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結章
結章 第一部 第二節
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長い長い長い長い長いだけの益体もない長話を乗り切れたのは、おそらくは自分が第五部隊だからだろうと、イコ・エルンクーは結論づけた。つまりは、気質である。愛想良くするうま味を知っており、かつそれに親しむのが苦ではない、そういった性格。
と言うのに、当の隊長の顔は浮かないものだった。ゾラージャ部隊長第五席主席。薄茶色の短髪の繁みを派手に切り裂く傷痕は、旗司誓<彼に凝立する聖杯>の厳めしい正門前への供物としてはまずまずの凄惨さだったが、その顔つきと言えば作り笑いに疲れ切っているので結構しょぼい。小さく遠のいていくキャラバンに手を振る仕草もしょぼければ、振り終えてからは猶しょぼく、ついでに牽き車にテンコ盛りにされた生活物品(ほぼ食料品)を見てそこに繋がれた馬(二頭)まで目を返してからは極まってしょぼい。
結局しょぼいまま、横にいたイコにしょぼしょぼの瞳を向けてきた。こちらの方が背丈があるため、やや下から。
「あー」
「どーしたんすか? 隊長」
そう訊ねたイコと言えば、さっさと騎獣の手綱を引いて、敷地内へときびすを返していたのだが。
歩くテンポに合わせて ぱったぱったと背中を叩く、ひとまとめにされた彼の長髪。その斜め後ろに とぼとぼと付いてきながら、ゾラージャが呻く。
「あれだな。厭きてきたな。もう俺。駐屯仕事」
「そっすか」
第一厩舎―――第二厩舎が馬用だ―――から、イコらがグラウンドに入ってくるのを見計らっていたアレルケン他数名が、正門に歩いていくのが見えた。そちらへ向けて、拳から立てた二本指でこめかみをこする簡易敬礼を投げてから、会話を取り戻す。
「まあ、騎獣らへんのこと以外は、メンテナンス係たち……第二部隊の使いっ走りばっかですもんねえ。荷運びに調達、外部とのやり取りなんかのエトセトラ。休暇に当てたところでいいくらい」
「いつもと違ってゴタゴタしてっとこに、いつもみてーに招き入れるわけにもいかねーから、可能な限りはこーんなピストン作業するっつーのも分かんだけどよーう。俺ぁあんまし商隊連中との世間話にゃ興味ねーんだよ。特に農村談話」
そこでちょっぴり間が空いたのは、山から転がり落ちたイモか何かをキャッチしたからだろう。よっ・とか、はっ・とか、なんだかそんなシチュエーションでよくある合言葉が後ろから聞こえてきた。イコが立ち止まれば馬も止まってしまうため、これ以上の雪崩を起こさないためにもゾラージャがそうするしかないのだが。
まあ、それも終われば終わったなりに、何もなかったかのように、げんなりとした落胆までも原状回復された。日常なんてそんなものである。
「当人の孫が生まれるとか結婚するとかは、そいつ自身も割と有頂天だから、どう おべっか使われたってって聞いちゃいねえんだろーけどよー。誰それのくっ付いた別れたなんざ外野にピーチクパーチクされたって、オッサンときめきもしねーよー」
「農村談義って。見張りも兼ねてローテーション組んで隊内で役割回してるんですから、そんな頻回に当たるもんでもないでしょ。それに、まだ世間話で収まってるだけってのはありがたいっすよ。そのうち嫌でも俺らに関わる醜聞やら風聞やら、ひっきりなしに荒れ狂ってくれると思いますし。<彼に凝立する聖杯>がしでかしたこと忘れてないっしょ? 隊長」
「えー? 忘れてもいい?」
「思い出すまで枕元に立たれるだけじゃないっすかねえ」
「誰に?」
「霹靂に」
「だっから、どっこまで本当なんだそれ?」
「副頭領が腸ただもれさせた挙句このままオダブツになったら、真相はネバーエンディングに藪の中でしょうけど」
「やめてくれよー。説でっちあげた張本人としてタダでさえ目覚め悪いのに、寝入り端まで邪魔されたかねーよー。しかも霊魂。副頭領おっ死んだらダブルでウラメシヤがコンバンハすんじゃねーの? マジ勘弁」
「しかも下手人がエニイージーとか。ぷっ」
「あっ。笑ったなお前。人の不幸は蜜の味か? 上司おちょくって楽しいか?」
「この上なく」
「楽しいのかっ!?」
言われるまでも無いので、返事は肩を竦めるに代えたが。
とりあえず義理はあるので、ひとつくらいは断っておく。
「―――にしても。副頭領も、どこまで当事者なんですかねえ。裏切り者としては」
「どこまで?」
「なんちゅーか。仲間内から刺される人ってのは、大抵は裏切り者に使い捨てにされた蜥蜴の尻尾ってのがオーソドックスな気ぃしません?」
「うーん」
「ま、ともかく。急に敷地内に立ち入らせなくなった時点で、キャラバン連中にゃ噂話の種は蒔いちゃってますからね。だからその内容が、厭きがくるくらい穏当なうちは、仕事しときましょーよ―――だって、」
つと、一拍。
その間に行先を指さし、そこに繰り広げられている風景を眺めて、イコはこれも道理ながらの解説をした。
「あれ見る限り―――なぁんかこれからの流れによっちゃ、第一部隊の盾か、その他部隊の矛にされるかも分かんない風じゃないっすか? 俺ら」
「うえ。マジかよ」
「平和なうちに堪能しときましょーや。平和も料理も青春も、旬を味わうって一番っすよ。そうし損ねた奴が、後になって拗らせておちょくるもんだから、無様だし下品だし へったくれもあるかって思えちまうよーになっちゃうんですよ。こーいうのって」
「なんの話だ?」
「中二病って知ってます?」
「知らん」
「実は俺も」
「知らんのかい!」
ともあれ。食糧庫やら厨房やら連なった、調理用の個建。
