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5章 Side:愛梨
1話
しおりを挟む作業が一区切りしたので顔を上げると、目の前のデスクの前田先輩と目が合った。先輩が何もないはずの空間を視線で示して『後ろ』と呟く。
えっ? と思って振り返ると、そこには雪哉が立っていた。にこやかな笑顔で。
「!?」
「忙しい? 借りてた資料返しに来たんだけど」
驚きの声が出る直前、目の前にクリアファイルが差し出された。視線を下げると、数日前に雪哉に渡した製品仕様書の束が収められている事に気付く。
「あっ、はい、いいですよ。後で戻しておきますから…!」
咄嗟に口から丁寧語が飛び出る。これまでの経験から、雪哉に畏まった態度で接すれば不機嫌になるかもしれない事は容易に想像できた。
だがあっという間に会社中の噂の的になった美男子の通訳が普段関わりがないはずの愛梨を訪ねて来た事で、やけに注目されてしまった。所属する市場調査課のメンバーの視線をまるごと攫ったこの状況では、砕けた態度で接することなど出来る訳がない。
「あとこれ、主成分が一緒で香りが違うタイプのもある?」
「えっ……えっと。あります、けど」
「それも借りていい?」
前回は遅い時間に急ぎの要件だったようなので請け負ったが、今は勤務時間中なんだからプロジェクトメンバーとやり取りして完結して欲しい。
けれど借りたものを借りた人に返すのは当然で、そのついでに別のものを、と言われてしまうと流れが自然すぎて断りにくい。
「少々お待ちいただけますか? 総務に確認いたしますので……」
雪哉の反応を確認する直前に、逃げるように電話機に手を伸ばす。
3人の通訳たちは、この会社の社員ではない。派遣の通訳にどこまでの権限があるのか、平社員で、しかも関わりのない愛梨には判断することが出来ない。前回資料を借りに来た際に『総務に聞いた』と言っていたので、派遣中の雪哉たちの管轄は総務課にあるのだろうと推察して確認の連絡を入れる。
ほどなくして内線に出た担当者は、会社の機密情報に対する認識が甘すぎるのではないかと思うほど簡単にGOサインを出してきた。一応プロジェクトチームの責任者の名前も教えてくれたが、雪哉には今後はそちらと直接やりとりしてもらい、愛梨には関わらないでもらおうと今決めた。だから責任者の名前は、愛梨には必要がない情報だ。
「課長。資料室に行ってきてもいいですか?」
電話を切って上司に状況を報告すると、デスクから顔を上げた美魔女がにこりと微笑む。40代半ばを過ぎてもなお、美しく完璧なプロポーションを保ち続けるマーケティング部市場調査課長、崎本実緒。
彼女が視線の動きだけで、愛梨の意識をワークテーブル上に誘導する。
「それなら、ついでにそれも戻してきてくれるかしら?」
上司にも資料の運搬を追加依頼されてしまい、はぁ、と気が抜けた返事が出た。
数日前からずっと放置され、いつか誰かが戻すだろうとみんなで牽制し合っていた3冊の分厚いリングファイル。馬鹿な探り合いなどしていないで暇な人が行けばいいのに。結局誰も手を付けていなかったミッションは、愛梨が担うことになってしまう。
「持つよ、愛梨」
「えっ、でも……」
「愛梨には愛梨の仕事があるのに、邪魔してるから。このぐらいはさせて」
やっぱり私なのかと思っていると、先に近付いた雪哉がそのリングファイルを持ち上げてしまう。容量いっぱいまで資料が挟み込まれたファイルはそれなりに重たい。手伝ってくれるなら確かに助かるけれど、部署どころか本来会社も違う人にそんな雑用をさせてもいいのだろうか。
「イケメンが愛梨を女の子扱いしてる…!」
そのやり取りを見ていた崎本課長が、口元を押さえて感動したように呟いた。いつも愛梨を可愛がってくれる上司の言い方は、まるで他が愛梨を女の子扱いしないような口振り。
けれど実際にそうだ。このやり取りは課内の全員の耳に届き、全員が気付いている筈なのに、雪哉以外に誰も手を貸そうとする男性社員はいない。
「課長。泉も上田を女子扱いしますよ」
「アイツは彼氏なんだから当然でしょ。そうじゃなきゃ、私が別れさせるわ」
崎本課長の清々しい口調に、前田先輩が噴き出した。
崎本課長は、基本的に男女不平等だ。時代に合っていない事は自覚しているらしいが、シングルマザーの彼女は元夫と離婚する際に一悶着あったらしく、男性に対してやや厳しい節がある。
同じマーケティング部だが課が違う弘翔にも、可愛がっている愛梨の恋人と言うだけで適度に厳しい。愛梨の事を尊重できないなら弘翔とは別れさせる、とあっさり言い放った崎本課長には何も言い返さず、
「行ってきます」
とだけ呟いて、部署を後にする。
これ以上、愛梨の所属課の愉快なやりとりに雪哉を巻き込みたくはない。と思っていたが、資料を持って後をついてきた雪哉はやけに上機嫌だった。
「市場調査課の課長さん、面白い人だな。頷きそうになったよ」
「頷かないでよ」
「家族には言ってないけど、部署では公認の仲なんだ?」
雪哉の問いかけに、愛梨は黙ることしか出来ない。
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