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◆ 第1章

7. 新妻が眠ったあとで(将斗視点)

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「……七海」

 気力も体力も使い果たしたのだろう。将斗の腕の中で糸が切れたように眠ってしまった七海の寝顔を見つめて、そっと名前を呼ぶ。

 うっすらと汗ばんでいるせいか、前髪が額に張りついている。それを指先で優しく払いのけてみると、寝落ちした七海が意外にも穏やかに眠っていることに気づいて思わず小さな笑みが零れた。

 寝顔を見たのははじめてだが、目を閉じた七海は普段よりも少し幼い印象がある。後から寝顔が可愛かった、と言ったらどんな反応をするだろうか。照れてそっぽを向くのだろうか。それとも拗ねて唇を尖らせるのだろうか。――どちらでもいい。七海が見せてくれる表情なら、どちらだって。

「ごめんな……あんなことがあって混乱してたのに、ちょっと強引だったな」

 返事がないことは承知の上で語りかける。

 七海には申し訳ないことをしたと思っている。結婚式の真っ最中に花婿が逃亡するという非常事態に見舞われて困っていたとしても、普通ならその場に居合わせた上司として手を差し伸べるだけでよかった。逃げた花婿に代わって挙式を執り行い、披露宴まで行う必要はなかった。そしてなにより、疲労と困惑の最中にいる七海を抱く必要なんてなかったはずだ。

 だが将斗はもう、同じ過ちを繰り返したくない。

(あんな思いをするのは、もうたくさんだ)

 将斗は七海に二つだけ嘘をついた。

 一つはこの結婚が〝偽装〟であるということ。

 七海は将斗の告白をその場しのぎの嘘だと認識しているはずだが、実際は偽りなんかじゃない。七海を警戒させないために『片想いされてきた〝フリ〟をしろ』と言ったが、チャペルで宣言した台詞も、七海の両親に語った言葉も、すべて将斗の本心だった。

 つまり偽装結婚であることそのものが嘘――『偽装』だと思っているのはこの世でたった一人、七海だけということだ。

 当然、離婚をする気なんて一切ない。それは一年経とうが十年経とうが同じこと。せっかくこうして七海と結婚する権利を得たのだ。将斗はもう、何があっても絶対に七海を手放すつもりはない。

 そしてもう一つ。将斗は先ほど、一年前に七海と慎介が付き合い始めたことで自分の恋心を自覚したと語ったが、将斗が七海を意識するようになったのは、本当はもっと前だった。

 秘書として配属されて以来、完璧に業務を遂行しようとひたむきに努力する七海の姿を好ましく思っていた。将斗のスケジュールの管理、書類の整理から作成、来客対応や電話対応、取引相手の好みの把握とそれに合わせた飲み物やお茶請けや手土産の調達、果ては将斗の身だしなみの管理から健康の管理まで、常に将斗の都合を優先し、献身的に尽くしてくれる。

 困ったときは秘書室長や先輩秘書にアドバイスを求めながらも、将斗の要望に忠実に応えようとする。その健気さにいつの間にか惹かれていた。それが恋愛感情になるまで、そう時間はかからなかった。

 だが将斗の想いの一方で、七海は上司と部下という関係から決して逸脱しないよう振る舞う。常に一歩引いた姿勢を崩さないことが自分に脈がないサインのように思えて、勝手に寂しさともどかしさを感じていた。

 慎介と交際を始める直前まで、七海には別の恋人がいた。大学時代から付き合っているという男性の写真をなにかの雑談の折に見せてもらったことがあるが、中性的な印象の慎介と違い、その男性はどちらかというと顔立ちや背格好が将斗に近い印象だった。

 七海に対して部下を可愛がる気持ち以上の感情を抱いていた将斗は、ほのかな敗北感を感じつつ『おまえ、こういう男が好きなんだな』と七海をからかった。

 てっきり怒ってそっぽを向くと思っていた。予想通りの反応があれば、それで自分も気が済むと思っていた。

 なのに少し照れたように『……まぁ』とはにかんだときの顔が、今でも忘れられない。恋人でもなんでもないというのに、一瞬の間を空けて将斗の胸の中に広がったのは、紛れもない嫉妬の感情だった。

 将斗のからかいは綺麗に受け流す七海が、こうも簡単にペースを乱す相手。その存在がただ疎ましかった。相手の素性なんてよくも知らないくせに、心の中で『早く別れろ』と怨念のように繰り返した。

 そんな将斗の怨念が通じたのだろうか。
 ――いや、違う。おそらく遅かれ早かれ、七海は当時の恋人と終わりを迎えていた。

 七海の恋人は浮気をしていた。しかも七海を含めて五人の女性に同時に手を出していたらしく、今から一年前の十一月中旬、七海は恋人と別れるという結論を出した。

 自分で決めたとはいえ数日間は憔悴して元気がない様子だったが、『別れました』と口にしたきり仕事ではいつも通りだったので、将斗もしばらくは様子を見るつもりだった。

 だから七海の気持ちが落ち着いて元気を取り戻してきたら食事にでも誘って、少しずつ口説き始めようと思っていた。ゆっくりと上司と部下以上の関係を築いていけたら、と考えていた。

 その判断が将斗の致命的なミスになった。

 恋人と別れてから一か月後、社内親睦会という名の忘年会の少し後、七海は総務に在籍する佐久慎介と交際を始めた。

 嘘だろ、と思った。
 冗談じゃない、と声に出た。
 
 予想もしていなかった場所から七海を掻っ攫われたと知ったとき、将斗は目の前が真っ暗になった。注意深く動向を観察していたはずなのに、失恋の反動がこうも容易く新たな恋を呼び寄せるとは思ってもいなかった。七海の気持ちが落ち着くまで待とう、なんて悠長に構えていた自分を呪いたい気分になった。

