年下王子と未亡人令嬢

紺乃 藍

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偽りの恋慕を抱いて ①


 シルヴァーノ伯爵家の令嬢ティアナ=シルヴァーノは、今から一年ほど前まで、イクシア侯爵家の当主であるジャック=イクシアと婚姻関係にあった。しかしその結婚生活は愛情やぬくもりといった幸福からはほど遠く、ティアナの心と身体は三年の歳月を過ごすうちにぼろぼろに荒んでいった。

 ティアナがイクシア侯爵家に嫁いだのは、十九歳になってすぐの頃。生家であるシルヴァーノ伯爵家は、宝飾品に使われる鉱石類の採掘・産出で巨万の財を成していたが、男爵位から陞爵したばかりの父マクシム=シルヴァーノは強い権力を持たず、政治の舞台や社交の場では歯がゆい思いばかりしてきた。

 一方のジャック=イクシア侯爵は、由緒正しい血筋と歴史を持つ名門貴族家の当主であった。しかしジャック本人は見栄を張るばかりで金遣いが荒く、彼が家督を引き継いで以降のイクシア家は、常にひっ迫した経済状況にあった。

 財力はあるが権力のない伯爵家と、権力はあるが財が底を尽きかけている侯爵家。――ティアナの結婚は二人の男の利害が一致した、絵に描いたような『政略結婚』であった。

 結婚して間もないうちに、ジャックには領地を適切に運営して領民を守ろうとする『責任感』や『使命感』が欠如していることに気がついた。このままではいけない、と危機感を覚えたティアナは、早い段階で夫のジャックに『私も精一杯支えますから、侯爵家の立て直しを図りましょう』と提案した。

 だがジャックが帳簿や領民と向き合うことはなく、己の金遣いを改めることもなく、酒癖と女癖の悪さを改善しようとする気配もなく、その後もただ自堕落で退廃的な日々を送り続けた。そのため、本来は侯爵家の当主としてジャックが行うべき仕事をティアナが一人で行う状態になるまで、そう時間はかからなかった。

 由緒正しい侯爵家の当主として不適格としか言いようのないジャックだったが、中でもとりわけひどかったのは女性関係の乱れであった。ティアナに向かって『おまえのような貧相な女相手に勃つはずがない』と下品な暴言を投げつけ、自身は愛人の家に入り浸ったりその愛人をイクシア家へ招いて情事に耽ったりと、およそ妻帯者とは思えない言動ばかり取り続けていた。

 実際、ジャックは一度たりともティアナに触れてこなかった。今となっては彼がティアナに一切の興味を示さなかったことはむしろ幸運だったと思えるが、当時のティアナは夫の言動に深く傷つき、切なさに涙を流し、シルヴァーノ伯爵家に戻りたい、と何度も実家を恋しく思った。

 さらにティアナを苦しめたのが、ジャックの実母でありイクシア侯爵家の『大奥さま』であるリカルダ=イクシア夫人だった。彼女は息子であり当主であるジャックが嫁いできたばかりのティアナに仕事のすべてを押しつけていること、自身は愛人と睦み合うばかりで当主の務めを一切果たしていないことを、明確に把握していた。

 にも関わらずジャックを諫めるようなことはせず、自身も湯水のごとく新しいドレスや宝飾品に金を使い、子どものできないティアナを『役立たず』『できそこないの嫁』と心無い言葉でなじり倒す。ジャックからは暴言のみで暴力を振るわれたことはなかったが、リカルダからは気に入らないことがあると頬を叩かれたり、身体を突き飛ばされたり、真冬に冷水を浴びせられることもしばしばだった。

 むろんティアナは、父であるマクシムに自身やイクシア侯爵家の現状を何度も訴えた。だがマクシムから助言や助力を得られたことはなく、『おまえがしっかり夫を支えないからだろう』と一蹴され、ティアナの寂しさや苦しさは血の繋がった父からも無視され続けた。

 そんな生活が三年続き、ティアナが二十二歳になった頃、とんでもない事件が発生する。――なんと夫であるジャックが深酒した上に愛人と情事に溺れた結果、心臓発作を起こしてベッドの上で突然命を落としてしまったのだ。いわゆる、腹上死である。

 愛する息子を失ったリカルダは、悲しみと苦しみの矛先をティアナへと向けた。ティアナの管理不行き届きのせいでジャックが命を落としたのだと声高に主張し、これまで以上にティアナにきつく当たっては、ままならない感情を無遠慮にティアナへぶつけ続けた。

 それから一年が経過してジャックの喪が明けたまさにその日、ティアナはイクシア侯爵家から離縁を言い渡された。『おまえのような女はもう必要ない』と、リカルダからはっきり突き放されたのである。

 イクシア家の人々とは異なり、メイドや執事や使用人、侯爵領に住まう領民はみな心優しく良識のある人々だったので、後ろ髪を引かれる思いはあった。だがティアナの不遇を知る全員が離縁に賛同し、『今度は幸せになってほしい』と笑顔でティアナの背中を押してくれた。