どうしてこうなったものか、大勢の―――三十余名はいるだろうかと思われる旗司誓が、ごったがえしながら喚き合っていた。
とはいえ、めいめいで喚き声の内容は異なっている。喋る内容が聞き分けられる範囲外から、イコは殊更に歩調を落とした。これは単純に、馬に刺激慣れさせるためだったが、事態の吟味にも役に立った。
まずは、青色ひとりに食って掛かられている小豆色ひとり。老け顔ながら実は若い部隊長第三席主席ギィ(実は二十歳前)、ならびに、実年齢なりに老成した感を着慣れた振りをしている時点で性根が幼稚であることを露呈している部隊長第一席次席フィアビルーオ(実は三十路越え)―――兄なのか弟なのか、ぱっと見では判断がつかないにせよ、どちらにせよ次席。このふたりが、旗司誓中で最も目立っていた。まあ第一部隊は<彼に凝立する聖杯>の内政治安や統制を執行することを主な任務としているため、イコらのように悔踏区域外輪で遭難することに備える必要も基本的に無いので衣服も原色をしておらず、薄紫の生地に濃い小豆色の刺繍―――双頭三肢の青鴉の紋章―――を入れた大ぶりのネッカチーフを私服の肩口に巻くだけといったカウボーイじみた扮装をしているから、嫌でも目立つ。実際に気取り屋も多いし、<彼に凝立する聖杯>内で隊員数が最小であるくせして特権的だという意味でも悪目立ちするが、まあこれについても彼らのせいではあるまい。
「オイ、なんで副頭領まで檻に入れやがった! とっとと開けて横っ腹の治療しやがれ! 待ってる旗は、刺しやがったエニイージーのやつだけだろ!?」
「だけかどうか、どうして分かる? 情報も錯綜してる今は、とにかく目が覚めて自供するまで閉じ込めておくしかない。医者もいない以上、治療の目途も立たない。医術屋ですら探しに行けるものか……お前らが黙って鎮座ましましとしてくれていたなら、その余力も回せたろうがな」
「はっ、黙ってられっかい! 第一部隊が、ゼラ主席がいなくなったってのに、ぶいぶいと昔の七光りを着やがってからに! 霹靂ザーニーイもいなくなった今、ここにいるのはシゾー・イェスカザ―――筺底のツァッシゾーギだ。ゆくゆくの頭領を相手に、いい気になってんじゃねえぞ」
「その啖呵、そのまま返してやる。腰巾着がここまで勝手に威勢良くしていられるのも、わたしたちが保っている秩序の中であるからこそと思いたまえ。無法地帯となった途端、真っ先に寝首を掻かれても知らんぞ……」
まあ色々とご多聞に漏れずと言うか、風紀委員とツッパリの諍いなど、イコが在籍していた都街のスクールでもありふれていた団栗の背比べなので、特筆に値しない。イェスカザ家の義親子喧嘩を肩代わりしての代打戦とも言えるだろうが、つまらない勝負に命懸けになるのは勝利した自己満足の味を味わいたい当事者だけだ。イコは当事者ではない。なので、次。
黄色。第四部隊。隊長の姿は見当たらない。かなり青色も混ざっているが、とにかく大半を占める、その集団。ぞろぞろと、調理棟に向けて文句を吐いている。
「なあ。おい。はよー」
「このまま昼にさせる気か? さっさと要るもん寄越してくれよ。これから俺たち、いつも通りに旗司誓せにゃならんのだから」
「おいメシ! なんでもいいからくれ。ちんたらすんなや」
なにやら遅れが出ているようである。珍しいが、まあ番狂わせに番狂わせが重なっているのだから、このなかで狂いが出ていない者こそ真実の発狂者なのかもしれない。
(ってえことは、いつもながらチャランポランに考えていられる俺がおかしいのかねえ?)
疑いはするものの。ぞっとしないので、信じないことにする。
そんな程度の切り札を切って、イコは含み笑いを漏らした。切り札を切るだと? これっぽっちのことが、運命の落とし穴かも知れないと……そう疑えてしまうことそれ自体は大したことではないし、落とし穴についても大袈裟に考えることではない。ただし、穴は穴だ。落ちた奴も知っている。巻き添えを食らった者も見てきた。と言うか、自分がそのどれでもないとも言い切れない。どれであってもおかしくない。自覚はないが、ごろごろ転がって落下している最中だとしたら上下左右など判断がつくものでもないし―――正気など、それこそ渦中では、のぞむべくもない。自分が旗司誓であること、それも正直こころの拠り所としては頼りない。旗を振り回しながら口上を叫びつつ抜剣するなど、街中で見かけたなら、気狂い者の典型図ではないか……
(まあ、こんなのは結局、疑い過ぎないようにする自分の心掛けと―――お前なんだから大丈夫だって心から信じてくれる誰かが横にいるかってだけの話なんだろうけどな)
再度、前方を見やる。
騒ぎが騒ぎなので、今以ってしても、誰ひとりこちらの接近には気付いていないようだった。それでも、二頭立てにした山積もりもりの荷車である。そろそろ嫌でも気づくだろう……そう踏んでいたのだが。それは、たった三秒で終わってしまった。
ざむっ―――
三秒経って、調理棟からまず聞こえたのは、そんな音だった。大男を辻斬りにしたかのような。
離れているイコらよりも、調理棟まわりにいた者たちの方が抱いた感想の方が切実だったらしく、水を打ったように旗司誓全員で静まり返る。イコが取っ組み合いまであと五秒と見込んで内心カウントダウンしていたギィとフィアビルーオですら、お互いの胸倉を掴み上げた状態で硬直した。予想が的中したら懸賞品として念願の舶来書を買うために財布の紐を緩めてもいいかなと思いかけていたのだが。無念。
