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結章
結章 第二部 第三節
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夜。夜半へと向かう……宵の途中。
刻一刻と揮発していく太陽の温もりを夢見て、人は地表に明かりを燈したのか。火種のもとで暖を取りたいと のぞんだ瞬間から、その焔により鍛え上げた鋼で他者の喉肉を血飛沫まみれに えぐり出す罪深い日は訪れ始めてしまったとしても……原罪ある巨人は、はじめてしまったのだろうか。あたたかな―――ゆびきりを交わした小指の腹に孕んだ温味を、自慰では賄えないと悟ってしまった瞬間から。あるいは、母体として閉じていた十月十日の完璧な楽土から、母と子へと身体を別たれた時から。誰かを希う指先を、自分がここにいると乞い願う呼び声を、どこまでも伸ばし始めたのか―――
(この絵を見て、こんなことを思ったのは初めてだな)
ふとシゾーは、それに気づいた。
娼婦館にある小部屋のひとつ―――その壁に飾られた、ひと抱えに出来る大きさの絵画。せり出すほど真っ黒に厚く塗りつぶされたカンバスの中心がぽつんと欠けて、穴が開いている。穴の周囲から油彩が罅割れて剥がれ出し、まるで噴火口の開いた火山のミニチュア模型を壁に掛けたようにも見えたが、どうやら何重にも様々な絵を描いた最後に黒塗りに閉ざした作品のようだ。ぼろぼろと砕けた欠片の層から、ありとあらゆる色相と描画が窺えた。それもアートの一部と言うことか、カンバスの底辺沿いに作られた雨樋のような受け皿には具材の滓が溜まり続けている。画家の銘は見当たらず、下げられた金属製のプレートには題字のみが綴られていた。
―――終末を得る物語、と。
(どこまでいったら終末なんだろうな。この絵は)
一層目の静物画が剥離した時だろうか。三層目の裸婦画が現れた時だろうか。覆い隠していたすべての色彩を失ったあとに残される布一枚、ただそれだけの姿となった時だろうか。あるいは、すべての絵が暗黒に閉ざされた時こそが終幕だったのか。どうしたところで分かりはしないし、どれであったところで大差もなかろうが―――はじまってしまっていたのだから、それは続く……
「お前に芸術を愛でる心があったとは意外だな、ツァッシ。ひげを剃り落としたついでに、人ならではの煩悩まで落ちたか?」
言われ、隣を振り返る。なにくれとなく室内の内装を吟味していたはずのキアズマが、憂さ晴らしついでだとあけすけに吐露する面貌からひと睨みを研いで、両手を互いの肘に添えるポーズで立っていた。腕組みではない―――彼の纏った純白の正装は余分な構造を排されているので、余剰な動作は窮屈さを覚えるだけなのだろう。服装に合わせて、今ばかりは一纏めにしていたうなじの括り紐を外し、背中を一面に覆う真紅の直毛をひけらかしていた。その貴族然とした佇いにあって筋骨の肉付きの良さは不自然にも思えたか、長髪の赤味の方が際立っているので、あまり目立たない。
厭味を言われたことは理解していたが、直前までの物思いを取りこぼしてしまったはずみで、なんとはなしに丸め込まれた心地が勝り、ぼんやりとシゾーは気圧されるに任せた。
「そう見えたのか」
「違うとでも?」
「どうかな。そう見えたんなら、その通りなんじゃないか。お前はこの絵をどう見る?」
「ふん。聞きたい返事をせびるなら、もう少し効果的な誘い水を撒くがよい。絵と出逢った場所、絵を買った金額、絵を飾る意味合いと、絵を飾るに至った経緯。出逢った場所によっては運命的な、購入金額によっては高貴な、意味合いと経緯によっては意味深な文句を以って褒めてしんぜよう」
「だったら、水子の生き血と処女の背膏を込めた絵の具で描き終えたあと絵筆で目玉から脳まで掻き混ぜて自死したなんて画家の顛末はどうだ?」
「……本当か?」
いっそ信じてしまった方が楽になれるような苦悶で、キアズマが渋面を更に抉った。そのタイミングで。
「おお、やだやだ。どんちゃん騒ぎの片棒担いだ立役者サマ御一行のお出ましだってのに、手土産のひとつもないんだからシケてるよ」
「皮肉らないでほしいな。ペルビエ」
ノックがてらドアを開けるなり、ドレス姿に相応しいしゃなりしゃなりとした身のこなしとは裏腹な辛辣さで茶化してきた彼女―――ペルビエ・シャムジェイワに、シゾーは愛想笑いを崩れさせた。
中に入ってきて二歩ほどで足を止めるなり、火のない煙管を指揮棒のように振ってみせた彼女は、特に己の口にした冗談に拘るでもなさそうだったが。それでも、なんとはなしに、言ってみる。
「にしても。手土産なんて。なにか欲しかった?」
「まずは、」
「やめときなよ。死人出るだけじゃ済まないって、そういうの」
「どうして分かるんだろうねこの子ときたら。腹立つったらありゃしない」
ぶーたれ顔―――とシゾーが勝手に名付けた―――を、ぶちぶち毒つかせてから、ペルビエは更に視線を抛った。シゾーを越えて、その肩向こう……つまりは、奥で佇立したキアズマへと。
「久しいね。キアズマ」
「ああ」
彼を見ても……彼の扮装を見ても、彼女は特に目の色を変えるでもなく、声色もまた顔見知りに贈る挨拶以上の親愛を込めたものでもなかったが。そのせいで余計に、むっつりとしたキアズマから漏れ出る殺気ばんだ空気との差が浮き彫りになる。
だとしても。なんの惰性なのか、ひるむでもなくペルビエは続けた。
「奥方は元気かい?」
「息災だ」
「なんだ。後妻漁りにきたのかと」
「不吉なことを申されるでない」
「だって、神様に愛の誓いでも立てそうな格好をしてるじゃないのさ」
「神なぞおらずとも、人は愛さえあれば鰯の頭にさえ信心を証すものだ」
「そりゃおかしい風景だわな。わらっていいかい?」
「好きに計らいたまえ。愚かな者ほど、軽侮することで理解したと信じ込む」
「いやまあ愛だろーが信じる心だろーが、さすがに鰯の頭に誓われたらアシューテティさん泣くだろ多分」
半眼を冷まして、思わず割り込むシゾーだったが。これから先を見越して過緊張を煮込む一方のキアズマは、這い出るような声音にシニカルな険しさを注して、真顔で切り返してくるだけだ。
「そういうお前の刀自は?」
「あいつの誓いは双頭三肢の青鴉を司る旗幟にあるし、だからこそ泣かせてたまるか。夢に見るだけでうんざりなんだ」
「お前自身はどうなんだ?」
「俺は誓ってヤケクソなだけだ。だから泣くのだって俺でいい。そう決めた」
断言でキアズマを振り切って、ペルビエへと向き直る。
彼女と言えば、見慣れない二人連れ―――今となっては―――の醸し出す秘密めいた雰囲気に、ひとまずは静観を決め込むつもりらしい。関心を潜めた瞳のハシバミ色は揺らぎもせず、灯火輪の燈明ばかり無垢に宿している。
その虹彩に映り込んだ己の双眸もまた揺らぐようなものではなかったが、改めてそれを見据えると腹の据わり方も変わる。シゾーは口を開いた。
「俺の服。ここでの。あるだろ?」
「そりゃあるよ」
「欲しいんだ」
「おう。持ってお行き」
「ごめん」
「なにを詫びる?」
「―――きっと返せない」
「それがどうした。アンタに合わせて仕立てたんだ。アンタ以外にゃつんつるてんだ。着倒すのが道理だし、あたしへの義理ってものさね。違うかい?」
「……かなわないな。ペルビエには」
「キアズマもこんな風体をしてるってことは、すぐ着てくのかい?」
「ああ。俺の今の服は、ここに置かせて」
「なんだか遺品みたいで気味が悪いね」
「そうだね。そうなったら処分費用は俺のズボンの財布からか給料未払い分からか、適当に差っ引いといて」
「はあ?」
怪訝さも露わに口を半開きにしたペルビエだったが、その唇に煙管を銜えることで内心を窘めると、こちらを手招きした。ついで、立ち尽くしたままのキアズマに、声を掛ける。
「まあ着替えるってんなら、部屋までおいで。キアズマはどうする?」
「生憎、同性のストリップ・ショーを見る嗜癖なぞ持ち合わせておらぬ。このまま待たせてもらおうぞ」
「あらそ」
つれない態度に目を瞬いたにせよ、ペルビエは匙を投げなかった。別口から提案する。
「なら、お茶くみでも誰か呼ぼうか? サービスするよ」
「結構だ。妻の煎じぬ茶なぞ嗜めたものでない」
「はいハイ」
「とかエエかっこしいしてる割にしょっちゅう手料理でヘロヘロにされてんだよコイツ」
「なに告げ口しとるかツァッシ!?」
「あーらら、御愁傷さま。まあ舌が肥えてるんだから、庶民料理のパンチにノックアウトされたところで不思議じゃないわ」
「レディ・ペルビエに至っては同情から慰めまで! コンプリート! 不覚!」
ショックを壁への頭突きで紛らわせ出したキアズマを残して、シゾーとペルビエは退室した。
娼婦館は、相変わらず洗練されていた。唯夜九十九詩篇に根差す貴族でありながら零落を免れなかった者など数えても切りがないし、そういった者が土地屋敷を売り払って移住するのもご多聞に漏れずといったところだが、その土地屋敷を土地屋敷のまま買い上げて保存し、価値を伝統と格式もろとも受け継いだのは、ひとえにペルビエ・シャムジェイワの慧眼が成した賜物と言える。しかも、凝り固まり古びていた風紀を刷新し、流行を加えた。彼女には、難無いことだった。貯め込まれていただけの古美術を美術品として開放し、品相応に飾り、品良く画廊を設えた……なんなら使用することすら、彼女には造作もないことだった。廊下は燭台からの明かりに満たされているどころか、くまなく香道の残り香が満ちている。この残り香を目当てに身銭を切り、入場してくるだけの者もいるくらいだ。
