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【05】【全5話完結】カイン失明事件 (ゼルxカイン)
カイン失明事件 第4話 君の左は私が見る
扉が開くより先に、クロがもう一度鳴いた。
「きゅうっ!」
いつもの甘えた声ではない。
黒燈ギルド長室で立ち上がったルシの足元へ、クロは身を低くして寄っていた。豊かな黒毛は逆立ち、太い尾も普段より大きく膨らんでいる。毛の奥で揺れた首輪の黒銀札が、ちり、と一度だけ鳴った。
「クロ……?」
十四歳のルシは扉から目を離せない。
首元の《黒燈見習い登録札》が、浅くなった呼吸に合わせて何度も胸へ触れる。
廊下の向こうから近づいてくる足音は速いうえ、歩幅が揃っていなかった。途中で石を強く蹴る音まで混じっている。
任務帰りの黒燈員なら、疲れていても理由なく走らない。
走るのは、何かを間に合わせなければならない時だ。
机の前にいたダリウスも、すでに扉へ身体を向けていた。
「入れ」
低い声が落ちる。
扉が開くと、泥と水に濡れた伝令が敷居を越えたところで膝をついた。外套の裾から水が石床へ落ち、呼吸を整える間も惜しむように報告が始まる。
「古水路外周より。任務班の合図灯を確認後、救援班が接触しました。負傷者一名。カイン、重傷。ゼル同行。敵五名は制圧。帳簿と術式具は別働が保全中です」
聞こえていたはずの報告が、途中から意味を失った。
ルシの耳に残ったのは、兄の名前と「重傷」という二文字だけだった。
「兄貴が?」
声にした途端、自分のものとは思えないほど細い響きにぞっとする。
伝令がこちらを見た。
何かを言おうとして、それでも口を閉じる。
その迷いを見た瞬間、ルシの胸の奥がさらに冷えた。
「どこを」
ダリウスが尋ねる。
「左目に、針型術式具の直撃です。意識混濁。出血も多く、応急処置のうえ搬送中です」
「左目……?」
続けて何を聞けばいいのか分からなかった。
もう見えないのか。
その問いだけは、喉まで来ても出せない。
聞いてしまえば、まだ分からないはずのことまで決まってしまう気がした。
足元でクロが低く鳴く。
「きゅう……」
ルシは反射的にその身体を抱き上げた。片腕を胸へ回し、もう片方で腹と後ろ足を受け止める。腕に力が入りすぎていると分かっているのに、緩め方が分からない。
ダリウスはもう次の指示へ移っていた。
「治療室を開けろ。異物損傷、感覚干渉、呪傷まで想定しろ。帰還者の聴取は後だ。責任追及に回すな。まず生かせ」
「はい!」
返事とともに、いくつもの足音が廊下へ散っていく。
ルシだけが、その場から動けなかった。
兄は強い。
どんな任務へ出ても帰ってきたし、怪我をしていても平気な顔をしていた。危険へ近づけばすぐ低い声で止められ、無愛想な顔のまま説教までされる。
だから、いつの間にか信じ込んでいたのだと思う。
カインは傷ついても壊れない。
帰ってくる時には、いつもと同じ兄のままだと。
その思い込みを切るように、廊下の奥で複数の靴音が重なった。
「来たぞ!」
短い指示が飛び、担架の革帯が軋む。
直後に流れ込んできたのは、雨と泥、それに濃い血の匂いだった。
クロが腕の中で大きく身を捩る。
「クロ、待て」
「きゅうっ!」
もう止められない。
ルシの腕が緩んだ隙間から床へ降りると、クロは長い耳を伏せたまま廊下へ駆け出した。小さな爪が石を細かく叩いていく。
「クロ!」
ルシもそのあとを追った。
*
治療室の前では、救援班が担架を寝台へ寄せようとしていた。
その片側にゼルがいる。
カインの肩と頭を支えた腕には血が染みつき、担架を止めても手を離そうとしなかった。
「ゼル、こちらへ移します」
「……分かった」
返事はしたものの、腕の力はすぐには緩まない。
古水路から運び出されたカインの黒い外套は、水と血を吸って身体へ張りついていた。左半分は特に赤黒く濡れ、顔を覆う応急布にも新しい血が滲んでいる。意識は戻らず、呼吸も浅い。
それでも担架が揺れるたび、痛みに反応するように眉間だけが微かに寄った。
「身体を移します。頭をお願いします」
「ああ」
担架の革が寝台の縁へ擦れる。
ゼルは治療係と呼吸を合わせ、最後までカインの頭を支えた。
ようやく重みが寝台へ移る。
「もう大丈夫です。代わります」
治療係に言われて初めて、ゼルは自分の手がまだカインの髪へ触れていることに気づいた。
「……頼む」
指を離す。
ところが次の瞬間、治療係が左目を覆う布へ手を伸ばすと、ゼルの身体が反射的に前へ出た。
半歩。
喉まで言葉も上がってくる。
触るな。
しかし声になる寸前で、奥歯を強く噛んだ。
ここで治療を止めれば、守るどころかカインをさらに危険へ押し戻す。
「ゼル?」
「……何でもない。続けて」
下ろした手は強く握られたままだった。手袋の内側では、乾き始めたカインの血が革へ張りついている。
治療係が布の結び目を解き始める。
ゼルはそれを見続けられず、目を閉じた。
代わりに戻ってきたのは、戦場で交わした声だった。
『糸、外れた』
『足りてる』
外したのは自分だ。
それなのにカインは躊躇せず踏み込みを変え、足りない場所へ自分から入った。
左を失ったあとも同じだった。
『浅い!』
『分かってる』
『カイン、左――』
『音で拾う。次を出せ』
あの時、何を拾っていたのだろう。
干渉を受けた自分の精度が崩れていたからなのか。それともカインは、別の何かを使って不足を埋めていたのか。
考えを進めようとすると、黒い針の軌道が記憶を遮った。
自分の顔へ伸びてきた細い影。
その間へ飛び込んだ黒い外套。
そして血。
『糸を張れ!』
左目を押さえながら、それでも立っていた。
今はまだ、あの戦場で何がずれていたのかまで掴めない。
確かなのは、自分の指が一拍遅れ、その先でカインが左を失ったということだけだった。
「ゼル」
ダリウスの声で目を開けた。
治療室の入口には黒燈の長が立っている。
その後ろにルシがいた。
顔色を失い、目だけを寝台へ向けている。クロはすでに二人の足元を抜け、寝台の脚近くまで来ていた。
*
「兄貴……」
ルシの目が、寝台の上をゆっくり辿った。
左半分を覆う応急布には血が滲み、濡れた髪は額へ張りついている。普段なら剣か何かを掴んでいそうな右手も、今は指先まで力が抜けていた。
「兄貴」
もう一度呼んだ。
返事はない。
治療係が応急布の結び目へ指をかけたところで、ルシの顔が歪んだ。
少し離れた場所でゼルも身体を動かしかけ、すぐに止まる。
クロが寝台の脚へ前足を置いた。
「きゅう……」
細い声を聞いて、ルシはやっと息を吸う。
「……見えないの?」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
治療係は答えず、ダリウスも何も言わない。
確かめる前に断定しない。
黒燈では、それが正しい。
けれど今のルシには、その正しささえ苦しかった。
「兄貴、聞こえる?」
寝台へ一歩近づいた時、カインの右手が微かに動いた。
「兄貴?」
身を乗り出す。
しばらくして、閉じていた右目が細く開いた。
焦点は合っていない。
それでも声を探すように、ゆっくりとルシの方へ向く。
「……ルシ」
掠れた呼び声に、ルシの目が大きく開いた。泣くまいと噛んでいた唇までほどける。
「うん。オレ。兄貴、オレだよ」
「騒ぐな」
言い方だけはいつものカインだった。
ただし声にはほとんど力がなく、一言発したあとには息を整える時間が必要になる。痛みが走ったのか、左側の眉がわずかに引きつった。
「騒ぐに決まってるだろ」
「……うるさい」
「左、見えないの?」
問いを口にした瞬間、ルシの眉がきつく寄った。視線が左目を覆う布へ落ち、怖くなったようにすぐカインの右目へ戻る。
カインはすぐには答えなかった。残った右目をわずかに細め、それでも弟の顔から視線を逸らさない。
「右は見える」
「そういうこと聞いてない」
声が裏返った。
さらに問い詰めようとしたところで、カインが息を吸って顔をしかめる。
治療係が肩へ手を添えた。
「喋らないでください」
「……命令か」
「治療上の指示です」
「面倒だな」
「面倒なのはあなたです」
それを聞いたルシの口元が一瞬だけ動いた。
笑いそうになったのだと思う。
でも、笑えなかった。
「兄貴……」
「泣くな」
「泣いてない」
「嘘が下手だ」
「兄貴ほどじゃない」
ルシは唇を噛み、寝台の上で少し動いた右手へ自分の手を重ねた。
強く握れば痛むかもしれない。かといって離してしまえば、また遠くへ行くような気がする。
だから触れるだけの力で指を包んだ。
昔、熱を出した夜に兄がそうしてくれたように。
カインの指が、ごく弱く返る。
「帰ってきた」
その言葉で、ルシの喉が詰まった。
「……うん」
「だから泣くな」
「だから、泣いてないって」
右目が今度は足元を探した。
「クロ」
「きゅう……」
クロは寝台の脚へ前足をかけたまま耳を伏せていた。
「ルシを見てろ」
「きゅ」
「俺は寝る」
「ようやく正しい判断ですね」
治療係が少しだけ息を吐く。
「……うるさい」
カインは右目を閉じた。
そのまま眠りへ落ちるかと思われた時、ゼルが低く名前を呼んだ。
「ルシ」
振り返ったルシの目は赤い。
ゼルは一度唇を閉じ、それでも言葉を選ぼうとした。
「私の――」
「違う」
寝台から声がした。
ゼルが振り向く。
カインは目を閉じたまま、浅く呼吸していた。
少し間を置き、もう一度だけ息を整える。
「俺が選んだ」
治療室から物音が消えた。
ゼルの目が見開かれ、唇がかすかに開いた。ルシも俯いていた顔を上げる。けれど、二人ともすぐには言葉を返せない。
「カイン、もう喋らないで」
「ゼルが……狙われた」
一語ごとに息が混じる。
それでも止めない。
「俺が、間に入った」
「カイン」
「俺が……受けた」
右目がわずかに開いた。
視線の焦点は弱いのに、それでもゼルを黙らせるには十分だった。
「お前も言うな」
「何を」
「私のせいだ、を」
ゼルの唇が震えかけ、言葉を押し殺すように強く結ばれた。視線だけが、血の滲んだ左目の布へ落ちる。
「もう終わりです」
治療係が薬を含ませた布を口元へ寄せた。
今度こそカインは抵抗しなかった。
右目が閉じる。
*
――俺が選んだ。
その言葉を聞いても、ゼルの胸は軽くならなかった。
手袋の中では爪が掌へ食い込み、「自分のせいだ」という言葉だけが何度も喉へ上がってくる。
けれど、それを口にするたびに、カインの掠れた声が先に立った。
あれは慰めではない。
責任を帳消しにするための言葉でもなかった。
自分がした判断を、勝手に他人の罪へ変えるな。
カインはそう言っている。
意味は分かる。
分かるからこそ、簡単には楽になれなかった。
*
治療は夜が深くなるまで続いた。
処置の途中、治療係は傷を確認しながらダリウスへ状況を伝えていた。
「眼球だけの損傷ではありません。周辺の知覚へ魔力干渉が残っています」
「頭は」
「深部へ達した傷はありません」
「残留は」
「下がっています。ただ、この針に刻まれた術式は本来、視覚と術式感覚の境を乱すものです」
ゼルの目が僅かに動いた。
その説明だけでも、自分が本来の標的だったことは分かる。
治療係は残った欠片を取り除き、周囲へ食い込んだ魔力を慎重に鎮めていった。
ルシは途中から何も聞かなかった。
聞けなかった、と言った方が正しい。
やがて最後の処置が終わり、新しい保護布が左目へ巻かれる。
結び目から治療係の指が離れたのを確認してから、ダリウスが口を開いた。
「異物は」
「取れるものはすべて取りました。残留干渉も下がっています」
「左目は」
そこで治療係の手が止まった。
ほんの一拍。
「光への反応が戻りません」
ルシの指が膝の上で固くなる。
「見込みは」
「……かなり低いです」
誰も続けて質問しなかった。
治療係も「戻らない」と断言はしていない。
それでも、その言葉の先にある意味だけは、部屋にいた全員へ伝わった。
ルシは俯き、ゼルは目を閉じる。
寝台のカインだけが、薬に沈んだ呼吸を続けていた。
*
治療室の外には保全卓が用意され、現場から持ち帰られた証拠がそれぞれ封じられていた。
黒い針の破片と梁の男が所持していた小型起動具は現場回収品としてまとめられ、治療時に取り除いた欠片だけは別の箱へ移されている。帳簿と術式用品についても、誰がいつ触れたのかを記録した上で別働が管理していた。
ゼルはどの箱にも触れなかった。
形なら、目を閉じても思い出せる。
保全担当が術式用品箱の一つを示す。
「古い荷札が残っています。《白弦商会》です」
ダリウスは名前を聞いても表情を変えなかった。
「名があるだけだ。商会の関与と決めるな」
「分かっています」
「荷札も箱も保全しろ。帳簿と照合する」
「はい」
保全担当が箱を運び出したあとも、ゼルはその場に残っていた。
「報告は後だ」
隣へ来たダリウスが言う。
「今できます」
「後だ」
「記憶が新しいうちに、位置と発動順を――」
「ゼル」
重い声に、言葉が止まった。
ダリウスは治療室の扉越しに寝台を見る。
「今のお前の報告は、報告ではなく自罰になる」
ゼルの目がわずかに伏せられ、右手にはさらに力が入った。手袋の革が小さく軋む。
「自罰で済むなら、そうします」
顔を上げた時には、いつもの薄い笑みはどこにもなかった。
「済まん」
慰める気のない即答だった。
「カインは生きて戻った。お前も戻った。ルシもここにいる。失ったものを見るなとは言わん」
ダリウスはそこで一度、ゼルを見る。
「だが、今あるものまで見失うな」
返事はできなかった。
治療室には、左目を厚い布で覆われたカインが眠っている。その傍らではルシが右手を握り、クロも寝台の近くから離れようとしない。
『足りてる』
『音で拾う。次を出せ』
また、あの言葉が戻る。
カインには、何が足りていた。
何を自分で拾っていた。
戦場で起きたずれの正体はまだ見えない。
ただ、今のままでは足りない。
その感覚だけが、胸の奥へ残った。
*
夜がさらに深くなった頃、ルシは治療室から外へ出された。
離れたくなかったが、カインが目を覚ました時の水と着替えを用意しろ、とダリウスに言われている。
動く理由を渡されたのだ。
ルシにも、それくらいは分かった。
クロを抱えて廊下へ出る。
「きゅう……」
「分かってる。泣いてない」
「きゅ」
「だから、泣いてないって」
袖で目元を乱暴に拭う。
その先の壁際に、ゼルが一人で立っていた。
顔色は悪く、いつもの穏やかな表情もない。俯いたままの両手には、まだ乾いた血の跡が残っている。
ルシの足が止まった。
責める言葉なら、いくつも思いついた。
ゼルが狙われたから兄が受けた。
あの人がいなければ。
兄が間へ入らなければ。
そう言ってしまえば、この苦しさを誰かへ押しつけられる気もした。
けれど、その前へ兄の声が落ちる。
――俺が選んだ。
納得できたわけではない。
許せたわけでもなかった。
ただ、今ここで全部をゼルへ投げつけていいのかだけが分からなくなる。
「ゼルさん」
呼ぶと、ゼルが顔を上げた。
「ルシ」
「兄貴、帰ってきた」
ルシは顎をわずかに上げたが、赤くなった目元までは隠せなかった。
「……うん」
「左目、たぶん戻らないって」
最後の言葉でルシの口元が歪み、視線がクロの黒い毛へ落ちた。
「うん」
ルシは一度息を吸った。
「ゼルさんが狙われたんだよな」
ゼルは否定しない。
「オレ、情報拾った」
「聞いたよ」
「でも、間に合わなかった」
「君のせいじゃない」
ゼルはほとんど反射のように言った。その顔に一瞬だけ、ルシを庇おうとするいつもの柔らかさが戻る。
だからこそ、ルシの胸が急に熱くなった。
「ゼルさんも、そう言われたら納得できるのかよ」
柔らかさが消えた。ゼルの目がわずかに見開かれ、続いて痛みを飲み込むように細くなる。
ルシ自身も言った直後に息を呑む。
「……ごめん」
「いや」
ゼルは静かに首を振る。
「その通りだ」
足元へクロを下ろすと、小さな身体はすぐにはゼルへ近づかなかった。
鼻先を何度も動かし、乾いた血や術式を使い切ったあとの匂いを確かめる。
「きゅう……」
ゼルはその場で膝を折った。
手を伸ばしかけて、途中で止める。
待っていると、やがてクロの方から鼻先を指へ寄せた。
毛の奥で黒銀札が、ちり、と鳴る。
「きゅ」
「ありがとう、クロ」
ゼルの目元が僅かに歪む。
それを見たルシの中にも、責めたい気持ちは残っていた。
ただ、目の前のゼルも、このままでは壊れそうに見える。
「ゼルさん」
「うん」
「兄貴、強いけどさ」
ゼルが顔を上げる。
「強いからって、傷つかないわけじゃない」
「分かっている」
「……分かってるならいい」
ルシは再びクロを抱き上げた。
「オレ、水持ってくる」
「ルシ」
「何?」
「君も少し休んで」
「無理」
「そうだね」
ゼルの口元に苦い笑いが浮かぶ。
「今の私に言われても、聞けないね」
「別に、言う資格とかじゃないだろ」
ルシは背を向けた。
数歩進んだところで足を止める。
「兄貴のところへ戻るなら、一緒に戻れば」
振り返らなかった。
返事もない。
それでも少し待つと、ゼルの足音が後ろからついてきた。
*
カインが次に目を覚ました時、治療室の魔石灯は低く落とされていた。
左眼窩の奥にはまだ鈍い熱が残っている。薬で鋭い痛みは抑えられていたが、心臓が打つたびに重い脈が頭の内側へ返ってきた。
右側ではルシが椅子に座ったまま眠り、その膝でクロが丸くなっている。
壁際にいたダリウスは、カインの右目が開いたのを見ると立ち上がった。
「呼べ」
何かあれば治療係を呼べ。
それだけ残し、静かに部屋を出ていく。
扉が閉じた。
左側に気配がある。
姿は見えない。
けれど、呼吸で誰かは分かった。
「ゼル」
「起きた?」
「ああ」
「痛む?」
「痛む」
正直に答えると、左側で息が止まった。
「そう」
「嘘をついても怒るだろ」
「怒るよ」
「面倒だな」
「君ほどじゃない」
それだけ交わすと、少し意識が現実へ戻った。
左側には、本当に何も映らない。
そこにゼルがいると知っていても、今までなら視線一つで分かった距離や身体の向きが、声や音なしでは掴みにくい。
慣れるまでには時間がかかる。
でも、今はそれより先に確かめたいことがあった。
自分は生きて戻っている。
右側ではルシが眠り、左側にはゼルがいる。
それでいい。
「カイン」
「何だ」
ゼルの声が、左から静かに落ちた。
「君の左は、私が見る」
ゼルは伏せていた目を上げた。普段なら口元に浮かぶ薄い笑みはなく、まっすぐカインの左側を見つめている。
声は震えていなかった。ただ、いつもの柔らかさとも違い、言葉を置く場所を決めてから口にしたような静かな硬さがあった。
「見えない側は私が拾う。君が動く時に必要なものを落とさない。もう遅れない」
「慰めか」
カインの右目は天井を向いたままだったが、眉間がわずかに寄る。
「違う」
「償いか」
ゼルの視線が左目を覆う布へ吸われ、眉尻がわずかに下がった。
返事が途切れた。
「……決めたことだよ」
「重い」
「知っている」
「言葉だけなら要らない」
「結果で返す」
カインは天井へ目を戻した。
「俺の判断を奪うな」
「奪わない」
「俺を止めるために糸を張るな」
「止める必要がある時は止めるよ」
今度の声には少し芯が戻っていた。
「でも、怖いから止めることはしない」
「壊れ物みたいに扱うな」
ゼルの唇がわずかに開いた。しかし反論は出ず、眉尻だけが苦く下がる。
返事はすぐには来なかった。
カインも急かさない。
「……分かった」
「分かったと言う奴ほど分かっていない」
「それも覚えているよ」
「なら鍛えろ」
「もちろん」
「遅れるな」
ゼルは一度だけ目を閉じ、開いた時には迷いを押し込めるように視線が定まっていた。
「遅れない」
左側で衣擦れがしたあと、途中で音が止まった。
「どうした」
「あ……椅子を少し動かそうとした」
「見えん」
「そうだね」
ゼルは少しだけ息を吐いた。
「カイン。椅子を動かすよ」
「ああ」
木脚を完全には浮かせず、石床へ軽く触れさせる。
擦れる音が左側を少し移動した。
「左にいる」
「知っている」
「これからは、動く前に言う」
