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◆ 第6章

35. 伝え合う、絡み合う

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「まさか七海の手作りケーキを食える日が来るとは」

 ソファの隣に座った将斗が嬉しそうな表情をするので、七海もそっと笑顔を返す。

 今日は絶対に残業をしないよう怒涛の勢いで仕事を終わらせ、定時になると将斗よりも先に帰宅した。そこからいつもより豪華な夕食を作りつつ、昨日のうちに生地を焼いておいたスポンジケーキにデコレーションを施した。

 将斗は七海が作った夕食を「美味しい」と言ってくれたが、甘めの生クリームと甘酸っぱいいちごをたっぷりのせた定番のバースデーケーキも喜んでくれる。

「お誕生日おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」

 目の前のテーブルでケーキを切り分けて将斗に手渡すと、すぐにフォークで一口分だけ掬って口に運ぶ。もぐもぐと口を動かす将斗の顔をじっと見上げながら、

「どうですか? レシピ通りに作ったので、味は問題ないと思うのですが」

 と尋ねると、ごくんと飲み込んだ将斗がまたすぐに笑顔を見せてくれた。

「美味い。売ってるやつより俺好みだ」
「本当ですか? 良かった」

 将斗が手作りケーキを絶賛してくれるので、ホッと胸を撫で下ろす。正直スイーツを作った経験はそこまで多くないので成功するか心配だったが、将斗がちゃんと喜んでくれてよかった。誕生日プレゼントは何でもいい、と言ってくれていたとはいえ、作ったケーキがまったく美味しくなかったらさすがに申し訳ない。

 エスプレッソマシンで淹れた濃いめのアメリカーノと一緒にケーキを楽しむ将斗の隣で、七海も自分の分を皿に盛る。彼と同じようにケーキを味わった七海は、ふむふむ、と小さく鼻を鳴らした。

「食感はもうちょっとフワフワしてる方が良かったですね」
「いや? 俺はこっちの方が好きだぞ?」

 本当は百点満点のケーキを用意したかったが、これなら八十点ぐらいだろうか。まあ味は悪くないかも? と評価する七海に、将斗が食べ終わった皿を差し出してきた。

「もう一切れくれ」
「えっ? ご飯もいっぱい食べたじゃないですか。食べすぎると太りますよ……?」
「大丈夫だ。そのぶん週末ジムに行ったときに、筋トレとランニングの量増やすから」

 七海の手作りケーキをよほど気に入ってくれたらしい。いちごと生クリームを挟んだスポンジケーキの周囲に、さらにクリームを塗っていちごを並べただけの
ありきたりなホールケーキだが、将斗がここまで喜んでくれるとは思わなかった。

 手渡した二切れ目のケーキを嬉しそうに食べる将斗の笑顔と豪快な食べっぷりに、また密かにきゅんとする。

「七海が俺のためにケーキを作ってくれて、一緒に食えるなんて。一年前は想像もしてなかったなぁ」

 しみじみと呟く言葉にマグカップに伸ばしかけた手が止まる。将斗の切ない心情の吐露は、七海の胸を静かに締め付けた。

「去年のこの時期だと、七海を帰したくなくて残業させまくってた頃か」
「え……職権乱用じゃないですか」
「もう時効だろ」

 七海の指摘に将斗がニヤリと笑みを零す。

 ちなみに全然時効ではない。現在の法律では、時間外労働に対する残業代請求の期限は三年となっている。もちろん正規の残業代を支給されているので法律上は問題はないが、将斗の行為は部下に不要な労働をさせるという紛れもない悪行だ。

 だが悪行云々を言い出せばきりがない。将斗はすぐに仕事をサボるし、だらけるし、社長室から姿を消してしまう人だ。だからその皺寄せで七海が残業をするのも、仕方がないことだと思っていたのだが。

 そこまで考えて、ふと気づく。一年前と打って変わって、今の将斗はいつも真面目に仕事をこなしている。最近はサボっている姿もほとんど見ていない。

「そういえば、結婚してからは本当に真面目になりましたよね」
「当然だろ。残業したら七海と過ごす時間がなくなる」

 七海が何気なく問いかけた言葉に、将斗が長めの吐息を零す。

「言っただろ? 七海は俺のいじらしい努力に気づいてない、って」
「……冗談だと思ってました」
「だろうな」

 以前も聞いた主張に七海がぽつりと返答すると、苦笑いを浮かべた将斗がフォークと皿をテーブルに戻す。気がつけば二切れ目のケーキも皿から綺麗になくなっていた。

「でも俺は、七海以外に迷惑をかけたことは一度もないぞ。七海に探されたくてどこかに行くのも、会議や来客の予定があるときは絶対やらなかった。やったとしても見つかりやすいところにしか行かない。ソファでだらけるのだって、七海に触れる機会が欲しいからだった。残業も『遅くなったから一緒に飯に行こう』と誘うためだった。まあ、結局一回もいい返事をもらったことはなかったけどな」

 将斗が連ねる計算し尽くされたサボりの真実に、思わず言葉を失う。

 だがすぐサボるし、だらけるし、姿も消すが、確かにそれで七海以外の周囲に迷惑をかけたことはない。それどころか将斗に怠惰な一面があることすら、七海以外誰も気づいていないかもしれない。