まあ、そういった純粋な求道者は開館時に集中するものだから、こうして宵時に廊下を行くとなると、行き交うのは娼婦ばかりだった。ペルビエと並んだシゾーを見つけると、通りすがりざまに、商売用とは違う笑顔を咲かせてくる。もれなく全員、シゾーの守備範囲だ。そうなると―――
「ねえねえ、今ほどお連れになった素敵な殿方はどうなさったの?」
「今夜は、どちらのお相手をお勤めに?」
「わたしはいつでもいいわ。詩吟をみてやってくださらない? 手習いを終えたのよ」
とまあ三名くらいは、そそくさと近寄りがてら、意気込んで纏わりついてきもする。
こういった鬩ぎ合いは本心からシゾー自身を取り合ってのことではなく、娼婦ら自身のプライドに根差した自己主張といった側面が強い―――少なくとも前者だと自惚れていられるほど初心ではいない―――のだが、巻き込まれてしまうと無視も出来ない。立ち往生したシゾーを横目に、歩を止めてくれたペルビエが、軽快に両手を打ち鳴らしがてら宥めすかした。
「はいはい皆の衆。今日は、そういった日じゃないんだよ。手が空いているなら、自習にお戻り。エフリアラは古典の読み進めが遅れていたし、テティーナは楽器の暗譜がいまいちだったじゃないか」
「はあい」
「はい」
素直に聞き入れたようでいて、めいめい去り際に合図をくれてくる彼女らに、シゾーもまた反射的に目やら指やらの仕草を送り返した。その最後に―――
最後のひとりだけ、立ち去る様子がない。その訝さに、改めて彼女を見やる。無論のこと、娼婦だ。十代半ばほどといったところか。かどのない輪郭と つるりとした白磁の肌は万人受けする美貌だろうが、露骨に勝気そうなつり目をチャームポイントと捉えるかどうかで好みが分かれそうではある。金の髪は、かつらのままと見えた……ただし、それを不満に思っての仏頂面ではないようだった。知った相手であるから、それくらいは察せる。名を―――
「アドヴィカ。なぜ行かないんだい?」
ペルビエの方が目敏かった。問いかけた女城主に倣ってシゾーも状況を見守っていると、彼女―――アドヴィカが、床へと逃がしていた目線を目蓋ごと さっと引き上げて、物怖じせず言ってくる。
「どうしても詩吟をお披露目したくて」
「アンタはいつでもいいんだろ? こっちは急ぎだ。あとにおし」
「コツを教えてもらって上達したのだから、聴いていただきたいの。恩返しよ」
「あとで好きにおし」
そして両者同時に、迂遠な期待を物語る眼差しをシゾーへと回してきた。アドヴィカのそれは控え目ながらアドヴィカ自身の擁護を乞うていたが、ペルビエのそれはペルビエ自身の肯定を当然としている―――その時点で勝敗は決していた。もとよりペルビエの口上も的外れではないので、シゾーもさほど悪びれることなく、せりふを口にする。いつもの癖で、腰の高さを下げるようにして目線を合わせてから、
「ありがとうアドヴィカ嬢。今は、気持ちを聞けただけで嬉しかった」
今はと口にしたことでニュアンスは伝わったようで、アドヴィカの失望はその眼光の熱っぽさを冷ます程度で済んだ。またペルビエについて廊下を進み出す前に、彼女の目配せと黙契を交わしておくことも忘れない。
ともあれ、悪い気はしない。歩きながら、シゾーは独ひとりごちた。
「上達した恩返し、ね」
「シモの方期待してんじゃないだろうね?」
「うん?」
苦言をちくりと毛羽立たせたペルビエに並んで、小首を傾げる。
「言われてみれば。それもいいか」
「個人的に楽しむなら金取るよ」
「俺から? アドヴィカ嬢から?」
「楽しんだ方に決まってる」
「となると折半かな。でも、楽しさに気付くのは勉強の第一歩だと思うけど」
「そして楽しみが売り買いされることも経済の第一歩だ。売買春は、天地開闢以来の商売だろ?」
「若気の至りだとか愛だとか、建前次第で永代無料なのに」
「じゃあ若気の至りでも愛でも、形から入ってみるかい?」
「やだよ。結局のところ無料より高いものなんて無いんだから」
「ならアドヴィカとも大人しく下働きの一環として関わるだけにしとくんだね」
「しといてるじゃないか。俺がここで誰かに入れ込んでるなんて噂、一回だって立てたことないだろ? 意地悪だなあ。こんなド腐れ性分分かり切ってるから、俺のこと使ってるくせに」
「こーんな老け込んだマセガキ、老けてマセてるとこ使わにゃ単なるガキだ。この館と同じだよ。宝の持ち腐れにしたって勿体無い」
一拍。
十中八九ペルビエは、まだ掛け合いが間断なく続くと思っていたのだろう。ふと やってきた沈黙に、不審げに頬を捩らせると、目角をこちらへ寄越して―――ぎょっと目を見張ると、首から上を振り向かせてくる。銜え煙管が、回り遅れて派手に揺れた。
「なにニヤニヤしてんのさ。気持ち悪い」
「いや。ここでそう思ってくれるのがペルビエでよかったなって」
「気持ち悪うぅウ」
呻き声を震わせて、背筋を聳やかしながら両腕ごと上半身を抱きしめてみせる彼女は、心底衒いない―――この館内にペルビエの関与しないスペースなどありはしないが、私的に使用するレベルが上がるにつれて客向けの区画から外れてしまうので、外面を取り繕う意味もないのだ。実際ここまで入り込むと、急に人影は疎らとなった。ちらほらと見かけないではなかったが、大体は手前の角を曲がって消えるか、ドアを開けて部屋に入ってしまう。斯く言うシゾーたちもまた、その頃には上階へ向けて階段を上り始めた。目的の場所は二階にある。
手持ち無沙汰に、シゾーは隣を行く彼女へと問いかけた。
「ペルビエこそ、俺の相手なんかしてていいの? かき入れ時はこれからでしょ」
「かなりの予定客が、王冠城の服喪会に行っちゃってね。すこんと肩すかしにスケジュールが開いたのさ」
「ペルビエは、その予定客の誰かに同伴して行かなかったんだ」
「あえて首突っ込むほど面白かなさそうだしね、見ず知らずの他人の通夜なんて。誘われて断れないほどの上客は、隠居も隠居のご老体ばかりだから、茶飲み友達するのも午後枠で終いだし。突然の余暇ってわけ」
「貴族の社交界ならではの情報は欲しいとこなんじゃない?」
「高級娼婦のネットワークを侮るでないよ。坊や」
揺るぎない笑みを煙管ごしに鋭くぶつけられて、シゾーは両手を軽く上げることで不戦敗を示した。
その頃には、いつもの部屋に辿り着いた。中から持ってきた提灯に、廊下の燭台から火を貰い、それを携えて室内に入る。
いつもながらの、最低クラス―――つまりはペルビエ・シャムジェイワとの逢瀬に使うにはと言う意味で―――の応接室である。毛足の長い絨毯。それ以上に厚みのある寝床は清潔で、シーツには染みどころか皺ひとつない。千獣王の脈模様を浮かせた陳列棚には、小瓶に詰められた酒や絵皿……そこに立てかけられた本が定期的に入れ替わるのは、純然たる彼女の趣味だ。要は、女城主として別格のペルビエは、高級娼婦として同衾する会場も最上階を指定する客しかいないので、客に披露する必要がないにしても遺棄するには気が引けるものが集まりがちになっている部屋があると言うことだ。そういう意味では、シゾーを子飼いにしていることも彼女の純然たる悪趣味でしかないので、ここに自分が居着くのも自然な流れと言える。彼の制服が、ここに仕舞われていることも含めて。
(いやまあ、仕舞われているのとも違うか)
陳列棚の横で衣桁に飾られた衣装は、まるで美術品のひとつのようだ。実際、自分が不在の時に展示されていたところでおかしくはない。キアズマが袖を通している絶品の足元にも及ばないにせよ、それでもこれ一着を質屋に持ち込むなら大棚を選ばないと換金を断られるだろう。それくらいの品には違いないのだ。
着替えるだけなので、照明もこの提灯で足りる。適当な応接机にそれを置き、衣桁へ歩み寄ったシゾーは正装へと手を掛けた。念のために上着の内側を探ると、懐剣もポケットチーフもろとも、そのままポケットに収められている。
ズボンから抜き取った研磨石を内ポケットに滑り込ませた入れ違いに、シゾーは懐剣を取り出した。そして、しげしげと観察する。一見すると大ぶりの万年筆のようだが、鞘から抜くと、刃幅二横指足らずの細身の直刃が剥き身となった。旗司誓からすれば、玩具のようなものだ―――それもそのはず、これは由緒正しい装いに付き物のポケットチーフと同じオプションであり、それらしく拵えに銀を盛るなり螺鈿を施すなりしてある美術品の類である。その美的感覚がグリップの邪魔となる上、鍔もない。武器として頼るには頼りない。
(それでも。手札だ)
鞘を戻して、それもまた上着の中に戻すと、かなり胸ポケットは膨らんだが、背の高さがある分体格の一部として紛らわされてくれるだろう。背に腹は代えられないとくれば、楽観視する程度しか打つ手はない。
シゾーは着ている自分自身のシャツに手を掛けた。腹部の縫合痕を布地がこすり上げないよう慎重に脱いでから、包帯に指を掛けてみる。目が細かいその生地は、伸縮性と弾性があるので―――包帯の中でも高価なものを奮発してくれたのか―――、多少の動きでは解けないと踏んで良い。
その上から、そっと三本指の腹で創傷に圧を掛けてみる。当てられた厚布が、ぱりぱりと軋む感触は無かった。どうやら、浸出液も最小で済んでいるらしい。もう体温も平熱に近い。このまま痂皮化できるなら、喜ばしいことこの上ないのだが―――
(どうしたって傷口が開かずに済む見込みもないとくるんだから、わらえるよな。ったく)
と。
「なんだいそれ? 臍の横っちょ」
振り向く。いつものように寝台に端座位を取ったペルビエが、疑問符を跳ね上げたはずみで煙管を口の端から落っことしかけていた。自覚はあったのか煙管を左手に移して、その先っぽを つんつんさせてくる―――彼女の言を借りるなら、シゾーの臍の横っちょへ。
