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結章
結章 第一部 第一節
しおりを挟む「―――なあ聞いたか?」
「おうともよ。噂の後継第一階梯」
「ありえねーよなあ。旗司誓が見つけたって?」
「お。<彼に凝立する聖杯>連中の話かい。俺っちも乗っけておくれ」
「ぶったまげさせてくれるぜ、あいつら。見直した」
「頭領の霹靂って野郎が命懸けで やってのけたんだと?」
「やりおるなあ。とっくに丸暗記だわ。双頭三肢の青鴉……雷燐髪眼、稲妻の咬み痕。だろ?」
「まさしく、電光影裏に春風を斬る―――ってやつだぁな。もう死んじまったって聞いたぜ。その霹靂っての。なんか知らんけど、旗司誓の矜持の一念から、割腹自殺をやり遂げたって」
「え? 俺が小耳に挟んだ話じゃ、そいつが例の靴箱貴族と一枚噛んでて、司右翼・司左翼に次ぐ旗司誓の親分が片棒担いでたんじゃ目も当てられないってことで、秘密裏に死刑に処され―――」
「タンマたんま。噛んでたのは、旗司誓と貴族じゃねーよ。旗司誓と国王だ。密約してて、三戒域に隠してたんだって。靴箱貴族は、利用されてのポイ捨てさ。素行の悪さを突かれてのスケープゴートだよ」
「おーおー、フカシこくにしたって、ご大層にも程があらぁな。名無しの男と義烈あるキフォーが、知音朋友の復興ってか? 元まで辿れば百英雄同士なのに、ハブにされてダシにされたガロが草葉の陰で泣いとるわい」
「あれ。ガロの唯夜九十九音頭ってなんだっけか?」
「ええと。ただ千日のガロ」
「っかー、コノヤロー、すっとぼけんな! そりゃネモだっつの。ヴィ・ネ・モ・ル・カ! 千日もの間ひたっすらに戦い抜いて散華した、史上類を見ねえ女傑よ! 語らせてくれるかい? のぞむところさ。それはそれはムカァシ昔、無二革命の折に女の子を授かった美女たる聖母が―――」
「がっはは! 美女が英雄になるものか……どころか、母にだってなるものか! 美しい女ってだけで取り立てられるにゃ充分なのよ! 戦線まで出る謂れは絶無さね!」
「あー。こいつぁ美味ぇな。カラッと揚がってらあ」
「まさか? 国王様がお亡くなりに? ヴェリザハー様が?」
「だから公表にマッタがかかってるらしいわよー。後継第一階梯について。これは簡単に折り合いつけられないわよねー」
「次の王位には、誰が就くんだ? 階梯保持者が増えたら? 後継ぎはどうなる?」
「後継者は誰だ?」
「いやいやいや。なにが本当だか知れたもんかい。国王が死にかけついでに古い話まで沸いちゃってるだけだって。例の隠し子は死んでるよ。実際ン十年前、裂いた腹から引っこ抜かれた赤ん坊は見っけられてんだ。母子ひっくるめに臍の穴から滅多刺しっつー酸鼻な幕切れでな」
「とかくザシャ・ア・ルーゼは容赦なかったからなぁ。オンナ殺して実息まで幽閉ときた」
「俺ぁまだ所帯持つ前だったけどよ……心底、持つ前の騒動であってくれて良かったと思うぜ。あん時の空気は、隣国との戦時中より洒落にならんかったからな。特に、最後の三か月間くらいは―――」
「そうそう。オンナ殺そうとしてる連中に、オンナ隠そうとしてる連中に、オンナ逃がそうとしてる連中に、赤ん坊だけ欲しい連中に、入り乱れて入り乱れて……あまつさえ、あわよくばそういった連中を商売にしようってハイエナどもまで、どっからともなくウヨウヨとボウフラみてえに湧いてきやがってよう」
「ああ、嫌よイヤイヤ。考えるだけで、ぞっとするわ。当時、大陸連盟の密偵として、葬送銀貨まで潜入してたんですって?」
「はあ? 実在すんの? そんなもん。あーあ、だったら、あたいのカカアの萎びた谷間に銀色コイン貼ってってくれないもんかしらねえ。財布から端金ちょろまかしたくれえで、夜明けまでガミガミと……」
「当時、間違われて殺された妊婦や赤ん坊も相次いだって話じゃないか。だのに関わりたくねえ警察どもは、片っぱしから身元不明扱い決め込んで、ろくろく捜索願いと照会させなかったらしい。ひっでえもんさなあ」
「まったくだ。貴族のお手付きになって孕まされる市井の使用人なんか、珍しかないってのに。純潔貴族なら下の貴族から行儀見習いってことで赤毛を召し抱えられるんだろうけど、半端な三文貴族ときたら……」
「金があるなら引き取ってくれりゃいいものを」
「いいとこ、引き取った面して捨てっちまう。お貴族サマは、そこは血筋だ血族だの一点張りだからねえ。そんなだから営利誘拐されるボンボンが出るんだ。まったく。間抜けらしく絞めるんなら自分の首だけにしとけっての」
「あれ? じゃあ後継第一階梯は? 半分平民だぜ?」
「だっからデマだっつってんだ。アッタマ悪ぃな、お前」
「ああ!? やんのかゴルァ!? てめえ俺の女に色目使いやがって―――!」
「羽かぶりなら、すっとばして王家じゃね?」
「おい姐さん、勘定頼むわ。ついでに今晩どう?」
「ごめんなさーい。お会計はあっちよ。あたしもお客さんで、今済ませてきたところ。あと、あなたとは今晩どころか一生無理なの。人妻だから」