「そんなことでしか気を引けないなんて、ガキの初恋と一緒だよな。けど恋人がいた七海には、それが精一杯の主張だった」

 将斗の切ない告白にどう返答すればいいのかと狼狽する。だが彼は七海に答えを求めているわけではないらしく、マグカップの中身を一口飲むと「あ」と短い声をあげた。

「今は違うからな? 七海に呆れられたくないし、帰ったらいくらでも触れるから、最近はちゃんとしてるぞ?」
「仕事はいつでもちゃんとしてください」

 慌てて言い訳をする将斗に、そういうことではない、と頬を膨らませる。そんな七海の姿を見て満足したのか、将斗がふっと表情を綻ばせた。

 将斗の屈託のない笑顔を見つけて、また胸が高鳴る。

 将斗は自分の恋心を決して言葉には出さなかった。本心では気づかれたいと思っていても、七海に気を遣わせて気まずい関係にならないよう、ひっそりと七海を想ってくれていた。報われないと知りつつも、諦められずずっと気持ちを募らせていたという。

 鳴かぬ蛍が身を焦がす、という表現がぴったりかもしれない。声にも言葉にも出さない代わりに、秘めた想いを行動で示す将斗の恋は、宵闇に淡く揺蕩う光のように美しい。

 七海はずっと、その儚く美しい将斗の想いを見逃していた。大切にされていたことに気付けなかった。

 だが今は違う。将斗の想いを知った今――彼の気持ちと自分の気持ちが少しずつ近付いて重なっていると自覚した今はもう、将斗の感情を見落とさない。

 今ならこの気持ちを伝えられる。
 将斗の想いに、応えられる。

「実はもう一つ、お渡ししたいものがあるんです」
「ん?」

 顔をあげた七海がそう告げると、将斗が一瞬目を丸くした。彼は七海が用意した誕生日プレゼントは豪華な夕食とケーキだけだと思っていたようで、他にもプレゼントがあることを想定していなかったらしい。

 少し驚いた顔をされたが、すぐに優しく微笑んでくれる。だから七海も将斗からは見えない場所――ソファの後ろに隠しておいた紙袋を手にすると、それを将斗へ差し出した。

「プレゼントもあるのか。嬉しいな」

 小さな箱が入った紙袋を受け取った将斗は、きっと時計やネクタイピンといった、普段使いできる装飾品の類だと思ったことだろう。

 紙袋から出てきた長方形の小箱の蓋をゆっくりと開けた将斗の動きが、ピタリと停止する。ちらりと顔を覗き見ると、表情も固まっていた。

「七海……? これ……まさか、結婚指輪か……!?」
「……はい」

 七海が用意した小箱の中身を見た将斗は、すぐに正解に辿り着いたようだ。

 それはそうだろう。台座にはめ込まれた大きめのものと小さめのものが一対に並んだプラチナのリングは、よく見るとデザインがまったく同じ。

 ストレートラインの指輪には工芸品のように細やかな模様が刻まれ、大きな方にはブラックダイヤモンド、小さな方にはホワイトダイヤモンドが埋め込まれている。

 よほど勘が悪い人じゃなければ気がつくだろう。これが二つで一つの意味を成す〝結婚指輪〟であることを。

「ちょ、待て待て! なんで七海が結婚指輪を用意してるんだ!?」

 プレゼントの正体には気がついたが、どうしてその結婚指輪を七海が用意するのかまではわからなかったらしい。

 焦りと困惑のまま勢いよく尋ねられた七海は一瞬怯みそうになったが、将斗の表情から彼が『嫌だ』と感じているわけではないと察する。

 むしろ彼の顔には『嬉しさのあまりどんな表情をしていいのかわからない』との感情がにじみ出ている。年上の男性相手に失礼かもしれないが、慌てる姿がちょっと可愛いと思ってしまう七海だ。

「将斗さん、プレゼントは何でもいいとおっしゃったので」
「いや、確かに言ったが……予想外すぎるだろ!」

 将斗の困惑の声を聞いた七海は、つい「ふふふ」と笑ってしまう。いつも七海にちょっかいをかけたりからかったり悪戯をしてくる将斗に、最高のタイミングでやり返した気分だ。

 だが将斗をからかってばかりもいられない。七海も、素直な気持ちを将斗に伝えたい――伝えなければいけなかった。

「ずっと〝偽装溺愛婚〟なのに指輪がないことを不自然に思ってたんです。お互い金属アレルギーではないのに指輪がないってことは、もしかして将斗さん、指輪は要らないって考えなのかな、って」
「そんなわけないだろ」

 七海の予想に、将斗が焦ったように首を振る。

 単純に『結婚指輪というものの存在を忘れている』という可能性もあったが、どうやらそれも違うらしい。

 二つの指輪が並んだ小箱を左手でしっかり掴まえた将斗が、右手で七海の頬に触れる。そのまま七海の顔を包み込んで、少し後悔したように眉根を寄せる。

「七海が俺の全部を受け入れてくれたときに渡すつもりだった。七海から好きだと言ってもらえたら、その証明にしたいって、ずっと……」
「じゃあちょうど良いですね」

 将斗の表情から『確信』を得た七海は、将斗の右手に自分の左手を重ねてそっと微笑んだ。

「貴方が好きです、将斗さん」
「! 七海……」
「私に手を差し伸べてくれたこと、両親にも真剣に向き合ってくれること、慎介さんから守ってくれたこと、秘書室の問題を穏便に解決することで私を助けてくれたこと――私を愛してくれること」

 将斗が七海に向けてくれる愛情をひとつひとつ思い出しながら、ゆっくりと想いを重ねていく。黙っていては伝わらないと、丁寧に言葉として紡いでいく。

「すごく大切にされていたのに、私、ずっと気付けていませんでした。でも将斗さんに助けられて、守られて、優しさに触れて、たくさん愛されて……将斗さんの気持ちを嬉しいと思うようになりました。私も、将斗さんを好きになっていたんです」

 知らないうちに芽吹いた恋は、いつの間にか成長して、あっという間に大きくなった。

 七海にぬくもりと彩りをくれたのは――あの日厳かなチャペルの中で捨てられた七海を拾って、恋の種を握らせ、光と水を与えて大事に育ててくれた将斗が咲かせたのは――甘い蜜と優しい香りが綻ぶ、恋の花だった。

 重ねた手に力を込めて、自らの想いを丁寧に伝える。

 たくさん待たせてごめんなさい、と謝罪の気持ちも乗せて、そっと微笑む。

「遅くなって、申し訳ありません」
「七海……」
「将斗さん。私と、結婚してくださいませんか」

 もしかしたら緊張してしまうかもしれない、大事な場面で噛んでしまうかもしれない、と不安だった。だが口にしてみれば案外するりと言葉になる。それが自分でも意外だったが、すぐに友人たちの言葉を思い出す。

 仮に緊張しても、噛んで言い間違えても、将斗には伝わるはずだ。なぜならこれが、七海にとって〝自然〟なのだから。

「将斗さんと、ずっと一緒にいたい。本物の夫婦になりたいです」
「七海……っ」

 頬から離れた将斗の手が背中に回る。指輪の箱を握ったまま、思いきり抱きしめられる。胸いっぱいに広がっていく将斗の匂いを感じながら七海も彼の背中にそっと手を回してみる。

 だが将斗の力は、七海が腕に込める力よりもずっと強い。ぎゅう、と抱きしめてくる逞しさが将斗の想いと比例しているように感じられて、その温度にまた安心する。

 七海の身体抱きしめたまま、将斗が少し掠れた声を零した。

「嬉しい、七海。嬉しくて……泣きそうだ」
「将斗さん……」
「誕生日に、世界で一番愛しい妻から逆プロポーズを受けるとは、思ってなかった」

 そんな大げさな、と気恥ずかしさを感じつつ、七海も嬉しい気持ちで満たされる。

 気持ちを伝え合って、心を通わせて、想いが重なり合うと、心も身体も自然とあたたかくなるみたいだ。息苦しいほどの圧力を感じているはずなのに、将斗の温度がひたすらに心地よい。

「私たちは始まりから普通とは違ったので……それならこういう形でもいいのかな、って」

 将斗の存在を全身で感じながら、自分の胸の内にある気持ちを少しずつ言葉として紡いでいく。好きという気持ちと同じぐらい、今の七海が感じている不安や心配も伝えるように。

「女性としても、秘書としても、将斗さんの妻としても、私は未熟で半人前です。支倉建設社長である将斗さんを生涯支え続けていくにはまだまだ力不足で、きっとご迷惑をおかけしてしまうこともいっぱいあると思います」
「そんなわけないだろ。俺の妻は七海じゃなきゃ務まらない。……俺が、七海以外を愛せない」

 けれどその感情を否定するように――否、七海の心配や不安をしっかり受け入れた上で、七海だけを欲していると伝えてくれる。

 他は要らない。七海だけがいい。病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、七海を愛し敬い慈しむと誓いを立てられる。

 先のことはわからない。
 でも将斗のことは信じられる

 だから七海はその誓いを受け入れ、返答の代わりに背中に回した手にもう一度ぎゅっと力を込めた。

「ありがとうございます。私、少しでも将斗さんに相応しい人になれるように、頑張りますね」
「七海」
「ふつつかな妻ですが、この先もよろし……わっ……!?」

 将斗の想いに応えるように精一杯の気持ちを伝えていたのに。妻としてこの先の人生を共に歩む決意を、夫である将斗にちゃんと示していたのに。

「七海の恋が始まったばかりでも、俺は止まらないからな。七海が『その気』になってくれたなら、もう遠慮しない」
「いえ、あの……。……。……お手柔らかにお願いします」

 熱く獰猛な視線と真剣すぎる宣言に文句を言うのは、もう諦める。気持ちを伝えて想いを重ね合った今、きっと何を言っても変わらない。

 二人の間にはもうどんな言葉も必要ないぐらいに、甘すぎる香りと高すぎる熱が迸っているのだから。

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