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永命病
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永遠に死ねない病気、永命病。
聞こえはいいが、その病気は人としての心を多く蝕んだ。なにせ、自分はもう何年生き続けているかもわからない中で、老いも成長もせずに、身内や友達が死んでいくのを、ただ見ているしかできない。いわば呪いみたいなもの。
アフリカ地域の、特に発展途上な国では、それなりに恐れられていた病気で、ベテランの医者の中で知らない人はいないほどだった。でも、その病気は感染型ではなく、完全に親などの遺伝により発症する病気だった。
これも、全部本や新聞とか見て知ったことだけど、ようは、同じ空間にどれだけ一緒にいても何しても、感染の余地はないってことだろうと思う。でも、昨日来た感じだけでもあの人のところに誰かが来てるって感じはしなかった。
永命病の本を読みながら、昨日の愛夜さんのことを思い出して、あの無邪気な笑顔が頭を旋回していた。
電車が止まって、車内から降りた。いつもと何ら変わらない道を、変わらない心情のまま歩く。特に昨日会った愛夜さんのことも、そんなに気に留めてはいなかった。
生徒玄関を何事もなく上履きに履き替えて通り、ひときわ騒がしい教室の中へ入る。
席について、リュックは机の横に引っ掛けた。永命病の本をもう一度開いて、何度も読み返した。
別にそこまで愛夜さんに思い入れがあるわけじゃない。なにせ、愛夜さんは僕の名前を知らない。そもそも聞いてこない。それに、たまたま入った病室の中に愛夜さんがいて、たまたま優しかっただけのこと。それがずっと続く訳でもないだろうし。
ただ、もしも今後も関わるとすれば、無知識なのは流石に患者さんに失礼だし、少しくらい知識を持っておかないと支えて欲しい時に支えてあげられないだろうし。
僕はただあくまでも自分が低く見られない方法を探すために、この本を読んでいるに過ぎなかった。
本を読めば根暗と笑われ、席を外せば机に変な落書き。それさえも日常茶飯事になって、慣れてしまっていた。慣れてはいけないことだとわかってるのに、今更嫌がることも出来なかった。もう遅いとか思ってたのかもしれない。
「ねぇ根暗、これやっといてくんない?」
ふと声をかけてきたのは、幼稚園からの幼馴染の安西未来。でも、未来ちゃんとは中学2年の頃から、何故か疎遠になっていた。僕の根暗が原因かもしれない。
未来ちゃんは束になったプリントを僕の机の上に、雑に投げ捨てると、賑やかな男子や女子達の方へさっさと帰って行ってしまった。
そのプリントは既に誰かの手でやられていて、おそらく並べ替えろってことなんだと思った。
僕は仕方なく本を閉じて、プリントを学籍番号順に並べ直した。クスクスと笑う人もいたが、気にせずとりあえずやってのけて、前の教卓の上に置いておいた。
こんな雑用もいつも通り。面倒なことはいつも僕。
あー、早く帰りたい。
なんとか何もなく授業を終えて、放課後になった。
部活は文芸部で、特に活動はなく、主に水曜日しか活動をしない。だから僕は今日も、帰りのSHR(ショートホームルーム)が終わると、さっさと帰っていこうとして、正門を出た。
その直後、昨日のことを思い出した。
「また来てくれる?」
柔らかな微笑みで言われたあの言葉。考えてみれば初めて言われた言葉だった。今までずっと、あっち行けとか二度と来んなって払われることがほとんどだった。たとえ何もしていなくても。だから、母の死も見ていない。葬式にだって行かせてもらえなかった。
愛夜さんの言葉が少し嬉しかった。今日は特に叔母から手伝いのメールは来ていないが、家に帰る方向とは逆方向へ足を運び、愛夜さんのいる病院へ向かった。
少し抵抗はあった。
あんな言葉、今頃忘れて別の誰かにも同じ顔をしてるんじゃないかって、そう思えば思うほど行く意味を頭の中で何度も問いていた。
