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◆ 第3章

13. 偽装甘々婚 前編

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◇ 13話と14話に別作品『御曹司さま、これは溺愛契約ですか?』のヒーロー・天ケ瀬翔が登場します。そちらを読んでいなくてもお話は問題なく通じますが、もし気になる方はぜひ『溺愛契約』も覗いてみてくださいませ。



「大丈夫ですか、柏木さん」

 焦げ茶色の液体で濡れたデスクの下にモップをかけていると、後ろからある男性に声をかけられた。他に人がいると思っていなかった七海がバッと振り返ると、少し離れた部屋の入り口にひとりの男性が佇んで、じっとこちらを見つめていた。 

「……潮見しおみ室長」

 標準よりやややせ型でそれほど表情が豊かではない潮見は、秘書室に所属する社員を統括する『秘書室長』だ。

 支倉建設秘書室に在籍する十五人の秘書は、九割が女性である。どちらかというと我が強い女性たちを上手く取りまとめてコントロールしている上司から憐憫の視線を向けられ、七海はモップの柄を握ったままそっと俯いた。

「ある程度は、予想も覚悟もしていたのですが……」

 予想はしていた。

 辞令を受けて社長秘書に配属されただけの七海には、本来なら社長である将斗とプライベートで親密になる理由はない。

 しかし慎介が挙式の場から逃亡したことで――その場にたまたま居合わせたというだけで、将斗が花婿の代わりを務めることになった。

 だから覚悟もしていた。

 社内でもそれほど目立たない慎介とは異なり、女性社員から絶大な人気を誇るらしい将斗の伴侶となれば、嫉妬と羨望の目を向けられることも。陰でありもしない悪口を言われることも。なんらかの嫌がらせを受けることも。

 とはいえ、出勤してタイムカードを切って以降秘書室に戻っていなかった七海の席の下に、コーヒーをぶちまけられるとは思わなかった。

 秘書室には秘書課に在籍する者しか入室できないセキュリティシステムが導入されている。もちろんそのことは、秘書たち全員が知っている。なのにこんなにもあからさまで単純な、犯人があっさり特定されてもおかしくない嫌がらせを受けるとは、想像していなかった。

(社長の想いを無下にする高飛車……調子に乗ってる勘違い女、か)

 七海がみじめな思いをしないように、稔郎の立場と会社のイメージを守るように。そして不幸な結婚という最悪の印象を払拭するように、将斗は年が明けてからも変わらず『以前から想っていた七海との結婚に恵まれた』と主張し続けている。

 偶然の幸運から七海を得られたことに感謝している今、七海を愛する気持ちをもう自重しない、と演技をすることで、偽装溺愛婚を成立させているのだ。

 しかし七海からは『将斗に愛されて嬉しい』という演技はしない。なぜなら完全な両想い夫婦を演じてしまうと、一年後、契約結婚の終了時期がきたときに『離婚する理由』がなくなってしまうからだ。

 だから七海は『上司の誘いを断り切れなかった秘書』を演じ続けているのだが、そのせいで『調子に乗っている』『お高く止まっている』『社長に寵愛されていると勘違いしている』などと陰口を叩かれている。

 もちろん事実ではないが、下手に否定すればエスカレートするのは目に見えているし、否定の仕方を間違えるとこれまでのすべてが水の泡になる。

 結果口を噤んでぶちまけられたコーヒーを黙々と片付けるしかない七海なのだが、潮見は己の部下の動向をよく観察していた。彼は自分の管理する部署内の異変を、ちゃんと把握していたのだ。

「柏木さんは仕事とプライベートを徹底的に分けて、業務時間中は一切の私情を挟まない。己の職務をまっとうする姿は、重役と結婚した女性秘書としては鉄壁すぎるぐらいです」

 ワイシャツの袖を捲りながら近づいてきた潮見が、七海の手からモップの柄を横取りする。実際はそこまで強引な動作ではなかったが、七海のデスク周りの掃除はそのまま潮見に引き渡す空気となった。

