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第2話:迷子の恋文と、小夜の決心
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高橋さんの奥様への手紙を「翻訳」してから、数週間が過ぎた。あの出来事は、私の心にも温かい余韻を残してくれたが、自身の内に仕舞い込んだままの言葉たちへの意識を揺り動かしていた。そんなある日の午後、月読翻訳店のドアベルが、少し遠慮がちな音を立てて鳴った。
「いらっしゃいませ」
私が顔を上げると、そこに立っていたのは、二十歳を少し過ぎたばかりだろうか、Tシャツにジーンズというラフな服装の青年だった。大きなリュックサックを背負い、手に持ったヘルメットから察するに、自転車で来たのかもしれない。彼は、店の中をぐるりと見回ると、おずおずと私に声をかけてきた。
「あの…こちらで、手紙とか、書いてもらえるって…聞きました」
彼の名は、相川健太くんと言った。話を聞けば、彼は同じアルバイト先の先輩である女性に、もう一年以上も片思いをしているのだという。
「彼女は、本当に優しくて、いつも笑顔で…仕事もテキパキこなすし、周りへの気配りもできる、すごく素敵な人なんです。でも、僕なんかじゃ釣り合わないって分かってるし、もし断られたらって思うと、何も言えなくて…」
健太くんは、早口で一気にまくし立てる。
(恋の、迷子さん…)
私は、彼の言葉に静かに耳を傾けながら、また胸の奥が、小さく疼くのを感じていた。恋愛に関する「翻訳」。それは、私が少しだけ苦手意識を持っている分野だった。自身の過去、伝えられなかった初恋の苦い記憶が、どうしても甦ってきてしまうからだ。
それでも、目の前の健太くんの真剣な眼差しを見ていると、何とか力になりたいという気持ちが湧き上がってくる。
「彼女のどんなところに、一番惹かれるのですか?」
私の問いに、健太くんは顔を上げ、堰を切ったように彼女の魅力を語り始めた。仕事で失敗して落ち込んでいた時にさりげなく励ましてくれたこと。動物が好きで、道端の猫にも優しく話しかけていたこと。時折見せるおっちょこちょいな一面が、たまらなく可愛いこと。その瞳はキラキラと輝き、彼の言葉の一つ一つから、彼女への愛情が溢れ出ているようだった。
そんな彼の話を聞きながら、私は、彼のためにどんな言葉を紡げば、彼の本当の気持ちが、誤解されることなく、そして相手の負担にならないように伝わるのだろうか、と思いを巡らせた。
その時、店のドアベルが再び鳴った。入ってきたのは、以前依頼に来てくださった高橋さんだった。手には、小さな可愛らしい花束を抱えている。
「結城さん、この間は本当にありがとう。妻も、きっと喜んでくれたと思うよ」
高橋さんは、以前よりもずっと穏やかで、晴れやかな表情をしていた。仏壇に私が「翻訳」した手紙を供え、毎日妻に語りかけているのだという。
「言葉にすることで、自分の気持ちも整理できたし、何だか…妻がすぐそばにいてくれるような気がするんだ。本当に、感謝しています」
そう言って微笑む高橋さんの姿に、私は改めて、言葉の持つ力と、自分の仕事の意義を強く感じた。そして、目の前の健太くんのためにも、心を込めて言葉を紡ごうと、決意を新たにした。
高橋さんが帰った後、私は健太くんに向き直った。
「健太さん。あなたの彼女への想いは、とても素敵で、そして誠実なものだと感じました。だからこそ、ストレートな告白の言葉だけでなく、あなたのお人柄が伝わるような、ささやかな贈り物を添えてみてはいかがでしょう」
「贈り物…ですか?」
「はい。例えば、彼女が好きだと言っていた音楽や本にちなんだ短い詩を添えたカードとか、あるいは、彼女の好きな花を一輪、あなたの言葉と一緒に渡してみるとか」
私は、いくつかの提案をしながら、健太くんの反応を注意深く見守った。彼は、真剣な表情で私の言葉に耳を傾けている。
「言葉は、想いを伝えるための大切な道具です。でも、時にはそれが鋭い刃になってしまうこともある。だからこそ、言葉を選ぶときには、相手への思いやりと、そして少しの勇気が必要なのだと思います。あなたの言葉が、彼女にとって優しい贈り物になるように、お手伝いさせてください」
その言葉に、泣きそうな顔の健太くんは、短い返事をし、そして大きく頷いた。
私は健太くんのために、彼が語った彼女の好きなものや、二人の間にあった小さなエピソードを織り交ぜた、数行の短い詩を考えた。それは、決して派手な言葉ではないけれど、健太くんの純粋な想いと、彼女への優しい眼差しが伝わるような、温かい言葉たちだった。そして、それを手書きで小さなカードに記し、彼女が好きだと思われる、勿忘草(わすれなぐさ)の押し花を一枚だけ添えた。
「…ありがとうございます、結城さん。僕、これで、頑張ってみます」
数日後、完成したメッセージカードを受け取った健太くんは、どこか吹っ切れたような、そして少しだけ希望に満ちた表情をしていた。彼の恋がどうなるかは分からない。でも、彼は確かに、一歩踏み出す勇気を得たのだ。
(私も…何か、できることがあるのかもしれない)
その姿を見送りながら、私は、心の中に芽生えていた気持ちと、向き合おうとしていた。
心の奥底にしまい込んでいた、古い木箱。その中に入っている、開けられずにいた数通の手紙。それらと向き合う時が、ようやく来たのだ。
それは、月読翻訳店の窓辺に差し込む月明かりが、いつもより少しだけ、明るく感じられた夜だった。
「いらっしゃいませ」
私が顔を上げると、そこに立っていたのは、二十歳を少し過ぎたばかりだろうか、Tシャツにジーンズというラフな服装の青年だった。大きなリュックサックを背負い、手に持ったヘルメットから察するに、自転車で来たのかもしれない。彼は、店の中をぐるりと見回ると、おずおずと私に声をかけてきた。
「あの…こちらで、手紙とか、書いてもらえるって…聞きました」
彼の名は、相川健太くんと言った。話を聞けば、彼は同じアルバイト先の先輩である女性に、もう一年以上も片思いをしているのだという。
「彼女は、本当に優しくて、いつも笑顔で…仕事もテキパキこなすし、周りへの気配りもできる、すごく素敵な人なんです。でも、僕なんかじゃ釣り合わないって分かってるし、もし断られたらって思うと、何も言えなくて…」
健太くんは、早口で一気にまくし立てる。
(恋の、迷子さん…)
私は、彼の言葉に静かに耳を傾けながら、また胸の奥が、小さく疼くのを感じていた。恋愛に関する「翻訳」。それは、私が少しだけ苦手意識を持っている分野だった。自身の過去、伝えられなかった初恋の苦い記憶が、どうしても甦ってきてしまうからだ。
それでも、目の前の健太くんの真剣な眼差しを見ていると、何とか力になりたいという気持ちが湧き上がってくる。
「彼女のどんなところに、一番惹かれるのですか?」
私の問いに、健太くんは顔を上げ、堰を切ったように彼女の魅力を語り始めた。仕事で失敗して落ち込んでいた時にさりげなく励ましてくれたこと。動物が好きで、道端の猫にも優しく話しかけていたこと。時折見せるおっちょこちょいな一面が、たまらなく可愛いこと。その瞳はキラキラと輝き、彼の言葉の一つ一つから、彼女への愛情が溢れ出ているようだった。
そんな彼の話を聞きながら、私は、彼のためにどんな言葉を紡げば、彼の本当の気持ちが、誤解されることなく、そして相手の負担にならないように伝わるのだろうか、と思いを巡らせた。
その時、店のドアベルが再び鳴った。入ってきたのは、以前依頼に来てくださった高橋さんだった。手には、小さな可愛らしい花束を抱えている。
「結城さん、この間は本当にありがとう。妻も、きっと喜んでくれたと思うよ」
高橋さんは、以前よりもずっと穏やかで、晴れやかな表情をしていた。仏壇に私が「翻訳」した手紙を供え、毎日妻に語りかけているのだという。
「言葉にすることで、自分の気持ちも整理できたし、何だか…妻がすぐそばにいてくれるような気がするんだ。本当に、感謝しています」
そう言って微笑む高橋さんの姿に、私は改めて、言葉の持つ力と、自分の仕事の意義を強く感じた。そして、目の前の健太くんのためにも、心を込めて言葉を紡ごうと、決意を新たにした。
高橋さんが帰った後、私は健太くんに向き直った。
「健太さん。あなたの彼女への想いは、とても素敵で、そして誠実なものだと感じました。だからこそ、ストレートな告白の言葉だけでなく、あなたのお人柄が伝わるような、ささやかな贈り物を添えてみてはいかがでしょう」
「贈り物…ですか?」
「はい。例えば、彼女が好きだと言っていた音楽や本にちなんだ短い詩を添えたカードとか、あるいは、彼女の好きな花を一輪、あなたの言葉と一緒に渡してみるとか」
私は、いくつかの提案をしながら、健太くんの反応を注意深く見守った。彼は、真剣な表情で私の言葉に耳を傾けている。
「言葉は、想いを伝えるための大切な道具です。でも、時にはそれが鋭い刃になってしまうこともある。だからこそ、言葉を選ぶときには、相手への思いやりと、そして少しの勇気が必要なのだと思います。あなたの言葉が、彼女にとって優しい贈り物になるように、お手伝いさせてください」
その言葉に、泣きそうな顔の健太くんは、短い返事をし、そして大きく頷いた。
私は健太くんのために、彼が語った彼女の好きなものや、二人の間にあった小さなエピソードを織り交ぜた、数行の短い詩を考えた。それは、決して派手な言葉ではないけれど、健太くんの純粋な想いと、彼女への優しい眼差しが伝わるような、温かい言葉たちだった。そして、それを手書きで小さなカードに記し、彼女が好きだと思われる、勿忘草(わすれなぐさ)の押し花を一枚だけ添えた。
「…ありがとうございます、結城さん。僕、これで、頑張ってみます」
数日後、完成したメッセージカードを受け取った健太くんは、どこか吹っ切れたような、そして少しだけ希望に満ちた表情をしていた。彼の恋がどうなるかは分からない。でも、彼は確かに、一歩踏み出す勇気を得たのだ。
(私も…何か、できることがあるのかもしれない)
その姿を見送りながら、私は、心の中に芽生えていた気持ちと、向き合おうとしていた。
心の奥底にしまい込んでいた、古い木箱。その中に入っている、開けられずにいた数通の手紙。それらと向き合う時が、ようやく来たのだ。
それは、月読翻訳店の窓辺に差し込む月明かりが、いつもより少しだけ、明るく感じられた夜だった。
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