結局引き返せもせず、覚えてる可能性にかけて、叔母の働く病院の中に入ると、受付の人に「時雨愛夜さんの知人です」と言った。女性は困ったような顔をして奥へ行くと、誰かに耳打ちで言うと相手は頷いた。女性はカウンターに戻ってきて、「どうぞ」と案内した。
「あまり身内の方以外は控えてもらっているんですが、時雨さんが会いたいって言ってたらしいので」
女性は愛想良くそう言うと、愛夜さんがいる病室の前に来て、ここですと静かにいいその場から去っていった。
とりあえずノックはしてみた。
小中で身につけたある程度の礼儀だ。部屋に入る前にはノックをする。死んだ母にはよく礼儀のことでそのへんの家庭より少し厳しめに教育されてきた。
3回叩くとすぐに向こう側から声が返ってきて、静かにドアを開けた。すると、ベッドの上で茶色い表紙の本を片手に持った愛夜さんが、微笑みながら僕を見ていた。
「そんなに恐る恐る来ないでよ。面接じゃないんだから」
愛夜さんは笑いながら言った。
愛夜さんはベッドの横の棚に本を置いて、また僕を見た。
「来てくれたんだね」
たったそれだけの言葉、でも少し嬉しかった。なぜかその言葉には、昨日のことを覚えているよって言っているようにも聞こえた。
愛夜さんは微笑みながら手招きをして、椅子に座ってと言った。
「来てっていうから」
「うん。言ったね」
「で、その……どうすればいいですか?」
「特に何もないけどー、あ、学校であったこと聞きたい!」
愛夜さんは急に元気に返した。
学校であったこと、特にいい思い出はなかった。
「え?」
「嫌?」
「いや……僕の話なんか面白くないですし、そもそもお母さんじゃないですし……恥ずかしいというか」
「えぇー恥ずかしがると余計恥ずかしいよ。それに、お母さんもういないんでしょ?」
愛夜さんのその言葉に僕は驚いた。
なにせ、知ってるはずない。おかしいと思った。
「なんでそれを…」
「品川さんから聞いた。というか、話してくれた」
品川さん、僕の叔母の事だ。
叔母がなぜそんなことを?
「どうして?」
「花の交換しながらね、あの子友達がなかなかいなくて学校じゃあ一人ぼっちだし、今じゃお母さん亡くして1人で暮らしてるの。できるだけそばにいてあげたいんだけどねぇって」
愛夜さんは下手だったが口調をある程度真似して言った。
「お父さん、いないの?」
少し陽気に話していた愛夜さんは急に声色を変えて、僕の顔を覗き込んで聞いてきた。
「父は……物心つく前からいませんでした。理由は聞いてないので分からないままです」
僕は少し声のトーンを落として話をしてしまっていた。そのせいで、愛夜さんが小さくごめんと言った気がした。
「でも、別に大丈夫ですよ。気になんか止めてませんから」
「そっか…あ、じゃあ今日は学校で何かあった?」
「え」
僕はその問への答えに迷ってしまった。これと言って思い出はない。今日あったことは?って聞かれてもみんなみたいにパッとは出てこなかった。答えに詰まって愛夜さんから目をそらした。
「友達が少ないから……その」
「そういうんじゃなくても、授業のこととか、お昼のこととか、放課後の帰り道とか、なんでも」
愛夜さんは少し逃げようとした僕の腕を掴むように言葉をふやしてかけると、また微笑んだ。
「えっと……強いて言うなら、化学の先生のダジャレにクラスメイトの誰も反応してあげなかったこととか」
「えぇー何それー可哀想じゃん。え?その人ってハゲ?」
愛夜さんは直球的にデリカシーのデの字もない質問を返した。
「えぇまぁ、生えてるか生えてないかって言われたら、生えてない方に値すると思いますけど」
愛夜さんは僕がそう返すと、可笑しそうにお腹を抑えながら笑った。
「そんなにおかしいですか?」
「うん。君のその、変に改まってる感じとか、面白いよね」
愛夜さんは笑いを堪えながらそう言った。
「あの、愛夜さんは」
