ヒトガタの命

天乃 彗

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ラブドール

01

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 トウワタと会話して戻った記憶。それは、自分が何かから逃げている記憶だった。小石で足が切れるのも構わず、時折怯えた顔で後ろを見ながら、サラは何かから逃げていた。その『何か』は分からない。分からないからこそ、サラは怖くて仕方がなかった。
 今もその何かから追われてるのではないか。そう思うと夜もあまり寝られず、食べ物を探してゴミを漁るのも躊躇われた。今、身体的にも精神的にもサラは不安定な状態にあった。

「私……一体どうしたら良いんだろう」

 泣くことも、誰かにすがりつくことも出来ず、サラはぐっと拳を握った。とにかく、ここから離れなければ。そう思って歩き出そうとすると、足がもつれて転んでしまった。
 思っている以上に、身体が弱っているのかもしれない。空腹が祟ったのか、立ち上がろうとしても出来なかった。サラは這うようにして、路地の端に移動する。建物に背中を預けて座り込むと、二、三度荒く息をした。

──ふと、視界が暗くなる。

 それが目の前に人が立ったからだと気づいて、サラはハッとした。『何か』が自分を連れ戻しに来たのでは。怯えた顔を上げると、そこには背の高い男が立っている。

「ひっ……!」

 小さく声を漏らすと、サラは身を縮こまらせた。長い前髪で隠れた男の瞳は、サラからは確認できない。前髪だけでなく、後ろ髪も長いようだが、その髪は後ろで束ねられているようだった。
 その男に、ただ──じぃっと、じぃっと見られている……気がする。怖い。素直にそう思ったが、立ちあがれない。その背の高い男は、口元だけでにやぁ、と笑った。

「……き、君、ストリートチルドレン?」
「は……」
「お、お金とかご飯、欲しくない?」

 その男は、小さな声で早口でまくし立てた。何とか聞き取れた声を頭で整理しながら、サラは首を傾げた。

「何の……つもりですか」
「あぁ、ご、ごめんごめん。ぼ、僕はこういうものなのだけど」

 そう言って男は紙切れをサラに差し出した。恐る恐るそれを受け取ると、女性のような絵とともに、『セントーレア・ニグラ』という名だけ書かれていた。

「そ、それ見たら分かるよね。ぼ、僕は絵描きなんだ。ま、まぁ、駆け出しで、仕事はほとんどないし、ち、知名度も低いんだけど」

 それだけで分かるかは定かではないが、名乗るからにはそうなのだろう。この名刺も手作りなのだろうか。

「ぼ、僕のことはセンとでも呼んでくれればいいから」
「……はぁ。それで、私に何か用ですか……?」

 サラは眉をひそめながらセンを見上げる。センはさっきのようにゆっくりと口角を上げてにやぁ、と笑った。

「き、君に、ぼ、僕の絵のモデルになって欲しいんだ」
「……モデル?」

 訝しげに眉をひそめるサラに、センは詰め寄るように身を乗り出した。

「き、君、す、すごいかわいいしさ。君みたいなかわいい子を描けば、き、きっといろんな人の目に止まって、ぼ、僕も有名になれるかもしれないし」
「そんなこと、言われても……困ります」
「そ、そんなこと言わずにさ。ほ、報酬は出すから。さっきも言ったけど、お、お金も、食べ物だってあげるから」

 一見気が弱そうだが、なかなかにしつこい。逃げ出したい。けれどもここから今すぐに駆け出す体力はサラにはなかった。無視をしていれば、諦めてくれるだろうか。そうは思ったが、センは動きだそうとしない。

「い、一度だけでいいんだ。お、お金ならある。き、君の好きなものをご馳走するよ」
「モデルって言ったって……私、そんなことしたことないですし……」
「い、いいんだよ。き、君はじっとしていてくれれば。ぼ、僕のアトリエはすぐそこだから、時間もとらせないよ」

 駆け出しの絵描きなのにアトリエがあるらしい。絵描きの世界はよくわからないが、それはすごいことなのではないだろうか、と思う。
 人目を気にして、もう何日も食べ物を食べていない。行く当てもなければ、自分が今何をすべきなのかもわからない。センの怪しさはぬぐいきれないが、報酬は出すと言うし、建物の中で安全に食べ物が食べられるならそれもいいのかもしれない。

「……」
「け、決定ね。さ、さぁ、こっちだ」

 サラが何も言わなくなったことを了承と受け取ったらしい。センはサラの手を取った。そのままぐいと手を引かれ、よろけながらも立ち上がる。やっぱり辞めた方がよかったかもしれない──一瞬不安が脳を掠めたが、手を掴む男の力に抗うことなどサラには出来なかった。


 * * *


──なんだ、普通のお家じゃない……。

 サラは安堵のような、でもどこかがっかりしたような感想を持った。アトリエ、と言うからには、何か特殊な建物なのかと思っていたが、連れて来られたのは普通の集合住宅の一角だった。二階建ての建物の二階の角がセンのアトリエらしい。

「さ、さぁ。入って、入って」

 鍵を開けて中に誘導されると、意外に広い室内に少し驚いた。が、部屋は広くとも活動できるスペースは少なそうだった。床には描きかけの絵がたくさん散らばっている。絵の具で汚れないようにか、床には新聞紙が敷かれており、その下の様子はわからない。部屋の隅には、シングルサイズよりも少し大きなベッドがあった。

「あっ、ええと、そ、その辺に座ってくつろいでくれるかな。い、今食べ物を用意するから」

 その辺、と言われても、とサラは床を見渡す。仕方なく、新聞紙だけのスペースにちょこんと腰を下ろした。
 すると、袋に入った大量のパンを目の前に置かれた。好きなものを選べとでも言うように、様々な種類のパンが袋に入っている。サラはおずおずとそれに手を伸ばし、とりあえず、一番上のクルミパンをいただくことにした。カップに入った温かいカフェオレも渡され、口の中のパンを飲み込んでから「ありがとうございます」と呟いた。
 このパンといい、カフェオレといい、そしてこのような広い家といいなかなか上級なものであるように思う。キッチンをみてみると、まるで使われている形跡はない。普段の食事はどうしているのだろう、やはり店で買った既製品ばかりなのだろうか。

「き、気にしなくていいよ。お、お金ならあるし」

 『金ならある』とセンは言った。しかし、駆け出しの絵描きである彼に、大きな収入があるとは思えない。不思議に思っていると、セン自ら言い訳をするように語り始めた。

「う、うちの親が会社をやってるんだ。そ、そこまで大きなってわけじゃ、な、ないんだけども」
「会社……」
「こ、ここの建物も、お、親の持ち物なんだ。し、仕送りもしてもらってるから、だ、だから君は気にしなくていいんだ」

 社長の息子──合点がいった。それならば、仕送りで十分生活できるのもおかしくはない。絵描きを目指すという息子を自由にさせることが出来るほどの余裕がある会社ならば。
 センは絵を描く準備をしながら、聞いてもいないことをベラベラと話し始めた。自分の親の会社は数ある子会社の中でも優位にあるだとか、謙遜しながらも話の内容はほとんどが自慢だった。虎の威を借る狐、という表現がピッタリだ。サラはその様子に少しだけイライラして、話半分に相槌を打っていた。

「お、親会社のトップのシュリーマンさんも、う、うちの親のことはひ、贔屓にしてくれてるんだ」

──……! 

 ぼんやりと聞いていた話の中に混ざった、聞き覚えのある名前。サラはハッとしたように顔を上げた。
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