迷子の言葉と、月夜の小さな翻訳屋さん~あなたの想い、私が届けます~

藤森瑠璃香

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第1話:月読翻訳店の小夜と、言えなかった「ありがとう」

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 夕暮れの茜色が、古い石畳の路地を微かに照らし出す頃。かつて宿場町として賑わった面影を残す旧街道から一本入ったその場所に、「月読(つきよみ)翻訳店」はひっそりと佇んでいた。磨りガラスの嵌った木製の引き戸には、控えめな真鍮のプレート。「あなたの想い、言葉にします」という小さな文字が、夕闇に浮かび上がるランプの灯りに照らされている。

 店主の結城小夜(ゆうきさよ)は、店の奥にあるデスクで、万年筆のペン先を静かに整えていた。歳の頃は二十代後半だろうか。墨色のシンプルなワンピースに身を包み、長い黒髪を低い位置で一つに束ねている。物静かで、どこか捉えどころのない雰囲気を漂わせているが、澄んだ瞳の奥には、深い洞察力と、言葉に対する敬虔なまでの想いが宿っていた。
 彼女の仕事は、いわゆる外国語の翻訳ではない。訪れる人々が胸に抱えながらも、うまく言葉にできない「想い」や「感情」を丁寧に聞き取り、それを手紙や詩、あるいは短いメッセージという形に「翻訳」すること。それが、この月読翻訳店の、そして結城小夜の生業だった。

 店内は、決して広くはないが、不思議と落ち着く空気に満ちていた。壁一面には古今東西の詩集や物語が並び、使い込まれた調度品は深い飴色に艶めいている。様々な色合いのインク瓶、質感の異なる便箋やカード、そしてアンティークの封蝋セット。それら一つ一つが、小夜の言葉へのこだわりを物語っているようだった。

 カラン、と控えめなドアベルの音が鳴り、小夜は顔を上げた。
 入ってきたのは、背広をきちんと着こなした、七十歳くらいの上品な老紳士だった。だが、その表情からは、どこか弱々しさが感じられた。

「いらっしゃいませ」
「…こちらで、言葉にしてくださると、伺ったもので…」
 そう切り出す、やや緊張した面持ちの老紳士――高橋と名乗った――に微笑みかけると、小夜は、彼を店の奥にある小さなテーブルへといざなった。

 温かいハーブティーを差し出すと、高橋さんは、それをゆっくりと口に含んだ。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。数ヶ月前に、長年連れ添った妻・文子さんを病で亡くしたこと。突然のことで、心の準備もできていなかったこと。何より、照れくささから、生前の妻へ感謝の言葉を伝えずにいた自分への、深い後悔を。

「妻はね、いつも私のことを気遣ってくれる、太陽みたいな人だったんです。私が仕事で疲れて帰ると、何も言わずに温かいお茶と、好物の羊羹を出してくれてね。庭の花の手入れも好きで、いつも家の中には季節の花が飾ってあった。それが当たり前だと思っていた私は、ろくに『ありがとう』も言えずに…」
 高橋さんは、時折言葉に詰まり、その目にうっすらと涙を浮かべている。小夜は、ただ黙って、彼の言葉の一つ一つに耳を傾けていた。彼の言葉の端々からは、文子さんへの深い愛情と、言葉にできなかった想いの切実さが、痛いほどに伝わってきた。

(伝えられなかった、言葉…)

 小夜自身の胸の奥に、チクリとした痛みが走る。彼女にもあったのだ。大切な人に、どうしても伝えられなかった言葉が。そして、その言葉を伝える機会は、永遠に失われてしまったという、消えない後悔が。高橋さんの悲しみに、自身の経験が折り重なっていく。

「何か…何か、あいつに、この気持ちを伝える方法はないものかと…」
 まるで絞り出すかのような声の高橋さんへ、小夜は言葉を掛ける。
「奥様への想い、私に『翻訳』させていただけないでしょうか。お手紙という形で、奥様のお好きだったお花や色、お二人の思い出の場所などを織り交ぜながら、高橋さんの今の素直なお気持ちを、言葉に紡いでみたいのです」 
小夜の提案に顔を上げた高橋さんは、真摯な瞳の小夜を捉えると、深々と頭を下げた。
「…お願いします」

 高橋さんが帰った後、小夜は一人、デスクで深く息をついた。窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれ、三日月が静かに光を投げかけている。
 高橋さんから聞いた文子さんの人となりを、小夜は丁寧にメモに書き出していく。明るく、花が好きで、少しおっちょこちょいなところもあったという文子さん。二人が初めて出会ったのは、春霞のかかる公園だったこと。新婚旅行で訪れた京都の紅葉の美しさ。そして、高橋さんが一番好きだったという、彼女の淹れるお茶の温かさ。
 それらの断片を繋ぎ合わせながら、小夜は文子さんへの手紙の構成を練っていく。それは、まるで失われたパズルのピースを一つ一つ見つけ出し、元の美しい絵に戻していくような、繊細で根気のいる作業だった。

 月を型どったランプが、デスクを優しく照らす。小夜は、お気に入りの深い藍色のインクを万年筆に吸わせると、そっと上質な和紙の便箋に向かった。
『愛する文子へ。君がいなくなってから、初めて気づいたことがたくさんあるんだ…』
 紡ぎ出される言葉は、決して流麗なものではないかもしれない。けれど、そこには高橋さんの偽らざる想いと、文子さんへの深い愛情が、息づいていた。小夜は、ただその想いを掬い上げ、最も美しい形に整える水先案内人に過ぎない。

 数日後。完成した手紙を受け取りに来た高橋さんは、小夜が差し出した薄紫色の封筒を手にした。そして、ひとつ深呼吸すると、その場でゆっくりと便箋を広げ、一文字一文字を噛みしめるように読み始めた。
 やがて、彼の肩が小さく震え始め、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「…ありがとう。本当に、ありがとう、結城さん。これで…これで、あいつもきっと、私の気持ちを分かってくれるでしょう…」
 嗚咽混じりの感謝の言葉。小夜は、ただ静かに頷いて、彼にハンカチを差し出した。

 高橋さんが、少しだけ軽くなったような足取りで店を後にするのを見送りながら、小夜は胸の奥に広がる温かい感覚と、それとは裏腹の、自身の過去への微かな疼きを感じていた。
 言葉にすることで救われる想いがある。けれど、言葉にできなかった想いは、どこへ行くのだろう。
 月読翻訳店のランプの灯りは、今宵もまた、迷子の言葉たちを優しく照らし続けていた。
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