「ですが困ったことに……支倉社長が隠せてないんですよね、全然」
「……」

 曲者揃いの女性秘書たちの上に立つ潮見は、観察眼に優れている。将斗に最適だといって七海を社長秘書に宛がったのも彼なので、当然、将斗の性格も把握しているのだろう。そんな潮見の目にも、今の将斗が相当浮かれているように見えるらしい。

(潮見室長まで騙せちゃうって、すごい演技力……)

 人を見抜く能力に長けている者にまで『七海を溺愛している』と認識されているなんて、将斗の演技力に脱帽するばかりだ。

 しかしそれはそうとして、七海にはコーヒーをデスク下にぶちまけられる嫌がらせよりも気にしなければならないことがある。

「あの、室長……このことを支倉社長のお耳に入れないようご配慮いただけませんか。……きっと、心配させてしまうので」

 それは他でもない、七海の身に起きているこの状況を将斗に知られてしまうことだ。もっと言えば父である稔郎の耳にも入れたくないが、身内である父と違って将斗は他人である。

 否、一応今は彼の妻という立場なので完全な他人ではないが、ああ見えて優しい将斗は、この状況を目の当たりにすれば『自分のせいで七海がいじめられている』と捉えるだろう。

 こんなくだらない嫌がらせなんて、七海は一切気にしていない。モップをかける手間こそあるが、感情は無風の湖面のごとく凪いでいる。それよりも将斗や両親、将斗の家族や友人たちに心配をかけてしまうことのほうが嫌だと思う。七海を守ってくれる大切な人たちに、余計な心配はかけたくない。

「フフッ」
「? 潮見室長……?」
「いえ。お似合いだなぁと思いまして」

 しゅんと沈んで俯くと、様子を見ていた潮見が小さな笑みを零した。表情の変化に乏しい上司の珍しい反応に驚く七海だが、心の内ではどうしてそういう結論になるのかと思う。

「両家と柏木さん本人が決めたことに僕が口を出すつもりはありません。ですが柏木さんは、社長の勢いに押し切られて結婚しただけなのかと認識していました。でも意外と……社長のことを大切に思われているのですね」

 珍しくご機嫌な潮見の台詞にピタリと動きが停止する。

 確かに将斗とのふれあいや彼の家族たちとの交流を通して、これまで抱いてきた上司像が少しずつ変わってきたように思う。

 以前から仕事に対する将斗の熱意や手腕は尊敬していたが、やる気スイッチがオフになるスピードが爆速で、サボり癖と逃走癖が激しい。目を離すとすぐにいなくなる。そんな『やる気のない天才』が、七海の中で『やればできる天才』になった。

 あとは少し、男性らしさを感じるようにもなったのも七海の中での変化だろうか。

「まあ確かに、支倉社長は元々人を観察するのが得意な方ですし、目聡い方ですからね。悟られる前にこのくだらない悪戯が治まってくれるといいのですが」
「……」
「私もできるだけ目を配りますし、穏便に済ませるための協力は惜しまないつもりです。ただ現場を押さえないことには、上司としても注意がしにくいんです。変に刺激してエスカレートしては、本末転倒ですからね」
「いえ、ありがとうございます。潮見室長にそうおっしゃって頂けるだけで、十分心強いですよ」

 七海が笑みを浮かべると、潮見が笑顔からいつもの無表情に戻って七海のデスク上に視線を移した。

「資料を取りにきたんですよね。支倉社長が待っているのでしょう?」
「はい」

 潮見の指摘にこくりと顎を引く。

 現在、社長室には将斗を訪ねてきた取引先の重役が滞在している。支倉建設にとってはかなりの大口取引相手で、特別なもてなしをしても良いほどのお得意様である。

 支倉建設が請け負った先方への建設数は、片手の指の本数では足りないほど。現在も施工と建設計画が進行しているため比較的やりとりが密ではあるが、今日はたまたま支倉建設側が提出している資料を忘れてきてしまったので、こちらで控えている原本を持ってきてほしいと言われたのだ。

 各部署に問い合わせて秘書室に揃った資料を取りに来たところ、このコーヒーぶちまけ事件である。

 むろん七海の最優先は資料を届けることだが、実はその取引先相手、将斗の大学時代の後輩なのだ。七海が『資料を取りに行ってきます』と言い残して社長室を出たときもなにやら話に花が咲いていたので、多少なら放置しても構わないと判断した。

