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第一章 宴のあと
03.文
しおりを挟むてっきり心は離れていたと思っていたのに……。
真雪は戸惑いながら、関白の傍らで桜を眺めていた。釣殿から見える桜は、昨日の突風で粗方散ってしまったが、その代わり、池一面に桜の花びらが広がって、花筏を作っている。極々淡い薄紅色をした花びらに埋め尽くされた池は、見事なものであった。
「こうして池に散る花びらを愛でるのも、良いな。むろん……そなたが傍にいればこそだが……」
腰を引き寄せられ、真雪は頬が熱くなるのを感じていた。いくらかの後ろめたさもある。ここで、昨夜は―――。
「その言葉を、明殿にも聞かせておいでなのでしょう?」
なじるようにいうと、関白が上機嫌に笑う。いままで、関白のこういう姿を見たことはなかったので、真雪も戸惑うばかりだが、真雪の妬心を買うために、明を召したというのは、少し嫌な話だとも、少々の優越感のような感情も湧き上がっていた。
「そのような拗ね事を申すな……そなたより愛いものなどおらぬのだから、さあ、機嫌を直しなさい」
やんわりと命じる関白に、内心では苦笑が漏れるが、致し方ない。この世においては、おそらく、ありとあらゆることが、関白の意のままになるだろう。
機嫌を直せと言われれば、機嫌を直さねばならない。
「機嫌など、悪くはありません。ただ……殿下のお心は、もう離れてしまったと、思っておりました。それが、ずっと、苦しかったのです」
それは、本当のことだった。そのせいもあって、昨夜は自棄を起こして、顔も知らぬ方に身を委ねたのだった。再び見えることはないだろう方のことなどは、もう考えない方が良い。
「また、愛らしいことを」
上機嫌の関白の唇が、真雪の唇に降りる。そのまま、思うままに唇を吸われた。久しぶりに味わう慣れた感触に、頭の芯が、ぼうっとぼやけてくる。
「あっ……」
「やはり、そなたは愛らしいな」
満足に呟く関白の言葉を耳元に聞いたときには、背中に床の感触がした。彼の肩越しに、春の蒼穹が見える。雲一つない、明るい空だった。
「殿下……」
真雪は、彼の身体の下で、身もだえて、逃れようとする。
「どうした?」
「こ、このような……明るいところで……」
恥ずかしくて、顔が熱い。今まで、明るいところで交わったことはなかった。明るい昼間、釣殿のような殆ど外のような場所でするには、あまりにも不埒だ。
「なに、構うまい。そなたは知らぬだろうが、主上のご寝所にお仕えする初夜などは、午のごとく明るくあかりを灯したところで、なさるのだ。明るいところで交わるのは、別段おかしなことではない」
関白の言うことが、果たして本当のことなのか、真雪には解らない。けれど、平素は御簾より外に出ず、男たちに顔をさらすこともなく過ごしている姫君が、そのようにして主上にお仕えするのだとしたら、大分、大変なことなのではないか。姫君達の境遇に思いを馳せている間に、関白が真雪の首筋に唇を落とした。
「あ」
小さな声が、思わず漏れてしまった。あとは、イヤだと言っても、関白は止めないだろう。すべて、身を任せて委ねていれば良かった。海嘯に飲み込まれるように、眩暈のような快楽の波が押し寄せて、引いて、頭から真雪を飲み込んで行く。
その波の狭間、釣殿の影から、明が様子を覗き見しているのがわかったが、真雪にはどうでも良いことのように思えた。
関白は上機嫌であった。
出仕するはずであったところ、嘘を吐いて出仕を勝手に取りやめたので、主上から文が届いたと聞いて、真雪などは震え上がったが、関白は涼しい顔をしている。
「なに、お上もお暇なのだ。けれど、無聊を慰めるのであれば、ほかのものも居るだろうに」
などとぶつくさと呟きながらも、釣殿から片時も真雪を離さないので、少々、辟易していたが、離れるそぶりを見せれば途端に機嫌が悪くなる。なので、側に仕える他のものたちのためにも、こうしているのが最善であった。
はからずとも、主上からの文を、真雪も見ることになった。本当ならば、伏して仰ぎ見るような文であった。下が透けるほどの薄様に、水茎も隆々と文字が躍っている。能筆の女房でも書いたものなのだろう。普段、帝は、滅多に宸筆を他に使わさないものである。
「おや、お珍しいことだ。本当に、お暇であらせられるらしい。見てごらん、真雪。これは、宸筆だ」
宸筆ということは、自由闊達に紙に書かれたこの文字は、主上のものであるようだった。
「お上は能筆であられるし、書き物を好んで居られるから、時折こうして宸筆で頂くのだが……、このように退屈をなさっているのであれば、悪いことをしたものだ。主上には、滅多にお心の内を外に出すことはないが……思い悩むことも、沢山、あるのだろうね」
「思い悩むこと、でございますか……」
真雪には、天の上に負わすお方の心中など拝察することも出来ないが、出来ることならば、心安らかにあって欲しいとは思う。
「ああ。主上には、敵になる方々がいらっしゃってね。その方々と、どうも折り合いが悪い。ただ仲が悪いだけならば良いが、徒党を組んで朝議の邪魔をする。それで、民達の命にも関わるようなことだというのに、話し合いが進まない。主上とて、我ら朝臣を蔑ろにして、ご自身で何もかも決めることが出来ると言うのではないのだ」
「主上も、この世のすべてが思うようになるというわけではないのですね」
「ああ、それであれば、どれほど心やすいことであろうな」
関白は苦笑して、真雪に書くものを用意するように言いつける。腕の中から解放されて、少し安堵したが、それより、関白の表情が、沈鬱なものであることのほうが、気になった。
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