1 / 3
第1話:月読翻訳店の小夜と、言えなかった「ありがとう」
しおりを挟む
夕暮れの茜色が、古い石畳の路地を微かに照らし出す頃。かつて宿場町として賑わった面影を残す旧街道から一本入ったその場所に、「月読(つきよみ)翻訳店」はひっそりと佇んでいた。磨りガラスの嵌った木製の引き戸には、控えめな真鍮のプレート。「あなたの想い、言葉にします」という小さな文字が、夕闇に浮かび上がるランプの灯りに照らされている。
店主の結城小夜(ゆうきさよ)は、店の奥にあるデスクで、万年筆のペン先を静かに整えていた。歳の頃は二十代後半だろうか。墨色のシンプルなワンピースに身を包み、長い黒髪を低い位置で一つに束ねている。物静かで、どこか捉えどころのない雰囲気を漂わせているが、澄んだ瞳の奥には、深い洞察力と、言葉に対する敬虔なまでの想いが宿っていた。
彼女の仕事は、いわゆる外国語の翻訳ではない。訪れる人々が胸に抱えながらも、うまく言葉にできない「想い」や「感情」を丁寧に聞き取り、それを手紙や詩、あるいは短いメッセージという形に「翻訳」すること。それが、この月読翻訳店の、そして結城小夜の生業だった。
店内は、決して広くはないが、不思議と落ち着く空気に満ちていた。壁一面には古今東西の詩集や物語が並び、使い込まれた調度品は深い飴色に艶めいている。様々な色合いのインク瓶、質感の異なる便箋やカード、そしてアンティークの封蝋セット。それら一つ一つが、小夜の言葉へのこだわりを物語っているようだった。
カラン、と控えめなドアベルの音が鳴り、小夜は顔を上げた。
入ってきたのは、背広をきちんと着こなした、七十歳くらいの上品な老紳士だった。だが、その表情からは、どこか弱々しさが感じられた。
「いらっしゃいませ」
「…こちらで、言葉にしてくださると、伺ったもので…」
そう切り出す、やや緊張した面持ちの老紳士――高橋と名乗った――に微笑みかけると、小夜は、彼を店の奥にある小さなテーブルへといざなった。
温かいハーブティーを差し出すと、高橋さんは、それをゆっくりと口に含んだ。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。数ヶ月前に、長年連れ添った妻・文子さんを病で亡くしたこと。突然のことで、心の準備もできていなかったこと。何より、照れくささから、生前の妻へ感謝の言葉を伝えずにいた自分への、深い後悔を。
「妻はね、いつも私のことを気遣ってくれる、太陽みたいな人だったんです。私が仕事で疲れて帰ると、何も言わずに温かいお茶と、好物の羊羹を出してくれてね。庭の花の手入れも好きで、いつも家の中には季節の花が飾ってあった。それが当たり前だと思っていた私は、ろくに『ありがとう』も言えずに…」
高橋さんは、時折言葉に詰まり、その目にうっすらと涙を浮かべている。小夜は、ただ黙って、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けていた。彼の言葉の端々からは、文子さんへの深い愛情と、言葉にできなかった想いの切実さが、痛いほどに伝わってきた。
(伝えられなかった、言葉…)
小夜自身の胸の奥に、チクリとした痛みが走る。彼女にもあったのだ。大切な人に、どうしても伝えられなかった言葉が。そして、その言葉を伝える機会は、永遠に失われてしまったという、消えない後悔が。高橋さんの悲しみに、自身の経験が折り重なっていく。
「何か…何か、あいつに、この気持ちを伝える方法はないものかと…」
まるで絞り出すかのような声の高橋さんへ、小夜は言葉を掛ける。
「奥様への想い、私に『翻訳』させていただけないでしょうか。お手紙という形で、奥様のお好きだったお花や色、お二人の思い出の場所などを織り交ぜながら、高橋さんの今の素直なお気持ちを、言葉に紡いでみたいのです」
小夜の提案に顔を上げた高橋さんは、真摯な瞳の小夜を捉えると、深々と頭を下げた。
「…お願いします」
高橋さんが帰った後、小夜は一人、デスクで深く息をついた。窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれ、三日月が静かに光を投げかけている。
高橋さんから聞いた文子さんの人となりを、小夜は丁寧にメモに書き出していく。明るく、花が好きで、少しおっちょこちょいなところもあったという文子さん。二人が初めて出会ったのは、春霞のかかる公園だったこと。新婚旅行で訪れた京都の紅葉の美しさ。そして、高橋さんが一番好きだったという、彼女の淹れるお茶の温かさ。
それらの断片を繋ぎ合わせながら、小夜は文子さんへの手紙の構成を練っていく。それは、まるで失われたパズルのピースを一つ一つ見つけ出し、元の美しい絵に戻していくような、繊細で根気のいる作業だった。
