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【02】
雨の日に拾ったもの (ルシ+クロ+カイン)
雨は、黒い王都の石畳を細かく叩いていた。
屋根の縁から落ちた水が、路地の端で白く跳ねる。排水路には泥と枯れ葉、小さな魔石屑が流れ込み、ごぼりと低い音を残して暗がりへ吸い込まれていく。
濡れた石は靴底から冷たかった。
ルシの靴も、もうとっくに水を含んで重くなっている。
それでも、足は止めなかった。
十歳になったのだ。
もう二歳ではない。
兄に抱えられ、何も分からないまま《黒燈ギルド》の地下へ運び込まれた子供ではない。荷物くらい持てる。伝言も覚えられる。雨の夜に一人で廊下を歩いたところで、泣いたりしない。
黒燈本部の地上口から通りを一本隔てた雑貨屋で、包帯と油紙を受け取って戻るだけ。
それだけの用事だった。
出る前、カインは言った。
「寄り道するな」
低い声で、短く。
ルシは「分かってる」と返した。
分かっていた。
本当に、分かっていたつもりだった。
けれど、雨音の奥で小さな声がした。
「……きゅ」
ルシの足が止まる。
水の詰まった排水路が鳴ったのかと思った。
だが、違う。
もう一度、細く弱い声が、雨に押し潰されながら届いた。
「きゅぅ……」
路地の奥だ。
ルシは油紙に包まれた荷物を胸へ抱え直した。
濡れた革。
雨で冷えた石。
腐りかけた木箱。
その奥に、かすかな鉄の匂いが混じっている。
怪我の匂いだった。
黒燈で育つと、嫌でも覚える。
血の匂いは、ただ赤いだけではない。新しいものは濃く、古いものは錆びた金具に似ている。雨に混じれば薄く広がり、どこから来たのか分かりにくくなる。
「……見るだけ」
誰に言い訳したのか、自分でも分からない。
ルシは路地へ入った。
足音を小さくする。
水たまりを避ける。
壁際を歩き、先に出口を確かめる。
兄に教わったことを一つずつ思い出した。それでも焦るほど、靴先が石を擦った。濡れた袖が腕へ貼りつき、冷たさが手首から忍び込む。
路地の奥、崩れた木箱の陰に黒いものがいた。
最初は、捨てられた布の塊に見えた。
雨を吸ってしぼんだ黒い毛。
長い耳。
泥で重くなった太い尾。
小さな前足の片方を胸元へ抱え込み、全身を細かく震わせている。
黒い毛玉だった。
毛玉はルシに気づくと、身体をさらに縮めた。濡れた耳がぺたりと伏せる。
鼻先だけが、ひく、と動いた。
雨。
泥。
血。
冷たい金具。
怖い匂いばかりだった。
そこへ、軽い足音が近づいてくる。
黒い毛玉は、人の言葉を知らない。
近づくものが何を言っているのかも分からない。
ただ、乱暴な足音と、迷っている足音の違いは少しだけ知っていた。
この足音は軽い。
けれど、震えている。
「怪我してる」
ルシがしゃがみかける。
その瞬間、背後の暗がりで金具が鳴った。
ちり、と。
細く冷たい音だった。
黒い毛玉の尾が一気に膨らむ。喉の奥へ、濁った声が引っかかった。
「ぎゅっ……」
「へえ。まだ動けるのか」
男の声だった。
ルシは振り向く。
路地の入口ではない。
さらに奥、積み上げられた空箱の陰から、濡れた外套の男が現れた。
手には細い金具のついた術具。金具の先から、雨に紛れるほど薄い線が垂れている。
男の足元には、小さな魔獣が二匹いた。
痩せた身体。
濁った目。
首元には粗い拘束具が食い込んでいる。
自分の意思で歩いているというより、見えない線に引かれているような足取りだった。
ルシの喉が鳴る。
怖い。
はっきりそう思った。
逃げた方がいい。
兄を呼ぶべきだ。
