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起章
起章 第三部 第三節
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軽い痛苦に口元を押さえる。軽いのは痛苦だけで、高揚と自制がせめぎあって膨張しゆく酩酊は、果てしなく鈍重だった。だるいほど重く、眠いほど鈍く、焦がれるほどの蠱惑に疼く。
はれぼったい目蓋の奥からさまよわせた視線は、どこへ向けたところで血痕と汚辱に満ちた空気を臨むことができた。震えた奥歯がかちりと触れ合い、途端に、骨の合間を血管ごと断ち割る刹那に剣を痺れさせた甘い触感が脳髄に再燃して、吹きすさんだそれに鳥肌が歓呼する。
シゾーはそれを噛み潰した。だというのに吐いた息は、食いしばった歯列を撫でさする。熱い。煽情されるままに―――熱い。
俯き、立てひざを突いたまま、正面に突き立てた愛剣に重心を預けている。その場で一心に、彼はその薄汚い刃面を見詰め続けていた。その向こうでは、死んでいる騎獣のはらわたが、自身の血塊の中で溺れている。
斬騎剣。敵の駆る軍騎ごと斬り倒すために極められた、ひたすら巨大な剣峰。このような酔狂な型の武器はとうの昔に廃絶されて久しく、今では骨董品として見かけることすらほとんど無い。今更どれほど手入れしたところで、斬れ味など期待するまでも無かった。それでも、この剣を使役せずにいられない。考えられることではない―――鈍金にこそこびりつく肉片と体液の混色が、脂肪で覆われた挙句てらりと油膜を浮かばせる、それを超えるものなどあるものか―――
「―――領! 副頭領!!」
はっとしたのは、次第に攻撃色を増してきた呼びかけに対する、純粋な警戒だったのかもしれない。シゾーは、顔を跳ね上げた。すぐ近くに、見慣れた顔が数人立っている。その先頭で胸を張る最も年嵩の男が、こちらを呼んでいた勢いをさらに増しながら怒鳴り散らした。
「またそんなやり方でやっちまって! ほら、ちゃんと見てくだせぇよ、その騎獣! だっくだくに血ぃ零れちまって、腸詰にする分残ってねぇじゃないっすか!」
「あ―――あ、はい。そうですね」
未練がましく陶酔している頭では、ろくな言葉も思い浮かばない。どうにか副頭領らしい言葉づかいでそう応えたものの、シゾーはどんどん繰り出されてくる相手の説教の半分も理解していなかった。
「ったく、もういいから退いてください。今からでもやってみるっす。おい、干し腸の中から今一番水でふやけてるやつ、あと二本選んどけ!」
後半の言葉は背後―――つまり助手らしき少年ら―――に投げつけ、その男はこちらと屍骸の間に割り込むようにして、騎獣の断面のまん前に屈み込んだ。糞便と血液に沈溺した臓物が視界から遮られる。機を逃さず、シゾーは立ち上がった。
その勢いで、斬騎剣も地面から引き抜く。血糊の始末をつけないことには鞘に収めることもできないが、上気した身体を持て余しながら手入れに取り掛かるなど、冗談ではなかった。そうやって後回しにすればするほど手間が掛かるのは分かっていたし、こんなことだから斬騎剣の刃先がますます劣化していくも分かってはいたが。
(―――なんで俺はこうなんだ―――)
嘆声ではなかったが、中身は大差ない囁きを胸の奥に残して、シゾーは荒れ放題の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。本当はもっと明確に悪態をつきたいところではあったが、自分はそれを許される立場に無いことも理解していた。副頭領。シゾー・イェスカザ。
(契約だ。守れる部分で守っておかねえと……)
左耳を押さえる。抵抗するように、硬質なリングピアスが手掌の肉を非力に押し返してきた。それに逆らわず、シゾーは手を離した。
