年下王子と未亡人令嬢

紺乃 藍

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仮面舞踏会の夜 ②

「このあと、俺と〝月を見に行きませんか?〟」
「!」

 そろりと告げられた誘い文句と探るような視線に、ティアナの肩がぴくっと跳ねる。事前に聞き及んでいた文言ではあるが、目の前の男性の唇からその台詞がこぼれ落ちてくることは予想していなかったのだ。

 月の仮面舞踏会には、そうと知らなければ意味がわからず見過ごしてしまいそうな『秘密の隠語』や『内緒の誘い文句』が数多く存在するという。この『月を見に行こう』との言い回しもそのうちの一つで、広く明るいこのダンスホールではなく、月がよく見える暗い場所へ移動しましょう――すなわち『個室で二人きりになりましょう』という意味を持つらしい。

 たしかに、もう一度踊りたい、もっと話してみたい、と思っていた。否、一夜の相手になってもらうのならば彼のような人がいい、と心のどこかで感じていた。

 だが本当に『誘われた』のだと理解すると、背中にじわりと汗が浮かぶ。男性の方から声をかけるのがスマートではあるが、実際に誘われる状況をイメージできていなかったせいか、反応が遅れてしまう。

 しかしいつまでも固まっているわけにはいかない。ティアナは、この千載一遇の機会を逃すわけにはいかないのだから。

「わ、私で……よければ……!」

 照れを誤魔化すようにこくこくと頷くと、青年が優しい声音で「ありがとうございます」と微笑んでくれる。礼を言いたいのはこちらの方だが、ティアナが謝意を口にする前に、掴んだままになっていた指先をさらに強く握りしめられる。その力の強さに思わずどきりと緊張するが、目の前の男性はティアナの挙動に気づかないまま、ダンスホールの出口に向かって歩き出していた。

 ホールを出て真っ直ぐに進んでいくと、来たときと同じこの屋敷のエントランスへ辿り着く。しかしこれから向かうのは屋敷のエントランスではなく、左にのびた廊下を進んで階段を上がった先にあるという〝ゲストルーム〟だ。月に一度、満月の夜だけ、舞踏会の参加者たちが自由に利用していいことになっている、大きなベッド付きの個室である。

(私、今からこの人と……)

 ワルツのときと同じように、男性が丁寧なリードでティアナを導いてくれる。歩くスピードはティアナに合わせ、階段を上がるときはドレスの裾を踏まないよう一歩ずつ、角を曲がるときは必ず先に場所と方向を教えてくれる。

 一つひとつはほんの些細な気遣いである。だがこの『女性として扱われる』感覚が、今のティアナにはやけに生々しく感じられる。これまでの人生で異性から丁寧に扱われた経験がほとんどないせいか、女性扱いされることで無意識に緊張感が増してしまうのだ。

 ティアナがカチコチに身を強張らせていると、男性がふと足を止めてティアナの顔を覗き込んできた。

「……やはり、嫌ですか?」
「!」

 大きな窓から月光が降り注ぐ屋敷の廊下は、ライトが灯されていなくても十分に明るい。青白い光の中で見つけた男性の表情には、仮面越しでもわかるほどの不安と心配の感情が宿っていた。

 ここで怖気づいている、と感じさせてはいけない。そう考えたティアナが

「い、いえ……! そのようなことは……!」

 と否定すると、男性はすぐに、

「そうですか、よかった」

 と微笑んで、再び廊下の先へと歩み始めた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」

 男性に誘われて辿り着いた場所は、長い廊下の一番奥にある部屋だった。

 ここに至るまでの間に気づいたことだが、他の部屋の扉は一定の距離をあけながら等間隔に並んでいたのに対し、ティアナが招かれた奥の部屋は、他とはかなり離れた場所に位置していた。

 しかも足を踏み入れた空間はやけに広く、中央に配置された天蓋付きベッドからは金と銀の刺繍が施された白いカーテンが垂れ下がり、その隣に置かれた猫足の応接ソファやテーブルはひと目で高級だとわかるほどの立派な調度品。こげ茶色のレンガを積んで作られた大きな暖炉も見事なものである。テーブルの上にはワインや果物が用意され、部屋の中は美しい彫刻の燭台で煌々と照らされている。舞踏会の参加者に使用が許された部屋にしては、やけに立派な印象だ。

 男性がふと、部屋の前に置かれた小さなテーブルの上へ手を差し伸べた。その些細な仕草に、ティアナの肩がまたもぴくりと反応する。

 先ほど前を通った部屋の入口にも設置されていたが、『月の見える部屋』の前には必ず小さなテーブルが置かれ、その上にはガラス製の透明な器が用意されている。

 舞踏会の参加者が『月の見える部屋』を使用する際は、この器の中に一輪の花を入れておくことが暗黙の了解となっているらしい。するとその部屋が使用中であること――すなわち『今、この部屋では愛の営みが交わされている』ことが一目でわかるのだ。こうしておけば交わり合う最中に後からやってきた人たちに扉を開けられたり、どんどんとノックされたり、ドアノブをがちゃがちゃと鳴らされたりすることなく、部屋が使用中だと示すことができるという。

 そして器の中に落としておく花は、種類こそなんでも構わないが、色は『月の仮面舞踏会』にふさわしい白や黄が望ましいとされる。

(赤い花……?)

 しかし男性が胸ポケットから取り出したのは、赤い薔薇の花であった。茎や葉はあらかじめ落とされ花だけになっているが、月光の色とは言い難いその花が白い手袋の上から器に張られた水の上に落とされる様子を、じっと見つめてしまう。

 ティアナの視線に気づいたのだろう。薔薇の花を器の水に放った男性がティアナに一歩近づき、耳元にそっと唇を寄せてきた。

「緊張していますか?」

 最初に誘われたときや途中で確認されたと同じ。爽やかで澄んでいるのにどこか甘さを含んだ声が、ティアナにそっと問いかけてくれる。決して無理はさせないように、ティアナに拒否の余地を与えるように、今からでも引き返すことは可能だと教えるように、優しい声音で意思を確認される。

「え、えっと……はい」

 男性の穏やかな声と表情に導かれるよう、こくりと素直に顎を引く。けれどその意思表示は、この先に進むことを拒否するためではない。

「その……初めて、なのです」

 ティアナが正直に申告すると、男性がはたと動きを止めて目を見開いた。

「それは、ここに来るのが初めて、という意味ですか?」
「い、いえ……! あっ、ええと……それもそうなのですが……!」

 彼の質問に、素直に答えるべきかと一瞬だけ迷う。だが女性は乙女を失う際に出血を伴う場合が多いと聞く。ならば今この瞬間を上手にはぐらかせたとしても、後から処女であったと知られる可能性が高い。ならば素直に申告すべきだろうと思い直し、猛烈な羞恥を押し殺して消え入りそうなほどの小声でぽつりと呟く。

「私、その……経験がなくて……」
「そうですか」

 ティアナの告白を聞いた男性の声は至って冷静だった。だから呆れられたのかもしれない、そのような重大な責任は負いたくはない、と嫌な顔をされるかもしれない、と覚悟した。

 しかし男性の唇が静かに紡いだ返答は、ティアナが予想もしていなかった一言だった。

「俺もです」
「……え?」
「お恥ずかしながら、女性と夜を共にしたことがありません」

 淡々と重ねられた説明に、一瞬『え、嘘ですよね?』と失礼なことを聞きそうになった。そんな気配を微塵も感じさせないほど男性の様子は落ち着いていたし、ここまで誘導する流れもとてもスムーズだったからだ。

 疑問は声にこそ出なかったが、顔には出ていたのかもしれない。ティアナの顔の上半分は白色をベースに青色と水色の装飾が施された仮面で覆われているが、ぽかんと開けた口やぱちぱちと繰り返す瞬きから、ティアナの困惑を悟ったのだろう。少し照れくさそうに苦笑いを浮かべた男性が、逞しい腕をティアナの腰にするりと回してくる。

「俺はすごく幸運ですね」
「!」

 男性が笑みを浮かべて呟いた一言と、彼が後ろ手に扉を閉める音がぴたりと重なる。いつの間にか腕に力を込められ、完全に室内に足を踏み入れるよう立ち位置を誘導されていたことに気づく。

「こんなに可愛らしい女性と過ごせるなんて。声をかけてよかった」
「そ、そんな……」

 耳元で囁かれたその台詞がただの美辞麗句であることは、十分すぎるほど理解している。それがティアナを緊張させないため、この先の行為に抵抗感を抱かせないため、少しでも気分よく抱き合うための上手な世辞だと頭ではわかっている。

 けれど嫌悪は感じない。優雅に移動しながら触れ合うダンスのときとは少し違う――もっと明確な意思と意味をもった指先に腰の下あたりをゆっくりと撫でられているというのに、嫌で嫌で仕方がないとも、怖くて泣きたいとも、今すぐここから逃げ出したいとも思わない。

 光源が青白い月明かりのみだった廊下と異なり、暖炉にも燭台にも火が灯ったこの部屋は、明るさだけでなく暖かさも感じられる。それが自分の身体が熱を帯びて火照り始めているからだと思考のどこかで気づきながら、黒い仮面の男性とじっと見つめ合う。

 ふ、と表情を緩めた男性が、腰に回した腕とは逆の左手でティアナの頬を包み込み、親指の先でそっと唇を撫でてくる。仮面越しに青い瞳と視線が絡むと、ティアナの腰に添えられた手のひらから熱の気配がじわりと広がった。

「口づけても?」
「は……はい……」

 男性の問いかけに同意するよう、ぎこちない動きで顎を引く。すると身を屈めて顔を傾けた男性が、ティアナの唇を優しく奪い取ってきた。

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