僕が何かを言おうとすると、ドアの向こうからノックの音がして看護師の女性が入ってきた。
「あら、今日はお客さんがいたのね、愛夜さん」
女性は愛夜さんにそう言うと、愛夜さんはやけに陽気に返した。
「そ!ホント、そばにいてくれる人がいるっていいよねー」
「そうね。じゃ、そろそろ診察の時間だから行こっか」
女性が微笑みながらいうと、愛夜さんは頷いた。すると、愛夜さんは僕に視線を戻して、僕の頭の上に手を乗せてゆったりとした声と何かで静かに言った。
「毎日こうやってその日にあったこと話そ?君といると、元気になるよ」
愛夜さんは微笑みながらそういうと、スリッパを履いて点滴がつけられた鉄の棒にタイヤがついたものを転がしながら、女性と一緒に病室をあとにした。
病室から出る直前、愛夜さんが振り向いて「またね」と微笑んで手を振った。あの顔と言動は、今も胸に焼き付いている。
春の、それもはじめの頃に吹く温かくてゆったりとした、花の香りがする風。別に今が初春って訳じゃない。むしろもう6月中旬で、そろそろ本当の夏がやってくる。
それなのに、今更春のような風が吹いて、僕の心に何かを残した。ささくれみたいに荒れた心に、何かが何かを残していった。
その翌日、僕また愛夜さんの病室に来ていた。
しかしタイミングが悪く、愛夜さんは診査中だった。僕は、愛夜さんが寝ているベッドの横の棚に置かれた、茶色い表紙で可愛げのない本を手に取った。
1ページ目くるとタイトルが書かれてあるページのはずだが、なぜかタイトルは黒いインクのペンかなにかでぐちゃぐちゃに塗りつぶされ、作者名も見えないようになっていた。
そのあとのページもめくろうと思ったが、いつ愛夜さんが来るかもわからないし、他人が読む本はあまり読まない方がいいと思って、棚の上へ戻した。すると、ふと花瓶に飾られた季節外れの花が目に止まった。それは紫色で、凛としていた。いい喩えが見つけられないけど、でも美しかった。
「綺麗でしょ?私の好きな花」
しばらく見つめていると、不意に扉の方から声がして、そのほうを見ると愛夜さんが、いつもの柔らかい微笑みを見せていた。
「はい。確か、アヤメですよね」
「その花の花言葉、知ってる?」
僕は答えに困った。花の名前ならなんとなく分かってはいたが、花言葉までは詳しく知ろうとしたことはなかった。
「なんですか?」
愛夜さんは僕の方へ回ってベッドに腰をかけて、アヤメを見て静かに言った。
「希望だよ」
その言葉にハッとした反面、よく分からないところもあった。
「何に対してのですか?」
「そりゃあ、この永命病に決まってるよ」
「どうして?だって、死ぬわけじゃないですよね?」
愛夜さんは僕がそういうと黙り込んでしまった。悪いことを言ってしまったかと、謝ろうとした時だった。愛夜さんはそんな僕を遮るように話し出した。
「うん。そうだね……でもね、老いもせず朽ちずに生きてこごらん?いつだって目の前にいた人がどんどん死んでしまうのに、自分だけが生き残るなんてさ…死んだも同然というより、一緒に死んでしまえたらいいのになんて思うよ」
愛夜さんが静かにそういうと、僕はもうそれ以降は何も言えなかった。
死のうと思えばいつでも死ねる僕と違って、愛夜さんは死ねない。死ねないことは聞こえはいいが、苦しみの数は死ねる人よりも多い。
僕は、なんて浅はかなんだ……
「君は、生きたい?死にたい?」
愛夜さんは僕に目を向けてそう言った。俯いたままの僕は答えられなかった。生きていても仕方はない。なにせ、学校はつまらないし家に帰っても温かいものなんてもう消えてしまった。愛情なんて誰からも感じられずに、今を生きてるつもり。別にそれが死にまで追い込む最たる理由って訳でもない。ただ、しんどくはなってきた。
「あ!」
不意に愛夜さんが大きな声を出した。
「私、明後日誕生日なの!プレゼント欲しいなぁー」
愛夜さんはさっきとは打って変わって人一倍明るい声でそう言った。僕はそれが、取り繕ったものだと分かったが、明るい表情に合わせた。