 とはいえ以前の恋人と慎介は明らかにタイプが違う。ならそのうち別れるだろうと高を括っていのに、半年後に『結婚することになりました』と報告を受けると思うはずがない。

(七海は、知らないだろ)

 七海から『社長に披露宴で挨拶をお願いしたいのですが、だめでしょうか?』と言われたときの絶望を。冗談めかして『俺より先に結婚するなんて生意気だな』と告げながら、必死に作り笑いを浮かべたことを。デスクの下で手のひらに爪が食い込むほど強く手を握って『おまえはもっと慎重な女性だろう、簡単に結婚なんて決めるな』と叫びたい気持ちを懸命に抑えていたことも。

(もうあんな思いはしたくない)

 指をくわえて見ているうちに奪われるなんて、二度とごめんだった。だから将斗は、なんとしてもあの場で七海と結婚するという状況に持ち込みたかった。多少強引な手段になっても、七海が次の恋に向かう隙を一瞬たりとも与えたくなかった。

 披露宴の最中に花婿が逃亡するだなんて、ドラマの見過ぎにもほどがあると思う。そんな馬鹿なことがそう易々と起こるはずがない。

 だがその馬鹿みたいな状況が将斗の目の前で起こった。幸福に満ちた七海の結婚を見届けることで長い片想いに終止符を打つつもりだったのに、ありえない――将斗にとっては千載一遇の僥倖とも呼ぶべき非常事態が起こった。

 慎介に置き去りにされて一人ぼっちになったウェディングドレス姿の七海を見た瞬間、将斗はその場に立ち上がっていた。

(あんなに可愛い花嫁を置き去りにできるなんて、佐久はどうかしてる)

 全身の細胞をフル動員させて、だが表面上は至って冷静であると装って七海の前に立つと、誰よりも自分が一番馬鹿げていると思う提案が次々と湧いてくる。それを天啓だと信じて本能のままに本心を語るが、当の七海は困惑してばかりで将斗の言葉を信じてくれない。

 だから七海の意識を自分へ向けさせることは、すべて後回しにした。元々将斗の片想いだった。三年以上毎日一緒にいて、普段から特別扱いしていると態度で示しているつもりだったのに、一切意識されていなかったのだ。その七海が一朝一夕で振り向いてくれるとは思っていない。

 とにかく今夜は与えられたチャンスに感謝して、七海を誰にも触れさせないようにすることだけに全精力を注いだ。本人にも周りにも『七海は将斗のものだ』と見せつけて示しておくことが最重要事項だった。

「手放す気はないからな、俺は」

 枕に頬杖をついて七海の寝顔を眺めながら呟く。

 混乱と疲労のメーターが振りきっている七海を抱くことに、なんの抵抗もなかったわけではない。本当はもう少し時間を置いてからでもよかったと思う。

 だがこのタイミングを逃せば、七海に『男性として』意識してもらえる確率が格段に落ちる。秘書として完璧に仕事をこなす七海のことだから、間にビジネスパートナーとして接する時間を挟めば、仕事に対する彼女の熱意がプライベートの親密な関係を妨げるだろう。

 婚姻届だけは今日今すぐに、というわけにいかないが、それ以外は名実ともに『夫婦』になっておきたかった。今夜ここで七海を抱かなければ、週明けからまた元のような『上司と秘書』の関係に戻って、そのまま落ち着いてしまっていたと思う。それだけは、なんとしても阻止したかった。

「可愛かったな……」

 眠っている七海の頬を手の甲で撫でつつぽつりと零したのは、将斗の素直な感想だった。

 七海を抱く妄想だけなら何度したのかわからないほどだが、いざその状況になると全然冷静になれなかった気がする。欲望のままに触れたい気持ちと七海を大切にしたい気持ちがせめぎ合って、余裕なんて一切なかった。

 もう一回、と言わずに七海を寝かせてあげられた自分を褒めたいぐらいだ。そのぐらい、七海は身体も声も仕草も反応も可愛かった。

「まあ、元々美人だもんな」

 柏木七海は美しく洗練された印象を受ける女性だ。背中の長さまであるやや明るめの黒髪は、いつも後ろで一つに束ねるか、うなじの近くで丸くお団子にしている。身長が百七十センチ近くあって足も長いせいか、普段はスカートはあまり着用せず、パンツスタイルに低めのヒールを合わせた姿が多い。だがTPOに合わせて華やかな装いをすればどこか可愛らしい印象にも変わるので、七海の変化にいつも驚かされる将斗だ。

「一年か……短いな」

 そんな七海の意識を自分に向けさせるために与えられた期間は、たったの一年。その間に七海に好きになってもらえなければ、将斗はこの手を離さなければいけなくなる。

 いや、十分だ。
 慎介との交際を聞かされてからの一年間を思えば、婚姻関係にある今の方がずっと手の尽くしようがある。

 七海に警戒されないよう少しずつ触れて、想いを散りばめて、愛の言葉を仕込んで。いっぱい撫でて、存分に甘やかして、何度も見つめ合えば、いつか七海も将斗の気持ちに気づくだろう。

 想いを知った七海から好きになってもらえるかどうかはすべて将斗次第だが、努力は惜しまないつもりだ。

「大切にする……だから早く、俺に惚れてくれ」

 新妻が眠ったあとで、そっと囁いて額に口づけを落とす。

 将斗の願いは、たった一つだけだ。

 
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