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第九話:水底の慟哭、破邪の独鈷
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夜の闇が川面を漆黒に染め上げ、深い淵のあたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。月明かりだけが頼りの川辺で、朱音(あかね)は役小角(えんのおづぬ)様と義王(ぎおう)と共に、息を潜めてその時を待っていた。冷たい川風が、朱音の不安を煽るように吹き抜けていく。
「集中しろ、朱音。奴が動き出す気配だ」
役小角様の低い声が、緊張感をさらに高める。義王は既に臨戦態勢に入っており、その金色の瞳は闇の向こう、川の最も深い場所を鋭く見据えている。
朱音は言われた通り、意識を集中させた。鬼の血が騒ぎ、赤い瞳が常人には見えぬものを捉えようとする。ぞわり、と肌が粟立つような冷たい気配。それは、昨日から感じていた淀んだ妖気とは明らかに違う、明確な意思を持った禍々しい波動だった。
「……来ます!」朱音は声を震わせた。「あの淵の、一番深い、水底から……!」
その言葉を裏付けるように、静かだった淵の水面が、不意に波紋を広げた。そして、ゆらり、と黒い影が水底から浮かび上がってくる。
現れたのは、白い濡れ衣を纏った、女の姿だった。長く黒い髪は水草のようにゆらめき、顔は月光に照らされて青白く、生気がない。虚ろな瞳が、岸辺に立つ一行を捉えた。その姿は、哀れでもあり、同時にぞっとするほど恐ろしい。【淵女(ふちめ)】――村人たちが恐れる妖が、ついにその姿を現したのだ。
淵女は、まるで誘うかのように、ゆっくりと岸辺へと近づいてくる。水面を滑るように移動し、その手には、水底から引き抜いたらしい水草が絡みついている。その虚ろな瞳が、純粋な気を放つ朱音に向けられた瞬間、役小角様が短く命じた。
「義王、引きずり出せ。水底から離せば、力は半減するはずだ」
「御意」
義王は一瞬のためらいもなく、音もなく川へと飛び込んだ。水飛沫が上がり、その屈強な体が闇色の水中に消える。水中でも、彼の動きは陸上と変わらぬほど俊敏だった。淵女は驚いたように身を翻し、長い髪や水流を操って抵抗を試みるが、義王の力の前には無力だった。
義王は、水中を逃げ惑う淵女の細い腕を正確に掴むと、有無を言わせぬ力で岸辺へと引きずり上げていく。
「き、きぃぃぃぃぃ……っ!」
淵女が甲高い、耳障りな悲鳴を上げた。
岸に引きずり上げられ、水から離れたことで力が弱まったのか、淵女は苦しげに身悶えている。その哀れな姿に、朱音は思わず目を背けそうになった。
そこへ、役小角様が一歩前に進み出た。いつの間にか、その右手には鈍い金属光沢を放つ法具が握られている。両端が鋭く尖り、中央部分が握りやすいように設えられた、短い金属製の法具――独鈷杵(とっこしょ)。それ自体が強い法力を帯びているのか、月光を浴びて冷たく、神聖な光を放っているように見えた。
「哀れな水の亡者め。子供への執着が、貴様を妖へと変えたか」役小角様は独鈷杵を静かに構え、低い声で告げる。「だが、これ以上罪なき命を奪うことは許さん」
彼は印を結び、真言を唱え始めた。その声と共に、独鈷杵が淡い光を帯びていく。
「オン・アビラウンケン・バザラ・ダトバン……!」
淵女は、その法力に苦しむように身を捩らせ、怨嗟に満ちた虚ろな瞳で一行を睨みつけた。その瞬間、朱音の脳裏に、奔流のような感情が流れ込んできた。
(悲しい……寂しい……あの子はどこ……? 私の子供……返して……!)
それは、子供を失った母親の、慟哭にも似た深い悲しみと、狂おしいまでの執着だった。淵女は、生前、川で我が子を亡くした母親だったのかもしれない。そして、その悲しみが癒えぬまま、子供を求める強い想いが、彼女を妖へと変えてしまったのだ。
「役小角様っ!」朱音は思わず叫んでいた。「この人は……ただ、寂しかっただけなんです! 子供に……会いたかっただけなんです……!」
役小角様は、真言を唱えながら、ちらりと朱音に視線を向けた。その瞳には何の揺らぎもない。
「……ならば、尚のことだ。その歪んだ執着から解き放ち、本来還るべき安らかなる場所へ送ってやらねばなるまい」
彼の声は、冷たく聞こえたけれど、それは彼なりの慈悲なのかもしれないと、朱音は思った。
「オン・バザラ・ギニ・ハラチハタヤ・ソワカ!」
役小角様は、浄化の真言と共に、独鈷杵を淵女へと突き出した。法具の先端から放たれたのは、穢れを祓う、眩いばかりの清浄な光だった。
光に包まれた淵女の苦悶の表情が、ふっと和らいだように見えた。まるで、長年の苦しみからようやく解放されたかのように、その顔には穏やかささえ浮かんでいるように感じられた。
やがて光が収まると、そこにはもう淵女の姿はなく、彼女が手にしていたらしい、濡れた水草が数本残されているだけだった。禍々しい妖気は完全に消え失せ、川辺には静寂が戻っていた。
夜が明け、村には安堵の空気が広がった。村長をはじめ、村人たちは役小角様たちに何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べた。もう、淵女に怯える夜は来ないだろう。
けれど、行方不明になった子供たちが帰ってくるわけではない。村には、喜びと共に、失われた命への静かな哀しみが満ちていた。
一行は、村人たちに見送られ、再び旅路へと戻った。
朱音は、最後に見た淵女の穏やかな表情を思い出していた。彼女は、安らかになれたのだろうか。そして、自分の中に流れる鬼の血もまた、いつか誰かを傷つけ、悲しませるのではないか。そんな拭いきれない不安と、妖を祓うという役小角様の行為の重さを感じながら、朱音は黙って前を歩く二つの背中を追いかけた。
「集中しろ、朱音。奴が動き出す気配だ」
役小角様の低い声が、緊張感をさらに高める。義王は既に臨戦態勢に入っており、その金色の瞳は闇の向こう、川の最も深い場所を鋭く見据えている。
朱音は言われた通り、意識を集中させた。鬼の血が騒ぎ、赤い瞳が常人には見えぬものを捉えようとする。ぞわり、と肌が粟立つような冷たい気配。それは、昨日から感じていた淀んだ妖気とは明らかに違う、明確な意思を持った禍々しい波動だった。
「……来ます!」朱音は声を震わせた。「あの淵の、一番深い、水底から……!」
その言葉を裏付けるように、静かだった淵の水面が、不意に波紋を広げた。そして、ゆらり、と黒い影が水底から浮かび上がってくる。
現れたのは、白い濡れ衣を纏った、女の姿だった。長く黒い髪は水草のようにゆらめき、顔は月光に照らされて青白く、生気がない。虚ろな瞳が、岸辺に立つ一行を捉えた。その姿は、哀れでもあり、同時にぞっとするほど恐ろしい。【淵女(ふちめ)】――村人たちが恐れる妖が、ついにその姿を現したのだ。
淵女は、まるで誘うかのように、ゆっくりと岸辺へと近づいてくる。水面を滑るように移動し、その手には、水底から引き抜いたらしい水草が絡みついている。その虚ろな瞳が、純粋な気を放つ朱音に向けられた瞬間、役小角様が短く命じた。
「義王、引きずり出せ。水底から離せば、力は半減するはずだ」
「御意」
義王は一瞬のためらいもなく、音もなく川へと飛び込んだ。水飛沫が上がり、その屈強な体が闇色の水中に消える。水中でも、彼の動きは陸上と変わらぬほど俊敏だった。淵女は驚いたように身を翻し、長い髪や水流を操って抵抗を試みるが、義王の力の前には無力だった。
義王は、水中を逃げ惑う淵女の細い腕を正確に掴むと、有無を言わせぬ力で岸辺へと引きずり上げていく。
「き、きぃぃぃぃぃ……っ!」
淵女が甲高い、耳障りな悲鳴を上げた。
岸に引きずり上げられ、水から離れたことで力が弱まったのか、淵女は苦しげに身悶えている。その哀れな姿に、朱音は思わず目を背けそうになった。
そこへ、役小角様が一歩前に進み出た。いつの間にか、その右手には鈍い金属光沢を放つ法具が握られている。両端が鋭く尖り、中央部分が握りやすいように設えられた、短い金属製の法具――独鈷杵(とっこしょ)。それ自体が強い法力を帯びているのか、月光を浴びて冷たく、神聖な光を放っているように見えた。
「哀れな水の亡者め。子供への執着が、貴様を妖へと変えたか」役小角様は独鈷杵を静かに構え、低い声で告げる。「だが、これ以上罪なき命を奪うことは許さん」
彼は印を結び、真言を唱え始めた。その声と共に、独鈷杵が淡い光を帯びていく。
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淵女は、その法力に苦しむように身を捩らせ、怨嗟に満ちた虚ろな瞳で一行を睨みつけた。その瞬間、朱音の脳裏に、奔流のような感情が流れ込んできた。
(悲しい……寂しい……あの子はどこ……? 私の子供……返して……!)
それは、子供を失った母親の、慟哭にも似た深い悲しみと、狂おしいまでの執着だった。淵女は、生前、川で我が子を亡くした母親だったのかもしれない。そして、その悲しみが癒えぬまま、子供を求める強い想いが、彼女を妖へと変えてしまったのだ。
「役小角様っ!」朱音は思わず叫んでいた。「この人は……ただ、寂しかっただけなんです! 子供に……会いたかっただけなんです……!」
役小角様は、真言を唱えながら、ちらりと朱音に視線を向けた。その瞳には何の揺らぎもない。
「……ならば、尚のことだ。その歪んだ執着から解き放ち、本来還るべき安らかなる場所へ送ってやらねばなるまい」
彼の声は、冷たく聞こえたけれど、それは彼なりの慈悲なのかもしれないと、朱音は思った。
「オン・バザラ・ギニ・ハラチハタヤ・ソワカ!」
役小角様は、浄化の真言と共に、独鈷杵を淵女へと突き出した。法具の先端から放たれたのは、穢れを祓う、眩いばかりの清浄な光だった。
光に包まれた淵女の苦悶の表情が、ふっと和らいだように見えた。まるで、長年の苦しみからようやく解放されたかのように、その顔には穏やかささえ浮かんでいるように感じられた。
やがて光が収まると、そこにはもう淵女の姿はなく、彼女が手にしていたらしい、濡れた水草が数本残されているだけだった。禍々しい妖気は完全に消え失せ、川辺には静寂が戻っていた。
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