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【04】【全3話完結】七日間の臨時ペア (ゼル+カイン)
七日間の臨時ペア 第2話 七日間の臨時ペア
臨時ペア初日の夜明け前、黒燈ギルド本部の地下訓練場には、地上より重い空気が沈んでいた。
石壁に埋め込まれた魔石灯が低く灯り、床には古い刃傷と、何度も術式を張った跡が薄く残っている。派手な装飾はない。音を吸う壁、走るための床、転がっても骨を砕きにくい砂混じりの区画。訓練用の木剣、短剣、投げ刃、拘束布。
必要なものだけがある場所だった。
ゼルが訓練場へ入った時、カインはもう壁際に立っていた。
黒衣の袖を直し、腰の短剣を確かめている。二十歳前後の若い男。両目で敵の肩の揺れも、刃の角度も、床の小さな砂粒の反射も拾う眼差しだった。
見えている。
だからこそ、補われる必要などない。
そう言葉にしなくても、背中が言っている。
ゼルは一歩、砂混じりの床へ足を入れた。黒燈に入ってから与えられた黒い上着の袖口に、まだ馴染みきらない硬さがある。警備隊の白灰の外套はもう着ていない。胸元の鈍銀の徽章も外した。右腕には、黒銀の腕輪型所属証が新しい音を持って留まっている。
それでも、歩幅や姿勢には、警備隊補助術式官だった頃の癖が残っていた。
周囲確認。
退路。
負傷時の搬送経路。
巻き込み範囲。
報告すべき損傷箇所。
黒燈の訓練場に立っても、最初に見るものはまだそれだった。
「早いね」
ゼルが声をかけると、カインは振り返らなかった。
「遅い」
「約束の時刻より前だよ」
「俺より遅い」
「なるほど。君の基準は分かりやすい」
「使えないなら帰れ」
「まだ何もしていないよ」
「見れば分かる」
短い返答だった。
刃物で余分な言葉を削いだような声。
ゼルは、その硬さを正面から受けた。怒りではない。拒絶でもあるが、それだけではない。カインは、最初から信用していない相手を側に置かれることを嫌っている。
当然だ、とゼルは思った。
黒燈の前衛制圧型アサシン。
ひとりで踏み込み、相手の手首、肘、膝、重心を崩し、殺すより先に止める刃。
そこへ、元警備隊の術式官が入る。
邪魔になる可能性の方が高い。
「新人」
「うん」
「ここじゃ、警備隊の手順のままじゃ遅い」
ゼルは一瞬だけ黙った。
あの雨の水路では、一点だけなら間に合った。
少年へ向かう足がひとつ。
止めるべき相手もひとり。
条件が絞られていたから、影糸を一本だけ先へ置けた。
だが、複数の状況を拾おうとした途端、自分の判断はカインの背を追った。
「それを確かめに来た」
「確かめながら前に出るな」
「私は前に出る役ではない」
「後ろなら安全だと思っているのか」
ゼルは少しだけ目を細めた。
笑って流すには、重い言葉だった。
「後ろにいる者から先に狙われる現場も、知っている」
カインが初めて振り返った。
鋭い目だった。
真正面から相手を測る。ごまかしを許さない視線。若さはある。だが甘さはない。
「なら、邪魔をするな」
「合わせるよ。邪魔をするつもりはない」
「合わせろ。俺を動かすな」
「分かった」
「分かったと言う奴ほど分かっていない」
「それも覚えておくよ」
カインは短く息を吐き、短剣を抜いた。
訓練用の刃ではある。刃先は潰してあるが、重さも握りも実戦用に近い。腰から離れた瞬間、鞘が革具へ当たり、低く鳴った。
ゼルは右手を下ろし、手首から掌へ魔力を流した。黒燈の紋だけが刻まれた右腕の所属証が、その動きに合わせてかすかに冷える。
この頃の術式は、面へ触れて起動した後、掌の向きと指の開閉で直接形を整える。警備隊時代の癖のまま、感知範囲を広く取り、伸ばす先を一つずつ定めていく。
ゼルが片手を石床へつく。掌の下の影から暗い藍紫の糸がほどけ、石床を這う。
影糸。
床の凹凸を拾い、模擬敵の位置を探り、味方の進路を邪魔しないよう細く伸びていく。警備隊時代なら、隊列の前衛を支えるには十分な精度だった。
