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月の褥に溺れる ① ◆
しおりを挟む黒い仮面の男性に手を引かれ、ベッドの端に静かに腰を下ろす。うるさいぐらいにドキドキと高鳴る自身の心音を聞きながら、ティアナは内心、この後はどうすればいいのだろう……と焦っていた。
四年前にイクシア侯爵家へ嫁ぐ際に学んだ閨の作法は、結局一度も実践することがなかった。己の知識と経験不足に愕然としていると、見かねたフリーデが色々と教えてくれたが、いざとなると親友に教わったあれこれは一ミリも思い出せない。
知識ばかりぱんぱんに詰めすぎたせいかも、とひとり狼狽していると、ベッドのすぐ傍に立った男性がふと、自身のトラウザーズの右ポケットを探り始めた。
「大事なものを忘れていました。――こちらを」
そう言いながら男性が取り出したものは、白く薄い紙を三角形に折りたたんだ、二つの小さな包み紙だった。彼の手袋の色とほとんど同化しているそれは、どうやら薬包らしい。よく見ると包み紙の中には、小麦粉のような白い粉が入れられている。
「これは……?」
「妊娠を防ぐ薬です」
「!?」
さらりと告げられた一言に驚き、ハッと顔を上げる。すると目が合った黒髪の男性が、少し困ったように苦笑いをこぼした。
「先にこれを飲んでおけば、少ない負担で確実に妊娠を回避できます。少量ですが、感染症を防ぐ成分も含まれています」
なるほど、たしかに大事なことだ。
月の仮面舞踏会の参加者は事前に身体検査を受ける義務があるが、それはあくまで危険物を持ち込んでいないか、酩酊するほどの酒を飲んではいないか、大きな病気はしていないかなど、舞踏会の妨げとなる要素を前もって排除するためのものである。
参加者の安全を確保するために最低限のルールの遵守は求められるが、それ以上の強制力はない。それはつまり、深い愛を知りたがった結果として『なにか』が起こっても、すべては自己責任であることを意味する。その範囲にはもちろん、妊娠や感染症の可能性も含まれる。
フリーデから『必ず直前で抜いてもらうのよ』と教わったときは、あまりの恥ずかしさに俯くことしかできなかった。だが目の前の男性は素性を知らぬ相手と肌を重ねるリスクについて熟考し、事前に講じうる対策はしっかり準備してきたという。
爽やかな外見と異なり、案外最初からそのつもりだったのだと気づいてしまう。自分のことは棚に上げて密かに照れるティアナだったが、それはさておき男性の配慮は素直に受け取ることにした。
「二包飲むのですか?」
「いえ、一つは俺が」
妊娠対策と感染対策で、二種の薬があるのかと思った。だが二つの包みは同じ中身で、男性自身と相手の女性の二人分らしい。
「これは本来、女性側が服用する薬で、男性側が口にしても妊娠を防ぐ効果はありません」
「え? ではなぜ……?」
ティアナの質問に男性が微笑む。仮面のせいですべての表情が見えているわけではないが、彼の穏やかな視線からは、ティアナを労わり丁重に扱おうとする温かさが感じられた。
「今夜はじめて会った男に渡された薬を口にするのは、抵抗があるでしょう? だから今ここで俺も同じものを服用して、危険な薬ではないことを証明します」
ティアナの直感を肯定するように、男性が丁寧な口調と声音でそう説明してくれる。
もちろんこれは、相手がティアナではないまったく別の女性だったとしても、同じように向けられる気遣いなのだろう。
しかしそれは裏を返せば、目の前の男性は相手がどんな女性であっても、平等かつ公平に接してくれるということ。今夜共に過ごす相手が誰であろうとも、等しく安全を約束してくれるということだ。
ティアナはその平等さに安堵を覚えた。彼は相手の素性にかかわらず、同じように自らこの薬を服用し、その身をもって安全性を証明してくれる。そうすることで責任を取ろうとする姿が、とても誠実に思えた。
「大丈夫ですよ」
「?」
「あなたが嘘を言っているようには思えません。目を見ればわかります」
彼が嘘をついていない、誠実な人である、と確信する理由はそれだけではない。ダンスのときの丁寧なリードや触れ方、この部屋へ辿り着くまでのエスコートにも、ティアナを気遣う配慮と優しさが感じられた。
そしてティアナが温かな眼差しを感じてふいに視線を上げると、黒い仮面にあけられた目穴からは、いつも美しく落ち着いたロイヤルブルーがこちらを見つめている。煌めく夜空と静かな深海が混ざり合ったような青には、常に相手を労わり慈しむような温度が宿っているのだ。
だからティアナも怖くない。顔も名前も知らなくても、この人のことは信用できる、と思えるのだ。
三角形の薬包を開いて、両手で掬うように薄い紙を持ち上げると、折り目がついて谷になった部分から自身の口内へ粉末を滑らせる。白い粒子が紙の表面からサラサラと流れ落ちてくると、ティアナの口の中には種類の異なるハーブを無理に混ぜたような、独特の甘さと苦さが広がった。
「……美味しくはないですね」
「申し訳ありません。……お水をどうぞ」
「ありがとうございます」
薬は思っていたよりも早く溶けたので、粉を吐き出さずに会話をすることはできた。だが舌の奥に残る後味とざらついた感覚がいただけない。
ティアナの嘆きを聞いた男性がカラフェからグラスへ水を注いでくれたので、苦みと粉っぽさを流し込むようこくこくと喉を鳴らす。受け取った水は少しぬるくなっていたが、粉の薬を飲み込むにはちょうどよい温度であった。
グラスから唇を離し、ふぅ、と短い息をつく。
すると目の前に立った男性が、白い手袋をはめた指先でティアナの顎先をくいっと持ち上げ、そのまま唇を重ねてきた。
「ん……っ」
突然のキスに驚いてしまう。強引、というほどではないが、これまではなにをするにも必ずティアナの同意を得て、ティアナの反応を見ながら触れられてばかりだった。だからだろうか、ここで急に口づけられることを想像できていなかったのだ。
ティアナの驚きはそれだけでは終わらない。顎から首のラインをゆるりと撫でられる感覚に全身がぴくっと反応すると、その隙を狙っていたかのように唇の隙間から舌を差し込まれる。
舌の侵入を予想していなかったティアナは、身を竦めることで突然のキスから逃れようとした。だが男性はティアナの逃亡を許してはくれない。
「んぅ……ん……」
舌同士が絡み合ったことで、いつの間にか彼も薬を口に含んでいたこと、その苦さを払拭するために水分を求めていたことを理解する。言ってくれればグラスを手渡したのに……と頭の中で反論すると、ティアナの思考を読んだのか男性がそっと唇を離してくれた。
至近距離でじっと見つめ合う。
すると男性が表情をゆるめて、ふわりと小さな笑みをこぼした。
「たしかに、薬は美味しくないですね」
「そう、ですね――」
「でもあなたの唇は、とても甘いです」
「……っ」
ティアナの同意が男性の呟きと重なる。艶を含んだ微笑みを向けられると、ティアナの胸がどきりと高鳴る。
「ドレス、脱がせてもいいですか?」
「は、はい……」
甘やかな褒め言葉に驚いているうちに男性の唇が右耳に近づき、鼓膜を直接震わせるほどの至近距離からそう問いかけられる。
息を詰まらせながらもどうにか頷くと、返答を確認した男性がティアナを抱きしめるよう、腰の後ろへそっと手を伸ばしてきた。
男性も異性と夜を過ごすのははじめてだと言っていたが、その割には余裕のある態度と言動ばかりだ。同じ『はじめて』のはずなのに、先ほどから自分ばかりが慌てふためいている気がする。
こっそりと情けなさを覚えるティアナだったが、そこでふと我に返る。ティアナを抱き寄せて身体を密着させるところまでは驚くほどスムーズだったのに、男性の手がそこから先にはまったく進んでいないと気づいたからだ。
「紐が……多い……」
「! も、申し訳ございません……! 自分で脱ぎます……!」
ドレスの上からティアナの腰の周りを撫でいた男性だったが、やがて自分がこの衣服を脱がせるのは不可能だと悟ったらしい。
