冷徹公爵が無くした心で渇望したのは愛でした

茜部るた

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渇望 2

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 その日からゲイルは何かと赤子の様子を観察した。
 正確には、赤子を世話するマリアの様子を。

 赤子はマリア以外誰も世話をする人間がいないので、彼女はメイドの仕事をしながらいつも籠に入れ連れ歩いている。
 掃除をする時は埃を被らないように籠の持ち手から薄布をかけてやり、作業の合間にむずがると抱き上げてあやす。
 相変わらず乳は出ないようで、腹が減った時は厩舎の家屋に駆け込んでいるようだった。
 おしめを取り換えるとまたあの笑みであやす。
 籠の中で「あうー」と言えば彼女も「あうー」と返事をし、眠ると額に柔らかなキスを落とすのだ。

 母の愛情と言うのは、誰しもこういうものなのだろうか。
 自分はどうだったろうか。

 寒い。
 また寒くなって来た。
 胸から背中に広がり、腹の方まで落ちてくる。
 指先が氷になってしまう気がして、思わず手をすり合わせた。

 窓に映った自分はまるで神にでも祈るような姿をしていた。

『心と同じく身も凍てつき、1人死んでいくのだ』

 あの大いなる声が言った言葉が蘇る。
 
 嫌だ。
 どうしてだ。
 どうして俺は誰も愛してくれなかった。

 あの優しい腕に1度抱かれてみたい。
 何もしなくても微笑みかけて欲しい。
 柔らかな声で呼んで欲しい。
 もっと…
 もっと愛が欲しかった。

 母に甘えたくて教師の言う事を必死に覚えた。
 父に褒めて欲しくて手に鞭が飛んできてもピアノを弾き続けた。

 誰よりも強くなれと言われ、豆が潰れ皮が剥けても剣を握り続けた。
 その日の夕食はナイフとフォークが持てなかった。
 うまく扱えず取り落せば咎められ、食事は下げられた。

 何をしても、どれほど努力を重ねても、「当たり前」と言われ誰も褒めなかった。
 
 愛などどこにあると言うのか。
 幼き日に心を捨てておいてよかった。
 あれから楽しいと思うことは皆無だが、心が痛むと言うことは無くなった。
 
 無くなったはずなのだ。
 だから生まれて間もない赤子ごときに嫉妬することなど何もない。
 
 なのに、どうして、今これほど渇望する。

 眠れぬ夜は久々だった。

 心を捨てるまではうまく眠ることが出来なかった。
 疲れ果て眠っても、夜中に恐ろしい夢で目が覚めてしまうのだ。
 泣いたところで誰か来るわけでもない。
 あの赤子のように添い寝をしてくれるものなど誰もいなかった。
 
 寒い。
 どうしようもなく寒い。
 寝室の暖炉の火は落ちかけている。
 談話室の暖炉は出来るだけ火を落とさないようにさせている。
 暖炉にあたっても無意味なことは分かっているが、それでも揺れる炎を眺めたかった。

 談話室へ向かうと、隙間の開いた扉から女の声が聞こえた。
 この柔らかな声はマリアだ。
 少しだけ扉を押しやり、隙間から中を伺った。

 彼女は湯上りなのか髪を下ろし暖炉の前で櫛を入れていた。
 赤子の「あう」と言う声が聞こえたと言うことは、まだ寝ついていないのだろう。

「あうあう、今日はねんねが遅いのね。もう少し待ってね。髪を乾かしてしまうから」

「あう」

「ソレット、あなたはママがいなくてもいい子ね。あなたのママはどうしてるのかしらね。ずっと離れていて寂しくないかしらね」

「この赤子はお前の子ではないのか」

 誰もいないと思った部屋に主の声が響き、マリアは驚きで櫛を落としてしまった。
 本来ならこんなところで髪を梳いていていいものではない。
 使用人は使用人の部屋に引っ込むべきだ。
 だが暖炉のない使用人部屋では、真冬の行水で冷えきった体を温めることは難しかった。
 火の落ちないこの部屋で、主が寝てからこっそり体を温め、髪を乾かし、それから寝ようと思っていた。

「旦那様、申し訳ございません。すぐに部屋に戻ります」

「聞いているのだ。その赤子はお前の子ではないのか」

 よく見れば夜着の女は震えている。
 まだ乾ききらない髪を背中に落とし、唇は紫だ。

 湯上りで暖炉の前にいるのになぜ?