「そうなんですか、何がいいですか?」
「アヤメって言いたいところだけど、今日のこれがもう最後だからなぁーうーん、なんでもいいよ!」
少し期待をしていた僕は、そんな大雑把な回答にズコーっとこけそうだった。
「本当に言ってますか?」
「うん!君がくれるものならなんでも嬉しい!」
愛夜さんはまた無邪気な笑顔でそう言った。
僕はもう、自分でもわかるくらいその笑顔に動揺をしていた。
「明後日ですよね?それまでには用意しておきます」
僕の中では何をあげるかなんて決まっていなかった。何がいいのかもよくわからないし、いつも笑顔だから表情が読めなくてどうしたらいいのかわからない時が多々ある。
「うん!よろしく!」
僕は愛夜さんとそんな約束を交わすと、病室を出、家へ帰った。家の中は相変わらず真っ暗で、自分で明かりをつけるが、そこには何の感情も温かみもなかった。
幼い時から僕は叔母の元で育っていたが、母は物心ついた頃に死んでしまったため、少しくらいは母がいる温かみはわかってた。そしてそれは今になってもなお襲い続けた。
適当に夕食を済ませると、ベッドに思い切り横に倒れ込んで、プレゼントのことを考えた。
何がいいかなぁ、何なら喜んでくれるかな。そんなことを何回も考えていくうちに、心が変な気持ちになるのがわかった。
考え込んでると、なんだか眠くなってきた。
目が重い……瞼が……
目が覚めると次の日になっていた。僕は慌てて起き上がり、学校へ行く準備をした。
今日もまたいつも通り。何の変哲もない、輝きも何も無い日常を僕は送っていく。
「明日か……」
ボーッとしながら小さくつぶやくけど、特に意味は無い。
授業中も考えた。
気がつくと板書なんかひとつもしてなかった。
昼休み中も考えた。
気がつくとプレゼントを考えることに夢中になっていた。
夢中になっているといつもそれを遮るものが現れる。今日は陰湿な嫌がらせだった。
そんなに気に留めてはいないが、嫌な気持ちにはなった。
「今日もまた愛夜のところ行かなきゃなんだけどさぁ、くそめんどい」
そんな会話が聞こえてきた。愛夜、愛夜さんのことだろうか。少しに気になって、その声がして方を見た。でもその声の主は、少し話したくない相手だった。
「未来は偉いよねーそんなに繋がりもない従姉妹のお見舞い行くなんて」
「ほんっとめんどい。特に話すこともねぇっての」
未来ちゃんはどんどん言葉が荒くなった。
「あ?何見てんだよ」
もう既に不良の域だった。目が合うと眉間に皺を寄せて睨んできた。
「いや、なんでもないよ」
「きも」
目を逸らして背を向けると、未来ちゃんは小さくそう返してきた。
傷はついたけど泣きはしないし、そんなに気にもしなかった。未来ちゃんが口悪いのは同じ中学の子の間ては有名だけど、幼稚園の頃はもっと可愛げがあって、やさしかった。みんなが知らないそれを知ってるだけで、戻ってきてくれるような気がして、今の怖い未来ちゃんもそんなに気にならない。なによりも、慣れた。
今日はどうしようか。愛夜さんのところ、行こうかな。
少し迷った。悩んだ。行けば未来ちゃんと鉢合わせるかもしれない。本当は、少し苦手で、怖い。
「今日、その人のところに行くの?」
気がつくと僕はそんなことを聞いていた。
「は?あんたには関係ないから」
多分、聞いちゃいけないことというか、聞く相手を間違えたというか。とにかく、未来ちゃんに聞いてもそう帰ってくることは予測済みで、でも少しだけびっくりした。
ますます迷った。もしも本気で未来ちゃんが愛夜さんのところに行くのなら、今日は控えた方がいいかもしれない。そう思えてきた。
でも、そう思うたびに脳裏に、愛夜さんの微笑みと「来てくれる?」の言葉が出てきた。不意に、会いたいと思っていた。
ああ、今日も会いに行こう。
聞こえはいいが、その病気は人としての心を多く蝕んだ。なにせ、自分はもう何年生き続けているかもわからない中で、老いも成長もせずに、身内や友達が死んでいくのを、ただ見ているしかできない。いわば呪いみたいなもの。
