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渇望
しおりを挟む「あうあ」
「あうあうー。おしゃべりじょうずね」
「うーうーうー」
「うんうん。うーうーだねー」
赤子と母の間では当たりまえかもしれないやり取りを、ゲイルは不思議な目で見ていた。
言葉など成立しておらず、一体何を会話しているというのか。
マリアは満面の笑みで赤子の「あ」と「う」に返事していた。
「それになんの意味があるのだ」
「旦那様っ」
誰もいない談話室を掃除していたマリアは、ソレットが何かを話し始めたのを聞いてはたきを置いた。
暖炉の傍に置いたソレットの入る籠に行くと、ご機嫌でお喋りをする赤子を構い始める。
まさかそこに主が来るとは思わず、突然話しかけられた彼女はびっくりして振り向いた。
ゲイルはよく談話室のソファにいることが多い。
彼女は部屋を使うのかと思い急いでソレットの籠を持った。
「失礼いたしました。何かご入用でしたらお持ちいたしますが」
「いい。気にするな」
初対面の時に比べていくらか柔和な態度になったゲイルは、まだ「あうあう」言っている赤子の籠を見た。
「すぐに出て行きますので」
「気にするなと言った。お前は何を赤子と話していたのだ」
「話をしていたわけではございません。声を出しているのが可愛くて、私が赤子の真似をしていただけでございます」
「声を出すのが可愛いのか」
「赤子は最初は泣くことしか出来ません。それが声を出すようになったのです。私にはその成長が可愛く思えました」
成長はするのが当たり前でその当たり前の現象が可愛いと言うのか。
ゲイルには全くその発想はなく、マリアの言うことが理解できなかった。
赤子は籠の中で「うううーっ」と言いながら蠢いている。
「“ううう”はどういう意味だ」
「“ううう”は“ううう”です。でもきっと今は抱っこをして欲しいんだと思います」
籠の中の赤子を覗く。
ついさっきまで機嫌よく話していたらしいが、もぞもぞと動き顔がしわしわになっていた。
これが抱っこで治まるのだろうか。
「許す。赤子を抱いてみろ」
「ありがとうございます」
マリアは籠を置くと、おくるみごとソレットを胸に抱いた。
ゲイルと会話をする時は固い彼女の表情が、赤子を抱いた途端に柔らかな笑みになった。
ただ腕の中に収まっただけであの笑みを向けられるとは、赤子はどんな特権を持っているのか。
赤子を抱き軽く背中を叩いてやると、あのしわしわだった顔は元の表情に戻りまた「あうあう」言い始めた。
彼女は右手の甲でそっと赤子の頬を撫でた。
「なぜ甲なのだ」
「私の指先は荒れております。赤子の肌が傷つけば可哀相です」
自分では何もできない小さな生き物は、ただそこに存在しているだけで無償の愛を向けられるようだった。
解せぬ。
ゲイルの胸を、またあの冷えた感覚が吹き抜けた。
近頃少し範囲が広がった気がする。
胸だけでなく、背中まで広がっていくようだった。
彼は思わず片手で自分を抱くように腕を掴んだ。
「旦那様? またお寒いのですか? 何かご病気なのでしょうか」
「お前には関係ない」
「差し出がましくて申し訳ございません。……何か上着をお持ちしましょうか」
「いらぬ。そんなものに意味はない」
そう言うと彼は暖炉の一番傍のソファに腰を降ろした。
マリアはふと、雪の中でも赤子を抱いた胸だけは温かかったことを思い出す。
主も赤子を抱いたら温かいだろうか。
「旦那様…」
「なんだまだいたのか」
「この子を抱いてみませんか?」
「赤子などいらん」
「無理にお勧めするわけではございませんが、私は赤子を抱くと幸せな気持ちになります。それに赤子は体温が高くて、冷たい地下でも寄り添えばあったかいんです」
「…地下?」
「はい。地下にお部屋を頂きました」
「使用人の部屋は余っているのに?」
「分かりません。そのお部屋を頂いたので」
2人して不思議な顔をする。
間で赤子だけ変わらず「あうー」と声を出していた。
「ずっと今まで地下で過ごしていたのか? この寒さで?」
「雪と風を凌げるだけありがたいかと…」
この屋敷に使用人はほとんどいない。
ここは別邸なので元々多数雇っていない。
前はもう少し多かったが、どういうわけか次々辞めてしまった。
つまり使用人の部屋は十分すぎるほどある。
何故ベスは地下など与えたのか。
何故そんなぞんざいな扱いを。
いや、最初にぞんざいな扱いをしたのは自分だったような気がする。
この「あ」と「う」しか言えない赤子と、足の擦り切れた女を雪の中放り出した。
「言っておく。今日からまともな部屋を使え」
「ありがとうございます。この子が風邪を引いたらどうしようかとずっと思っていたのでこれで安心しました」
マリアが心底ほっとしたような顔をする。
自分より赤子なのだな。
そんなに赤子は尊いものなのか。
ふと赤子に興味が沸いた。
「どうやって抱くのだ」
「旦那様……。腕を…大きなかぼちゃを片手で抱くようにして頂けますか」
「こうか?」
「はい。そこに赤子を乗せますね。右手はこうです」
ゲイルが構えた腕に赤子をそっと乗せると、赤子が驚かないようにすぐには手を離さず背中を支えた。
それから彼女がそっと腕を抜いたが、ソレットは相変わらず「あうー」の練習をしていた。
「温かいでしょう?」
マリアは何が嬉しいのか、赤子にだけ向けていた笑顔をゲイルに向けた。
至近距離にいる彼女の笑みが、体を蝕んでいた寒さを一息で払ったようだった。
「温かい…」
赤子ではなく、マリアの笑みが。
赤子を抱いた瞬間ではない。彼女の笑みを見た瞬間だ。
赤子よ。
お前が羨ましい。
なぜ俺には1人も、あんな笑みを向けてくれる人間がいなかったのか。
温かいと言ったゲイルの表情が、すぐに曇ったのをマリアは見た。
「旦那様…? やはりご不快でしたか?」
マリアは差し出された赤子を受け取る。
なぜ主は急に浮かない顔になったのだろう。
「もう下がれ」
理由はわからなかったが、マリアはもう下がる他なかった。
少しだけ温度が通った気がしたのに、また室内に冷気が漂うような気がした。
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