言い訳することでもないし、言い逃れ出来るようなことでもない。もとより、どちらであれペルビエ相手に成功する気もしない。ありのまま、こたえる。
「刺された」
「女に?」
「今度は男」
「女絡みで?」
「だったらまだ楽が出来たかな」
「出来ないみたいな言い方だね」
「思い返してみたら、あいつ絡みで楽が出来たことなんて一回たりと無い気がする」
「じゃあ、なんの為にンなこと続けてんのさ?」
「だって。こっちの方が楽しい」
「遊びにしたって火遊びかい。見境いのないお子様だこと。困ったもんだ」
「おそろいだね。俺も困ってるんだ」
「いわんこっちゃない」
空いている右手で目許を押さえ、やれやれと首を振って見せるペルビエ。
彼女の視線が遮られたのをこれ幸いと、シゾーはズボンを着替えた。本来は下穿きも専用のものに着替えなければならないのだが、それくらいは分からないだろう。キアズマとは違って、使用人の仕立てをしたシゾーの衣服には余裕がある。
そして上着から靴や手袋まで整えて、衣桁に引っ掛けていた私服を畳もうかとした時だった。
「よし、一丁あがりだね。ほれ。ここにお座りよ」
と、言いながらペルビエが、すぐそこの自分の対角―――寝台の角を指した。
目をぱちくりさせて突っ立ったままでいると、ペルビエがわきの床頭台に手をやった。そこの天板にある煙草盆に煙管を置くついで、なにやら引き出しの中を物色し出す。まず取り出したのは、掌サイズの小箱。続いて、飾り紐。最後に、櫛。
「鈍感にしたって呆けることかい。そのバッサバサな ざんばら頭を、おべべに釣り合う風にしてやるよ。だから座りな」
「……ペルビエが? 俺に? 出来るの?」
「おうとも。これでも昔はよくやって泣かした泣かした」
「なんでヘアスタイルをキメるだけでヒト様の涙をちょちょ切れさせることが出来るのか分からないんだけど……」
「そりゃま、赤の他人ならね。無理よ。見放せば諦めもつくから涙も出ないわ」
「え?」
「いやなに、こっちの話さ。そら、お座りよ」
逆らうべくもないのだが。
示された寝台の隅っこへ腰掛けて、それでも落ち着かず、シゾーはぎくしゃくと猫背を真っ直ぐに伸ばした。膝小僧を撫でさすって息苦しさを誤魔化そうとするのだが、やはりうまくいかず目をうろつかせる。いつもは正装に着替えたところで、髪型まで入念に支度することは無い―――しょせんは表舞台に出もしない下働きであるし、下らしく働くとなればなおのこと一仕事済ませるごとに身繕いしなければならないので、頭まで逐一かかずらうことなどしなかった。
「ま。アンタくらいの長さで、素のまま流してるキアズマを引き立てるなら、オールバックにして襟足でひと括りってのが正統派ってとこか。しっかりと練り香油で纏めとこう。なんの匂いにしようかねえ? 花? 茶? 果物?」
背後から聞こえてくるペルビエの声は、なにやらうきうきとトーンを上げていたが。なおのこと、そらおそろしくはある。
「襟を汚しちゃいけないから、後ろにハンカチ当てるよ」
言うが早いか、後ろ首から回された手が摘んだハンカチの端同士を、喉仏の上あたりで締められた。まさかそのまま絞め殺されると思ったわけではないが―――横暴極まる茶目っ気けとしてなら大いにあり得るとしても―――、それでも俎板の上の鯉なりにじりじりと悲鳴を喉に溜めながら、警戒しつつ背後の動向を探る。
シゾーの背後に立ったペルビエは、ハンカチ越しにうなじへ片手の指の腹を触れさせると、そのまま彼の黒髪をひと房持ち上げた。そして意外に優しい手つき―――意外だとも―――で、毛先から櫛で梳かしていく。その都度、不遠慮な奇声が漏れた。
「うへえ。ぷつぷつ切れちゃってまあ、ひっどい枝毛だこと。サラッサラのストレートロングだったのが見る影もない」
「ずっと悔踏区域外輪にいるんだから、これで普通だって」
「だからって、いっつもバンダナ巻いて押さえつけてるだけで。安いやつで構いやしないから、普段から整髪油くらい付けときゃ良いものを。旗司誓だってある意味客商売みたいなもんなんだから、見目麗しくしとくだけ損は無いだろ?」
「でも。そういうの嫌いな奴もいたし」
「いたからって、アンタの損得勘定まで右倣えする意味ある?」
「あるよ。そうした方が波風立たないし、波風立ててまで執着することでもなかったし。毛なんて、いざって時に目に入らないならいいんだって」
「じゃあこっちにいた間、なんであんなに伸ばしてたのさ?」
「伸ばしてたんじゃなくて。切ってくれるような奴とつるんでなかっただけ」
「はー。やっぱヒネてるわーこの子。物事を分析する角度どころか素地からして、合計三百六十度はヒネてるわー」
「……それって一回転してるから、ヒネてない状態と、結局まったく同じじゃない?」
「なに言ってんのさ。結果が出れば過程はどうでもいいっての? 過程を踏まずして結果は出ないんだから、結果ばっかり偏重するのは馬鹿ってなもんでしょ」
「そりゃそうだけど。どうせ最後が同じなら、途中ぐるぐるするだけ損な気も」
「それを言っちゃあお終いよ。アンタね、どうせ死ぬなら今ここで首吊る?」
「―――それが賢いって疑わずにいられるほど純然さながらとしていられたなら、きっと俺はアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだよ」
「はは! 言うに事欠くにしたって愚かしいねえ。アタシに言わせりゃ、アンタはツァッシゾーギなんて呼ばれてただけの、シゾー・イェスカザっていうジジむさい性根した坊やさ」
「だよね。世の中なんて大概、誰だってそんなもんだよね。俺からしたら、ペルビエだって―――」
「ほう」
すうっ―――と、と手がストップした。
そのまま、シゾーとペルビエも止まる。
「…………」
「………………」
「………………ええと」
「どうした? 続けな。俺からしたら、あたしが何だい?」
「いちりゅうノれでぃナしゃちょうさまデス」
「がきんちょの口説き文句にしては、カタコトなだけにガタゴト抜かしてくれそうな裏があるように勘繰れるねえ。まあ、長ったらしい貴族かぶれの詩作されるよりマシか。例の成金花束野郎なんざ、こないだ あたしの空き時間狙ってオペラばりに小一時間詠ってったよ。寝室のベランダめがけて、登った庭の木から」
「別にどうでもいいけど。え? ペルビエそれ見てたの? それとも聞いてただけ?」
「見て飽きた上に聞いて流せる出来だったから寝た」
「うーあー」
「そーだわねえ。今にしてみれば、あんたのその間投詞の言いたいことも分かるわよ。もしかしたら、絶好の曲芸を見逃したかもね。おだてる前の豚が木に登ったんだから、あそこでちょいとおだててやれば空までバヒューンと飛んでくれたんじゃないのって」
「ああ確かに命綱なくたってベランダに飛び移ってきそう。いや違う言いたいことそうじゃなかったろ俺。俺のうーあーそんな斜め上行くサディスト路線じゃなかったはずだ俺。こら俺」
寸でのところでシゾーが自我を取り戻す頃には、ペルビエの手元は次の工程に移っていた。それが分かったのは、茶葉の香り―――に決めたらしい―――が鼻先まで漂ってきたからだ。どうやら小箱から取り出したらしい練り香油を揉み込んだ両手で、シゾーの後ろ首から頭頂まで手櫛を入れてから、前髪を後ろへ持っていく。頬にかかる鬢も、側頭へと撫でつけた。まずは右から……そして、左側も。
その時になって気付いたらしく、ペルビエが口を衝いた。
「あらま。左耳のピアスはどうしたんだい?」
「もう要らない」
「甘っちょろいねえ。タグを失くした家畜なんて、柵から出たが最後、狩り出されて食われるのがオチだよ。替りのあげようか?」
「要らない。もうある」
「そう」
指摘してきたわりにそれだけで終えて、ペルビエは指先で梳るのを終えた。そして本物の櫛でオールバックを仕上げると、悪ふざけもなく後ろ髪を飾り紐で結わえてくれる。
シゾーの首から外したハンカチで手をあらかた拭うと、それを適当に抛り出したらしいペルビエが、こちらの正面まで回り込んできた。やや中腰となって顔を近付けてくると、仰け反って間合いを稼ごうとするシゾーにお構いなしに、しげしげと横面から鼻面から値踏みしてくる。
「本当は眉を整えて、うなじらへんの産毛も剃りたいとこなんだけど、肌の色のおかげで目立たないから省略していいだろ。さてと。どうだい。なかなかの出来栄えじゃないか」
と、自画自賛に満悦すると身を起こし、背後に回していた片手を差し出してきた。その手を取れという意味かと思ったが、違う。彼女は、手鏡を持っていた。仔猫の首根っこでも摘まむようにして、ぷらんとぶら下げている。顎をしゃくるペルビエに促されるまま、シゾーはそれを覗き込んだ。
当然、映り込んでいるのは自分自身だ。見慣れていたはずの姿かたちを化かして、見たこともない姿見をしている……馬鹿らしいにも、見果てぬ先を夢見て。その姿は―――
数日前の朝に見送った。それを思い出す。オールバックに髪を纏めた正装。
(……―――義父さん。シザジアフの言う通り、似た者おやこみたいです。こうまで。僕らは。正反対なことに)
洒落にもならないし、ならないなりに歯痒さも浮かばない。寝台に尻を落としたまま、かぶりを振って項垂れる。
そのまましばらく、じっとしていた。
―――口火を切ったのは、ペルビエだった。
「泣きそうだね」
どうやら、そう見えたらしい。それならそれで構わなかったが、シゾーは顔を上げた。眼前に立ち尽くしたままだった彼女が、手鏡でとんとんと己の肩口を叩きながら―――まるきり釘バッドを手にしたチンピラがメンチを切る構図で、尊大に睥睨してくる。針のように細めた両目に、毒針じみた輝きをちらつかせながら、
