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晴次が、今の自分が、謝り許しを請うてもどうにもならず、ただ待つしかなかった幼い子どもではないのだと、思い出すまでしばらくかかった。
一寸先さえ見えない暗闇のせいに違いない。
父の機嫌次第で、時には意味もなく蔵に閉じ込められた幼い日はもう十年や二十年は前になるというのに、いまだに魘されるほど覚えているとは。
苦笑すらこぼれず、ただ、どうしようもない澱のような感情がわだかまる。
夢の名残を引き摺ったのか、晴次が今の状況に気付き、少し前に起こったことを思い出すまでには、更に時間がかかった。
腕の中で、妙に熱っぽいものが息を潜めているのに気づいたのは、更に後のこと。
「あー…君、大丈夫か?」
「あなたが足を折ってまでかばってくれたおかげで、こちらは問題ありません」
内容に反して、ずいぶんと声は冷たい。その声は、おそらくは体が密着しているせいで、思った以上に体に響いた。
「…折った?」
「痛みはありませんか。おそらく間違いはないかと」
声の主は、晴次の手繰り寄せた記憶が正しければ、華奢な体つきの少女だったはずだ。そして、今の感触が正しければ、晴次は彼女をほとんど抱きしめている。
少女の声には恥じらいは感じられず、その上で、真冬の落とし穴の中で人の体温を感じられるのは、正直なところかなりありがたい。
コートを着てはいるが、直に土に接した体からは徐々に熱が奪われている気がする。
土中は暖かいというが、登れそうにはないものの、比較的浅い穴だからだろうか。凍死するほどとは思えず寒風吹きすさぶ中よりは暖かいのだろうが、寒いことは寒い。
「悪いね、こんなことになってしまって」
「何故あなたが謝るんですか」
「庭師か誰かが掘った穴だろうな。私はここの持ち主だから、責任は負うべきだろう」
そもそも、少女がここに来ることになった原因も晴次なのだが、そのことには口をつぐんでおく。
暗闇で少女と密着した状態で、晴次は、苦労してコートから腕を抜き、ジャケットを脱いでもう一度コートに袖を通す。
脱いだジャケットを少女に着せ掛けると、びくりと身じろぎしたのがわかった。
「上着を着ていないだろう。私はコートがあるから気にしなくていい。朝には誰か気付くだろう」
「朝、ですか」
「…私は、どのくらい意識を失っていた?」
携帯電話は秘書に預けたままで、腕時計は光るようなものではない。おかげで時刻はわからないのだが、口にした後で、闇の中では少女の時間感覚もなくなっているかと気付いた。
案の定、さあ、と素っ気無い声が返る。
それきり、沈黙が落ちる。普段であれば、そんなものは気にもならない。だが、狭い穴の底に嵌る形で抱き合うような状態では、些か気まずい。互いの呼気は当然、体温も感じられる近さだ。
それに、暗闇が幼い日を思い出させる。
「何か…言っていなかったか。意識のなかった間に」
「誰かに謝っていました」
「…聞かなかったふりをするものじゃないのか、こういった場合」
「では、何も言ってません」
「そんな言い方でなかったことになるか?!」
そうですか、と、まるで感情がないかのように言われ、ぐったりと疲れる。だが少しすると、妙に可笑しくなってきた。
そうなると、こんな状況さえ可笑しい。
本当であれば晴次は馬鹿馬鹿しい歓談会でろくでもない人間たちと顔をつき合わせているはずで、そうでなければ、この少女に殺されているはずだったのに。
「no name」
呟くように落とした声に、だが腕の中の少女は身じろぎ一つしなかった。
「そういう名前の殺し屋がいるんだ。この間、依頼をしてみた。対象は御嵩晴次」
「…どうして」
「馬鹿馬鹿しいことに、それなりに大きな企業グループのトップなんてものをやっていると命を狙われることも多い。あまり意味もないが、そういった職種のリストを見ることもある。まだ若いようで、少し気になったんだ」
「そんなリストに載るような粗忽者、年長者がいるほうが珍しいです。誰も素性を知らないというのが凄腕です」
「なるほど。まあ正直、腕はどうだってよかったんだ。生死がどうなったって」
「自殺か」
突き放すように、少女は晴次から身体を離そうとした。狭い空間でのことで、容易く捕まえる。
少女はしばらくもがいていたが、やがて、諦めたように止まった。
「そういう使われ方は迷惑だ」
「no name が君のことだと言ったつもりはなかったが?」
「言ったようなもんだ。なんだって私を助けた、心中でもしたかったか?」
乱暴な口調に、猫をかぶっていたのかこちらが虚勢なのか、と心中首を傾げる。どちらにしても、声が澄んでいるだけに妙に可愛らしい。
「いや、ああいうとき案外体が動くものだな」
晴次の後を追って庭に出たのだろう少女が穴に落ちかけたところで、咄嗟に手が伸びた。そのときには、少女が暗殺者だと気づいていた。そもそも、そのために人気のないところに移動したのだ。
「あんた…バカか?」
「兄が死んだんだ」
少女の戸惑いが感じられた。暗殺などという物騒な仕事を請け負いながら、この少女はずいぶんと可愛らしい。余程、自分の方が人でなしだろう。
自嘲なのか諦めなのか、そんな思いがよぎる。
「俺も兄も、互いのことは好きじゃなかった。目障りだったんだ。兄の名は晴一で、俺は、その予備だった。わざわざ、母体を犠牲にして生ませた子どもだっていうのにな」
兄を生んで体調を崩した母は、二子は諦めるべきだと言われ、当人もそう思っていたのだという。それを、だまし討ちと軟禁とで生ませたのは父だ。せめて間をあければ良かったのかもしれないが、年子だった。
晴次がそのことを知ったのは、父と喧嘩した兄の八つ当たりのためだった。
なるほどと納得して、以後、晴次は予備やスペアと自称することもあった。その度、兄は気まずそうなかおをした。悪い人間ではなかったのだろう。気の毒にも。
「兄は、人としてはマシな部類だったんだろうな。付き合っていた女に子どもができて、追いかけてこの国を出て行った」
そもそもの出会いに、晴次の手が加えられていたことさえ知らなかったのではないだろうか。
別段、深い考えがあったわけではない。ただ、到底父が認めそうにない女が兄に好意を寄せているのに気付いた晴次が少しお膳立てをしたところ、あっさりと二人は恋仲になった。そうしてこれもあっさりと、妊娠した。
女に子どもをおろすつもりはなく、かといって、生まれれば御嵩の家が取り上げるか母子共々抹殺されるか。そう報せると女は、晴次に礼まで言ってこの国を後にした。もしもその気があれば、と、住所まで託されてしまった。
どんな反応をするかと住所を渡すと、兄は、驚いたことに後を追った。
おかげで全ては晴次の手元に転がり込んだが、全く嬉しくなかったことを覚えている。こんなことなら先に逃げておけばよかった、女の住所など捨ててしまえばよかった、とも。
「アジアの小さな国で、兄も義姉も生まれたばかりの姪も、殺された。ついこの間のことだ。俺の地位を固めたがった誰かがやったらしい。馬鹿馬鹿しい。そう思ったら、全て投げ出したくなった」
「…場所によっては、日本よりもやりやすいだろうな」
「ああ」
「……後悔してるのか」
「何を?」
「それは…」
口に出した中に、そんなことを思わせるような言葉があっただろうかと思い返すが、わからない。声音も、別段変化をつけた覚えはなかった。
少女は、随分と悩んだようだった。いや、躊躇ったのか。
「知ってたなら、忠告もできただろう」
密着しているせいで、少女の声は、直に体に響くかのようだ。小声なのに、しっかりと声が伝わる。睦言よりも、近い。
「言っただろう、目障りだったと」
「あんたは、兄貴の死を認めたくなくて駄々をこねてるんじゃないのか」
まだ若干の躊躇いを残しつつも、それは迷いではないようだった。そんな言葉に、笑いがはじける。
声を上げて、これほどに大笑いしたのがいつぶりか思い出せない。演技ではないとなると、どれだけ記憶をたどっても出てこない。もしかすると、初めてなのかも知れなかった。
少女が仰け反るように離した頭を抱え込み、なおも笑いを引き摺る。
「なんなんだあんたっ!?」
よくもまあ、気付きたくなかったことを言い当ててくれたものだ。
これでも晴次は、感情が読めないと有名だったのだが、顔色さえ窺えないこの状況で、ろくに話もしていない少女に的確に読み取られるとは思ってもみなかった。
新鮮で、澄んだ声を妙に素直に受け取れる。
兄にも義姉にも見たことのない姪にも、死んでほしくはなかった。
どこか遠くで、晴次の知らない場所で幸せでいてくれたら。いつかもっと大人になったときにでも、穏やかな再会もあったかもしれなかったのに。
「…泣いてるのか…?」
「だから。そういうのは、見ないふりをするものだろう、こういう場合」
「……悪い」
少女が黙り込み、沈黙が落ちる。何故か今度は、妙に落ち着いた。
「依頼…取り下げるのか」
どのくらい経ったのか、少女がぽつりと声を落とした。
いつの間にか、それまでどれほど晴次が抱きしめても逃げようとするだけだった少女が、わずかにだが、晴次のシャツを握り締めていた。
「依頼?」
「お前が出したんだろ、お前を殺せって」
「…ああ」
そういえばこの少女は暗殺者で、自分はその対象だった。晴次は、そんな前提を失念していたことに驚いていた。
「続行なら、もしかして俺は、朝が来たときには死体になってるのか?」
「こんな状況で殺したら捕まえてくれって言ってるようなものだろ」
「そうかなあ。しかしまあ、そうとなると、仕切り直しか」
「…続けるのか?」
不機嫌そうな少女の声からは、それを望んでいるのか不服なのかはわからなかった。だが、握り締められた晴次のシャツが、更に強く引っ張られたのがわかった。少女自身は、気付いていないだろう。
今度は言われるまでもなく、晴次は、この手の中のぬくもりを失いたくないと気付いていた。
「君はどうしたい?」
「私は…関係、ない」
「そもそも、どうしてこんな仕事を?」
「…どうだっていいだろ」
「さっき俺の話を聞いただろう。今度は君が話す番だ。ああ、まだ名前も聞いてない」
黙り込まれると、呼吸一つがいやに響く。ついでに、じわりと右足が痛んできた。折ったかどうかはともかく、何かしら怪我をしているのは確からしい。しかしそこに、何か硬いものが紐か何かで当てられている感覚もある。
「もしかして…上着を着てなかったのは、俺の足に添え木を当ててくれたから?」
沈黙と、一層強張った少女の体が答を教えていた。
気付けばまた、笑いが込み上げてきた。暗殺対象の怪我の手当てをするというのは、ありなのか。
「なあ、名前くらい教えてくれてもいいだろう? 名無しの権兵衛って呼んでもいいのか?」
「…好きに呼べばいいだろ」
「そうだな…クリスティーヌとか?」
「なっ…どっから出てきたそれ!?」
「オペラ座の怪人が恋する女の子の名前。よし、それでいこう。クリスティーヌ」
勝手に決めてそう呼び続けていると、やがて、根負けしたように名を告げた。随分と、晴次の心境に相応しい名前だった。
一寸先さえ見えない暗闇のせいに違いない。
父の機嫌次第で、時には意味もなく蔵に閉じ込められた幼い日はもう十年や二十年は前になるというのに、いまだに魘されるほど覚えているとは。
苦笑すらこぼれず、ただ、どうしようもない澱のような感情がわだかまる。
夢の名残を引き摺ったのか、晴次が今の状況に気付き、少し前に起こったことを思い出すまでには、更に時間がかかった。
腕の中で、妙に熱っぽいものが息を潜めているのに気づいたのは、更に後のこと。
「あー…君、大丈夫か?」
「あなたが足を折ってまでかばってくれたおかげで、こちらは問題ありません」
内容に反して、ずいぶんと声は冷たい。その声は、おそらくは体が密着しているせいで、思った以上に体に響いた。
「…折った?」
「痛みはありませんか。おそらく間違いはないかと」
声の主は、晴次の手繰り寄せた記憶が正しければ、華奢な体つきの少女だったはずだ。そして、今の感触が正しければ、晴次は彼女をほとんど抱きしめている。
少女の声には恥じらいは感じられず、その上で、真冬の落とし穴の中で人の体温を感じられるのは、正直なところかなりありがたい。
コートを着てはいるが、直に土に接した体からは徐々に熱が奪われている気がする。
土中は暖かいというが、登れそうにはないものの、比較的浅い穴だからだろうか。凍死するほどとは思えず寒風吹きすさぶ中よりは暖かいのだろうが、寒いことは寒い。
「悪いね、こんなことになってしまって」
「何故あなたが謝るんですか」
「庭師か誰かが掘った穴だろうな。私はここの持ち主だから、責任は負うべきだろう」
そもそも、少女がここに来ることになった原因も晴次なのだが、そのことには口をつぐんでおく。
暗闇で少女と密着した状態で、晴次は、苦労してコートから腕を抜き、ジャケットを脱いでもう一度コートに袖を通す。
脱いだジャケットを少女に着せ掛けると、びくりと身じろぎしたのがわかった。
「上着を着ていないだろう。私はコートがあるから気にしなくていい。朝には誰か気付くだろう」
「朝、ですか」
「…私は、どのくらい意識を失っていた?」
携帯電話は秘書に預けたままで、腕時計は光るようなものではない。おかげで時刻はわからないのだが、口にした後で、闇の中では少女の時間感覚もなくなっているかと気付いた。
案の定、さあ、と素っ気無い声が返る。
それきり、沈黙が落ちる。普段であれば、そんなものは気にもならない。だが、狭い穴の底に嵌る形で抱き合うような状態では、些か気まずい。互いの呼気は当然、体温も感じられる近さだ。
それに、暗闇が幼い日を思い出させる。
「何か…言っていなかったか。意識のなかった間に」
「誰かに謝っていました」
「…聞かなかったふりをするものじゃないのか、こういった場合」
「では、何も言ってません」
「そんな言い方でなかったことになるか?!」
そうですか、と、まるで感情がないかのように言われ、ぐったりと疲れる。だが少しすると、妙に可笑しくなってきた。
そうなると、こんな状況さえ可笑しい。
本当であれば晴次は馬鹿馬鹿しい歓談会でろくでもない人間たちと顔をつき合わせているはずで、そうでなければ、この少女に殺されているはずだったのに。
「no name」
呟くように落とした声に、だが腕の中の少女は身じろぎ一つしなかった。
「そういう名前の殺し屋がいるんだ。この間、依頼をしてみた。対象は御嵩晴次」
「…どうして」
「馬鹿馬鹿しいことに、それなりに大きな企業グループのトップなんてものをやっていると命を狙われることも多い。あまり意味もないが、そういった職種のリストを見ることもある。まだ若いようで、少し気になったんだ」
「そんなリストに載るような粗忽者、年長者がいるほうが珍しいです。誰も素性を知らないというのが凄腕です」
「なるほど。まあ正直、腕はどうだってよかったんだ。生死がどうなったって」
「自殺か」
突き放すように、少女は晴次から身体を離そうとした。狭い空間でのことで、容易く捕まえる。
少女はしばらくもがいていたが、やがて、諦めたように止まった。
「そういう使われ方は迷惑だ」
「no name が君のことだと言ったつもりはなかったが?」
「言ったようなもんだ。なんだって私を助けた、心中でもしたかったか?」
乱暴な口調に、猫をかぶっていたのかこちらが虚勢なのか、と心中首を傾げる。どちらにしても、声が澄んでいるだけに妙に可愛らしい。
「いや、ああいうとき案外体が動くものだな」
晴次の後を追って庭に出たのだろう少女が穴に落ちかけたところで、咄嗟に手が伸びた。そのときには、少女が暗殺者だと気づいていた。そもそも、そのために人気のないところに移動したのだ。
「あんた…バカか?」
「兄が死んだんだ」
少女の戸惑いが感じられた。暗殺などという物騒な仕事を請け負いながら、この少女はずいぶんと可愛らしい。余程、自分の方が人でなしだろう。
自嘲なのか諦めなのか、そんな思いがよぎる。
「俺も兄も、互いのことは好きじゃなかった。目障りだったんだ。兄の名は晴一で、俺は、その予備だった。わざわざ、母体を犠牲にして生ませた子どもだっていうのにな」
兄を生んで体調を崩した母は、二子は諦めるべきだと言われ、当人もそう思っていたのだという。それを、だまし討ちと軟禁とで生ませたのは父だ。せめて間をあければ良かったのかもしれないが、年子だった。
晴次がそのことを知ったのは、父と喧嘩した兄の八つ当たりのためだった。
なるほどと納得して、以後、晴次は予備やスペアと自称することもあった。その度、兄は気まずそうなかおをした。悪い人間ではなかったのだろう。気の毒にも。
「兄は、人としてはマシな部類だったんだろうな。付き合っていた女に子どもができて、追いかけてこの国を出て行った」
そもそもの出会いに、晴次の手が加えられていたことさえ知らなかったのではないだろうか。
別段、深い考えがあったわけではない。ただ、到底父が認めそうにない女が兄に好意を寄せているのに気付いた晴次が少しお膳立てをしたところ、あっさりと二人は恋仲になった。そうしてこれもあっさりと、妊娠した。
女に子どもをおろすつもりはなく、かといって、生まれれば御嵩の家が取り上げるか母子共々抹殺されるか。そう報せると女は、晴次に礼まで言ってこの国を後にした。もしもその気があれば、と、住所まで託されてしまった。
どんな反応をするかと住所を渡すと、兄は、驚いたことに後を追った。
おかげで全ては晴次の手元に転がり込んだが、全く嬉しくなかったことを覚えている。こんなことなら先に逃げておけばよかった、女の住所など捨ててしまえばよかった、とも。
「アジアの小さな国で、兄も義姉も生まれたばかりの姪も、殺された。ついこの間のことだ。俺の地位を固めたがった誰かがやったらしい。馬鹿馬鹿しい。そう思ったら、全て投げ出したくなった」
「…場所によっては、日本よりもやりやすいだろうな」
「ああ」
「……後悔してるのか」
「何を?」
「それは…」
口に出した中に、そんなことを思わせるような言葉があっただろうかと思い返すが、わからない。声音も、別段変化をつけた覚えはなかった。
少女は、随分と悩んだようだった。いや、躊躇ったのか。
「知ってたなら、忠告もできただろう」
密着しているせいで、少女の声は、直に体に響くかのようだ。小声なのに、しっかりと声が伝わる。睦言よりも、近い。
「言っただろう、目障りだったと」
「あんたは、兄貴の死を認めたくなくて駄々をこねてるんじゃないのか」
まだ若干の躊躇いを残しつつも、それは迷いではないようだった。そんな言葉に、笑いがはじける。
声を上げて、これほどに大笑いしたのがいつぶりか思い出せない。演技ではないとなると、どれだけ記憶をたどっても出てこない。もしかすると、初めてなのかも知れなかった。
少女が仰け反るように離した頭を抱え込み、なおも笑いを引き摺る。
「なんなんだあんたっ!?」
よくもまあ、気付きたくなかったことを言い当ててくれたものだ。
これでも晴次は、感情が読めないと有名だったのだが、顔色さえ窺えないこの状況で、ろくに話もしていない少女に的確に読み取られるとは思ってもみなかった。
新鮮で、澄んだ声を妙に素直に受け取れる。
兄にも義姉にも見たことのない姪にも、死んでほしくはなかった。
どこか遠くで、晴次の知らない場所で幸せでいてくれたら。いつかもっと大人になったときにでも、穏やかな再会もあったかもしれなかったのに。
「…泣いてるのか…?」
「だから。そういうのは、見ないふりをするものだろう、こういう場合」
「……悪い」
少女が黙り込み、沈黙が落ちる。何故か今度は、妙に落ち着いた。
「依頼…取り下げるのか」
どのくらい経ったのか、少女がぽつりと声を落とした。
いつの間にか、それまでどれほど晴次が抱きしめても逃げようとするだけだった少女が、わずかにだが、晴次のシャツを握り締めていた。
「依頼?」
「お前が出したんだろ、お前を殺せって」
「…ああ」
そういえばこの少女は暗殺者で、自分はその対象だった。晴次は、そんな前提を失念していたことに驚いていた。
「続行なら、もしかして俺は、朝が来たときには死体になってるのか?」
「こんな状況で殺したら捕まえてくれって言ってるようなものだろ」
「そうかなあ。しかしまあ、そうとなると、仕切り直しか」
「…続けるのか?」
不機嫌そうな少女の声からは、それを望んでいるのか不服なのかはわからなかった。だが、握り締められた晴次のシャツが、更に強く引っ張られたのがわかった。少女自身は、気付いていないだろう。
今度は言われるまでもなく、晴次は、この手の中のぬくもりを失いたくないと気付いていた。
「君はどうしたい?」
「私は…関係、ない」
「そもそも、どうしてこんな仕事を?」
「…どうだっていいだろ」
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黙り込まれると、呼吸一つがいやに響く。ついでに、じわりと右足が痛んできた。折ったかどうかはともかく、何かしら怪我をしているのは確からしい。しかしそこに、何か硬いものが紐か何かで当てられている感覚もある。
「もしかして…上着を着てなかったのは、俺の足に添え木を当ててくれたから?」
沈黙と、一層強張った少女の体が答を教えていた。
気付けばまた、笑いが込み上げてきた。暗殺対象の怪我の手当てをするというのは、ありなのか。
「なあ、名前くらい教えてくれてもいいだろう? 名無しの権兵衛って呼んでもいいのか?」
「…好きに呼べばいいだろ」
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