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【03】
黒燈の毛玉 (ルシ+クロ)
雨の夜が明けても、《黒燈ギルド》本部の食堂には、外の冷たい空気が残っていた。
香草を入れたスープの湯気。
黒麦パンの焼けた匂い。
濡れた外套から石床へ落ちる水滴。
革、鉄、紙、血止め薬。
任務帰りの者たちが持ち込んだ、夜明け前の街の匂い。
黒い毛玉は、食堂の机の下で身体を丸めていた。
雨を吸った黒毛は、乾き始めてもまだ細い束になっている。
長い耳。
身体に対して大きく見える太い尾。
今よりひとまわり小さな身体は、畳まれた古布の上へ伏せても、どこか頼りなかった。
机の脚の奥には壁がある。
前には逃げ道がある。
上から伸びてくる手も、今のところはない。
「おい。出てこない」
高い声がした。
黒い毛玉は、耳だけを動かした。
雨の日の冷たい腕。
濡れた布。
速い鼓動。
痛む前足へ触れようとして、途中で止まった手。
その匂いを知っている。
十歳のルシが、小さな皿を持って机の前へしゃがみ込んでいた。
「飯だぞ」
陶器の底が石へ触れる。
こと、と小さく鳴った。
黒い毛玉は動かない。
「取って食わないって」
ルシが皿を押しかける。
黒い毛玉の耳が、ぺたりと伏せられた。
近い。
まだ、近すぎる。
「あ、悪い」
ルシの手が止まった。
皿から指を離し、両手を自分の膝へ戻す。
その背後へ、低い足音が一つ落ちた。
「机の下へ手を入れるな」
十八歳のカインだった。
黒い服。
短く硬い声。
まだ両目とも、机の下をまっすぐに見ている。
「噛まれる」
「噛まないかもしれないだろ」
「怖ければ噛む」
「じゃあ、どうすんの」
「飯を置いて待て」
「見てたい」
「なら黙って見ていろ」
「喋るくらいいいだろ」
「声がうるさい」
「兄貴、すぐそれ言う」
カインは返さなかった。
黒い毛玉を追い出そうともせず、ルシの肩越しに見ている。
隠れている場所まで届く目。
けれど、逃げ道を塞ぐ目ではない。
ルシは膝へ両手を置いたまま、首を傾けた。
「なあ、黒いの」
黒い毛玉は耳だけを動かす。
「黒いから、クロでいいだろ」
「雑だな」
カインが即座に言った。
「分かりやすいだろ」
「本人に聞け」
「聞いてる」
「答えられない」
「返事くらいするかも」
ルシは身を乗り出しかけた。
伏せられた耳を見て、すぐ元の位置へ戻る。
「クロ」
「……きゅう?」
長い耳が、ぴくりと動いた。
ルシの顔が明るくなる。
「ほら。返事した」
「音に反応しただけだ」
「返事したって」
「都合よく訳すな」
クロ。
その音の意味は分からない。
けれど、その音のあとには、あの子供の匂いが近くなる。
温かい飯が置かれる。
手は急に伸びてこない。
「クロ、飯」
皿から、肉を柔らかく煮た匂いがした。
薬草の苦い匂いが、ほんの少し。
雨水でも、泥でもない。
黒い毛玉は前足を一つ出した。
爪が石床へ触れる。
かり、とかすかな音が鳴った。
食堂の声が少しだけ低くなる。
誰かが見ている。
けれど、覗き込む顔は近づかない。
椅子を動かす者もいない。
黒い毛玉は、もう一歩出た。
逃げ道を見る。
カインの足を見る。
ルシの手を見る。
手は膝の上で待っていた。
黒い毛玉は皿へ近づき、鼻先を縁へぶつけた。
こつん。
「食った」
ルシの声が上ずる。
「兄貴、食ったぞ」
「見れば分かる」
「クロ、うまいか」
「きゅ」
「ほら。うまいって」
「食いながら喋らせるな」
「兄貴、細かい」
「お前が雑だ」
黒い毛玉は皿を舐めながら、音を覚えた。
椀の音。
匙の音。
ルシの跳ねる声。
カインの低い声。
それから、クロ、という音。
◇
◇
◇
一年が過ぎた。