「うざったい。ぐずぐず悪わる足掻きするくらいなら、潔く泣いちまいな。みっともなくて見ちゃいらんないよ。今ならもれなく、あたしのせいさ。前科があるんだ。乗っかりな」
「……どうかした? いきなり妙な深入りして」
「あたしゃ、アンタが突っ張った面の皮の千枚張りの下で落ち込んでるのくらい、お見通しだよ。そのまま死相に固まられちゃ、せっかく手塩にかけて上げてやった男振りが台無しだ。だから泣いちまいな。憑き物ものを落とすにゃ、カタチにするのが一番だからね……星を星座として繋いで人型らしく名付けた途端、俗世っぽい逸話を被せても屁とも思わなくなったみたいに。なんなら抓ってやろうかい?」
「……らしいと言うか。甘やかす時でさえ甘くないんだから。ペルビエは」
「そりゃそうさ。一文の得にもなりゃしない。大体にして、こんなもんまで見抜ける百戦錬磨が、蝶よ花よのノリで人間までヨシヨシするようなハートの原型をピュアに保ってるはずもないだろ。ほぅれ、ぽろぽろ零しちまいな。鬱陶しい」
ついに わきわきと指を曲げ伸ばしさせ始めた彼女の片手が、こちらの頬まで伸びてくる前に。シゾーは白状した。
「……俺がペルビエに零せるとしたら、涙じゃなくて、悪餓鬼・糞餓鬼が結託しての悪巧みくらいかな」
「いいとも。聞こう」
「これからキアズマと、デューバンザンガイツに乗り込む。俺は付き人として。服喪の集いに出席する」
丁々発止としていた流れが途絶し、じゃっかんの間が空いた。その合間に、掛けていた寝台から立ち上がる。
私服を引っ掛けたままの衣桁が気になったが、気に食わなければペルビエが何とでもしてくれるだろう。当の彼女と言えば、こちらを見上げて―――急に逆転された高低差にか、驚きにか、ぽかんとさせた口の中から質問をぶつけてくるだけだが。
「なんの為に?」
シゾーは―――
今度は違う口ごたえをすることにした。
「ペルビエの言うところの、面白いことをする……その手始めだから、そうするだけ」
そして片頬で、上唇を吊り上げてみせる―――にやりと。大見栄だったが、見栄を切ることでけじめがつくならそうしておくに越したことは無いし、もしもこれが彼女との今生の別れとなるとしたら格好つけておくだけ無駄骨ではなかろう。ペルビエ・シャムジェイワは好い女だ。彼女の記憶に男前として残るのなら悪くない。
と、思えていたのだが。そのペルビエは―――
「へーえ?」
呟きがてら、笑った。にやりとではなく―――にんまりと。
問答無用に後ずさりしかけたものの、どうにか半歩ほどで踏みとどまったシゾーを尻目に、彼女は上機嫌で手鏡や櫛などを寝台から床頭台へと戻し始めた。なにやらいつの間にか鼻歌まで混じり始めていたが、直感的に悪魔召喚の祝詞であるかのように聞こえてしまい、ただただ逃げ腰でペルビエに構えておく。
その様子に、勘違いしたらしい。再び手にした煙管で、ぱしんともう片手を打つと、ペルビエはシゾーへとひと睨みを食らわせてきた。
「ナニびびってんだい? まさかヘタレづいたってんじゃないだろうね。啖呵切っときながら」
「啖呵を切ったのは確かだし、それについてはびびってもヘタレてもないんだけどね……」
ごにょごにょと聞き取れない音量で会話の帳尻合わせなど試みつつ、シゾーは廊下へのドアを開けて提灯の火を始末した。そして、ペルビエと共に部屋を出ると、もと来た道のりを遡って、キアズマと合流する。
彼はと言えば、待ちかねたらしく室外に出ていた。そして、つっけんどんな一瞥でシゾーの外見を一巡すると、不本意ながら及第点をくれてやると言わんばかりの斜視を寄越してくる。
「綺羅は飾ったようだな。なれば、いざ行かん」
「おうともよ。行こうかい」
きっぱりと断じて、ぴんと片手の煙管で天を指してみせたペルビエに。
「なぬ?」
「あ。なんかそんな予感はしてた」
まずはキアズマが素っ頓狂に瞠目し、シゾーは嘆声をコケさせたのだが。いつも通りペルビエは、聞き耳など持たなかった。
「あたしの馬車を出そう。なんだい? キアズマのが外に控えてる? あたしのと入れ違いにしまっておしまい。御者連中は、そうだねえ……娼婦館で、おもてなしの刑に処しとき。ネモ・ンルジアッハの使用人なら、そいつも古式ゆかしき名門だろ。なかなかの上客になってくれそうだ。癖になるまで愛してあげな。集いへの招聘状だけ貰い受ける。賓客キアズマ・ネモ・ンルジアッハ、その花ペルビエ・シャムジェイワ、従者に名乗らずの色男。これっぽっちの違和感もありゃしない構図じゃないかい」
とまあ、どこからともなく現れては立ち去っていく御用聞き―――世話役のみならず諜報や護衛も兼ねた御庭番のような連中らしいが―――に、ちゃきちゃきと指令を飛ばし終えると、つかつかと通路を歩き出す。無論、出入り口の方へだ。奇天烈な翻意に置いてきぼりにされた男ふたりだけその場に残されそうになって、まずは動揺に背を押されたらしいキアズマが、彼女の後ろ姿と追いすがる……さらさらと戦ぐ赤い髪の優美さと裏腹な、変に裏返った声色で、よそよそしく。
「あの。申し申し? レディ・ペルビエ?」
「ちょいとアンタら、なにぐずぐずしてんだい。便所なら我慢しな」
「それはさせてくれても良いのではなかろうかと……」
「さっさと行くよ。ああ楽しみだ。ああ楽しい。楽しみがあるって楽しい。人生サイコー。イの一番にゴーよゴーう」
豊かな胸を一段と魅力的に膨らませて先を急ぐペルビエに、やっとこさシゾーも追いついた。わくわくと小鼻をひくつかせた彼女相手に無駄だと悟りつつも、横から口を挟む。
「あのさ。オモシロ半分に参加すると後悔するんじゃないかな」
「のぞむところさ。後悔なんて人生で一回もしたことなかったんだ。いや、どっちみちしないわ。オモシロ全部だから」
「娼婦館まで巻き込むかも」
「イーイ客寄せだぁ。濡れ手に粟といこう」
「とんでもない損失が出る方の招かれざる客に押しかけられたりしたら」
「そいつは腹ごなしにしたって上等だね。こちとら、服喪期間に発生するキャンセル料の予想額だけで、満腹すぎて涎も引っ込んだところだったのさ」
「ええと。ぶっちゃけ命懸けな俺たちです」
「最っ高だ。平和ボケした腑抜けが幅を利かせだした昨今じゃ、生きてりゃ勝ちなんて醍醐味ある見世物、とんと拝めなくなってきてたからね。神様から死に神サマまで出し抜く特上の外連味、とくと見せとくれ」
そっちのけの応酬に、ついにシゾーは降伏した。彼女の五歩ほど後を付いて行きつつ、眉間から眉まで両手で揉み解して頭痛を和らげようとしているキアズマに並んで、ひそひそ声で吹聴する。
「根負けするしかないだろ。こうなったら。ペルビエのやりたいようにさせるのが、一番被害を減らせるんだし……俺たちへの」
「ゆるしておくれ、アシューテティ―――建前であれレディ・ペルビエを情婦としてお連れする罪を、赦しておくれ。この心の臓腑は、腑の音の一拍までも嘘偽りなく君に捧げている。鰯の頭にすら、それを誓おう。許しておくれ……」
「こっちはこっちで、ほっとくっきゃなさそーだな」
ぶつぶつと懺悔を口走っているキアズマから目を逸らして、シゾーは前方へと上体を正した。喜び勇んでつま先を逸らせるペルビエを見るようでいて、思い描いていたのは別のことだ。胸に手を当て、そこにある研磨石と懐剣を確かめる。石と刃、ふたつが触れ合う硬い感触と……刃の扱いから、白刃の齎してくれる痛みの種類まで満遍なく教えてくれたゼラ・イェスカザの姿を、網膜に素描する。
こんな時に脳裏へと現れる養父は、いつだって机を前に席に着いた姿でシゾーと向き合っていた。机上で遊戯盤を挟んでいたこともあれば、書籍を開いていたこともあったが、常に丸めた両手を顎の前に当てて両肘をつき、しっとりと落ち着いた黒瞳でシゾーを正視していた。その唇の上下が隙間を広げて、やってくる言葉を……シゾーだから、もう知っていた。
呟く―――代弁する。彼の、教えを。
「ひとつ。強者と勝者を同一視するな」
強ければ負けないということではない―――勝利とは、強弱と別次元のものだ。
「ふたつ。弱者を見ることで、己を強者だと思うな」
強さは、それを上回る強さには敵わない―――だからこそ、弱点を見つけろ。超人はいない。弱点がない者もまた存在しない。
「みっつ。弱点を見つけたなら、切り札を惜しむな」
強弱とは別次元から、支配権を握る―――イカサマをする。
「総括―――こころせよ。支配する者であると」
そうして、そこまで回想を網羅した時だった。
(ゼラの言うことばかり真に受けるな。だってあいつ変だろ―――これは、シザジアフの課外授業の心得だったな)
つい笑いそうになり―――ついでとばかり、そのままおおっぴらに破顔する。
その頃には、外に出ていたからだ。キャンセルが立て続いたという話は本当のようで、貴族らしさを保存された広大な庭は清閑として、屋敷内よりも閑古鳥が鳴いている。なので、王襟街の頂点で篝火を燈し、夜天の帳を押しのけるように白く輝いた王冠城の姿は、嫌でも目を引いた。
キアズマとペルビエの馬車の入れ替えに手間を取られたせいか、まだ車は正面まで回されて来ていない。横並びした当の馬車主たちも、目前にした座興への期待やら愛妻への懺悔やら―――どっちが誰だかは言うまでもない―――に、めいめいで気を取られているらしく、数歩後ろに立つ彼を振り向きもしなかった。
独りごちる。
「……巨人、ね」
シゾーは笑みをきつく捩り上げたまま片腕を上げると、再びデューバンザンガイツへ手を伸ばした。そのまま、広げていた五指を、ぎりっと握り締める。胸倉を締め上げるかのように。
