銀の目の逃亡者 番外編シリーズ

桃源ハルト

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【06】【全3話完結】君の左に立つために (ゼルxカイン)

君の左に立つために 第2話 彼の左を見るために


 夜明け前のノクティルムでは、雨に濡れた黒い石畳が魔石灯の淡い光を映していた。

 雨はもう上がっている。軒先から落ちる雫だけが一定の間隔で石を叩き、夜と朝の境目に沈む街へ小さな音を残していた。

 ゼルは黒燈の外套を着ず、一人で歩いていた。

 右腕の黒銀腕輪だけは、いつも通り袖の下にある。

 昨夜、地下の個室で灯りを落としてからも、ほとんど眠れなかった。

 何を残し、何を削るのか。

 一度だけ噛み合ったあの一拍を、どうすれば偶然ではなく置けるのか。

 考えても答えは出なかった。

 だから、ここへ来た。

 足を止めた先には、古い石造りの屋敷がある。

 門扉の細工も、外壁に沿って張られた警備線も昔と変わらない。

 門柱の古い金具には、幼い頃から見慣れた家の紋が残っていた。窓辺には結界具があり、屋根の角には風除けの印が仕込まれていた。

 何一つ、知らない場所ではない。

 そして、出ていく時にはもう戻らないと思っていた場所でもある。

 冷えた朝の空気を吸い込み、ゼルは呼び鈴へ手を伸ばした。

 その瞬間、左の視界へ赤が落ちる。

 湿った古水路。

 黒い針。

 左目を押さえたカインの手。

 血の匂いまで、一息に蘇った。

 指が止まる。

 ――俺は選んだ。

 耳の奥に残る声を、ゼルはゆっくり息と一緒に吐き出した。

 ここへ来たのは、自分を責め続けるためではない。

 止まっていた指を動かす。


 呼び鈴が、夜明け前の静けさへ小さく鳴った。

 門の奥で誰何の術式が震える。

 しばらくして使用人が現れ、ゼルの姿を見るなり一度だけ息を止めた。

「ゼル様」

「朝早くにすまない。父を呼んでほしい」

「……かしこまりました」

 使用人は深く頭を下げ、屋敷の奥へ消えていった。

 ゼルは門の外で待った。

 一歩入れば、昔と同じ石の道が玄関まで続いている。

 けれど、その一歩を踏み出そうとはしなかった。

 帰ってきたのではない。

 握っていた指を開くと、掌がわずかに湿っている。

 ゼルは何もなかったように、その手を袖の内側へ隠した。

     *

 父は自宅着の上に、薄手の外套を一枚だけ羽織った姿で現れた。


 夜明け前だというのに、背筋は伸び、額際に銀灰を混ぜた髪にも乱れがない。

 深い灰緑の目がこちらを測る。

 ゼルが幼い頃から何度も見てきた、術式管理官の目だった。

「戻ってくる気になったのか」

「いいえ」

 ゼルは即答した。

 父の目が冷える。

「では、何をしに来た」

「教えていただきたい術があります」

「警備隊を出て、黒燈へ行ったお前が、今さら我が家の術を学びたいと」

「はい」

「都合がいいな」

「分かっています」

 逃げずに答えると、父の視線がゼルの右腕へ落ちた。

 袖の下にある黒銀腕輪の位置を見ている。

「誰のためだ」

 ゼルは顔を上げた。

「私の相棒のためです」

「何があった」

 袖の中で指が止まる。

「任務で、左目を失いました」

 言葉にした途端、右手の指が袖の中で止まったまま動かなくなった。

 冷えた朝だというのに、掌へじわりと汗が滲む。

 父の目がわずかに細くなった。

「お前と組んでいた時か」

「はい」

「原因は」

「私が狙われました。彼が、それを庇った」

 父は少し黙ってから尋ねた。

「本人は何と言った」

「自分で選んだと」

「なら、お前は責められていない」

「はい」

「それでも、自分を責める」

 ゼルは息を吸った。

「責めるために来たのではありません」

 父の眉がわずかに動く。

「昨日、復帰後初めての実戦へ出ました」

「それで」

 門扉の隙間を、朝の風が細く抜けた。

「私は、自分が彼へ合わせているつもりでした」

 父は黙って聞いている。

「違いました」

 ゼルは一度、右手を握る。

「彼が、私の遅れと粗さを自分で埋めていた」

「昔からか」

「……おそらく」

 その答えを声にすると、昨日よりも重く響いた。

「左側を補おうとして、ようやく分かりました」

「何が」

「今の私では、必要な一拍を同じ精度で繰り返せません」

「何が分からない」

「それが分かりません」

 父の目が細くなった。

「分からないものを教えろと言うのか」

「はい」


 ゼルは頭を下げた。

「何を残し、何を削り、どこで切るのか。それを私は、まだ再現できません」

 さらに頭を下げる。

「視界補助と感覚干渉を、基礎から教えてください」

「警備隊の教材なら読んだはずだ」

「足りません」

「お前の影糸も静域も、同年代の術者の中では十分だった」

「カインには足りない」

 思ったより低い声が出た。

 父はしばらくゼルを見ていた。

「彼の左目になりたいのか」

 ゼルの呼吸が止まった。

 ――俺の判断を奪うな。

 治療室で向けられた声が、鮮明に戻る。

「いいえ」

 ゼルは顔を上げた。

「彼の目にはなりません」

「では、何になる」

 すぐには答えなかった。

 一拍だけ考える。

「彼が自分で踏み込むための、一拍を作ります」

 父は黙ってゼルを見た。

 やがて背を向ける。

「入れ」

 父は傍らの細身の杖を取り、石床へ先端を置いた。最初の一歩だけ、右脚へかかる重みを杖へ逃がし、そのまま何事もないように歩き出した。

 ゼルは一拍遅れて、その背を見る。

 許されたわけではない。

 それでも、拒まれなかった。

 門を越える。

 昔と同じ石の道を、今度は帰るためではなく、学ぶために歩いた。

     *

 術式室は、昔と変わっていなかった。

 白い石床には淡い銀線が刻まれ、壁には視界補助や感覚共有、結界維持に使う古い図が並んでいる。

 乾いた術式紙の匂い。

 磨かれた金属具。

 棚へ寸分違わず収められた細筆と測定具。

 昔は、その整いすぎた空間へ入るだけで肩が固くなった。

 今は違う。

 ゼルは自分から室内の中央へ進んだ。

 父は杖の先で石床を一度叩いた。

「視界補助とは何だ」

「欠けた視覚情報を、別の感覚で補う術です」

「違う」

 即座に切られ、ゼルの眉が動く。

「見えないものを見せれば、相手は一瞬、自分の身体を疑う」

 父は床へ三つの光点を浮かべた。

 三つの光点が右、左、背後へ走る。

「視界補助は、見せる術ではない」

「では」

「迷わせない術だ」

 杖が左の光点を打ち、その一つだけが残った。

「戦う者へ、余計な視界を渡すな」

 もう一度、杖が残った光点を叩く。

「必要なものだけを置け」

 ゼルは光点を見る。

「置く……」

「押し込むな」

 父の視線がゼルの指へ移った。

「お前は今まで、相手の能力に助けられていた」

 昨日、自分でも辿り着いた事実だった。

「その男が弱くなったと思うな」

 ゼルの目が上がる。

「見えなかったお前の不足が、見えるようになっただけだ」

 返す言葉はなかった。

 否定するものもない。

「補助役が、戦う者の代わりに恐れるな」

 父の杖が上がる。

「見るべきものを間違える」

 杖先が石床へ触れた。

「相手が次に踏む場所を見ろ」

 乾いた音が一つ響く。

「影糸を出せ」

「はい」

 ゼルは右の掌を石床へついた。

 指先の影から暗い藍紫の糸が床を這う。

「太い」

「これ以上細くすると、拾える範囲が落ちます」

「落とせ」

「ですが」

「全部拾おうとするから、必要なものが遅れる」

 杖先が、影糸の起点を正確に断った。

 魔力が弾け、指先へ痛みが走る。

「もう一度」

 ゼルは起点を取り直し、影糸を出す。だが伸び切る前に、また杖が切った。

 杖先が術式線を断ち、藍紫の糸が床へほどける。

「遅い」

 次は出力を急ぎすぎた。

 糸は伸びたが、線がわずかに乱れる。

「粗い」

 さらに細くすれば、今度は途中で途切れた。

「弱い」

 ゼルは息を吐いた。

「難しいですね」

「帰るか」

「帰りません」

「なら口を動かすな」

「はい」

 ゼルは右手を開き、もう一度石床へ掌をつけた。

 悔しいが、父の判断は今も速い。

 影糸が伸び切るより先に、どこが余り、どこから崩れるのかを見抜いている。

 黒燈で積んだ実戦経験とは、別の精度だった。

 腹立たしい。

 だが今は、その精度が必要だった。

     *

 最初に教えられたのは、術を増やすことではなかった。

 削ることだった。

「静域を張れ」

 ゼルは右の掌を石床へつけた。

 接触点から薄い銀青の波紋が広がり、室内の音が沈んでいく。

「厚すぎる」

 父の杖先が床に走る術式線の一点を正確に打ち、《静域》がほどけた。

「もう一度」

 ゼルは遠い反響だけを沈めようとする。

 今度は近くの衣擦れまで薄くなった。

「やり直し」

 呼吸は残す。

 靴底が床を擦る音も、刃が空気を押す気配も消してはいけない。

 落とすのは、床や壁から返って位置判断を乱す余計な反響だけだ。

「まだ多い」

 また術を崩された。

「もう一度」

「はい」

 何度も起点を取り直し、残す音と沈める音を選び直した。

 次は《影糸》だった。

 ゼルは石床へ掌をつけ、必要な経路だけへ糸を伸ばす。

 部屋全体へ張らない。

 中央を空け、戦う者が選ぶ進路を塞がない。

「そこだ」

 父の杖が一本の糸を示した。

「何が悪い」

「敵の足元を取れます」

「聞いていない」

 ゼルは指摘された糸を見る。

 少し考え、敵ではなく、その周囲を動く味方の姿を置いてみた。

「……味方が右から左へ踏み込んだ場合、進路へかかります」

「消せ」

「はい」

 糸を切る。

「敵を止める位置だけを見るな。相手がどこへ行こうとしているかを見ろ」

 昨日、カインがゼルの糸を避けるために踏み込みを変えた姿が浮かんだ。

「その男は、お前が敷いた道だけを歩くのか」

「いいえ」

「なら、道を決めるな」

 ゼルは一本ずつ影糸を見直した。

 敵を止められるかではなく、味方の踏み込みを邪魔しないかを見る。

 一本切る。

 さらに一本。

 床を覆っていた藍紫の糸は、少しずつ必要な場所だけへ残っていった。

     *

 最も難しかったのは《共感視》だった。

 父は人型の術式板を部屋の中央へ立てた。


「繋げ」

 ゼルが指を上げる。

 淡い琥珀の魔力が術式板へ伸び、肩から背、腰へ広く触れようとした。

「切れ」

 父の声が飛ぶ。

 ゼルはすぐに接続を切った。

「今、何を流した」

「左側の位置と距離です」

「嘘をつくな」

 ゼルの眉が寄る。

「位置。距離。床から返る振動。音の方向。お前自身の魔力圧」

 杖の先が人型板の左肩を打つ。

「全部一緒だ」

「……はい」

「入口を決めろ」

 父は人型板の左耳の後ろへ杖先を置いた。

「ここから入れ」

「左耳裏」

「耳から音を奪うな。視界を作るな。入口として使うだけだ」

 杖先が左耳裏から、うなじ、肩、背へゆっくり下がっていく。

「身体が判断する順に通せ。どこへでも流すな」

「はい」

「見せすぎるな」

「はい」

「感覚の押しつけは支援ではない」

 父の声は冷たい。

「その男は、お前の人形ではない」

 背中を冷たい汗が伝った。

 治療室でカインに言われたことと、昨日の自分が重なる。

「《共感視》は心を読む術ではない。感情を送りつける術でもない」

「分かっています」

「頭ではな」

 言い返せない。

「左目を失った相手へ繋いだ時、お前の感情も混じったか」

「……はい」

「なら、まだ分かっていない」

 父は人型板の左耳裏を杖先で示した。

「もう一度。今度はお前自身を混ぜるな」

「はい」

 ゼルは呼吸を整え、再び指を上げた。

 必要な情報だけを通す。

 自分の恐怖は、自分の内側に残す。

 何度か接続を繰り返したあと、父は人型板から杖を離した。

「覚えておけ」

 杖が石床を一度叩く。

「補う術者ほど、相手を縛れる」

 ゼルは顔を上げた。

「できることが増えれば、代わりに決めることもできる」

 杖先が石床を一度叩く。

「見ることと、動かすことは違う」

 父の視線がまっすぐゼルを捉えた。

「左側へ立つなら、その境目を一生踏み外すな」

 ゼルは深く頭を下げた。

「はい」

 その返事には迷いがなかった。

     *

 その日からゼルは夜明け前の屋敷へ通った。

 黒燈の勤務と休息は崩さない。ダリウスには行き先と戻る刻を残し、カインとの術式連携訓練だけを止めた。

 最初の数日は、ほとんど同じことを繰り返した。

「多い」

「遅い」

「弱い」

 《静域》を削れば必要な足音まで消え、《影糸》を減らせば今度は反応が遅れる。《共感視》は方向だけへ絞ったつもりでも、距離や魔力圧が混じった。

 そのたびに父の杖が術を切る。

 石床へ掌をつく回数が増えるにつれ、右手の指先には薄い痛みが残るようになった。

 毎朝、窓の外が白み始める頃まで同じことを繰り返した。

 五日目。

 《共感視》の入口を左耳裏へ絞る。

 そこから肩へ広げようとした瞬間、杖が止めた。

「欲張るな」

 ゼルは接続を切った。

 入口は一つ。

 必要になってから先へ通す。

 その後も、強すぎれば落とし、弱すぎれば戻した。

 一度成功しても、同じ条件で再現できなければ最初からやり直す。

 十日目には指先から血が滲んだ。

 父は布を投げて寄越した。

「巻け」

「まだできます」

「血を流すことを努力と勘違いするな」

 ゼルは黙って布を巻いた。

 十二日目。

 同じ条件で、成功と失敗が交互に出た。

「偶然を技術と呼ぶな」

 十三日目には、五度目の術だけがわずかに遅れた。

 父は何も言わず、最初の位置へ杖を戻した。

 やり直しだ。

 十四日目。

 父はほとんど口を出さなくなった。

 正解も言わない。

 術も壊さない。

 何を残すのか。

 何を削るのか。

 そもそも、何も渡さない方がいいのか。

 今度は、その判断から自分で選ばなければならない。

 最後の術式が消える。

 父は一言だけ告げた。

「明日、試す」

     *

 十五日目の夜明け前。

 ゼルは試験が始まる前に石床へ掌を置き、細い《影糸》と薄い《静域》を起こしていた。

 床と壁、扉の隙間。

 必要な位置だけを拾い、室内の中央は空けてある。

 戦う者が選ぶ進路を塞がないためだ。

 ゼルは室内の中央に立った。

 父が杖を持つ。

「始める」

「はい」

 一本目は左奥。

 影糸が震える。

 ゼルは拾った情報すべてを使わず、位置と距離だけを選んだ。

 《縛印》が一度灯る。

 一拍。

 術式刃の勢いだけを止め、すぐに解く。

 二本目は背後。

 《静域》で遠い反響だけを沈め、刃が空気を押す音は残した。

 三本目は足元。

 止めない。

 そのまま通す。

 四本目は右。

 見えている側へ補助を置く必要はない。

 何もしなかった。

 父の杖がわずかに動く。

 それが評価なのかどうか、ゼルには分からない。

 その後も数本が走った。

 止める。

 通す。

 何もしない。

 必要なものだけを選ぶ。

 そして次の刃が、左から走った。


 今までより速い。

 影糸が震える。

 《静域》は必要な音を残している。

 《共感視》へ渡すなら方向と距離だけ。

 踏み込めば届く。

 それ以上はいらない。

 その刃を処理した直後、父の指が動いた。

 細い術式刃が、ゼル自身の左側へ走る。

 嫌になるほど、あの日に似た角度だった。

 黒い針。

 赤い血。

 自分の前へ入った身体。

 呼吸が止まる。

 首筋へ汗が浮き、右手の指先から急に熱が引いていった。

 胸の奥だけが、あの夜へ戻ったように熱い。

 怖さは消えていない。

 消す必要もない。

 ゼルはその熱を《共感視》へ渡さなかった。

 影糸が刃を拾う。

 近い。

 《静域》は必要な音を残している。

 ゼルは《縛印》を置いた。

 一拍。

 術式刃がゼルの左側で止まった。

 室内に残ったのは、少し荒れたゼルの呼吸だけだった。

 額から落ちた汗が石床へ小さく弾ける。

 布を巻いた指先には、鈍い熱が残っていた。

「……まだ粗いですか」

 ゼルは父を見る。

「粗い」

「はい」

 間髪入れず返され、小さく息を吐いた。

 父は杖を下ろす。

「だが、戦場で使える粗さだ」

 ゼルの目がわずかに見開いた。

 父にしては、最大級の評価だった。

     *

「右腕を出せ」

 父が言った。

「はい」

 ゼルは袖を捲る。

 黒銀の腕輪が現れた。

 黒燈の所属証。

 黒燈へ入った時、自分で選んで身につけたものだ。

 父は腕輪を見た。

「外せ」

 ゼルの手が止まる。

「所属証です」

「見れば分かる」

「機能を損なうわけには」

「核には触れん」

 父は短く答えた。

「外周だけだ」

 ゼルは少し迷ってから腕輪を外し、父へ渡した。

 父はそれを術式卓へ置き、細い固定具で留めた。


 幼い頃から、父が術式具を調律する手は何度も見てきた。

 だが、あれは警備線や結界を狂いなく維持するための技術だと思っていた。自分の術は、現場で自分が合わせれば足りるのだと。

 そう思い込んだままでも戦えていたのは、カインがゼルの粗さを自分の感覚と判断で埋めていたからだ。

 すぐには刻具を取らない。

 指先から薄く魔力を流す。

 黒銀に元から刻まれていた線が淡く灯り、そのすぐ上へ細い術式輪が水平に浮かんだ。

 完成した術式を展開しているのではない。

 ゼルの魔力がどこで膨らみ、どこで流れすぎるのかを見るための診断輪だった。

 外環がわずかに揺れる。

 父はその反応を見ながら、流す魔力の量を変えた。

 輪が歪む。

 戻る。

 もう一度、魔力が流れる。

 それからようやく、棚から針のように細い刻具を取り出した。

 刻具の先が黒銀へ触れた。

 細く高い金属音が、静かな術式室へ尾を引く。

 最初の一本が入った。

 刻具が触れている間も、診断輪は消えない。

 線が深くなるにつれて輪の一部がわずかに歪み、父はそこで手を止める。

 魔力をもう一度流す。

 戻ってきた反応を見る。

 刻具の角度を変える。

 元からある所属証の術式には触れない。

 その外周だけへ、短い刻線が一本ずつ加えられていった。

 線の深さも間隔も、一本ごとに違う。

 魔力の幅を測るための刻み。

 流量を分けるための刻み。

 止める位置を読むための細い目盛り。

 やがて診断輪の構造が変わった。

 黒銀の刻線が淡く灯り、その上に薄い琥珀色の二重環が浮かぶ。内側には、瞳の絞りを思わせる小さな円があった。

 《共感視》へ流す魔力に反応している。

 父は琥珀の外環が揺れる瞬間を見ながら、次の刻線を入れた。

 一本目より浅い。

 間隔も違う。

 線を刻むたび、琥珀の輪がわずかに絞られ、また戻る。

 父はその揺れを見逃さなかった。

 ゼルは父の指先から目を離さない。

 刻線だけを覚えても意味がない。

 どの揺れを見て手を止めたのか。

 どこで流量を変え、なぜ次の線だけ浅くしたのか。

 父は一つ一つを言葉では教えない。

 なら、見るしかなかった。

 昔から、その手が嫌いだった。

 何もかも正確に、何もかも正しく。

 決めた形から外れることを許さない手だと思っていた。

 自分の術へまで正しさを押しつけられることが、ひどく息苦しかった。

 今、その同じ手が、ゼル自身の選んだ場所へ戻るための刻線を入れている。

 悔しさが消えたわけではない。

 精密な制御と調律では、今もまだ父へ届かない。

 それでも今は、一つでも多く覚えたかった。

 刻具が最後の線を削る。

 高い音が、細く途切れた。

 父は腕輪を持ち上げる。

「所属証の術式には触れていない」

「はい」

「追加したのは調律用の目盛りだけだ」

 ゼルは腕輪を受け取り、右腕へ戻した。

 金属の冷たさが、汗の残る皮膚へ触れる。

 新しく刻まれた細い線が、魔石灯の下でほんの少しだけ光を拾った。

「これで完成ではない」

「分かっています」

「分かっていない顔だ」

「……では、何が足りませんか」

「道具だ」

 父は棚へ向かった。

 奥から小さな木箱を取り出し、蓋を開ける。

 中には一本の細い銀色の筆が収められていた。

「これは」

「銀筆だ」

 父が取り上げる。

 細い金属の柄に、術式線へ触れるための硬質な筆先がついている。柄の根元には、小さく家の紋が刻まれていた。

「私が若い頃に使っていた」

 ゼルは銀筆を見る。

「術式を放つ道具ではない」

 父は続ける。

「これを持ったから、影糸が強くなるわけでもない」

「はい」

「今加えた目盛りを使い、お前自身の術を整えるための道具だ」

 父は腕輪の外周を指した。

「影糸なら幅を決める。静域なら、どこまで音を残すかを決める」

 次の刻線へ指が移る。

「共感視も縛印も同じだ。深さと、止める位置を先に定められる」

 ゼルは腕輪を見る。

「指だけでは粗かった部分を、事前に調律できる」

「そうだ」

「それなら――」

「ただし」

 言葉を切られる。

「銀筆が、何を残すか決めるわけではない」

 ゼルが顔を上げる。

「何を削るかも、どこで止めるかも、決めるのはお前だ」

 父が銀筆を差し出した。


 ゼルが手を伸ばす。

「そして」

 指が止まった。

「その術を使うかどうかを決めるのは、相手だ」

 ダリウスの声が重なる。

 ――使うかどうかを決めるのは、あいつだ。

「……はい」

「繋ぐ前に聞け」

「はい」

「返事を待て」

「はい」

「要らないと言われたら」

 ゼルの返事が一拍遅れた。

「……何もしません」

 父の目が細くなる。

「その間を忘れるな」

「難しいですね」

「だから覚えろ」

「はい」

 父は銀筆を差し出したまま、ゼルを見る。

「持っていけ」

 ゼルはすぐには受け取らなかった。

「これは、父上のものです」

「だから何だ」

「いただけません」

「では置いていけ」

「……」

「腕輪だけ持って帰り、指だけでまた乱せ」

 ゼルは黙った。

「その男の左へ戻りたいのだろう」

「はい」

「なら使え」

 父の手は引かれない。

 ゼルはゆっくり両手を出し、銀筆を受け取った。

 思っていたより軽い。

 冷えた金属の柄が掌へ触れる。

 握った指へその冷たさが移り、張っていた肩からようやく少しだけ力が抜けた。

「ありがとうございます」

「礼を言う暇があるなら、調律を覚えろ」

「はい」

 木箱も渡された。

 ゼルは銀筆を中へ収める。

「勘違いするな」

 父が言った。

「許したわけではない」

「はい」

「黒燈へ行ったことを、正しいと言うつもりもない」

「分かっています」

「だが、半端な術でその男の左側へ戻ることは許さん」

 ゼルの喉がわずかに詰まった。

「父上」

「何だ」

「私は、家へ戻るために来たのではありません」

「知っている」

 即答だった。

 今度はゼルの方が黙った。

 父は目を逸らさない。

「その男の左側へ戻るためだろう」

「はい」

「なら、途中で折れるな」

「はい」

 ゼルは木箱を胸元へ寄せた。

「それと」

「まだ何か」

「その男へ伝えろ」

 嫌な予感がした。

「何をでしょう」

「息子を死なせたくなければ、無茶な踏み込みを少しは控えろ、と」

 ゼルは一瞬、言葉を失った。

「……伝えたら、彼は怒ると思います」

「構わん」

「私も怒られます」

「二人で怒られていろ」

 父はそれ以上何も言わなかった。

 ゼルは一度だけ瞬きをして、それから口元を緩めた。

「分かりました」

     *

 門を出る頃には、空が白み始めていた。

 黒い石畳へ薄い朝の光が落ち、雨の匂いももう弱い。

 ゼルは歩きながら、右腕へ一度だけ目を落とした。

 黒銀腕輪には新しい刻線がある。

 袖の内側には、銀筆を収めた小さな木箱。

 強い術を手に入れたわけではない。

 余計なものを削り、必要な場所で止めるための基準を覚えただけだ。

 それで十分だった。

 ――いや。

 まだ、十分ではない。

 足が止まる。

 カインの左へ立てるかどうかを決めるのは、ゼルではなかった。

 父から学ぶところまでは、自分で決められた。

 その先は、聞かなければならない。

 ゼルは再び歩き出した。

 向かう先は、もう背後の屋敷ではない。

 黒燈だった。
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首輪の契約 表紙

首輪の契約

地下の尋問室に、時間はない。 窓のない灰色の部屋で、敵国の工作員が一人拘束されていた。 名も経歴も偽り。 ただ腕がいい、それだけは確かな男。 尋問に対し、彼は白状ではなく提案を持ち出す。 「白状はしない。だが、契約ならする」 敵国のスパイと、帝国の長官。 交渉は奇妙な形で成立する。 「名前は」 「リュシアン」 その日、移り気な猟犬と飼い主の関係が始まった。 やがて、契約は裏切りへ。 裏切りは、追跡へ。 追跡は――執着へと変わっていく。 登場人物 フェリクス・ハルトマン 帝国軍情報部の長官。 感情を見せない軍人。静かな視線で相手を見定める。 リュシアン・モロー 敵国の諜報員。 捕虜の立場でありながら、白状ではなく契約を持ち出す男。 軽口と皮肉を武器にする。
BL 完結 短編
文字数:16,520
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ 表紙

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科 空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する 高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体 それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった 至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する 意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク” 消える教師 山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
BL 連載中 短編
文字数:249,446
ぼくはしょくしゅ★ 表紙

ぼくはしょくしゅ★

ぼくはしょくしゅ、ぜろさい。 「ぱんどら、おはよう、おなか空いたでしょう、すぐにあさごはんをあげるからね」 これはぼくのぱぱ。 白衣を着て、細長い目にめがねをかけて、とてもやさしいぱぱ。 「ぱんどら、元気してっか?」 これは、こーへー。 こーへーはこの学園の不良というやつ。 「ほんと変わった生きモンだなー」 やさしいぱぱより、やさしい、やさしい、こーへー。 ぼく、こーへー、すきすき。 「――ぱんどらは僕が作り出したんだ」 「へぇ、すげぇ」 「誰にも秘密だからね」 「んー」 「あと、絶対に、金魚鉢から出したらいけないからね」 ■金魚鉢から「ぱんどら」を出してしまった不良くんの受難の放課後/ほぼほぼえろ ▲表紙は素材をお借りしています/爪爪様(pixiv:ID 18732139)、ゴリラの素材屋さん様(pixiv:ID 81433479)▲
BL 完結 短編 R18
文字数:30,889
帰港地未定 表紙

帰港地未定

海底で、男と目が合った。 二十年前に沈んだ船の窓越しに。 引き揚げるのは、海図一枚のはずだった。 腕利きの潜水士と、彼を手放したくない男たちの海洋冒険BL。
BL 連載中 長編 R15
文字数:22,514
竜神様の番 表紙

竜神様の番

いつかX内で呟いた、 『えーん、えーん…💦 竜人の攻めが長いこと探してた番の人間くんを探して(半強制的)に結婚したのに、ツンデレどころかクーデレが過ぎてたせいで、ある日人間くんが「離縁します」と置き手紙残して失踪…! 後悔とブチギレしてる話がなきゃ掃除と洗濯できない😭😭』 という自分の愚痴から始まったツイノベもどきを、再構成と校正しました。 「番」とは何かも知らされず、 選択肢すら与えられなかった人間リオと、 大切にしている“つもり”だった竜人のナガレ。 ちゃんとハッピーエンドです。
BL 完結 短編 R18
文字数:22,656
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった 表紙

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
BL 完結 短編 R18
文字数:25,585