頭では分かっている。
けれど、黒い毛玉はもっと怖がっていた。
痛む前足を庇いながら、わずかに身体を逃げ道へ向けている。それでも、男と二匹の魔獣の間を抜ける力は残っていないようだった。
「坊主、それに触るな」
男が笑う。
「噛まれるぞ」
「お前の?」
「拾ったのは俺の方が先だ」
「嘘だ」
言ったあとで、自分の声が震えていたことに気づいた。
男の笑みが深くなる。
「威勢だけはいいな」
ルシは荷物を壁際へ置き、小刀を抜いた。
護身用の短い刃。
カインが見れば、まず構え方に眉をひそめるだろう。
腰が高い。
足が止まっている。
相手との距離が近い。
その握り方では手首を取られる。
死ぬぞ。
いつもの低い声が、頭の中で次々に欠点を並べる。
それでもルシは、黒い毛玉の前に立った。
十歳の背は、大人を遮るには小さい。
雨に濡れた肩も震えている。
それでも、怖いものと黒い毛玉の間へ、細い身体を割り込ませた。
「来るなよ」
「威嚇のつもりか?」
「近づくなって言ってんだよ」
「ルシ」
雨音の向こうから、低い声が落ちた。
ルシの身体が固まる。
「……兄貴」
路地の入口にカインが立っていた。
十八歳。
黒い外套は雨を吸って重くなっている。それでも、立ち姿に大きな乱れはない。
「戻りが遅い」
「まだ、そんなに――」
「遅い」
怒っている。
ルシには、声だけで分かった。
だが、その怒りの奥に、もっと鋭いものがある。
カインはすでに男と二匹の魔獣、拘束具から伸びる線、ルシの位置、黒い毛玉の傷、左右の出口まで見ていた。
濡れた石へ、低い足音が一つ落ちる。
黒い毛玉は首をすくめた。
大きな足音。
大きな影。
けれど、目の前に立つ子供の匂いが、一瞬だけ緩んだ。
怖いはずなのに、少しだけ息を戻した匂いだった。
「下がれ」
「でも、こいつ怪我して――」
「下がれ。お前ごと捕まる」
「でも!」
「ルシ」
短い一言。
それだけで、ルシは奥歯を噛んだ。
一歩下がる。
だが、黒い毛玉の前から完全には離れなかった。
カインはそれを見た。
責めるような目ではない。
だから余計に、ルシの胸が痛んだ。
怒鳴られる方が、まだ楽だった。
「触るな。噛まれる」
「兄貴、怪我してる」
「だから近づくなと言っている」
「でも、このままだと死ぬ」
雨が、兄弟の間へ絶え間なく落ちた。
カインは一瞬だけ黙る。
視線が黒い毛玉の前足へ落ち、次に男の術具へ移った。
「布を出せ」
ルシは目を見開く。
「助けるの?」
「助けると決めたなら、最後まで持て」
カインの声は硬い。
「途中で怖くなって投げるな」
「……投げない」
「なら下がれ。俺が止める」
ルシは濡れた袋から布を引き出した。
指が震え、布の端を一度取り落とす。
怖いのだと、今になって身体が認めた。
男が舌打ちした。
「そいつを渡せ」
「これは、お前のものじゃない」
カインは男を見る。
雨音が強くなった。
「ただの通りすがりにしちゃ、手慣れてるな」
「術具を下ろせ」
「どこの飼い主気取りだ」
「飼い主じゃない」
カインの声が一段低くなる。
「だが、お前に渡す理由はない」
「嫌だと言ったら?」
「折る」
次の瞬間、男が術具を振った。
狙いは黒い毛玉ではない。
ルシの腕だった。
子供を捕らえ、引き寄せるための線。
ルシが動けば毛玉も動く。まとめて奪うつもりなのだ。
細い線が雨を弾きながら迫る。
ルシの足が止まった。
だが、カインはすでに動いていた。
半歩、前へ。
濡れた石を踏む音が、ど、と低く沈む。
カインは線そのものを斬らなかった。
術具の先で張力を支えている小さな金具。その根元へ短剣の背を差し込み、男の手首ごと外へ捻る。