背筋を伸ばす。視界が高くなると、気分も多少切り替わる。<彼に凝立する聖杯>の中で誰よりも高い視野の中で数度深呼吸して、シゾーは声を発した。足元で、騎獣の切創の向きに整え、屠獣用の小道具をいくつも広げている男に向かって。
「すみません。解体する時、どこかいつもと変わった箇所がないか、注意して観察しておいてください」
「腸詰も作るにしては無駄が多すぎる屠殺方法だ、とかっすか?」
せりふそのものはこちらへの厭味だったが、そう聞こえなかったのは、言った当人がそれを意図していなかったからだろう。この失血ではもはや無意味であろう動脈の結紮を律儀に施してから、鮮やかな手並みで騎獣を腑分けしていた彼は、その動作と同じくらい素早く口を衝いてくる。
「分かりゃした。よく見ときます。けどそれ、もっと具体的にならないんすか? どこかって―――こいつが、どこと比べて、変わってるってんです?」
「こちら側とです」
これで伝わらなければそれでもいい。シゾーは、これが多大なる憂慮である可能性を忘れたわけではない。しかし相手は、婉曲に示した意味を、相当量汲み取ったらしい。屍骸の血管と肉の層の配置を辿っていた真剣な相貌が、そのまま一往復してこちらを見上げてきた。引き締まった面の皮が、男の口元の皺の影を深めたようにも思う。
男。
そういえば、この男の名前を思い出せない。
が、それよりも、重要なことがある―――
眼差しを転ずる。とっくに立ち去ってしまった地面にある痕跡といえば、のた打ち回ったせいで毛羽立った土くれくらいしか見当たらなかったが。喉元よりもはるかに脆い急所を敵に突かれて荒れ狂い、ゼラによって、ぎりぎりの極地で引き戻された。自分が駆けつけることさえ許さない間に死にかけ、また死に損ねた。そしてまた、先へといなくなった。
その名前は覚えている。それでいい。
(鎧野郎は確かに言った。その華奢ななりで張り合う気か―――相手をこき下ろすにしては、言葉回しが上品過ぎだろ)
今更になってせりふの根拠を並べていることに気付いて、にじみ出る無能さを穴埋めしているような後ろ暗さに、シゾーは今度こそこっそりと嘆息するしかなかった。
はれぼったい目蓋の奥からさまよわせた視線は、どこへ向けたところで血痕と汚辱に満ちた空気を臨むことができた。震えた奥歯がかちりと触れ合い、途端に、骨の合間を血管ごと断ち割る刹那に剣を痺れさせた甘い触感が脳髄に再燃して、吹きすさんだそれに鳥肌が歓呼する。
シゾーはそれを噛み潰した。だというのに吐いた息は、食いしばった歯列を撫でさする。熱い。煽情されるままに―――熱い。
俯き、立てひざを突いたまま、正面に突き立てた愛剣に重心を預けている。その場で一心に、彼はその薄汚い刃面を見詰め続けていた。その向こうでは、死んでいる騎獣のはらわたが、自身の血塊の中で溺れている。
斬騎剣。敵の駆る軍騎ごと斬り倒すために極められた、ひたすら巨大な剣峰。このような酔狂な型の武器はとうの昔に廃絶されて久しく、今では骨董品として見かけることすらほとんど無い。今更どれほど手入れしたところで、斬れ味など期待するまでも無かった。それでも、この剣を使役せずにいられない。考えられることではない―――鈍金にこそこびりつく肉片と体液の混色が、脂肪で覆われた挙句てらりと油膜を浮かばせる、それを超えるものなどあるものか―――
「―――領! 副頭領!!」
はっとしたのは、次第に攻撃色を増してきた呼びかけに対する、純粋な警戒だったのかもしれない。シゾーは、顔を跳ね上げた。すぐ近くに、見慣れた顔が数人立っている。その先頭で胸を張る最も年嵩の男が、こちらを呼んでいた勢いをさらに増しながら怒鳴り散らした。
「またそんなやり方でやっちまって! ほら、ちゃんと見てくだせぇよ、その騎獣! だっくだくに血ぃ零れちまって、腸詰にする分残ってねぇじゃないっすか!」