「あんなとこまで手を届かせるついでだ。親父の背中ふたつくらい超えてやる」
刻一刻と揮発していく太陽の温もりを夢見て、人は地表に明かりを燈したのか。火種のもとで暖を取りたいと のぞんだ瞬間から、その焔により鍛え上げた鋼で他者の喉肉を血飛沫まみれに えぐり出す罪深い日は訪れ始めてしまったとしても……原罪ある巨人は、はじめてしまったのだろうか。あたたかな―――ゆびきりを交わした小指の腹に孕んだ温味を、自慰では賄えないと悟ってしまった瞬間から。あるいは、母体として閉じていた十月十日の完璧な楽土から、母と子へと身体を別たれた時から。誰かを希う指先を、自分がここにいると乞い願う呼び声を、どこまでも伸ばし始めたのか―――
(この絵を見て、こんなことを思ったのは初めてだな)
ふとシゾーは、それに気づいた。
娼婦館にある小部屋のひとつ―――その壁に飾られた、ひと抱えに出来る大きさの絵画。せり出すほど真っ黒に厚く塗りつぶされたカンバスの中心がぽつんと欠けて、穴が開いている。穴の周囲から油彩が罅割れて剥がれ出し、まるで噴火口の開いた火山のミニチュア模型を壁に掛けたようにも見えたが、どうやら何重にも様々な絵を描いた最後に黒塗りに閉ざした作品のようだ。ぼろぼろと砕けた欠片の層から、ありとあらゆる色相と描画が窺えた。それもアートの一部と言うことか、カンバスの底辺沿いに作られた雨樋のような受け皿には具材の滓が溜まり続けている。画家の銘は見当たらず、下げられた金属製のプレートには題字のみが綴られていた。
―――終末を得る物語、と。
(どこまでいったら終末なんだろうな。この絵は)
一層目の静物画が剥離した時だろうか。三層目の裸婦画が現れた時だろうか。覆い隠していたすべての色彩を失ったあとに残される布一枚、ただそれだけの姿となった時だろうか。あるいは、すべての絵が暗黒に閉ざされた時こそが終幕だったのか。どうしたところで分かりはしないし、どれであったところで大差もなかろうが―――はじまってしまっていたのだから、それは続く……
「お前に芸術を愛でる心があったとは意外だな、ツァッシ。ひげを剃り落としたついでに、人ならではの煩悩まで落ちたか?」
言われ、隣を振り返る。なにくれとなく室内の内装を吟味していたはずのキアズマが、憂さ晴らしついでだとあけすけに吐露する面貌からひと睨みを研いで、両手を互いの肘に添えるポーズで立っていた。腕組みではない―――彼の纏った純白の正装は余分な構造を排されているので、余剰な動作は窮屈さを覚えるだけなのだろう。服装に合わせて、今ばかりは一纏めにしていたうなじの括り紐を外し、背中を一面に覆う真紅の直毛をひけらかしていた。その貴族然とした佇いにあって筋骨の肉付きの良さは不自然にも思えたか、長髪の赤味の方が際立っているので、あまり目立たない。
厭味を言われたことは理解していたが、直前までの物思いを取りこぼしてしまったはずみで、なんとはなしに丸め込まれた心地が勝り、ぼんやりとシゾーは気圧されるに任せた。
「そう見えたのか」
「違うとでも?」
「どうかな。そう見えたんなら、その通りなんじゃないか。お前はこの絵をどう見る?」
「ふん。聞きたい返事をせびるなら、もう少し効果的な誘い水を撒くがよい。絵と出逢った場所、絵を買った金額、絵を飾る意味合いと、絵を飾るに至った経緯。出逢った場所によっては運命的な、購入金額によっては高貴な、意味合いと経緯によっては意味深な文句を以って褒めてしんぜよう」
「だったら、水子の生き血と処女の背膏を込めた絵の具で描き終えたあと絵筆で目玉から脳まで掻き混ぜて自死したなんて画家の顛末はどうだ?」
「……本当か?」
いっそ信じてしまった方が楽になれるような苦悶で、キアズマが渋面を更に抉った。そのタイミングで。
「おお、やだやだ。どんちゃん騒ぎの片棒担いだ立役者サマ御一行のお出ましだってのに、手土産のひとつもないんだからシケてるよ」
「皮肉らないでほしいな。ペルビエ」
ノックがてらドアを開けるなり、ドレス姿に相応しいしゃなりしゃなりとした身のこなしとは裏腹な辛辣さで茶化してきた彼女―――ペルビエ・シャムジェイワに、シゾーは愛想笑いを崩れさせた。
中に入ってきて二歩ほどで足を止めるなり、火のない煙管を指揮棒のように振ってみせた彼女は、特に己の口にした冗談に拘るでもなさそうだったが。それでも、なんとはなしに、言ってみる。
「にしても。手土産なんて。なにか欲しかった?」
「まずは、」
「やめときなよ。死人出るだけじゃ済まないって、そういうの」
「どうして分かるんだろうねこの子ときたら。腹立つったらありゃしない」
ぶーたれ顔―――とシゾーが勝手に名付けた―――を、ぶちぶち毒つかせてから、ペルビエは更に視線を抛った。シゾーを越えて、その肩向こう……つまりは、奥で佇立したキアズマへと。
「久しいね。キアズマ」
「ああ」
彼を見ても……彼の扮装を見ても、彼女は特に目の色を変えるでもなく、声色もまた顔見知りに贈る挨拶以上の親愛を込めたものでもなかったが。そのせいで余計に、むっつりとしたキアズマから漏れ出る殺気ばんだ空気との差が浮き彫りになる。
だとしても。なんの惰性なのか、ひるむでもなくペルビエは続けた。
「奥方は元気かい?」
「息災だ」
「なんだ。後妻漁りにきたのかと」
「不吉なことを申されるでない」
「だって、神様に愛の誓いでも立てそうな格好をしてるじゃないのさ」
「神なぞおらずとも、人は愛さえあれば鰯の頭にさえ信心を証すものだ」
「そりゃおかしい風景だわな。わらっていいかい?」
「好きに計らいたまえ。愚かな者ほど、軽侮することで理解したと信じ込む」
「いやまあ愛だろーが信じる心だろーが、さすがに鰯の頭に誓われたらアシューテティさん泣くだろ多分」
半眼を冷まして、思わず割り込むシゾーだったが。これから先を見越して過緊張を煮込む一方のキアズマは、這い出るような声音にシニカルな険しさを注して、真顔で切り返してくるだけだ。
「そういうお前の刀自は?」
「あいつの誓いは双頭三肢の青鴉を司る旗幟にあるし、だからこそ泣かせてたまるか。夢に見るだけでうんざりなんだ」
「お前自身はどうなんだ?」
「俺は誓ってヤケクソなだけだ。だから泣くのだって俺でいい。そう決めた」
断言でキアズマを振り切って、ペルビエへと向き直る。
彼女と言えば、見慣れない二人連れ―――今となっては―――の醸し出す秘密めいた雰囲気に、ひとまずは静観を決め込むつもりらしい。関心を潜めた瞳のハシバミ色は揺らぎもせず、灯火輪の燈明ばかり無垢に宿している。
その虹彩に映り込んだ己の双眸もまた揺らぐようなものではなかったが、改めてそれを見据えると腹の据わり方も変わる。シゾーは口を開いた。
「俺の服。ここでの。あるだろ?」
「そりゃあるよ」
「欲しいんだ」
「おう。持ってお行き」
「ごめん」
「なにを詫びる?」
「―――きっと返せない」
「それがどうした。アンタに合わせて仕立てたんだ。アンタ以外にゃつんつるてんだ。着倒すのが道理だし、あたしへの義理ってものさね。違うかい?」
「……かなわないな。ペルビエには」
「キアズマもこんな風体をしてるってことは、すぐ着てくのかい?」
「ああ。俺の今の服は、ここに置かせて」
「なんだか遺品みたいで気味が悪いね」
「そうだね。そうなったら処分費用は俺のズボンの財布からか給料未払い分からか、適当に差っ引いといて」
「はあ?」
怪訝さも露わに口を半開きにしたペルビエだったが、その唇に煙管を銜えることで内心を窘めると、こちらを手招きした。ついで、立ち尽くしたままのキアズマに、声を掛ける。
「まあ着替えるってんなら、部屋までおいで。キアズマはどうする?」
「生憎、同性のストリップ・ショーを見る嗜癖なぞ持ち合わせておらぬ。このまま待たせてもらおうぞ」
「あらそ」
つれない態度に目を瞬いたにせよ、ペルビエは匙を投げなかった。別口から提案する。
「なら、お茶くみでも誰か呼ぼうか? サービスするよ」
「結構だ。妻の煎じぬ茶なぞ嗜めたものでない」
「はいハイ」
「とかエエかっこしいしてる割にしょっちゅう手料理でヘロヘロにされてんだよコイツ」
「なに告げ口しとるかツァッシ!?」
「あーらら、御愁傷さま。まあ舌が肥えてるんだから、庶民料理のパンチにノックアウトされたところで不思議じゃないわ」
「レディ・ペルビエに至っては同情から慰めまで! コンプリート! 不覚!」
ショックを壁への頭突きで紛らわせ出したキアズマを残して、シゾーとペルビエは退室した。
娼婦館は、相変わらず洗練されていた。唯夜九十九詩篇に根差す貴族でありながら零落を免れなかった者など数えても切りがないし、そういった者が土地屋敷を売り払って移住するのもご多聞に漏れずといったところだが、その土地屋敷を土地屋敷のまま買い上げて保存し、価値を伝統と格式もろとも受け継いだのは、ひとえにペルビエ・シャムジェイワの慧眼が成した賜物と言える。しかも、凝り固まり古びていた風紀を刷新し、流行を加えた。彼女には、難無いことだった。貯め込まれていただけの古美術を美術品として開放し、品相応に飾り、品良く画廊を設えた……なんなら使用することすら、彼女には造作もないことだった。廊下は燭台からの明かりに満たされているどころか、くまなく香道の残り香が満ちている。この残り香を目当てに身銭を切り、入場してくるだけの者もいるくらいだ。
まあ、そういった純粋な求道者は開館時に集中するものだから、こうして宵時に廊下を行くとなると、行き交うのは娼婦ばかりだった。ペルビエと並んだシゾーを見つけると、通りすがりざまに、商売用とは違う笑顔を咲かせてくる。もれなく全員、シゾーの守備範囲だ。そうなると―――