クロは、拾われた夜より少し大きくなった。
濡れて細くなっていた黒毛は豊かに膨らみ、長い耳も太い尾も、本来の形を取り戻している。
それでも、今よりはまだ小さい。
十一歳になったルシが抱き上げる時は、両腕が必要だった。
片方の腕で胸を支え、もう片方の手を腹と後ろ足の下へ回す。細い両腕をきちんと使って、ようやく安定して抱えられる。
クロの方も、その抱き方を覚えていた。
持ち上げられる前に身体を固くすることは、もうほとんどない。
ただし、ルシが片手を離すと話は別だった。
「きゅう!」
「分かってる。落とさないって」
「両手で持て」
カインの声が飛ぶ。
「持ってる!」
「今、片手を離した」
「札を取ろうとしただけだろ」
「先に下ろせ」
「兄貴、すぐ正しいこと言う」
「正しくないことを言う理由がない」
ルシは口を尖らせながら、クロを床へ下ろした。
胸と腹を両手で支え、四本の足が石へ触れるまで離さない。
小さな爪が床を掻いた。
かり、と乾いた音がする。
クロは身体を一度震わせ、太い尾を持ち上げた。
ここは食堂ではない。
黒燈本部の伝令房だった。
壁には、行き先ごとに分けられた細い棚が並んでいる。
短い伝令札。
小さな封筒。
革製の札入れ。
床の隅には水皿が置かれ、天井近くには小型伝令獣が出入りする窓が開いていた。
黒羽の小鳥が一羽、窓枠へ舞い降りる。
脚へ結ばれた小筒を通信係が外すと、小鳥は短く鳴いて水皿へ嘴を入れた。
クロは、その様子を見上げる。
長い耳が左右へ傾いた。
「飛ぶのは無理だな」
ルシが言った。
「見れば分かる」
「兄貴、何でもそれで返すなよ」
「事実だ」
クロは太い尾を床へ打ちつけた。
豊かな黒毛が石を、ばさりと撫でる。
「クロは走る方だよな」
「きゅう」
「ほら」
「今のは返事じゃない」
「返事だって」
カインは相手にせず、伝令棚から細い木札を取った。
薄い革で作られた小さな札入れへ差し込み、留め具を確かめる。
札入れには、身体を締めつけない幅の帯がついていた。
胸の前と腹の下へ回し、走ってもずれない位置で留める。
カインがしゃがむ。
クロは、わずかに身を引いた。
「動くな」
「きゅう……」
「痛くはしない」
言葉が分かったわけではない。
それでも、カインの手は急に掴まない。
胸元へ帯を回し、黒毛を挟まないよう指先で確かめる。
留め具が噛み合った。
硬い金具同士が触れ、かち、と乾いた音を立てる。
クロの耳が立った。
「似合うじゃん」
ルシが笑う。
「遊びじゃない」
「分かってる」
「顔が分かっていない」
「顔は仕方ないだろ」
最初の訓練は、伝令房から食堂までだった。
毎日通っている廊下を走り、奥の卓にいる黒燈の者へ札を届ける。
相手が返事の札を入れたら、伝令房へ戻る。
外には出ない。
敵もいない。
クロが知っている匂いばかりの道だった。
「簡単だな」
ルシが言う。
「最初は簡単にしろ」
カインが返した。
「クロなら、もっとできるって」
「できることと、やらせることは別だ」
ルシは何か言い返そうとした。
その前に通信係が廊下を指す。
クロの耳が動いた。
「クロ」
ルシがしゃがみ、背の札入れを指先で軽く叩いた。
「これ、食堂までな」
「きゅう」
「奥の卓にいる人に届けて、戻ってくる」
「きゅ」
「分かった?」
クロはルシを見上げた。
次に廊下を見る。
それから、もう一度ルシへ鼻先を向ける。
「行ってこい」
ルシが腕を伸ばした。
クロは走り出した。
爪が石床を細かく叩く。
かり、かり、かり、と軽い音が廊下を進んでいく。
「行った!」
ルシが立ち上がる。
「声を出すな」
「もう行ったからいいだろ」
「呼べば戻る」
「この距離で?」
ルシが廊下を覗き込んだ。
「クロ!」