月を型どったランプが、デスクを優しく照らす。小夜は、お気に入りの深い藍色のインクを万年筆に吸わせると、そっと上質な和紙の便箋に向かった。
『愛する文子へ。君がいなくなってから、初めて気づいたことがたくさんあるんだ…』
紡ぎ出される言葉は、決して流麗なものではないかもしれない。けれど、そこには高橋さんの偽らざる想いと、文子さんへの深い愛情が、息づいていた。小夜は、ただその想いを掬い上げ、最も美しい形に整える水先案内人に過ぎない。
数日後。完成した手紙を受け取りに来た高橋さんは、小夜が差し出した薄紫色の封筒を手にした。そして、ひとつ深呼吸すると、その場でゆっくりと便箋を広げ、一文字一文字を噛みしめるように読み始めた。
やがて、彼の肩が小さく震え始め、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「…ありがとう。本当に、ありがとう、結城さん。これで…これで、あいつもきっと、私の気持ちを分かってくれるでしょう…」
嗚咽混じりの感謝の言葉。小夜は、ただ静かに頷いて、彼にハンカチを差し出した。
高橋さんが、少しだけ軽くなったような足取りで店を後にするのを見送りながら、小夜は胸の奥に広がる温かい感覚と、それとは裏腹の、自身の過去への微かな疼きを感じていた。
言葉にすることで救われる想いがある。けれど、言葉にできなかった想いは、どこへ行くのだろう。
月読翻訳店のランプの灯りは、今宵もまた、迷子の言葉たちを優しく照らし続けていた。
店主の結城小夜(ゆうきさよ)は、店の奥にあるデスクで、万年筆のペン先を静かに整えていた。歳の頃は二十代後半だろうか。墨色のシンプルなワンピースに身を包み、長い黒髪を低い位置で一つに束ねている。物静かで、どこか捉えどころのない雰囲気を漂わせているが、澄んだ瞳の奥には、深い洞察力と、言葉に対する敬虔なまでの想いが宿っていた。
彼女の仕事は、いわゆる外国語の翻訳ではない。訪れる人々が胸に抱えながらも、うまく言葉にできない「想い」や「感情」を丁寧に聞き取り、それを手紙や詩、あるいは短いメッセージという形に「翻訳」すること。それが、この月読翻訳店の、そして結城小夜の生業だった。
店内は、決して広くはないが、不思議と落ち着く空気に満ちていた。壁一面には古今東西の詩集や物語が並び、使い込まれた調度品は深い飴色に艶めいている。様々な色合いのインク瓶、質感の異なる便箋やカード、そしてアンティークの封蝋セット。それら一つ一つが、小夜の言葉へのこだわりを物語っているようだった。
カラン、と控えめなドアベルの音が鳴り、小夜は顔を上げた。
入ってきたのは、背広をきちんと着こなした、七十歳くらいの上品な老紳士だった。だが、その表情からは、どこか弱々しさが感じられた。
「いらっしゃいませ」
「…こちらで、言葉にしてくださると、伺ったもので…」
そう切り出す、やや緊張した面持ちの老紳士――高橋と名乗った――に微笑みかけると、小夜は、彼を店の奥にある小さなテーブルへといざなった。
温かいハーブティーを差し出すと、高橋さんは、それをゆっくりと口に含んだ。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。数ヶ月前に、長年連れ添った妻・文子さんを病で亡くしたこと。突然のことで、心の準備もできていなかったこと。何より、照れくささから、生前の妻へ感謝の言葉を伝えずにいた自分への、深い後悔を。
「妻はね、いつも私のことを気遣ってくれる、太陽みたいな人だったんです。私が仕事で疲れて帰ると、何も言わずに温かいお茶と、好物の羊羹を出してくれてね。庭の花の手入れも好きで、いつも家の中には季節の花が飾ってあった。それが当たり前だと思っていた私は、ろくに『ありがとう』も言えずに…」
高橋さんは、時折言葉に詰まり、その目にうっすらと涙を浮かべている。小夜は、ただ黙って、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けていた。彼の言葉の端々からは、文子さんへの深い愛情と、言葉にできなかった想いの切実さが、痛いほどに伝わってきた。
(伝えられなかった、言葉…)
小夜自身の胸の奥に、チクリとした痛みが走る。彼女にもあったのだ。大切な人に、どうしても伝えられなかった言葉が。そして、その言葉を伝える機会は、永遠に失われてしまったという、消えない後悔が。高橋さんの悲しみに、自身の経験が折り重なっていく。
「何か…何か、あいつに、この気持ちを伝える方法はないものかと…」
まるで絞り出すかのような声の高橋さんへ、小夜は言葉を掛ける。
