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名前のない人形
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「……あなたね? 泣いていたのは」
「そうよ……。ずっと怖かったの。すごく、すごく……」
その人形は、にこやかな見た目とは対照的に啜り泣いている。声は十歳くらいの少女のようだった。
「あなた、名前は?」
サラは優しく尋ねた。
が──人形の少女は、さっきよりも悲しそうに泣くのだった。サラはなぜ少女が自分の発言で泣いたのか分からず、固まってしまう。
「何故泣くの? 私、変なことを聞いた?」
人形の少女のにっこりと笑う顔は変わらない。しかし、声はますます不安げに響くのだった。
「ち、がうの。あたし、捨てられちゃったから──名前が、ないの」
「え……どういうこと?」
捨てられたから、名前がない? サラは人形の言葉が理解できず首を傾げた。
「あたしたち人形の名は、誰かに呼ばれるからこそ必要。だけど、あたしは捨てられた。だから、名前も必要なくなるの……」
人形は哀しげに、ポツリポツリと言った。哀しげに泣きながら話す人形の声は、サラの胸を締め付けた。
自分も、確かにあったはずの記憶をなくした身。人形の言葉が、他人事には聞こえなかった。
あの老紳士の人形が話し掛けてくれなかったら、私はどうなっていたのだろう──そんなことが頭をよぎった。
「名前もなくなって、楽しかったことも、思い出せなくなるの。全部全部、消えてしまうの。こうして話しているあたしの魂も……」
サラはその時やっと悟った。人形の少女の涙の理由を。
「き……消えてしまうの?」
「捨てられた人形は、消える運命なの。必要とされなければ、あたしたちに価値はないわ」
──……ッ!
ズキンッ。
呼吸が止まりそうになった。人形の言葉が、胸に突き刺さる。
ズキン、ズキン、ズキン。
頭がおかしくなりそうなくらい痛む。
──捨てられた人形は。
脳が、必死で何かを探している。
──消える運命なの。
まるで世界から拒絶されたかのように。
──必要とされなければ。
ただ一人、真っ暗な場所に放り込まれた感覚。
──あたしたちに、価値はない。
そこに、光などない。
言葉がガンガンと響き、頭痛が止まらない。目を見開いたまま、動けなくなってしまうサラをよそに、人形はなおも語り続ける。
「それにね──あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの」
──…………!
鈍器で殴られたかのような衝撃が、サラを襲った。
* * *
脳裏に浮かぶ、見知らぬ女性と男性。
映像が霞んでいて、顔はよく見えない。女性のお腹は少し大きく、自身でそのお腹をさすっていた。
とても幸せそうに、嬉しそうに。
手を伸ばす。だがそのふたりは、だんだん遠くに行ってしまって──やがて、消えてしまった。
──行かないで。
* * *
「──……っ!」
遠退いていた意識が戻り、視界が明るくクリアになっていく。やっと自分で息が吸えて、サラは思い切り空気を吸い込んだ。
ひどく息が苦しかった。体からは汗が大量に噴き出しだしていた。だんだん頭痛もおさまってきて、息も楽になってくると、やっと体を動かすことが出来た。
──今の感覚は、一体……?
サラは、さっき脳裏に浮かんだ映像を思い出す。
──もしかして、今の映像は、私の記憶……?
考えられる、一つの可能性。
しかし、あの幸せな光景を見てサラに残ったのは、悲しみと不安と、憎しみだけだった。
──今の人たちは? 何故、こんな感情に?
記憶のかけらを見つけても、謎が増えただけだった。
「……お姉ちゃん」
人形の声にハッとし、我にかえる。人形の声はもう泣いていなかった。むしろ、どこか落ち着いていて、大人びて聞こえる。
「そろそろ、お別れみたい」
「え……?」
「なんとなくね、わかる。自分の、最後……」
フフ、と人形は笑う。心からの笑いじゃないのは、すぐにわかった。サラは何かを言おうとして、口籠もる。なんと声をかけてあげればよいのだろう。これから消えゆく彼女に。
「お姉ちゃん、ありがとね……。あそこから、出してくれて。あんなところで、消えたくなかったから……」
人形の声はどんどん小さくなってゆく。この声が完全になくなった時、彼女は──。
サラはあることに気付く。きっとあの老紳士も、棄てられて、消えたのだ。あの時も、糸が切れたかのように、何も聞こえなくなった。
「……っ、待って!」
サラは声を張り上げる。こんな最後は、悲しすぎる。
彼にも、お礼を言えなかった。だからせめて、彼女には──。
「あなたのおかげで、助かったことがあるの。だから……ありがとう」
サラは胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。フッと、人形が小さく笑うのが聞こえた。
「変なの……。こんなときに……人間に、感謝、されるなん……て……」
その声はとぎれとぎれに聞こえて、ほとんど聞き取れなかった。サラは人形の声を聞くために、ぐっと耳を寄せる。
「──サヨナラ」
最後の言葉は、やたらクリアにサラの耳に届いた。サラは人形を見る。変わらない笑顔で笑っている。
「……ねぇ、嘘でしょう? 返事をしてよ」
サラはそっと人形に触れた。それでも返事はない。人形の、変わらないはずの笑顔が、どこか切なげに見えた。
そこにあるのは、動きも、喋りもしないただの人形。普通ならなんでもない、当たり前のことなのに、さらにはその事実があまりに残酷すぎた。
『捨てられた人形は、消える運命なの』
あの子はどんな気持ちであの言葉を口にしたのだろう。人の都合で捨てられて、あの子はどんなに悲しかっただろう。
『あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの』
自分のかわりになる人形に、何を思っただろう。サラは、喋らなくなった人形をそっと抱きしめる。きっと、持ち主にこうされたかっただろうに。サラは彼女の心中を悟って胸を痛めた。
サラは人形をもう一度見つめた。きっとすぐに回収されて、明日には灰になる。消えてなお殺される人形を思うと、遣る瀬なくなった。でも、自分にはどうすることも出来ない。
サラは人形を綺麗な所へ横たえ、腕を組ませた。せめて、安らかに眠れるように。
「サヨナラ……──あ」
名前を呼び掛けようとして、彼女に名前がないことに気が付いた。名前を呼ぶことさえ出来ない──。サラは無力な自分を呪った。いたたまれなくなり、横たわる人形に背を向けて走りだした。
誰かに呼ばれるための名前。では、自分の名前に意味はあるのか。こんなふうに街をさまよい歩き、誰にも相手にされない自分に。
「……嫌っ!」
悲しい考えを振り切るように、サラは首を振った。全部をなくしても、名前だけは持っていた自分。
『それは、いい名前だねぇ』
こんな自分を救ってくれた、あの人形。いい名前だと言ってくれたこの名前に、誇りを持っていたい。
サラは、息を整えて後ろを振り返った。もうゴミ捨て場は見えない。
──行こう。記憶を戻すきっかけをくれたあの子のためにも。
サラはゴクリと唾を飲み込んだ。今は分からなくても、少しずつ集めて、全部を取り戻したい。例えそれが、どんなものであろうとも──。
サラは、失われた『自分』を知るために、また一人街へ繰り出した。
「そうよ……。ずっと怖かったの。すごく、すごく……」
その人形は、にこやかな見た目とは対照的に啜り泣いている。声は十歳くらいの少女のようだった。
「あなた、名前は?」
サラは優しく尋ねた。
が──人形の少女は、さっきよりも悲しそうに泣くのだった。サラはなぜ少女が自分の発言で泣いたのか分からず、固まってしまう。
「何故泣くの? 私、変なことを聞いた?」
人形の少女のにっこりと笑う顔は変わらない。しかし、声はますます不安げに響くのだった。
「ち、がうの。あたし、捨てられちゃったから──名前が、ないの」
「え……どういうこと?」
捨てられたから、名前がない? サラは人形の言葉が理解できず首を傾げた。
「あたしたち人形の名は、誰かに呼ばれるからこそ必要。だけど、あたしは捨てられた。だから、名前も必要なくなるの……」
人形は哀しげに、ポツリポツリと言った。哀しげに泣きながら話す人形の声は、サラの胸を締め付けた。
自分も、確かにあったはずの記憶をなくした身。人形の言葉が、他人事には聞こえなかった。
あの老紳士の人形が話し掛けてくれなかったら、私はどうなっていたのだろう──そんなことが頭をよぎった。
「名前もなくなって、楽しかったことも、思い出せなくなるの。全部全部、消えてしまうの。こうして話しているあたしの魂も……」
サラはその時やっと悟った。人形の少女の涙の理由を。
「き……消えてしまうの?」
「捨てられた人形は、消える運命なの。必要とされなければ、あたしたちに価値はないわ」
──……ッ!
ズキンッ。
呼吸が止まりそうになった。人形の言葉が、胸に突き刺さる。
ズキン、ズキン、ズキン。
頭がおかしくなりそうなくらい痛む。
──捨てられた人形は。
脳が、必死で何かを探している。
──消える運命なの。
まるで世界から拒絶されたかのように。
──必要とされなければ。
ただ一人、真っ暗な場所に放り込まれた感覚。
──あたしたちに、価値はない。
そこに、光などない。
言葉がガンガンと響き、頭痛が止まらない。目を見開いたまま、動けなくなってしまうサラをよそに、人形はなおも語り続ける。
「それにね──あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの」
──…………!
鈍器で殴られたかのような衝撃が、サラを襲った。
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脳裏に浮かぶ、見知らぬ女性と男性。
映像が霞んでいて、顔はよく見えない。女性のお腹は少し大きく、自身でそのお腹をさすっていた。
とても幸せそうに、嬉しそうに。
手を伸ばす。だがそのふたりは、だんだん遠くに行ってしまって──やがて、消えてしまった。
──行かないで。
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「──……っ!」
遠退いていた意識が戻り、視界が明るくクリアになっていく。やっと自分で息が吸えて、サラは思い切り空気を吸い込んだ。
ひどく息が苦しかった。体からは汗が大量に噴き出しだしていた。だんだん頭痛もおさまってきて、息も楽になってくると、やっと体を動かすことが出来た。
──今の感覚は、一体……?
サラは、さっき脳裏に浮かんだ映像を思い出す。
──もしかして、今の映像は、私の記憶……?
考えられる、一つの可能性。
しかし、あの幸せな光景を見てサラに残ったのは、悲しみと不安と、憎しみだけだった。
──今の人たちは? 何故、こんな感情に?
記憶のかけらを見つけても、謎が増えただけだった。
「……お姉ちゃん」
人形の声にハッとし、我にかえる。人形の声はもう泣いていなかった。むしろ、どこか落ち着いていて、大人びて聞こえる。
「そろそろ、お別れみたい」
「え……?」
「なんとなくね、わかる。自分の、最後……」
フフ、と人形は笑う。心からの笑いじゃないのは、すぐにわかった。サラは何かを言おうとして、口籠もる。なんと声をかけてあげればよいのだろう。これから消えゆく彼女に。
「お姉ちゃん、ありがとね……。あそこから、出してくれて。あんなところで、消えたくなかったから……」
人形の声はどんどん小さくなってゆく。この声が完全になくなった時、彼女は──。
サラはあることに気付く。きっとあの老紳士も、棄てられて、消えたのだ。あの時も、糸が切れたかのように、何も聞こえなくなった。
「……っ、待って!」
サラは声を張り上げる。こんな最後は、悲しすぎる。
彼にも、お礼を言えなかった。だからせめて、彼女には──。
「あなたのおかげで、助かったことがあるの。だから……ありがとう」
サラは胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。フッと、人形が小さく笑うのが聞こえた。
「変なの……。こんなときに……人間に、感謝、されるなん……て……」
その声はとぎれとぎれに聞こえて、ほとんど聞き取れなかった。サラは人形の声を聞くために、ぐっと耳を寄せる。
「──サヨナラ」
最後の言葉は、やたらクリアにサラの耳に届いた。サラは人形を見る。変わらない笑顔で笑っている。
「……ねぇ、嘘でしょう? 返事をしてよ」
サラはそっと人形に触れた。それでも返事はない。人形の、変わらないはずの笑顔が、どこか切なげに見えた。
そこにあるのは、動きも、喋りもしないただの人形。普通ならなんでもない、当たり前のことなのに、さらにはその事実があまりに残酷すぎた。
『捨てられた人形は、消える運命なの』
あの子はどんな気持ちであの言葉を口にしたのだろう。人の都合で捨てられて、あの子はどんなに悲しかっただろう。
『あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの』
自分のかわりになる人形に、何を思っただろう。サラは、喋らなくなった人形をそっと抱きしめる。きっと、持ち主にこうされたかっただろうに。サラは彼女の心中を悟って胸を痛めた。
サラは人形をもう一度見つめた。きっとすぐに回収されて、明日には灰になる。消えてなお殺される人形を思うと、遣る瀬なくなった。でも、自分にはどうすることも出来ない。
サラは人形を綺麗な所へ横たえ、腕を組ませた。せめて、安らかに眠れるように。
「サヨナラ……──あ」
名前を呼び掛けようとして、彼女に名前がないことに気が付いた。名前を呼ぶことさえ出来ない──。サラは無力な自分を呪った。いたたまれなくなり、横たわる人形に背を向けて走りだした。
誰かに呼ばれるための名前。では、自分の名前に意味はあるのか。こんなふうに街をさまよい歩き、誰にも相手にされない自分に。
「……嫌っ!」
悲しい考えを振り切るように、サラは首を振った。全部をなくしても、名前だけは持っていた自分。
『それは、いい名前だねぇ』
こんな自分を救ってくれた、あの人形。いい名前だと言ってくれたこの名前に、誇りを持っていたい。
サラは、息を整えて後ろを振り返った。もうゴミ捨て場は見えない。
──行こう。記憶を戻すきっかけをくれたあの子のためにも。
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