曲がり角の手前で、黒い尾が止まった。
長い耳がこちらへ向く。
クロは数歩迷い、くるりと向きを変えた。
「あ」
来た時より速い足音が戻ってくる。
クロは真っすぐルシの足元まで走り、前足を膝へかけた。
「きゅう!」
「戻ってきた」
「お前が呼んだ」
「いや、でも――」
「呼べば戻る」
「行けって言ったあとに、一回呼んだだけだろ」
「戻った」
「う」
クロはルシを見上げている。
戻ってきたことを喜ばれると思っているのか、太い尾が床を掃いていた。
ルシはしゃがみ、クロの頭へ触れかける。
カインの手が、その手首を止めた。
「まだ褒めるな」
「何で」
「伝令は終わっていない」
「戻ってきたのは悪くないだろ」
「届けていない」
ルシは黙った。
クロが二人を見比べる。
「もう一回」
次は、声をかけなかった。
クロを送り出し、ルシは両手を口元へ当てたまま待つ。
クロは廊下を走る。
曲がり角を抜ける。
姿が見えなくなる。
数息後。
軽い足音が戻ってきた。
「何で?」
クロの札入れには、最初の木札が入ったままだった。
食堂までは行っていない。
見えない場所まで進み、ルシのところへ戻ったらしい。
「きゅう」
クロがルシの靴へ鼻先を押しつける。
「オレ、呼んでないよな」
「呼んでいない」
「じゃあ、何で戻るんだよ」
「お前のところへ戻れば褒められると思っている」
「昨日まで、戻ってきたら褒めてたから?」
「たぶんな」
ルシの眉が下がる。
クロが戻れば安心した。
廊下の先で姿が見えなくなれば、名前を呼んだ。
遠くへ行きすぎないよう、自分のそばへ戻ることを教えてきた。
今度は、自分から離れることを教えようとしている。
「難しいな」
「クロにとってはな」
「オレも?」
「お前もだ」
「何でオレまで訓練されるんだよ」
「送り出す側だからだ」
カインは短く言った。
「行かせろ」
ルシはクロの背にある札入れを見た。
革の端から、木札が少しだけ覗いている。
届けなければならないもの。
それを持って、自分の見えない場所へ行く。
戻ってくると信じて待つ。
ルシは唇を結んだ。
「……もう一回」
◇
訓練は、何日も続いた。
初日は、曲がり角から戻った。
二日目は食堂の入口まで行き、肉を煮る匂いに引かれて皿の前へ座り込んだ。
三日目は、相手へ札を届けることに成功した。
だが、新しい札を入れてもらう前に伝令房へ戻ってしまった。
「半分だな」
通信係が言った。
「届けたんだから、ほとんど成功だろ」
ルシが反論する。
「返事がない」
カインが答えた。
「取りに戻ればいい」
「クロを使う意味がなくなる」
「じゃあ、半分か」
「半分だ」
クロは褒めてもらえると思っていたらしく、ルシの足元へ座り、顔を見上げている。
「きゅう」
「兄貴、少しくらい褒めていいだろ」
「届けたことはな」
カインはしゃがみ、クロの背の札入れへ指を触れた。
「ここまではできた」
「きゅ」
「次は返事を持て」
「きゅう」
「分かってるみたいじゃん」
「音に反応しているだけだ」
「兄貴、ほんと夢がない」
「夢で伝令は届かない」
失敗しても、クロを叱る者はいなかった。
届く距離を少しずつ伸ばす。
行き先にいる者は、クロへ急に手を伸ばさない。
札を受け取る時は、先に札入れの金具へ触れ、小さな音を鳴らして知らせる。
返事を入れたあと、必ず伝令房の方角へ身体を向けてから放す。
ルシも、呼ばなくなった。
姿が見えなくなっても追いかけない。
廊下の先を睨むように見つめながら、両手を握って待った。
クロが戻っても、札入れを確かめるまでは抱き上げない。
返事が入っていれば、そのあと両腕でしっかり抱える。
胸と腹を支え、太い尾まで腕から落ちないよう抱え直す。
「よくやった」