丁寧に。
広く。
安全に。
だが、カインが踏み込んだ瞬間、ゼルは自分の術式の遅さを知った。
床を蹴る音は、ほとんどなかった。
一体目の木製人形の懐へ入り、腕を払う。二体目の足元へ滑り込み、膝裏を打つ。三体目の背後へ回り込む前に、肩越しに投げ刃を放つ。
ゼルの影糸が追う。
だが、追っているだけだった。
カインがいた場所に、影糸が届く。
カインはもうそこにいない。
床の窪み。右奥の人形。天井から垂れる訓練用の鎖。影糸はそれらを正確に拾っていた。けれど、ゼルが糸の位置で示した瞬間には、情報はもう古くなっている。
カインは最後の人形の首元へ刃を添え、動きを止めた。
訓練場に、短い静寂が落ちる。
「遅い」
カインは振り返った。
ゼルは床に伸びた影糸を見下ろす。
暗い藍紫の糸に青紫の細い芯が走り、カインの足跡を追うように途中で細かく揺れていた。
「糸が追ってる」
カインは言った。
「先に張れ」
「君は合図を待たないんだね」
「待つ意味がない」
「前衛が合図を待たないなら、後衛はどう支える?」
「俺が動く前に読め」
ゼルは瞬きをした。
「難しいことを言うね」
「できないなら下がれ」
「できないとは言っていないよ」
静かな返答だった。
カインの眉が少し寄る。
ゼルは床へ伸びた影糸を指先でほどいた。暗い藍紫の線が砂の影へ沈み、空気が元に戻る。
怒らない。
言い訳もしない。
ただ、遅れた原因を見る。
警備隊では、遅れる前に隊列で補う。ここでは、遅れた一拍で誰かが死ぬ。
その違いが、床の冷たさよりはっきりしていた。
「もう一度、頼めるかな」
「頼んでいる立場か」
「頼んでいるよ。私は新人だから」
「新人なら、まず言われたことを覚えろ」
「覚えるよ」
「俺の後を追うな」
「先に張る」
「見てから送るな」
「動く前に寄越す」
「合図を待つな」
「君は待たない」
「分かっているなら動け」
ゼルは少しだけ笑った。
「分かった」
「分かったと言う奴ほど分かっていない」
「それも覚えている」
カインは舌打ちした。
*
二日目、ルシが訓練場へ顔を出した。
正確には、顔だけではなく、声と軽口と黒い毛玉も連れてきた。
「兄貴ー、生きてる?」
「帰れ」
「第一声がそれ?」
「帰れ」
「二回言わなくていいだろ」
軽い足音が、訓練場の入口で止まる。
十二歳前後の少年。黒燈で育った子供らしく、普通の子供より目がよく動く。だが、まだ実働員ではない。大人たちの用事の隙間を走り、伝言を運び、荷を届け、黒燈の仕事の匂いを少しずつ覚えている段階だった。首元には、細い黒革と小さな《黒燈見習い登録札》がある。
両腕には、黒い毛玉――クロを抱えている。
拾われた頃より身体も毛量も増えたが、今よりはまだ小さい。長い耳と太い尾、豊かな黒毛のせいで実寸より大きく見える。ルシは片腕を胸へ、もう片方を腹と後ろ足の下へ回し、時々重みを支え直していた。クロの首輪に下がる黒銀札が毛へ触れ、ちり、と小さく鳴る。
「ゼルさん、生きてます?」
「今のところは」
「兄貴の訓練で今のところ生きてるなら、かなりすごいですよ」
「ルシ」
カインの声が低くなる。
「邪魔をするな」
「見てるだけならいいだろ。オレも少しは分かるし」
「遊びじゃない」
「遊びだなんて言ってない」
「なら下がれ」
「兄貴、また子供扱いした」
「子供だ」
「十二歳は、もうちょっと大人だろ」
「現場では子供だ」
ルシは口を尖らせた。
だが、カインの声が低い時だけは、本当に危ない時だと分かっているのだろう。反発の足は、それ以上前へ出なかった。
クロがルシの腕の中からゼルを見て、耳をぴんと立てた。
「きゅ……」
昨日の初対面ほど身体を固くしてはいない。けれど、まだ完全に気を許したわけでもない。ゼルの術式インクの薄い匂いか、黒燈に入っても残っている警備隊時代の整った所作か。クロは鼻先を動かし、ルシの服へ顔を半分埋めた。