轟々と流れる川、その水しぶきと水間から、ぴょこんと一枚の若葉が飛び出た。
そんなイメージで、片手と共に、声が―――アシューテティのそれが上がる。実際、動きやすいように丈を詰めたワンピースは若草色をしていて、彼女の闊達な顔つきと動作によく似合っていた。彼は壁を背にした自席から、それを観察していた。
酒場である。とはいえ、火を入れた料理を切らすことなく出してくれる店であるから、構えとしては居酒屋に近い。店内に充満する空気には酒気よりも食い気が通っていたし、それをぐらぐらと沸き立てる騒動も、程度の差はあれ物見遊山さながらの他人面で、深刻ぶった当事者は見当たらなかった……宵の口、客の盛況と店員の佳境が似通う頃合いを見計らって入店した手前、空腹から逆上する者も酒乱から退行を起こした者もいない。そう見えた。だからこそか。彼の目前の小さな円卓に乗り上げるようにして、どん! と酔漢が肘をついた。卓上にて空ジョッキが四つ跳ねるが、無視。するしかない。転がり落ちられたところで、咄嗟に拾えたものでもない―――それを認めざるを得ないことに、もう絶望すらしない。
若い男だ……アシューテティと同程度の。卓に乗り上げるような身構えで、白髪も生えていない前髪の合間から、こちらを睨み上げ―――それだけで、こちらを格下だと見積もる要素をひと攫いしたらしい。身を起こして立ち上がると、軽侮を疼かせた目の色に、それを上回る不承を被せて、わきに立つアシューテティに不平を吐く。
「けっ。なんだよ。年上にしたって、辛気臭ぇ旦那じゃん。こんな襤褸担いでピチピチのカラダ潰す前に、捨てっちまいなよ。乗り換えてくれるなら、イイ目見せてやる自信あるぜ。俺の故郷がどこだか知ってっかい?」
こちらと同じく、見ず知らずの相手のはずだが。アシューテティは慣れた様子で両目に薄っぺらい愛想を着飾ると、腰に片手を置きつつ、もう片手を顔の横で否定の仕草に振ってみせた。
「旦那じゃないわよ。この人は義理パパ。本日は親孝行日和。もろとも大好きなの。付け入ろうなんて、諦めておくれなさいな」
「おーお。いいこイイコの優良児なこって。どーりで乳臭ぇと思った。弄べる軽さの尻軽じゃねえなら、俺っちごときにゃ重すぎらぁな。だったら、あばよ。おあずけだ。来世で楽しもうや」
「もちろんよ。次こそ誰より先着なさい。期待しててあげるわ」
酔漢は諸手を挙げ終えると、えっちらおっちらと会計―――か、食指が動いた話題が咲いている席かは知らないが―――へと戻っていった。惰性の愛想か、そちらへ手など振っていたアシューテティだが、上げ膳据え膳に忙しく行き交う従業員にひと睨みを食らったようで、さっさとこちらに向き直ってくる。
彼女の手を借りて、彼もまた立ち上がる。
立ち上がってしまいさえすれば、不格好ながら独歩も出来たのだが、アシューテティは手を繋いでいてくれた。そして慎重に、出入り口まで導いてくれる。善意からだろう。行い諸共、ありがたく頂戴しておく。
その頃には、路上に出た。
王裾街。義賊<風青烏>が居を置く区画から、やや外れた界隈である。商店街でもなく、住宅街とも趣きが異なる。要は、老成していない男女が、老成していないなりの夜更かしを嗜むことに長けた場所だ。窓や出入り口から漏れる明かりだけで夜道を行けるし、そこを賑やかす喧騒からも物騒さやキナ臭さは灰汁抜きされている―――酒場、居酒屋、合法的な賭博場などが軒を連ねており、それらが上階に外様用の宿泊施設を設けている場合も多いが、市民の方が日常的な客層としては当てにしているので、店じまいは殊の外早い。建築に上下層があることから分かるように立地もどちらかというと裾側でなく襟寄りであり、夜間のストリートの風物詩である明らかに怪しげな路傍敷や、それより警戒を要することもありうる浮浪者の姿は無かった……後者が焚火を起こしたような痕跡すら無い。
「……八年、か」
「え?」
「いや。なんでもない」
隣り合う横から。振り向いてくれたアシューテティへと、せりふを向ける。事前の打ち合わせどおり脇道に入ってから、もう手は放していたが、……彼女の体温が掌に残されているうちに。
「ありがとう。君のおかげで、たすかった」
「どういたしまして。あの浮かれぽんち、出先でいい気になってるだけっぽかったもの。そんな軽いの、掌の上で転がすなんて楽勝よ。王裾街に来るのも初めてだったのね。きっと」
「どうしてそう思う?」
「あたしのことを知ってる人なら、ああいう風に声を掛けて来るわけないし」
そして、あっさりと話題を変えてきた。より面白い方へ。
実際、きゃっきゃと語り口に喜色を上乗せしつつ、
「にしても、こーいったのって探偵してるみたいでワクワクしちゃう♪ こればっかりは、<風青烏>の誰も無理だものねえ。みーんな赤頭だもの」
「無理なのが悔やまれる」
と。
声に続き、またもや唐突に、声の主も物陰から姿を現した。
