ヒトガタの命

天乃 彗

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マリオネット

02

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 ひたすらに、ただひたすらにサラは走っていた。辺りは暗い。星も見えている。十分な灯りもないのに、走る。
 走る。走る。走る。裸足のまま、足が痛むのも、石で切れるのも、構わない。転んでも、立ち上がって。早く。できるだけ遠くへ。そうしなければ、駄目なのだ。

『はぁっ、はあっ……』

 息が切れても、辛くても。その足を止めることはない。早く、ここから逃げなければ──。
 ちらりと後ろを振り返るその顔は、恐怖と不安で歪んでいた。


 * * *


 息が苦しい。激しい動悸、息切れに見舞われる。ショックでまばたきさえも忘れてしまう。汗が止まらない。身体中が湿って気持ちが悪い。
 一瞬で分かった。もう見慣れた、下着のような白くて薄いキャミソールワンピース。あれは、記憶を失う直前の記憶だ。
 記憶を失ってからの記憶──最初に気がついた時も、彼女は走っていたのだ。そこまで必死に、自分は、逃げていた。切迫した様子で、なるべく遠くへと。

──どうして? 

 サラには分からなかった。頭を抱えて、歯を食い縛った。

──私は、何から逃げていたの? 

 思い出そうとしても、靄が広がったように脳内を支配するだけだ。

──自分から、こうなることを望んだの? 

 醜い、ストリートチルドレンのような生活。こんな生活楽しくもないのに。帰るべき場所があったとして、サラは自分からそれを捨てたのだ。

「大丈夫?」
「……大、丈夫」

 だんだん落ち着いてきた。ゆっくりと深呼吸をして、トウワタに向き直った。

「君、これからどうするの?」

 不意に、トウワタに尋ねられる。サラはビクリ、と肩を震わせた。『これから』が、あるんだろうか。サラは下唇をぎゅっと噛んだ。

「……わからない」
「わからない! じゃあ、どうしたいの?」
「……どうしたい? ……私は」

 『記憶を取り戻したい』。言いかけて、言葉をつまらせた。取り戻して、どうするのだろう。どうすればいいのだろう──。
 服の裾を握りしめていると、トウワタが小さく笑った。その笑いは、自嘲ぎみに響いた。

「君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──」

 あぁ。本当だ。本当に、私は。

「何をしている!」

 急に張り上げられた大声に、サラは飛び上がった。声のした方を見てみると、ボロボロの服に身を包んだ、しわくちゃの老人が立っていた。

「ヘリじいさんだ」
「えっ……」

 飄々と言うトウワタに、サラは狼狽える。彼は、明らかに腹をたててサラを睨んでいる。

「ワシのもんを盗むつもりか!」
「いえ、違、」
「ここにあるもんは、みんなワシのもんだ! やらん、一つたりともやらんぞ!」

 ゴミ収集の帰りなのだろう。ヘリコニアは、錆びた鉄パイプのようなものや、黒い袋を手に下げていた。
 サラの話を聞こうともしてくれない。黒い袋を地面において、両手に鉄パイプを握りしめた。

──まずい。

 そう思うのに、足がすくんで動かない。ヘリコニアは、悪臭と共にこちらに寄ってくる。鉄パイプを振り上げる──。

「逃げて、サラ」

 トウワタの声がした。

「……っ!」

 反射的に右によける。カァン! という音が響いて、ゴミの山が少し崩れた。このままじゃ危ない。サラは咄嗟に駆け出した。振り返ることも忘れて、駆ける。まるでいつかの光景。
 ワシのもんだ、やらん、と繰り返し叫ぶ声がサラの耳に焼き付いた。トウワタは、この深く絡み付くような独占欲からは、きっと逃れられない。それを思うと──涙が溢れた。


 * * *


 翌日になって、トウワタにきちんとお礼を言えていないことを思い出した。お別れも言えていない。
 でも、次こそは何をされるか分からない。もうあそこには近づけない、とため息をついた。トボトボと歩いていると、前からスーツを着た集団が歩いてくるのが見えて、サラは木陰に隠れた。

「困ったもんだよ、ガラクタじいさんには」
「これで注意しにいくの、何度目でしょうか」
「何度言っても変わらんよ。狂ってるんだ、あそこのじいさんは」

 その会話で、ヘリコニアのもとへ向かう役所の職員だと分かった。サラは職員たちが通りすぎるのをじっと待った。

「強制的に撤去出来ないんですか?」
「まぁ……そうなるのは時間の問題かもなぁ」
「上の決定次第だな」
「あのじいさんがくたばるのと、上が重い腰を上げるの、どっちが先だろうな」
「賭けますか?」
「馬鹿らしい、やらんよ」
「ったく、嫌になるよ、あんなガラクタ集めて何になるんだか。文句を言われるのも、注意しにいくのも俺らだってのに」
「しょうがない、それが公務員の定めだよ」

 だんだん声が遠くなっていく。ヘリコニアが死んでしまっても、強制的に撤去されてしまっても──トウワタの運命は変わらない。縛られ続けて、あのまま。

──もしかして、私も? 

 あんなに必死に逃げて、逃げて。それでも何も変わってないんだとしたら? そんな考えが頭をよぎって、首をブンブンと降る。もう、どうすればいいのか分からなかった。

『君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──』

 トウワタの声が頭を過って、胸がズキズキと痛んだ。

──私は、今、何をしているんだろう。

 しばらくは動くことも出来ず、サラはぼんやりと宙を眺めていた。 
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