「ねえねえ、今ほどお連れになった素敵な殿方はどうなさったの?」
「今夜は、どちらのお相手をお勤めに?」
「わたしはいつでもいいわ。詩吟をみてやってくださらない? 手習いを終えたのよ」
とまあ三名くらいは、そそくさと近寄りがてら、意気込んで纏わりついてきもする。
こういった鬩ぎ合いは本心からシゾー自身を取り合ってのことではなく、娼婦ら自身のプライドに根差した自己主張といった側面が強い―――少なくとも前者だと自惚れていられるほど初心ではいない―――のだが、巻き込まれてしまうと無視も出来ない。立ち往生したシゾーを横目に、歩を止めてくれたペルビエが、軽快に両手を打ち鳴らしがてら宥めすかした。
「はいはい皆の衆。今日は、そういった日じゃないんだよ。手が空いているなら、自習にお戻り。エフリアラは古典の読み進めが遅れていたし、テティーナは楽器の暗譜がいまいちだったじゃないか」
「はあい」
「はい」
素直に聞き入れたようでいて、めいめい去り際に合図をくれてくる彼女らに、シゾーもまた反射的に目やら指やらの仕草を送り返した。その最後に―――
最後のひとりだけ、立ち去る様子がない。その訝さに、改めて彼女を見やる。無論のこと、娼婦だ。十代半ばほどといったところか。かどのない輪郭と つるりとした白磁の肌は万人受けする美貌だろうが、露骨に勝気そうなつり目をチャームポイントと捉えるかどうかで好みが分かれそうではある。金の髪は、かつらのままと見えた……ただし、それを不満に思っての仏頂面ではないようだった。知った相手であるから、それくらいは察せる。名を―――
「アドヴィカ。なぜ行かないんだい?」
ペルビエの方が目敏かった。問いかけた女城主に倣ってシゾーも状況を見守っていると、彼女―――アドヴィカが、床へと逃がしていた目線を目蓋ごと さっと引き上げて、物怖じせず言ってくる。
「どうしても詩吟をお披露目したくて」
「アンタはいつでもいいんだろ? こっちは急ぎだ。あとにおし」
「コツを教えてもらって上達したのだから、聴いていただきたいの。恩返しよ」
「あとで好きにおし」
そして両者同時に、迂遠な期待を物語る眼差しをシゾーへと回してきた。アドヴィカのそれは控え目ながらアドヴィカ自身の擁護を乞うていたが、ペルビエのそれはペルビエ自身の肯定を当然としている―――その時点で勝敗は決していた。もとよりペルビエの口上も的外れではないので、シゾーもさほど悪びれることなく、せりふを口にする。いつもの癖で、腰の高さを下げるようにして目線を合わせてから、
「ありがとうアドヴィカ嬢。今は、気持ちを聞けただけで嬉しかった」
今はと口にしたことでニュアンスは伝わったようで、アドヴィカの失望はその眼光の熱っぽさを冷ます程度で済んだ。またペルビエについて廊下を進み出す前に、彼女の目配せと黙契を交わしておくことも忘れない。
ともあれ、悪い気はしない。歩きながら、シゾーは独ひとりごちた。
「上達した恩返し、ね」
「シモの方期待してんじゃないだろうね?」
「うん?」
苦言をちくりと毛羽立たせたペルビエに並んで、小首を傾げる。
「言われてみれば。それもいいか」
「個人的に楽しむなら金取るよ」
「俺から? アドヴィカ嬢から?」
「楽しんだ方に決まってる」
「となると折半かな。でも、楽しさに気付くのは勉強の第一歩だと思うけど」
「そして楽しみが売り買いされることも経済の第一歩だ。売買春は、天地開闢以来の商売だろ?」
「若気の至りだとか愛だとか、建前次第で永代無料なのに」
「じゃあ若気の至りでも愛でも、形から入ってみるかい?」
「やだよ。結局のところ無料より高いものなんて無いんだから」
「ならアドヴィカとも大人しく下働きの一環として関わるだけにしとくんだね」
「しといてるじゃないか。俺がここで誰かに入れ込んでるなんて噂、一回だって立てたことないだろ? 意地悪だなあ。こんなド腐れ性分分かり切ってるから、俺のこと使ってるくせに」
「こーんな老け込んだマセガキ、老けてマセてるとこ使わにゃ単なるガキだ。この館と同じだよ。宝の持ち腐れにしたって勿体無い」
一拍。
十中八九ペルビエは、まだ掛け合いが間断なく続くと思っていたのだろう。ふと やってきた沈黙に、不審げに頬を捩らせると、目角をこちらへ寄越して―――ぎょっと目を見張ると、首から上を振り向かせてくる。銜え煙管が、回り遅れて派手に揺れた。
「なにニヤニヤしてんのさ。気持ち悪い」
「いや。ここでそう思ってくれるのがペルビエでよかったなって」
「気持ち悪うぅウ」
呻き声を震わせて、背筋を聳やかしながら両腕ごと上半身を抱きしめてみせる彼女は、心底衒いない―――この館内にペルビエの関与しないスペースなどありはしないが、私的に使用するレベルが上がるにつれて客向けの区画から外れてしまうので、外面を取り繕う意味もないのだ。実際ここまで入り込むと、急に人影は疎らとなった。ちらほらと見かけないではなかったが、大体は手前の角を曲がって消えるか、ドアを開けて部屋に入ってしまう。斯く言うシゾーたちもまた、その頃には上階へ向けて階段を上り始めた。目的の場所は二階にある。
手持ち無沙汰に、シゾーは隣を行く彼女へと問いかけた。
「ペルビエこそ、俺の相手なんかしてていいの? かき入れ時はこれからでしょ」
「かなりの予定客が、王冠城の服喪会に行っちゃってね。すこんと肩すかしにスケジュールが開いたのさ」
「ペルビエは、その予定客の誰かに同伴して行かなかったんだ」
「あえて首突っ込むほど面白かなさそうだしね、見ず知らずの他人の通夜なんて。誘われて断れないほどの上客は、隠居も隠居のご老体ばかりだから、茶飲み友達するのも午後枠で終いだし。突然の余暇ってわけ」
「貴族の社交界ならではの情報は欲しいとこなんじゃない?」
「高級娼婦のネットワークを侮るでないよ。坊や」
揺るぎない笑みを煙管ごしに鋭くぶつけられて、シゾーは両手を軽く上げることで不戦敗を示した。
その頃には、いつもの部屋に辿り着いた。中から持ってきた提灯に、廊下の燭台から火を貰い、それを携えて室内に入る。
いつもながらの、最低クラス―――つまりはペルビエ・シャムジェイワとの逢瀬に使うにはと言う意味で―――の応接室である。毛足の長い絨毯。それ以上に厚みのある寝床は清潔で、シーツには染みどころか皺ひとつない。千獣王の脈模様を浮かせた陳列棚には、小瓶に詰められた酒や絵皿……そこに立てかけられた本が定期的に入れ替わるのは、純然たる彼女の趣味だ。要は、女城主として別格のペルビエは、高級娼婦として同衾する会場も最上階を指定する客しかいないので、客に披露する必要がないにしても遺棄するには気が引けるものが集まりがちになっている部屋があると言うことだ。そういう意味では、シゾーを子飼いにしていることも彼女の純然たる悪趣味でしかないので、ここに自分が居着くのも自然な流れと言える。彼の制服が、ここに仕舞われていることも含めて。
(いやまあ、仕舞われているのとも違うか)
陳列棚の横で衣桁に飾られた衣装は、まるで美術品のひとつのようだ。実際、自分が不在の時に展示されていたところでおかしくはない。キアズマが袖を通している絶品の足元にも及ばないにせよ、それでもこれ一着を質屋に持ち込むなら大棚を選ばないと換金を断られるだろう。それくらいの品には違いないのだ。
着替えるだけなので、照明もこの提灯で足りる。適当な応接机にそれを置き、衣桁へ歩み寄ったシゾーは正装へと手を掛けた。念のために上着の内側を探ると、懐剣もポケットチーフもろとも、そのままポケットに収められている。
ズボンから抜き取った研磨石を内ポケットに滑り込ませた入れ違いに、シゾーは懐剣を取り出した。そして、しげしげと観察する。一見すると大ぶりの万年筆のようだが、鞘から抜くと、刃幅二横指足らずの細身の直刃が剥き身となった。旗司誓からすれば、玩具のようなものだ―――それもそのはず、これは由緒正しい装いに付き物のポケットチーフと同じオプションであり、それらしく拵えに銀を盛るなり螺鈿を施すなりしてある美術品の類である。その美的感覚がグリップの邪魔となる上、鍔もない。武器として頼るには頼りない。
(それでも。手札だ)
鞘を戻して、それもまた上着の中に戻すと、かなり胸ポケットは膨らんだが、背の高さがある分体格の一部として紛らわされてくれるだろう。背に腹は代えられないとくれば、楽観視する程度しか打つ手はない。
シゾーは着ている自分自身のシャツに手を掛けた。腹部の縫合痕を布地がこすり上げないよう慎重に脱いでから、包帯に指を掛けてみる。目が細かいその生地は、伸縮性と弾性があるので―――包帯の中でも高価なものを奮発してくれたのか―――、多少の動きでは解けないと踏んで良い。
その上から、そっと三本指の腹で創傷に圧を掛けてみる。当てられた厚布が、ぱりぱりと軋む感触は無かった。どうやら、浸出液も最小で済んでいるらしい。もう体温も平熱に近い。このまま痂皮化できるなら、喜ばしいことこの上ないのだが―――
(どうしたって傷口が開かずに済む見込みもないとくるんだから、わらえるよな。ったく)
と。
「なんだいそれ? 臍の横っちょ」
振り向く。いつものように寝台に端座位を取ったペルビエが、疑問符を跳ね上げたはずみで煙管を口の端から落っことしかけていた。自覚はあったのか煙管を左手に移して、その先っぽを つんつんさせてくる―――彼女の言を借りるなら、シゾーの臍の横っちょへ。
言い訳することでもないし、言い逃れ出来るようなことでもない。もとより、どちらであれペルビエ相手に成功する気もしない。ありのまま、こたえる。
