蝶々の瑕

七瀬京

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 とりあえず、荷物をほどいて使い良いように部屋の配置を換えた。出ていくときに戻せばいいやと思ったのだ。私にあてがわれた部屋は、月ヶ瀬川の流れが見える。その先には例の桃源がある。見渡す限り、桃、桃、桃。
 これを食べてみたいと思わない方がおかしい。部屋の中まで甘い香りが漂ってくるのだから。それにしても、たわわに実る桃に、だれも近付こうとしないと言うのも妙な話だ。そうだ! 子供。子供はあの桃を食べたくないのだろうか。
 私も、田舎がスイカを作っていて、畑中にスイカが転がっていたが、婆ちゃんに断ってから、裸足で畑のスイカを取りに行って、むさぼり食べていた思い出がある。
 あんなに美味しそうなのに、勿体ない。と思ったが、柊生さんは、あの桃を『仙桃の子孫』のように言っていたので、おそらく村人にとっては神聖なのだろう。そう言うものは、滅多に口にしてはいけないのだと、私は納得した。
「さて、そろそろお仕事するか」
 私は、持ってきたルーズリーフにこう、書いた。
『月ヶ瀬村についてのレポート』
 下書きである。おそらく、海棠先生は、私が書いたレポートなぞ無下に取り下げるだろうから、きちんと筋道を立てた論文形式で書かねばなるまい。これは、そのための資料だ。
 しばらく書いていたときに、柊生さんが入ってきた。
「美咲さん。お仕事ですか? 今から、桃を取りに行くんですけど、ご一緒に如何ですか?」
 桃! と聞いて私は現金にも仕事を放り出した。
 柊生さんと、月ヶ瀬川を渡って桃源に来た。月ヶ瀬川を渡ると言っても、小川にも等しいので大したことはない。
「美味しそうな桃ですね」
「私の妻をご紹介しますよ」
「え? 奥さん居るんですか?」
 はっきり言うと、柊生さんは好みのタイプだったのでショックだった。明日一日寝込んでも良いくらい。
「そうですね、美人ですよ」
 ふふ、と柊生さんは笑った。美人の奥さんは、桃をもいでいるのか。美しい女が美しい果実をもいでいるのも絵になる光景だろう。
「桃って、美味しいですよね。それに、この表面の感触がたまらなく好きなの。なんだか、びろうどみたいで。いちどね、子供の時に桃に頬ずりしたときがあったんだけど、棘みたいなのが刺さってチクチクして、半端じゃなく痛かったわ」
「桃に、頬ずりしたんですか?」
 柊生さんは、盛大に笑っている。海棠先生のことで笑っていた時なんて、まるで比べものにならないくらい。
「痛かったわよ。何なら、柊生さんもやってみたら?」
「そうですね、でも、遠慮します。痛いのでしょ?」
 そんなお喋りをしながら歩いている間に、目的の場所に来たようだった。
「これが、私の妻ですよ」
 柊生さんは、その方向に手を、向けた。優美な、優美な長い指を。
 そこにいたのは、間違いなく、薄紅色の花を付けた桃の木だった。
 どうリアクションして良いのかわからずに、私はその指の指した木に触れて、
「えっと、この方ですか?」
 と、間抜けな問い方をした。
「ええそうですよ。はい、海棠からの手紙です」
 くすくすと笑いながら、彼は私に手紙を差し出した。なんだか、その笑い声は癪に障る。


『拝啓 暑さ厳しい折、如何お過ごしかな?
 月ヶ瀬村でのバカンスを十分堪能してほしいと願っています。
 さて、君に調べてほしいことを下記に列挙して在るので、ご手配くださいますよう。
 少々面倒かもしれないが、よろしく。
  今後ともご協力のほどお願い申し上げます。
                                 敬 具

        1. 月ヶ瀬村の『樹木婚』について
        2. 月ヶ瀬村の祭りについて
       ・祭りと堺家について
       ・祭りの概略
       かかった費用はすべて私が負担する。
                                 以 上』
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