線の向きが逸れた。
ルシの腕を狙っていた輪が石壁へ当たり、雨水の中へ崩れる。
男の目が見開かれた。
カインの左手が、術具を持つ手首を打つ。
骨を砕くほどではない。
だが、指を開かせるには十分だった。
術具が石畳へ落ちる。
金具が二度跳ね、ちり、ちり、と細い音を立てた。
男の顔から笑みが消える。
目の前の若い男が、ただ弟を追ってきた兄ではないと、ようやく理解したらしい。
それでも、今のカインは後年ほど静かではなかった。
踏み込みは強く、肩には怒りが残っている。
だが、刃の向きだけは誤らない。
殺す場所ではなく、止める場所を見る。
男の足元から、一匹目の魔獣が飛びかかった。
黒い毛玉の尾が膨らむ。
「ぎゅっ……!」
カインは刃を抜ききらなかった。
鞘の硬い端で魔獣の鼻先を逸らし、返す動きで前足を払う。
身体が雨水の中へ転がった。
二匹目がルシの方へ回り込もうとする。
「兄貴!」
カインの膝が魔獣の胸を押し返した。
首元の拘束具に埋め込まれた制御金具へ、短剣の柄を叩き込む。
金具が歪み、魔力の光が途切れた。
魔獣は甲高い声を上げたが、死なない。
身体を震わせながら後ずさり、首を振って雨水を散らした。
男が逃げようとする。
カインは追うより先に、その懐へ入った。
喉元へ短剣を置く。
深くは入れない。
動けば皮膚が裂ける。それだけの位置。
「もう一度言う」
低い声が、雨の底へ沈む。
「これは、お前のものじゃない」
男の喉が鳴った。
「……た、ただの獣だろ」
「なら、命を張って取り返す価値もないな」
カインは刃を引く。
代わりに短剣の柄で、男の手首をもう一度打った。
術具の金具が踏まれ、硬い音を立てて割れる。
続いて膝裏を蹴ると、男の身体が崩れ、濡れた壁へ肩から叩きつけられた。
鈍い音は、雨に沈んだ。
「次に子供へ線を向けたら、逃げられると思うな」
男は答えない。
腕を押さえ、這うように路地の奥へ逃げていく。
制御を失った二匹の魔獣も、低く唸りながら別の暗がりへ退いた。
カインは追わなかった。
ルシと、怪我をした毛玉を置いて追う理由はない。
代わりに男の顔と歩き方、外套の留め具を記憶する。
割れた術具から黒ずんだ芯を拾い、布へ包んで懐へ入れた。
路地に残ったのは、雨音と、ルシの荒い呼吸、小さな身体の震えだけだった。
「きゅ……」
黒い毛玉が鳴く。
ルシはすぐにしゃがみ込んだ。
「大丈夫か?」
「きゅぅ……」
「ごめん。怖かったよな」
手を伸ばしかけ、止める。
黒い毛玉の身体が、わずかに縮んだからだ。
ルシは掌を伏せず、指先だけを見える位置へ置いた。
「触らないから」
意味が伝わったわけではない。
それでも、手が急に近づいてこないことは分かる。
黒い毛玉の鼻先が、ルシの指へ向いた。
一度止まり、ひく、と動く。
雨と、濡れた革。
震える子供の体温。
さっき、自分の前へ立った匂い。
黒い毛玉は、その匂いを覚えた。
鼻先を、ルシの指へそっと触れさせる。
伏せていた耳が、ほんの少しだけ戻った。
「きゅう」
ルシの顔が明るくなる。
「兄貴、今の聞いた?」
「聞こえた」
「返事した」
「鳴いただけだ」
「返事だって」
「都合よく取るな」
「兄貴、冷たい」
「お前は危なすぎる」
カインは短剣についた雨水を払い、袖の内側へ戻した。
動きに迷いはない。
だが、黒い毛玉へ近づく時だけは速度を落とした。
急に掴まない。
逃げ道を塞がない。
ルシと毛玉の正面ではなく、少し横へ膝をつく。
黒い毛玉はカインを見上げた。
大きな手。
怖いものを遠ざけた手。
けれど、自分にはまだ触れない手。