片手に下げた、火を消してある提灯は別として……高襟の長衣と、それに誂えた長靴。どちらも頑健であり、厚さもある上等の生地なのだろうが、その布地はむしろ覆い隠している男の体格の良さを透けさせている。背筋の伸びた伊達男だ―――が、少なくとも彼の場合は、毛髪に戴いた蘇芳の赤味も、腰間に佩いた細身の刀剣も、伊達ではない。それを知っている。
(そうだな。知っている)
彼を知っている。まずは名前。キアズマ・ネモ・ンルジアッハ。
父母にとっては、ネモ族ンルジアッハ家が第七子。末子であると聞いている。そして、末子らしく扱われているとも。
義賊<風青烏>にとっては、頭領である。旗司誓<彼に凝立する聖杯>を辞してから三年がかりで、筆頭としての地位を築いた。もう三年になる―――自分が彼のもとに身を寄せて、もう三年になる。
それはアシューテティもそうだった。自分と同じく、彼の相棒……それと同質にして、同一であり、ただし正逆の。
当の彼女と言えば、夫の登場に仰天して、目をまるくしていた。
「あなたナニしてんの?」
「もうなにもしておらぬ。こうして待ち終えたところだ」
「そんな細っこい塀の間に潜んで?」
「路上中央にて仁王立ちしておるのもおかしかろう。フハハハハついにこの時がとか言いながら勇者を目の前にせねばならん気がするし」
「猫に塀から塀の渡し橋にされてまで?」
「む? 足跡の払い残しがあったか。やはり右肩か。あの三毛皮、やたら右側からフーフーと五月蠅くしておったかと思えば、置き土産までしっかりと。しゃらくさい」
「しゃらくさいかなあ? いつもの通勤路にこんな大男がみっちり詰まってたら警戒して当然じゃないかなあ? あたしも警戒したらいいのかなあ、いっそ」
「手遅れだ」
「うわあ断言。あたしだから別にいいけど。なんなの。つまりストーカー?」
「そうだ」
「うわあああ断言かつ威風堂々。ものっそい重病。あたしだから別にいいけど」
ビビって上背を反り返らせるアシューテティだが、つかつかと歩み寄ってくるキアズマに、そういった惑いはついぞ無かった。彼は妻の間近で立ち止まると、彼女の頭の天辺から波打つ金髪までを観察―――合格ラインだったようだ―――し、更につま先まで入念に視診―――これは及第点か―――し、最後に凝視を顔貌に留めた。
そして、大仰に片手で己の鼻面を掴むと、その内側から一段と大仰にため息をついてくる。
「嗚呼。ストーカーに徹している間、気が気ではなかったぞ」
「うわあああああ自称し出した正々堂々。末期。きっと末期。あたしだから別にいいけど。え? 気が気じゃなかったって、警官から職務質問されるかハラハラしたって意味?」
「されるものか。この赤毛で。帯剣しておるし」
「ホンっト司右翼ってピンは知らないけどキリについては底辺メンタル……」
「ともあれ、アシューテティ。無事なのだろうな? なにもなかったか? 調子に乗った男から絡まれなんだか?」
「無事だし、なにもなかったけど、絡まれはしたわよ。あんなとこなんだから、社交辞令でしょ。て言うか、あなたこそ調子に乗った前科者のくせに、どの口でほざける御身分よ」
「…………不如意」
「フニョい?」
さすがに、そこまでだった。割り込むようで悪いが、口火を切る。
「話は、戻ってからに。風と言葉は、歌の次に、路上を流れやすいものだから」
「御意」
「ギョい?」
アシューテティだけが、男ふたりにきょろきょろしていたが。
そのうち、にんまりしたかと思うと、ステップを踏みがてら前へと進みだした。脇道の奥へと。
「ふにょいフニョイふにょーい♪ ぎょッギョぎょッギョーい♪」
機嫌の良さは次段階へ進んだようで、小さくハミングし始める。
その後を追う。手早く提灯に火を入れたキアズマが、すぐに追いついてきた。
帰路である。両手を目一杯広げれば通せんぼが出来そうな小道で、男ふたり肩を並べるには手狭だったが、アシューテティだけなら小躍りしたところで余裕がある。彼女の自称を信用するなら、ここは住み慣れた庭のようなもので、男の子の秘密基地から野良猫の縄張りまで把握しているらしい。実際、足取りは軽いし迷いもない。ただし男衆―――というか自分の跛行に合わせてくれているので、行ったり来たり回ったりといった余計な動線を踏むことで、浮足を浪費していた。
それを見ながら、彼女と入れ違いに隣り合いになったキアズマが、重い愚痴を重ねていく。
「まったく。一杯だけと約束したと言うに」
振る舞いから、酔余の具合を察したようだ。
まさか道案内役が不安だということではあるまい。おそらくキアズマは、アシューテティ本人よりも、この道を知り尽くしている。彼女が通る道である以上は。道に限らず、なんであれ。
苦笑しようにも、冷えた夜気が老骨まで沁みてくる中では、体温を吐き出すのに気後れを感じずにはいられなかった。不自由な手で厚着の襟を合わせて、襟巻きに鼻梁まで埋めながら、呟く。
「ゆるしておやり。ただでさえ、君は普段から束縛気味だ。こういう待ち伏せは……今回だけにしておきなさい。もう、こうすることはないよ。彼女の表層諜報行為に付き添うのは―――これっきりだ」
「……やはり今後、赤毛でない者を義賊に採用する案を検討―――」
「するだけにしておいた方が無難だろう。今の<風青烏>は特殊だが、特殊なだけ多能となる機能面があり、それは他の義賊の追随を許さない。なにより―――彼女は聡い。彼女は味方だ。彼女は君を裏切らない。君の考えは、もれなくこの凡てを傷つける」
「……男装までとは申しませぬが、せめて男の目を引かぬような粗末な装いにて、事に当たって……」
「雰囲気と格好の落差に、男の目どころか衆人の耳目まで集めるだろうな。それに彼女は、有名人であることを自覚している。他覚させられたからだ。であれば、隠そうとするだけ見つかる」
「分かっております。分かってはおりますれど、……斯様にも、恋患いだけは深まる一方で」
「仲は築いた。思いも通じている。結婚までも遂げた。それでも足りないか」
夫婦喧嘩は犬も食わないとは言うが、この夫妻のこういった関係性が揉め事にまで発展したことは無かった―――少なくとも自分の眼前まで持ち越されるような事態は―――し、自分とて犬ではない。ただ一介の個人として、友として、忠言する。
「だとするのなら。それは、本当に病んでいるのだろう。であれば、このまま重症化していく。君自身が治そうと向き合わないうちは」
キアズマが黙り込む。足並みはこちらと揃っていたが、挫かれたつま先はリズムを失い、かくりと不格好に着地した。歩くうちに、雨に降られゆく服のように不愉快な質量を増していく疲労に―――そうとも、疲労だ!―――背中が丸まりかかって俯きそうになっていた手前、それを見逃すことも出来ない。
更にその上、見て見ぬ振りも出来ない。追及する。
「君には、思い当たることが、あるように見える」
「俺は、―――その、」
「よしなさい。言葉があるなら……その待ち人は、彼女ではないかと、思うから」
後ろ首を掻いたキアズマが躊躇を噛み切ろうとするのを押しとどめて、前方に目線を上げる。
いつしか夜街を置き去りにして、寝静まる区画に踏み込んでいた。冷たく静かに地表に降ろされた夜闇の緞帳、その中でアシューテティがステップを踏んでいく。月と星の明りを満面に受けた頬を白く輝かせながら、いつしか子守歌に替わっている歌詞を囀って。またひとつ、地面に落ちていたごみを蹴った。気づいたようで、身体はようやく大人しく歩くだけに収まったが、気にせず歌は続く。
キアズマもまた、彼女を見ていた。燈明が届かない先にいる彼女を。誰よりも―――おそらくは、見詰めていた。
残りの帰途は、無言で進んだ。すれ違う者もいない道のりである―――体感時間は長かったが、アシューテティを眺めていると、そんなことにかかずらっている己に馬鹿馬鹿しさすら覚えなくなる。少女がスキップで踏破していけるような道のりを、どん底まで窶した身を引きずることに息を切らしそうになりながら蹌踉めく足を引きずる……これは自分が選択したことだ。絶望すら失うことも。落ちぶれることも含めて。
(そうだ。選択する余地があった。あるだけマシだ)
手放しで喜ぶことは出来ずとも。それを受け入れる。それはありがたいことだ……生まれ落ちてしまったこと、生き延びることと、また同じく。
ようやく―――そうだとも、ようやくだ―――帰り着いた義賊<風青烏>、その外壁に組まれている階段を上り、三階に向かう。アシューテティとは二階で別れた。ノックの合図があるまで絶対に開けないようにと再三の取り決めをリピートしているキアズマの声を背後に、どうにかこうにか上階まで行きつく。三階。首に下げていた鍵で開錠して、中へと滑り込む。
言ってみればこの階層は、義賊業務に係る物置だ。壁沿いに設けた棚にそれを整理整頓することで、奥の一間に自分ひとりだけの寝床と、手前のこちらの間に卓と椅子を置いてある。椅子はみっつ。もとは自分の安楽椅子だけだったが、キアズマを補佐する時間が増えるにつれ、彼用の背凭れ椅子が増えた。最後にはアシューテティのものまで持ち込まれた―――彼女の軽い丸椅子は、たまには家族全員で食卓を囲むためにとのそれだったが。
(家族。家族か)
思うことはある。だが考えるべきことはそれではない。
自分が椅子に掛ける頃、キアズマが玄関戸を閉めた。夜間なので、ひとつある窓の板も閉めてあるが、彼が携えた燈心のおかげでむしろ室内は明るくなる。
卓上には外出する直前まで彼と話し込んでいた資料が積んであったが、適当に端に寄せて提灯を置いた。窓を背にした席にキアズマが落ち着くのを待って、話しかける。
「未だ、公式発表が無いがゆえの猛威だろうが……王裾街の噂の嵐は、かなり玉石混淆した状態だな」
「隣国までは、平民層については、いずれの情報も未拡散のようです。人づてでは、まだかかるでしょうな」
「王襟街は?」
「ヴェリザハー国王の薨去は、とうに周知の事実。しかし、後継第一階梯の存在に関係することとなると……口を開くものはおりません」
「王位継承と根深い事柄だ。スタンスを明らかにした足元からすくわれるのは目に見えている。野心なり、忠心なり―――心に決めている者から、口を重くするのは仕方ないとも」
眉根に似合いもしない根暗な皺を刻み付けて、キアズマが気鬱を深める。その背中で、体重を吸った背凭れがぎしりと悲鳴を上げたが、やもするとそれは彼の胸中を代弁しただけのようにも思えた。当代のネモ族ンルジアッハ家が財政界においてどのような立ち位置にあるのかは忖度するしかないにせよ、なにがしかの影響はあって然るべきだろう。悪影響だったところで疑問は無い。が……
伏し目を解いた彼が口にしたのは、意外なことに―――じゃっかんの恨み節だった。
「しかし……なんともはや、<彼に凝立する聖杯>め。<風青烏>にまで秘匿しながら、このような驚天動地事を成し遂げるとは」
同感だったが、先に言われてしまうと慰め役に回るしかない。言ってやる。
「旗司誓と義賊では地盤も来歴も違う」
「それは重々承知しておりますが。我らから仔細を聞き出さんとする野次馬まで、事務所に現れる始末で……おかげで逆に<彼に凝立する聖杯>と連絡がつけられぬ」
「野次馬には、どのように説明している?」
「―――旗司誓と義賊では地盤も来歴も違う、と」
「成る程。確かに、重々承知しているようだ」
「…………」
皮肉る意図はなかったが、揚げ足を取ってしまったのには違いない。キアズマがむっつりと押し黙った隙に、先を行くことにする。
「ひとまずは、だ。シヴツェイア・ザーニーイが後継第一階梯として王城へ帰還するという、ありえないことが起きた。と言うことは、ありえさせた要因が、ある。我々が見つけていないだけだ。見つけよう。どこからが不確実なのか……玉と石が混淆し始めた部分を、詳らかにしよう」
「―――発端は、ルブ族ゲインニャ家が子女、イーニア嬢の死亡」
「おそらくは他殺によるものと推察される。そして、イヅェン後継第三階梯による、強引極まる【血肉の約定】の蒸し返しが行われ、キルル後継第二階梯が旗司誓<彼に凝立する聖杯>に移動した」
「この前後より、ア族ルーゼ家ヴェリザハー陛下―――現王の、益々の体調悪化が伝えられましたな」
「ああ。そして、<彼に凝立する聖杯>から追加されていた調査依頼―――不審なヒトやモノの動向の監視強化に、更なる追加。旗司誓の本拠地を急襲してきた旗無しについて」
思い出すうちに―――
気付いたことがあった。知らない間に切れていた回路をふと取り戻したような無音の衝撃に、軽く背を安楽椅子から浮かしすらして、ひじ掛けを握り込む。譫言じみていたとしても、それを……口走るしかない。
「―――追加。そうだ。追加だ」
「は?」
「元々依頼されていた、件の―――アーギルシャイアの臍帯の件については、どうなった?」
「どうなったと糺されましても……どうにもなっておりません。人体由来と思われるものと、それ以外とで、我が国と隣国とで別個に統計を取り、<彼に凝立する聖杯>に伝えておる次第で。なにせものが麻薬とくれば、密売の母体は筺底より深淵たる魔界。天魔に掻っ切られること無きよう、首を突っ込む前に、首を洗う覚悟が要り申す。そこまでは、まだ……」
ぱちくりさせた目を徐々に細め、最後には苦し気に卓上の提灯へと目線を逃がすキアズマを、それでも正面から捉える。相手からしてみれば、急に会話から相槌も許されなくなったことに加え、己の力量不足を自白させられるようで苦痛なのだろうが。彼も自分もプロフェッショナルだ……いや、少なくともプロフェッショナルで在ろうとしている以上は、面目にかまけて言い逃れしている場合ではない。
逸りたがる思考を抑えるように、ゆっくりと―――低く、詰問する。
「……八年前の戦争を、君は知っているね?」
「無論のこと」
「では、八年より以前に流布した風聞についてはどうだ?」
「風聞?」
「誘い水を撒き、麻薬に手出しさせたのは、我が国が先だったというものだ。国家的に、粛々と進められた裏の計画があったと」
「―――ああ。それでしたら、耳にしております。都市伝説として」
「どう思った?」
「噴飯ものにしても下等極まる駄法螺ですな。身内の恥を晒すようではありますれど、禁戒薬物なぞ、赤毛道楽のひとつとして香道に用いることすらある」
「個人的な密輸入によって?」
「するまでもない。御存知でしょう? 箱庭と筺底との通過点に使われている若者向けの乱痴気酒場では、観賞用と銘打って植物由来禁戒薬物が苗売りされておりますし、美術品と銘打って動物由来禁戒薬物の剥製がバラ売りされております。摂取するかどうかは買い主次第ですと面憎いにしても厚顔この上ない言い様で……それほど、あるところにはあるのです」
吐き捨てて、キアズマは更なる唾棄をくれてきた。
「麻薬の糸口が我が国でしたと言われれば、否定する論拠はない―――が、しかし、やはり隣国でしたと言われてもまた否定する論拠もない。はっきりしているのは、八年前に戦争が起こり、我が国はそれに勝利したということ。その事実だけでも、やっかむ敗者と、口さがない見物人を生む。二枚舌の口八丁には事欠きませぬ」
「敗者、見物人……―――どちらでもない旗司誓なら、どうなる?」
「なんですと?」
「アーギルシャイアの臍帯より一段と確実な証拠を、独自に手に入れたのだとしたら。<彼に凝立する聖杯>は……動かざるを得ないんじゃないのか? 旗司誓として、【血肉の義】を証そうとするなら。なんの因果か、【血肉の約定】まで復活した―――この機を、見過ごせるか? 霹靂は、我を忘れたんじゃないか? 霹靂として……シヴツェイアであることを、ザーニーイは忘れたんじゃないのか?」
沈黙。
数瞬でしかなかったが、確かにそれはあった。それを壊すことがなにかの決定打になることを懼れるかのように、キアズマの声音はおびえと戸惑いを増していく。机上に落ち着けていた指先まで、無意味に動かしてみせた。ふらふらと。提灯の火の玉のように。
「まさか……そのような、荒唐無稽な。軽挙にしても甚しい―――確かに軽挙ながらの美学は些かに感じますれば、血気に逸る若者とくれば目も眩みましょうが、ゼラ主席がそれを窘ぬはずがない」
「―――つまりゼラは、窘めなかったんだ」
「は?」
「目的を果たすために、手段を択ばなかった。旗司誓たらしめんとした<彼に凝立する聖杯>―――その世界を利用し、裏切った」
断言に、力はこもっていなかった。押し通すような力づくではなく……ただただ、そう在るだけで浸透する、自然の条理。
肩回りを浮かせていた焦燥に納得して、座り直す。身じろぎを済ませて、手の内側に浮いた汗をひじ掛けになすりつけた。
(落ち着け)
キアズマは待ってくれている。それに、こたえなければ。
上がりかけた心拍が、凪ぐ方向へ行きそうだと判断できた頃。やっと口を開くことが出来た。
「行きは早朝だったため目撃談はばらついているが―――城から解放された旗司誓は、全員が全員、赤毛だったのだろう。ゼラもシゾーも黒髪だ。どうして、こんな一大事なのに、イェスカザ家のどちらも付いていない? 後継第一階梯としてシヴツェイア・ザーニーイを玉座へ献上するのなら、内幕の逐一まで順序立てて話す第三者が必要となる。その役割は、<彼に凝立する聖杯>内では、もうイェスカザ家しか、それは担えない……はずだ。誰彼構わず託せる内容でもない」
「頭巾などで覆い隠していたのでは?」
「ぽつんとそうしていれば人目を引く。ただでさえ、良くも悪くも目立つ義親子だ。であれば、目撃者の誰かの記憶にも残ろう……英雄の顔見たさに湧いて出たからこその野次馬だ」
「城から解放された直後、衆目に触れる前より離脱を計ったのでは?」
「どうして離脱を計る必要がある? 【血肉の約定】は完遂した。名誉も名声も戴いた。纏って帰還すればいい。そうしないのは……旗司誓としては、背約者となったからだ」
「背約者ですと?」
「【血肉の約定】を、すげ替えた。【血肉の義】に基づき、アーギルシャイアの臍帯について糾明を求めようとしたザーニーイの動きを逆手にとって、【血肉の約定】の本義であるシヴツェイア後継第一階梯の王宮への返還を―――成した」
「……そもそもが何故今更、左様なことを?」
確信を深めていくこちらと対照的に、キアズマの反駁はブレーキに輪をかけてくる。
かぶりをふって、それを振り切るしかなかった。
「分かりはしない。そもそもが背約した根幹として、裏切ったのか―――見限ったのか。それからして、分かりはしないが。ここまで極めつけを極めてくれる首謀者は、まず間違いなく―――ゼラ・イェスカザでしかないだろう。逐電する手並みが鮮か過ぎる。デュアセラズロの魔術だ。葬送銀貨を超え、死に神とまで世に謂しめた……」
そして―――迷いはするが、危惧までも吐露した。
「こうなると、<彼に凝立する聖杯>本部に残されたと目されるシゾーが危ない。養父と共謀していたかどうかで、命運が分かれる。最悪、今頃<彼に凝立する聖杯>で血祭りに上げられているかも知れない」
「なんたること」
愕然と戦慄を零して。
怖気に蒼褪めたのは一瞬だった。焦りの色が怒りじみた熱に替わり、相好に朱を挿したキアズマが、机の天板が揺れるほど勢いよく立ち上がる。
「すぐにでも確認せねば! 優駿を―――!」
「待て」
「なにゆえ!?」
「もう遅い。おそらく一度目の決着は、なんらかの形でついている頃合いだ。二度目が―――これからだろう。そこへの備えを疎かにしては動けば、共倒れになる危険性が高まる」
「くっ……!」
己の短慮に忸怩を噛んだキアズマへと、口早に畳み掛ける。
「敢えて具体的に言おう。百歩譲って、早馬を出すのは構わない。だが例によって二人組だけを本部まで派遣した場合、最悪は血みどろに祭られる御神体の二体目が出来上がり、三体目にされる前に片割れが逃げ出せるかどうかといった体たらくに落ち着くだけだ。通常業務に加えて野次馬を捌くのに手一杯の現状で、二人以上の人員を捻り出し、地獄絵図か極楽絵図か察しもつかないと分かり切っている雹砂向こうまで送り込む……そこまで綽々とした余裕が、残されているか?」
「では―――どうすれば!?」