呆然と呟く男性の声を耳にしたティアナも、今の自分がしっかりとした生地のドレスの下にパニエとペチコートを重ねて紐を固めに結び、さらにコルセットも普段よりきつく締め上げていることを思い出した。
たしかに女性がドレスの下に仕込む秘密の構造を見慣れていなければ、着せるのはもちろん、脱がせるのもさぞ難しいことだろう。一瞬だけ心の余裕の差を感じてしまったティアナだったが、男性のたどたどしい手つきと困惑の言動から、やはり彼も『はじめて』なのだと思い直す。
男性に恥をかかせてはいけない、と慌ててベッドの傍に立ち上がると、首の後ろのホックを外し、背中へ腕を回して身体を締め上げるリボンを少しずつほどいていく。ドレスを身体から滑り落とし、コルセットとビスチェの結び目をゆるめ、三枚重ねのパニエと中のペチコートも外してしまう。
心許なさを覚えながらショーツとストッキングとガーターベルト姿になると、ひやりとした夜の空気がティアナの素肌にまとわりつく。けれどその冷気がむしろ心地よいと思えるほど、ティアナの全身は熱く火照りはじめていた。
背を向けた状態で服を脱いだティアナの腰を、男性の逞しい腕がそっと掴まえる。
ティアナがドレスを脱ぐ間に彼もジュストコールを脱ぎ捨てて薄手のシャツ一枚となっていたらしく、薄い布越しに熱い肌の温度を感じる。その体温がどちらのものかを確認する前に、ティアナの身体は男性の腕に抱き上げられ、そのままベッドへ横たえられていた。
シーツに押し倒された気恥ずかしさから一瞬目を閉じてしまったが、男性もベッドへ上がってくる気配を感じたので、ゆっくりと目を開けてみる。そこからそろりと視線を上げたことで、ティアナの肘の横に手をついた男性がこちらをじっと見下ろしていることに気がついた。
「? あ、あの……?」
「いえ。美しい身体だな……と、思いまして」
下着と仮面だけの姿になったティアナを見つめた男性が、ぽつりと呟く。突然の褒め言葉に照れて固まると、黒い仮面の奥の青い瞳が熱を含んだように揺らめいた。
「俺が月を見に行こうと誘いましたが、これは月を見ている時間も惜しいですね。……とても、綺麗です」
「そ、そんなこと……」
白い手袋をした男性の手がゆっくりと伸びてきて、ティアナの頬をするりと撫でる。しかしその手がティアナの肌に触れたのはほんの一瞬だけで、すぐにさらに上へと移動する。
ギシ、とベッドが軋む音と同時に彼の指先が触れたのは、ティアナの目元を覆う白い仮面だった。
「許されるのならば今すぐこの仮面を外して、あなたのすべてを知りたい、と思うほどに――」
静かな声音で告げられた要求に、心臓がどくん、と音を立てる。この月の仮面舞踏会における唯一にして絶対のルールをいとも簡単に破ろうとする一言に驚き、思わず声が裏返る。
「っ……それは、だめっ……だめです……!」
「わかっています。そんな無粋な真似はしません」
目の前の男性に自身の正体を暴かれるのではないかと慌てたティアナだったが、どうやら彼は本気でティアナの素性を知りたがったわけではないようだ。すぐに態度を翻して半身を起こした男性が、腕を伸ばして天蓋の端のタッセルを解き、室内の明かりを遮断するようカーテンを引く。
天蓋のカーテンは外から見ると繊細な作りのように見えたが、実は内側に黒くて厚い幕が重ねられており、光も影も通しにくい素材らしい。部屋の扉側、頭側と足側のカーテンをしっかりと閉じられると、燭台や暖炉の明かりはほとんど感じないほどの暗さとなった。
ただし窓側のカーテンは引かれていないため、レースの幕が下がった大きなガラス窓からはうっすらとした青白い光が差し込んでくる。この明るさならば相手の姿は認識できるがはっきりとは見えないので、今のティアナにはちょうどいいのかもしれない。
ドキドキと緊張しながらもそんなことを考えていたティアナの顔の隣に、ふと白いなにかがぽとりと落ちる。
それが男性の外した手袋だと認識すると同時に、彼の温かい手のひらがティアナの手の中へするっと入り込んできた。
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