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あぁ、聞こえる。僕らの平穏が終わり、僕らの崩壊が始まる音だ。
しおりを挟む「待って!さっきの男が言っていたこと、本当なの?」
明日も試験があると伝え、社長に辞去を告げた僕たちは、屋敷の玄関に向かって歩いている。
一刻も早く立ち去りたいと言わんばかりの早足で歩く瞬に僕は必死で問いかけた。
マネージャーの待つ車に乗ってしまえば、もうこんな話は家に着くまで出来やしない。
「ねぇ、待って」
家に着くまで、待てなかった。
不安と恐怖に苛まれた僕は、泣き出しそうだった。
瞬を奪われるのではないかという、恐ろしい想像。
しなやかな筋肉を纏ったドーベルマンのようなあの男が、瞬の頸に容赦なく牙を立てる。
そしてぐったりとした瞬の首根っこを噛み、まるで獲物を運ぶかのようにあっけなく連れ去ってしまうのだ。
それは酷く幻想的で、そしてリアリティのある空想だった。
「おしえてよ、しゅん」
「……はぁ」
涙声の僕に、瞬はやっと足を止めて、細い息をついた。
「本当だよ、悠」
淡々とした、けれど絶望の色を感じさせる声音で、瞬は言った。
「残念だけれど、多分あいつは、僕の運命の番だ。……でも」
背を向けている瞬の顔は見えないけれど、きっと感情を殺そうとして、無表情になっているのだろうと想像はついた。
「でも僕は母さんとは違う。ちゃんと、本能の欲求に打ち勝てた」
拳を握りしめ、瞬は自分に言い聞かせるように、静かに言い切った。
自分は負けないという、宣言のように。
「母さんのように、あの男に飛びついて、……自らうなじを晒したりはしなかった!」
幸福が終わった日の幻影が甦り、過去の亡霊が僕らを襲う。
ぎりり、と瞬が奥歯を噛み締める音が聞こえた気がした。
かすかに震える拳にそっと触れれば、夜風の中では驚くほどに熱い。
「瞬……」
きっと、あの男との出会いで瞬の、いや、オメガの本能が勝手に反応したのだろう。
発情の、一歩手前のようだった。
「……薬、飲んで」
僕は胸の内ポケットから錠剤を一粒取り出して、瞬に渡した。
何も言わず、瞬は受け取り、ガリっと奥歯で噛み砕く。
互いに、万が一の時のために持ち歩いている即効性の抑制剤だ。
「とりあえず、家に帰ろう。帰ってから、対策を練ろうよ」
「もう会わない。それ以外に方法はないよ」
なるべく明るい声を心がけて告げれば、瞬から諦観まじりの断言が返ってくる。
車寄せに待つマネージャーの車に向けて歩きながら、瞬は暗い声で語った。
先程のわずかな時間で、瞬を襲った衝撃と、絶望を。
「あの男がそばにいると……あいつの匂いを嗅ぐと、多分、僕はおかしくなる」
「頭の中が、何が何だかわからないような、酩酊状態になるんだ」
「まるで、マタタビにやられた猫みたいに、理性も思考も失いそうになる」
「あの匂いの元に惹かれて飛びつこうとする獣が、僕の中にはいるんだ」
虚ろな表情で、瞬はぽつりと呟いた。
「……あのフェロモンに抵抗する術が、僕には見当もつかないんだ」
「瞬……」
スーツの上からでも分かるほど、見事な体躯をした男だった。
小柄な僕らでは見上げるほどの長身に、長い手足。
美しい筋肉を纏い、他者を睥睨することに慣れた人間だった。
底なし沼のような黒い瞳に獰猛な光を宿し、薄い唇には残酷な強者の笑みを湛えている。
僕らが恐れていたアルファの具現のような、強くて恐ろしいアルファだった。
僕は震えた。
きっと僕らの平穏はもう、終わりを告げる。
そして、僕らはこのまま崩壊していくのだ、と。
けれど。
それから一年と少しの間、僕らの周囲には何の変化もなかった。
ゾッとするほどに静かで、まるで何事もなかったかのように。
パーティーのすぐ後、僕らはあの男について調べ、そして絶望していた。
永谷雪那、二十九歳。
永谷財閥の御曹司であり、若くして複数の会社を任され、華々しい成果を上げている辣腕の男。
そして、芸能界を牛耳るドンと言われる男の孫だったのだ。
「……どうしよう」
「どうしようもない、ね」
彼に睨まれてしまえば、僕らはこの世界から消え去るしかない。
いや、消え去ることが出来ればいい。
この世界で、死ぬより苦しい思いをして生きていかなければならないかもしれないのだ。
「……縁切り神社にでも行く?」
「ふふ、教会で悪魔祓いという手もあるよ」
弱々しく笑いながら、僕らは軽口を叩く。
冗談でもなんでもない、本心だったけれども。
「さいあくだ」
信じたこともない神に祈りたくなるほど、状況は絶望的だった。
僕らはこれまでずっと、どれほど苦しくても、虚しくても、やり切れなくても、歯を食いしばって耐えてきた。
そして、力をつけ、味方を増やし、戦いながら、この世界で上に上り詰めてきたのだ。
こんな世界に、黙って喰われてなどやるものかと、そう思って歯を食いしばって生きてきた。
けれども、こんな男を相手に、僕らはどう闘えばいいのだ。
この世界の、圧倒的な強者を相手に。
「なんであの時、会っちゃったんだろう」
僕は何度も悔やみ続け、毎夜のように悪魔に魘された。
夢の中で繰り返すのは、あの男に見つけられてしまった、あの絶望の瞬間だ。
「頼むから、僕のことは忘れてくれ」
瞬は震える両手を組んで、いつも必死に祈っていた。
あの男が諦めてくれること、もしくは、飽きてくれることを。
僕らは毎日、些細な情報に対してビクビクして、ノイローゼになりそうなほど周囲に警戒していた。
それなのに、僕らの周りは、馬鹿馬鹿しくなるほどに平穏だった。
「もしかして、諦めてくれたのかな?」
「他に、気に入ったオメガが見つかったとか?」
十八歳になり、そんなほのかな期待を抱き始めた、ある日。
「さて、瞬くんも大人になったことだし、……そろそろ覚悟はついたかい?」
「……永谷、雪那!」
唐突に、また現れたのだ。
返り血を浴びてもわからないほどに漆黒のスーツを纏った、ドーベルマンのようなあの男が。
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