「<彼に凝立する聖杯>を回遊するキャラバン、その居地を当たれ。出来れば商家でなく、農村所有の公共車で、僅かでも息のかかった義賊が在中しているものが望ましい」
八つ当たりまぎれに声を荒らげるキアズマに、語り掛ける。天板と同じく揺らがされた燈火、それに煽られて伸び縮みする陰影―――情動はそれと似ている。伸縮自在なようでいて、いつだって内側から外側を呑み込む瞬間を待ちわびている。膨張する先が破滅に繋がるとしても。
それはそうだ。支配されるのは気持ちいいことだ。支配することと同様か、それ以上に。
だからこそ、言い聞かせなければならない……快と悦に振り回された振る舞いは、生き延びるのにそぐわないと。生き延びてしまった身としては、そうするしか。
「彼らから、飲食物と肥の出納量の変化を聞き出す。変わりなければ、【血肉の約定】開始当初のレベル程度には治安が保たれていると判断していいだろう……真逆に荒んでいた場合、キャラバンなど近付けもしないはずだ。今の<彼に凝立する聖杯>の規模なら、毎日なんらかのかたちで外部からの補給と外部への代謝を必要とする。とするなら、変化があれば、もうその農村内では人の口に登っていたところでおかしくない。聞き込みだけなら、都市間公道を行ける―――ならば単騎でもいい。公道を行くなら、武装犯罪者に狙われないだろう。念のため、伊達障泥を忘れるな」
「御意」
地熱は残っていたが、それでも沈着した声色で、キアズマが頷いた。その目の動きは、最早この部屋のどこでもなく、<風青烏>の現在と<彼に凝立する聖杯>の未来を追っていた。
「咲かせてくれようぞ―――我ら以煽開舞の華蕾を」
独り言だったのか、ひとりであれ宣誓したのか。分かりはしないが、言い残して去っていく。
キアズマは気遣いを忘れず、卓上用の提灯に火を移してくれていた。玄関戸から彼と光明を吐き出して広くなった室内に、入るだけの静寂が満ちる。
つと、考える。<風青烏>の出立は朝一番になるだろうか? おそらくそれは、今この時に不幸にも一階でカード・ゲームに興じている余暇者が屯しているか次第だろうが。確認できた情報の内容と運が良ければ、キャラバンに同伴して<彼に凝立する聖杯>まで足を延ばすことも可能だろう。もとよりキアズマは、やや頑固で激情家のきらいがある。あの分では、自らが向かうと言い出したところで不思議はない……
(言い出すどまりになってくれるだろうな? これ以上、絶望させてくれるなよ。ザーニーイの二の舞になど……)
あるいは―――
(これ以上の、裏切りなど……)
かるく丸めた片手を、額に押し当てる。愁嘆にも、思うことは多くあった……ありすぎて、どれから手を付けたものか分からないほど。直前までは、家族のことを思っていた。それを覚えていた。家族。
(家族。なんと―――ひときわ心地よい偶然の寄せ集めか……)
ひときわ心地よい偶然が寄せ集まったなら、それはもう奇跡でしかなかろうとしても。祈るしかない―――ありふれた、のぞみを。どこにでもある、ありふれた家族。それが為にこれは続く。
(どうか―――ゆるしたまえ。幸あらんことを)
しばらくそうしてから、ひじ掛けに腕を落ち着かせた。その時だった。玄関戸がノックされる。その響き方とリズムで、来訪者が知れる―――と言うか、キアズマが去った今、ここを訪れるのは彼女くらいだ。
「開いているよ」
「え? 不用心はいけないわ」
ぴょこんと立ち入ってきたアシューテティが、特に注意する口調でもなく言ってのける。
そして戸板をぱたんと閉じると、その場で分かりやすくふくれっ面になって、まるくした両方の手指をばしばしと己の太腿に叩き付け始めた。
「お義父さーん。まぁたアズっちのヤロー行っちゃったー」
「そうだね。ゆるしておやりなさい。男の真摯と真剣に根付いての行いは、品行であれ愚行であれ蛇行であれ、ゆるすのが、いい女だよ。叱るのは、あとでいい。君なら間に合う。いい女だから」
「ふーんだ。もー。お義父さんに取られた時間だけ、ひとりじめにしてくれるって約束したのにー。嘘つきー」
「キアズマ君は、君が先に約束を破ったと言っていた」
「あたしが?」
「お酒は一杯だけにしておきなさいとね」
面食らって手を止め、拗ねた怒声ごと眉を吊り上げる力を取りこぼした彼女だったが。こちらの矛先をものともせず、にやりと柳眉と口の端を上げてみせる。
「あら一杯よ。ただし、コップ一杯じゃなくて、腹一杯なだけ」
「これはこれは……頓智に一本取られたか。賢いね。愚か者は降参しよう。代理で悪いが」
「にょほほほほ! ざっとこんなもんよー!」
組んだ腕から持ち上げた片手の甲を唇に添えて、えらく満悦した勝ち鬨を上げているアシューテティは、傍目から見ても酔っていた。戯言を語られても忘れてくれるかもしれない。それを、ゆるされるかも分からない。たったの、それだけ。
―――彼は、口を開いた。
「約束か。それを信じることは愚かしいのだろうか」
「え?」
「それを疑わずにいられないのは賢いのだろうか」
疲れ切った筋骨を安楽にするには、この椅子はやや大きかったが。それでも寛ごうと手足を伸ばして、続行する。
「君たちだけでないが。人は結婚した時、永遠の愛を誓ったはずだ。神の御前にて誓いを立てた。なのに破局してしまう者もいる。それはなぜだろう。神聖だった……はずだ。真にそうであるならば、それは決して侵犯されぬ聖域であり、さながら神のように―――その存在と、同質であり、同一であるほどまでに。神聖だったはずだ。なのに正逆となってしまった。それはなぜなのだろう? 別格を、ゆるされた……愛だったはずだ。ふたりだったはずだ」
「心変わりすることもあるわ。人間だもの」
「こころ」
呟きを繰り返す。こころ―――の中で。
そして、心からの言葉を……彼は、現世に送り出した。
「心変わり。心配り。心して。心ゆくまで。心置きなく。心を砕く。二心。真心。幼心。老婆心。猜疑心。純心。衷心。本心。疑心。腐心。苦心。心ある言葉。心ない言葉。心にもない言葉。ないのに……ある、言葉。こころ―――それは実在しないのではないか? ないからこそ、こうまで人は言葉を紡ぎ、その空白に書き込んでいるのではないだろうか? 怪物が這い出てこられないように……引かれるトリガーに直面せずに済むように……その隙間を、埋め尽くそうと。楽園を失い、蒼穹を失い、鳥を失い、超人を失ってまでも―――後継者に、託して」
「いやに感傷的ね……古傷でも痛みます?」
「そうだね。ただし、」
言うのを止めたのは、シニカルな憐憫が舌根を浸したからだったが。
それでも、残りを口にする。聞こうとしてくれているアシューテティが、そこにいたから。
「―――心痛だよ」
「お早目にお休みになった方がいいわ。外出なんて、したことなかったのに。寝台に行くなら手を貸しますけど」
「いや、いい。ありがとう……君こそ、もう休みなさい。これ以上、人妻に入り浸ってもらうには―――心苦しい」
後ろ髪を引かれていたのは確かだろうが、アシューテティは心配顔と共に退室していった。そして実際に声に出してくれた心配事は、施錠についてだけだった。言い終えると、いなくなってくれた。
(ありがとう)
ひとり、部屋の中。眼差しを移して、提灯に燈されたあかりに、それを触れさせる。
そうして思い出すのは、ただの人影―――その者が魔神を解き放ち、宝石の内側に煌めかせた鬼火だった。
―――これは星だよ。僕はそう思ってる。まあ、理屈で解決しようとする理屈屋はとめないし、屁理屈との見境いもつけられない馬鹿なんか洟を引っ掛けるだけ無駄だから、諸説のどれも否定しないさ。だったら、星だっていいじゃない? そうでしょう―――
その者からそう物語られる、その御伽噺を―――彼は、覚えていた。信じるには愚かしい……ただし神聖な。であればこその……神話のような。
―――巨人だから掴めてしまった、ただそれだけの、僕の愛しく恋しい絶望だ―――
「聖域と、同質にして、同一であり―――正逆である、怪物領域。お前なら……こころ当たりが―――ありはしないか……?」
散りゆく言の葉。木の葉と同じく、裏も表もある言葉。
聞く者もおらず、だからこそ、今は繰り言。
おそらくは、想像もつかない昔から今までずっと繰り返されては、引っ繰り返されてきた……だからこその繰り言。
報いる者がいるのなら、繰り言ではなくなるのだろう。ふたりになれば独り言がなくなるといったような、言葉遊びに過ぎないのかもしれないが。それでも……ゆるされる可能性が開けるのなら。ただそれだけの、奇跡を祈る。
彼は目を閉じた。それだけで、思い出も燈明も―――すべての世界が目蓋の闇に没する。だからこそ、思い描いていた人影も、人の形すら失くした。それをどう呼べばいい? 怪物かも分からないのに。絶望するだけかも分からないのに。どう呼べばいい? ―――
均一で公平な一面の真暗の影……この閉じた円環のように完璧な正義でしかない楽園を裏切って、彼は呼びかけた。隙間があるならば届くだろうと信じて、背約者の名を呼んだ。それは、約束に ゆびきりを重ねるくらいの ちっぽけな力ちからでしかなかった。だとしても―――呼びかける名前が、在ったからには。
「ゼラ」
影。その名は、それと同質。
「デュアセラズロ」
ゼラを語るならば、それもまたそれと同一。
「―――イェスカザ」
だからこそ、それは―――正逆。
「……シゾー・イェスカザ」
そう。彼を思う。ゼラもデュアセラズロも超えてその者を現世に旗司誓として結びつけていたイェスカザという綴り、その言葉を継承した―――名を契られた後継者。その名は烙印。原罪ある巨人の標。
(どうか。愛あらんことを)
楽園は失われた。極は存在しない。神はいない。報いない。こたえない。祈ったところで、ゆるされる奇跡はない。それでも人は、呼びかける言葉を失いはしない。
「シゾー……シゾー・イェスカザ―――」
彼を呼ぶ。
絶望―――この逆世の楽園から ひとひとり振り返らせるには、自分だけでは呼び声も呼び名も足りないのだ。
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