されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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転章

転章 第五部 第七節

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 そこからの逃走は長かった。破戒無慚はかいむざんにも、とにかくザーニーイに合わせる顔がない一心で、落伍らくごの道であれど ひた走った。やましく<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>と箱庭を往復すること半年、よこしまながらも表立って箱庭から筺底きょうていへ通うようになってもう半年、開き直って大手おおでを振り筺底きょうていに居着くようになって更に二年―――言うなれば、にっちもさっちもいかなくなった一寸の虫が五分のたましいなりにひと相撲ずもうを取ること計三年。虞犯ぐはん少年から侵犯しんぱん青年まで転がり落ちる中で負う生傷なまきずさなぎ傷痕しょうこん誤魔化ごまかしてくれることに気づいてからは、自暴自棄をぎょする理由もなくなったし、かげのある若い二枚目の傷口をめたがる女だって引きも切らなかった。女? 欲しい欲しくないはもとより、基本的には馬鹿めと見下げ果てていたし、見下げ果てている自分こそ元はと言えばこいつらの餌食えじきにされたせいでとの逆恨さかうらみも相成り、手当たり次第に放埓ほうらつの限りを尽くした……まあ男だから、女ははだが合った。酒は口に合わなかった。賭博とばくは割に合わなかった。煙草たばこしょうに合っていた。最も水が合ったのは暴力だった。おろかなエルギヴァン家は、愚かであるがゆえに自らの首を絞めたのには相違そういないが、シゾーが指揮した制裁は、荒事慣れした旗司誓きしせい崩れがはち切れて内攻ないこう全てのけ口にしたにしても常軌じょうきいっしていた。この音沙汰おとさたまり手となって蒼炎ツァッシゾーギなんぞと古語ゆかしき呼ばれ方をするようになるのだが、本人としては歓迎してこれを受け入れた。もうシゾー・イェスカザはいない。ここにいるのは、……

「あーらら。らしくないことしてるじゃないか?」

 その声を覚えている。シャムジェイワと家名を得る前のペルビエは、持ち家がなくとも君主だった。だからだろう。彼は―――盾突たてついたのだ。#生臭坊_主_なまぐさぼうず__#が生臭なまぐさくしているところを、らしくないと言う……たかが軽口ひとつを、重く受け止めた。

「らしくない? 俺らしいってのは、どんなだ?」

 そして今も、重く受け止め続けている。

 だからこその、夢を見ていた。暗闇の中で声しか聞こえなかった、そちらに向かって怒声を突き込む。

「呼んでみろよ。俺を―――知っているのなら! 呼びかけに……むくいろ!」

「知っておるさ―――ほまれ高き旗司誓ながら、斯様かようくされた娑婆しゃばにて跳梁跋扈ちょうりょうばっこたる狼藉ろうぜきを極めん不埒ふらち面汚つらよごしだということくらいなら!」

 またしても声がした。ただし、反対側からだ。多少、今より甲高くはあるが―――キアズマは、それとて若さ任せに、いきり立つまま吐露とろし続けた。どことも知れない真暗まくらの向こう側で、怒情を煮えくり返した心臓を服の上からむしっていると……知っている。

「ああ、この胸はまるで熱病のよう。こうまで憤慨ふんがいじゅくしてくれようか……あおほのおめ! その名の通り、まれるがよいわ―――ツァッシゾーギ……」

「ツァッシゾーギ……?」

 ひとりごちたところで。

 カーテンが、開けられた。指二本分ほど。女には、それだけで明かりは充分だったから。下界げかいからの横槍よこやりは、それだけでよかったから。ふたりの世界にいると―――信じていたから。

「そうよ、ツァッシ……ツァッシゾーギ……ねえ、あなた」

 窓辺の寝台に、彼はいた。

 女は寝床をきしませつつこちらへ戻ると、そのまま裸体をすり寄せてくる。寄せるに飽き足らず、彼のももに腿を乗せて、彼の腕に腕をからめた。なすがままにされている自分とてやはりぱだかだが、女を見もせず足を投げ出して、上背を起こしたまま漫然まんぜんと口の中をめている。性交の残滓ざんしではなく、紫煙しえんの残り香の味がしたと―――そう思えていた。今となっては。

 彼の興味を取り戻そうと、その頃にはまたしても背を覆うほど伸びていた黒髪へと、女は手を掛けた。そして、優しくいてくる。それでも彼が思い出すのは……そんな風にくしけずられた過去ではない。それであったらと―――今は思う。こんなにも、そう思うのに。

 女だから、訴えるだけ。

「冷たいわ。ねえ。どうして冷たくなったの? あんなにも愛し合ったじゃない。どうして……こんなにも、冷めてしまったの?」

「愛?」

 わらう。

「そんなもんあったのか。そっちには。へえ」

「―――え? ―――……」

「知らなかった。つからってただけだった。俺は。だから、信じられないなあ……だって、いわしの頭だって魚屋で売り値ついてるこのご時世で、信心さえあれば愛はゼロ価格でたたき売り? 安いなあ―――それとも、そう見える俺の目が安っぽいだけかなあ? 無料ただより高いものはないって言うけど。あれ? じゃあ、むしろ俺の目は高いのかな? ……」

「なによ―――優しく……しておいて。こんなの、わたしが知ってる……ツァッシじゃない!」

「そっか、やっぱり人違いか。だよなあ。じゃあ―――バイバイ、誰かさん」

「わたしのツァッシを返してぇ!」

 十五歳の終わり頃、そうして左側の肩甲骨けんこうこつのきわを刺されたはずなのだが、記憶は無い。

 ただ、われた記憶ばかり凄絶せいぜつだった。歯がゆくも煮え湯を飲まされ続け大立腹だいりっぷくり上げていたゼラ・イェスカザは、彼に腕ずくで こてんぱんにきゅうを据えた上、麻酔ますい無しに縫い針と縫い糸で丹念な縫合ほうごうほどこしたのち、ほったらかしにして去った。

 まさかソーイング・セットを携帯しているわけもないだろうが、糸は正真正銘しょうしんしょうめいただの糸だったし、針とて無論のこと縫合針ほうごうしんではなかった。しかも消毒もしていなかったようで、あっさりとみ始めた。自分では見るどころか触ることくらいでようやっとの部位であるから、それらしい高熱に全身がで上がり始めてから ようやく、壊死えしから感染を起こしたにしても深刻だと病態を身につまされた。

 そこから腐肉ふにくうじを除去し、抜糸まで手当てをしてくれたのはシザジアフであり、そこにキアズマが出くわした。実はキアズマは、シザジアフを旗司誓の英傑えいけつとして英雄視していた。あぶれ者の思春期が抱いていた底なしの憧憬どうけいが成し得た芸当げいとうたるや古今未曽有ここんみぞう奇想天外きそうてんがいで、消毒に使う蒸留酒じょうりゅうしゅの調達を任されたキアズマは、喜んで自宅の納戸キャビネットから千獣王せんじゅうおうみゃくりゅうを持ち出してきた。馬鹿だ。真剣たるがゆえに馬と鹿をいだ馬鹿だ。その飲用いんようじゅんアルコールはてのひらに収まるほどの小瓶こびんだったが、それだけで正規ルートなら訓練された軍用馬一騎いっきと交換したところで遜色そんしょくなかろう高級品である―――あるのだが、シザジアフは、真顔で断じた。

「これは頂戴ちょうだいする。ありがとう。君がいてくれた。おかげで俺の家族が、たすかる」

 こちらもまた、真剣たるがゆえに馬と鹿を接ぎ返した。ありがたいことには、ありがとうと返した。馬鹿だろうか? 正直者なのだろう。あるいは馬鹿正直なのか。おそらくは。

 こうして大陸随一ずいいち下等な手術の尻拭しりぬぐいは大陸随一ずいいち高価に実施され、これ以降キアズマは、シザジアフの金魚のふんの糞として連れ立つことになる。

「あんなのは麻疹はしかみたいなもんでね。あの頃に一回かかっておけば、大人になって死ぬような目に合うことはない。火遊びと一緒さ。子どものうちに火傷やけどしておかないと、大人になって塩梅あんばいも分からないまま手出しして火だるまになるかも知れない。だからまあ、放っておけシゾー。俺が金魚じゃないって気付けば、お前だって金魚のふんだと見なされなくなるさ」

 シザジアフはそう言いながら、きれいにしたい傷から、最後の糸くずを取ってくれていた。シゾーは黙然もくねんと、好きにさせた。面当つらあてだった。幼少期ほど顕著けんちょではなくなったものの、シザジアフへの敵視てきしは続いていた。彼はシゾーの親ではない。養父ですらない。なのに父親だから。

「―――その頃には、できたらまあ……帰ってこいよ。こないだ、ウェンデろうった。大往生だいおうじょうだったなあ。雹砂ひょうさを見舞ってやってくれ。それにザーニーイがな、こないだ遠出とおでしたついでに依頼人がくれた珍しい飴玉あめだまを、一個だけ味見したあと、後生ごしょう大事にまるまる残しておいてくれてるぞ。俺には秘密にしてるつもりだけどな。いい加減に食ってくれないと、乾いてひび入って割れちまうよ。かわいそうだろ?」

 かわいそうだろうか? 食べられることなくくだけることが? 乾いてひびが入ることが? 割れてしまう、それを かわいそうにと いたましく思いやる心が?

 こころ―――

「―――だれのもの? どこのもの? どこにあるの? ほんとうに? うそじゃないの? しんじていいの? それは……」

「全部、帰ってきてから確かめなさい」

 うつ伏せになるついでに寝ておきなと千獣王せんじゅうおう脈流雫みゃくりゅうだを含まされた―――下戸げこの舌にすら極上だった―――せいで、これもまたキアズマが手配してくれた一室に用意された寝台の上にて、朦朧もうろうとしていたが。夢現ゆめうつつになってまで飴玉あめだまをむずがるような妄言に、それでも応えてくれた……その誠実な掛け声は覚えている。

 だからこそ、今はもう知っていた。シザジアフは金魚であり続けるし、キアズマはそのせいで旗司誓となった。のちに義賊へ転職するとは言え―――キアズマは旗司誓となった。

 それは十三歳の誕生日にザーニーイから彼が逃げ出した三年後であり、今現在からさかのぼること三年前。シザジアフは死んだ。
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