蝶々の瑕

七瀬京

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 朝は、あまりの寒さに目が覚めた。
 月ヶ瀬川を通ってくる風は、霧となって村全体をすっぽり包み込み、この村の中は冷やされるのでまるで氷室に出もいるような気分だ。
「美咲さん、起きてますか?」
「ええ、寒くて」
 思わず、くしゃみが出た。
「大丈夫ですか? 言い忘れてしまって、このあたりは夜から朝に掛けて、とても寒くなるんです」
「高原ですし、下よりはとても涼しかったので、朝は寒いかなと思ってましたから」
 嘘である。
「この村で過ごすのに、半袖では寒すぎますよ。女の子は、冷やしちゃいけませんよ」
 私は、女の子扱いされたのが照れくさくて、思わずそっぽを向いた。
 その時。私の目の前を、すう、と透明なものが横切っていったような感覚を味わった。
「え?」
 思わず素っ頓狂な声を出して、あたりをきょろきょろと落ち着き無く見回すと、一匹の蝶がふわりふわりと宙を舞っていた。
「蝶?」
 おかしい。こんな季節に、こんな蝶々が居るものなのかしら。真っ白で、透けるような透明な翅(はね)を持つ蝶々。まるで、幻のような。
「珍しい蝶でしょう? この村のように寒い気候の地域でしか生きられない蝶らしいですよ。そうそう、この村の人は、みんなこの蝶々の子孫だそうです。そう言う神話が残っていましてね、この下の村では、月ヶ瀬は蝶々の里だとか仙桃境だとか言われていて、椀貸し伝説まであるほどです」
 椀貸し伝説というのには、聞き覚えがあった。ご丁寧に八十五分掛けて講義をして下さったのは、他ならぬ海棠隆一先生だ。
 文化人類学だったか、日本の民話概論だったか。
 たしか、椀が川上から流れてくるとか何とか言う伝説で、それに絡んでマヨヒガとかいう異境の話があって。椀が足りないときに頼むと、椀が流れてきて、それをちゃんと元通りにして川辺においておくといつの間にやら無くなっているのに、一個でも不足があると次からは貸してくれなくなるとか何とか。
「蝶々かぁ」
 飛んでいるときは、綺麗な蝶々だけれど、もとがあのケムシだと考えると、どうも触る気すら起きない。だけれども。月ヶ瀬の蝶々は、透明で美しくて、朝日を受けてきらきらと金色に輝いていて、とても綺麗だった。
「おそらく、蝶々が花から花へと飛び回って受粉をして、桃を結実させるのでこの土地のトーテムになったのでしょう」
「なんだか、柊生さん、海棠先生みたい」
「隆一からは、いろいろとこの村についての持論を聞かされたからね。僕も少なからず影響は受けてる」
 トーテム。部族内で信仰している動物のことだが、動物を先祖だという未開民族はとても多い、と海棠先生は言っていた。事実、フレイザーの『金枝篇』を読んでみても、『自分の祖先は金剛インコだ』とするブラジルのボロロ族の話が出ている。
 この村に来てからずっと海棠先生の話を思い出している。あんなに大嫌いなのに。
「美咲さん、今日は村を案内しますよ」
 柊生さんは、にこりと微笑んで去っていった。
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