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新たな門出の先にあるもの
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翌日の宴の席は、表面上の華やかさとは裏腹に重苦しい緊張感に支配されていた。
初夜を終えた新郎は明らかに不機嫌で、そんなリュカの態度に新婦も萎縮して青ざめている。昨日の和やかな態度が嘘のように、二人の間には──というよりリュカから一方的に──険悪な空気が流れていた。
藤千代はなるべくリュカが視界に入らないよう裏方の作業に徹していたが、明け方に部屋を訪れた時の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。
どんなに忙しくても、何をしていてもあの時のリュカの表情がよみがえる。
耐えきれずに広間の奥をそっと窺うと、リュカは苛立ちの浮かんだ顔で酒ばかり呷っていた。
主役らしからぬ態度に呆れるが、リュカとしては酒の力を借りてでも昨夜のことを考えたくなかった。
寝所の扉が閉められた途端、リュカは忌々しそうに舌打ちを漏らした。
新郎新婦が同衾するのを親族や教会の関係者が見届けて、初めて結婚が成立する。さすがに行為を見られるわけではないが、皆がこの後のことを想像しているのかと思うと、おぞましさに顔が歪む。
「気色悪い」
小声で吐き捨て、仰向けのまま隣に横たわる少女へ視線を向けた。
この時初めて、リュカは妻の顔をまともに見た。
目鼻立ちは整っているが、華やかな閔の宮廷で過ごしたリュカからすると、いかにも田舎の娘といった風情だった。
それは悪い意味ではなく、その純朴そうな姿がリュカには好ましく思えた。だから、緊張しているであろう新婦に対して、なるべく優しく接したつもりだった。
自分の意思とは関係なく、顔も知らない相手と結婚させられるのはお互い様だ。リュカは娘に対して、この望まない結婚生活を乗り切る同志のような気持ちを抱いていた。
「お前は嫌じゃないのか」
強張った顔で天井を見つめる妻のダーリヤへ、リュカは声をかけた。
ダーリヤはぎこちなく顔を傾けると、目を伏せて口を開いた。
「……本当のことを言えば、結婚はしたくありませんでした」
リュカもダーリヤへ体を向けて、暗闇の中で話を聞く。
「旦那様は高貴なお方ですから、わたしなんかに妻の役目が勤まるわけがないと……。でも今日、初めて旦那様を見て、なんてお綺麗な、天使様のようなお方なんだろうって、びっくりしたんです。旦那様が結婚のお相手で、わたしは本当に幸せ者です」
ダーリヤは伏せていた目を開くと、うっとりとした表情でリュカを見つめた。
暗闇に光るその目に、リュカは肌の上を虫が這い回るような気味の悪さを感じた。
ゾッとして、思わず体ごとダーリヤから目を背ける。自分と同じ境遇だと同情していただけに、手ひどく裏切られたような気分だった。
遠慮がちに伸ばされたダーリヤの指先が、そっとリュカの手を掴んだ。
おぞましさで硬直したリュカの腕に、女の体が密着する。薄い下着越しに感じる肌はぶよぶよと柔らかく、女の匂いとしか形容しようのない体臭に吐き気が込み上げてくる。
ダーリヤは、リュカがジッと動かないのを緊張のせいと判断し、自ら下着を脱いで裸になった。指先まで冷え切ったリュカの手を取り、乳房に押し当てる。
重そうに垂れ下がった脂肪に指先が埋まり、その柔らかすぎる感触に、リュカは弾かれたように手を離した。
「旦那様……」
暗闇の中で、不安げな声が揺らめく。
白い肌が亡霊のように浮かび、リュカへと手を伸ばした。
迫り上がる不快感に反して、リュカは引き寄せられるようにその肌へ体を重ねた。
身が竦むほどの嫌悪を感じているのに、凄まじく暴力的な性欲に全身が支配される。
リュカは痛いくらいに勃ち上がった陰茎を、本能のようにダーリヤの中へと挿入した。
中の熱さと、女の体内に飲み込まれる恐怖と、ぬめぬめと絡みつく肉の感触の気持ち悪さを感じながら、それを上回る快感に突き動かされて腰を振る。
リュカは目を閉じた。
藤千代はこんな柔らかな体をしていない。
汗ばんだ匂いと、硬い筋肉の感触を必死に思い出した。
腰がじんとして、射精感が込み上げてくる。
痛みを堪えて呻き声を漏らすダーリヤの口を、リュカは手で塞いだ。
宮廷で覗き見た允耀皇子との交合すら思い出して、藤千代のことだけを考えながら、リュカは果てた。
リュカの結婚式が終わってミハイルが都へ帰ると、屋敷はようやく落ち着きを取り戻した。
とはいえ領主の仕事の引き継ぎは、祖父ロジオンの体調次第でなかなか進まない。母のプラスコヴィアに至っては、ミハイルがいなくなるや自室にこもって臥せてしまった。
もっとも、プラスコヴィアは皇帝の子を産んだばかりに嫁に行くこともできず、箱入り娘として暮らしてきたため、女主人の仕事をダーリヤに教えられるわけでもない。
上手くいかないことだらけで、リュカは頭を抱えながら食事の席に着いた。
「……これは?」
リュカは目の前に並べられた皿を指して、家令のレオニドに尋ねた。
食卓にはパンと燻製魚、薄いスープが並べられているだけだった。
「申し訳ございません。今年は気候が悪く不作の年でしたので、このようなものしか用意できず……」
「でも、式の時はあんなに豪勢だったじゃないか」
「陛下がいらっしゃる間は、簡素にというわけにもまいりません。それに、方々からの祝いの品もございましたので……」
言い淀むレオニドを問い詰めるわけにもいかず、リュカは目の前の食事に手をつけた。
閔では冷遇されていたとはいえ、皇子としての待遇を受けていたため、こんなに質素な食事など目にすることもなかった。
「……近場の村だけでも早々に巡回しよう。準備をしてくれ」
リュカはそう言うと、何度目かのため息をついた。
新領主としての領地巡回に家令のレオニドが同行し、家に残ったのは、前領主とはいえ体調のすぐれないロジオンと、深窓の令嬢プラスコヴィアという、なんとも頼りない面々であった。
主人が不在の寒々とした屋敷で、結婚したばかりの女主人ダーリヤは胸元で手を組みながら、おそるおそる『あの……』と声をかけた。
薄暗い貯蔵庫で帳面をつけていた男は、ダーリヤの消え入りそうな声に顔を上げた。
ピンと伸ばした背筋は生真面目そうなのに、真っ黒な瞳は謎めいていて得体の知れなさを感じさせた。
「何かご用ですか?」
異国訛りのある話し言葉は舌足らずで、どこか品のある外見とのちぐはぐさが、余計に捉えどころのない印象を与える。
ダーリヤはしどろもどろになりながら、男の表情をそっと窺った。
「あの……仕事を…………教えてほしくて……」
尻すぼみになりながら呟くと、男は困ったように眉尻を下げた。
「申し訳ございません、奥向きの仕事は詳しくないので、女中頭を呼んでまいりましょう」
そう言って男が立ち去ろうとした時、ダーリヤの目に涙が浮かんだ。
男は動揺する素振りも見せず、落ち着かせるような微笑をダーリヤへ向けた。
「ここではなんですから、場所を変えましょう」
男は他の使用人へ『奥様に在庫の説明をする』と断ってから、食堂へと入った。扉は開けたまま、部屋の外から見えない位置にダーリヤを座らせると、自身も視界を遮るような位置に腰を下ろした。
男の気遣いで、ダーリヤは自分の行動の軽率さに気づき、また涙を滲ませた。
「どうかされましたか?」
発音はたどたどしいが、穏やかな声に促されて、ダーリヤは躊躇いがちに口を開いた。
「本当は……読み書きを教えて欲しくて……」
ダーリヤのその言葉に、あまり表情を変えない男がぴくりと眉を上げた。
「しかし……わたしもまだザロヴィア語は勉強中の身ですから、文字を覚えたいのであれば、プラスコヴィア様にご相談されてはいかがですか?」
俯いたダーリヤの、膝の上で握った手に力が籠もる。
この家で読み書きができるのは主人一家と家令のレオニドくらいだが、リュカの母であるプラスコヴィアは、読み書きができると言っても簡単な日常の単語か、祈りの言葉程度だ。
しかも、愛人であるミハイルが都に戻ってからは一人自室に籠もってため息ばかりついており、とてもダーリヤから話しかけられるような様子ではなかった。
ダーリヤは男へおずおずと視線を向けながら、きつく結んでいた口を開いた。
「……あなたは、旦那様と一緒に閔で学んでいたのよね?」
「閔でご一緒する機会はいただきましたが、共に学んでいたわけではございません」
男は少し困ったような表情を浮かべて答えた。
ダーリヤはどう話していいかわからず、俯いて膝の上の手元を見つめる。また瞼の裏に涙が浮かんでくるが、ぎゅっと唇を噛み締めて堪えた。
「旦那様が戻って来られるまでに、ちょっとでも読み書きできるようになりたいの……」
元々小さな声が、さらに震えてか細くなる。
「閔で学ばれた旦那様はきっと……わたしみたいな学のない女はお嫌いだから……」
言葉にしてしまうと、堪えていた涙が溢れ出した。
男は穏やかな低い声で、ダーリヤに温めた果実水を勧めた。
「旦那様は、そんなことを思う方ではございませんよ」
ダーリヤだってわかっている。
結婚初日に、緊張するダーリヤへ優しく微笑んでくれたリュカがそんな男だとは思えなかった。
「でも、式の日の夜からずっと、目も合わせていただけなくて……巡回にお出かけになるまで、よ……夜も…………仕事部屋に篭っていらっしゃって……わたし、きっと旦那様を怒らせるようなことをしてしまったのだわ……」
リュカが冷たい人だとは思えない。でもそうなると、単に自分が嫌われただけということになってしまう。
相談できる相手もいないダーリヤは、悩んだ末に藁にもすがる思いで男に声をかけたのだ。
男は黙って話を聞いていたが、静かに立ち上がると部屋に置いてあった紙とペンを取り、ダーリヤの前に置いた。
「旦那様が戻ってくるまでに、旦那様と奥様のお名前を書けるようになりましょうか」
男はそう言うと、底知れない闇のような黒い瞳でダーリヤを見つめた。
リュカが屋敷に戻ってきた時には、すでに夜半を過ぎていた。村でもう一泊してもよかったのだが、早く帰りたくてこんな時間になってしまった。
リュカは愛馬のシミュヨンを厩舎に戻すと、すぐに藤千代の部屋へと向かった。
巡回中、胸に浮かぶのは藤千代のことばかりだった。
藤千代への反発はある。けれど、喧嘩別れのように巡回に出てしまったことは後悔していた。
薄暗い廊下で部屋の扉を叩くが、中からはなんの反応もなかった。
睡眠時間が短い藤千代ならまだ起きているかと思っていたが、部屋に入ると中は真っ暗でベッドに仰向けになった影が見えるだけだった。
小さな明かりを灯して、横たわる藤千代を見つめる。閉じた睫毛の下には、濃い隈が浮かんでいた。
ザロヴィアまで共に旅した時に気づいたことだが、藤千代はとても眠りが浅く、ちょっとした物音で目を覚ます。それなのに、こうしてリュカがそばにいても起きないとは、よほど疲れているのだろうか。
「俺のせい……?」
リュカはベッドのそばにしゃがみ込むと、シーツに頬を乗せて藤千代の寝顔を見つめた。
微かな寝息を立てる鼻先を、小さな木彫りの黒猫でつつく。
手のひらに乗るほどの素朴な置物は、巡回先の村で新領主に贈られた祝いの品だった。
ザロヴィアでは猫──特に黒猫は、守り神の使いとされている。艶めく黒色に塗られた猫は藤千代のようで、リュカは巡回中ずっとそれを手元に置いていた。
薄く開いた無防備な唇を見つめ、ザロヴィアへ向かう幕舎の中で藤千代に接吻されたことを思い出す。その記憶で何度も自慰をしたせいで、条件反射のように下半身が疼いた。
リュカは藤千代を見つめながら、下着の中に手を差し入れた。
そこはすでに頭をもたげていて、指先が触れただけで硬く勃ち上がった。リュカは暗闇に浮かぶ藤千代の横顔を見つめながら、自分のものを扱いた。
藤千代が目を覚ますかもしれないという緊張感と、こんな姿を見られて何もかもめちゃくちゃになってしまいたいという思いが入り乱れる。
手の中に熱い精を放ってしまうと、急速に心が冷えていくのを感じた。射精の快感は、欲望に負けて妻を抱いてしまった後悔と結びついていた。
もし藤千代が初めての相手だったなら、それはきっと幸せな記憶になったはずだ。
ただ藤千代のためになりたかっただけなのに、どうしてこんな関係になってしまったのだろう。
リュカが達しても、藤千代は静かに眠ったままだった。
「こっちを見てよ……」
リュカの呟きに、藤千代の睫毛が震えた。うっすらと目が開いた瞬間、藤千代はバッと体を起こした。
「あ…………おかえりなさいませ……」
リュカに気づいた藤千代が、気まずげに呟いた。
「……随分ぐっすり眠ってたな」
「おかえりに気づかず、申し訳ございません。よく眠れるという薬草茶が効いたようで、お迎えもできず……」
リュカは藤千代の警戒するような態度に、心が暗く沈み込んでいくのを感じた。
「今日帰るとは知らせていなかったから、別にいい」
本当はもっと言いたいことがあったはずなのに、藤千代を前にするとうまく話せなくなってしまう。
リュカは唇を噛み締めて部屋を出た。
藤千代は突き放すように閉まった扉をしばらく見つめていたが、ベッドに転がる木彫りの猫に気づくと、それを手にとって眺めた。
初夜を終えた新郎は明らかに不機嫌で、そんなリュカの態度に新婦も萎縮して青ざめている。昨日の和やかな態度が嘘のように、二人の間には──というよりリュカから一方的に──険悪な空気が流れていた。
藤千代はなるべくリュカが視界に入らないよう裏方の作業に徹していたが、明け方に部屋を訪れた時の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。
どんなに忙しくても、何をしていてもあの時のリュカの表情がよみがえる。
耐えきれずに広間の奥をそっと窺うと、リュカは苛立ちの浮かんだ顔で酒ばかり呷っていた。
主役らしからぬ態度に呆れるが、リュカとしては酒の力を借りてでも昨夜のことを考えたくなかった。
寝所の扉が閉められた途端、リュカは忌々しそうに舌打ちを漏らした。
新郎新婦が同衾するのを親族や教会の関係者が見届けて、初めて結婚が成立する。さすがに行為を見られるわけではないが、皆がこの後のことを想像しているのかと思うと、おぞましさに顔が歪む。
「気色悪い」
小声で吐き捨て、仰向けのまま隣に横たわる少女へ視線を向けた。
この時初めて、リュカは妻の顔をまともに見た。
目鼻立ちは整っているが、華やかな閔の宮廷で過ごしたリュカからすると、いかにも田舎の娘といった風情だった。
それは悪い意味ではなく、その純朴そうな姿がリュカには好ましく思えた。だから、緊張しているであろう新婦に対して、なるべく優しく接したつもりだった。
自分の意思とは関係なく、顔も知らない相手と結婚させられるのはお互い様だ。リュカは娘に対して、この望まない結婚生活を乗り切る同志のような気持ちを抱いていた。
「お前は嫌じゃないのか」
強張った顔で天井を見つめる妻のダーリヤへ、リュカは声をかけた。
ダーリヤはぎこちなく顔を傾けると、目を伏せて口を開いた。
「……本当のことを言えば、結婚はしたくありませんでした」
リュカもダーリヤへ体を向けて、暗闇の中で話を聞く。
「旦那様は高貴なお方ですから、わたしなんかに妻の役目が勤まるわけがないと……。でも今日、初めて旦那様を見て、なんてお綺麗な、天使様のようなお方なんだろうって、びっくりしたんです。旦那様が結婚のお相手で、わたしは本当に幸せ者です」
ダーリヤは伏せていた目を開くと、うっとりとした表情でリュカを見つめた。
暗闇に光るその目に、リュカは肌の上を虫が這い回るような気味の悪さを感じた。
ゾッとして、思わず体ごとダーリヤから目を背ける。自分と同じ境遇だと同情していただけに、手ひどく裏切られたような気分だった。
遠慮がちに伸ばされたダーリヤの指先が、そっとリュカの手を掴んだ。
おぞましさで硬直したリュカの腕に、女の体が密着する。薄い下着越しに感じる肌はぶよぶよと柔らかく、女の匂いとしか形容しようのない体臭に吐き気が込み上げてくる。
ダーリヤは、リュカがジッと動かないのを緊張のせいと判断し、自ら下着を脱いで裸になった。指先まで冷え切ったリュカの手を取り、乳房に押し当てる。
重そうに垂れ下がった脂肪に指先が埋まり、その柔らかすぎる感触に、リュカは弾かれたように手を離した。
「旦那様……」
暗闇の中で、不安げな声が揺らめく。
白い肌が亡霊のように浮かび、リュカへと手を伸ばした。
迫り上がる不快感に反して、リュカは引き寄せられるようにその肌へ体を重ねた。
身が竦むほどの嫌悪を感じているのに、凄まじく暴力的な性欲に全身が支配される。
リュカは痛いくらいに勃ち上がった陰茎を、本能のようにダーリヤの中へと挿入した。
中の熱さと、女の体内に飲み込まれる恐怖と、ぬめぬめと絡みつく肉の感触の気持ち悪さを感じながら、それを上回る快感に突き動かされて腰を振る。
リュカは目を閉じた。
藤千代はこんな柔らかな体をしていない。
汗ばんだ匂いと、硬い筋肉の感触を必死に思い出した。
腰がじんとして、射精感が込み上げてくる。
痛みを堪えて呻き声を漏らすダーリヤの口を、リュカは手で塞いだ。
宮廷で覗き見た允耀皇子との交合すら思い出して、藤千代のことだけを考えながら、リュカは果てた。
リュカの結婚式が終わってミハイルが都へ帰ると、屋敷はようやく落ち着きを取り戻した。
とはいえ領主の仕事の引き継ぎは、祖父ロジオンの体調次第でなかなか進まない。母のプラスコヴィアに至っては、ミハイルがいなくなるや自室にこもって臥せてしまった。
もっとも、プラスコヴィアは皇帝の子を産んだばかりに嫁に行くこともできず、箱入り娘として暮らしてきたため、女主人の仕事をダーリヤに教えられるわけでもない。
上手くいかないことだらけで、リュカは頭を抱えながら食事の席に着いた。
「……これは?」
リュカは目の前に並べられた皿を指して、家令のレオニドに尋ねた。
食卓にはパンと燻製魚、薄いスープが並べられているだけだった。
「申し訳ございません。今年は気候が悪く不作の年でしたので、このようなものしか用意できず……」
「でも、式の時はあんなに豪勢だったじゃないか」
「陛下がいらっしゃる間は、簡素にというわけにもまいりません。それに、方々からの祝いの品もございましたので……」
言い淀むレオニドを問い詰めるわけにもいかず、リュカは目の前の食事に手をつけた。
閔では冷遇されていたとはいえ、皇子としての待遇を受けていたため、こんなに質素な食事など目にすることもなかった。
「……近場の村だけでも早々に巡回しよう。準備をしてくれ」
リュカはそう言うと、何度目かのため息をついた。
新領主としての領地巡回に家令のレオニドが同行し、家に残ったのは、前領主とはいえ体調のすぐれないロジオンと、深窓の令嬢プラスコヴィアという、なんとも頼りない面々であった。
主人が不在の寒々とした屋敷で、結婚したばかりの女主人ダーリヤは胸元で手を組みながら、おそるおそる『あの……』と声をかけた。
薄暗い貯蔵庫で帳面をつけていた男は、ダーリヤの消え入りそうな声に顔を上げた。
ピンと伸ばした背筋は生真面目そうなのに、真っ黒な瞳は謎めいていて得体の知れなさを感じさせた。
「何かご用ですか?」
異国訛りのある話し言葉は舌足らずで、どこか品のある外見とのちぐはぐさが、余計に捉えどころのない印象を与える。
ダーリヤはしどろもどろになりながら、男の表情をそっと窺った。
「あの……仕事を…………教えてほしくて……」
尻すぼみになりながら呟くと、男は困ったように眉尻を下げた。
「申し訳ございません、奥向きの仕事は詳しくないので、女中頭を呼んでまいりましょう」
そう言って男が立ち去ろうとした時、ダーリヤの目に涙が浮かんだ。
男は動揺する素振りも見せず、落ち着かせるような微笑をダーリヤへ向けた。
「ここではなんですから、場所を変えましょう」
男は他の使用人へ『奥様に在庫の説明をする』と断ってから、食堂へと入った。扉は開けたまま、部屋の外から見えない位置にダーリヤを座らせると、自身も視界を遮るような位置に腰を下ろした。
男の気遣いで、ダーリヤは自分の行動の軽率さに気づき、また涙を滲ませた。
「どうかされましたか?」
発音はたどたどしいが、穏やかな声に促されて、ダーリヤは躊躇いがちに口を開いた。
「本当は……読み書きを教えて欲しくて……」
ダーリヤのその言葉に、あまり表情を変えない男がぴくりと眉を上げた。
「しかし……わたしもまだザロヴィア語は勉強中の身ですから、文字を覚えたいのであれば、プラスコヴィア様にご相談されてはいかがですか?」
俯いたダーリヤの、膝の上で握った手に力が籠もる。
この家で読み書きができるのは主人一家と家令のレオニドくらいだが、リュカの母であるプラスコヴィアは、読み書きができると言っても簡単な日常の単語か、祈りの言葉程度だ。
しかも、愛人であるミハイルが都に戻ってからは一人自室に籠もってため息ばかりついており、とてもダーリヤから話しかけられるような様子ではなかった。
ダーリヤは男へおずおずと視線を向けながら、きつく結んでいた口を開いた。
「……あなたは、旦那様と一緒に閔で学んでいたのよね?」
「閔でご一緒する機会はいただきましたが、共に学んでいたわけではございません」
男は少し困ったような表情を浮かべて答えた。
ダーリヤはどう話していいかわからず、俯いて膝の上の手元を見つめる。また瞼の裏に涙が浮かんでくるが、ぎゅっと唇を噛み締めて堪えた。
「旦那様が戻って来られるまでに、ちょっとでも読み書きできるようになりたいの……」
元々小さな声が、さらに震えてか細くなる。
「閔で学ばれた旦那様はきっと……わたしみたいな学のない女はお嫌いだから……」
言葉にしてしまうと、堪えていた涙が溢れ出した。
男は穏やかな低い声で、ダーリヤに温めた果実水を勧めた。
「旦那様は、そんなことを思う方ではございませんよ」
ダーリヤだってわかっている。
結婚初日に、緊張するダーリヤへ優しく微笑んでくれたリュカがそんな男だとは思えなかった。
「でも、式の日の夜からずっと、目も合わせていただけなくて……巡回にお出かけになるまで、よ……夜も…………仕事部屋に篭っていらっしゃって……わたし、きっと旦那様を怒らせるようなことをしてしまったのだわ……」
リュカが冷たい人だとは思えない。でもそうなると、単に自分が嫌われただけということになってしまう。
相談できる相手もいないダーリヤは、悩んだ末に藁にもすがる思いで男に声をかけたのだ。
男は黙って話を聞いていたが、静かに立ち上がると部屋に置いてあった紙とペンを取り、ダーリヤの前に置いた。
「旦那様が戻ってくるまでに、旦那様と奥様のお名前を書けるようになりましょうか」
男はそう言うと、底知れない闇のような黒い瞳でダーリヤを見つめた。
リュカが屋敷に戻ってきた時には、すでに夜半を過ぎていた。村でもう一泊してもよかったのだが、早く帰りたくてこんな時間になってしまった。
リュカは愛馬のシミュヨンを厩舎に戻すと、すぐに藤千代の部屋へと向かった。
巡回中、胸に浮かぶのは藤千代のことばかりだった。
藤千代への反発はある。けれど、喧嘩別れのように巡回に出てしまったことは後悔していた。
薄暗い廊下で部屋の扉を叩くが、中からはなんの反応もなかった。
睡眠時間が短い藤千代ならまだ起きているかと思っていたが、部屋に入ると中は真っ暗でベッドに仰向けになった影が見えるだけだった。
小さな明かりを灯して、横たわる藤千代を見つめる。閉じた睫毛の下には、濃い隈が浮かんでいた。
ザロヴィアまで共に旅した時に気づいたことだが、藤千代はとても眠りが浅く、ちょっとした物音で目を覚ます。それなのに、こうしてリュカがそばにいても起きないとは、よほど疲れているのだろうか。
「俺のせい……?」
リュカはベッドのそばにしゃがみ込むと、シーツに頬を乗せて藤千代の寝顔を見つめた。
微かな寝息を立てる鼻先を、小さな木彫りの黒猫でつつく。
手のひらに乗るほどの素朴な置物は、巡回先の村で新領主に贈られた祝いの品だった。
ザロヴィアでは猫──特に黒猫は、守り神の使いとされている。艶めく黒色に塗られた猫は藤千代のようで、リュカは巡回中ずっとそれを手元に置いていた。
薄く開いた無防備な唇を見つめ、ザロヴィアへ向かう幕舎の中で藤千代に接吻されたことを思い出す。その記憶で何度も自慰をしたせいで、条件反射のように下半身が疼いた。
リュカは藤千代を見つめながら、下着の中に手を差し入れた。
そこはすでに頭をもたげていて、指先が触れただけで硬く勃ち上がった。リュカは暗闇に浮かぶ藤千代の横顔を見つめながら、自分のものを扱いた。
藤千代が目を覚ますかもしれないという緊張感と、こんな姿を見られて何もかもめちゃくちゃになってしまいたいという思いが入り乱れる。
手の中に熱い精を放ってしまうと、急速に心が冷えていくのを感じた。射精の快感は、欲望に負けて妻を抱いてしまった後悔と結びついていた。
もし藤千代が初めての相手だったなら、それはきっと幸せな記憶になったはずだ。
ただ藤千代のためになりたかっただけなのに、どうしてこんな関係になってしまったのだろう。
リュカが達しても、藤千代は静かに眠ったままだった。
「こっちを見てよ……」
リュカの呟きに、藤千代の睫毛が震えた。うっすらと目が開いた瞬間、藤千代はバッと体を起こした。
「あ…………おかえりなさいませ……」
リュカに気づいた藤千代が、気まずげに呟いた。
「……随分ぐっすり眠ってたな」
「おかえりに気づかず、申し訳ございません。よく眠れるという薬草茶が効いたようで、お迎えもできず……」
リュカは藤千代の警戒するような態度に、心が暗く沈み込んでいくのを感じた。
「今日帰るとは知らせていなかったから、別にいい」
本当はもっと言いたいことがあったはずなのに、藤千代を前にするとうまく話せなくなってしまう。
リュカは唇を噛み締めて部屋を出た。
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