 それよりも無関係の誰かが滑って転ぶほうが危険だと思い掃除をしていたが、潮見が交代してくれるというのなら、彼に甘えて社長室に戻ろうと思う。

「申し訳ありません。よろしくお願いします、室長」
「気をつけて」

 上司に掃除をさせる申し訳なさはあったが、優先順位を考えた結果、潮見に感謝して社長室に戻ることを選択した。

 綺麗に磨かれた廊下をまっすぐ進み、エレベーターのボタンを押して箱の到着を待つ。誰もいない夕暮れのエレベーターホールで腕時計の時間を確認しながら、七海はそっと苦笑いを零した。

(そりゃそうだよねー……いくら演技が上手でも、やりすぎると悪目立ちしちゃうもの……)

 将斗の演技力は認める。七海や稔郎のために愛妻家の夫を演じてくれていることも、わかっている。だがやはり、将斗の態度には若干の調整が必要かもしれない。仕事でも、プライベートでも。

 将斗のマンションで過ごすことになった正月休みの一月二日、彼は本当に七海にべったりとくっついたままだった。各々好きなことをしようと決めていたので、七海は漫画や小説、将斗はビジネス書や仕事で使う資料などを見てのんびりと過ごしたが、その間彼はずっと七海の隣にいたのである。

 そしてその夜から『おやすみのキス』をすることが将斗の日課になった。あれから一か月が経過し、暦は二月になったため、七海が将斗のもとで過ごす週末もすでに五回ほど経験した。

 将斗は七海に強引に手を出すようなことはしないが『おやすみのキスだけだ』と七海を見つめる視線はやけに本気で、いつも緊張してしまう。

 それも本来なら必要はないと思うのだが、唇を離した後に優しく微笑んで七海を抱きしめる将斗の表情を見ると、胸の奥がじわりと熱くなって拒否できなくなってしまう。

 本当は拒否したほうがいいのは、わかっているのだけれど。

 週末の将斗の様子を思い出しながら社長室の前に辿り着いた七海は、一度大きく深呼吸して雑念を払うと、意を決してドアをノックした。

「失礼いたします」

 声をかけてすぐに中から許可が出たので、ドアレバーを下げて入室する。そのまま応接室で雑談を交わしていた男性二人に近付くと、七海は相手の男性ではなく将斗へ資料を差し出した。秘書は上司の指示の下で、上司を通してやりとりするのが大前提である。

「社長、こちらでよろしいですか」
「ああ、助かる」

 資料がファイリングされたバインダーを手にすると、背表紙を確認した将斗が数度頷く。ちゃんと合っていたらしい。

 ほっと胸を撫で下ろした七海はそのまま後ろへ下がろうとしたが、ふと将斗に声をかけられ、呼び止められた。

「どうした? 具合悪いのか」
「え……?」
「顔色が良くない。体調が良くないなら、秘書室で休んでていいぞ」
「いえ、大丈夫です。問題ありません」

 将斗の心配そうな表情を見て、要らぬ心配をかけてしまったのだと気づく。

 実際、本当に具合が悪いわけではない。ただ先週末のあれこれをまた思い出して恥ずかしい気持ちになったのを隠そうとするあまり、反動で険しい顔になってしまっただけだ。――なんて恥ずかしくて言えるわけがない。

「愛されていますね、柏木さん」

 そんなやりとりを見ていた取引先の男性が、くすくすと楽しそうに微笑む。声のしたほうへ視線を向けた七海は、相手の眩しい笑顔に一瞬瞳を奪われた。

(相変わらず、キラキラ王子様……)

 にこりと笑顔を浮かべたその人は、将斗とは明らかにタイプが違うので親交のある後輩だと言われてもあまりピンとこない。

 相手は支倉建設が建設工事のすべてを手掛けてきた国内有数の大型百貨店『天ケ瀬あまがせ百貨店』グループの御曹司――天ケ瀬百貨店本社の営業本部長、天ケ瀬しょうだった。

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