その言葉を言える回数が、少しずつ増えていった。
◇
伝令訓練を始めてから、幾日目かの朝だった。
地上では、小雨が降っていた。
伝令房の奥まで、濡れた石の匂いが流れ込んでいる。
その日の訓練は、初めて本部の地上口近くまで出る予定だった。
伝令房から地下通路を進み、階段を上がる。
地上口手前の待機所には、カインがいる。
札を届け、返事を受け取り、伝令房へ戻る。
外の通りへは出ない。
地上口も黒燈の管理区画の内側にある。
それでも、クロにとっては初めての地上伝令だった。
ルシが札入れをクロの背へ取りつける。
留め具が重なった。
かち、と小さく鳴る。
クロは大人しくしていた。
だが、伝令房の扉が開いた瞬間、雨の匂いが濃くなった。
冷たい水。
濡れた石。
古い鉄。
地上口の金具が風に触れ、細く震える。
ちり。
クロの身体が固まった。
長い耳が頭へ伏せられる。
太い尾が腹の下へ巻き込まれた。
「クロ?」
ルシがしゃがむ。
クロは動かない。
黒い鼻先が、小さく震えている。
一年前の路地。
雨。
血。
冷たい金具。
追ってくる足音。
意味を言葉では覚えていなくても、匂いと音が身体に残っている。
ルシの手が伸びた。
抱き上げようとして、途中で止まる。
「今日はやめるか」
クロの耳が、わずかに動いた。
ルシはクロの前へ座る。
「嫌なら行かなくていい」
「きゅう……」
「訓練だし。別の日でもいい」
通信係は何も言わなかった。
急かさない。
扉を閉めることも、開けたままクロを押し出すこともしない。
クロの後ろで、重い足音が止まった。
「決めるのはこいつだ」
ダリウスだった。
ルシが振り返る。
「でも、怖がってる」
「見れば分かる」
「だったら――」
「戻すなら戻せ」
ダリウスはクロを見る。
「行かせるなら、待て」
ルシは口を閉じた。
地上口の先にはカインがいる。
クロの知っている匂い。
低い足音。
急に掴まない手。
そして、戻ればここにルシがいる。
「クロ」
ルシは札入れへ指を触れた。
「兄貴のところまで」
声を低くする。
いつものように、何度も名前を呼ばない。
「嫌なら戻っていい」
一度だけ言った。
「でも、行けるなら頼む」
クロは動かない。
雨水が地上口の外で落ちている。
石へ触れ、ぱらぱらと細い音を重ねる。
金具は、もう鳴っていない。
伝令房の奥から、紙をめくる音が聞こえた。
誰かが椀を卓へ置く。
こと、と小さく鳴る。
クロの耳が少しだけ起きた。
飯の皿と同じ音。
黒燈の中で、何度も聞いた音。
クロは鼻先を上げる。
ルシの匂い。
革の札入れ。
カインが触れた留め具。
雨の向こうに、知っている匂いがある。
前足が一つ動いた。
爪が石へ触れる。
かり。
もう一歩。
クロは地上口へ続く廊下を見た。
それからルシを振り返る。
ルシは動かない。
抱き上げない。
追ってこない。
両手を膝の上へ置き、ただ待っている。
「行ってこい」
クロは走り出した。
爪が石床を叩く。
かり、かり、かり。
曲がり角を抜ける。
階段を上がる。
足音が遠ざかる。
ルシの肩がわずかに動いた。
名前を呼びそうになり、奥歯を噛む。
何も言わない。
足音が消えた。
雨音だけが残る。
長い沈黙だった。
ほんのわずかな時間だったのかもしれない。
それでもルシには、地上口までの廊下が、いつもよりずっと長く伸びたように思えた。
「遅くない?」
「普通だ」
通信係が答える。
「もう着いたよな」
「たぶんな」
「兄貴、ちゃんといるよな」
「先に確認した」
「戻ってくる?」
誰も答えなかった。
ルシは両手を握る。
呼ばない。
迎えにも行かない。
待つ。
◇
クロは、階段の途中で一度止まった。
雨の匂いは強い。
地上口へ近づくほど、濡れた石の冷たさが鼻へ入る。
足元には黒燈符が一枚、壁際へ置かれていた。
訓練の道を示す、黒い灯火紋。
クロは鼻先を近づける。
革。
紙。
伝令房の棚。
ルシの指先。
知っている匂いが残っていた。
クロは階段を上がる。
地上口近くの待機所に、カインがいた。
黒い服。
低い足音。
知っている匂い。
クロの尾が持ち上がった。
「来たか」
「きゅう」
カインはしゃがんだ。
手を伸ばす前に、札入れの金具を指先で鳴らす。
金属が革の留め具へ触れ、ち、と短く鳴った。
クロは逃げなかった。
カインが木札を取り出す。
内容を確かめ、懐から返事の札を出した。
新しい札が革の袋へ入る。
留め具が戻り、かち、と噛み合った。
「戻れ」
カインは伝令房の方角へ身体を向けた。
クロの背を押さない。
ルシの名前も呼ばない。
「届けてこい」
クロは雨の匂いを嗅いだ。
次に、来た道を見る。
黒燈符。
地下へ続く階段。
その先に、待っている匂いがある。
クロは走った。
◇
「音した?」
ルシが顔を上げた。
誰かが答える前に、階段の奥から軽い足音が届く。
かり。
かり、かり。
「クロ」
名前が口から出た。
けれど、もう呼び戻すための声ではない。
戻ってきたものを迎える声だった。
曲がり角から長い耳が現れる。
続いて黒い頭。
豊かな胸毛。
太い尾。
クロは伝令房へ飛び込んできた。
そのままルシへ向かいかけ、途中で一度止まる。
背の札入れを揺らした。
「きゅう!」
ルシは駆け寄りかけた。
半歩で止まる。
先に札だ。
震える指で留め具を外す。
革の袋から、行きとは違う木札が出てきた。
「返事」
ルシが息を呑む。
「兄貴の返事だ」
通信係が札を受け取り、内容を確認した。
「伝令完了」
短い一言だった。
その瞬間、ルシはクロを抱き上げた。
片手ではない。
両腕をきちんと回す。
胸と腹を支え、自分の胸元へしっかり引き寄せる。
太い尾が腕から落ちかけ、ルシは慌てて肘で受け止めた。
「やった」
「きゅう!」
「クロ、やった!」
声が伝令房へ響いた。
「騒ぐな」
地上口側から、聞き慣れた低い声が届く。
カインが戻ってきていた。
「兄貴!」
「聞こえている」
「成功したぞ」
「見れば分かる」
「そればっかりだな!」
クロはルシの腕の中で身を動かした。
長い耳が忙しく前後を向き、太い尾がルシの脇を叩く。
ダリウスが伝令卓へ近づいた。
その手には、小さな黒木の箱があった。
箱の底が卓へ置かれ、こ、と低い音を立てる。
「下ろせ」
ルシはクロを床へ下ろした。
胸と腹を支え、四本の足が石へ触れるまで両手を離さない。
クロは卓の前へ座った。
ダリウスが箱の蓋を開ける。
中には、二つの黒銀が入っていた。
一つは、柔らかな黒革の首輪。
中央に、小さな黒銀札が下がっている。
表には黒い灯火紋。
裏には、伝令登録を示す短い刻み。
命令の術式も、首を締める仕掛けもない。
黒燈の伝令として、身元と戻る場所を示す札だった。
「伝令登録だ」
ダリウスが言う。
ルシの顔が明るくなった。
「クロの?」
「他に誰がいる」
「オレがつけていい?」
「先に見せろ」
ルシは首輪を両手で持ち上げた。
いきなりクロの首へ回さず、目の前へ置く。
クロの鼻先が黒革へ近づく。
カインの手。
伝令房の木棚。
ダリウスの外套。
ルシの指。
黒燈の匂いが重なっている。
クロは黒銀札へ鼻先を触れた。
金属が留め具へ揺り戻される。
ちり。
細く澄んだ音がした。
クロの耳が立つ。
「似合いそうだな」
ルシは笑い、首輪へ手を伸ばしかけた。
その時、箱の中でもう一つの黒銀が灯りを返した。
細い黒革へ、小さな長方形の札が取りつけられている。
クロの札より細く、ぶら下がらない形だった。
「まだある」
ルシが目を瞬く。
「お前の分だ」
ダリウスが答えた。
「オレの?」
「見習いの登録札だ」
ルシは箱の中を覗き込んだ。
「所属証?」
「違う」
ダリウスの声は短い。
「正式証じゃない。権限は増えない」
「じゃあ、何が増えるんだよ」
「責任だ」
「嬉しくない言い方だな」
「必要な言い方だ」
ルシは、黒銀札を見つめた。
「クロと一緒に?」
「一緒ではない」
カインが言った。
「それぞれだ」
「でも、同じ日だろ」
「同じ日に、別の仕事をした」
ダリウスの視線がクロへ落ちる。
「こいつは札を届けて戻った」
次に、ルシを見る。
「お前は送り出した。呼び戻さず、返事を受け取った」
ルシの指が、箱の縁へ触れた。
黒木の角をなぞり、少しだけ迷う。
「……オレが取っていいの?」
「お前の札だ」
誰かが持ち上げて渡すことはなかった。
首へ巻く者もいない。
ルシは自分の手で、細い黒革を箱から取り出した。
黒銀札には、クロと同じ黒い灯火紋が刻まれている。
同じ形ではない。
同じ役割でもない。
ただ、同じ黒い灯りを持っていた。
ルシは革の両端を持ち、自分の首元へ回した。
「きつくするな」
カインが言う。
「分かってる」
「指を入れろ」
「兄貴、細かい」
「首につける物だ。細かくしろ」
ルシは留める位置を一つ緩めた。
指を差し入れ、余裕を確かめる。
それから自分で金具を閉じた。
小さな留め具が噛み合い、かち、と鳴る。
黒銀札は喉元から少し外れた位置へ収まった。
身体へ刻まれた印ではない。
外そうと思えば、自分で外せる。
それでもルシはすぐには触らず、首を少し動かして重さを確かめた。
「どう?」
「曲がっている」
カインが言う。
「最初に言うこと、それ?」
「直せ」
ルシは唇を尖らせ、自分で札の位置を直した。
黒銀の面が正面を向く。
灯火紋が魔石灯を鈍く返した。
それから、クロの首輪を手に取る。
「次、クロな」
「きゅう」
ルシはもう一度、クロへ首輪を見せた。
クロが逃げないことを確かめてから、豊かな黒毛を指で分ける。
黒革を首へ回す。
「ここ?」
「きつい」
「まだ留めてないだろ」
「その位置だときつくなる」
「じゃあ、ここ」
「もう少し緩くしろ」
「兄貴がやれば?」
「お前がつけたいと言った」
「細かいな」
「首につける物だ」
「さっきも聞いた」
ルシは指が入る余裕を残し、金具を留めた。
かち。
黒毛の中で、小さな黒銀札が揺れる。
ちり、と鳴った。
クロは首を振った。
長い耳が揺れ、太い尾が床を撫でる。
札が黒毛へ二度触れた。
ちり、ちり。
「似合う」
ルシが言う。
「きゅう」
「黒燈の伝令だぞ、クロ」
クロは言葉を知らない。
ただ、知っている匂いが集まっている。
ルシ。
カイン。
ダリウス。
伝令房。
食堂。
乾いた布。
温かい飯。
雨の日でも、戻れば灯りがある場所。
クロは太い尾を一度振った。
豊かな毛が石床を、ばさりと撫でる。
「届けるだけなら、荷物だ」
ダリウスが言った。
ルシが顔を上げる。
「戻って、初めて伝令になる」
クロは言葉を知らない。
けれど、ルシは聞いた。
ルシはクロの黒銀札を、親指と人差し指で軽く挟む。
表の黒い灯火紋を、親指で一度なぞった。
指を離す。
札が首輪の金具へ戻る。
ちり。
クロの長い耳が立った。
身体の向きを整え、ルシの前へ座り直す。
「今の、いいな」
ルシが目を見開いた。
「これ、合図にしよう」
「一度で覚えたと思うな」
カインが言う。
「じゃあ、覚えるまでやる」
「やりすぎるな」
「兄貴、どっちなんだよ」
通信係が、卓の向こうで笑いを噛み殺した。
ダリウスはすでに箱の蓋を閉じている。
クロは首元の札を気にするように、後ろ足で一度だけ黒毛を掻いた。
「嫌か?」
ルシがしゃがむ。
クロは手を避けなかった。