アフリカ地域の、特に発展途上な国では、それなりに恐れられていた病気で、ベテランの医者の中で知らない人はいないほどだった。でも、その病気は感染型ではなく、完全に親などの遺伝により発症する病気だった。
これも、全部本や新聞とか見て知ったことだけど、ようは、同じ空間にどれだけ一緒にいても何しても、感染の余地はないってことだろうと思う。でも、昨日来た感じだけでもあの人のところに誰かが来てるって感じはしなかった。
永命病の本を読みながら、昨日の愛夜さんのことを思い出して、あの無邪気な笑顔が頭を旋回していた。
電車が止まって、車内から降りた。いつもと何ら変わらない道を、変わらない心情のまま歩く。特に昨日会った愛夜さんのことも、そんなに気に留めてはいなかった。
生徒玄関を何事もなく上履きに履き替えて通り、ひときわ騒がしい教室の中へ入る。
席について、リュックは机の横に引っ掛けた。永命病の本をもう一度開いて、何度も読み返した。
別にそこまで愛夜さんに思い入れがあるわけじゃない。なにせ、愛夜さんは僕の名前を知らない。そもそも聞いてこない。それに、たまたま入った病室の中に愛夜さんがいて、たまたま優しかっただけのこと。それがずっと続く訳でもないだろうし。
ただ、もしも今後も関わるとすれば、無知識なのは流石に患者さんに失礼だし、少しくらい知識を持っておかないと支えて欲しい時に支えてあげられないだろうし。
僕はただあくまでも自分が低く見られない方法を探すために、この本を読んでいるに過ぎなかった。
本を読めば根暗と笑われ、席を外せば机に変な落書き。それさえも日常茶飯事になって、慣れてしまっていた。慣れてはいけないことだとわかってるのに、今更嫌がることも出来なかった。もう遅いとか思ってたのかもしれない。
「ねぇ根暗、これやっといてくんない?」
ふと声をかけてきたのは、幼稚園からの幼馴染の安西未来。でも、未来ちゃんとは中学2年の頃から、何故か疎遠になっていた。僕の根暗が原因かもしれない。
未来ちゃんは束になったプリントを僕の机の上に、雑に投げ捨てると、賑やかな男子や女子達の方へさっさと帰って行ってしまった。
そのプリントは既に誰かの手でやられていて、おそらく並べ替えろってことなんだと思った。
僕は仕方なく本を閉じて、プリントを学籍番号順に並べ直した。クスクスと笑う人もいたが、気にせずとりあえずやってのけて、前の教卓の上に置いておいた。
こんな雑用もいつも通り。面倒なことはいつも僕。
あー、早く帰りたい。
なんとか何もなく授業を終えて、放課後になった。
部活は文芸部で、特に活動はなく、主に水曜日しか活動をしない。だから僕は今日も、帰りのSHR(ショートホームルーム)が終わると、さっさと帰っていこうとして、正門を出た。
その直後、昨日のことを思い出した。
「また来てくれる?」
柔らかな微笑みで言われたあの言葉。考えてみれば初めて言われた言葉だった。今までずっと、あっち行けとか二度と来んなって払われることがほとんどだった。たとえ何もしていなくても。だから、母の死も見ていない。葬式にだって行かせてもらえなかった。
愛夜さんの言葉が少し嬉しかった。今日は特に叔母から手伝いのメールは来ていないが、家に帰る方向とは逆方向へ足を運び、愛夜さんのいる病院へ向かった。
少し抵抗はあった。
あんな言葉、今頃忘れて別の誰かにも同じ顔をしてるんじゃないかって、そう思えば思うほど行く意味を頭の中で何度も問いていた。
結局引き返せもせず、覚えてる可能性にかけて、叔母の働く病院の中に入ると、受付の人に「時雨愛夜さんの知人です」と言った。女性は困ったような顔をして奥へ行くと、誰かに耳打ちで言うと相手は頷いた。女性はカウンターに戻ってきて、「どうぞ」と案内した。
「あまり身内の方以外は控えてもらっているんですが、時雨さんが会いたいって言ってたらしいので」
女性は愛想良くそう言うと、愛夜さんがいる病室の前に来て、ここですと静かにいいその場から去っていった。
とりあえずノックはしてみた。
小中で身につけたある程度の礼儀だ。部屋に入る前にはノックをする。死んだ母にはよく礼儀のことでそのへんの家庭より少し厳しめに教育されてきた。
3回叩くとすぐに向こう側から声が返ってきて、静かにドアを開けた。すると、ベッドの上で茶色い表紙の本を片手に持った愛夜さんが、微笑みながら僕を見ていた。
「そんなに恐る恐る来ないでよ。面接じゃないんだから」
愛夜さんは笑いながら言った。
愛夜さんはベッドの横の棚に本を置いて、また僕を見た。
「来てくれたんだね」
たったそれだけの言葉、でも少し嬉しかった。なぜかその言葉には、昨日のことを覚えているよって言っているようにも聞こえた。
愛夜さんは微笑みながら手招きをして、椅子に座ってと言った。
「来てっていうから」
「うん。言ったね」
「で、その……どうすればいいですか?」
「特に何もないけどー、あ、学校であったこと聞きたい!」
愛夜さんは急に元気に返した。
学校であったこと、特にいい思い出はなかった。
「え?」
「嫌?」
「いや……僕の話なんか面白くないですし、そもそもお母さんじゃないですし……恥ずかしいというか」
「えぇー恥ずかしがると余計恥ずかしいよ。それに、お母さんもういないんでしょ?」
愛夜さんのその言葉に僕は驚いた。
なにせ、知ってるはずない。おかしいと思った。
「なんでそれを…」
「品川さんから聞いた。というか、話してくれた」
品川さん、僕の叔母の事だ。
叔母がなぜそんなことを?
「どうして?」
「花の交換しながらね、あの子友達がなかなかいなくて学校じゃあ一人ぼっちだし、今じゃお母さん亡くして1人で暮らしてるの。できるだけそばにいてあげたいんだけどねぇって」
愛夜さんは下手だったが口調をある程度真似して言った。
「お父さん、いないの?」
少し陽気に話していた愛夜さんは急に声色を変えて、僕の顔を覗き込んで聞いてきた。
「父は……物心つく前からいませんでした。理由は聞いてないので分からないままです」
僕は少し声のトーンを落として話をしてしまっていた。そのせいで、愛夜さんが小さくごめんと言った気がした。
「でも、別に大丈夫ですよ。気になんか止めてませんから」
「そっか…あ、じゃあ今日は学校で何かあった?」
「え」
僕はその問への答えに迷ってしまった。これと言って思い出はない。今日あったことは?って聞かれてもみんなみたいにパッとは出てこなかった。答えに詰まって愛夜さんから目をそらした。
「友達が少ないから……その」
「そういうんじゃなくても、授業のこととか、お昼のこととか、放課後の帰り道とか、なんでも」
愛夜さんは少し逃げようとした僕の腕を掴むように言葉をふやしてかけると、また微笑んだ。
「えっと……強いて言うなら、化学の先生のダジャレにクラスメイトの誰も反応してあげなかったこととか」
「えぇー何それー可哀想じゃん。え?その人ってハゲ?」
愛夜さんは直球的にデリカシーのデの字もない質問を返した。
「えぇまぁ、生えてるか生えてないかって言われたら、生えてない方に値すると思いますけど」
愛夜さんは僕がそう返すと、可笑しそうにお腹を抑えながら笑った。
「そんなにおかしいですか?」
「うん。君のその、変に改まってる感じとか、面白いよね」
愛夜さんは笑いを堪えながらそう言った。
「あの、愛夜さんは」
僕が何かを言おうとすると、ドアの向こうからノックの音がして看護師の女性が入ってきた。
「あら、今日はお客さんがいたのね、愛夜さん」
女性は愛夜さんにそう言うと、愛夜さんはやけに陽気に返した。
「そ!ホント、そばにいてくれる人がいるっていいよねー」
「そうね。じゃ、そろそろ診察の時間だから行こっか」
女性が微笑みながらいうと、愛夜さんは頷いた。すると、愛夜さんは僕に視線を戻して、僕の頭の上に手を乗せてゆったりとした声と何かで静かに言った。
「毎日こうやってその日にあったこと話そ?君といると、元気になるよ」
愛夜さんは微笑みながらそういうと、スリッパを履いて点滴がつけられた鉄の棒にタイヤがついたものを転がしながら、女性と一緒に病室をあとにした。
病室から出る直前、愛夜さんが振り向いて「またね」と微笑んで手を振った。あの顔と言動は、今も胸に焼き付いている。
春の、それもはじめの頃に吹く温かくてゆったりとした、花の香りがする風。別に今が初春って訳じゃない。むしろもう6月中旬で、そろそろ本当の夏がやってくる。
それなのに、今更春のような風が吹いて、僕の心に何かを残した。ささくれみたいに荒れた心に、何かが何かを残していった。
その翌日、僕また愛夜さんの病室に来ていた。
しかしタイミングが悪く、愛夜さんは診査中だった。僕は、愛夜さんが寝ているベッドの横の棚に置かれた、茶色い表紙で可愛げのない本を手に取った。
1ページ目くるとタイトルが書かれてあるページのはずだが、なぜかタイトルは黒いインクのペンかなにかでぐちゃぐちゃに塗りつぶされ、作者名も見えないようになっていた。
そのあとのページもめくろうと思ったが、いつ愛夜さんが来るかもわからないし、他人が読む本はあまり読まない方がいいと思って、棚の上へ戻した。すると、ふと花瓶に飾られた季節外れの花が目に止まった。それは紫色で、凛としていた。いい喩えが見つけられないけど、でも美しかった。
「綺麗でしょ?私の好きな花」
しばらく見つめていると、不意に扉の方から声がして、そのほうを見ると愛夜さんが、いつもの柔らかい微笑みを見せていた。
「はい。確か、アヤメですよね」
「その花の花言葉、知ってる?」
僕は答えに困った。花の名前ならなんとなく分かってはいたが、花言葉までは詳しく知ろうとしたことはなかった。
「なんですか?」
愛夜さんは僕の方へ回ってベッドに腰をかけて、アヤメを見て静かに言った。
「希望だよ」
その言葉にハッとした反面、よく分からないところもあった。
「何に対してのですか?」
「そりゃあ、この永命病に決まってるよ」
「どうして?だって、死ぬわけじゃないですよね?」
愛夜さんは僕がそういうと黙り込んでしまった。悪いことを言ってしまったかと、謝ろうとした時だった。愛夜さんはそんな僕を遮るように話し出した。
「うん。そうだね……でもね、老いもせず朽ちずに生きてこごらん?いつだって目の前にいた人がどんどん死んでしまうのに、自分だけが生き残るなんてさ…死んだも同然というより、一緒に死んでしまえたらいいのになんて思うよ」
愛夜さんが静かにそういうと、僕はもうそれ以降は何も言えなかった。
死のうと思えばいつでも死ねる僕と違って、愛夜さんは死ねない。死ねないことは聞こえはいいが、苦しみの数は死ねる人よりも多い。
僕は、なんて浅はかなんだ……
「君は、生きたい?死にたい?」
愛夜さんは僕に目を向けてそう言った。俯いたままの僕は答えられなかった。生きていても仕方はない。なにせ、学校はつまらないし家に帰っても温かいものなんてもう消えてしまった。愛情なんて誰からも感じられずに、今を生きてるつもり。別にそれが死にまで追い込む最たる理由って訳でもない。ただ、しんどくはなってきた。
「あ!」
不意に愛夜さんが大きな声を出した。
「私、明後日誕生日なの!プレゼント欲しいなぁー」
愛夜さんはさっきとは打って変わって人一倍明るい声でそう言った。僕はそれが、取り繕ったものだと分かったが、明るい表情に合わせた。
「そうなんですか、何がいいですか?」
「アヤメって言いたいところだけど、今日のこれがもう最後だからなぁーうーん、なんでもいいよ!」
少し期待をしていた僕は、そんな大雑把な回答にズコーっとこけそうだった。
「本当に言ってますか?」
「うん!君がくれるものならなんでも嬉しい!」
愛夜さんはまた無邪気な笑顔でそう言った。
僕はもう、自分でもわかるくらいその笑顔に動揺をしていた。