「奥様への想い、私に『翻訳』させていただけないでしょうか。お手紙という形で、奥様のお好きだったお花や色、お二人の思い出の場所などを織り交ぜながら、高橋さんの今の素直なお気持ちを、言葉に紡いでみたいのです」
小夜の提案に顔を上げた高橋さんは、真摯な瞳の小夜を捉えると、深々と頭を下げた。
「…お願いします」
高橋さんが帰った後、小夜は一人、デスクで深く息をついた。窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれ、三日月が静かに光を投げかけている。
高橋さんから聞いた文子さんの人となりを、小夜は丁寧にメモに書き出していく。明るく、花が好きで、少しおっちょこちょいなところもあったという文子さん。二人が初めて出会ったのは、春霞のかかる公園だったこと。新婚旅行で訪れた京都の紅葉の美しさ。そして、高橋さんが一番好きだったという、彼女の淹れるお茶の温かさ。
それらの断片を繋ぎ合わせながら、小夜は文子さんへの手紙の構成を練っていく。それは、まるで失われたパズルのピースを一つ一つ見つけ出し、元の美しい絵に戻していくような、繊細で根気のいる作業だった。
月を型どったランプが、デスクを優しく照らす。小夜は、お気に入りの深い藍色のインクを万年筆に吸わせると、そっと上質な和紙の便箋に向かった。
『愛する文子へ。君がいなくなってから、初めて気づいたことがたくさんあるんだ…』
紡ぎ出される言葉は、決して流麗なものではないかもしれない。けれど、そこには高橋さんの偽らざる想いと、文子さんへの深い愛情が、息づいていた。小夜は、ただその想いを掬い上げ、最も美しい形に整える水先案内人に過ぎない。
数日後。完成した手紙を受け取りに来た高橋さんは、小夜が差し出した薄紫色の封筒を手にした。そして、ひとつ深呼吸すると、その場でゆっくりと便箋を広げ、一文字一文字を噛みしめるように読み始めた。
やがて、彼の肩が小さく震え始め、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「…ありがとう。本当に、ありがとう、結城さん。これで…これで、あいつもきっと、私の気持ちを分かってくれるでしょう…」
嗚咽混じりの感謝の言葉。小夜は、ただ静かに頷いて、彼にハンカチを差し出した。
高橋さんが、少しだけ軽くなったような足取りで店を後にするのを見送りながら、小夜は胸の奥に広がる温かい感覚と、それとは裏腹の、自身の過去への微かな疼きを感じていた。
言葉にすることで救われる想いがある。けれど、言葉にできなかった想いは、どこへ行くのだろう。
月読翻訳店のランプの灯りは、今宵もまた、迷子の言葉たちを優しく照らし続けていた。
0
あなたにおすすめの小説
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
12年目の恋物語
真矢すみれ
恋愛
生まれつき心臓の悪い少女陽菜(はるな)と、12年間同じクラス、隣の家に住む幼なじみの男の子叶太(かなた)は学校公認カップルと呼ばれるほどに仲が良く、同じ時間を過ごしていた。
だけど、陽菜はある日、叶太が自分の身体に責任を感じて、ずっと一緒にいてくれるのだと知り、叶太から離れることを決意をする。
すれ違う想い。陽菜を好きな先輩の出現。二人を見守り、何とか想いが通じるようにと奔走する友人たち。
2人が結ばれるまでの物語。
第一部「12年目の恋物語」完結
第二部「13年目のやさしい願い」完結
第三部「14年目の永遠の誓い」←順次公開中
※ベリーズカフェと小説家になろうにも公開しています。
【if/番外編】昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、夢の中で僕と結婚する
子犬一 はぁて
BL
※本作は「昔『結婚しよう』と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する」のif(番外編)です。
僕と幼馴染が結婚した「夢」を見た受けの話。
ずっと好きだった幼馴染が女性と結婚した夜に見た僕の夢──それは幼馴染と僕が結婚するもしもの世界。
想うだけなら許されるかな。
夢の中でだけでも救われたかった僕の話。
愛のかたち
凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。
ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は……
情けない男の不器用な愛。
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる