鬼の花嫁は役行者に隷属契約されました~

藤森瑠璃香

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第十話:束の間の休息と、甘い誘惑

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 淵女(ふちめ)の悲しい事件があった川沿いの村を後にして、役小角(えんのおづぬ)様、義王(ぎおう)、そして朱音(あかね)の三人は、さらに数日歩き続けた。そしてたどり着いたのは、これまで訪れた中では一番大きな、活気のある町だった。

 行き交う人々の多さ、軒を連ねる様々な店、威勢の良い呼び込みの声。故郷の寂れた村しか知らなかった朱音は、その賑やかさにただただ目を丸くするばかりだった。
「ふん、少しは町らしい町だな」役小角様は、周囲を値踏みするように見渡すと、「長旅で体も鈍った。ここで少し骨休めといくか。多少はマシな宿もあるだろう」と言って、さっさと宿を探し始めた。

 彼が選んだのは、町の中心から少し入ったところにある、清潔で立派な構えの旅籠(はたご)だった。「まあ、俺の術への礼金でこれくらい当然だがな」と彼は嘯いたけれど、朱音にとっては夢のような場所だった。
 案内された部屋は、埃っぽくて薄暗い自分のあばら家とは比べ物にならないほど綺麗で、清々しい畳の匂いがした。窓からは町の賑わいが遠くに見え、そして部屋の隅には、ふかふかとした真新しい布団が用意されている。

(お布団……!)

 朱音は思わず心の中で歓声を上げた。生まれてこの方、硬い土間か、せいぜい薄汚れた筵(むしろ)の上でしか眠ったことがなかったのだ。

 その夜、出された夕餉もまた、朱音を感激させた。艶々と輝く温かい白米、香ばしく焼かれた魚、彩り豊かな野菜の煮物、そして具だくさんの味噌汁。一つ一つが丁寧に作られていて、優しい味がする。朱音は涙ぐみながら、その美味しさを一口一口、大切に噛み締めた。
「……美味しい……」
「そうかい? よかったねぇ」給仕をしてくれた宿の女中さんが、にこりと微笑んでくれた。

 食後には、お風呂まで用意されていた。湯気が立ち上る大きなお風呂に、朱音はおそるおそる足を入れる。温かい湯が、じわりと体の芯まで染み渡り、旅の疲れが溶けていくようだった。垢や汚れだけでなく、心の澱まで洗い流してくれるような心地よさ。こんな贅沢、生まれて初めてだった。

 部屋に戻り、清潔な寝間着(役小角様が用意してくれたものだろうか?)に着替えて一息ついていると、部屋の隅で書見でもしていた役小角様が、不意に声をかけてきた。
「おい、朱音」
「は、はいっ」
 びくりとして返事をすると、彼は読んでいたらしい書物をぱたりと閉じ、少し面倒くさそうな顔で言った。
「小耳に挟んだのだが、この町には評判の団子屋があるらしいな」
「だ、団子、ですか?」
「そうだ。貴様、ちょっと行って買ってこい。ほら、金だ」
 そう言って、彼は懐からいくらかの銭を取り出し、朱音に差し出した。どうやら、自分で行くのは面倒なのか、あるいは人目を避けたいのかもしれない。

「わ、分かりました!」
 朱音は、初めてのお使いに少し緊張しながらも、元気よく返事をした。役小角様の役に立てる、かもしれない。それが嬉しかった。
 朱音が部屋を出ようとすると、壁際に控えていた義王が、すっと立ち上がり、黙って後に続こうとした。役小角様が命じたのか、それとも彼自身の判断なのかは分からない。朱音は少し驚いたが、この屈強な鬼が一緒なら心強いと思い直し、「よろしくお願いします、義王様」と小さく頭を下げた。

 日が暮れかかった町を、朱音と義王は二人で歩く。夕餉の支度か、家々からは美味しそうな匂いが漂い、家路を急ぐ人々が行き交っていた。朱音は慣れない人混みに少し戸惑ったが、隣を歩く義王が、さりげなく人波から庇うように立ってくれるのに気づいた。ぶつかりそうになると、大きな背中が壁になってくれる。
「あ、ありがとうございます……」
「……いや」
 義王は相変わらず寡黙で、返事は短い。けれど、その無言の行動には、不器用な優しさが滲んでいるような気がした。彼もまた、役小角様とは違う形で、朱音を気遣ってくれているのかもしれない。

 やがて、評判の団子屋を見つけることができた。香ばしい醤油の匂いが漂う店先には、色々な種類の団子が並んでいる。朱音は、役小角様の好みが分からなかったので、定番のみたらし団子と、見るからに甘そうな餡団子をいくつか買った。

 宿に戻り、ほかほかの団子を差し出すと、役小角様は「ふん、手間取らせおって。待ちくたびれたぞ」と憎まれ口を叩きながらも、その目は明らかに団子に釘付けだった。彼はひったくるようにみたらし団子を受け取ると、早速大きな口でかぶりつく。
「む……むぅ……! やはり、評判通りだな。この甘じょっぱいタレが……たまらん……!」
 普段の冷たく尊大な彼からは想像もつかないほど、その表情は嬉しそうだ。まるで、好物を与えられた子供のようにも見える。朱音は、そんな役小角様の意外な一面に、思わず小さく笑ってしまった。

「何を笑っている、奴隷」じろりと睨まれて、朱音は慌てて首を振る。「い、いえ! 何でもありません!」
 役小角様はふんと鼻を鳴らすと、餡団子の方を朱音に差し出した。
「これは貴様にくれてやる。礼には及ばん」
「えっ? よろしいのですか?」
「俺はみたらし派だ。餡子は、まあ、悪くはないが……。さあ、食え。残すのは許さんぞ」
 朱音は恐縮しながらも、ありがたく餡団子を受け取った。一口食べると、滑らかなこし餡の優しい甘さが口いっぱいに広がる。甘いものは、こんなにも人の心を幸せにするのだと、朱音は初めて知った。隣では、義王がそんな主と奴隷(?)の様子を、相変わらず静かに見守っていた。

 久しぶりの休息。清潔な部屋、温かい食事と風呂、そして甘いお団子。
 その夜、ふかふかの布団に包まれながら、朱音は心地よい疲労感と共に、旅に出てから初めて、心からの安らぎを感じていた。
 明日からは、また厳しい旅が始まるのだろう。けれど、今は少しだけ、未来が明るいもののように思えた。役小角様と、義王と、三人で。
 次は、どんな場所へ行くのだろうか。そんなことを考えながら、朱音はいつの間にか、深い眠りに落ちていた。
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