音がしたのは、個建の出入り口だった。その、ドアがない内側から……ぬうっと、ひとりの男が姿を現す。固太りした四十絡みの、どこにでもいそうな、特にどうというところのない男である―――身障者であることも含めて。ただし、一刀両断した生肉の塊―――さっきのはあれをチョップした音か―――を片手に逆さづりにして、もう片手には白鞘から抜き身にした片刃の長剣を掲げている。
(いや、剣じゃねーわ。図鑑で見たことある。あれ)
騎獣や牛馬のような大型獣を死骸から食肉に仕立て上げる際に用いる、特殊な包丁だ。刀と言ったか。
男の動作がゆっくりなのは、足が不自由であるためだ……と普段なら納得もしただろうが、その眼光と顔つきを見れば持論も変わらざるを得ない。決意だ。それを示した上での、凄んだ気迫と威迫。
第二部隊……その中でも、調理係と呼ばれる旗司誓。部隊長第二席主席ジェイゾロトフ。彼が、じっとりと―――宣言した。
「決めた。決行だ」
「…………ええと。なにをでしょうか?」
危機感に素直にへりくだった誰かが、訊き返す。
それにジェイゾロトフは、返答した。
「容疑はある。副頭領を、檻から解放しろとは言わん。ただし、俺たちに扱わせろ。ついでにエニイージーもだ。それと、……我々全員を、引き換えだ」
返答? 否。
やはりそれは、宣言だった。刀の切っ先を、しゃっとこちらへと振りかざし、旗幟闡明に誓いを立てる。
「俺たち第二部隊は、たった今からこの調理棟および食糧庫に立てこもり、全員で全業務を放棄する」
瞬間。
その瞬間を、待っていたのだろう。食糧庫の向こう、屠殺場の側に隠れていたのか―――どこからともなく、ぞろぞろと第二部隊の隊員が湧いて出てきた。
よく見れば調理棟の奥にも、底光りする双眸が無数に詰め込まれている。全員が全員よく似た鬼気で腹の底を煮上げながら、無音で調理棟の壁沿いに数を増やしていく。まず間違いなく第二部隊の総隊員だ。多勢に無勢とか言う以前に、問答無用の気配に気圧され、その他大勢の旗司誓たちは成す術なくグラウンド方面へと後退した。実際腰が引けていたのだから、そうなると速い。あっという間に、調理棟もろとも周囲が占拠されてしまう。
その包囲中も、ジェイゾロトフ部隊長第二席主席による、陰に篭るような喝破は続けられていた。白刃の切っ先もまた、彼が―――彼らが見定めた戦端から覆られはしない。
「例外はない。料理・洗濯・掃除等々の家事のみならず、経理・会計・事務はおろか、武器・物品の手入れや修理・下処理も―――徹頭徹尾、放棄する。お前らが引き換えを承諾するまで継続だ。近づくなら追い返す。言っておくがな、<彼に凝立する聖杯>のどの部隊より古参が揃い踏みした眼力と、一丸となるべくしてなった人数―――その心意気を舐めるなよ。ついでに、日に三度欠かさず研ぎ清ました包丁の切れ味は、その腰にぶら下がってる古剣どもの比になると思いなさるな……手元から落っことしただけで、軽く足の指二本は戴ける代物だ」
実際そうだろうと、イコは彼の持つ生肉の断面を観察した。まったく潰れていない。先程の音からして、相当な勢いでまな板までアタックしたのだろうと思えていたのだが、その圧を生かし切る鋭さとなると そらおそろしくなる。切れすぎるメスのようなものだ……同業者なら手に負えるなどと調子に乗らない方がいい。同業者だからこそ明白となる腕前の優劣は、厳然と存在する。
そして、そのつややかな桃色から目を上げる頃には、更に目を見開くような光景が展開していた。思わず感嘆してしまう。
「わーお。図鑑見たことあってよかった俺。トンデモ刃物万博じゃーん」
背後に回していた手を前に持ってきただけだとしても。並み居る第二部隊の面々の、全員に全員が、ずらりと―――それらを携えていた。片手に。両手に。
牛刀。鉈。斧。背引き鋸。腱断ち鋏。鎌。鎌型包丁。柳葉包丁。骨スキ包丁。筋引き包丁。出刃包丁。小出刃包丁。身卸し出刃包丁。黒出刃包丁。相出刃包丁。波刃包丁。菜切り包丁。薄刃包丁。魚引き包丁。腸裂き包丁。むき包丁。肩落とし包丁。頭落とし包丁。
金物に限っての博覧会ではない。さすまた。銛。重さ以上に硬度がありそうな棍棒もある―――使い手の右手に連れられて、木の実だろうが雄牛の頭蓋骨だろうが粉砕してきた積年を背中に語る佇まいで静かに沈黙しているが、その雄叫びを向けられる側には出来ればなりたくない。お隣さんへと目を移せば、なにやら巨大な千枚通しのようなものまであった……目玉だろうが腎臓だろうが えぐり出せそうな、えぐい存在感の発散がどきつい。
本気で物騒なことに使おうというつもりでなく、威嚇と恐嚇のため手当たり次第に持ち出したといった体だが、かなりのバリエーションかつ頭数である。食事でシチューが出てきた時は驚いたものだが、ここまでラインナップが揃っていたのなら、そのうち並大抵の小料理屋を超える品書きまで実現してくれる日が到来したとておかしくはなかろう。人間なのだから。
(トップのジェイゾロトフの旦那が、調理係だったから出来た芸当だろうけどな。誰が上に立つかで、隊費がどこに入れ込むかも変わる)
固定色がないのは第一部隊も第二部隊も同じだが、後者はそれを上回って特殊な点がある。いわゆる隊長補佐役……次席がおらず、その代わりに事務係や清掃係などのグループ別に取締役がいるということであり、これは言ってみれば副座と呼ばれる役割を強化した扱いになる。それでも頂点を取り纏める者は必要とされるもので、現在その任に就くのがこのジェイゾロトフだった―――最も年嵩である、ただそれだけの単純明快な理由で。<彼に凝立する聖杯>において見極め一羽まで実施して部隊の再編制が試みられた際、経験年数が最も長かったイコ自身が隊長に推されそうになった時に、この部隊長第二席主席の例を上げに上げて平役にとどまらせてもらった手前、そこら辺の事情は忘れていない。
