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成長、彼の情
3-22
しおりを挟む泥のような混沌から不意に意識が浮上し、重い瞼を開くと辺りは暗かった。
眼球のみを動かし、暗いということを長い時間をかけてやっと感る。
口内や喉の異常なまでの枯渇でへばりついていることに気付き動揺した。
唾を飲み込むことができないほど乾いている、口を開くというのはどうするべきだったか。
ジェーンは口への困惑に軽く身動ぎをしたところで、身体全体の軋むような激しい痛みと、自分自身の記憶が津波の様にその身に返って来た。
同時に身体は痛むのに全身に大きな震えが押し寄せる。
そうだ、私は…。
ジェーンは国王に身体を好きな様にされたあの日、あの行為は無慈悲にも何度も続き、組み敷かれベッドにも押し倒されて暴力をされた。
そして大量の自身の膣から出た鮮血と精液がシーツを汚し、その中心で汚され切ったジェーンは放置された。
それを片付けに来た召使も、このようなことはまるで日常茶飯事かのように事務的な態度を守って近辺を整理して帰っていったのだった。
それ以来国王とは勿論会うことはなく、エリザベスにも会わせる顔もなく自室で自分以外の人間に対して怯える日々を送っていた。
その間にジェーンは、様々なことを既に遅く過ぎ去ってしまったことと承知していながら、懺悔を山の様に積み上げていた。
自分はなんて子供だったのだろう、涙を流した。
かつては女の武器を使って自由になりたいなどと本気で思っていた。
しかし男との行為はこんなにも恐怖に満ちた奇行だった上に、成人男性の肉体も性器も14の子供では許容なんてとても出来たものではない程に暴力的だった。
まさにあの夜のジェーンは正真正銘玩具として扱われた。
抵抗する力など初めから女には備わってなどいなかった。
本当に怖かった。
強がっていれば一線を越えてくる者などいないと高を括った結果が招いた災いだ。
今まで自分が大人達に行ってきた態度や言った言葉がさらにジェーンを後悔の檻に閉じ込めた。
ジェーンの母は、宮廷へは行かない方がいいと言ってくれたにも関わらず自身のその無知さゆえに反抗し場違いな場所に自ら赴いてしまった。
あの時母の意見を受け止めていれば退屈ながらも平和な日常を守れていたのに。
そしてエリザベス、いつもジェーンの身を案じてくれていた本当に慈悲深い人だと今なら痛い程に分かるのに、その時は天邪鬼な思春期の傾向が強かったのかその優しさがジェーンは嫌でたまらなかった。
もう大人なのだから、そのような子供扱いは不要だと拒絶をしていた。
恐らく国王がジェーンに手を出したことは風の噂で耳に既に入っているのかもしれないと思うと更に苦しかった。
そしてカスパル、出発当日も助言をしてくれた。
カスパルの言った一言一句は本音だったのだと今なら分かる。
あの時男なんて馬鹿な生き物だと思っていたせいでカスパルを完全に甘く見ていたが、彼は宮廷内での先輩。
様々な出来事を目にし耳にした結果からの助言だったと、何故あの時の自分は深く考えることが出来なかっただろう。
そして一番申し訳ないと心を苦しめたのはシムであった。
シムがテューリンゲンにいた時からジェーンは彼を心の底から下に見ていた。
貧相でこのまま貴族にこき使われて死んでいくだけの奴だと馬鹿にもしていた。
今にして思えば自身のハイヒールで大切な仕事道具である手を踏んだ際、何故手を強引に引き抜いて逃げなかったのだろうと考える。
いくら体格に恵まれなかったとはいえ成人男性のシムにとって14の少女の力など本気を出せば、簡単に振り払えたに違いなかった。
しかし何故あの時、ジェーンの身勝手で理不尽な暴力を受け止めてくれたのだろう。
何故、やり返さなかったのだろう。
何度も何度も考える度、その答えはうっすらと同じ結論に至っていた。
シムが自分より慈悲深く大人だったからだ。
簡単な理由だった。
ジェーンの一回り程、先に生きているのだからジェーンのことを受け止めたに過ぎない。
シムはずっと長い間ジェーンに馬鹿にされているのもきっと理解していた筈だ。
遥か昔に編んで渡してくれた花の冠は、私の足で踏み潰した。
それを悲しそうに見つめるみすぼらしい男の表情をきっと生涯忘れないだろう。
シムのことを考えるとジェーンは恐ろしく汚い自分の人格を自覚せざるを得ない。
もう絶対に許されない程に彼を拒絶している。
しかし謝りたい気持ちでいっぱいだった。
許されようとは思っておらず、唯今までのことを詫びたかった。
しかしもうこのような状態ではそれも叶わないのだと小さな子供に過ぎないジェーンはさらに一人で枯れた声を漏らして泣いた。
そして日々部屋に籠っているうちに、不可解な吐き気を催す様になってきており、堪らず室内で吐いていた。
しかし医者にも言えなかったのは、女の突然の吐き気など懐妊の可能性しか疑われないため、あの日を思い出す恐怖で打ち明けることが出来なかった。
自分の身にあの悪魔の男に強制的に植え付けられた生命が宿されてしまっているかもしれないなど、否定していないと心がもたなかった。
食事を断とう。
食事を断って栄養失調になりお腹の生命と共に死に絶えようと考え、水以外口をしなくなった。
結局国王に手をつけられてしまったらもう正規の貴族に娶ってもらうことは出来なくなった。まだこの歳でだ。
しかも国王の子供が本当にジェーンの中にいるとしたら更に違う派閥の生贄になる未来しかないのも、ジェーンには怖かった。
どう転んでも敵しかいない。
味方は全員自分自身の馬鹿な過去で突き放してきてしまった。
死のう、ジェーンは一生の中でも類を見ない固い決意で水以外の摂取を止めたが、いつしか意識が遠のく感覚が頻繁になり、そして今久方ぶりに意識を浮上させればジェーンは暗く何も無い部屋に一人だった。
死ねていないじゃない。
ジェーンは絶望した。
もうその瞳に正常な判断など欠片も出来ない程仄暗く死の感情がどろどろと流れ続けている。
身体が痛いのは栄養を取っていないまま、長く眠っていたから。
喉が張り付いているのは長く眠っていたせいだ。
洋服は薬品の香りのする白いものに変わっており、その感触で遂に医者に診られてしまったことを悟る。
そして腹の中に大変図々しく鼓動を続ける物体も、現存していることを悟る若干の腹の膨らみさえも感じた。
ジェーンは久方ぶりに目を覚まして久方ぶりに大きな嗚咽を零して咽び泣いた。
「なんでっ…なんで!まだここにいるのよぉ…!!」
小さく膨らむ腹に向かって罵声を浴びせる。
それは正真正銘の怒りだった。
もう沢山だ、ここにいては死ねもしない。
一刻も早くテューリンゲンに帰りたい。
この腹の中の悪魔を自分の手で葬ってやらなければならないのだ。
自分がいないことでカスパルは心配の一つを減らして仕事に励み、シムは怖がらずに庭に専念でき、エリザベスは再び国王の隣に円満に立ち続ければいいのだ。
自分がいないことで全て丸く収まるではないか。
もうこれ以上自分が本当の悪魔になるのは嫌だった。
ジェーンは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を乱雑に見覚えのない服で擦り、ベッドから立ち上がった。
久しぶりに使う足は筋肉が衰え、驚くほど真っ直ぐ立てず重心を保てないので何度もよろめく
自室にある筈の様々な私物が消えていることに漸く気付いた。
怯える目で部屋を見渡す。
もう自分の物はいらない物として捨てられてしまったのだろうか。
しかし今はそんなことは関係無かった。
とりあえず身一つでここから逃げなければならない。
医者や貴族が来る前に誰にも見られる前にここを去らなければならないのだ。
凡そ病的に掻き立てられた逃走心にジェーンは足腰や手を震えさせながらなんとか側に置いてあったマントに手をかける。
しかしまだ足は全く本調子ではなかったせいで、マントを手繰り寄せる反動で大きく前のめりに倒れこんでしまった。
不運なことにその傍らには小さなグラスと水の入った瓶が置かれており、それを巻き込んで倒れる形になった。
「いっ……!」
床に落ちた瓶とグラスは砕け、ジェーンが倒れこむ瞬間に飛び散った破片を掌に受けてしまった。
深く掌に食い込んだ大きな破片の隙間から血が吹き出すが、それでも今のジェーンにはどうでもいいことだった。
痛みなどまるで感じていないかのようにマントを急いで被り、震え出血する手を壁に預けて何とか立ち上がった。
何とか自室の扉を開けると、廊下は静けさに満ちていて、とても人が通る雰囲気はなかった。
ジェーンの自室は2階にあり、一度赤い絨毯の敷かれた広い階段を降りなければ、馬の常備されている裏庭の方には行けないのだが、その階段を降りることが今のジェーンには難題だった。
こんな老婆の様な足腰で階段なんて下れないと怖気付きそうになる。
しかし降りなければ逃げられないためジェーンは傷を負った手を強く握り締めて階段の麓まで全力を使ってよろよろと進んだ。
一度深呼吸をして一段足を降ろす。
しかし降りる動作は考える以上に筋力を使うらしく、大きく傾きそうになり慌てて側の手摺に掴まった。
「だいじょ…ぶ。だいじょうぶ……」
自分を一生懸命励まして、再び足を前に出した。
しかしそこでも身体は身構えていたにも関わらず大きく傾いてしまう。
また慌てて手摺を掴もうと手を伸ばすも、付着している血液で手が滑り重心を大きく失った。
ジェーンはそのまま掴まる物もなく重力に逆らえないまま足を踏み外し、階段を転げ落ちる。
その間ジェーンの中に思考はほとんどなく、意思とは関係なく本能で胎に怪我が及ばないようにと自分を抱きしめる形で手を伸ばす。
しかし階段の鋭利な角度ではなく突如何か柔らかく暖かいものに激突し、ジェーンの身体は無傷で受け止められた。
「だ、大丈夫、でしょうか?!」
そして頭上から降ってきた久しぶりの他人の声に、誰かにぶつかってしまったのだと漸く理解することが出来た。
誰かに会ってしまったらもう逃げられなくなってしまう。
急いで退いて逃げよう。
けれど見回りの護衛だったら終わりだ。
どう切り抜ければいいのか。
気が動転したジェーンはマントで隠れた視界からやっと顔を上げ、ジェーンは目を力一杯に見開いた。
「……!」
そしてジェーンを受け止めた人物もこれでもかと言うほど目を見開いていた。
「ジェーン、様…」
階段下には先程シムが持っていた本達が散らばり月光に照らされていた。
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