月夜の猫屋

来条恵夢

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短編2

アキラ

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 真っ赤に染まった夕暮れの下を、あたしは歩いていた。
 手入れのされた長い髪に、一目で判る上等の着物。そんな格好で一人で歩き回る危険さは、わかっていた。それでも。
 目的は、特にはない。ただ、少し腹を立てたのだ。兄を、困らせてやりたかった。
 勝った勝ったと浮かれながらも、そこかしこに不安な影がひしめいている。先の見えない危ういそれに、そっと辺りをうかがう人もいた。それが決して表に出る事はなかったけれど、叔父はぽつりと、そんな危険を漏らしたりもした。
 だからあたしは、戦争に浮かれるこの先にあるものを、薄々は知っている。露西亜ろしあを倒した、その先を。
 それは、あにさんも同じはずなのに。
 なのに。
 ――あにさんは行ってしまう。
 軍人になるのだと言う。行かないでと、いくらあたしが言っても、困ったように笑うだけ。そうやって笑うとき、兄さんは決して意見を変えようとしない。
「あにさんの、馬鹿」
 赤く染まる橋の欄干らんかんを見ると、ふわりと、薄色の花弁はなびらが舞い降りた。土手に植えられた桜だ。
 いつの間にか人通りは少なく、きっと今頃はあにさんたちが、血相を変えてあたしをさがしているだろうと思った。それでも、動けなかった。
 ――あたしがいなくなったら、死んだら。あにさんは、悲しんでくれるだろうか。ずっと、覚えていてくれるだろうか。
 どこかくらいところから音も無く浮かんだ考えに、はっと我に返った。
 何を考えているんだろう。やめよう。帰ろう。
 そう思ってきびすを返すと、逆光の中に人影が見えた。誰かが、こちらに向かって歩いて来る。帝都をゆるがした猟奇事件の数々が頭をよぎり、駆け出したかったのに、体が動かなかった。
 ところがその人影は、立ち止まると、明るい声を上げた。
「お嬢さん。こんなところでどうしたんです? 危ないですよ」
「ああ――高科たかしなさん」
 見知った書生だった。胸をで下ろして、あたしは、にこりとよそ行きの笑みを浮かべた。
「危ないなら、送ってくれるわよね」
「はい、おおせのままに、彰子お嬢様」
 苦笑した高科さんの元に駆け寄り、あたしたちは、橋を離れた。ふと、土手の桜が目に入った。
「綺麗ね。少し、見て行きましょう」
「お嬢さん」
「いいじゃない、少しくらい。どうせ、勝手に出てきて怒られるのだから、少しくらいお説教が延びても構わないわ」
 そんな言動を悔やむのは、少し後のことになる。
 あたしは、彼に殺されて、亡骸なきがらを桜の木の根元に埋められた。

 雨が降っていた。
 見事な夕焼けだったというのに、いつの間にか霧雨が、街を包んでいた。あたしは、小さな女の子に手を握られて、どこかへ連れて行かれようとしていた。
「ねえ、どこに行くの? あたし、戻らなくちゃ。捜しているよ、きっと。この頃皆、ぴりぴりしているんだから。ねえ」
「戻れないわよ。…わかってるんでしょ」
 あたしよりも、小さな女の子。それなのに、とても大人びていた。あにさんや、もしかすると叔父さんよりも。
「私は、美咲みさき。彰子、よく聞いて」
 どうして名前を知っているんだろうと、思った。
 雨で、桜は散ってしまわないだろうか。
「あなたは強いから、この先も『生きて』いく権利が与えられたの。どうする? このまま死ぬのも、一つの方法よ。こんな生活、いいことばかりじゃないんだから」
 何故か辛そうな美咲の瞳を見ながら、頭から、あの場面が消えなかった。―――あたしが、死んでいた。ナイフで、刺されて。血で真っ赤だった。優しい、人だったのに。どうして?
 美咲は、話を続けていた。難しいことをたくさん言っていたけど、よくはわからなかった。
 でも。
「生きたい」
 一瞬、美咲の顔から表情が消えた。
「生きたい。こんなので終わるなんて、いやよ」
 美咲が言ったように、あにさんたちと暮らすことができなくても。生きたいと、ただ、そう思った。  
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