「刺された」
「女に?」
「今度は男」
「女絡みで?」
「だったらまだ楽が出来たかな」
「出来ないみたいな言い方だね」
「思い返してみたら、あいつ絡みで楽が出来たことなんて一回たりと無い気がする」
「じゃあ、なんの為にンなこと続けてんのさ?」
「だって。こっちの方が楽しい」
「遊びにしたって火遊びかい。見境いのないお子様だこと。困ったもんだ」
「おそろいだね。俺も困ってるんだ」
「いわんこっちゃない」
空いている右手で目許を押さえ、やれやれと首を振って見せるペルビエ。
彼女の視線が遮られたのをこれ幸いと、シゾーはズボンを着替えた。本来は下穿きも専用のものに着替えなければならないのだが、それくらいは分からないだろう。キアズマとは違って、使用人の仕立てをしたシゾーの衣服には余裕がある。
そして上着から靴や手袋まで整えて、衣桁に引っ掛けていた私服を畳もうかとした時だった。
「よし、一丁あがりだね。ほれ。ここにお座りよ」
と、言いながらペルビエが、すぐそこの自分の対角―――寝台の角を指した。
目をぱちくりさせて突っ立ったままでいると、ペルビエがわきの床頭台に手をやった。そこの天板にある煙草盆に煙管を置くついで、なにやら引き出しの中を物色し出す。まず取り出したのは、掌サイズの小箱。続いて、飾り紐。最後に、櫛。
「鈍感にしたって呆けることかい。そのバッサバサな ざんばら頭を、おべべに釣り合う風にしてやるよ。だから座りな」
「……ペルビエが? 俺に? 出来るの?」
「おうとも。これでも昔はよくやって泣かした泣かした」
「なんでヘアスタイルをキメるだけでヒト様の涙をちょちょ切れさせることが出来るのか分からないんだけど……」
「そりゃま、赤の他人ならね。無理よ。見放せば諦めもつくから涙も出ないわ」
「え?」
「いやなに、こっちの話さ。そら、お座りよ」
逆らうべくもないのだが。
示された寝台の隅っこへ腰掛けて、それでも落ち着かず、シゾーはぎくしゃくと猫背を真っ直ぐに伸ばした。膝小僧を撫でさすって息苦しさを誤魔化そうとするのだが、やはりうまくいかず目をうろつかせる。いつもは正装に着替えたところで、髪型まで入念に支度することは無い―――しょせんは表舞台に出もしない下働きであるし、下らしく働くとなればなおのこと一仕事済ませるごとに身繕いしなければならないので、頭まで逐一かかずらうことなどしなかった。
「ま。アンタくらいの長さで、素のまま流してるキアズマを引き立てるなら、オールバックにして襟足でひと括りってのが正統派ってとこか。しっかりと練り香油で纏めとこう。なんの匂いにしようかねえ? 花? 茶? 果物?」
背後から聞こえてくるペルビエの声は、なにやらうきうきとトーンを上げていたが。なおのこと、そらおそろしくはある。
「襟を汚しちゃいけないから、後ろにハンカチ当てるよ」
言うが早いか、後ろ首から回された手が摘んだハンカチの端同士を、喉仏の上あたりで締められた。まさかそのまま絞め殺されると思ったわけではないが―――横暴極まる茶目っ気けとしてなら大いにあり得るとしても―――、それでも俎板の上の鯉なりにじりじりと悲鳴を喉に溜めながら、警戒しつつ背後の動向を探る。
シゾーの背後に立ったペルビエは、ハンカチ越しにうなじへ片手の指の腹を触れさせると、そのまま彼の黒髪をひと房持ち上げた。そして意外に優しい手つき―――意外だとも―――で、毛先から櫛で梳かしていく。その都度、不遠慮な奇声が漏れた。
「うへえ。ぷつぷつ切れちゃってまあ、ひっどい枝毛だこと。サラッサラのストレートロングだったのが見る影もない」
「ずっと悔踏区域外輪にいるんだから、これで普通だって」
「だからって、いっつもバンダナ巻いて押さえつけてるだけで。安いやつで構いやしないから、普段から整髪油くらい付けときゃ良いものを。旗司誓だってある意味客商売みたいなもんなんだから、見目麗しくしとくだけ損は無いだろ?」
「でも。そういうの嫌いな奴もいたし」
「いたからって、アンタの損得勘定まで右倣えする意味ある?」
「あるよ。そうした方が波風立たないし、波風立ててまで執着することでもなかったし。毛なんて、いざって時に目に入らないならいいんだって」
「じゃあこっちにいた間、なんであんなに伸ばしてたのさ?」
「伸ばしてたんじゃなくて。切ってくれるような奴とつるんでなかっただけ」
「はー。やっぱヒネてるわーこの子。物事を分析する角度どころか素地からして、合計三百六十度はヒネてるわー」
「……それって一回転してるから、ヒネてない状態と、結局まったく同じじゃない?」
「なに言ってんのさ。結果が出れば過程はどうでもいいっての? 過程を踏まずして結果は出ないんだから、結果ばっかり偏重するのは馬鹿ってなもんでしょ」
「そりゃそうだけど。どうせ最後が同じなら、途中ぐるぐるするだけ損な気も」
「それを言っちゃあお終いよ。アンタね、どうせ死ぬなら今ここで首吊る?」
「―――それが賢いって疑わずにいられるほど純然さながらとしていられたなら、きっと俺はアークレンスタルジャット・アーギルシャイアだよ」
「はは! 言うに事欠くにしたって愚かしいねえ。アタシに言わせりゃ、アンタはツァッシゾーギなんて呼ばれてただけの、シゾー・イェスカザっていうジジむさい性根した坊やさ」
「だよね。世の中なんて大概、誰だってそんなもんだよね。俺からしたら、ペルビエだって―――」
「ほう」
すうっ―――と、と手がストップした。
そのまま、シゾーとペルビエも止まる。
「…………」
「………………」
「………………ええと」
「どうした? 続けな。俺からしたら、あたしが何だい?」
「いちりゅうノれでぃナしゃちょうさまデス」
「がきんちょの口説き文句にしては、カタコトなだけにガタゴト抜かしてくれそうな裏があるように勘繰れるねえ。まあ、長ったらしい貴族かぶれの詩作されるよりマシか。例の成金花束野郎なんざ、こないだ あたしの空き時間狙ってオペラばりに小一時間詠ってったよ。寝室のベランダめがけて、登った庭の木から」
「別にどうでもいいけど。え? ペルビエそれ見てたの? それとも聞いてただけ?」
「見て飽きた上に聞いて流せる出来だったから寝た」
「うーあー」
「そーだわねえ。今にしてみれば、あんたのその間投詞の言いたいことも分かるわよ。もしかしたら、絶好の曲芸を見逃したかもね。おだてる前の豚が木に登ったんだから、あそこでちょいとおだててやれば空までバヒューンと飛んでくれたんじゃないのって」
「ああ確かに命綱なくたってベランダに飛び移ってきそう。いや違う言いたいことそうじゃなかったろ俺。俺のうーあーそんな斜め上行くサディスト路線じゃなかったはずだ俺。こら俺」
寸でのところでシゾーが自我を取り戻す頃には、ペルビエの手元は次の工程に移っていた。それが分かったのは、茶葉の香り―――に決めたらしい―――が鼻先まで漂ってきたからだ。どうやら小箱から取り出したらしい練り香油を揉み込んだ両手で、シゾーの後ろ首から頭頂まで手櫛を入れてから、前髪を後ろへ持っていく。頬にかかる鬢も、側頭へと撫でつけた。まずは右から……そして、左側も。
その時になって気付いたらしく、ペルビエが口を衝いた。
「あらま。左耳のピアスはどうしたんだい?」
「もう要らない」
「甘っちょろいねえ。タグを失くした家畜なんて、柵から出たが最後、狩り出されて食われるのがオチだよ。替りのあげようか?」
「要らない。もうある」
「そう」
指摘してきたわりにそれだけで終えて、ペルビエは指先で梳るのを終えた。そして本物の櫛でオールバックを仕上げると、悪ふざけもなく後ろ髪を飾り紐で結わえてくれる。
シゾーの首から外したハンカチで手をあらかた拭うと、それを適当に抛り出したらしいペルビエが、こちらの正面まで回り込んできた。やや中腰となって顔を近付けてくると、仰け反って間合いを稼ごうとするシゾーにお構いなしに、しげしげと横面から鼻面から値踏みしてくる。
「本当は眉を整えて、うなじらへんの産毛も剃りたいとこなんだけど、肌の色のおかげで目立たないから省略していいだろ。さてと。どうだい。なかなかの出来栄えじゃないか」
と、自画自賛に満悦すると身を起こし、背後に回していた片手を差し出してきた。その手を取れという意味かと思ったが、違う。彼女は、手鏡を持っていた。仔猫の首根っこでも摘まむようにして、ぷらんとぶら下げている。顎をしゃくるペルビエに促されるまま、シゾーはそれを覗き込んだ。
当然、映り込んでいるのは自分自身だ。見慣れていたはずの姿かたちを化かして、見たこともない姿見をしている……馬鹿らしいにも、見果てぬ先を夢見て。その姿は―――
数日前の朝に見送った。それを思い出す。オールバックに髪を纏めた正装。
(……―――義父さん。シザジアフの言う通り、似た者おやこみたいです。こうまで。僕らは。正反対なことに)
洒落にもならないし、ならないなりに歯痒さも浮かばない。寝台に尻を落としたまま、かぶりを振って項垂れる。
そのまましばらく、じっとしていた。
―――口火を切ったのは、ペルビエだった。
「泣きそうだね」
どうやら、そう見えたらしい。それならそれで構わなかったが、シゾーは顔を上げた。眼前に立ち尽くしたままだった彼女が、手鏡でとんとんと己の肩口を叩きながら―――まるきり釘バッドを手にしたチンピラがメンチを切る構図で、尊大に睥睨してくる。針のように細めた両目に、毒針じみた輝きをちらつかせながら、
「うざったい。ぐずぐず悪わる足掻きするくらいなら、潔く泣いちまいな。みっともなくて見ちゃいらんないよ。今ならもれなく、あたしのせいさ。前科があるんだ。乗っかりな」
