アザー・サイド

日浦森郎(西村守博)

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 (三)

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 図書館の匂いがする。
 三十人ばかりの人々である。あまり多くはない。東洋の人や西洋の人、黒人までさまざまである。服装も民族衣装や普通のスーツまで、いろいろな服を着ていた。
 真一は今までと同じく、トレーニングウェアを着ていた。ただ違うのは車椅子に乗っているのではなく、歩いて移動しているだけである。階段を平気な顔で二階まで昇っていく。司書がいる受付まできて、なにを聞けばいいのかようやく分かった。
 「すみません………この辺りにあると思うんですが、アカシック・レコードはありませんか?」
 「アカシック・レコードですか? 左奥の研究室にありますが、持ち出し不可になっております。よろしいでしょうか?」
 「えぇ、存じています。一時間ほど研究室で調べものをさせてください」
 「それならご自由にどうぞ!」
 自分自身のやることがよく分からないのに、やってしまうことがあるものだ。真一は言葉をだす前に、口にしてしまってびっくりした。
 そもそもアカシック・レコードとは一体なんなのか。この場合、なにも知らなくてもよく解った。アカシック・レコードとは、宇宙の経綸を言葉であるいは言葉でないもので、書き表したものだ。そんな事も、あの世にいればよく理解できた。この世にいれば難しくて、何がなんだかよく分からないが、少なくとも理屈抜きで理解できるのである。
 真一はナンバーのついた座席番号の①をとり、そのまま座った。コンピュータに接続する。キーボードみたいなものは使わない。あの世の方がこの世より、絶対に進んでいる。もちろん本をひもとけば、中身もまた同じである。本一冊で30階建てビル一棟分はある。解釈によれば町一つある。
 真一は『肉体と幽体』にかんする部分を読んだ。読むというよりも、『解る』と言うべきだろう。読んでいくと、それだけであらゆる事が紐解けてゆくのである。『一を聞いて十を知る』いや、まさしく『一を聞いて十万を知る』である。真一はアカシック・レコードのおかげで全てを知った。いや、全てを知った、と思った。
 「あぁ、そうか、そうだったのか! 当たり前だけど、単純に治ったわけじゃないんだ………」
 真一は少しがっかりした。だが肉体からの幽体離脱に関する真実は、否定できないものだと感じた。それが幽体、霊体、神体、とだんだん精妙なレベルに近づいていく。自分の肉体が、幽体の含みを徐々に失っていくにしたがって、霊体そして神体へと素晴らしい生命が宿っていく。今いるこの世界では幽体以上のものには変化できないけれども、やがては生(逆にいえば死)の世界に還ることになる。
 真一は厳粛な気持ちになった。車椅子に乗ってられるのも、肉体を持っている間にすぎない。右半身が病んでいるならばそのままにおいておこう。残念ながら肉体をまとっては、その能力は10%にもならないのである。
 日本人の司書に礼を言って、真一は図書館をあとにした。
 麗らかな陽の光がさしてくる、どこにでもあるような、そうしてどこにでもないような一日だった。

 図書館のまわりには野外ステージがあってこの日は休みとなっていた。真一はそぞろ歩きをするでもなく、もう直ぐ歩けなくなる自分が愛おしく感じられた。
 「分かってるさ、もうすぐ普通に歩けなくなることは!」
 やがて時がくれば、すべてがもとに戻る。そうなる前に、精いっぱい今を楽しんでおこう。真一はそう思った。

 「ゴメンなサイです! アナタココのヒトちがうあリンスネ?」
 白人の女性がひとり、真一に訊ねた。ずいぶん訛りがひどくて、妙にトンチンカンに聴こえる。最初から外国語で話せばいいのに、無理して日本語を喋ろうとするから変に聴こえるのである。
 「アナタのハナスことば、イイカゲンです。チョットのことヤケのヤンパチです」
 テレパシーで通じるように集中する。言葉にこだわると意味が通じなくなるので、ひとつ一つ意識のなかみにこだわった。
 「ワタシ、わた~シ、私たち………」
 「できればお国言葉でお話し願えれば嬉しいんですが………。え~と、スペイン語ですか?」
 「あら、ホントだ! ゴメンなさいネ。最初から喋ればよかった!」
 「あぁ、ようやく通じました。はじめからスペイン語でしゃべればいいのに………」
 「ごめんなさいネ~。日本語がちょっと勉強したかったのよ~。なんとなく、日本人のような気がしてたの、エヘヘ!」
 スペイン人の明るさがよくわかった。それにしてもテレパシーが通じるのは同一言語を理解している時だけで、一方が下手くそな場合はとたんにおかしくなる。
 「スペイン語でOKよ! え~と、ちなみにアナタの右半身、身体の方はたいしたことないけど、問題は高次脳機能障害よね!」
 「よくご存じで。もしこのまま車椅子でもと戻っても、要は身体のことよりも頭のことが気になるんですよ。この不自由な頭で、面白い小説が書けるのかどうか?」
 「ふむふむ。実はワタシ、これでもお医者さんやってるのよ。まあ、このままいけば大丈夫じゃないかしらネ。ほら、倫子先生に任せたのも良かったようだし!」
 「リンさん? リンさんのこと、よくご存知なんですか?」
 「もちろんよ。先生を知らないなんて潜りよ~! 医者なんて大したことないわ。この世界の救世主よ~、倫子先生は!」
 真一は倫子の名を聞いてビックリしてしまった。彼女のことを知らない人などいないと言う感じだ。そう言えばあの世にきてから一度も会っていないが、どうしているのだろうか。きっと、総てお見通しなのだろう。 
 「身体についてやけに詳しいのも、あまり意味のないことだしねぇ。なにしろ病気がないんだから。あるのは心の病! あなたは元々しっかりした人だから心配ないけどね。でも、あの世に病なしと言ったって、苦しんでる人がいるんだから困るわよねぇ。まったく、嫌になっちゃう!」
 「苦しむのも肉体あるがゆえ、ですか。あの世にとどまっている限り、本当は素晴らしいことばかりあるはずなんですがねぇ」
 「それはそうと貴方の場合、現実の世界に戻ったときに、肉体が精神にどのくらい影響をおよぼすかと言うことよねェ!」
 「はぁ、確かにそれだけは自信がないんです!」
 「大丈夫なんじゃない? 倫子先生にすべて任せておけば! 高次脳機能障害なんてちょっとした記憶の錯覚よ! IQ140の人がIQ100になったって、大したことないわ!」
 「まいったな~。なんだか自信喪失してるのがバカみたいに思えてきた!」
 「そうよ。何事もやってみれば良いのよ! ガンバって! こっちから応援してるから!」
 真一は、このスペイン人女性の明るさが、素晴らしく思えてきた。何事も任せておけば大丈夫。そう思えたのである。悩んでも苦しんでも仕方がない。なるようになる!
 「ところで、もうそろそろ時間が来るようなタイミングだけど、他になにか聞いておきたいことあるかしら?」
 「もう決めました。あたって砕けろ、です!」
 「えらい、偉い。あれこれ悩んでもしかたないしねェ。え~と、最期に医者の私からアドバイスを一つ。ちょっと良いことあるかもね!」
 「えっ、なにかあるんですか?」
 「ないしょ、内緒。二十年後ぐらいに、また会いましょ。それじゃ!」
 切りかわるのもまた突然である。真一は慌てる間もなく、地上界に舞もどった。
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