ともあれその頃には、その他大勢の旗司誓から、阿鼻叫喚の付和雷同は始まっていた。
「おい。なに言ってんだ! そんなことされたらひと堪りもねえ!」
「食糧庫を押さえられたら、備蓄なんか一日分も……」
「井戸だって、そこに開けたやつがメインじゃねえかよ! 悔踏区域外輪で水も飲めねえんじゃ、いいとこ一日で日干しだぜ!」
「煮炊きだって、しようにも、火種なんて―――遠征用の持ち分だけだぞ。俺たちじゃせいぜい麦を炒る程度で、お前らみてえに支度できねえよ」
「ちょいとちょいと。待たされてた俺の投剣は? あぶら引いて、直してくれたんだろ。バランス取れてんの、あれっきゃ残って無えんだぞ」
「もう洗い替えの下穿きねえんだ。それだけでも融通してくれ!」
「俺の給料は!? 監査してんのは第一部隊だけど、そこまで仕立てて算盤はじいてんの、お前らじゃねえかよ! 小作人してる親から、種もみ買えねえって泣きつかれてんだ! 畑が遅れちまう! 殺す気か!?」
「ははは!」
その時だった。数々の泣き言を、笑い声が劈く。
ギィだ。いつの間にやらちゃっかりと調理棟の側に加わって、出入り口の前あたりにしゃがみながら、わざとらしく片手を庇にこちらを睥睨して、けたけたと腹を抱えていた。
「こいつはいいや! 絶景かな絶景かなとくらぁ!」
「言ったろう。例外も二言も無い」
ジェイゾロトフにげしっと蹴り出されて、それも終わる。
日々くそ重たい鍋を運んでいる足腰の膂力も並ではないらしく、ギィはきっかり前方二回転半でんぐりがえりさせられてしまう。二回転と半分、つまりは結局その他大勢の側へごちゃまぜに戻されて第二部隊と向き合う形となり、彼はとびきりの悲鳴を裏返らせた。完全に裏切り者を糾弾する口調で、がなり立てる。
「はあ!? ざっけんじゃねえぞ! お前らだってシゾー・イェスカザの肩を持つ側だったろうが!」
「一緒にするな―――お前たちみてぇな……利用したがり野郎どもが抜かしてくれる おべんちゃらと、俺たちを一緒にするなア!!」
誰をも上回る裂帛の大音声に、わらわらと群れるだけのどよめきは一瞬にして押しつぶされた。ギィのそれだけでなく、彼方の毒つきも……此方のぶつくさも。
その沈黙が、しわじわと重さを増していく―――それが未知数まで達する、直前だった。
「まあ待て待て、待ちたまえ待ちたまえ。君たちの料簡は理解した。もともと副頭領は趣味がてら、ここによく出入りしていたことも知っている。情が移るのも自然だろう」
こういったいがみ合いを常日頃から仲裁している手前、フィアビルーオに動揺の色はない―――表向きは。肩の前まで挙げた両手を、どうどうと犬でもいなす動きで小さく動かしながら、一歩進み出た。二歩目に移ろうとして、ジェイゾロトフ一同の気配に敵意の波が増したのを見て取ったらしく、その場に留まる。ただし身代わりとして、恭順のせりふを滑り込ませた。
「しかも、騎獣部隊の創設に伴い<彼に凝立する聖杯>の構成を大々的に刷新した際、君たちを部隊として取り成したのは、副頭領だ。予算を組んで、隊費を回し、―――要は、下働きでなくした。思い切ったものだと当時は たまげたものだが……」
「それだから、一緒にしてくれるなと……言っているんだ!」
「なんだと?」
賛同し、受諾し、味方したのに、どこまでも裏切られて。訝し気にした、フィアビルーオ。
その有り様こそが、彼ら第二部隊を裏切る侮辱であり、絶望させた根幹だったのだろう。ジェイゾロトフは、万力を込めて怒張させた全身を持て余すように、手にした肉塊と刀をぶるりとひと震わせした。ひと震わせ。
(いんや。違ゃうわな)
あれは武者震いだ。思い付けば、すんなりと納得もいく。旗司誓なのだから。
イコとて、やはり必要とあれば武者となる身なればこそ、その義侠の告白を聞き入れるしかない。
「あの人は恩人だ。最初からずっと、俺たちを労って、ありがたがってくれた。メシが食える、服が着られる、便所が使える、どれもこれも明日はどうだ明後日はどうだと心配せずに済むようになった……その全部が全部、ありがたいと。恩に着てくれたんだ。着てくれたものは、心許りであろうとも……着てくれただけ、返す。五体不満足なりとて、我らは旗司誓だ―――俺たちなりの、この血肉で、司ると誓った義を……立てる! 【血肉の義】を!」
―――そこまで来て。
ごろごろと進む荷車。その馬の轡を取っているイコの裏っ側にて、ゾラージャがぽつりと裏表なく得心した。
「まあ、アレだよな。悪餓鬼だろーがクソガキだろーが、母ちゃんだきゃあ面倒見てもらってるうちはキレさすもんじゃねえよな」
「まったくっす。隊長」
「そういやイコ。おめーここ辞めるつってなかったっけ?」
「ああ。あれ嘘っす」
「マジかよ」
「マジです」
「なんで?」
「さあ。ノリ?」
「嘘ついた理由までこっちに訊くとか、丸投げにしたってひどくねっか?」
「えー? あん時ノっちゃったもんは、もうしゃーないっしょー。それに俺、こーしてるの楽しいっすもん。窮措大やりながら金も稼いで、まあ時たま、こんなカンジの死なねえくらいにハプニングっつーかテリブルっつーか。飽きの少ない人生」
「まんまといっぱい食わされたぜ」
「そりゃそうっすよ。嘘なんて、そのためのフェイントっしょ」
「あざといなーおめー。うーん。じゃあ、まあ、とにかく、旗司誓すっか。俺らは俺らで」
「ラジャーっす。ちわー。第二部隊さーん。お届け物でーす。背の二十重ある祝福にぃー」
そのまま進んだイコは、当然のことながら、届け物を届けた。ゾラージャと共に。
そうだ。届け物だから届ける。洒掃薪水には労がある。食材は調理せずに料理にはならない。腹だから減る。旗司誓だから、旗は誓って司る。恩は返す。ありがとうと言われたら、どういたしましてと返すくらい、大切にするのを忘れてしまいがちだが……どれだっていつだって、本当に。どれもこれも、当然のこと。
と言うのに、当の隊長の顔は浮かないものだった。ゾラージャ部隊長第五席主席。薄茶色の短髪の繁みを派手に切り裂く傷痕は、旗司誓<彼に凝立する聖杯>の厳めしい正門前への供物としてはまずまずの凄惨さだったが、その顔つきと言えば作り笑いに疲れ切っているので結構しょぼい。小さく遠のいていくキャラバンに手を振る仕草もしょぼければ、振り終えてからは猶しょぼく、ついでに牽き車にテンコ盛りにされた生活物品(ほぼ食料品)を見てそこに繋がれた馬(二頭)まで目を返してからは極まってしょぼい。
結局しょぼいまま、横にいたイコにしょぼしょぼの瞳を向けてきた。こちらの方が背丈があるため、やや下から。
「あー」
「どーしたんすか? 隊長」
そう訊ねたイコと言えば、さっさと騎獣の手綱を引いて、敷地内へときびすを返していたのだが。
歩くテンポに合わせて ぱったぱったと背中を叩く、ひとまとめにされた彼の長髪。その斜め後ろに とぼとぼと付いてきながら、ゾラージャが呻く。
「あれだな。厭きてきたな。もう俺。駐屯仕事」
「そっすか」
第一厩舎―――第二厩舎が馬用だ―――から、イコらがグラウンドに入ってくるのを見計らっていたアレルケン他数名が、正門に歩いていくのが見えた。そちらへ向けて、拳から立てた二本指でこめかみをこする簡易敬礼を投げてから、会話を取り戻す。
「まあ、騎獣らへんのこと以外は、メンテナンス係たち……第二部隊の使いっ走りばっかですもんねえ。荷運びに調達、外部とのやり取りなんかのエトセトラ。休暇に当てたところでいいくらい」
「いつもと違ってゴタゴタしてっとこに、いつもみてーに招き入れるわけにもいかねーから、可能な限りはこーんなピストン作業するっつーのも分かんだけどよーう。俺ぁあんまし商隊連中との世間話にゃ興味ねーんだよ。特に農村談話」
そこでちょっぴり間が空いたのは、山から転がり落ちたイモか何かをキャッチしたからだろう。よっ・とか、はっ・とか、なんだかそんなシチュエーションでよくある合言葉が後ろから聞こえてきた。イコが立ち止まれば馬も止まってしまうため、これ以上の雪崩を起こさないためにもゾラージャがそうするしかないのだが。
まあ、それも終われば終わったなりに、何もなかったかのように、げんなりとした落胆までも原状回復された。日常なんてそんなものである。
「当人の孫が生まれるとか結婚するとかは、そいつ自身も割と有頂天だから、どう おべっか使われたってって聞いちゃいねえんだろーけどよー。誰それのくっ付いた別れたなんざ外野にピーチクパーチクされたって、オッサンときめきもしねーよー」
「農村談義って。見張りも兼ねてローテーション組んで隊内で役割回してるんですから、そんな頻回に当たるもんでもないでしょ。それに、まだ世間話で収まってるだけってのはありがたいっすよ。そのうち嫌でも俺らに関わる醜聞やら風聞やら、ひっきりなしに荒れ狂ってくれると思いますし。<彼に凝立する聖杯>がしでかしたこと忘れてないっしょ? 隊長」
「えー? 忘れてもいい?」
「思い出すまで枕元に立たれるだけじゃないっすかねえ」
「誰に?」
「霹靂に」
「だっから、どっこまで本当なんだそれ?」
「副頭領が腸ただもれさせた挙句このままオダブツになったら、真相はネバーエンディングに藪の中でしょうけど」
「やめてくれよー。説でっちあげた張本人としてタダでさえ目覚め悪いのに、寝入り端まで邪魔されたかねーよー。しかも霊魂。副頭領おっ死んだらダブルでウラメシヤがコンバンハすんじゃねーの? マジ勘弁」
「しかも下手人がエニイージーとか。ぷっ」
「あっ。笑ったなお前。人の不幸は蜜の味か? 上司おちょくって楽しいか?」
「この上なく」
「楽しいのかっ!?」
言われるまでも無いので、返事は肩を竦めるに代えたが。
とりあえず義理はあるので、ひとつくらいは断っておく。
「―――にしても。副頭領も、どこまで当事者なんですかねえ。裏切り者としては」
「どこまで?」
「なんちゅーか。仲間内から刺される人ってのは、大抵は裏切り者に使い捨てにされた蜥蜴の尻尾ってのがオーソドックスな気ぃしません?」
「うーん」
「ま、ともかく。急に敷地内に立ち入らせなくなった時点で、キャラバン連中にゃ噂話の種は蒔いちゃってますからね。だからその内容が、厭きがくるくらい穏当なうちは、仕事しときましょーよ―――だって、」
つと、一拍。
その間に行先を指さし、そこに繰り広げられている風景を眺めて、イコはこれも道理ながらの解説をした。
「あれ見る限り―――なぁんかこれからの流れによっちゃ、第一部隊の盾か、その他部隊の矛にされるかも分かんない風じゃないっすか? 俺ら」
「うえ。マジかよ」
「平和なうちに堪能しときましょーや。平和も料理も青春も、旬を味わうって一番っすよ。そうし損ねた奴が、後になって拗らせておちょくるもんだから、無様だし下品だし へったくれもあるかって思えちまうよーになっちゃうんですよ。こーいうのって」
「なんの話だ?」
「中二病って知ってます?」
「知らん」
「実は俺も」
「知らんのかい!」
ともあれ。食糧庫やら厨房やら連なった、調理用の個建。
どうしてこうなったものか、大勢の―――三十余名はいるだろうかと思われる旗司誓が、ごったがえしながら喚き合っていた。
とはいえ、めいめいで喚き声の内容は異なっている。喋る内容が聞き分けられる範囲外から、イコは殊更に歩調を落とした。これは単純に、馬に刺激慣れさせるためだったが、事態の吟味にも役に立った。
