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【05】【全5話完結】カイン失明事件 (ゼルxカイン)
カイン失明事件 第1話 黒い針の噂
黒燈ギルドの夜は、静かではない。
夜を縄張りにする者たちの場所だからこそ、壁の奥では絶えず音がしている。廊下を渡る靴底。短剣が鞘口の金具へ収まる乾いた音。任務報告書の束が机へ置かれる鈍い重み。食堂からは椀と匙の触れ合う音に、誰かの低い笑い声が混じっていた。
ゼルは資料室の隅で、護符へ触れていた右手を止めた。
机の黒布には、小さな術式具が三つ並んでいる。ひとつは護符、ひとつは髪留め、最後のひとつは古びた鍵束にしか見えない。
表向きの用途は違っても、内側へ仕込まれた補助印はよく似ていた。感覚を鈍らせ、判断を半拍遅らせ、術式の届く位置をほんの少しだけ狂わせる。
表の警備隊なら、押収記録を書き、封をして倉庫へ入れる。
黒燈では、まず使われ方を見る。
誰が使い、誰へ向け、何を鈍らせ、何を奪うためのものなのか。
ゼルは薄い手袋越しに護符の縁へ魔力を流した。右腕の黒銀腕輪がわずかに冷え、指先から伸びた感覚が刻まれた線を一本ずつ拾っていく。
すぐに、薄い痺れが返ってきた。
視界へ直接触れる術式ではない。術を扱う者の感覚へ、薄い砂を混ぜるような作りだった。
「嫌な作りだね」
独り言のつもりだった。
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。
任務帰りの所属員、水差しを運ぶ補助員、食堂から戻る者。複数の足音が重なる中から、ゼルの耳はひとつだけを先に拾った。
ほかより少し重く、迷いがない。刃を床へ置いていくような低い足音。
カインだ。
そう分かった瞬間、護符へ触れていた指がほんの少しだけ止まる。
聞き分ける必要などない。ないはずだった。
それなのに、カインの足音だけはいつの間にか耳が先に拾うようになっていた。曲がり角を曲がる前から、扉の前へ立つ前から。
ゼルは小さく息を吐き、顔を上げた。
扉が二度、短く叩かれる。
「入るぞ」
「どうぞ」
返事が終わる前に扉が開いた。
カインが立っている。
両目で部屋の中を測り、机の術式具を確認してから、最後にゼルの手元へ視線を落とした。任務帰りらしく黒い外套の裾には水が染み、右手の手袋には細い裂け目が走っている。
ゼルの視線は、そこへ止まった。
「手を切った?」
「かすっただけだ」
「見せて」
「必要ない」
「毒の有無だけ確認する。必要かどうかは、傷を見てから決めるよ」
言ってから、自分の声が少し硬かったことに気づいた。
いつものように笑って流すつもりだったのに、口元もほとんど動いていない。
カインも気づいたらしい。ゼルの顔を一度見て、片方の眉をわずかに上げた。
「お前、補助役か治療係か、どっちだ」
「必要なら両方する」
「必要ない」
「そう判断するために見せてほしい」
ゼルは手を差し出した。
それ以上は距離を詰めず、差し出したまま待った。
一拍。
二拍。
カインが舌打ちする。
「短く済ませろ」
「努力するよ」
「努力で済む現場じゃない」
「今は治療だ」
「同じだ」
カインが右の手袋を外した。革が指から抜け、机の端へ置かれる。
手の甲には浅い切り傷があった。
刃で斬られた痕ではない。別件で割れた拘束術具の破片を受けたらしく、傷の縁にごく薄い魔力の焦げが残っている。
ゼルは黒布を一枚挟んで魔力の濁りを確かめた。毒の反応はなく、傷も深くない。薬布一枚で覆える程度なら、今夜のうちには疼きも引くだろう。
これなら「かすっただけだ」というカインの言い分を、半分くらいは認めてもよかった。
薬布を取り、傷口を拭う。
カインは何も言わない。
痛みを隠す時、カインは眉を寄せない。その代わり、右手の指が一度だけ止まり、息を吐く間隔がほんのわずかにずれる。
ゼルはその癖を、もう覚えていた。
薬布を押さえていた指から少しだけ力を抜く。
すると、カインがこちらを見た。
「何だ」