 そうしてシルヴァーノ伯爵家へ出戻ったティアナだが、心に受けた深い傷が癒えるまでには時間がかかる。

 幸いマクシムも婚家から追い出されるように離縁されたティアナを『人前には出せない恥ずべき娘』だと考えているようで、今すぐ社交の場に立たせよう、次なる政略結婚にティアナを使おう、とは考えていない様子だ。

 だからティアナはシルヴァーノの領地経営や伯爵領から産出される鉱石類の流通・商売を細々と手伝い、六歳年下の妹であるミリアの世話をしながら、このまま残りの人生を静かに過ごしていけたら、と思っていた。もう二度と結婚なんてしない、と固い誓いを胸に刻んでいた。

 刻んで、いたのだが――

「今、なんと……?」

 シルヴァーノ伯爵領。
 伯爵家邸宅一階、応接室。

 目の前のソファに腰かけた男性が、長い脚を悠然と組んでにこりと微笑む。その男性の口から告げられた提案に、ティアナのこめかみがぴくりと引きつる。

 かつて夫であった、ジャック=イクシアとよく似た男性。プラチナブロンドの髪の色も、ダークパープルの瞳の色も同じで、鼻や唇の位置や輪郭の形も似通っている。違うのは酩酊してばかりのジャックには見られなかった穏やかな表情と落ち着いた話し方ぐらいのもの。それ以外の特徴がこんなにも似ている理由は、ひとえに目の前の人物がジャックと血を分けた兄弟であるから。

 ジャックの弟であり、現イクシア家の当主であるラザール=イクシア侯爵が、微笑みを浮かべながら首を横へ傾ける。

「義姉さん――いえ、ティアナ。僕と結婚しましょう」
「!?」

 笑顔のまま告げられた一言が、雷のような衝撃となってティアナの脳天へ直撃する。そこから足の先まで電流が走り抜けたように、全身にびりりと強い痺れを感じる。

(な……に、を……)

 急激に動きが鈍くなったティアナの頭の中に、ラザールの信じられない台詞が響いた。

「兄さんは君に見向きもしなかった。けれど僕は、君を心の底から愛している。僕にはティアナ……君が必要なんだ」

 自信満々にそう言い放つラザールの笑顔が、ティアナの全身にぞわりと鳥肌を生む。ジャックとよく似た顔立ちで、彼とよく似た声質で、あの人は絶対に言わないであろう優しい言葉をかけられることに、どうしようもない嫌悪が湧き起こる。

(愛している……? 必要……?)

 そんなはずがない。絶対にありえない。

 かつてのラザールは、兄や母の激しい感情が自分に向くことを極端に恐れていた。同じ侯爵家の屋敷に住んではいたが、いつも空気のように気配を消して無関心を決め込み、イクシア侯爵家が抱える問題もただ静観するのみだった。

 もちろんティアナがジャックに暴言を吐かれても、リカルダに頬を打たれても、ただの一度だってその手を差し伸べてくれたことはない。突き飛ばされて背中を打っても、冷水を浴びせられて風邪を引いても、見舞いどころかティアナを案じる言葉すらかけられたことがないのだ。

 そのラザールがティアナを愛しているだなんて、嘘か冗談だとしか思えない。ぱっと見は素面のようだが、実はひどく泥酔しているのかもしれない。そう考える方が自然なほど、ラザールの提案はティアナには理解しがたいものだった。

(必要なのは、そうかもしれないわ……)

 リカルダの夫であり、ジャックとラザールの父であるイクシア侯爵家の前々当主は、人望が厚く才覚に溢れる優れた人物であったと聞いている。しかし彼はティアナの嫁入りの二年前に病で亡くなっており、その後継者となったのは、過去に例を見ないほど無能だと囁かれるジャックであった。

 そしてそんなジャックの無能ぶりをどうにか補おうと領主がすべき仕事に懸命に励んでいたのが、他でもないティアナだったのだ。

 ラザールも今になって気づいたのだろう。イクシア侯爵領の運営の要は、ジャックではなくティアナだったということに。ティアナを連れ戻せば、これまでと同じようにイクシア侯爵領を経営していけるだろうことに。けれど――

(絶対に嫌……! 私はもう、あの家には戻らない――!)

 結婚生活の約三年と、喪に服していた期間の約一年。合わせて四年ですっかり恐怖を抱くようになった『イクシア家』の男性から再婚を迫られ、ワンピースの中で足や膝がカタカタと震え出す。

 イクシア家の人々がティアナに戻ってきてほしいと願っても、新領主となったラザールから妻になってほしいと求められても、ティアナの心はそれを受け入れられない。

 あの家に戻ることだけは絶対にない。再びイクシアへ嫁ぐなど、ティアナは絶対にごめんだった。

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