「……どうかした? いきなり妙な深入りして」
「あたしゃ、アンタが突っ張った面の皮の千枚張りの下で落ち込んでるのくらい、お見通しだよ。そのまま死相に固まられちゃ、せっかく手塩にかけて上げてやった男振りが台無しだ。だから泣いちまいな。憑き物ものを落とすにゃ、カタチにするのが一番だからね……星を星座として繋いで人型らしく名付けた途端、俗世っぽい逸話を被せても屁とも思わなくなったみたいに。なんなら抓ってやろうかい?」
「……らしいと言うか。甘やかす時でさえ甘くないんだから。ペルビエは」
「そりゃそうさ。一文の得にもなりゃしない。大体にして、こんなもんまで見抜ける百戦錬磨が、蝶よ花よのノリで人間までヨシヨシするようなハートの原型をピュアに保ってるはずもないだろ。ほぅれ、ぽろぽろ零しちまいな。鬱陶しい」
ついに わきわきと指を曲げ伸ばしさせ始めた彼女の片手が、こちらの頬まで伸びてくる前に。シゾーは白状した。
「……俺がペルビエに零せるとしたら、涙じゃなくて、悪餓鬼・糞餓鬼が結託しての悪巧みくらいかな」
「いいとも。聞こう」
「これからキアズマと、デューバンザンガイツに乗り込む。俺は付き人として。服喪の集いに出席する」
丁々発止としていた流れが途絶し、じゃっかんの間が空いた。その合間に、掛けていた寝台から立ち上がる。
私服を引っ掛けたままの衣桁が気になったが、気に食わなければペルビエが何とでもしてくれるだろう。当の彼女と言えば、こちらを見上げて―――急に逆転された高低差にか、驚きにか、ぽかんとさせた口の中から質問をぶつけてくるだけだが。
「なんの為に?」
シゾーは―――
今度は違う口ごたえをすることにした。
「ペルビエの言うところの、面白いことをする……その手始めだから、そうするだけ」
そして片頬で、上唇を吊り上げてみせる―――にやりと。大見栄だったが、見栄を切ることでけじめがつくならそうしておくに越したことは無いし、もしもこれが彼女との今生の別れとなるとしたら格好つけておくだけ無駄骨ではなかろう。ペルビエ・シャムジェイワは好い女だ。彼女の記憶に男前として残るのなら悪くない。
と、思えていたのだが。そのペルビエは―――
「へーえ?」
呟きがてら、笑った。にやりとではなく―――にんまりと。
問答無用に後ずさりしかけたものの、どうにか半歩ほどで踏みとどまったシゾーを尻目に、彼女は上機嫌で手鏡や櫛などを寝台から床頭台へと戻し始めた。なにやらいつの間にか鼻歌まで混じり始めていたが、直感的に悪魔召喚の祝詞であるかのように聞こえてしまい、ただただ逃げ腰でペルビエに構えておく。
その様子に、勘違いしたらしい。再び手にした煙管で、ぱしんともう片手を打つと、ペルビエはシゾーへとひと睨みを食らわせてきた。
「ナニびびってんだい? まさかヘタレづいたってんじゃないだろうね。啖呵切っときながら」
「啖呵を切ったのは確かだし、それについてはびびってもヘタレてもないんだけどね……」
ごにょごにょと聞き取れない音量で会話の帳尻合わせなど試みつつ、シゾーは廊下へのドアを開けて提灯の火を始末した。そして、ペルビエと共に部屋を出ると、もと来た道のりを遡って、キアズマと合流する。
彼はと言えば、待ちかねたらしく室外に出ていた。そして、つっけんどんな一瞥でシゾーの外見を一巡すると、不本意ながら及第点をくれてやると言わんばかりの斜視を寄越してくる。
「綺羅は飾ったようだな。なれば、いざ行かん」
「おうともよ。行こうかい」
きっぱりと断じて、ぴんと片手の煙管で天を指してみせたペルビエに。
「なぬ?」
「あ。なんかそんな予感はしてた」
まずはキアズマが素っ頓狂に瞠目し、シゾーは嘆声をコケさせたのだが。いつも通りペルビエは、聞き耳など持たなかった。
「あたしの馬車を出そう。なんだい? キアズマのが外に控えてる? あたしのと入れ違いにしまっておしまい。御者連中は、そうだねえ……娼婦館で、おもてなしの刑に処しとき。ネモ・ンルジアッハの使用人なら、そいつも古式ゆかしき名門だろ。なかなかの上客になってくれそうだ。癖になるまで愛してあげな。集いへの招聘状だけ貰い受ける。賓客キアズマ・ネモ・ンルジアッハ、その花ペルビエ・シャムジェイワ、従者に名乗らずの色男。これっぽっちの違和感もありゃしない構図じゃないかい」
とまあ、どこからともなく現れては立ち去っていく御用聞き―――世話役のみならず諜報や護衛も兼ねた御庭番のような連中らしいが―――に、ちゃきちゃきと指令を飛ばし終えると、つかつかと通路を歩き出す。無論、出入り口の方へだ。奇天烈な翻意に置いてきぼりにされた男ふたりだけその場に残されそうになって、まずは動揺に背を押されたらしいキアズマが、彼女の後ろ姿と追いすがる……さらさらと戦ぐ赤い髪の優美さと裏腹な、変に裏返った声色で、よそよそしく。
「あの。申し申し? レディ・ペルビエ?」
「ちょいとアンタら、なにぐずぐずしてんだい。便所なら我慢しな」
「それはさせてくれても良いのではなかろうかと……」
「さっさと行くよ。ああ楽しみだ。ああ楽しい。楽しみがあるって楽しい。人生サイコー。イの一番にゴーよゴーう」
豊かな胸を一段と魅力的に膨らませて先を急ぐペルビエに、やっとこさシゾーも追いついた。わくわくと小鼻をひくつかせた彼女相手に無駄だと悟りつつも、横から口を挟む。
「あのさ。オモシロ半分に参加すると後悔するんじゃないかな」
「のぞむところさ。後悔なんて人生で一回もしたことなかったんだ。いや、どっちみちしないわ。オモシロ全部だから」
「娼婦館まで巻き込むかも」
「イーイ客寄せだぁ。濡れ手に粟といこう」
「とんでもない損失が出る方の招かれざる客に押しかけられたりしたら」
「そいつは腹ごなしにしたって上等だね。こちとら、服喪期間に発生するキャンセル料の予想額だけで、満腹すぎて涎も引っ込んだところだったのさ」
「ええと。ぶっちゃけ命懸けな俺たちです」
「最っ高だ。平和ボケした腑抜けが幅を利かせだした昨今じゃ、生きてりゃ勝ちなんて醍醐味ある見世物、とんと拝めなくなってきてたからね。神様から死に神サマまで出し抜く特上の外連味、とくと見せとくれ」
そっちのけの応酬に、ついにシゾーは降伏した。彼女の五歩ほど後を付いて行きつつ、眉間から眉まで両手で揉み解して頭痛を和らげようとしているキアズマに並んで、ひそひそ声で吹聴する。
「根負けするしかないだろ。こうなったら。ペルビエのやりたいようにさせるのが、一番被害を減らせるんだし……俺たちへの」
「ゆるしておくれ、アシューテティ―――建前であれレディ・ペルビエを情婦としてお連れする罪を、赦しておくれ。この心の臓腑は、腑の音の一拍までも嘘偽りなく君に捧げている。鰯の頭にすら、それを誓おう。許しておくれ……」
「こっちはこっちで、ほっとくっきゃなさそーだな」
ぶつぶつと懺悔を口走っているキアズマから目を逸らして、シゾーは前方へと上体を正した。喜び勇んでつま先を逸らせるペルビエを見るようでいて、思い描いていたのは別のことだ。胸に手を当て、そこにある研磨石と懐剣を確かめる。石と刃、ふたつが触れ合う硬い感触と……刃の扱いから、白刃の齎してくれる痛みの種類まで満遍なく教えてくれたゼラ・イェスカザの姿を、網膜に素描する。
こんな時に脳裏へと現れる養父は、いつだって机を前に席に着いた姿でシゾーと向き合っていた。机上で遊戯盤を挟んでいたこともあれば、書籍を開いていたこともあったが、常に丸めた両手を顎の前に当てて両肘をつき、しっとりと落ち着いた黒瞳でシゾーを正視していた。その唇の上下が隙間を広げて、やってくる言葉を……シゾーだから、もう知っていた。
呟く―――代弁する。彼の、教えを。
「ひとつ。強者と勝者を同一視するな」
強ければ負けないということではない―――勝利とは、強弱と別次元のものだ。
「ふたつ。弱者を見ることで、己を強者だと思うな」
強さは、それを上回る強さには敵わない―――だからこそ、弱点を見つけろ。超人はいない。弱点がない者もまた存在しない。
「みっつ。弱点を見つけたなら、切り札を惜しむな」
強弱とは別次元から、支配権を握る―――イカサマをする。
「総括―――こころせよ。支配する者であると」
そうして、そこまで回想を網羅した時だった。
(ゼラの言うことばかり真に受けるな。だってあいつ変だろ―――これは、シザジアフの課外授業の心得だったな)
つい笑いそうになり―――ついでとばかり、そのままおおっぴらに破顔する。
その頃には、外に出ていたからだ。キャンセルが立て続いたという話は本当のようで、貴族らしさを保存された広大な庭は清閑として、屋敷内よりも閑古鳥が鳴いている。なので、王襟街の頂点で篝火を燈し、夜天の帳を押しのけるように白く輝いた王冠城の姿は、嫌でも目を引いた。
キアズマとペルビエの馬車の入れ替えに手間を取られたせいか、まだ車は正面まで回されて来ていない。横並びした当の馬車主たちも、目前にした座興への期待やら愛妻への懺悔やら―――どっちが誰だかは言うまでもない―――に、めいめいで気を取られているらしく、数歩後ろに立つ彼を振り向きもしなかった。
独りごちる。
「……巨人、ね」
シゾーは笑みをきつく捩り上げたまま片腕を上げると、再びデューバンザンガイツへ手を伸ばした。そのまま、広げていた五指を、ぎりっと握り締める。胸倉を締め上げるかのように。
「あんなとこまで手を届かせるついでだ。親父の背中ふたつくらい超えてやる」
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