「少し強かったかと思って」
「これくらいで騒ぐな」
「騒いではいないよ」
「顔に出ている」
ゼルは一度だけ瞬きをした。
カインはもう傷ではなく、ゼルの顔を見ていた。からかっている様子はない。本当にそう見えたから言っただけらしい。
「君ほどではないと思うけれど」
今度はカインの眉間に薄く皺が寄る。
「俺は出していない」
「そういうことにしておこうか」
カインの目がわずかに険しくなった。
ゼルはそれ以上追及せず、薬布へ視線を戻す。
カインの指は、今度は止まらなかった。
それを確かめてから薬布を留める。
「終わったよ」
「遅い」
「君の基準が早すぎるだけだ」
「言い訳か」
「分析だよ」
カインは手袋を戻しながら、机の護符を顎で示した。
「それが今回の押収品か」
「一部だね」
「使えるのか」
「使える。使われると厄介だ」
「どっちだ」
「両方」
ゼルは護符の端を持ち上げた。
「感覚を鈍らせる術式具だ。表向きは護身具に見えるけれど、中身は違う。目を塞ぐほど強くはない。ただ、術式感覚へ薄いノイズを混ぜる」
「補助役潰しか」
「おそらくね」
カインの目が細くなる。
「お前向きだな」
「言い方が悪い」
「事実だ」
「そうだね」
ゼルは否定しなかった。
前へ出るカインを止めるなら、正面から刃を折るより、その周囲を見る者を曇らせた方が早い。
影糸を震わせ、静域の境界を狂わせ、感知へ偽の気配を混ぜる。戦場を整える側が一拍遅れれば、前衛の刃にも影響は出る。
「君が前へ出るなら、私は周囲を見る」
「知っている」
「その周囲を濁される」
「なら、濁される前に切れ」
「簡単に言うね」
「簡単にできるとは言っていない」
ゼルは小さく笑った。
「君は時々、優しいのか厳しいのか分からない」
「厳しい」
カインは眉ひとつ動かさなかった。
「即答だね」
「甘くして死なれる方が面倒だ」
言葉は素っ気ない。
それでも、その時だけカインの目は逸れなかった。
ゼルも一瞬、視線を返した。
その「面倒」という言葉は、カインの口から出るといつも冷たく聞こえるくせに、妙な温度が残る。
ゼルは護符を黒布へ戻した。
「死なないようにするよ」
「する、じゃない。しろ」
「では、結果を出す」
カインが一瞬、黙った。
ゼルが目を上げると、カインはわずかに目を細めてこちらを見ていた。訝しむというより、何かを確かめるような顔だった。
「何かな」
その視線がほんの少しだけ緩む。
「……言うようになったな」
「君に鍛えられたからね」
ゼルの口元に今度は自然な笑みが浮かぶ。
「俺のせいにするな」
「君の影響だよ」
カインは不機嫌そうに視線を外した。
ゼルはその横顔を見た。
初めて会った頃、カインはゼルを信用しなかった。穏やかな声も、元警備隊という肩書きも、整いすぎた手順も、現場で役に立たなければ意味がないものとして扱った。
言葉に遠慮はない。
家名も経歴も見ず、逃げるか、使えるか、守るべきものを見失わないかだけを見る。
そのカインが、今はゼルへ背を向けたまま立っている。
「ギルド長が呼んでいる」
「任務かな」
「ああ。南外縁の古水路区だ」
「また湿った場所だね」
「嫌なら下がれ」
「嫌とは言っていないよ」
「顔に出ている」
カインが先ほどと同じ言葉を返す。
ゼルはわずかに眉を上げた。
「君ほどではない」
今度はカインが露骨に嫌そうな顔をした。
答えずに踵を返す。
ゼルは術式具を黒布で包み、封をする。部屋を出る直前、無意識にカインの背を目で追っている自分に気づいた。
魔石灯に肩の線が浮かび、黒い外套が歩調に合わせて揺れる。足取りに迷いはなく、角を曲がる瞬間だけ横顔が薄く照らされた。
ゼルは瞬きをする。
先ほど足音を聞き分けた時と同じだった。
必要があるから見ているわけではない。
理由を探す前に、目が追っている。
*
会議室には、ダリウスがいた。
黒燈ギルド長は厚い地図を机へ広げている。ノクティルムの南外縁、古い水路と倉庫街が絡み合った区域だ。表の商会が使わなくなった倉庫が多く、密売や隠し荷には都合がいい。
地図の端に、黒い針が一本置かれていた。
長さは指の半分ほど。光を吸うような黒で、先端だけが濡れたように艶めいている。細い根元には、古い警備術式を真似た刻みがあった。
ゼルはそれを見た瞬間、目を細める。
「触るな」
ダリウスが言った。
「触らないよ」
「近づきすぎるな」
「それも努力する」
横でカインが低く言う。
「努力で済ませるな」
ゼルが横を見ると、カインは真顔だった。
「今日の君はよくそれを言うね」
「お前がよく言わせる」
「なるほど」
ゼルの口元が少しだけ緩む。
カインはそれを見ても何も言わなかった。
ダリウスの視線が二人の間を一度だけ通る。
何も言わなかったが、その沈黙の方が余計に重い。
ゼルは黒い針へ視線を戻した。
「資料室の三つと同じもの?」
「別系統だ」
ダリウスが即座に答える。
「根にある考え方は似ている。感覚を狂わせ、補助を遅らせる。だが、あの三つは近くに置くか、持たせて乱す類だ」
太い指が、黒い針の手前で止まった。
「こいつは刺さることを前提に作られている」
ゼルの表情から、わずかに笑みが消える。
「直接干渉型か」
「ああ。ただし何を、どこまで壊すかまでは分かっていない」
「試さない方がいいね」
「だから触るなと言った」
「了解」
今度は素直に答えた。
針そのものは小さい。先ほど薬布一枚で覆ったカインの右手の傷より、ずっと小さく見える。
しかし、刃物の危険は大きさでは決まらない。ましてこれは、ただ肉を裂くための針ではなかった。
「術式具の横流し筋が動いている」
ダリウスは地図の一点を指した。
「古水路区の廃倉庫を一時保管庫に使っている可能性が高い。表の警備隊には、まだ上げていない。上げれば情報が漏れる恐れがある」
「内通か」
カインが問う。
「断定はしない。だが、警備術式の配置を知る者が関わっている」
ゼルは黒い針を見る。
「元警備隊か、術式管理側の知識だね」
「ああ」
ダリウスは短く頷いた。
「ゼル。お前の古巣に近い」
「私を疑っている?」
「疑うなら、この席に呼ばん」
「だろうね」
ゼルは静かに答えた。
黒燈へ入ってから、似た視線は何度も受けている。表の警備隊にいた術式使いで、家柄もある。使えるが、完全に内側とは言い切れない者として見られることもあった。
ダリウスは、そこを曖昧に飾らない。疑う時は疑い、使うと決めれば使う。危険なら危険だと言う。
その方が信用できた。
カインが地図を見たまま口を開く。
「こちらの配置まで抜かれている可能性は」
その横顔から先ほどまでの軽いやり取りは消えていた。
「今のところ証拠はない」
ダリウスは即答した。
「黒燈内部の現行任務記録が漏れた痕跡も出ていない。外で見られた動きと、古い警備隊資料を繋がれている可能性の方が高い」
「外から組み方を読まれている?」
ゼルが問う。
「その前提で動け」
ダリウスは地図の上で二人の進入経路を指先でなぞった。
「いつもの組み方が通じると思うな。通じる手を捨てる必要はないが、通じるからと同じ順で出すな」
カインの視線が地図の奥へ動く。
「見せた動きも罠になる」
「そういうことだ」
内部へ刃が入っていると決めつけず、外から見られていないとも考えない。その線引きは、ダリウスらしかった。
「任務は二段階だ。今夜、外周と出入口を確認する。明日の夜、保管庫を確定し、術式具と帳簿を押さえる」
「人質は」
カインが即座に聞いた。
「未確認」
「なら、いる前提で入る」
「そうしろ」
ダリウスの太い指が、地図の退路を一度なぞる。
「人は生かして押さえろ。帳簿と術式具を残せ。黒燈は握る。裁くのは別だ」
「了解」
カインが答えた。
ゼルは水路線を追う。
古い水路は現役の地下排水と一部繋がっている。湿気が強く、音が反響しやすい。《静域》を広く張れば有利になるように見えるが、必要な水音まで沈めれば、自分で罠の気配を消すことになる。
狭く、暗く、どこも濡れている場所だ。
影糸は床へ広げず、壁面と排水溝の縁へ絞った方がいい。
「通信は?」
ゼルが聞いた。
「入口の外に外周を残す」
ダリウスの指が、水路入口の二点を叩く。
「古水路の中は通信符が乱れる。奥へ入れば、届かないこともある。中では短い合図だけにしろ」
「返事がないから異常なし、とは扱わない」
「ああ」
「帰還確認は?」
「予定時刻を越えたら外周が動く。別経路の伝令も置く」
カインが地図の細い脇道を見る。
「伝令路が一つでは読まれる」
「二つ使う」
ダリウスが答えた。
「それでも届かない時は、自分で判断して戻れ」
カインは一度だけ頷いた。
ゼルも地図へ視線を戻す。
通信が切れる可能性を知らずに入るわけではない。だからこそ、現場で拾う音と気配が重要になる。
「私とカインで入る?」
「ああ。前はカイン。ゼルは後ろにつけ。外周へ二名。別働は私が出す」
「ルシは」
カインの声が少し低くなった。
顔つきも、それまでより硬い。
「本部待機だ」
「当然だ」
「本人は不満そうだったがな」
その時、会議室の扉の外で小さな物音がした。
布が木へ擦れ、続いて聞き慣れた鳴き声がする。
「きゅ……」
カインが扉を見る。
眉間にわずかに皺が寄った。
「ルシ」
扉の向こうから返事はない。
「いるのは分かっている」
声がさらに低くなる。
それでも沈黙が続いたため、ダリウスが言った。
「入れ」
扉が少しだけ開く。
十四歳のルシが、気まずそうな顔を覗かせた。首元には細い黒革と小さな《黒燈見習い登録札》がある。まだ正式な情報屋ではないが、赤みのある目はすでに人の動きと言葉をよく拾っていた。
足元には黒い小型幻獣がいる。
クロはルシの踵に半分隠れ、長い耳を立てて会議室を覗いていた。首輪の黒銀札が豊かな毛へ触れ、ちり、と鳴る。
「……通りかかっただけ」
「会議室の扉の前をか」
カインが言う。
目つきは完全に兄のものだった。
「うん」
「嘘が下手だ」
「兄貴に言われたくない」
「何だと」
カインの眉がさらに寄る。
「何でもないです」
ルシはすぐに目を逸らした。
クロが「きゅう」と鳴く。
ゼルはそのやり取りを見て、口元だけを緩めた。
カインの弟は、人懐こく見えるわりによく周囲を見ている。誰が怒ったか、誰が言葉を飲み込んだか、誰が名前を間違えたか。最近はその視線が遊びだけではなく、情報を拾うための目になり始めていた。
ルシがちらりとゼルを見る。
「ゼルさんも行くの?」
「行くよ」
「兄貴と?」
「そうだね」
「ふうん」
ただの相槌ではなかった。
カインが目を細める。
「何だ」
「別に」
「言え」
「兄貴、ゼルさんと組む時だけ説明が短いよな」
会議室が一瞬、静かになる。
カインの眉が動いた。
「どういう意味だ」
「他の人には、右を見ろとか、踏み込みが浅いとか、遅れるなとか、もっと細かく言うじゃん。ゼルさんには一言で終わる」
「使えるからだ」
「へえ」
ルシは少し首を傾げた。
「あと、ゼルさんが後ろにいる時って、兄貴あんまり振り返らないよな」
カインの眉がわずかに寄った。
ゼルは反射的に隣を見る。
ちょうどカインもこちらを見たところだった。
一瞬だけ視線が重なる。
「ほかの人と組んでる時は、たまに後ろ見てるのに」
先に視線を外したのはカインだった。
「位置が分かるからだ」
「見なくても?」
「分かる」
言い切ったカインの顔に迷いはなかった。
それだけ言って、話を切るように地図へ視線を落とす。
ゼルは何も言わなかった。
自分がカインの足音を聞き分けていることとは別の方向から、胸の奥へ小さなものが落ちた。
ルシの目が今度はゼルへ向く。
「ゼルさんもさ」
「私?」
「兄貴の足音だけ、来る前に分かってるよね」
ゼルの指がほんの一瞬止まった。
カインが今度はゼルを見る。
ゼルはその視線に気づいたものの、すぐには返せなかった。
ルシは悪気のない顔で続ける。
「さっき、資料室の前。兄貴が角を曲がる前に顔を上げてた」
「……よく見ているね」
ゼルは穏やかに返した。
口元にはいつもの薄い笑みを戻したが、内側で何かが小さく軋んでいる。
「オレ、そういうの覚えるの得意だから」
クロがルシの足元で「きゅう」と鳴き、長い耳をその声へ向ける。
ダリウスがルシを見た。
「覚えたものは捨てるな」
ルシはきょとんとする。
「え?」
「要るか要らないかを、拾った時点で決めるな。後で繋がる」
「……うん」
「分かったなら出ろ。会議中だ」
「結局追い出すんじゃん」
「当然だ」
ルシは頬を膨らませかけ、カインの視線に気づいてすぐ引っ込めた。
「はいはい。クロ、行くぞ」
「きゅう」
クロは黒い針の方を見た。
鼻先がひくりと動き、それまで揺れていた尾が止まる。
「きゅ……?」
小さな違和感を含んだ声だった。
ゼルの表情がわずかに引き締まる。
カインも同時に針へ視線を戻した。
ダリウスが黒布を被せる。
「行け」
ルシはしゃがみ、片方の腕をクロの胸へ、もう片方を腹と後ろ足の下へ差し入れた。黒い身体を両腕で抱き上げると、見習い登録札とクロの首輪札が近くで揺れ、ちり、と鳴った。
扉が閉まり、二人分の気配が廊下の向こうへ遠ざかる。
カインはしばらく扉を見ていた。
「ルシを外へ出すな」
「今回は出さん」
ダリウスが答える。
「だが、耳は悪くない」
「子供だ」
カインは扉を見たままだった。
「子供でも拾うものはある」
「拾ったものを持って走らせるな」
「それはしない」
ようやくカインが視線を戻す。
表情はいつもの無愛想なものに戻っていたが、目元だけにまだ硬さが残っていた。
弟を守る時のカインは、普段より声も顔も硬くなる。
ゼルはその横顔を見ていた。
視線を外すのが、一拍遅れる。
「ゼル」
カインの声で我に返った。
「何かな」
振り向いたカインは、少し訝しそうにゼルを見ていた。
「何を見ている」
「君を」
答えてから、少し早すぎたと思った。
カインの目がわずかに見開かれる。
ほんの一瞬だった。
すぐにいつもの無愛想な顔へ戻ったが、今度はカインの方が視線を外さなかった。
ゼルは穏やかな顔を保つ。
「正確には、君がルシを見る時の顔を」
「……分析か」
わずかに間があった。
「そうだね」
「趣味が悪い」
「否定はしないよ」
カインは小さく舌打ちした。
地図へ視線を戻す直前まで、その目はまだゼルを見ていた。
*
本任務は翌夜に決まった。
ただし、二人はその夜のうちに古水路区の外周だけを確認することになった。
ノクティルム南外縁は湿気が強い。黒い石の隙間から水音が上がり、使われなくなった排水塔の影が路地へ長く落ちている。倉庫の壁には苔が生え、魔石灯の光さえ薄い緑を帯びて見えた。
ゼルは外套の内側を確かめた。
右腕には黒銀腕輪。補助印を刻んだ薄札と、静域用の短い符もいつもの位置に収まっている。
術式の細部は、面へ触れて起動した後、掌の角度と指の開閉で整える。
今のゼルには、それしかない。
前方でカインが短剣の柄を確かめていた。
路地の左右を見たあと、屋根の縁へ視線が上がる。魔石灯が横顔の輪郭を淡く拾い、ゼルの目は一瞬そこに留まった。
「準備は」
カインが聞く。
「できているよ」
「今夜は外周だけだ。深追いするな」
「君に言われるとは思わなかった」
カインが振り返る。
「何だと」
眉が明らかに寄っていた。
ゼルは何でもないという顔を作る。
「何でもない」
「その言い方は嫌いだ」
「では、君も深追いしないで」
「必要なら入る」
「それを深追いと言うんだよ」
ゼルの口元に苦笑が浮かぶ。
カインは答えず、先へ進んだ。
ゼルも歩幅を合わせる。
水路の入口までは入らない。壁の割れ目、排水溝の高さ、倉庫へ続く裏路地を見て、明日の夜に使う退路だけを確認する。
曲がり角の手前で、ゼルは片手を濡れた石壁へついた。
その少し前から、前を行くカインの位置が壁際から外れている。
ゼルが右手を置くのに十分な幅だった。
意識して空けたようには見えない。カインは屋根と路地の先を見たまま、いつもの歩調を崩していなかった。
ゼルも特に考えず、空いた場所へ掌を当てる。
接触点の影から細い影糸をほどき、床一面には広げず、壁の根元と排水溝の縁だけへ通した。
糸が折れ角へ伸びる。
その直前、カインの肩がわずかに沈んだ。