「嘘をついておりました。この子は私の子ではありません」

「乳が出ないのもそういう訳か」

「はい」

「どうして雪の中他人の赤子を連れ歩いた。もしや誘拐か? 城のメイドと言うのも嘘か?」

「違います! 城では主に西館の担当をしておりました。この子は…この子はあるお方に託されました。詳細は存じません。たださる尊いご身分の方に届けよと、そう言われました」

 あるお方も、さる尊いご身分の方も気にならないわけではない。
 だが今ゲイルの一番の感心はそこではない。

 何故見知らぬ赤子に無償の愛を注げるのか。

「何故だ。何故自分の子ですらないのにそんなに大事にできる。何故身を犠牲にしてまで守ろうとする」

「赤子は1人では生きられません。私が託されたのだから私が傍にいなければ死んでしまいます」

「お前に責任があるのか?」

「なくても、赤子を見殺しにはできません」

「そんな身を粉にして…手はボロボロ、ここに来た時は足も血だらけだったではないか。嫌がらせのように地下室に押し込められ…人生を無駄にしてると思わないのか?」

「実母から離されているというのに、時々笑うんです。それが可愛くて、幸せで。幸せは人生の無駄ではございません」

「理解できん」

 どうしてだ。
 どうして無心に愛せる。
 見返りのない奉仕などあるわけがない。

 体を襲う冷気が増した。
 内側が尋常じゃないほど寒い。
 いつしかゲイルは何も感じないはずの心の声を叫んでいた。

「どうして赤の他人が言葉も通じぬ赤子などに愛を注ぐ! 俺にはただの1度も与えられたことが無かったというのに!」

 突然激昂した主を、マリアは驚くわけでもなく哀しい目で見ていた。
 
 ああ、この人は愛をどこかに忘れてきてしまったんだ。
 愛を感じたことのない心だから、愛する事も愛される事もわからなくなってしまったんだ。
 屋敷が冷たく感じるのも、あなた様がそうして寒さを感じるのも、全てその愛を欲するが故なのでしょうか。

「俺が……愛が欲しいだと?」

 ゲイルの心は完全に無くなったわけではなかった。
 その残った心で増幅させたのは、愛ではなく怒りと哀しみ、そして愛への憧れだったのかもしれない。
 彼の心はもう手遅れなほど冷え切っていた。

「赤子のように無償の愛が欲しいというのか…」

 赤子はゲイルが声を荒らげたというのに眠っていた。
 憎らしいほど静かに、幸せに寝ている。
 全てはマリアのお陰というのか?
 彼女が無償の愛を注ぐから幸せに見えるのか。

「誰に届けるはずだったのだ」

 マリアは答えてよいものか迷った。
 うかつに出していい名ではないはずだ。

「先方も待っているのだろう。誰に届けるのだ」

「ユーゴ・ウェンティア公爵閣下です」

「俺に…?」

「ゲイル様?」

「ふ…そうか。そういうことか」

 主の中では何か合点がいったらしい。
 彼はうすら寒い笑みを浮かべると、ソファに身を沈めた。

「わかったぞ…あの声…この赤子は神の御使いということか。俺の残りの心を全て取りに来たあの日の神か」

「ゲイル様…?」

「ゲイルは別邸での仮の名だ。本名はユーゴ・ウェンティア。お前が赤子を届けようとしたのは俺だ。ふっ…神よ、どういうつもりだ」

 彼は自嘲するように笑うと、籠の赤子を見た。
 そしてそのまま己の過去を話し始める。

「俺は子供の頃に心を捨てた。神に頼み、喜びもいらないから悲しみも消してくれと」

「そんな…」
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