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◆ 第6章

エピローグ 今さらですが、本物の夫婦はじめました

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 ステンドグラスから降り注ぐ爽やかな陽光が、空色に揺れて煌めている。チャペルの中央に伸びるバージンロードの両サイドには白薔薇が添えられ、間を繋ぐシルクのドレープが美しい流線を描いている。

 視線の先には初夏の波光が美しい東京湾。ロイヤル・マリン・ヴェールホテル東京のチャペルは奥の壁が一面ガラス張りになっていて、美しい海を背景に結婚式を挙げられるのだ。

 よく晴れた空と青い海に少しずつ近付くよう、支倉七海は父・柏木稔郎の腕に掴まり一歩ずつバージンロードを進んでいく。

 青い絨毯の最終地点に辿り着くと、そこにはいつもの黒やグレーのスーツとは異なる、真っ白いタキシードに身を包んだ夫の支倉将斗が待っていた。彼が差し出した手に、白いグローブを嵌めた指先をそっと乗せる。

 稔郎の手から七海の手を引き受けた将斗が、決して離すまいと指先を強く握って柔らかく微笑む。

 誰もが羨む美貌と体躯を兼ね備えた将斗は、幸福に満ちたこの笑顔を七海だけに向けてくれる。だから七海も、安心してその手をぎゅっと握り返せる。

 顔を上げて将斗と見つめ合う。

 あの日と同じシチュエーションのはずなのに、あのときとは何もかもが異なる。今の七海はあの時の何倍も強く結婚を実感し、何倍も強く夫に惹かれていた。

 二人の元を離れた稔郎が親族席の一番手前に移動すると、チャペルの中に祝福の鐘の音が響き渡る。その音が胸の中に落ちてくると、七海の目にじんわりと涙がにじんだ。

「泣くの早いだろ」
「……だって」
「夜まで待ってくれ。いま七海の泣き顔を見たら、このあとの披露宴全部中止にすることになる」

 聖書の一部を読み上げる神父の邪魔にならないほどの小さな声で叱られたので、え、そっち? と将斗の顔を凝視してしまう。

 だが目だけを動かして七海の表情を確認した将斗からそれ以上の言葉はなく、ただくすっと微笑むだけ。すぐに視線を前方に移すので、七海も将斗から視線を外して前を見るしかなかった。

 もちろん七海もわかっている。将斗が挙式や披露宴を途中で止めることは絶対にない。七海を世界で一番幸せな愛され花嫁にすると宣言した将斗は、愛を誓うと同時にすべての招待客に愛する妻を自慢したいらしい。

 何も自慢するところなんてないのに、と呆れた気持ちになる七海だが、将斗はいたって本気だった。

 七海の逆プロポーズから約二か月後、約束の期限よりも少し早い十二月の初頭、七海と将斗は二人揃って柏木夫妻に『お願い』をした。

 一年の猶予期間で、将斗が七海の夫に相応しいか判断してほしい――その答えがどうあっても、七海と将斗は今後も一緒にいたいし、本当の夫婦になりたいと思っている。

 そう伝えるべく七海の実家を訪ねた二人だったが、逆に両親から『お願い』されてしまった。『七海を幸せにしてやってほしい』そして『七海に絶対に幸せになってほしい』……と。

 晴れて本物の夫婦として両親に認められた七海と将斗だったが、そこからは怒涛の結婚準備の日々が始まった。

 何せ将斗は支倉建設グループの御曹司であり、ゆくゆくは一大企業を背負っていく後継者なのだ。一言で結婚と言っても最初のときとは比べ物ならないほど準備することが多い。

 しかも将斗に美味しいものばかり食べさせられるせいで確実にふくよかになっていた七海は、最初の結婚式よりも過酷な肉体改造に取り組んだ。

 だが七海が真剣にダイエットをしていても将斗は『全然太ってねぇだろ』『むしろもっとちゃんと食え』と言って七海を甘やかそうとするし、挙句『運動ならベッドの上ですればいい』と七海の邪魔ばかりする。

 そんなじゃれあいを繰り返しているうちにあっという間に季節は巡り、どうせならジューンブライドを選ぼうと相談して決めた、六月吉日の結婚式を迎えてしまった。

 ちなみに午後一番の時間帯でごく親しい人たちのみを集った結婚式を挙げ、その後は互いの親戚や友人をメインゲストとしたオープンガーデンでの立食式ウェディングパーティーを行い、夕方以降の時間で仕事関係者をメインゲストとした披露宴を催す予定となっている。

 仕事関係の招待客があまりにも多いので披露宴を二回行うという状況になったが、この辺りも最初のときは経験しなかった大変な部分だ。

「それではご新郎様とご新婦様は、向かい合ってください」

 準備のあれこれを思い出しているうちにプログラムが進み、あっという間に誓いのキスのタイミングが訪れる。

 神父の指示に従って将斗の方へ振り向き、彼に身体の正面を向ける。そのまま少し膝を曲げて将斗にベールアップしてもらえば、あと誓いのキスをするだけ。

 ――そのはずなのに、ふと嫌な記憶が脳裏を過り、その場で硬直して動けなくなる。中腰の状態から、顔を上げられなくなる。

 嫌な記憶といっても、慎介や愛華の顔がちらつくわけではない。今日までの間に将斗から数え切れないほどの愛を与えられ、大切に丁寧に慈しまれてきた七海は、もう過去となった人物の顔など思い出さない。

 だが手ひどい仕打ちを受けた記憶だけが、頭の片隅にぽつんと取り残されている。顔を上げた瞬間、将斗と見つめ合う直前に、誰かがチャペルの後方から声をかけてくるかもしれない。式を中断しようとするかもしれない。

 そんなありもしない展開や米の粒ほどの不安が、七海の気持ちをわずかに揺さぶる。顔を上げることを躊躇わせる。

「……七海」

 七海がぴたりと停止したことに気づいたのだろう。将斗に小さな声で名前を呼ばれると、ドレスの中で身体が震えて本格的に顔を上げられなくなる。

 もちろん将斗が与えてくれる愛情を疑っているわけではない。仮にそんな相手が表れたとしても、将斗は絶対に七海の手を取ってくれると信じている。

 将斗を疑っているわけではない。なのに――

「七海」

 硬直したまま固まっていると、目の前にいた将斗の足が一歩前へ進み出た。視界の中に将斗の靴の先が見えたので慌てて顔を上げようとしたが、七海が顔を上げる必要はなかった。

 気がつけば動けなくなった七海の前に、将斗が片膝を立てて跪いていた。そして誓いを立てる騎士のように七海の震える手を取り、優しい声で語りかけてくる。

「可愛い七海。俺の七海。君だけを愛しているんだ。俺が必ず幸せにするから、どうか永遠に傍にいることを誓わせてほしい」
「!」

 リハーサルにはなかった将斗の口上に「え」と小さな声が出る――そのほんの少し前に、掴んだ指先を軽く引っ張られる。

 元々中腰で前屈みになっていた七海は、手を引っ張られるとそのまま前につんのめるのではないかと大いに焦った。

 だが七海の腕を軽く引いた将斗に跪いた状態で下から唇を奪われたせいで、実際は無様に転ぶことはなかった。

 転ぶことはなかったが、予定にない流れで将斗と誓いのキスをすることになってしまい、別の意味で焦る。

 騎士のようだと思ったのは七海の圧倒的な勘違いだ。規律と正義を貴ぶ騎士には絶対にありえない――勝手に誓いを立てて、勝手にキスするなんて。

 七海のせいとはいえ、そして七海を安心させるためとはいえ、止まりかけた挙式の進行をこんな形で元の流れに戻すなんて。

(は、恥ずかしい……)

 ふ、と離れた唇の隙間で、思わず声をあげそうになった。だが見つめ合った将斗はにこりと笑みを浮かべると、そのまま何事もなかったかのように立ち上がって何事もなかったかのように式を先へ進めていく。

 対する七海はずっと心臓がばくばく鳴り続けている。もはや苦い記憶を思い出している余裕すらない。しかも羞恥心で顔から湯気が出そうになっているうちに残りの予定を終えてしまったせいで、誓いの言葉にもちゃんと頷いたのかどうかすら曖昧だ。

 しかし将斗は照れる七海の姿に大層ご満悦なようで、神父に退場を促されても、七海が将斗の腕に掴まって懸命に歩く様子を見ても、楽しそうな笑みを一切崩さない。七海はずっと顔から火が出そうなほど恥ずかしい気持ちで、ただ将斗についていくことしかできないというのに。

「くくくっ、ふ、あはは……!」
「笑わないで下さいません……!?」

 バージンロードを歩き切ってチャペルの扉が閉まると、将斗が身体をくの字に曲げて盛大に笑いだした。なんだがものすごく既視感のある姿だったが、将斗はあの日の何倍も楽しそうな笑顔だった。

「顔に出すぎだぞ、七海」
「びっくりするじゃないですか……。いきなり予定にないことしないでください」
「いやー、ほら、七海の緊張を解そうと思って?」
「それは……ありがとうございました。でも余計に変な汗かきましたよ?」

 危うい状況を招きかけたことに申し訳なさを感じて項垂れると、「ごめんごめん」と笑った将斗が頭をぽんぽん撫でてくれる。

 将斗の優しい指遣いに顔を上げてみると、将斗が七海の顔を覗き込んで優しく微笑んでいる。

 まるで七海の反応の一つ一つが愛おしいと言わんばかりに。予想外の状況やそれに驚く七海の表情すら、無条件に可愛がるように。

 将斗の幸せな表情を見つけた七海は、ふと実感する。

 支倉将斗は支倉七海を何よりも大切に慈しんで愛しているし、支倉七海も支倉将斗を誰よりも尊敬して愛している。――きっとこれが、将斗の言う『愛され花嫁』の証なのだ。

 ただ一方的に想うだけではない。愛した人に愛され、愛してくれる分だけ愛情を返せる存在がいることが、幸福の証明なのだろう。

 長い歳月を経てようやく気がついた七海に、将斗がそっと手を差し出す。上司であり愛しい夫でもある彼の手は、七海にとっては何よりも頼りがいのある道しるべだ。 

「行こうか、七海。次はウエディングパーティーと披露宴だ」
「……はい、将斗さん」

 差し出された手に指先を乗せると、ぎゅっと強く握られる。

 もう二度とこの手を離さない。そう教えてくれる将斗の温度に寄り添うと、七海の心の中もまた少しあたたかくなった気がした。


  ――Fin*

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