カインが近づくと、太い尾が身体へ巻き込まれる。
それでもルシが隣で息を吐くと、尾の先だけが少し緩んだ。
カインは前足の傷を見る。
「浅い」
ルシの肩から力が抜けた。
「治る?」
「治る」
「よかった」
「お前の手も見せろ」
「え、オレ?」
「親指が切れている。小刀の握り方も悪い」
「細かいな」
「細かく見るから生き残る」
カインはルシが持ち帰るはずだった包帯を一巻き抜いた。
「それ、店の荷物」
「使うために買った」
「黒燈の分だろ」
「今も黒燈のために使っている」
「こいつ、まだ黒燈じゃないけど」
「なら、お前の取り分から引く」
「細かい!」
カインは答えず、黒い毛玉の前足へ布を当てた。
手つきは丁寧だった。
優しい、という言葉とは少し違う。
必要なことを、必要な強さで、必要な分だけ行う手だった。
包帯が傷へ触れる。
黒い毛玉の耳がぴんと立ち、すぐに痛みを堪えるように伏せられた。
爪が石畳を、かり、と小さく掻く。
尾が膨らみかけたが、ルシの袖へ鼻先を寄せると、また少しだけしぼんだ。
「きゅ……」
「痛むか」
「きゅう」
「すぐ終わる」
カインが結び目を作る間、黒い毛玉は前足を引かなかった。
代わりに、小さな爪でルシの服の端を掴んでいる。
ルシが横から覗き込む。
「兄貴、動物には優しいな」
「お前にもこれくらいで済ませたい」
「怖いこと言うなよ」
「魔獣の前に立った件は、戻ってから話す」
「今じゃないの?」
「長くなる」
「長いやつ?」
「長い」
「最悪」
ルシは肩を落とした。
それでも黒い毛玉を見ると、すぐに口元を緩める。
「お前、名前あるのか?」
「今つけるな」
「まだ何も言ってない」
「拾う気だろ」
「だって、ここに置いたらまた変なのに捕まる」
「黒燈は拾い物置き場じゃない」
「オレたちだって拾われた」
カインの手が止まった。
雨が、兄弟の間へ落ち続ける。
ルシは言ってから、少しだけ口を閉じた。
自分は、あの日のことをほとんど覚えていない。
暗い場所。
抱えられた体温。
離さないように、自分を包んでいた腕の強さ。
残っているのは、それくらいだ。
けれど、カインが覚えていることは知っている。
カインは何も言わなかった。
包帯の結び目を確かめ、指を離す。
「……連れて帰るなら、お前が世話をしろ」
ルシの目が輝く。
「いいの?」
「いいとは言っていない」
「でも、駄目とも言ってない」
「勝手に解釈するな」
「兄貴、一緒にダリウスに怒られて」
「なぜ俺が」
「助けたの、兄貴だし」
「見つけたのはお前だ」
「じゃあ共犯」
「違う」
「共犯だって」
黒い毛玉は、二人の声を聞き比べるように耳を動かした。
硬い声。
跳ねる声。
言い争っているのに、どちらも立ち去らない。
雨の日に、そばへ残る声だった。
ルシは布を広げ、黒い毛玉の前へ置いた。
「抱くぞ」
返事はない。
急に持ち上げず、布ごと包む。
小さな身体は濡れていて、思ったより軽かった。
持ち上げられた瞬間、黒い毛玉の身体が固くなる。痛む前足を浮かせ、尾を腹の下へ巻き込んだ。
それから、ルシの胸元へ鼻先を寄せる。
腕は少し震えている。
だが、乱暴には揺れない。
前足の爪が、ルシの服を小さく掴んだ。
「お前、黒いな」
「見れば分かる」
「名前、黒いから……」
「帰ってからにしろ」
「今ちょっと思いついただけだし」
「口に出ている」
「兄貴、細かい」
「何度言わせる」
カインは壁際に置かれた荷物を拾い、ルシの肩へ掛けた。
「抱えたなら落とすな」
「落とさない」
「走るな。足元を見ろ」
「分かってる」
「泣くのは戻ってからにしろ」
「泣いてない」