代わりに、ルシの膝へ前足を乗せる。
「きゅう」
「返事した」
「都合よく訳すな」
「兄貴、今日それ何回目?」
「お前が何度も訳すからだ」
ルシは両腕でクロを抱き上げた。
今より小さな身体でも、片腕では支えられない。
片方の腕を胸へ回し、もう片方で腹と後ろ足を支える。太い尾まで落とさないよう、自分の胸元へ抱え込んだ。
ルシの首元にある細い黒銀札と、クロの首輪札が触れた。
二つの金属が、わずかに揺れる。
ちり。
同じ黒い灯火紋を持つ札が、同じ音を立てた。
「食堂行こう」
「きゅう」
「伝令成功の祝い」
「飯を増やしすぎるな」
「クロの分だよ」
「お前も食う気だろ」
「少しくらいいいだろ」
ルシはクロを両腕で抱えたまま、伝令房を出た。
カインが半歩後ろを歩く。
廊下の先には、食堂の灯りがある。
香草入りのスープ。
黒麦パン。
陶器が卓へ置かれる、こと、という音。
クロはルシの腕の中から、戻ってきた道を見た。
雨の匂いは、まだ消えていない。
濡れた石も、冷たい金具の音も、完全に怖くなくなったわけではない。
それでも、自分の足で進んだ。
札を届けた。
返事を持って戻った。
「クロ」
ルシが呼ぶ。
黒銀札が揺れた。
ちり。
「次も、ちゃんと戻ってこいよ」
「きゅう」
クロは、ルシの胸元へ鼻先を寄せた。
雨の日に拾われた毛玉は、一年をかけて名前を覚えた。
飯のある音を覚えた。
痛くしない手を覚えた。
そしてその日、初めて自分の足で離れ、返事を持って戻ってきた。
ルシもまた、名前を呼んで引き戻すのではなく、戻ることを信じて待つことを覚えた。
二つの札は、誰かに繋がれるためのものではない。
一方が、もう一方を所有するためのものでもない。
離れても、それぞれの役割を果たし、それぞれの足で黒燈へ戻るための証だった。
ルシの胸元で、二つの黒銀がもう一度触れた。
ちり。
それが、黒燈の伝令クロと、送り出して待つルシの、最初の合図になった。
― 黒燈の毛玉・了 ―
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【あらすじ】
《白梟ギルド》から逃れ、黒い王都ノクティルムへ辿り着いた元アサシンのエルフ・ジル。そこで《黒燈ギルド》の情報屋ルシと黒い小型幻獣クロに出会う。過去を切り離して逃げてきた男が、人と関わりながら自分の名と所属、戻る場所を選び直していく長編BLファンタジー。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 【こんな方におすすめ】ツンが強く、好意や心配を素直に言えないキャラクターが好き/バディから少しずつ恋へ変わる関係が好き/無理に迫らず、相手の選択を待てる攻めが好き/流されず、自分の意思で戦い、選ぶ受けが好き/もふもふの小型幻獣が好き/口の悪い兄弟の掛け合いと兄弟愛が好き/「補うけれど縛らない」成熟した恋人同士が好き/暗殺者ギルド、潜入、戦闘のあるダークファンタジーが好き。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ※本文・表紙画像・一部ビジュアルにAI生成を使用しています。各画像は『銀の目の逃亡者』の設定・キャラクター情報をもとに、作者が構成・選定・調整しています。
MIRAI 人気絶頂のアイドルが突然休業した――その理由を、僕はまだ知らない
人気絶頂のアイドル・加藤未来、22歳。
誰もが羨む才能と容姿を持ち、芸能界で数々の成功を重ねてきた彼は、ある日突然、活動休業を発表する。
仕事が嫌になったわけじゃない。
夢を諦めたわけでもない。
それなのに、未来はステージを降りることを選んだ。
――なぜ?
物語は、そんな現在から始まる。
時間を遡れば、そこにはまだ「アイドル」ではなかった頃の未来がいる。
元天才子役。
我儘で、自己中で、負けず嫌い。
自分の才能を誰よりも信じ、欲しいものは自分の力で手に入れてきた美少年。
一度は離れた芸能界へ、未来は再び戻る。
ドラマ、映画、舞台。
そして、アイドル。
夢を追いかける中で、たくさんの人と出会い、たくさんの経験を重ね、未来は少しずつスターへの道を駆け上がっていく。
仕事なら、思い通りにできた。
努力すれば結果が出る。
才能があれば認められる。
夢を追えば、いつか叶えられる。
未来は、そう思っていた。
――恋をするまでは。
好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
首輪の契約
地下の尋問室に、時間はない。
窓のない灰色の部屋で、敵国の工作員が一人拘束されていた。
名も経歴も偽り。
ただ腕がいい、それだけは確かな男。
尋問に対し、彼は白状ではなく提案を持ち出す。
「白状はしない。だが、契約ならする」
敵国のスパイと、帝国の長官。
交渉は奇妙な形で成立する。
「名前は」
「リュシアン」
その日、移り気な猟犬と飼い主の関係が始まった。
やがて、契約は裏切りへ。
裏切りは、追跡へ。
追跡は――執着へと変わっていく。
登場人物
フェリクス・ハルトマン
帝国軍情報部の長官。
感情を見せない軍人。静かな視線で相手を見定める。
リュシアン・モロー
敵国の諜報員。
捕虜の立場でありながら、白状ではなく契約を持ち出す男。
軽口と皮肉を武器にする。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
ぼくはしょくしゅ★
ぼくはしょくしゅ、ぜろさい。
「ぱんどら、おはよう、おなか空いたでしょう、すぐにあさごはんをあげるからね」
これはぼくのぱぱ。
白衣を着て、細長い目にめがねをかけて、とてもやさしいぱぱ。
「ぱんどら、元気してっか?」
これは、こーへー。
こーへーはこの学園の不良というやつ。
「ほんと変わった生きモンだなー」
やさしいぱぱより、やさしい、やさしい、こーへー。
ぼく、こーへー、すきすき。
「――ぱんどらは僕が作り出したんだ」
「へぇ、すげぇ」
「誰にも秘密だからね」
「んー」
「あと、絶対に、金魚鉢から出したらいけないからね」
■金魚鉢から「ぱんどら」を出してしまった不良くんの受難の放課後/ほぼほぼえろ
▲表紙は素材をお借りしています/爪爪様(pixiv:ID 18732139)、ゴリラの素材屋さん様(pixiv:ID 81433479)▲
竜神様の番
いつかX内で呟いた、
『えーん、えーん…💦
竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…!
後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』
という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。
「番」とは何かも知らされず、
選択肢すら与えられなかった人間リオと、
大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。
ちゃんとハッピーエンドです。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕






