デデじいに、サシみさせてやりたかったな。まあでも、あの世でイェンラズハとちちり合ってちゃ、こっちにゃ見向きもしねえか」

 乳を繰る。

 その意味があどけないものではないことを、シゾーはもう知っている。ザーニーイは、それを知らずにいた。だから、邪気じゃきなく残りの分まで、無邪気むじゃきにもせりふを抜かしてくれる。

「むしろそこらへんから、ほくそ笑んで見てたりしてな。デデ爺だし」

 シゾーはもう知っていた。ザーニーイが女であることをのぞき穴から見ていた。どうでもよかったように思えていた違いが、意味を持ち、役に立ち、意味も知らず役立てることを仕込まれた身体からだしんから―――白熱する快と悦を、快と悦だけが先走る罪悪感ごと覚えていた。のに。

 ザーニーイに触れて、人肌ではなく、女の体温だと感じる。

 ザーニーイをいで、男くささでなく、女の匂いを味わう。

 ザーニーイの声を聴いて、生の歌声ではなく、生々しい嬌声きょうせいを思い出す。

 甘噛みし合って満足していた頃には戻れない。知恵の果実に噛みついてしまったのと同じように、中毒になることを知ってしまったのだから、いつかは噛み殺してしまうかも知れないけれど今は甘噛みには戻れない。噛みつきたい。シゾーは自分が噛みつけることを知っている。

 ザーニーイが女であることを知っている。ザーニーイを置いてきぼりに、シゾーは大人になり、もう男になってしまった。

「―――うぁ……」

 身をよじる。身に覚えのある前兆から逃げ出そうとした。やけ酒のせいでせきが切れていたのもあるが、なにより不慣れだったのだからしょうがない―――我慢の仕方も、やり過ごすコツすら、一切いっさい身に着いていなかった。そもそも悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんで慢性的な栄養不良に侵されていた手前、それまで精通らしい精通どころか夢精すら満足にしたことがなかったのだ。だからこそ……忍耐は利かない。

 しかも身動きして逃げ出せるどころか、ひねったはずみにこすりつけてしまった刺激から、なお誘惑が強まる。愕然がくぜんと、シゾーは打ち震えた。心の底からおびえて、もう治ったはずの失禁すらもよおしそうになりながら、今となっては尿意を上回る生理的なスパークが訪れる恐怖にたまらなくなった。はったりもきかせられない。ザーニーイの背の上で、実際がくがくと震え出しながら、歯の根の合わぬ悲鳴を引きらせる。

「嘘だろ……こんなの。今になって。今。なんで―――?」

「シゾー? どうした? 吐くのか?」

「降ろして……降ろせよ―――気色わりぃ……!」

「きしょ?」

「もうやめろよ……降ろせっつってんだろ! 気色わりぃんだよ、お前! べたべたと俺にばっかり―――!」

「は?」

 とまあ斯様かようにも、いつもの事ながら、兄貴分は大上段に構えっぱなしだった。間が悪いのか間が良いのか、丁度この頃から、ザーニーイは剣帯けんたいを替えていた。紙巻き煙草たばこに手を出せるほど小遣いに余裕が出たので、剣を新調するついでにいずれ鉛鋲なまりびょう手斧ちょうなもとあつらえたばかりの、肉厚にくあつの新品だった。だったので、腰回りの多少の違和感に慣れ切っていた。それが明らかに奇妙だったところで、今はシゾーの容態に気を取られていたし、おぶっている以上はへんてこな感触を覚えたところで相手の武装のひとつとでも判断しただろう。

 だから追い詰められたシゾーが、当人としては物狂ものぐるいで暴れ出したところで、ザーニーイは気にも留めなかった。ただただ泥酔でいすいした舎弟しゃていに心を砕いて、引っかれてもいなし、られてもバランスを取り、泣きだしてもなぐさめの声を絶やさなかった。

「そりゃお前に俺が よそよそしくすっこたぁねーだろ。ここんとこけなし合いすら ろくすっぽしてねぇのに。落ち着け。どーしたよ? 俺なら大丈夫だ。ここにいるぞ」

「くそ! 嫌だ……やだぁ、こんな―――!」

 そして、理解する瞬間が訪れる。自分はこのまま間もなく惨敗ざんぱいする。不可抗力というものだ。導火線があり、火がくことも知ったけれど、点けてからみ消す仕方なんて知らない。そのことを知っていた。だから……やめられないし、とめられない。絶望する。声もまた、―――すげ替わる。

「ごめん―――なさい」

「へ?」

「ごめんなさい―――ごめんなさい、ごめんなさいゴメンナサイごめんなさい! 謝るから、ザーニーイ、俺、もうしないから……お願いだから、もう―――ゆるして」

 刹那せつな

「がはっ! うえ―――あ、……」

 シゾーは吐いた。ひとまずは、口から。

 もうその頃には、要塞ようさいの中庭の出入り口わきに出ていた。椅子に使っていた頃を知っているのに、あの頃には戻れなくなったシゾーは、ただただブロックのわきの地面に降ろされた。そのまま地べたに丸まって、必死に後ろ暗さと余熱の火照ほてりを耐え忍ぼうとしたのに、またしてもザーニーイがシゾーに触れてくる。ザーニーイは、酔っ払いの介護には慣れていた。だから弟分にも、それをした。彼を地面から腰抱きにして抱え、四つんいの姿勢を取らせると、その上におおかぶさる。

 犬が交尾する姿勢だ。人も交尾する姿勢だ。最低の連想だった。だとしてもシゾーは、それをもう知ってしまっていた。

 知らないザーニーイだけが、いつも通りだった。ここにいる幼馴染おさななじみが、幼馴染みから すげ替わっているなんて、気付いてすらいない。

「ひと口っきりか。音ばっかり派手でブツが出ねえな。おい。ちゃんと胃袋でんぐり返りしてっか? ああ……まずもって、酒の吐き方が分からねえか」

「あ……あ……」

「指入れるぞ。噛むなよ。泣いていいから……なんでもかんでも、あとからキレイに出来っから。とにかく今は、辛いんだから、思いっ切り―――出しとけ」

 なまあたたかく質量がある吐瀉物としゃぶつに胸から腕からまみれるうちに、遺精したことも分からなくなっていく。

 汚れていく。きっとこれからだって汚れていく。知っている―――知っているんだ。けるし、洗えるし、流せるとしても、きたなくけがれてよごれていく。もともと子どもなんて大人の排泄物なのに。そうだと知っている……のに。

 星は流れない。ジンジルデッデは死んだ。シゾーの祈りは届かなかった。ザーニーイはシゾーのことばかり、なにも知らずにいる。
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