「明後日ですよね?それまでには用意しておきます」
僕の中では何をあげるかなんて決まっていなかった。何がいいのかもよくわからないし、いつも笑顔だから表情が読めなくてどうしたらいいのかわからない時が多々ある。
「うん!よろしく!」
僕は愛夜さんとそんな約束を交わすと、病室を出、家へ帰った。家の中は相変わらず真っ暗で、自分で明かりをつけるが、そこには何の感情も温かみもなかった。
幼い時から僕は叔母の元で育っていたが、母は物心ついた頃に死んでしまったため、少しくらいは母がいる温かみはわかってた。そしてそれは今になってもなお襲い続けた。
適当に夕食を済ませると、ベッドに思い切り横に倒れ込んで、プレゼントのことを考えた。
何がいいかなぁ、何なら喜んでくれるかな。そんなことを何回も考えていくうちに、心が変な気持ちになるのがわかった。
考え込んでると、なんだか眠くなってきた。
目が重い……瞼が……
目が覚めると次の日になっていた。僕は慌てて起き上がり、学校へ行く準備をした。
今日もまたいつも通り。何の変哲もない、輝きも何も無い日常を僕は送っていく。
「明日か……」
ボーッとしながら小さくつぶやくけど、特に意味は無い。
授業中も考えた。
気がつくと板書なんかひとつもしてなかった。
昼休み中も考えた。
気がつくとプレゼントを考えることに夢中になっていた。
夢中になっているといつもそれを遮るものが現れる。今日は陰湿な嫌がらせだった。
そんなに気に留めてはいないが、嫌な気持ちにはなった。
「今日もまた愛夜のところ行かなきゃなんだけどさぁ、くそめんどい」
そんな会話が聞こえてきた。愛夜、愛夜さんのことだろうか。少しに気になって、その声がして方を見た。でもその声の主は、少し話したくない相手だった。
「未来は偉いよねーそんなに繋がりもない従姉妹のお見舞い行くなんて」
「ほんっとめんどい。特に話すこともねぇっての」
未来ちゃんはどんどん言葉が荒くなった。
「あ?何見てんだよ」
もう既に不良の域だった。目が合うと眉間に皺を寄せて睨んできた。
「いや、なんでもないよ」
「きも」
目を逸らして背を向けると、未来ちゃんは小さくそう返してきた。
傷はついたけど泣きはしないし、そんなに気にもしなかった。未来ちゃんが口悪いのは同じ中学の子の間ては有名だけど、幼稚園の頃はもっと可愛げがあって、やさしかった。みんなが知らないそれを知ってるだけで、戻ってきてくれるような気がして、今の怖い未来ちゃんもそんなに気にならない。なによりも、慣れた。
今日はどうしようか。愛夜さんのところ、行こうかな。
少し迷った。悩んだ。行けば未来ちゃんと鉢合わせるかもしれない。本当は、少し苦手で、怖い。
「今日、その人のところに行くの?」
気がつくと僕はそんなことを聞いていた。
「は?あんたには関係ないから」
多分、聞いちゃいけないことというか、聞く相手を間違えたというか。とにかく、未来ちゃんに聞いてもそう帰ってくることは予測済みで、でも少しだけびっくりした。
ますます迷った。もしも本気で未来ちゃんが愛夜さんのところに行くのなら、今日は控えた方がいいかもしれない。そう思えてきた。
でも、そう思うたびに脳裏に、愛夜さんの微笑みと「来てくれる?」の言葉が出てきた。不意に、会いたいと思っていた。
ああ、今日も会いに行こう。
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そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ママと中学生の僕
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大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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