まずは、青色ひとりに食って掛かられている小豆色ひとり。老け顔ながら実は若い部隊長第三席主席ギィ(実は二十歳前)、ならびに、実年齢なりに老成した感を着慣れた振りをしている時点で性根が幼稚であることを露呈している部隊長第一席次席フィアビルーオ(実は三十路越え)―――兄なのか弟なのか、ぱっと見では判断がつかないにせよ、どちらにせよ次席。このふたりが、旗司誓中で最も目立っていた。まあ第一部隊は<彼に凝立する聖杯>の内政治安や統制を執行することを主な任務としているため、イコらのように悔踏区域外輪で遭難することに備える必要も基本的に無いので衣服も原色をしておらず、薄紫の生地に濃い小豆色の刺繍―――双頭三肢の青鴉の紋章―――を入れた大ぶりのネッカチーフを私服の肩口に巻くだけといったカウボーイじみた扮装をしているから、嫌でも目立つ。実際に気取り屋も多いし、<彼に凝立する聖杯>内で隊員数が最小であるくせして特権的だという意味でも悪目立ちするが、まあこれについても彼らのせいではあるまい。
「オイ、なんで副頭領まで檻に入れやがった! とっとと開けて横っ腹の治療しやがれ! 待ってる旗は、刺しやがったエニイージーのやつだけだろ!?」
「だけかどうか、どうして分かる? 情報も錯綜してる今は、とにかく目が覚めて自供するまで閉じ込めておくしかない。医者もいない以上、治療の目途も立たない。医術屋ですら探しに行けるものか……お前らが黙って鎮座ましましとしてくれていたなら、その余力も回せたろうがな」
「はっ、黙ってられっかい! 第一部隊が、ゼラ主席がいなくなったってのに、ぶいぶいと昔の七光りを着やがってからに! 霹靂ザーニーイもいなくなった今、ここにいるのはシゾー・イェスカザ―――筺底のツァッシゾーギだ。ゆくゆくの頭領を相手に、いい気になってんじゃねえぞ」
「その啖呵、そのまま返してやる。腰巾着がここまで勝手に威勢良くしていられるのも、わたしたちが保っている秩序の中であるからこそと思いたまえ。無法地帯となった途端、真っ先に寝首を掻かれても知らんぞ……」
まあ色々とご多聞に漏れずと言うか、風紀委員とツッパリの諍いなど、イコが在籍していた都街のスクールでもありふれていた団栗の背比べなので、特筆に値しない。イェスカザ家の義親子喧嘩を肩代わりしての代打戦とも言えるだろうが、つまらない勝負に命懸けになるのは勝利した自己満足の味を味わいたい当事者だけだ。イコは当事者ではない。なので、次。
黄色。第四部隊。隊長の姿は見当たらない。かなり青色も混ざっているが、とにかく大半を占める、その集団。ぞろぞろと、調理棟に向けて文句を吐いている。
「なあ。おい。はよー」
「このまま昼にさせる気か? さっさと要るもん寄越してくれよ。これから俺たち、いつも通りに旗司誓せにゃならんのだから」
「おいメシ! なんでもいいからくれ。ちんたらすんなや」
なにやら遅れが出ているようである。珍しいが、まあ番狂わせに番狂わせが重なっているのだから、このなかで狂いが出ていない者こそ真実の発狂者なのかもしれない。
(ってえことは、いつもながらチャランポランに考えていられる俺がおかしいのかねえ?)
疑いはするものの。ぞっとしないので、信じないことにする。
そんな程度の切り札を切って、イコは含み笑いを漏らした。切り札を切るだと? これっぽっちのことが、運命の落とし穴かも知れないと……そう疑えてしまうことそれ自体は大したことではないし、落とし穴についても大袈裟に考えることではない。ただし、穴は穴だ。落ちた奴も知っている。巻き添えを食らった者も見てきた。と言うか、自分がそのどれでもないとも言い切れない。どれであってもおかしくない。自覚はないが、ごろごろ転がって落下している最中だとしたら上下左右など判断がつくものでもないし―――正気など、それこそ渦中では、のぞむべくもない。自分が旗司誓であること、それも正直こころの拠り所としては頼りない。旗を振り回しながら口上を叫びつつ抜剣するなど、街中で見かけたなら、気狂い者の典型図ではないか……
(まあ、こんなのは結局、疑い過ぎないようにする自分の心掛けと―――お前なんだから大丈夫だって心から信じてくれる誰かが横にいるかってだけの話なんだろうけどな)
再度、前方を見やる。
騒ぎが騒ぎなので、今以ってしても、誰ひとりこちらの接近には気付いていないようだった。それでも、二頭立てにした山積もりもりの荷車である。そろそろ嫌でも気づくだろう……そう踏んでいたのだが。それは、たった三秒で終わってしまった。
ざむっ―――
三秒経って、調理棟からまず聞こえたのは、そんな音だった。大男を辻斬りにしたかのような。
離れているイコらよりも、調理棟まわりにいた者たちの方が抱いた感想の方が切実だったらしく、水を打ったように旗司誓全員で静まり返る。イコが取っ組み合いまであと五秒と見込んで内心カウントダウンしていたギィとフィアビルーオですら、お互いの胸倉を掴み上げた状態で硬直した。予想が的中したら懸賞品として念願の舶来書を買うために財布の紐を緩めてもいいかなと思いかけていたのだが。無念。
音がしたのは、個建の出入り口だった。その、ドアがない内側から……ぬうっと、ひとりの男が姿を現す。固太りした四十絡みの、どこにでもいそうな、特にどうというところのない男である―――身障者であることも含めて。ただし、一刀両断した生肉の塊―――さっきのはあれをチョップした音か―――を片手に逆さづりにして、もう片手には白鞘から抜き身にした片刃の長剣を掲げている。
(いや、剣じゃねーわ。図鑑で見たことある。あれ)
騎獣や牛馬のような大型獣を死骸から食肉に仕立て上げる際に用いる、特殊な包丁だ。刀と言ったか。
男の動作がゆっくりなのは、足が不自由であるためだ……と普段なら納得もしただろうが、その眼光と顔つきを見れば持論も変わらざるを得ない。決意だ。それを示した上での、凄んだ気迫と威迫。
第二部隊……その中でも、調理係と呼ばれる旗司誓。部隊長第二席主席ジェイゾロトフ。彼が、じっとりと―――宣言した。
「決めた。決行だ」
「…………ええと。なにをでしょうか?」
危機感に素直にへりくだった誰かが、訊き返す。
それにジェイゾロトフは、返答した。
「容疑はある。副頭領を、檻から解放しろとは言わん。ただし、俺たちに扱わせろ。ついでにエニイージーもだ。それと、……我々全員を、引き換えだ」
返答? 否。
やはりそれは、宣言だった。刀の切っ先を、しゃっとこちらへと振りかざし、旗幟闡明に誓いを立てる。
「俺たち第二部隊は、たった今からこの調理棟および食糧庫に立てこもり、全員で全業務を放棄する」
瞬間。
その瞬間を、待っていたのだろう。食糧庫の向こう、屠殺場の側に隠れていたのか―――どこからともなく、ぞろぞろと第二部隊の隊員が湧いて出てきた。
よく見れば調理棟の奥にも、底光りする双眸が無数に詰め込まれている。全員が全員よく似た鬼気で腹の底を煮上げながら、無音で調理棟の壁沿いに数を増やしていく。まず間違いなく第二部隊の総隊員だ。多勢に無勢とか言う以前に、問答無用の気配に気圧され、その他大勢の旗司誓たちは成す術なくグラウンド方面へと後退した。実際腰が引けていたのだから、そうなると速い。あっという間に、調理棟もろとも周囲が占拠されてしまう。
その包囲中も、ジェイゾロトフ部隊長第二席主席による、陰に篭るような喝破は続けられていた。白刃の切っ先もまた、彼が―――彼らが見定めた戦端から覆られはしない。
「例外はない。料理・洗濯・掃除等々の家事のみならず、経理・会計・事務はおろか、武器・物品の手入れや修理・下処理も―――徹頭徹尾、放棄する。お前らが引き換えを承諾するまで継続だ。近づくなら追い返す。言っておくがな、<彼に凝立する聖杯>のどの部隊より古参が揃い踏みした眼力と、一丸となるべくしてなった人数―――その心意気を舐めるなよ。ついでに、日に三度欠かさず研ぎ清ました包丁の切れ味は、その腰にぶら下がってる古剣どもの比になると思いなさるな……手元から落っことしただけで、軽く足の指二本は戴ける代物だ」
実際そうだろうと、イコは彼の持つ生肉の断面を観察した。まったく潰れていない。先程の音からして、相当な勢いでまな板までアタックしたのだろうと思えていたのだが、その圧を生かし切る鋭さとなると そらおそろしくなる。切れすぎるメスのようなものだ……同業者なら手に負えるなどと調子に乗らない方がいい。同業者だからこそ明白となる腕前の優劣は、厳然と存在する。
そして、そのつややかな桃色から目を上げる頃には、更に目を見開くような光景が展開していた。思わず感嘆してしまう。
「わーお。図鑑見たことあってよかった俺。トンデモ刃物万博じゃーん」
背後に回していた手を前に持ってきただけだとしても。並み居る第二部隊の面々の、全員に全員が、ずらりと―――それらを携えていた。片手に。両手に。
牛刀。鉈。斧。背引き鋸。腱断ち鋏。鎌。鎌型包丁。柳葉包丁。骨スキ包丁。筋引き包丁。出刃包丁。小出刃包丁。身卸し出刃包丁。黒出刃包丁。相出刃包丁。波刃包丁。菜切り包丁。薄刃包丁。魚引き包丁。腸裂き包丁。むき包丁。肩落とし包丁。頭落とし包丁。
金物に限っての博覧会ではない。さすまた。銛。重さ以上に硬度がありそうな棍棒もある―――使い手の右手に連れられて、木の実だろうが雄牛の頭蓋骨だろうが粉砕してきた積年を背中に語る佇まいで静かに沈黙しているが、その雄叫びを向けられる側には出来ればなりたくない。お隣さんへと目を移せば、なにやら巨大な千枚通しのようなものまであった……目玉だろうが腎臓だろうが えぐり出せそうな、えぐい存在感の発散がどきつい。
本気で物騒なことに使おうというつもりでなく、威嚇と恐嚇のため手当たり次第に持ち出したといった体だが、かなりのバリエーションかつ頭数である。食事でシチューが出てきた時は驚いたものだが、ここまでラインナップが揃っていたのなら、そのうち並大抵の小料理屋を超える品書きまで実現してくれる日が到来したとておかしくはなかろう。人間なのだから。
(トップのジェイゾロトフの旦那が、調理係だったから出来た芸当だろうけどな。誰が上に立つかで、隊費がどこに入れ込むかも変わる)
固定色がないのは第一部隊も第二部隊も同じだが、後者はそれを上回って特殊な点がある。いわゆる隊長補佐役……次席がおらず、その代わりに事務係や清掃係などのグループ別に取締役がいるということであり、これは言ってみれば副座と呼ばれる役割を強化した扱いになる。それでも頂点を取り纏める者は必要とされるもので、現在その任に就くのがこのジェイゾロトフだった―――最も年嵩である、ただそれだけの単純明快な理由で。<彼に凝立する聖杯>において見極め一羽まで実施して部隊の再編制が試みられた際、経験年数が最も長かったイコ自身が隊長に推されそうになった時に、この部隊長第二席主席の例を上げに上げて平役にとどまらせてもらった手前、そこら辺の事情は忘れていない。
ともあれその頃には、その他大勢の旗司誓から、阿鼻叫喚の付和雷同は始まっていた。
「おい。なに言ってんだ! そんなことされたらひと堪りもねえ!」
「食糧庫を押さえられたら、備蓄なんか一日分も……」
「井戸だって、そこに開けたやつがメインじゃねえかよ! 悔踏区域外輪で水も飲めねえんじゃ、いいとこ一日で日干しだぜ!」