「あ―――あ、はい。そうですね」
未練がましく陶酔している頭では、ろくな言葉も思い浮かばない。どうにか副頭領らしい言葉づかいでそう応えたものの、シゾーはどんどん繰り出されてくる相手の説教の半分も理解していなかった。
「ったく、もういいから退いてください。今からでもやってみるっす。おい、干し腸の中から今一番水でふやけてるやつ、あと二本選んどけ!」
後半の言葉は背後―――つまり助手らしき少年ら―――に投げつけ、その男はこちらと屍骸の間に割り込むようにして、騎獣の断面のまん前に屈み込んだ。糞便と血液に沈溺した臓物が視界から遮られる。機を逃さず、シゾーは立ち上がった。
その勢いで、斬騎剣も地面から引き抜く。血糊の始末をつけないことには鞘に収めることもできないが、上気した身体を持て余しながら手入れに取り掛かるなど、冗談ではなかった。そうやって後回しにすればするほど手間が掛かるのは分かっていたし、こんなことだから斬騎剣の刃先がますます劣化していくも分かってはいたが。
(―――なんで俺はこうなんだ―――)
嘆声ではなかったが、中身は大差ない囁きを胸の奥に残して、シゾーは荒れ放題の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。本当はもっと明確に悪態をつきたいところではあったが、自分はそれを許される立場に無いことも理解していた。副頭領。シゾー・イェスカザ。
(契約だ。守れる部分で守っておかねえと……)
左耳を押さえる。抵抗するように、硬質なリングピアスが手掌の肉を非力に押し返してきた。それに逆らわず、シゾーは手を離した。
背筋を伸ばす。視界が高くなると、気分も多少切り替わる。<彼に凝立する聖杯>の中で誰よりも高い視野の中で数度深呼吸して、シゾーは声を発した。足元で、騎獣の切創の向きに整え、屠獣用の小道具をいくつも広げている男に向かって。
「すみません。解体する時、どこかいつもと変わった箇所がないか、注意して観察しておいてください」
「腸詰も作るにしては無駄が多すぎる屠殺方法だ、とかっすか?」
せりふそのものはこちらへの厭味だったが、そう聞こえなかったのは、言った当人がそれを意図していなかったからだろう。この失血ではもはや無意味であろう動脈の結紮を律儀に施してから、鮮やかな手並みで騎獣を腑分けしていた彼は、その動作と同じくらい素早く口を衝いてくる。
「分かりゃした。よく見ときます。けどそれ、もっと具体的にならないんすか? どこかって―――こいつが、どこと比べて、変わってるってんです?」
「こちら側とです」
これで伝わらなければそれでもいい。シゾーは、これが多大なる憂慮である可能性を忘れたわけではない。しかし相手は、婉曲に示した意味を、相当量汲み取ったらしい。屍骸の血管と肉の層の配置を辿っていた真剣な相貌が、そのまま一往復してこちらを見上げてきた。引き締まった面の皮が、男の口元の皺の影を深めたようにも思う。
男。
そういえば、この男の名前を思い出せない。
が、それよりも、重要なことがある―――
眼差しを転ずる。とっくに立ち去ってしまった地面にある痕跡といえば、のた打ち回ったせいで毛羽立った土くれくらいしか見当たらなかったが。喉元よりもはるかに脆い急所を敵に突かれて荒れ狂い、ゼラによって、ぎりぎりの極地で引き戻された。自分が駆けつけることさえ許さない間に死にかけ、また死に損ねた。そしてまた、先へといなくなった。
その名前は覚えている。それでいい。
(鎧野郎は確かに言った。その華奢ななりで張り合う気か―――相手をこき下ろすにしては、言葉回しが上品過ぎだろ)
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