「声が濡れている」
「雨だよ」
カインは返事をしなかった。
ただ、ルシの半歩前を歩き出す。
低い足音が、雨の中でも迷わず続く。
黒い毛玉は布の隙間から、その背を見た。
怖い男と冷たい金具の匂いが遠ざかる。
代わりに、ルシの身体から伝わる熱と、胸の奥で鳴る速い鼓動が近くにある。
その意味を、黒い毛玉はまだ知らない。
けれど、腕の中は雨より温かかった。
「帰るぞ」
カインが言う。
ルシは黒い毛玉を抱き直した。
「帰ろうな」
「きゅう」
雨はまだ、石畳を叩いていた。
*
黒燈ギルド本部へ戻ると、ルシは当然のように怒られた。
正確には、ルシが怒られ、カインも少しだけ巻き込まれた。
地下実務区画の卓の前に、ダリウスが立っている。
濡れた兄弟。
ルシの腕の中の黒い毛玉。
カインが卓上へ置いた、割れた術具の芯。
その三つを順に見た。
短く太い二本角へ、魔石灯の鈍い光が乗っている。
声を荒らげてはいない。
それでも、周囲の空気は十分に重くなった。
雨を吸った外套の匂い。
濡れた靴から落ちる水。
食堂から流れてくる香草の湯気。
そのすべてが、ダリウスの沈黙の中で少しだけ小さくなる。
黒い毛玉は、ルシの腕の中で身体を低くした。
長い耳がぺたりと伏せられる。
黒い鼻先が、ルシの袖の内側へ隠れようと動いた。
目の前の男は大きい。
重い足音と、低い声の匂いがする。
ルシの腕が少しだけ強くなった。
ダリウスが、割れた金具を指先で動かす。
「捕獲具か」
「ああ」
カインが答えた。
「小型の魔獣を二匹、これで動かしていた」
「使い手は」
「逃げた。顔と歩き方は見た」
「後で話せ。保全へ回す」
「ああ」
「追う者は別に出す」
ダリウスは術具から手を離し、ルシを見る。
「何を拾った」
ルシは胸を張った。
「黒い毛玉」
「見れば分かる」
「怪我してた」
「それも見れば分かる」
「魔獣に襲われてた」
「なぜお前がそこにいた」
「……声がしたから」
「一人で路地へ入ったのか」
「見るだけのつもりだった」
「見ていただけで済んだか」
ルシは少しだけ縮こまる。
横からカインが言った。
「俺が追いつくのが遅れた」
「兄貴?」
「ルシを一人で戻らせた。俺の判断が甘かった」
ダリウスはカインを見る。
「今日は間に合った」
低い声だった。
「次も間に合わせろ」
「……ああ」
責めるでも、褒めるでもない。
次に生きて戻るための言葉だけが置かれる。
ダリウスの視線が、黒い毛玉へ落ちた。
長い耳。
太い尾。
包帯を巻かれた前足。
人の腕へ慣れていない身体の固さ。
「噛まれたか」
「噛まれてない」
「隠すな」
「隠してない」
「手を見せろ」
「兄貴にも見られた」
「なら、もう一度だ」
ルシは渋々、片手を出した。
親指の脇に、小さな切り傷がある。
ダリウスは傷を確認し、次に黒い毛玉の前足を見る。
路地で何があったのか、おおよそは分かったのだろう。
「名前は」
ルシは口を開きかける。
黒いから。
黒い毛玉だから。
短くて、呼びやすい音が喉元まで出ていた。
だが、ダリウスが先に言った。
「名前は後だ。まず手当てしろ」
ルシは唇を尖らせる。
「もう思いついてるのに」
「後だ」
「ちょっとだけでも?」
「後だ」
隣でカインが短く息を吐いた。
「助けるなら、勝手に抱え込むな」
ダリウスの声が、また重くなる。
ルシの表情が少しだけ固まった。
「……抱え込んでない」
「今はな」
ダリウスは黒い毛玉を見る。
「黒燈は、拾ったものを飾りにはしない。生かすなら世話をする」
「する」
「お前だけで無理なら言え」
「できる」
「できなくなる前に言え」
ルシは反論しかけ、口を閉じた。
できると言いたい。
だが、路地で足が動かなかったことを身体が覚えている。
怖かった。
助けたいと思っても、手は震えた。
「……分かった」
「医務へ運べ」
ダリウスが顎をしゃくる。
近くにいた医務係が、湯と布、薬草を用意した。
大げさに歓迎する者はいない。
面白がって覗き込む者もいない。
任務帰りの者が黙って道を空ける。
濡れた靴が石床を擦る音。
棚から布を引き出す音。
乳鉢の中で薬草をすり潰す、小さな硬い音。
黒い毛玉は、ルシの腕の中で震えていた。
知らない場所。
知らない匂い。
人が多い。
足音も多い。
けれど、冷たい金具の音はしない。
雨が身体へ当たらない。
ルシの腕も離れない。
「痛いけど、少し我慢な」
「きゅぅ……」
「すぐ終わるって。たぶん」
「たぶんで言うな」
カインが横から言う。
「だって、オレが手当てするわけじゃないし」
「世話をすると言った」
「う」
「見ろ。覚えろ」
「分かったって」
医務係が傷を洗う。
黒い毛玉は何度も身体を竦ませた。
湯が傷へ触れるたび、喉の奥から細い声が漏れる。前足を引こうとすると、濡れた毛と布が擦れた。
それでも、ルシの匂いは近くにある。
カインの低い足音も、離れない。
薬草は苦い。
だが、路地の術具が放っていた冷たい匂いとは違う。
湯。
布。
古い木棚。
食堂から届く温かなスープ。
知らない場所の匂いが、一つずつ、怖くないものへ変わっていく。
「きゅ……」
「痛むか」
カインが短く聞いた。
「きゅう」
「返事した」
ルシが笑う。
「鳴いただけだ」
「兄貴、さっきもそれ言った」
「事実だ」
「でも、返事だって」
カインは今度は否定しなかった。
手当てが終わると、黒い毛玉には古い布を重ねた寝床が与えられた。
高価なものではない。
けれど、雨は当たらない。
魔獣の匂いもしない。
誰かの足へ追い立てられることもない。
布の上へ下ろされても、黒い毛玉はすぐには丸くならなかった。
まず、逃げ道を探す。
壁際を見る。
扉を見る。
人の手が届く距離を測るように、鼻先を動かす。
古い布。
湯。
薬草。
少しだけ残った、ルシの匂い。
尾の先が、ぴくりと動いた。
痛む前足を胸元へ庇い、ようやく身体を丸める。
近くにはルシが座っていた。
眠そうな目をしているのに、布の端を何度も直している。
カインは少し離れた壁際に立ち、腕を組んでいた。
休んでいるようで、やはり出口とルシを見ている。
ダリウスは一度だけ黒い毛玉へ目を向け、短く言った。
「夜の間、様子を見ろ」
「オレが見る」
「寝落ちするな」
「しない」
「する」
カインが即座に言った。
「兄貴まで」
「する」
「二人で決めつけるなよ」
「きゅう」
黒い毛玉が鳴いた。
先ほどまでより、少しだけ力のある声だった。
耳がわずかに立ち、太い尾の先が布の上で小さく跳ねる。
ルシの顔が明るくなる。
「ほら、こいつはオレの味方」
「都合よく取るな」
「兄貴、それ好きだな」
「お前が都合よく取るからだ」
ルシは布の端から手を離した。
黒い毛玉は逃げない。
だが、完全に身体を預けたわけでもない。
耳は廊下の音へ何度も向く。
尾も腹の下へ巻かれたままだ。
まだ怖い。
まだ何も知らない。
それでも、ルシの手は急に掴まない。
カインの足音は近づきすぎない。
ダリウスの重い声は、ここから追い出そうとはしない。
雨の冷たさが遠ざかる。
泥と血の匂いも薄れ、代わりに布と薬草、食堂の温かな匂いが増えていった。
「黒いからさ」
ルシが小さく言った。
カインが壁際から視線だけを向ける。
「まだつけるなと言った」
「呼んでない。考えてただけ」
「口に出ている」
「じゃあ、明日考える」
「寝る気だな」
「寝ないって」
ルシの声は、もう半分眠っていた。
黒い毛玉は布の上で丸くなる。
ルシの跳ねる声。
カインの低い足音。
ダリウスの重い声。
黒燈の灯り。
その意味を、黒い毛玉はまだ知らない。
家族という言葉も。
相棒という言葉も。
帰る場所という言葉も知らない。
ただ、怖くない匂いがある。
温かい匂いがある。
今は逃げなくてもいいと思える匂いがある。
黒い毛玉は身体をさらに小さく丸め、太い尾で鼻先を隠した。
「きゅう……」
小さな鳴き声が、布の中へ沈む。
雨はまだ、屋根を叩いている。
けれど、その音はもう、追い立てる音ではなかった。
雨の日に、ルシは黒い毛玉を拾った。
そして黒い毛玉もまた、雨の日にルシの匂いを拾った。
― 雨の日に拾ったもの・了 ―
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名も経歴も偽り。
ただ腕がいい、それだけは確かな男。
尋問に対し、彼は白状ではなく提案を持ち出す。
「白状はしない。だが、契約ならする」
敵国のスパイと、帝国の長官。
交渉は奇妙な形で成立する。
「名前は」
「リュシアン」
その日、移り気な猟犬と飼い主の関係が始まった。
やがて、契約は裏切りへ。
裏切りは、追跡へ。
追跡は――執着へと変わっていく。
登場人物
フェリクス・ハルトマン
帝国軍情報部の長官。
感情を見せない軍人。静かな視線で相手を見定める。
リュシアン・モロー
敵国の諜報員。
捕虜の立場でありながら、白状ではなく契約を持ち出す男。
軽口と皮肉を武器にする。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
ぼくはしょくしゅ★
ぼくはしょくしゅ、ぜろさい。
「ぱんどら、おはよう、おなか空いたでしょう、すぐにあさごはんをあげるからね」
これはぼくのぱぱ。
白衣を着て、細長い目にめがねをかけて、とてもやさしいぱぱ。
「ぱんどら、元気してっか?」
これは、こーへー。
こーへーはこの学園の不良というやつ。
「ほんと変わった生きモンだなー」
やさしいぱぱより、やさしい、やさしい、こーへー。
ぼく、こーへー、すきすき。
「――ぱんどらは僕が作り出したんだ」
「へぇ、すげぇ」
「誰にも秘密だからね」
「んー」
「あと、絶対に、金魚鉢から出したらいけないからね」
■金魚鉢から「ぱんどら」を出してしまった不良くんの受難の放課後/ほぼほぼえろ
▲表紙は素材をお借りしています/爪爪様(pixiv:ID 18732139)、ゴリラの素材屋さん様(pixiv:ID 81433479)▲
竜神様の番
いつかX内で呟いた、
『えーん、えーん…💦
竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…!
後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』
という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。
「番」とは何かも知らされず、
選択肢すら与えられなかった人間リオと、
大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。
ちゃんとハッピーエンドです。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕





