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【04】【全3話完結】七日間の臨時ペア (ゼル+カイン)
七日間の臨時ペア 第1話 あの時の警備隊
雨の夜、ノクティルムの外縁水路は黒く濁っていた。
昼なら荷運びの小舟や、洗い場に集まる人々の声で賑わう水路も、夜になれば別の顔を持つ。
濡れた石壁。
低い魔石灯。
雨音に紛れる足音。
逃げる者も、追う者も、ここでは同じ黒に沈む。
ゼルは水路橋の上で、雨を吸った白灰の外套の襟を少しだけ上げた。
膝下丈の警備隊外套は、石灰色と霧灰の間のような淡い色をしている。立襟。整った前合わせ。裏地は暗い青灰。内側には青灰の詰襟内服。胸元には、ノクティルムの城門と魔石灯、細い術式線を組み合わせた鈍銀の警備隊徽章が留められていた。
薄手の手袋には術式刺繍が走り、雨粒を受けるたび、淡い銀がかすかに沈む。
王都警備隊補助術式官。
その肩書きは、濡れた外套の重さよりもまだ硬かった。
水路の下で、低い足音がした。
規則から外れた足音だった。
だが、乱れてはいない。
迷いがなく、重心が低い。
ゼルは目を細めた。
黒い影がひとつ、少年の腕を掴んだまま水路脇を走っている。
二十歳前後の若い男。
濡れた黒い服。
革具。
腰に収まった短剣。
後ろ姿だけでも、ただの逃亡者ではないと分かる。
少年は十代半ばほど。顔色が悪く、胸元に革筒を抱え込んでいた。
革筒の封紐には、薄い術式痕が残っている。
記録筒だ。
ゼルが橋の欄干へ手を置いた瞬間、少し離れた通路で魔石灯が揺れた。
追手が三人。
雨避けの外套を被っているが、足運びは素人ではない。
ひとりの手袋に、灰白の封蝋の小片が貼りついている。
警備隊の正規封緘ではない。
だが、王都警備記録に触れられる筋の匂いがした。
鉄と革。
濡れた石畳。
術式インクの焦げた残り香。
ゼルの隣で、警備隊員が低く言う。
「補助官、第三詰所への誘導線です。証人保護の連絡が入っています」
その言葉と同時に、水路下の男が少年へ短く告げた。
「止まるな」
「でも、警備隊の詰所はあっちだって……!」
「行けば死ぬ」
少年が息を呑む音が、雨の隙間から上がってきた。
ゼルは黙って視線を動かす。
第三詰所へ続く道。
追手の位置。
少年の革筒。
水路橋に残った足跡。
詰所へ向かわせるには、不自然な追い込み方だった。
殺すだけなら、この水路で終わらせればいい。
わざわざ詰所へ追い込む理由がある。
「補助官?」
呼ばれて、ゼルは一拍だけ遅れて答えた。
「追います」
「は?」
「正規路を塞がないでください。ですが、彼を止めるより、今は逃げ道を空けた方がいい」
警備隊員が眉を寄せた。
「あれは黒燈の者かもしれません」
「かもしれませんね」
「なら、なおさら――」
ゼルは橋の階段へ向かった。
白灰の外套の裾が、濡れた石段を払う。
黒灰のブーツが水を踏み、跳ねた雨水が裾へ散った。
「追手の狙いは、証人です」
そう言い残し、ゼルは水路へ降りた。
*
カインは、少年を水路脇の窪みに押し込んだ。
「ここから動くな」
「え、あんたは」
「黙って息を殺せ」
少年の返事を待たず、カインは踵を返した。
一人目の刃が雨を裂く。
カインは横へ沈み、相手の手首を取った。
刃の向きを外し、肘を折らずに関節だけを外す。
男が声を上げる前に、膝裏を蹴って石畳へ沈めた。
短剣の鞘が革具に当たり、低く鳴る。
ゼルは数歩後ろで足を止めた。
速い。
だが、速さに酔っていない。
二人目が短い呪符を投げる。
カインは水路の縁を蹴った。
低く跳び、呪符の起点を袖の薄刃で断つ。
火花のような魔力が雨に散り、焦げた紙の匂いが水気に潰された。
三人目は、少年の隠れた窪みへ向かった。
カインの目が冷える。
その瞬間、ゼルは身を低くし、片手を雨に濡れた石畳へついた。
掌の下の影が暗い藍紫にほどけ、その芯へ青紫が細く走った。
雨水を映した石畳の上を、一本の影が低く滑る。
《影糸》。
いつもの補助なら、ここから二本、三本と糸を分ける。
逃走路。
敵の足。
味方の進路。
広く拾い、事故が起きないように面を整える。
それが警備隊で身につけたやり方だった。
だが、今は時間がない。
少年へ向かう足がひとつ。
止めたい相手もひとり。
ゼルは考えるより先に、一本だけ伸ばした。
水たまりに触れた男の影へ、糸が掛かる。
縛るには弱い。
ただ、濡れた靴底が雨の流れと逆へ半歩ずれた。
男の重心が崩れる。
カインは、その一拍で間合いを詰めた。
刃の柄で鳩尾を打ち、喉元に短剣を添える。
「動くな」
低い声に、男の息が止まった。
ゼルの指先には、まだ次の糸を伸ばす余地があった。
けれど、伸ばさなかった。
――いや。
伸ばせなかった、に近い。
カインはもう、ゼルが次の補助位置を決めるより先へ動いていた。
一本。
ひとり。
一瞬。
条件がそれだけに絞られていたから、間に合った。
もし同時に二人を相手取っていたら。
もし少年の退路まで自分が管理しようとしていたら。
同じ一拍を作れただろうか。
ゼルには、まだ分からなかった。
少年を先に隠し、追手の刃を止め、呪符の起点を断ち、最後に少年へ向かった者を石へ沈める。
無茶ではある。
だが、雑ではない。
カインが視線だけをゼルへ向けた。
「余計なことはするな」
「今のは余計でしたか」
カインは短く沈黙した。
雨が、二人の間の石を打つ。
「……今のは余計じゃない」
それだけ言って、カインは男の手首から呪符筒を蹴り離した。
認められたわけではない。
ただ、今の一手だけは邪魔ではなかった。
ゼルはそう受け取った。
それで十分だった。
警備隊員たちも、水路へ降りてきた。
規則正しい足音が、濡れた石へ重なっていく。
「王都警備隊補助術式官、ゼルです」
ゼルは名乗った。
カインは短剣を下ろさない。
「証人をこちらへ」
「断る」
警備隊員のひとりが眉を吊り上げた。
「何だと?」
「表に出せば消される」
「証人保護は警備隊の管轄だ」
「その保護経路が漏れている」
カインは視線だけをゼルへ向けた。
「詰所に行けば、こいつは死ぬ」
雨が石を打つ。
警備隊員たちは苛立った顔をした。
黒燈ギルドは表の組織から見れば、信用しきれる相手ではない。
王都の影で動き、証拠を握り、時に警備隊の手順を無視する。
だが、ゼルはすぐに否定しなかった。
倒れている追手の手袋を見る。
灰白の封蝋の欠片。
次に、水路橋の上に残っていた足跡。
最後に、少年が抱えた革筒。
「……保護経路のどこまでが漏れている?」
「最低でも第三詰所」
「根拠は」
「そこへ誘導する追手がいた。殺す気ならこの水路で終わらせた方が早い。わざわざ詰所へ追い込む理由がある」
「なるほど」
ゼルは短く答えた。
納得してしまった自分に、わずかな苦みを覚える。
「規定通りに運べば、証人の所在は記録に残る」
ゼルが言うと、隣の警備隊員が黙った。
「その記録を見られる者の中に、漏洩元がいる可能性がある」
黒燈に証人を渡すのではない。
警備隊が追跡を切るために、知らないままでいる道を選ぶ。
それは規定の外だ。
だが、少年を死なせないための最短でもある。
そしてゼルは、それとよく似た苦さを以前にも味わったことがあった。
数年前。
保護対象の移送経路を、規定通り記録へ残した。
手順に不備はなかった。
護衛人数も足りていた。
報告書には、誰の落ち度もないと記された。
それでも、翌朝には保護先が知られていた。
幸い、その時は死者こそ出なかった。
だが負傷者が出た。
何より、怯えた証人に「どうしてまた場所が分かったんです」と聞かれた時、ゼルは答えられなかった。
その後も似たことは、小さな形で何度かあった。
規定が間違っているわけではない。
警備隊が腐っていると決めつける気もなかった。
ゼル自身、だからこそ中に残り、運用を整えればいいと思っていた。
正しい手順は、多くの命を守る。
それは今でも疑っていない。
けれど――正しさの中へ悪意が紛れた時、手順そのものが道標になる。
今夜は、その事実を目の前へ突きつけられていた。
窪みの中で、少年が革筒を抱え直した。
泥と汗の匂いが雨に混じる。
怖がっている。
だが、逃げる力はまだ残っている。
「大丈夫です」
ゼルは少年へ、近づきすぎない距離で声をかけた。
「触れません。怖がらせるつもりもありません」
少年は返事をしなかった。
ただ、カインの背中を見た。
カインが短く言う。
「少年を先に出す」
「分かっています」
「分かってない奴ほどそう言う」
「では、今は退路を見ます」
カインは答えなかった。
ゼルは水路の先へ視線を流す。
「北の水門は塞がっている。南側の排水路も、水位が上がって危険です」
警備隊員たちが彼を見る。
「警備隊としては、証人を安全な正規路へ誘導する以外の選択肢はない」
「ゼル補助官?」
「ただし」
ゼルは雨の向こう、壁際の古い排水口へ視線を向けた。
「西側の整備用通路は、記録上、今夜は封鎖されている。封鎖されている以上、そこを通る者はいない」
カインは、ゼルの言葉の意味を理解したらしい。
そこに逃げろ。
ただし、私は見ていない。
「便利な記録だな」
「記録は、時々便利に使える」
ゼルは穏やかに返した。
「ただし、濫用は勧めない」
「警備隊らしい忠告だ」
「君は忠告を聞かなさそうだね」
「必要なら聞く」
「今は?」
「必要ない」
雨どいから落ちる水が、石を叩いた。
ゼルはわずかに笑った。
「そう」
カインは少年を窪みから引き出した。
「走れるか」
「……はい」
「転ぶな。落としたら拾わない」
「それ、励ましですか?」
「警告だ」
少年は青ざめた顔で頷いた。
カインは西側整備用通路へ向かう。
その時、通路の奥で別の気配が動いた。
待ち伏せが一人。
カインより先に、ゼルはその術具の起動音を聞いた。
薄い金属板が擦れる音。
雨に濡れた術式具が、無理に開こうとしている。
ゼルは指先を下げた。
先ほどと同じように一本だけ――とはいかなかった。
少年の退路。
後ろから降りてくる警備隊員。
カインの進路。
三つが重なる。
一瞬、警備隊時代の癖で広く影を取ろうとする。
その間にも、カインは進む。
遅い。
ゼルは範囲を捨てた。
術具だけを見る。
影糸が石壁に沿って走り、術具の蓋をほんの一拍だけ押さえた。
起動が遅れる。
その一拍で、カインが前へ出た。
短剣は喉を裂かない。
手首の腱を避け、刃の背で骨の際を打つ。
薄い金属板の術具が石畳へ跳ね、硬く乾いた音を立てた。
続けて膝、肘、重心。
男は呻く間もなく水路脇へ沈む。
「そいつは殺すな。止めろ」
追いついた警備隊員へ、カインが低く言った。
ゼルはその言葉を聞いた。
黒燈の刃。
殺すためではなく、止めるための刃。
警備隊の制圧術とは違う。
きれいではない。
規則の形でもない。
だが、そこには順番があった。
命を拾うための、荒くて正確な順番。
そしてゼルは、先ほどよりはっきり理解した。
自分の補助は、あの男を追えていない。
一点だけなら間に合う。
だが状況が増えれば、途端に手順が先に立つ。
あの速度へ継続して合わせる方法を、ゼルはまだ知らなかった。
*
少年が西側整備用通路の先で、待っていた黒燈の者へ引き取られ、追手たちが警備隊の監視下で拘束された頃、水路の空気は少しだけ変わっていた。
遠い市場のざわめきが戻ってくる。
夜の屋台の油の匂いが、雨と石の匂いに薄く混じった。
事件が終わったわけではない。
だが、少年の息はまだ続いている。
カインは少年へ短く何かを言い、革筒を確認させていた。
過剰に慰めない。
だが、見捨てもしない。
ゼルはその背中を見ていた。
白灰の警備隊外套が水を吸い、肩に重い。
胸元の鈍銀の徽章が、魔石灯を受けて鈍く光る。
「見ていたか」
低い声が、雨の奥から落ちた。
ゼルが振り向くと、西側整備用通路の影に黒い外套の男が立っていた。
ダリウス。
黒燈ギルド長。
名は知っている。
報告書の端で何度か見た。
だが、夜の水路で見るその男は、紙の上よりもずっと重かった。
「見ていました」
ゼルは答えた。
ダリウスは黒い刃の方へ視線を向ける。
「あいつは先に動く」
「そのようですね」
「だが、順番は間違えん」
ゼルは雨に濡れた石畳を見た。
倒れた追手。
壊されずに止められた術具。
隠された少年。
空けられた退路。
「無茶だと思いました」
「だろうな」
「けれど、雑ではありませんでした」
ダリウスの目がわずかに動く。
試すような視線だった。
威圧ではない。
だが、軽くもない。
「お前は何を見た」
ゼルは少しだけ黙った。
警備隊の手順。
記録。
詰所。
正規の保護経路。
それらは街を守るためにある。
だが、その中へ毒が混じった時、規定は命を運ぶ道ではなく、命の所在を知らせる紙になる。
「少年を助けるために、最短を選んでいた」
ゼルは言った。
「危うい。ですが、助ける順番を間違えない人ですね」
ダリウスは短く息を吐いた。
「黒燈は裁かない。だが、見捨てもしない」
雨音が、言葉の間を埋める。
「助けるなら、逃がして終わりにはせん。証人は生かす。証拠は残す。警備隊とは手順が違う」
「違いますね」
「違うが、敵ではない」
ゼルはダリウスを見る。
警備隊の外套を着た自分と、黒燈の長。
同じ王都に立ちながら、立つ場所が違う。
光の当たり方も、手を伸ばす順番も違う。
「……彼は、いつもああなのですか」
「だいたいはな」
「一人で?」
「今のところは」
ゼルは再びカインへ視線を向けた。
あの速度に、通常の隊列支援を当てればどうなる。
前衛の安全を確保するため、範囲を取り、進路を定め、退避位置を置く。
おそらく――邪魔になる。
さっき一本だけ間に合ったのは、偶然条件が絞られたからだ。
「難しそうですね」
「何がだ」
「彼の後ろに立つことが」
ダリウスは答えなかった。
ただ、ほんの一瞬だけゼルを見る。
何かを見抜いた顔ではなかった。
使えるかどうかを測る、実務屋の目だった。
ゼルも、それ以上は言わない。
まだ答えを持っていない。
ただ、あの一拍だけが妙に残っていた。
なぜ自分は、二本目の糸を伸ばさなかったのか。
なぜ、あの時だけ間に合ったのか。
偶然だったのか。
それとも、今までとは違う補助の仕方があるのか。
分からない。
だから少し、気になった。
カインが少年を連れ、雨の向こうへ動き出す。
ゼルは一歩、そちらへ視線を戻した。
「黒燈のアサシン」
カインは足を止めない。
「名前は」
「名乗る必要はない」
「では、君を何と報告すればいい?」
「報告するな」
「それは困るね」
ゼルは少しだけ声を柔らかくした。
「せめて、あの時の黒い刃、とでも覚えておくよ」
カインは振り向かない。
「覚えるな」
「努力する」
「努力で終わるな」
その返しに、ゼルは小さく息を漏らした。
笑った、というほどではない。
ただ、雨の冷たさが一瞬だけ軽くなった。
*
それからしばらく、ゼルは警備隊に残った。
水路の一件だけで、すぐに外套を脱いだわけではない。
第三詰所の記録は洗われた。
漏洩経路も調べられた。
少年の記録筒は、正規の手続きを経て照合へ回された。
追手の供述も取られた。
警備隊は機能した。
規定も、すべてが間違っていたわけではない。
だからこそ、ゼルは簡単には捨てられなかった。
長く身につけた手順だった。
守れた人間もいる。
あの外套を着ていたから間に合った現場も、確かにあった。
けれど以前から胸の底へ沈んでいたものが、水路の夜から消えなくなった。
規定通りに運んだ証人が、翌日には移送を知られていたこと。
負傷者を出した後も、書類の上では「手順上の不備なし」と処理されたこと。
上官が悪かったわけではない。
同僚が怠けていたわけでもない。
誰もが、自分の持ち場では正しく動いていた。
それでも届かなかった。
ゼルは何度か、運用の見直しを提案した。
記録閲覧範囲。
護送線。
補助術式官へ与えられる現場裁量。
変わったものもある。
変わらなかったものもある。
そしてある日、また一枚の報告書が机へ置かれた。
保護対象は無事。
負傷者なし。
手順上の問題なし。
正しい報告だった。
なのにゼルは、その紙を読みながら雨の水路を思い出した。
規定の外へ一本だけ開けた、西側整備用通路。
あの時、もし記録通りに第三詰所へ送っていたら。
少年は生きていただろうか。
答えは出なかった。
ただ、別の場所なら見えるものがあるのではないかと思った。
警備隊を辞める時、誰かが大きな声で引き止めたわけではなかった。
上官は書類を読み、短く「惜しいな」と言った。
隣の同僚は何か言いかけて、結局、徽章を外すゼルの手元だけを見ていた。
白灰の外套は返却され、鈍銀の警備隊徽章は小さな布の上に置かれた。
金属が机へ触れる音は、思ったより軽かった。
正しい手順で守れるものがある。
それは今でも変わらない。
けれど、正しい手順だけでは届かない命もある。
雨の水路が、それまで散らばっていた疑問をひとつに繋げてしまった。
その夜、父は書斎の帳面を閉じた。
革表紙が机へ重なる乾いた音が、静かな部屋に落ちる。
「警備隊を辞めます」
ゼルがそう告げると、父はすぐには答えなかった。
「一件で決めたのか」
「いいえ」
ゼルは静かに答えた。
「ずっと、少しずつ考えていました」
「何を」
「正しい手順を守ることと、人を守ることが、同じではない時のことを」
父の手が、閉じた帳面の上で止まる。
「それで、裏へ行くのか」
「まだ決めていません」
「決めずに辞めたのか」
「このまま残れば、今までのやり方を正しいと思いたい自分が勝つ気がしたので」
父はしばらく何も言わなかった。
窓の外で風が鳴る。
遠く、王都の夜警鐘がひとつ響いた。
「お前が補いたいのは、隊列か」
父は顔を上げずに言った。
「それとも、人か」
ゼルは答えられなかった。
雨の水路で見た黒い背中が、まだ目の奥に残っている。
速すぎて、危うくて。
それでも少年を置いていかなかった刃。
自分の影糸が、偶然一度だけその動きへ間に合った瞬間。
「……まだ、分かりません」
「なら、分かる場所へ行け」
そこで父は、初めてゼルを見た。
「家名は使うな」
「はい」
「戻るつもりがないなら、半端な覚悟で出るな」
「はい」
ゼルは一礼し、部屋を出た。
*
数か月後。
黒燈ギルド本部の地下訓練場に、同じ男が立っていた。
白灰の警備隊外套ではなく、黒を基調にした落ち着いた上着。
肩幅のある体格はそのままだが、警備隊の徽章は外されている。
代わりに、黒燈の紋だけが刻まれた簡素な黒銀の腕輪型所属証が右腕に留められていた。
黒い灯火を模した紋。
黒燈ギルドの印だった。
地下訓練場は、石と鉄と革の匂いがした。
壁際には訓練用の短剣、抑え具、木製の標的。
天井の魔石灯が低く光り、足音は床に沈むように響く。
ダリウスが低く言う。
「新人のゼルだ」
訓練場にいた所属員たちが軽くざわめいた。
元警備隊。
それも補助術式官。
表の秩序側にいた者が、裏のギルドへ来るのは珍しい。
歓迎より先に、値踏みの視線が向く。
ゼルはその視線を受け止めた。
警備隊の外套を脱いでも、規律の匂いはまだ身体に残っている。
術式インク。
薄い薬草。
石灰色の布。
黒燈の空気には、黒い革と血止め薬、夜の街の湿り気が混じる。
壁際に、カインが立っていた。
両目で周囲を測る眼差しは鋭く、真正面から相手を射抜いていた。
雨の夜と同じ、低い重心。
同じく、止まる気のない刃。
カインはすぐに分かったようだった。
あの時の警備隊。
雨の水路で、正規路とは別の出口を空けた男。
ゼルはカインの視線に気づき、静かに目を向けた。
驚いた顔はしなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩める。
「久しぶりだね」
「知らない」
「そういうことにしておこう」
「馴れ馴れしい」
「失礼。まだ距離を測るべきだったね」
穏やかすぎる返しに、カインは眉を寄せた。
その横から、軽い足音が駆けてくる。
「新人さん?」
ルシだった。
十二歳前後の少年。
まだ手足には幼さが残るが、目の動きは妙に鋭い。
首元には細い黒革と、小さな《黒燈見習い登録札》。
胸には、黒い毛玉を両腕で抱えていた。
クロは拾われた頃より毛量も身体も増えている。
それでも今よりはまだ小さい。
ルシは片腕では支えきれず、片方の腕を胸へ、もう片方を腹と後ろ足の下へ回している。
豊かな黒毛の間では、首輪の小さな黒銀札が魔石灯を鈍く返していた。
「ルシ」
カインが低く呼ぶ。
「分かってるって。近づきすぎない。たぶん」
「たぶんを消せ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「はい」
ルシはゼルの前で足を止め、しゃがみ込んだ。
クロの四本の足が石床へ着くまで両手を離さない。
爪が床を、かり、と掻く。
首輪の黒銀札が毛へ戻り、ちり、と鳴った。
「オレ、ルシ。こっちはクロ」
立ち上がると、少しだけ胸を張る。
今はまだ、伝言を運び、荷を届け、大人たちの用事の隙間を走る黒燈の使い走りだ。
役目を名乗るには早い。
けれど、ただ守られているだけの子供でいる気もない。
「ゼルです」
ゼルが名乗ると、クロの身体が固くなった。
長い耳が斜め後ろへ倒れ、太い尾の動きが止まる。
「きゅ……」
警備隊を離れて数か月経っても、術式インクの匂いはまだゼルの持ち物に残っている。
それに、まだ知らない大人の魔力の匂い。
クロはゼルから目を離さず、ルシの靴へ身体を寄せた。
ルシが少し得意げに眉を上げる。
「ゼルさん、警戒されてる」
「当然だろうね」
「嫌われてる、の一歩手前?」
「そこまで進んでいないと信じたいな」
ゼルは少し屈んだ。
だが、手は出さない。
「大丈夫です。触れません」
「きゅ……」
「怖がらせるつもりもありません」
クロはじっとゼルを見ていた。
警戒は解かない。
けれど、ゼルが近づきすぎないと分かると、張っていた尾の毛がほんの少しだけ戻る。
ルシがしゃがみ、クロの背を一度撫でた。
「クロ、大丈夫。まだ知らないだけだろ」
カインが低く言った。
「ルシ、下がれ」
「兄貴、また子供扱いした」
「子供だ」
「十二歳は、もうちょっと大人だろ」
「現場では子供だ」
ルシは口を尖らせたが、カインの声が少し低くなったのを聞くと、それ以上は踏み込まなかった。
ゼルはその変化を見る。
ルシの軽い反発。
カインの短い制止。
クロの爪音。
そして、兄の声が本当に危険を告げる時だけ、ルシが黙ること。
この兄弟の間にも、積み重ねがあるらしい。
「兄貴の声が低い時は、ほんとに危ない時だし」
ルシが不満そうに呟く。
「分かっているなら下がれ」
「下がってる」
「もっとだ」
「はいはい」
「ルシ」
「はい」
クロが「きゅう」と鳴いた。
訓練場の空気が少しだけ緩む。
だが、カインの警戒は緩まなかった。
「なぜ黒燈へ来た」
唐突な問いに、ゼルは顔を上げた。
「表の手順だけでは、守れないものがあると思ったから」
「思った?」
「まだ答えを探している途中なんだ」
「綺麗な理由だな」
「綺麗すぎたかな」
「信用できない」
「だろうね」
ゼルは穏やかに頷いた。
「だから、ここで見ます」
「何を」
「黒燈のやり方と、自分に何ができるかを」
「口で言う奴ほど信用ならない」
「それは困ったね」
「何がだ」
「私は話すのも嫌いじゃない」
ルシが吹き出しかける。
カインの視線が動いた。
ルシは口を押さえた。
ゼルは続ける。
「でも、判断は行動を見てくれればいい」
カインは黙った。
ダリウスが奥から二人を見ていた。
重い視線だった。
黒燈ギルド長は、場の空気が十分に張ったところで口を開く。
「カイン」
「何だ」
「次の訓練、一度ゼルを補助につける」
「断る」
即答だった。
ルシが小さく吹き出す。
「早っ」
「黙れ」
「はい」
ゼルは少しも傷ついた顔をしなかった。
「理由を聞いても?」
「遅い」
「まだ何もしていないよ」
「見れば分かる」
「手厳しいね」
「警備隊の術式は隊列向きだ。現場の刃には合わない」
「その通りだ」
カインの目がわずかに鋭くなる。
ゼルは続けた。
「少なくとも、今のままではね」
「なら来るな」
「だから知りたい」
「俺で試すな」
「君以外では分からないことがありそうだから」
「褒めても無駄だ」
「褒めたわけではないよ」
穏やかな声。
だが、その中に確かな興味があった。
あの雨の夜から、カインの動きはゼルの中に残っている。
危うい。
だが、雑ではない。
止める刃。
そして、一本だけ偶然噛み合った《影糸》。
あれを再現できるのか。
あるいは、ただ運が良かっただけなのか。
今のゼルには分からない。
「ダリウスさん」
ゼルはギルド長の方を見る。
「一度、カインと組ませてください」
訓練場が静かになった。
ルシが目を丸くする。
カインは即座に言う。
「断る」
「私は君に頼んでいないよ」
「なら、なおさら断る」
「カイン」
ダリウスの声が落ちた。
カインが目だけを向ける。
ダリウスはゼルを見る。
「水路では一手だけ噛み合った」
カインの眉がわずかに動く。
ゼルも黙って聞く。
「一手だけだ」
ダリウスは繰り返した。
「それで相性がいいとは言わん」
低い声が、訓練場へ落ちる。
「だが、試す価値はある」
「必要ない」
「必要かどうかを試して決めろ」
「足手まといになる」
「なら切れ」
ダリウスは短く言った。
「一日で分からんなら続けろ。一週間やる」
カインの目が、わずかに細くなる。
「一週間だ」
「必要ない」
「必要かどうかを、その一週間で判断する」
ダリウスの声には、決めつけた響きがない。
合うと見込んでいるわけでもない。
合わなければ終わる。
ただ、それを判断するには一度の水路では材料が足りない。
それだけだった。
ゼルは静かに立っていた。
怒らない。
怯まない。
自信を見せびらかすわけでもない。
自分にもまだ分からないのだから、確約する言葉もない。
「……邪魔をしたら置いていく」
カインが低く言った。
「分かった」
「俺の速度に合わせられないなら下がれ」
「分かった」
「分かったと言う奴ほど分かっていない」
「それも覚えておくよ」
ルシが横で小声で言った。
「ゼルさん、兄貴相手に折れないのすごいな」
「ルシ」
「はい」
クロがルシの足元で「きゅう」と鳴いた。
歓迎というほどではない。
まだ耳は立っている。
けれど、最初の硬い警戒は少しだけ薄れていた。
カインはそれを一瞥する。
「お前も懐くな」
「きゅう」
「返事だけはいい」
ルシが笑う。
「兄貴、それオレにもよく言う」
「お前にも言っている」
「ひどくない?」
ゼルがまた少しだけ笑った。
その笑みを見て、カインはますます眉を寄せる。
ゼルには、それが歓迎の顔ではないことくらい分かった。
穏やかで、礼儀正しくて、警備隊の癖がまだ身体に残っている元補助術式官。
その男が今、黒燈の黒い灯りの下にいる。
カインは壁から背を離した。
「明日、夜明け前」
「早いね」
「遅れるな」
「努力するよ」
「努力で終わるな」
その言葉に、ゼルの目が少しだけ細くなった。
雨の夜の続きのように。
あるいは、これから初めて確かめる何かの合図のように。
「終わらせないようにするよ」
カインは答えなかった。
ただ踵を返し、訓練場を出ていく。
その背中を、ゼルは静かに見送った。
まだ隣ではない。
むしろ、拒まれている。
雨の夜に一度だけ、たまたま一手が噛み合った。
それだけだ。
自分の術式が、あの速さへ本当に追いつけるのかも分からない。
警備隊で身につけたやり方を、どこまで捨てる必要があるのかも。
そもそも捨てるべきなのかさえ、まだ答えはない。
ただ、確かめたいと思った。
あの黒い刃が、なぜあれほど速く動きながら、助ける順番を間違えないのか。
そして自分は、その動きを止めずに何ができるのか。
七日間。
それが、臨時ペアに与えられた最初の期限だった。
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