身体が半歩だけ右へずれる。
踏み込みを止めるほどではない。ただ、進路の端へ空間を残すように重心を移していた。
続いて、影糸が折れ角へ触れる。
石壁の向こうから、ごく小さな靴底の擦れるような音が返った。
人の気配ではない。
風に押された古い革片が、壁際で動いただけだった。
カインは振り返らず、そのまま歩いていく。
ゼルも深くは気に留めなかった。
カインが先に何を拾ったのか。視界の端に動きを見たのか、水音の変化を聞いたのか、それとも足元を抜ける風を感じたのか。
いずれにしても、直後には自分の影糸も同じ場所へ届いた。
間に合っている。
その時のゼルは、そう思った。
「水音が多い。明日は静域を狭く張る」
「俺の足音は残せ」
「分かっている」
「本当か」
カインが半身だけ振り向いた。
疑うように細められた目と視線が合う。
「君の足音は聞き逃さないよ」
口にしてから、ゼルは沈黙した。
カインの目がわずかに変わる。
何か言いかけたように唇が動いたが、声にはならなかった。
雨樋から落ちた水が黒い石へ触れ、小さな水滴の割れる音だけが二人の間に残る。
「……ならいい」
カインはそれだけ言い、倉庫街の奥を見る。
ゼルも視線を前へ戻した。
今の言葉をどう受け取られたのかは分からない。
今は、それを確かめる時でもない。
明日は任務だ。
影糸が微かに震えた。
人の気配ほど明確ではなく、罠とも言い切れない細い反応だった。どこかで術式具同士が擦れたような、嫌な残り香だけが糸を伝って返ってくる。
ゼルの表情から残っていた柔らかさが消える。
路地の奥を見る。
古水路区の闇は深い。
その奥から、こちらを見返されているような感覚が残った。
「戻るぞ」
カインが低く言う。
もう先ほどの表情は残っていない。
「異論は?」
「ないよ。今夜はね」
ゼルも任務の顔へ戻った。
二人は倉庫へ踏み込まず、来た道を戻った。
影糸の端が壁の影からほどけ、湿った石の上で静かに消えていく。
*
同じ頃、古い倉庫の二階。
割れた窓の奥で、男が黒い針を指先に挟んでいた。
光を吸うような細い黒。その先端だけが湿って見え、根元には古い警備術式を模した刻みがある。
男の前には、粗い紙束が広げられていた。
警備隊時代のゼルに関する古い術式報告と、外縁区で目撃された黒燈の戦闘を外部の報告から寄せ集めた写し。倉庫街や裏路地で記録された制圧時の動きも混じっている。
正式な黒燈内部の任務表ではない。
誰がどこで誰と動いていたか、表から拾える断片を繋いだ記録だった。
その中にはカインの名もある。
黒燈の前衛として、速く、強く、容易には崩れない男。
裏では《黒牙》と呼ぶ者もいる。
そして、その周囲には何度も同じ名が現れていた。
ゼル。
元警備隊補助術式官。影糸、静域、感知補助を扱い、現在は黒燈に所属している。
外縁でカインと共に確認された例も多い。
男が指で叩いたのは、カインの名ではなかった。
ゼルの名だった。
「牙を正面から折る必要はない」
男は低く言った。
部屋の隅にいた者が顔を上げる。
「では、カインは?」
「後だ」
もう一人の男が紙束へ目を落とした。
「黒燈の《黒牙》と一緒にいる、元警備隊の術式官か」
「そうだ」
「警備隊にいた頃から、ああいう戦い方だったのか」
黒い針を持つ男の指が、古い術式報告の端をなぞる。
「今ほどじゃない。だが、人の逃げ道を先に潰す癖は昔からだ」
「……随分詳しいな」
指が止まる。
「古い話だ」
「恨みでもあるのか?」
「仕事に恨みはいらん」
「じゃあ、誰かに頼まれた?」
男は答えず、紙束の上へ黒い針の影を落とした。
「余計なことを聞くな」
短い沈黙が落ちる。
「黒牙の後ろにいる補助役を潰す。それでいいんだな」
「違う」
「何がだ」
「あいつは後ろから追うんじゃない。先に場所を作る」
男は黒い針を灯りへかざした。
針は光らない。闇を一本だけ細く濃くしたように、そこにある。
「内部の配置までは要らん。外で何度も同じ動きを見せれば、十分読める」
紙束の端を指で払う。