「煮炊きだって、しようにも、火種なんて―――遠征用の持ち分だけだぞ。俺たちじゃせいぜい麦を炒る程度で、お前らみてえに支度できねえよ」
「ちょいとちょいと。待たされてた俺の投剣は? あぶら引いて、直してくれたんだろ。バランス取れてんの、あれっきゃ残って無えんだぞ」
「もう洗い替えの下穿きねえんだ。それだけでも融通してくれ!」
「俺の給料は!? 監査してんのは第一部隊だけど、そこまで仕立てて算盤はじいてんの、お前らじゃねえかよ! 小作人してる親から、種もみ買えねえって泣きつかれてんだ! 畑が遅れちまう! 殺す気か!?」
「ははは!」
その時だった。数々の泣き言を、笑い声が劈く。
ギィだ。いつの間にやらちゃっかりと調理棟の側に加わって、出入り口の前あたりにしゃがみながら、わざとらしく片手を庇にこちらを睥睨して、けたけたと腹を抱えていた。
「こいつはいいや! 絶景かな絶景かなとくらぁ!」
「言ったろう。例外も二言も無い」
ジェイゾロトフにげしっと蹴り出されて、それも終わる。
日々くそ重たい鍋を運んでいる足腰の膂力も並ではないらしく、ギィはきっかり前方二回転半でんぐりがえりさせられてしまう。二回転と半分、つまりは結局その他大勢の側へごちゃまぜに戻されて第二部隊と向き合う形となり、彼はとびきりの悲鳴を裏返らせた。完全に裏切り者を糾弾する口調で、がなり立てる。
「はあ!? ざっけんじゃねえぞ! お前らだってシゾー・イェスカザの肩を持つ側だったろうが!」
「一緒にするな―――お前たちみてぇな……利用したがり野郎どもが抜かしてくれる おべんちゃらと、俺たちを一緒にするなア!!」
誰をも上回る裂帛の大音声に、わらわらと群れるだけのどよめきは一瞬にして押しつぶされた。ギィのそれだけでなく、彼方の毒つきも……此方のぶつくさも。
その沈黙が、しわじわと重さを増していく―――それが未知数まで達する、直前だった。
「まあ待て待て、待ちたまえ待ちたまえ。君たちの料簡は理解した。もともと副頭領は趣味がてら、ここによく出入りしていたことも知っている。情が移るのも自然だろう」
こういったいがみ合いを常日頃から仲裁している手前、フィアビルーオに動揺の色はない―――表向きは。肩の前まで挙げた両手を、どうどうと犬でもいなす動きで小さく動かしながら、一歩進み出た。二歩目に移ろうとして、ジェイゾロトフ一同の気配に敵意の波が増したのを見て取ったらしく、その場に留まる。ただし身代わりとして、恭順のせりふを滑り込ませた。
「しかも、騎獣部隊の創設に伴い<彼に凝立する聖杯>の構成を大々的に刷新した際、君たちを部隊として取り成したのは、副頭領だ。予算を組んで、隊費を回し、―――要は、下働きでなくした。思い切ったものだと当時は たまげたものだが……」
「それだから、一緒にしてくれるなと……言っているんだ!」
「なんだと?」
賛同し、受諾し、味方したのに、どこまでも裏切られて。訝し気にした、フィアビルーオ。
その有り様こそが、彼ら第二部隊を裏切る侮辱であり、絶望させた根幹だったのだろう。ジェイゾロトフは、万力を込めて怒張させた全身を持て余すように、手にした肉塊と刀をぶるりとひと震わせした。ひと震わせ。
(いんや。違ゃうわな)
あれは武者震いだ。思い付けば、すんなりと納得もいく。旗司誓なのだから。
イコとて、やはり必要とあれば武者となる身なればこそ、その義侠の告白を聞き入れるしかない。
「あの人は恩人だ。最初からずっと、俺たちを労って、ありがたがってくれた。メシが食える、服が着られる、便所が使える、どれもこれも明日はどうだ明後日はどうだと心配せずに済むようになった……その全部が全部、ありがたいと。恩に着てくれたんだ。着てくれたものは、心許りであろうとも……着てくれただけ、返す。五体不満足なりとて、我らは旗司誓だ―――俺たちなりの、この血肉で、司ると誓った義を……立てる! 【血肉の義】を!」
―――そこまで来て。
ごろごろと進む荷車。その馬の轡を取っているイコの裏っ側にて、ゾラージャがぽつりと裏表なく得心した。
「まあ、アレだよな。悪餓鬼だろーがクソガキだろーが、母ちゃんだきゃあ面倒見てもらってるうちはキレさすもんじゃねえよな」
「まったくっす。隊長」
「そういやイコ。おめーここ辞めるつってなかったっけ?」
「ああ。あれ嘘っす」
「マジかよ」
「マジです」
「なんで?」
「さあ。ノリ?」
「嘘ついた理由までこっちに訊くとか、丸投げにしたってひどくねっか?」
「えー? あん時ノっちゃったもんは、もうしゃーないっしょー。それに俺、こーしてるの楽しいっすもん。窮措大やりながら金も稼いで、まあ時たま、こんなカンジの死なねえくらいにハプニングっつーかテリブルっつーか。飽きの少ない人生」
「まんまといっぱい食わされたぜ」
「そりゃそうっすよ。嘘なんて、そのためのフェイントっしょ」
「あざといなーおめー。うーん。じゃあ、まあ、とにかく、旗司誓すっか。俺らは俺らで」
「ラジャーっす。ちわー。第二部隊さーん。お届け物でーす。背の二十重ある祝福にぃー」
そのまま進んだイコは、当然のことながら、届け物を届けた。ゾラージャと共に。
そうだ。届け物だから届ける。洒掃薪水には労がある。食材は調理せずに料理にはならない。腹だから減る。旗司誓だから、旗は誓って司る。恩は返す。ありがとうと言われたら、どういたしましてと返すくらい、大切にするのを忘れてしまいがちだが……どれだっていつだって、本当に。どれもこれも、当然のこと。
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