ゼルは手を出さなかった。
「おはよう、クロ。大丈夫。触れないよ」
「きゅう」
「ゼルさん、まだ様子見されてる」
「そうみたいだね」
「嫌われてる一歩手前じゃない?」
「警戒している相手に無理に近づくよりは、ずっといい」
ルシが少しだけ目を丸くする。
それから、クロを抱え直して得意げに言った。
「クロ、聞いたか。ゼルさん、分かってるっぽいぞ」
「きゅ?」
「いや、今のは分かってない顔だな」
「都合よく訳すな」
カインが低く言う。
「あと、そいつを肩に乗せるな。落ちる」
「乗せないって。重いし、オレの肩まだ無理」
「抱えているなら落とすな」
「落とさない」
「落としかけるな」
「まだ落としてない」
「これから落とす顔だ」
「兄貴、顔で決めつけるのやめてくれない?」
クロが「きゅう」と鳴いた。
ゼルはそのやり取りを見ていた。
ルシは兄に認められたい。大人ぶりたい。けれど、兄の本当に低い声には従う。クロはルシの腕の中で、二人の声の温度に合わせて耳を動かす。
ここにも、黒燈の距離がある。
甘くはない。
だが、見捨ててもいない。
「訓練を再開する」
カインは短く言った。
「ルシ、そこで見ていろ。線から出るな」
「見てていいの?」
「出るなと言った」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「はい」
ゼルは床へ視線を落とし、片手を石床へつく。
接触点から、暗い藍紫の影糸がまた広がった。
昨日より、少しだけ細い。
昨日より、少しだけ前に出ている。
カインが走る。
影糸が追う。
いや、ほんの一瞬だけ、カインの進路へ先回りした。
足元の小さな窪みの縁へ、暗い藍紫の糸が先に触れる。
カインは跳んだ。
着地と同時に、人形の腕を落とす。刃ではなく柄で、関節の外側を叩く。続けて膝、肘、重心。木製の訓練人形が床へ倒れ、乾いた音が沈む。
まだ遅い。
ゼル自身にも分かった。
だが、昨日よりは邪魔になっていない。
「また遅い」
カインが言う。
「そうだね」
「だが、昨日よりは邪魔じゃない」
ゼルは顔を上げた。
「それは評価かな」
「調子に乗るな」
「乗らないよう努力するよ」
「努力で終わるな」
ルシが入口で小さく笑った。
「兄貴、ゼルさんと会話増えてる」
「ルシ」
「はい黙ります」
「五秒は黙れ」
「短くない?」
クロが「きゅう」と鳴いた。
五秒も保たなかった。
*
三日目から、ゼルの影糸はまた変わった。
太さを削り、床全体へ広げるのをやめた。警備隊時代の癖なのだろう。ゼルの術式は、本来、隊を守るために面で張られる。民衆を誘導し、護衛線を作り、複数人の動きをまとめて支える形だ。
だが、カインは隊列ではない。
一本の刃だった。
面で包めば、進路を潰す。
早く縛れば、踏み込みを殺す。
遅く追えば、何の意味もない。
ゼルは、その刃に合わせるために、広域展開を捨て始めていた。
ゼルは右手の指を一本ずつ折り、床一面へ流していた魔力を細く絞った。広すぎる枝を、自分の感覚で一本ずつ切る。範囲を広げるのではなく、削り、絞る。展開した影糸の本数が減った。
影糸が床を走る。
カインの足元ではない。
カインが次に踏む可能性のある三か所へ、先に。
まだ甘い。
読む位置が広すぎる。
だが、追うだけではなくなっている。
「広い」
模擬戦を終えた直後、カインは言った。
「候補を絞れ」
「君の動きが速すぎる」
「理由にならない」
「言うと思った」
「なら言うな」
「でも、事実確認は必要だ」
カインは眉を寄せる。
「お前は時々、妙なところで黒燈っぽいな」
「褒めている?」
「気味が悪いと言っている」
「なるほど」
ゼルは笑わず、床の影糸を見つめた。
カインの速さは、ただ速いだけではない。力で押し切るのではなく、相手の逃げ道と殺意の向きを見ている。止める順番がある。喉より先に手首。胴より先に膝。殺すためではなく、動けなくするための刃。
無茶ではある。
けれど、雑ではない。
「もう一度だ」
カインが言う前に、ゼルが言った。
カインは黙る。
ゼルは穏やかな顔のまま、影糸を張り直していた。
「私はまだ、君の一拍に届いていない」
カインの目が鋭くなる。
「使われたいのか」
「役に立ちたい、かな」
「綺麗な言い方だな」
「君は綺麗な言い方が嫌いだね」
「中身がない言葉が嫌いなだけだ」
「では、中身を作るよ」
ゼルは静かに言った。
「もう一度」
カインはしばらくゼルを見た。
そして、短く答えた。
「遅れたら置く」
「置かれないようにする」
その日の訓練は、夜まで続いた。
*
四日目には、ルシが記録板を抱えて訓練場に現れた。
「ダリウスさんに言われたんですー。新人術式支援の適性記録、取っとけって」
「嘘だな」
カインが言う。
「半分本当」
「半分は嘘か」
「兄貴の顔が怖いから、記録板が必要な気がした」
「帰れ」
「それ昨日も聞いた」
ルシは壁際に座り、膝の上にクロを乗せた。首元の見習い登録札と、クロの首輪札が触れそうになり、黒銀がかすかに揺れる。
クロは一度、ゼルの荷物の方へ身を乗り出す。小さな爪が石床を掻き、首輪の金具がちり、と鳴った。
「クロ、そっち行くなって。オレの膝」
「きゅう」
「今の何? 却下?」
ゼルが横から言う。
「クロは、そこからの方が見やすいのかもしれないね」
「ゼルさん、優しい解釈ありがとう。でもたぶん裏切りです」
「きゅう」
「ほら、否定しない」
カインは短く言った。
「ルシ。記録するなら黙って書け」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「はい」
その日の訓練は、初めて実地に近かった。
黒燈本部の裏側にある古い倉庫区画。壊れた木箱、吊り鎖、狭い通路、暗がり。模擬敵は三人。証拠品に見立てた革筒を守りながら、出口まで抜ける。
カインが前衛。
ゼルが後方支援。
ルシは上階の足場から記録。
クロはルシの膝から降り、足元で丸くなっていた。ルシが動きそうになるたび、尾が靴へ触れる。止めているつもりなのか、ただ近くにいたいだけなのかは分からない。
「クロ、足に絡むなって。転ぶ」
「きゅ」
「返事だけ可愛い」
「足場から身を乗り出すな」
カインが下から言った。
「乗り出してない」
「これから乗り出す顔だ」
「兄貴、その顔判定ずるくない?」
「黙れ」
「はい黙ります」
合図はなかった。
ゼルは片手を足元の床へつく。
カインが走る。
模擬敵のひとりが横から出る。カインは短剣で刃を受けず、肘を落として体勢を崩す。二人目の投げ紐が革筒へ伸びる前に、ゼルの影糸が床を滑った。
暗い藍紫の糸が、投げ紐の軌道をわずかに逸らす。
逸らしただけ。
絡め取るほど強くない。
だが、カインには十分だった。
踏み込み、相手の手首を叩く。
革筒を拾い、振り返らずに投げる。
ゼルへ。
一瞬、遅れた。
革筒が指先で跳ねる。落としかける。
だが、影糸が革筒の端に触れ、落下を殺した。
ゼルはそれを掴む。
「遅い」
カインが言う。
「今のは予告してほしかったな」
「敵が予告するか」
「しないね」
「なら読む」
「なるほど」
ゼルは革筒を持ったまま、背後へ糸を張った。
細い影糸が、通路の角へ先回りする。
そこに三人目の模擬敵がいた。
足が止まる。
止めたのはほんの一拍。
その一拍で、カインの刃は喉元へ届いた。刃の背だけが触れる。殺さない。けれど、動けば終わる位置。
終了。
上から見ていたルシが、記録板を指で叩いた。
「おー。今の、ちょっと良かったんじゃない?」
「ちょっとだ」
カインが返す。
ゼルは息を整えながら言った。
「少しは使えたかな」
「少しな」
「君の評価は本当に狭いね」
「事実だ」
「兄貴の“少し”は、普通の人の“かなり良い”くらいですよ」
「ルシ」
「はい黙る」
クロが「きゅう」と鳴いた。
「クロもそう思うよな?」
「きゅう」
「ほら」
「都合よく訳すな」
カインの声に、ルシは肩をすくめた。
だが、その目は少しだけ楽しそうだった。
ゼルはカインを見た。
息は乱れていない。刃も乱れていない。こちらの遅れを責めながらも、革筒を投げた。つまり、ゼルが受け取る可能性を計算には入れた。
信頼ではない。
まだ、使えるかどうかを試しているだけだ。
それでも、初日まではなかった動きだった。
*
五日目、ルシはゼルのところへ紙束を持ってきた。
「ゼルさん、ここ見てくれません?」
「私でいいのかな」
「兄貴に見せると、赤が多くなるんです」
「赤?」
「直しの線。紙が血まみれになる」
ゼルは小さく笑い、紙束を受け取った。
正式な報告書ではない。伝言を運んだ時の場所、誰に渡したか、どの扉が閉まっていたか、どの大人が不機嫌だったか。見習いとして残した記録に、ルシなりの観察が混じっている。
まだ正式な情報屋の仕事ではない。
けれど、ただの練習でもなかった。
「カインは必要なことだけ書けと言うだろうね」
「そう。それで必要なことだけ書いたら、“足りない”って言う」
「難しいね」
「理不尽ですよね」
「でも、カインはたぶん、君が危ない場所へ入る理由を減らしたいんだと思う」
ルシが少しだけ黙った。
クロはその腕の中で丸くなり、毛の奥から片目だけを開けている。ゼルを見る視線は、まだ様子見のままだ。だが、初対面の時のように身体を固くすることは、もうなかった。
「……ゼルさん、兄貴の翻訳うまいですね」
「まだ勉強中だよ」
「勉強してるんだ」
「組むなら、必要だから」
ルシは目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「兄貴、聞いたら変な顔しそう」
「そうかな」
「しますよ。ゼルさんが兄貴のこと見すぎって」
ゼルは紙へ視線を落としたまま言った。
「見なければ、補助はできない」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
「そういう意味だよ」
穏やかな返し。
だが、逃げたわけではなかった。
ルシは少しだけ面白そうにゼルを見る。
「ゼルさんって、兄貴に嫌われてるの嫌じゃないんですか?」
「嫌われていると、分かりやすいからね」
「分かりやすい?」
「少なくとも、こちらを見ている」
ルシは数秒黙った。
それから、腹を抱えるほどではないが、楽しそうに笑った。
「ゼルさん、結構変ですね」
「よく言われる」
「誰に?」
「今、君に」
「それ初めてじゃないです?」
「では、初めて言われた」
ルシはまた笑った。
その声が、訓練場の入口にいたカインの耳へ届いた。ゼルが顔を上げるより早く、クロが耳を動かした。小さな爪がルシの袖を掴む。ルシも気づき、笑いを引っ込める。
カインは入口に立っていた。
低い足音が、そこから一歩だけ訓練場へ入る。
「ルシ」
「うわ、兄貴。いつからいたの」
「今だ」
「嘘っぽい」
「記録は終わったのか」
「ゼルさんに見てもらってる」
「甘やかすな、ゼル」
ゼルは顔を上げる。
「甘やかしてはいないよ」
「懐かせている」
「懐いてくれるのは、悪いことではないと思うけど」
「現場で死ぬぞ」
その一言で、空気が変わった。
ルシの笑みが薄くなる。
クロがルシの腕の中で身を固くし、「きゅ……」と小さく鳴いた。
ゼルも静かにカインを見た。
カインは視線を逸らさない。
「話を聞いてくれる大人に懐くのは勝手だ。だが、現場では懐いた相手から死ぬこともある」
ルシが唇を引き結ぶ。
ゼルは、責めなかった。
「覚えておくよ」
「お前が覚える話じゃない」
「私も覚える。ルシも覚える。それでいい」
「綺麗にまとめるな」
「まとめたつもりはないよ」
「なら余計に悪い」
カインは踵を返した。
「訓練だ。ルシ、上に戻れ」
「兄貴」
「戻れ」
ルシは何か言いかけて、やめた。
「……はい」
軽さの薄い返事だった。
ゼルはその背を見送った。
クロがルシの腕の中からこちらを振り返り、「きゅう」と鳴く。警戒ではない。だが、どこか落ち着かない声だった。
扉の向こうへ軽い足音が消える。
訓練場に、地下の空気音だけが戻った。
ゼルはカインへ視線を戻す。
「君は、弟を守る時だけ言葉が鋭くなるね」
「余計な分析をするな」
「事実確認だよ」
「俺の台詞を取るな」
ゼルは少しだけ口元を緩めた。
「少し似てきたかな」
「気色悪い」
「手厳しい」
カインは短剣を抜いた。
「明日は実地だ」
「どこへ?」
「王都南区。物資の流れを見る。お前がどれだけ現場で使えるか確認する」
「分かった」
「ルシは連れていかない」
「それを私に言う?」
「お前が甘やかすからだ」
「まだ言うんだね」
「何度でも言う」
ゼルは黙って頷いた。
*
翌日――六日目。
夕刻、ルシは黒燈本部の使いで届け物に出た帰りだった。
南区へ続く脇道で、石壁の根元に細い紙片が落ちているのを見つけた。
黒燈の伝達に使う合図札に似ている。
ただし、よく見れば線の置き方が少し違う。
十二歳のルシにも、何となく変だということだけは分かった。
だからこそ、気になった。
拾って戻ればいい。
誰かを呼べばいい。
そう思ったはずなのに、少し先の路地にも同じ札があった。
その先にも。
まるで、見つけた者を奥へ誘うように。
クロがルシの腕の中で耳を立てた。
「……変だよな」
「きゅ」
「ちょっと見るだけ」
「きゅう」
「分かってるって。奥まで行かない」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
ルシは紙片を握り、南区へ足を向けた。
見て見ぬふりができるほど、まだ大人ではなかった。
*
六日目の夜、雨は降っていなかった。
その代わり、ノクティルムの南区には、湿った熱がこもっている。酒場の裏手、古い荷置き場、低い魔石灯が赤茶けた壁を照らす通り。人通りは少ない。だが、視線は多い。
カインは屋根の縁に伏せ、下の路地を見ていた。
ゼルは隣で息を殺す。
影糸はまだ張っていない。張れば魔力に敏い相手に気づかれる。壁の染み、荷箱の置き方、扉の封符、窓の内側に残る灯りの揺れ。警備隊時代なら、まず応援を呼び、周囲を封鎖し、避難経路を確保しただろう。
今は違う。
中に何があるのかを見極める方が先だ。
「対象は奥の倉庫か」
ゼルが低く聞く。
「たぶんな」
「たぶん?」
「拾った紙が曖昧だった」
ルシの帰還予定時刻は、もう過ぎていた。
本部へ確認を入れても、戻った記録はない。
しかも、ルシが最後に通る予定だった配達路と、偽の合図札が落ちていた位置が重なっている。
カインの声が低くなる。
「ルシか」
「名前は書いていない」
「君は分かっている」
「分かるような真似をするなと言ったはずだ」
ゼルは答えなかった。
路地の奥で、人影が動く。
荷箱を担いだ男が二人。見張りが一人。奥の扉に符が貼られている。物資の受け渡しにしては警戒が薄い。
薄すぎる。
「罠だね」
「見れば分かる」
「でも、中に何かある」
「だから罠だ」
カインは屋根から降りようとした。
その前に、ゼルが低く言う。
「待って」
「退け」
「退かないよ」
「邪魔だ」
「君が死ぬ方が、任務の邪魔になる」
カインの空気が鋭くなった。
ゼルは退かない。
ゼルは片手を瓦へつき、開いていた指を半ば閉じる。
広く探れば、魔力が散る。
だから、場所を絞った。
壁の割れ目。
雨樋の裏。
荷車の車輪の下。
暗い藍紫の影糸が、瓦の影を這う。
見える場所ではなく、見えない隙間へ。
壁の内側へ届いた糸に、何かが返った。
小さな振動。
規則的な足音ではない。
荷箱が軋む重さとも違う。
一度。
少し間を空けて、もう一度。
何かが床近くで動いたらしい。
それ以上は分からない。
誰なのか。
何人なのか。
怪我をしているのか。
今のゼルの影糸では、そこまでは拾えなかった。
「中に、誰かいる」
「見張りか」
「分からない。床に近い場所で、何か動いた」
カインの目が変わった。
「ルシか」
「断定はできない」
「できる」
カインはもう動いていた。
ゼルの影糸が先に走る。
今度は、追っていない。
カインが落ちる場所の半歩先へ、薄く。
路地へ降りた瞬間、奥の見張りが振り向く。カインは短剣を抜かず、肘と肩で一人目を落とした。二人目が声を上げる前に、ゼルの影糸が足元を滑らせる。
転倒ではない。
一拍の停止。
その一拍で、カインは扉へ到達した。
王都外の封符を真似た、雑な術式が貼られている。
見る者に警戒を起こさせるための、粗い模倣だった。
「触るな」
ゼルが言う。
カインは舌打ちした。
「解除は」
「三拍」
「一拍でやれ」
「無茶を言うね」
「やれ」
ゼルは封符を見る。
正規の解除なら、結び目を順に追う。
流れを読み、逆流を止め、安全を確認してから剥がす。
今は時間がない。
そして、精密に調律するための道具もない。
指先だけで、正確にほどけるような術式ではなかった。
「解除はしないよ」
「何でもいい」
「あとで怒られても知らないからね」
「やれ」
ゼルは張っていた影糸をさらに伸ばした。
封符そのものを解くのではない。
流れ込む魔力の根元へ、影糸を押し当てる。
細かく制御するのではなく、一瞬だけ力をぶつける。
術式が軋んだ。
反動が指先へ返る。
骨の奥を細い針で突かれたような痛みが走り、影糸が震えた。
長くは保たない。
一拍。
それだけでいい。
「今」
カインが扉を蹴った。
その背が通過した直後、押さえ込まれていた魔力が戻った。
封符が白く弾ける。
乾いた破裂音が扉枠を叩き、ゼルの影糸が途中から千切れた。
ゼルは右手を一度強く握る。
二度は同じやり方をしたくない。
倉庫の中から、細い針が飛ぶ。
カインは身を沈めて避けた。右手の短剣で針の軌道を弾き、片手で扉枠を掴む。中は暗い。木箱が積まれ、床に薄い薬煙が漂っている。
奥に、人影。
ルシだった。
口元には布を巻き、膝をついている。完全に捕まってはいない。だが、足元に絡む細い拘束糸で動きを制限されていた。両腕の内側には、黒い毛玉を必死に抱え込んでいる。クロの毛が膨らみ、長い耳が伏せられていた。
「兄貴……?」
「馬鹿が」
カインの声は低かった。
「後で聞く」
「今じゃないんだ」
「黙れ」
ルシは口を閉じた。
倉庫の梁の上から、敵が降りてくる。
カインは踏み込もうとした。
横合いから、別の刃が入る。
カインには見えていた。
だが、その刃の前に、暗い藍紫の影糸が走った。
まだ震えている。
先ほどの封符の反動が、右手に残っていた。
それでもゼルは、刃を止めようとはしなかった。
軌道へ触れる。
ほんのわずか、刃先が遅れる。
ほんの一拍。
カインはその一拍で、敵の手首を叩き落とした。
「遅い」
カインは言った。
ゼルは倉庫の入口から返す。
「でも間に合った」
「ぎりぎりだ」
「次はもう少し早くする」
「次があると思うな」
「あるよ」
ゼルの声は穏やかだった。
けれど、揺れていない。
「まだ、合わせ方を全部覚えていないからね」
カインは返事をしなかった。
ルシの拘束糸を切り、肩を掴んで立たせる。
「立て」
「立ってます」
「言い訳するな」
「まだしてない」
「これからする顔だ」
「兄弟って怖い」
クロがルシの腕の中で「きゅう!」と鳴いた。
薬煙と緊張で、声が少し濁っている。
ルシは咳き込みながらも、クロを落とさないよう両腕で抱え直した。
「クロ、暴れるなって。落ちる」
「きゅう!」
「怒ってるのは分かるけど、オレも怒られる側だから」
ゼルは近づきすぎない距離で膝を落とした。
「ルシ、動ける?」
「動けます」
「息は?」
「ちょっと変な匂い吸っただけ」
「大丈夫。触れないよ。布を口に当てたまま、カインの後ろへ」
ルシは一瞬だけゼルを見た。
そして、素直に頷く。
「はい」
カインが低く言った。
「全員黙れ。撤収する」
ゼルは周囲へ影糸を伸ばした。
今度は、何もかも拾おうとはしなかった。
後ろの曲がり角。
増援が入れる扉。
足元の符。
必要な場所だけへ糸を置く。
警備隊時代なら、もっと広く取った。
安全を確保するために、退路全体へ術式を回した。
そのやり方が間違っていたわけではない。
だが、今ここで同じことをすれば、広げている間にカインが先へ行く。
細く。
先に。
必要な場所だけ。
それはまだ、不完全だった。
糸は震える。
時折遅れる。
封符を押さえた右手には、まだ鈍い痛みが残っている。
けれど、もう追うだけではなかった。
路地へ出ると、夜気が濃く肺へ入った。
ルシは咳き込み、カインに首根っこを掴まれている。クロはルシの胸元にしがみつき、首輪の金具を小さく鳴らした。
「兄貴、苦しい」
「黙れ」
「怒ってる?」
「当然だ」
「いや、黒燈の合図札っぽいのが落ちてて」
「一人で行くなと言った」
「言われたっけ」
「言った」
「たぶん言われました」
「ルシ」
「はい」
ルシは観念したように肩を落とした。
ゼルはその横で、少しだけ息を吐く。
「カイン」
「何だ」
「ルシは、役に立とうとしたんだね」
「庇うな」
「庇っていない。理由を確認している」
「理由があれば危険に寄っていいのか」
「よくはない」
ゼルはルシを見る。
「でも、役に立ちたい子は危険に近づく。止めるだけでは、たぶん聞かない」
「ゼルさん?」
「だから、近づく前に戻る線を決める必要がある。誰に知らせるか。何呼吸で引くか。クロを抱えているなら、どこで止まるか」
カインはゼルを見た。
ゼルは穏やかな顔をしていた。
だが、その言葉は甘くなかった。
ルシを放っておくと言っているわけではない。むしろ逆だ。ルシがいずれ何かの道を選ぶなら、その前に、生きて戻る線を身体へ叩き込む必要がある。
カインは、少しだけ黙った。
その沈黙を、ルシが恐る恐る覗く。
「兄貴?」
「帰ったら説教だ」
「やっぱり?」
「朝までだ」
「長い」
「ゼル」
「うん」
「お前も来い」
ゼルが瞬きをした。
「私も?」
「ルシを甘やかした責任だ」
「それは少し理不尽だね」
「嫌なら帰れ」
「嫌だとは言っていないよ」
カインは何も返さなかった。
ただ、踵を返して歩き出す。
ルシがゼルの横へ小走りで並んだ。クロを抱えたままなので、足音が少し不安定だ。クロの爪が服を掴み、登録札がちりちりと鳴る。
「ゼルさん、巻き込んですみません」
「君が無事ならいいよ」
「ほら甘い」
カインが前から言う。
「聞こえている」
「聞かせました」
「ルシ」
「はい黙ります」
クロがルシの胸元で「きゅう」と鳴いた。
ゼルはその声を聞きながら、カインの背を見た。
まだ、隣ではない。
カインは先を歩いている。
こちらを信用しているわけではない。後ろを預けたわけでもない。むしろ、何かあればすぐ切るつもりでいる。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
ゼルは右手の指先をゆっくり握った。
影糸の余韻が、皮膚の奥に残っている。
警備隊にいた頃、一度もこんな使い方はしなかった。隊を守るための術式が、ひとりの刃に合わせて形を変えていく。
危うい。
難しい。
そして、目を離せない。
カインが前方で振り返らずに言った。
「ゼル」
「何かな」
「明日は遅れるな」
ゼルは少しだけ目を細めた。
「努力するよ」
「努力で終わるな」
「分かった」
「分かったと言う奴ほど分かっていない」
「それも、もう覚えたよ」
カインは返事をしなかった。
ただ、歩幅をほんの少しだけ緩めた。
ゼルが追いつける程度に。
それは信頼ではない。
まだ、正式なペアでもない。
けれど、七日間の終わりが近づく中で、二人の距離は少しだけ変わり始めていた。
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