古い警備隊資料と、外から観測された黒燈の戦闘。その断片を繋げれば、前へ出るカインと、その進路へ先に場所を作るゼルの組み方は見えてくる。
男の指先で黒い針がゆっくり回った。
「先に糸を切れ」
古水路の底で、水が鳴る。
黒い針の先端に、わずかな魔力が滲んだ。
「補助役を一拍遅らせれば、牙の踏み込みは乱れる」
男は笑わなかった。
針を黒布へ置く。
細い金属が布へ沈み、ほとんど音はしない。
窓の隙間から湿った風が入り、机の紙束を一枚だけめくった。
そこにあるのは、古い警備隊の術式報告。
その上に記されたゼルの名を、男は指先で押さえた。
すぐ脇には黒い針がある。
古水路の底で、水が一度だけ鳴った。
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ドラマ、映画、舞台。
そして、アイドル。
夢を追いかける中で、たくさんの人と出会い、たくさんの経験を重ね、未来は少しずつスターへの道を駆け上がっていく。
仕事なら、思い通りにできた。
努力すれば結果が出る。
才能があれば認められる。
夢を追えば、いつか叶えられる。
未来は、そう思っていた。
――恋をするまでは。
好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
首輪の契約
地下の尋問室に、時間はない。
窓のない灰色の部屋で、敵国の工作員が一人拘束されていた。
名も経歴も偽り。
ただ腕がいい、それだけは確かな男。
尋問に対し、彼は白状ではなく提案を持ち出す。
「白状はしない。だが、契約ならする」
敵国のスパイと、帝国の長官。
交渉は奇妙な形で成立する。
「名前は」
「リュシアン」
その日、移り気な猟犬と飼い主の関係が始まった。
やがて、契約は裏切りへ。
裏切りは、追跡へ。
追跡は――執着へと変わっていく。
登場人物
フェリクス・ハルトマン
帝国軍情報部の長官。
感情を見せない軍人。静かな視線で相手を見定める。
リュシアン・モロー
敵国の諜報員。
捕虜の立場でありながら、白状ではなく契約を持ち出す男。
軽口と皮肉を武器にする。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
ぼくはしょくしゅ★
ぼくはしょくしゅ、ぜろさい。
「ぱんどら、おはよう、おなか空いたでしょう、すぐにあさごはんをあげるからね」
これはぼくのぱぱ。
白衣を着て、細長い目にめがねをかけて、とてもやさしいぱぱ。
「ぱんどら、元気してっか?」
これは、こーへー。
こーへーはこの学園の不良というやつ。
「ほんと変わった生きモンだなー」
やさしいぱぱより、やさしい、やさしい、こーへー。
ぼく、こーへー、すきすき。
「――ぱんどらは僕が作り出したんだ」
「へぇ、すげぇ」
「誰にも秘密だからね」
「んー」
「あと、絶対に、金魚鉢から出したらいけないからね」
■金魚鉢から「ぱんどら」を出してしまった不良くんの受難の放課後/ほぼほぼえろ
▲表紙は素材をお借りしています/爪爪様(pixiv:ID 18732139)、ゴリラの素材屋さん様(pixiv:ID 81433479)▲
竜神様の番
いつかX内で呟いた、
『えーん、えーん…💦
竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…!
後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』
という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。
「番」とは何かも知らされず、
選択肢すら与えられなかった人間リオと、
大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。
ちゃんとハッピーエンドです。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕





