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第一章
後悔
しおりを挟む「アリス」
「…」
「アリス。また元気が出ないですか?悩みがあるなら…」
「いえ!リーン様!大変申し訳ありません!!」
「急に専属にしてしまったので苦労を掛けてますね。メイドの仕事はここに来てから覚えたのでしょう?それでも貴方はしっかり出来ています」
「はい、リーン様。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
「そんなに気張らずとも大丈夫ですよ」
「はい、ありがとうございます」
リーンとそんな会話をしたのは昨日の夜。アリスが少しセンチメンタルになってた時にリーンはよくこう声を掛ける。他の誰にも指摘されないのに何故かリーンには気付かれていて、夜2人きりになると決まってこう聞いかれていた。
帝都から出ている乗合馬車の人混みと大きな揺れに耐えながら、アリスはそんな事を思い出していた。
(アーデルハイド家の高級馬車は本当に凄く乗り心地が良かった)
アリスからすればこの人混みと揺れがいつも通りで貴族の馬車に乗る機会があるなんて夢にも思っていなかった。一生に一度もないような機会に恵まれて胸を躍らせていたのはつい最近の事なのに、遠い昔の話かのように思う。
何度も何度も乗り継いでお尻も腰も足も…全身の痛みを我慢して、2日かけて漸くたどり着いたのは古い洋館。洋館にはそこら中に蔦が生い茂り、周りを囲む背の高い木々に月光が遮られて薄暗く感じる。
いつ来ても不気味なここに足を踏み入れるのは実はかなり久しぶりだ。今は夜だが、昼間に来ても同じく小気味悪い。昔ここで暮らしていた頃には不気味に感じていなかったのが今は不思議で仕方がない。
ミシミシと音を立てて開く扉の前には艶のないグレーの髪を後ろで束ねて、青白い肌に落ち窪んだ目は暗闇で見るとガイコツのように見える。
「シュトラード様。アイリス只今戻りました」
「ディアブロがいつもの部屋でお待ちだ」
「はい、直ぐ参ります」
シュトラードはこの屋敷の家令(所謂執事と同じ)で全ての実権を持っている人物だ。アリスもかつては彼の部下としてここで働いていたが、その頃から10年は経つのにその見た目は全く変わっていない。
その容姿も去る事ながら、声や雰囲気も重く苦しい。子供の頃は目が合うと呪われると勝手に思い込んでいた事もあった。
シュトラードの指示通り、使用人棟の自室に大きなトランクを置くと、2つ階を上がりこの屋敷の主であるディアブロの部屋に行く。
部屋の前に立つとふーっとひとつ息を吐いてノックをする。
いつも通り返答はないが、もう一度息を吐くと扉を開ける。
暗く閉ざされた部屋の中では蝋燭の火がゆらゆら揺れている。むせ返りそうなほどに甘ったる匂いが広がっており、匂いの元であるお香の小さな赤が点になっている。黒い天蓋が降りている黒いソファで片肘を付いて横たわっている男は真っ白なローブを裸させていて、その際立つ白さが男の存在感を強くさせる。
部屋の暗さで男の表情も容姿も見る事はできないが、この場にいる者にそれは特に関係のない事だった。
「リヒト・アーデルハイドがライセン・グランドールから手渡された資料ですが、書かれていたのは何かの設計図の様で聴き慣れない言葉も多くありこれだけでは何の設計図かまではわかりませんでした」
いつもどんな言葉を投げかけてもあ、ともう、とも返答が返ってきた事はないので気にせずにアリスは淡々と話す。
「…あとは、報告書通りです。今のところの脅威とすれば【オリハルコン】ぐらいでしょうか」
「…」
「ご指示のリーンと言う少女についての詳細ですが、最近専任のメイドに昇格したのでここ1か月の様子にはなりますが目立った動きは余りありません。教会には私の成人の儀の為に行っただけでビビアン・ヴィカーとの接触は最低限しかしておりません。よく行く場所はラドーサと言うパン屋とその他ケーキ屋やお菓子屋などの甘味屋ぐらいで後は帝国内のバザールがやっていれば行くといった状態です」
アリスはここまで淡々と述べてきたが、途端に胸ポケットを漁りだして小さなメモを取り出す。
「えー、好きな事は沐浴、好きな食べ物はラドーサのパン、特に甘い物、好きな色は青、紫、黒。最近集めていたのはオパール系の魔法石、ハトハやハトハ酒などの外国製の食品。最近欲しいと仰っているのはブラックオパールとけ、けいしゃ?です」
「…珪砂…アイリス、お前とは近々会えるだろう」
初めて聞く男の声に思わずピクリと身体を反応させる。
「近々…ですか…?ちか、えー、どちらで…?」
ーーフッ
しかし、この言葉を最後に会話は終了した。蝋燭の火が消されたのだ。これはいつも通り帰れの合図だ。
扉のすぐ前に立っていたアリスは暗闇の中手探りでドアノブを探して、失礼しました、と一言言うとそのまま部屋を出る。
アリスはフーッと一息つく。あの空間はどうにも慣れない。あの甘ったるい匂いにもむせ返る程の煙りにもあの男にも。主人であるのにディアブロと呼ばれている事以外、顔も本当の名前も年齢も何も知らない。知らされていない。
軽く額から流れ出た汗を袖で拭い、激しく脈を打つ胸を押さえる。平静を装ってはいたが、それを見透かされているのは重々承知だ。
(上手く読めていただろうか)
ライセンが作った原稿通りに読むだけの仕事も相手がディアブロなら震えるだけでは済まない。
まだ微かに服に残るお香の匂いをふり払う様にその場を離れる。もつれそうになる足を必死に動かして自室にある大きなトランクを手に取ると足早に来た道を戻りエントランスに向かう。
「呼び出されて驚いただろう。あの人は気紛れだから。まぁ、また何か企んでるんだろうけどな」
「いつも通り報告して来ただけです」
「報告は俺を通じてしてただろう」
「近々会える、と言われました」
先程、ディアブロに言われたあの一言を思い出し、背筋が凍るの感じる。エントランスの長い中央階段を降り、相変わらずの黒いマントに身を包み、エントランスの大きな薄気味悪い銅像にもたれかかっている男の横を何事もないかの様に通り過ぎる。声をかけられなかったらそこに居たことにも気付かず通り過ぎていたかも知れない。
そんな事は男も分かっていて、そのおちゃらけた口調にアリスは馬鹿にされている様に感じた。
「Dはそれが言いたかったのかー」
「今日はよく喋りますね」
捨て台詞のようにそう言いながら強く扉を開けて馬車に乗り込む。そして再び深い息を吐いた。
この場所に慣れないんじゃなく、慣れたくないのだ。
(もっと自分の事を考えるべきだった)
後悔なんて沢山ある。素敵な人達と出会えた今、今までして来た後悔の数だけ胸が痛い。だからと言って今更何が出来るのだろうか。謝る…いや、そんな事で今まで犯してきた罪を許される訳がない。
そんな風に考える事しか出来ない自分が本当に情けない。この屋敷に身を置くと言うことはどういうことか分かっていて自分で選んだ。沢山の人たちを騙して、情報を得て、貶めて…。そんな事を繰り返して来た自分が今更何かを望んだ所で何も手に入る訳がないか。ましてや、アーデルハイド家の様な恵まれた環境、リーンの専属メイドとしての楽しい日々は一時の夢に過ぎない。そして、父と暮らす事など出来るはずもない。
今のアリスはもうアイリスとして生きて来た過去を後悔することしかできなかった。
本当のアリスになってしまいたい。そう成れたらどれ程嬉しいか。そんな事は無理だと分かっていても今のアリスはそう願わずにはいられなかった。
再び乗り込んだ人乗合馬車の中は人が混み合って缶詰め状態だった。今は行きよりも更に酷い。隣との間隔は全く無いし、勿論人が多くなり重たくなった馬車は揺れも凄く強い。揺れる度に隣との肩や足をぶつけ合いながらも会話が出来ない様な状態の今は謝る事すら出来ない。密集し過ぎて湿度は高いし、御者側に申しわけ程度に空いている隙間から時たま生温い風が入って来るがそれがまた不快感を増す。更には汗やら皮脂やらの匂いと馬車に乗り慣れない人達の嗚咽する声で此方まで気持ち悪くなってくる。
ただ悶々とディアブロが言った一言の意味を考え続けているアリスにはそんな事は気にする余裕も無かった。
2日後にはまたあの素敵な人達との生活が待っている。いつまで続くかも分からないし、きっと直ぐに終わりお迎えるであろうこの幸せな生活が少しでも長く続く様に、と心から願った。
(この幸せな思い出を胸に、罪を償い、1人でも生きて行こう。その為にもこの幸せが、少しでも続く様に自分に出来る事を精一杯やろう…)
静かにそう思うのだった。
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