「遅い」
「遅くてもやるよ」
一拍置いて、カインが言う。
「勝手に気配を消すな」
ゼルの目がわずかに見開かれた。自分が普段、気配まで静かにしていることを初めて別の意味で突きつけられたような顔になる。
今度はゼルの呼吸が止まった。
「……分かった」
「今のは分かれ」
「努力する」
「結果で返せ」
「そうだったね」
少しだけ、いつもの声に近づいた。
カインは右手を動かした。
左から何かが近づく気配がして、今度は途中で止まる。
「手を出すよ」
「ああ」
ゼルは触れる直前で待った。
カインの方から指を伸ばし、その手を捕まえる。
握る力は弱かった。
それでも、ゼルが小さく息を呑んだ。
「……カイン」
「何だ」
「いや」
続きはなかった。
「半端なら置く」
「置かれないようにする」
「お前が先に潰れたら意味がない」
「……容赦がないね」
ようやくゼルの口元に、ごく薄い笑みが戻った。疲れ切った、いつもの半分にも満たない笑みだった。
「今さらだ」
治療室へ静かな時間が戻る。
右からはルシの寝息が聞こえ、時折クロの毛が衣服へ擦れる。左ではゼルの手がまだ指先に触れていた。
「寝ろ」
「君がね」
「俺は寝る」
「それは良い判断だ」
「うるさい」
右目を閉じる。
少しして、左側から声がした。
「少し動くよ」
木脚が石を軽く擦った。
今度は、何が動いたのか分かる。
その音を聞きながら、カインの呼吸はゆっくり深くなっていった。
*
カインが眠ってからも、ゼルは左側の椅子に座っていた。
先ほど握られていた指には、まだ弱い温度が残っている。
光を戻す方法は、自分にはない。
戦場で何がずれていたのかも、まだ分からなかった。
『足りてる』
『音で拾う。次を出せ』
意味を考えようとすると、今はまだ罪悪感の方が先に立つ。
だから、今夜できることから始めるしかない。
椅子を動かすなら先に声をかけ、気配を消さず、見えない側に自分がいることを勝手に隠さない。
そんなものは術でもなければ、完成した連携でもない。
ただ、カインの左側に立つためにゼルが初めて選んだ、小さな手順だった。
少しだけ座り直す。
「動くよ」
眠ったカインから返事はない。
ゼルは木脚を石から浮かせきらず、ごく小さな擦過音を残した。
ルシは目を覚まさず、クロも長い耳を一度動かしただけだった。
それでも音は消さない。
今はまだ、左をどう補えばいいのか分からない。
なら少なくとも、自分がそこにいることだけは分かるようにしておく。
その夜、ゼルはカインの左側に座り続けた。
朝が来ても、そこを動かなかった。
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ぼく、こーへー、すきすき。
「――ぱんどらは僕が作り出したんだ」
「へぇ、すげぇ」
「誰にも秘密だからね」
「んー」
「あと、絶対に、金魚鉢から出したらいけないからね」
■金魚鉢から「ぱんどら」を出してしまった不良くんの受難の放課後/ほぼほぼえろ
▲表紙は素材をお借りしています/爪爪様(pixiv:ID 18732139)、ゴリラの素材屋さん様(pixiv:ID 81433479)▲
竜神様の番
いつかX内で呟いた、
『えーん、えーん…💦
竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…!
後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』
という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。
「番」とは何かも知らされず、
選択肢すら与えられなかった人間リオと、
大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。
ちゃんとハッピーエンドです。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕




